熊本と台湾の絆が生んだ奇跡 106歳元教師の日本人女性から88歳の台湾の教え子に届いた手紙【熊本】 (24/09/04

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  • เผยแพร่เมื่อ 18 ธ.ค. 2024
  • 昭和初期、日本統治時代の台湾で教師をしていた玉名市の高木 波恵さん。106歳のとき、当時の教え子を懐かしんで出した手紙が大きな反響を呼びました。熊本と台湾の絆が生んだ奇跡の実話をひもときます。
    2020年2月、玉名市で暮らす女性がこの世を去りました。高木 波恵さん、111歳の大往生でした。弔辞を読んだのは福岡にある台湾総領事館に当たる組織のトップでした。
    【台北駐福岡経済文化弁事処 陳 忠正 処長(当時)】
    「あなたは私たちにとって一生忘れられない方です。先生の愛情、熱情を込めた精神を今も台湾の教え子、教え子の子ども、孫さんたちに、そして今、私たち台湾の人の心の中にとめておきます」
    高木 波恵さんは1908年、玉名市に生まれました。
    日本統治時代の台湾に家族とともに渡り、台中高等女学校を卒業しました。
    教師になり、台湾の子どもたちが通う烏日公学校で1928年から約10年間、教壇に立ちました。そして、終戦を迎え、熊本に引き揚げました。
    80歳のときに脳こうそくを患ったものの漢詩や百人一首を書き記すなどして回復しました。
    2018年12月、福岡にある台湾総領事館に当たる経済文化弁事の陳忠処長が波恵さんの元を訪れました。ふた月前に着任したばかりで、波恵さんと初めて会いました。
    【陳 忠正 処長】
    「今も台湾語を覚えている。感動しました」
    前任の戎 義俊処長もたびたび波恵さんを訪ねていました。台湾の外交官がなぜ波恵さんと交流を深めていたのか。
    話は2015年1月、波恵さんが106歳のときに遡ります。きっかけは、ある台湾映画が日本で公開されたことでした。
    『KANO(カノ)1931海の向こうの甲子園』。日本統治時代の1931年、台湾の嘉義農林学校野球部が海を渡って夏の甲子園大会に初出場し、準優勝するまでの物語です。波恵さんは映画のクライマックスである決勝戦の実況中継を当時、ラジオで聴いていました。
    教え子たちは今、どうしているだろうか。思い立った波恵さんは娘の恵子さんに代筆してもらい、当時の教え子で88歳になる楊 漢宗(よう・かんそう)さん宛てに手紙を出しました。
    (手紙)
    「春節おめでとうございます。二月十八日、はるか日本国より久方ぶりに楊 漢宗 様へ。高木 波恵 満百六歳、お便りを代筆、娘、恵子がお届け致します。母は非常に元気です」
    しかし、宛先が古い住所だったため、日本に送り返される寸前のところを郵便局員たちの尽力で無事、楊さんの元に届きました。
    波恵さんが生きていたことに教え子たちは驚き、玉名市の波恵さんに自分たちの近況を手紙で伝えました。
    そして、2015年9月。学校の創立100周年記念式典で東京のテレビ会議システムの運営会社の協力で再会を果たしました。
    【波恵さんと教え子たちのやりとり】
    「高木先生、元気で毎日お暮らしで本当におめでとう」
    「生きていてくれてうれしいよ」
    「健康ですか?」
    「ありがとう。着物を縫ったこと覚えているか?」
    「体をお元気に大切にしまして、ありがとうございます」
    「あなたも元気でね」
    (手紙を受け取った楊漢宗さんは病床で童謡『桃太郎』を口ずさんでいた)
    80代から90代になった教え子たち。苦しい時代に優しくしてくれた波恵先生。温かいひとときがお互いの心に刻まれていました。
    【波恵さんの次男・保明さん】
    「熊本地震の時も政府から『大丈夫でしたか? おうちは大丈夫でしたか? 大変心配しております』という電話もいただきました。台湾の皆さんには感謝しかないです。。このご縁は時代が変わっても大事にしていきたいと思っています」
    2020年2月、波恵さんは111歳で亡くなりました。ライターの西谷 格さん。波恵さんと教え子たちの再会の模様を台湾で取材し、日本に伝え、本にまとめました。
    【西谷 格さん】
    「歳月の重みというか自分たちの思い出がすごくいい形で残っているんだなとすごく印象に残りました」
    熊本と台湾の絆が生んだ奇跡の再会。そこから育まれた新たな交流。高木 波恵さんの面影は、台湾の人々の心に今も生き続けています。

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