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初めて聞いたぞ、興味深い
司馬師司馬昭パターンかもしれませんね 幼い息子よりも一族繁栄の為に弟に託したみたいな孫策の子孫を冷遇したのは豪族に利用されるのを防ぐためな気がする
孫策は、江東を侵略して平定した為、地元の豪族へ憚りあって、王位しか贈れなかったのかも。呉は、豪族の意見無視出来ない事情あった。
孫静は兄孫堅の子である孫策を忠実に支えたけど、その息子の孫暠は孫策が死んだ時に自立を図っている。又、本人にそのつもりは無くても周囲が「こちら(孫策の血統)の方が嫡流に当たるのだから、後継者に相応しい」と担ぎ出す可能性があった。孫策を王、その息子を公という扱いにしたのは家格にはっきり差をつけることでそれを防ごうとしたからだろう。
こういう事柄からみたら二宮の変も孫呉の中央集権化の試練だったんだろうなってなる孫権自身がしぬまでに江東豪族の力は絶対に削いでおきたいだろうし
孫策の暴政や粗暴さ短気さについて表に出さなくても孫権は軽蔑していたかもしれない英雄 天才 神 預言者 王 君 帝 愛国者 忠臣 どんな風に呼ばれどれほど偉大に語られてもその背後には屍の山が築かれている 後世の人間はどれほど多角的に研究しようとも幾つかの一遍の真理を見る事しかできない
孫権が即位したとき孫策の子供は少なくとも30歳になってるので、「あわよくば」は叩き潰しておかないといけなかったんですよね
二宮事件でグダったのは、孫権が仲が悪い兄弟の対処に慣れていなかった可能性があるのかも?
水戸光圀は兄を差し置いて藩主になったけど、後継者には兄の子を就かせました。歴史好きな人なので、当然故事には通じていたでしょう。藩主や諸侯では皇帝と比べてはいけないんでしょうか?
この話はひょっとして陳寿が三国志を編纂した当時の『晋王朝』の初期の話を念頭につまり司馬懿(※この話で言えば孫堅にあたる)とその子司馬師(※孫策にあたる)と司馬昭(※孫権にあたる)の関係に配慮(忖度笑)した文章の書き方なのかもしれませんね 晋では司馬炎(司馬昭の息子)の建国後、司馬懿は『宣帝』司馬師も『景帝』と共に帝号がさかのぼって与えられており(当然父の司馬昭にも『文帝』の名が追贈)司馬師の息子司馬攸(※この話で言えば孫韶。司馬師の義理の息子で司馬昭の実子でありかつ優秀な上、長子司馬師の家を継いでいたので後継でちょこっとややこしいことになった)にも『斉王』の王位が与えられ陳寿は「それに引き換え孫権は兄の子に王号を与えないとはしみったれれますよね~(;´∀`)」という事が言いたかったのかもしれませんw ただ、晋は一族郎党をやたら王にしたせいで後に・・・・・・まあそれは別の話笑笑
孔明上げなんかも、凡君に対し出師表でめっちゃ厳しい言葉を使ったことが、司馬兄弟による魏皇帝への抑圧を正当化するためという理由もあったのかもしれませんね。あるいは出師表自体がそういう創作かもしれませんね。
帝位については、張昭含めて国内の官僚諸将が反対した話がない帝位王位侯の設定なのだから、むしろ積極的にねじこまれている可能性まで考慮すべきですよね
多分孫策もあの世で孫権と再会したら「さすが権だずぇ!後継者争いにならないような配慮だな。なお」と褒めてくれるだろう兄の司馬師から後を継いでいた司馬昭が自分の後継を長子の司馬炎ではなく弟で司馬師の養子になっていた司馬攸に継がせようとしたってことがあったなあ結局司馬炎が継いで、司馬攸は斉王になったものの後継になるまでの経緯と司馬攸自身が能力と性格共に優れてた故にめちゃくちゃ警戒されてしまい悲惨な末路となってしまった
不仲だなんて考えたこともなかったわ。戦乱の時代に、幼児(孫紹)を君主に立ててやっていけるわけも無いし、自分が皇帝になってしまった以上、動画で言ってる通り、皇位継承の正当性のためにも、兄は王でなければならなかった。孫紹が呉侯なのも動画の通りだな。
孫策の死が想定外に早すぎた故に成人していた孫権が継がざるを得なかったし、孫策の子が成人する頃も北に曹操西に劉備いてまだまだ安定してた訳じゃないし冷遇といえる判断もやむを得なかったのかな
兄の子に権力あたえると後の災いになるって思ったんじゃないかなぁ?二宮の変!?
孫権はここまで後継者に配慮してたのにその後はなあ・・・
孫紹に関しては扱いを間違うと二宮の変に壬申の乱が加わるようなものですし、孫策を王・孫紹を候扱いにしたのは正解だったかもですね
要は孫策の子どもに帝位を与えなかったのは後継者問題で自分の子ども以外から出すことによる国内の混乱を防ぎたかったのではなかったからじゃないのかな?結局二宮の変で十分国内が混乱しましたが。
当時の相続としては、異例中の異例なんですよね。後に孫皓が孫策の孫である孫奉を弑殺したのも、自分の血筋こそ正統な皇統であるとの強烈な思いがあると思われます。
周瑜も孫策と出会って家臣となったし孫策の求心力は凄まじかったんでしょうね。そんなだから早死にするんだよとかどこかの誰か予言したとかしないとか。呉は豪族の力が強い連合国なようなものでなんか拍子にどこかの派閥が孫策の子を後継に担ぎ上げるようなことがないよう後顧の憂いを絶ったということなんでしょうか。(三国志歴浅いので想像です)
兄弟での分裂は凄惨を極めると聞きます。日本での上杉の後継者争い「御館の乱」も平定まで10年くらいかかったと聞きます。もしかしたら「二宮の変」での両成敗も呉の分裂を防ぐため、という非情の決断だったのでしょうか。
孫権も呉の中央集権化を目指していたようなので皇帝即位後に孫策を長沙王、その息子の孫紹を呉候としたのはそういう意味での措置だったんだろうなと思うし孫紹に関しては孫権が魏より呉王に封じられ更に帝位に昇った後も朝政に参画してたようなので父や自身に対する扱いに関して懇々と説かれ納得したんだろうと個人的には考えますただ、その息子(孫策の孫)孫奉が孫呉最後の皇帝である孫晧に粛清されたのは今に伝わる孫晧の人物評からして、やはりそうなるのか…って感じ
そういう見方もありますよね💡孫権は兄弟、家臣同士の信頼、パワーバランスの匙加減がうまかったり人を見る目はあるんじゃないでしょうか。一方、後継者争いが生じたら両方やっつけるみたいな発想は彼ならではだと思いますし何事も前例を対照に決断するタイプだと思います。あと、孫権は皇帝であってもなくても人間的エピソードが多白い方なので取り上げていただいて本当に嬉しいです(^^)
広告がソシャゲの真 三國志で笑いました。
心情的には、孫権は、孫堅・孫策の二人を嫌ってたんじゃないかなぁ。孫堅と孫策は、言わば好き勝手した。知勇兼備だったが気性が荒く、取り敢えず殺すを体現した人生を送り、盛大に他者の恨みを買いどっちも不注意でやるだけやってその途中を投げるように死んでいった。孫権はそのケツ拭きを、下手打てば周辺全て襲いかかってくる『孫家を恨んでる』豪族連合の場でやらざるを得ず、彼自身の人生にほぼ選択肢がなかった。嫌ってても不思議じゃ無いと思う (´・ω・`)
動画お疲れ様です。孫権としては、孫策の遺児が皇帝になってしまう可能性を閉ざした訳で、英断だったと思いますよ。動画の通りですね。その後の、呉のぐだぐだを見てると、正解だったのかもしれませんね。あと、女性というか、小喬大喬の処遇もあったかもね。周瑜が生きてればまた別の未来があったかもしれん。部下からすれば、主人が偉くなってくれることはありがたいことなので、孫権と孫策が不仲であろうがなかろうが、唆す部下が出てくるのは歴史の通りですなぁ。
後継者問題を起こさないための配慮(後継者問題を起こさないとは言ってない)二宮の変の原因となった孫覇の厚遇とそれに意見する陸遜等への反発は弟の身で継承した自身への複雑な感情も原因なのかもしれませんね
孫権は少々気量の狭いところもあるので、政治的判断、打算だけではなくに孫策やその血筋を恐れたり含むところがあって冷遇したという面もあってもおかしくないとも思いますが、それにしても生前の孫策と不仲とは考えづらいですね。これらはすべて孫策の死後の、呉の主となった孫権の事情ですし。
こんなに仲の良い兄弟って珍しいですよね。イギリス王室でさえ、兄弟同士で戦争起こしたりするのに…
赤いし孫策=レミリア、孫権=フランかと思ったけど、能力的に逆だからダメなのねw
作者様同様孫策と孫権の関係が悪かったとは考えにくいと思います、司馬炎と司馬悠の事を考えたら孫権の判断は正しかったと思います(しかし孫権ほどの人物でも我が子の事では失敗してしまうんですよね…)
袁術さんの仲の国を継承した説とかあったら、かなり面白いと思う~孫権さんは袁術さんの娘を嫁にもらっているし、袁術さんの息子、袁燿さんも孫権さんに仕えているので~皇帝のノウハウが、そこから伝承されても不思議はないとは思う~
確かに、袁術の一族は孫氏から好待遇で扱われていますよね。その説は確かに自分も面白いと感じました!
孫権は身内に酷薄だと言われていますが個人的にはむしろ甘い位だと思うんですよね…。もし本当に薄情なら二宮の変に至る前に孫覇か孫和のどちらかをさっさと切り捨ててるでしょうし、皇族と臣下がズルズルと派閥争いを続ける土壌にもならなかったと思います。
本当に酷薄ならまず孫暠一族を根絶やしにしてないといけないんですよね。この系統が後々害悪なので。でも結局甘々でした。
@@まこと-z7o 孫暠の反乱が結果的に未遂止まりだったのと、彼の父親で一族の功労者でもある孫静が責任をとって息子と共に官を退く事になった為に、命を取るまではいかなかったんでしょうね。孫権も兄から後を継いだ直後で権力が盤石ではないので、それまで世話になってきた叔父さん相手に強くは出られなかったんじゃないかなと思います。ここでの対応のツケが孫峻・孫綝のやらかしに繋がってしまうのは皮肉というほかありません。
後の禍根を断つために、あえて孫策を皇帝として祀らずその息子も候止まりそんなことができる孫権なら、さぞかし的確な判断で後継者きっちり決めて国内を二分するような争いなんて起こりようがないよなぁ(すっとぼけ)。
当時の呉は【豪族達の寄り合い所帯】という一面が他の魏蜀より強くそれが孫策の王に置いた事に繋がってるかも。特にその豪族たちの中心的な【呉の四姓】の一人である陸氏の長を孫策は殺してしまってます孫策の血筋に正当性が生まれてしまうのと同じ位かそれ以上に孫権からすると豪族が反発するのを抑える必要があったと思います。
なるほど😃じっさい孫策は若死にしたので子は少ないんですが、その少ない子を陸遜に(他にも顧氏にも)嫁がせる(※)など孫権もその辺は気を使って(無論豪族の方からも歩み寄って)いたようですしね一方それにより実際の遺恨は一族の幾人かに残ったにしても形式上は手打ちになった形ともいえ、もっと言えば孫策の系統と陸家に血縁ができたわけで逆に孫策を奉っても理屈の上ではよかった(嫁の実家がグレードップする形になる笑)という論もあるかもしれません🙃
国のことを優先させるとこうするのが正しかったのかなと思いますね結局は自身の晩年で国をぼろぼろにしたけど(笑
日本なら足利兄弟喧嘩の観応の擾乱とかもドロドロ
動画拝見しました。自らの正当性を確立するため孫策を皇帝とすることができなかったということですね。権力基盤を固めるには自らの権力の存在意義の根拠が必要になりますし、そこに混乱を招く要素を引き起こしのは賢明ではないですし。
私はうp主さんの言う事も良く分かります。そう言う可能性はあると思います。🤔実際に劉邦亡き後、呂后のした事を考えれば納得する部分もあります。
曹丕「うちの弟たちが酔っ払って裸踊りをしているのですが、どうすれば止めさせられるのでしょうか?」孫策「安心しろ、俺の弟どももブラブラだぞ」曹丕「……」劉封「なんて地獄絵図!」袁煕「……」司馬炎「楽しそう(笑)」
孫権は後継者問題となると超絶無能に成りますからねえ…苦手分野なのかな
孫策暗殺説ってあるんでしょうか?いや( ^ω^)・・・個人的感想ですが、どうも引っかかってまして。
実は孫権と孫策の息子は跡目争いをしていて豪族に推された孫権が勝ったあと、それを正当化するため、孫策から正式に跡目を受けたような話をでっち上げたのでわ?それなら今回の動画の不仲説のことも正しいんだと思う。そもそも孫策には息子がいたんだし、孫権に「跡をつげ」ではなく「息子の補佐を」頼むはず。孫策の息子を孫権が後見し、それを周瑜と張昭が補佐するのが普通
孫策が自分の息子を指名したとしたらたとえ孫権が乗っ取ろうとしても周瑜は必ず息子につくはずです。自分が成人まで見守ればいいのですからね。なので壮絶な争いがあって勝てても周瑜は孫権の腹心にならないはず。そして張昭たち部下はもともとは弟の孫翊を推していて孫策に却下された経緯を見ても書かれてない不仲説より孫策自身の意見だったと見てとるほうが自然かと思います。
孫権は功績のあった家臣の子供に対しても、冷たい仕打ちが多いですよね。
結構家臣の子供を自分の子のように育てたりしていますが「多い」とは?もしかして周瑜の子供のことでしょうか?あれは長男に寵愛する娘を輿入れさせるが早逝次男はガチの素行不良で怒られ左遷されたが都に戻す算段途中で早逝。唯一の娘は次期皇后に取り立てたが夫が早逝と不幸が重なってのことです。
丁寧な解説ありがとうございます。
初めて聞いたぞ、興味深い
司馬師司馬昭パターンかもしれませんね
幼い息子よりも一族繁栄の為に弟に託したみたいな
孫策の子孫を冷遇したのは豪族に利用されるのを防ぐためな気がする
孫策は、江東を侵略して平定した為、地元の豪族へ憚りあって、王位しか贈れなかったのかも。呉は、豪族の意見無視出来ない事情あった。
孫静は兄孫堅の子である孫策を忠実に支えたけど、その息子の孫暠は孫策が死んだ時に自立を図っている。又、本人にそのつもりは無くても周囲が「こちら(孫策の血統)の方が嫡流に当たるのだから、後継者に相応しい」と担ぎ出す可能性があった。孫策を王、その息子を公という扱いにしたのは家格にはっきり差をつけることでそれを防ごうとしたからだろう。
こういう事柄からみたら二宮の変も孫呉の中央集権化の試練だったんだろうなってなる
孫権自身がしぬまでに江東豪族の力は絶対に削いでおきたいだろうし
孫策の暴政や粗暴さ短気さについて表に出さなくても孫権は軽蔑していたかもしれない
英雄 天才 神 預言者 王 君 帝 愛国者 忠臣 どんな風に呼ばれどれほど偉大に語られても
その背後には屍の山が築かれている 後世の人間はどれほど多角的に研究しようとも
幾つかの一遍の真理を見る事しかできない
孫権が即位したとき孫策の子供は少なくとも30歳になってるので、「あわよくば」は叩き潰しておかないといけなかったんですよね
二宮事件でグダったのは、孫権が仲が悪い兄弟の対処に慣れていなかった可能性があるのかも?
水戸光圀は兄を差し置いて藩主になったけど、後継者には兄の子を就かせました。
歴史好きな人なので、当然故事には通じていたでしょう。
藩主や諸侯では皇帝と比べてはいけないんでしょうか?
この話はひょっとして陳寿が三国志を編纂した当時の『晋王朝』の初期の話を念頭に
つまり司馬懿(※この話で言えば孫堅にあたる)とその子司馬師(※孫策にあたる)と司馬昭(※孫権にあたる)の関係に配慮(忖度笑)した文章の書き方なのかもしれませんね
晋では司馬炎(司馬昭の息子)の建国後、司馬懿は『宣帝』司馬師も『景帝』と共に帝号がさかのぼって与えられており(当然父の司馬昭にも『文帝』の名が追贈)
司馬師の息子司馬攸(※この話で言えば孫韶。司馬師の義理の息子で司馬昭の実子でありかつ優秀な上、長子司馬師の家を継いでいたので後継でちょこっとややこしいことになった)にも『斉王』の王位が与えられ
陳寿は「それに引き換え孫権は兄の子に王号を与えないとはしみったれれますよね~(;´∀`)」という事が言いたかったのかもしれませんw
ただ、晋は一族郎党をやたら王にしたせいで後に・・・・・・まあそれは別の話笑笑
孔明上げなんかも、凡君に対し出師表でめっちゃ厳しい言葉を使ったことが、司馬兄弟による魏皇帝への抑圧を正当化するためという理由もあったのかもしれませんね。あるいは出師表自体がそういう創作かもしれませんね。
帝位については、張昭含めて国内の官僚諸将が反対した話がない帝位王位侯の設定なのだから、むしろ積極的にねじこまれている可能性まで考慮すべきですよね
多分孫策もあの世で孫権と再会したら「さすが権だずぇ!後継者争いにならないような配慮だな。なお」と褒めてくれるだろう
兄の司馬師から後を継いでいた司馬昭が自分の後継を長子の司馬炎ではなく弟で司馬師の養子になっていた司馬攸に継がせようとしたってことがあったなあ
結局司馬炎が継いで、司馬攸は斉王になったものの後継になるまでの経緯と司馬攸自身が能力と性格共に優れてた故にめちゃくちゃ警戒されてしまい悲惨な末路となってしまった
不仲だなんて考えたこともなかったわ。戦乱の時代に、幼児(孫紹)を君主に立ててやっていけるわけも無いし、自分が皇帝になってしまった以上、動画で言ってる通り、皇位継承の正当性のためにも、兄は王でなければならなかった。孫紹が呉侯なのも動画の通りだな。
孫策の死が想定外に早すぎた故に成人していた孫権が継がざるを得なかったし、孫策の子が成人する頃も北に曹操西に劉備いてまだまだ安定してた訳じゃないし冷遇といえる判断もやむを得なかったのかな
兄の子に権力あたえると後の災いになるって思ったんじゃないかなぁ?
二宮の変!?
孫権はここまで後継者に配慮してたのにその後はなあ・・・
孫紹に関しては扱いを間違うと二宮の変に壬申の乱が加わるようなものですし、孫策を王・孫紹を候扱いにしたのは正解だったかもですね
要は孫策の子どもに帝位を与えなかったのは後継者問題で自分の子ども以外から出すことによる国内の混乱を防ぎたかったのではなかったからじゃないのかな?結局二宮の変で十分国内が混乱しましたが。
当時の相続としては、異例中の異例なんですよね。
後に孫皓が孫策の孫である孫奉を弑殺したのも、自分の血筋こそ正統な皇統であるとの強烈な思いがあると思われます。
周瑜も孫策と出会って家臣となったし孫策の求心力は凄まじかったんでしょうね。そんなだから早死にするんだよとかどこかの誰か予言したとかしないとか。
呉は豪族の力が強い連合国なようなものでなんか拍子にどこかの派閥が孫策の子を後継に担ぎ上げるようなことがないよう後顧の憂いを絶ったということなんでしょうか。
(三国志歴浅いので想像です)
兄弟での分裂は凄惨を極めると聞きます。
日本での上杉の後継者争い「御館の乱」も平定まで10年くらいかかったと聞きます。
もしかしたら「二宮の変」での両成敗も呉の分裂を防ぐため、という非情の決断だったのでしょうか。
孫権も呉の中央集権化を目指していたようなので皇帝即位後に孫策を長沙王、その息子の孫紹を呉候としたのはそういう意味での措置だったんだろうなと思うし孫紹に関しては孫権が魏より呉王に封じられ更に帝位に昇った後も朝政に参画してたようなので父や自身に対する扱いに関して懇々と説かれ納得したんだろうと個人的には考えます
ただ、その息子(孫策の孫)孫奉が孫呉最後の皇帝である孫晧に粛清されたのは今に伝わる孫晧の人物評からして、やはりそうなるのか…って感じ
そういう見方もありますよね💡
孫権は兄弟、家臣同士の信頼、パワーバランスの匙加減がうまかったり人を見る目はあるんじゃないでしょうか。一方、後継者争いが生じたら両方やっつけるみたいな発想は彼ならではだと思いますし何事も前例を対照に決断するタイプだと思います。あと、孫権は皇帝であってもなくても人間的エピソードが多白い方なので取り上げていただいて本当に嬉しいです(^^)
広告がソシャゲの真 三國志で笑いました。
心情的には、孫権は、孫堅・孫策の二人を嫌ってたんじゃないかなぁ。孫堅と孫策は、言わば好き勝手した。知勇兼備だったが気性が荒く、取り敢えず殺すを体現した人生を送り、盛大に他者の恨みを買いどっちも不注意でやるだけやってその途中を投げるように死んでいった。孫権はそのケツ拭きを、下手打てば周辺全て襲いかかってくる『孫家を恨んでる』豪族連合の場でやらざるを得ず、彼自身の人生にほぼ選択肢がなかった。嫌ってても不思議じゃ無いと思う (´・ω・`)
動画お疲れ様です。
孫権としては、孫策の遺児が皇帝になってしまう可能性を閉ざした訳で、英断だったと思いますよ。動画の通りですね。
その後の、呉のぐだぐだを見てると、正解だったのかもしれませんね。
あと、女性というか、小喬大喬の処遇もあったかもね。周瑜が生きてればまた別の未来があったかもしれん。
部下からすれば、主人が偉くなってくれることはありがたいことなので、孫権と孫策が不仲であろうがなかろうが、唆す部下が出てくるのは歴史の通りですなぁ。
後継者問題を起こさないための配慮(後継者問題を起こさないとは言ってない)
二宮の変の原因となった孫覇の厚遇とそれに意見する陸遜等への反発は
弟の身で継承した自身への複雑な感情も原因なのかもしれませんね
孫権は少々気量の狭いところもあるので、政治的判断、打算だけではなくに孫策やその血筋を恐れたり含むところがあって冷遇したという面もあってもおかしくないとも思いますが、それにしても生前の孫策と不仲とは考えづらいですね。
これらはすべて孫策の死後の、呉の主となった孫権の事情ですし。
こんなに仲の良い兄弟って珍しいですよね。
イギリス王室でさえ、兄弟同士で戦争起こしたりするのに…
赤いし孫策=レミリア、孫権=フランかと思ったけど、能力的に逆だからダメなのねw
作者様同様孫策と孫権の関係が悪かったとは考えにくいと思います、司馬炎と司馬悠の事を考えたら孫権の判断は正しかったと思います(しかし孫権ほどの人物でも我が子の事では失敗してしまうんですよね…)
袁術さんの仲の国を継承した説とかあったら、かなり面白いと思う~
孫権さんは袁術さんの娘を嫁にもらっているし、袁術さんの息子、袁燿さんも孫権さんに仕えているので~
皇帝のノウハウが、そこから伝承されても不思議はないとは思う~
確かに、袁術の一族は孫氏から好待遇で扱われていますよね。
その説は確かに自分も面白いと感じました!
孫権は身内に酷薄だと言われていますが個人的にはむしろ甘い位だと思うんですよね…。
もし本当に薄情なら二宮の変に至る前に孫覇か孫和のどちらかをさっさと切り捨ててるでしょうし、
皇族と臣下がズルズルと派閥争いを続ける土壌にもならなかったと思います。
本当に酷薄ならまず孫暠一族を根絶やしにしてないといけないんですよね。この系統が後々害悪なので。でも結局甘々でした。
@@まこと-z7o
孫暠の反乱が結果的に未遂止まりだったのと、
彼の父親で一族の功労者でもある孫静が責任をとって息子と共に官を退く事になった為に、
命を取るまではいかなかったんでしょうね。
孫権も兄から後を継いだ直後で権力が盤石ではないので、
それまで世話になってきた叔父さん相手に強くは出られなかったんじゃないかなと思います。
ここでの対応のツケが孫峻・孫綝のやらかしに繋がってしまうのは皮肉というほかありません。
後の禍根を断つために、あえて孫策を皇帝として祀らずその息子も候止まり
そんなことができる孫権なら、さぞかし的確な判断で後継者きっちり決めて国内を二分するような争いなんて起こりようがないよなぁ(すっとぼけ)。
当時の呉は【豪族達の寄り合い所帯】という一面が他の魏蜀より強くそれが孫策の王に置いた事に繋がってるかも。
特にその豪族たちの中心的な【呉の四姓】の一人である陸氏の長を孫策は殺してしまってます
孫策の血筋に正当性が生まれてしまうのと同じ位かそれ以上に孫権からすると豪族が反発するのを抑える必要があったと思います。
なるほど😃
じっさい孫策は若死にしたので子は少ないんですが、その少ない子を陸遜に(他にも顧氏にも)嫁がせる(※)など孫権もその辺は気を使って(無論豪族の方からも歩み寄って)いたようですしね
一方それにより実際の遺恨は一族の幾人かに残ったにしても形式上は手打ちになった形ともいえ、もっと言えば孫策の系統と陸家に血縁ができたわけで
逆に孫策を奉っても理屈の上ではよかった(嫁の実家がグレードップする形になる笑)という論もあるかもしれません🙃
国のことを優先させるとこうするのが正しかったのかなと思いますね
結局は自身の晩年で国をぼろぼろにしたけど(笑
日本なら足利兄弟喧嘩の観応の擾乱とかもドロドロ
動画拝見しました。
自らの正当性を確立するため孫策を皇帝とすることができなかったということですね。権力基盤を固めるには自らの権力の存在意義の根拠が必要になりますし、そこに混乱を招く要素を引き起こしのは賢明ではないですし。
私はうp主さんの言う事も良く分かります。
そう言う可能性はあると思います。🤔
実際に劉邦亡き後、呂后のした事を考えれば納得する部分もあります。
曹丕「うちの弟たちが酔っ払って裸踊りをしているのですが、どうすれば止めさせられるのでしょうか?」
孫策「安心しろ、俺の弟どももブラブラだぞ」
曹丕「……」
劉封「なんて地獄絵図!」
袁煕「……」
司馬炎「楽しそう(笑)」
孫権は後継者問題となると超絶無能に成りますからねえ…苦手分野なのかな
孫策暗殺説ってあるんでしょうか?
いや( ^ω^)・・・個人的感想ですが、どうも引っかかってまして。
実は孫権と孫策の息子は跡目争いをしていて豪族に推された孫権が勝ったあと、それを正当化するため、孫策から正式に跡目を受けたような話をでっち上げたのでわ?
それなら今回の動画の不仲説のことも正しいんだと思う。
そもそも孫策には息子がいたんだし、孫権に「跡をつげ」ではなく「息子の補佐を」頼むはず。孫策の息子を孫権が後見し、それを周瑜と張昭が補佐するのが普通
孫策が自分の息子を指名したとしたらたとえ孫権が乗っ取ろうとしても周瑜は必ず息子につくはずです。自分が成人まで見守ればいいのですからね。なので壮絶な争いがあって勝てても周瑜は孫権の腹心にならないはず。そして張昭たち部下はもともとは弟の孫翊を推していて孫策に却下された経緯を見ても書かれてない不仲説より孫策自身の意見だったと見てとるほうが自然かと思います。
孫権は功績のあった家臣の子供に対しても、冷たい仕打ちが多いですよね。
結構家臣の子供を自分の子のように育てたりしていますが「多い」とは?もしかして周瑜の子供のことでしょうか?あれは長男に寵愛する娘を輿入れさせるが早逝次男はガチの素行不良で怒られ左遷されたが都に戻す算段途中で早逝。唯一の娘は次期皇后に取り立てたが夫が早逝と不幸が重なってのことです。
丁寧な解説ありがとうございます。