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現在でこそ、新潟から関東へのトンネルが有るから行きやすいけど、当時は大変だったろう。
春日山城、良かったですよ~朝一で行って日の出も見ました
春日山城からの日の出なんて最高ですね!
埼玉から新幹線で越後湯沢まで行って、そこからレンタカーで春日山城まで行きましたよ。結構遠くて、これを車も電車もトンネルも無しに逆走するのは大変だろうなと思いました。ボクの家の近くには、信玄と氏康に攻められて、謙信が助けに来たお城があります。
毘沙門堂の毘沙門天は米沢のお寺で間近で見ることができます。めちゃくちゃ感動しました。
春日山城、遺構っていうか雰囲気はあのまんま残ってますもんね・・・僕ももう10年近く前になりますが行きましたもん・・・。当時は全然整備もされてなくて。タクシーで乗り付けたはいいけど、帰りがあの辺呼んでないと大変だったのを覚えてます。本丸跡から見える直江津の海がすっごいキラキラしてて素晴らしかったです。
上越市出身で子供の頃から遠足コースでした。今は他県に住んでますが。花ヶ崎盛明という大河ドラマの時代考証も行っておられる郷土史家の先生に直接ガイドしていただく幸運に恵まれ勉強させていただいたことを思い出します。春日神社から南西に向かって歩きだすと甘粕近江守の館跡を最初に見ることになるのですが、こんな狭い所に館があったわけがないと思うけど残存する絵図面にはそう載っているので仕方なくここが甘粕館跡となっている、とおっしゃってました。あと、昭和後半上越教育大学のとある先生が当時の建設ラッシュで春日山城跡がおかしな開発をされることを恐れて自然のままに残すよう進言したおかげで平成の中頃までは鬱蒼とした杉山だったのですが、同先生がそろそろ大丈夫だろうと、木を切ることを進言して、今の姿になったようですね。
春日神社✕→春日山神社
いつか全国のお城巡りがしたいです。毎回動画楽しませてもらっています。
実写があるので歴史の重みを感じることができるのでありがとうございます自分は父方が新潟、母方が山梨なので、上杉・武田両方に肩入れできる利点があります😁
勝頼の妹は、上杉景勝の嫁となっていますので、時代は敵対ではなく、融合です。山梨と新潟は。
上杉謙信は内政にも秀でたものがあったという話を聞いてそりゃそうだなと思った。いくら毘沙門天の生まれ変わりだとか言って戦争ばかりやってたら国力は疲弊する一方だ。特に謙信の場合義侠心が強かったと言われ何の得にもならない戦をすることもあったという。しかし一方で国力をつけるのにも秀でていたとなると領民の不満もなかったに違いない。
毘沙門天像は米沢にあるのか。知らなかった。昨年米沢へ行ったのに。
春日山城、いつかは行きたいです。先祖が武田なので信玄の本を読んでいたら、謙信の方が好きになりました。まさに武士道の手本。
ウチも父の先祖が武田の家臣だけど同じくです。でも父の養子先は信長家臣だけど。
三年ほど前に登城しましたが、台風の後で一部登城路が崩れて立入禁止がありました今はどうなっているのかな?同時期の七尾城も台風の爪痕で立ち入り禁止になってました早朝に登った登城道でクマを警戒してラジオ鳴らしながら登った思い出もあるけど、本丸付近の眼下の町並みと山並みはとても良い風景で、ちょっと城主気分を味わいました春日神社一帯はよく手入れされ、地元に愛されていることがよく分かりました
素敵な動画ですね。私も2年前に登りましたが感激しました。春日山城の本丸は当時もっと広かったようですね。後世、大勢の観光客が足を踏み入れたり雨が降ったりして本丸の土や石が流れ落ちたようです。今では土を本丸まで運んで補強しているようです。
山頂まで登り易く春日山を観光地化するために開発が入り新道や遊歩道をつくり当時あった道は、寸断されて面影をとどめない。春日山の場合むしろ山麓を登る所から山頂まで遺構があったと思うのですが、開発当時のこと文化施設保存の考えは薄く、観光地やハイキングの場所として遺構を無視して開発されてしまった。
いろいろ理由はあると思いますが、遺構の破壊は残念ですね
行ってみたいお城がたくさん見られ、歴史や戦いや武将のことも詳しく分かる、ステキなチャンネルですね!チャンネル登録させていただきました。実は私もお城めぐりの動画をアップしています。なのでとても勉強になりました。これからも楽しくためになる動画を期待しています。
楽しかったです。上杉謙信は織田信長、武田信玄と同じく好きな武将の一人。会ってみたいなぁ
はじめまして。一昨年行った時に改修中で春日山城行けなかったので、ありがたかったです。チャンネル登録しました。これからの動画も楽しみにしています。
ありがとうございます。見学できないときはくやしいですよね。私もよくあります。
@@kainosuke-rekishi さん 返信ありがとうございます。見学できず残念でした。私も趣味の動画など投稿してますので、よろしければ遊びにきてください。
良いですね、戦国最強の謙信公とその拠点である春日山城。春日山城には何回か上りましたが、上まで登ったのは2回ぐらい。武田信玄公でさえその生涯で4回ぐらい負けたとされますが、一度も負けてないとされるのは謙信公ぐらい、それも負ける戦いは戦わないのではなく、要請があれば出陣していたようなので、戦神とはまさに謙信公の為の言葉でしょうか。ただ勝って得た領地の維持には力を使わず、地理的な問題もありますが、真田弾正や武田信玄公によって北信は制圧され、小田原北条家にも領地を奪われてます。正義、義の為に戦った唯一の戦国大名かも知れません。最後に、春日山城を見物するなら、コロナで中止してますが、謙信公祭の時に行けば、パレードと火縄銃の演武が見られて、非常に面白いと思います。
謙信公祭、行ってみたいです!
臼井城の戦いで調べてごらん。
上杉は、越後守護と関東管領を二つある。謙信は守護を上杉定実から、関東管領を上杉憲政から受け継ぎ、兼任していたが、次代は守護を景勝、関東管領を景虎に譲った。死の直後は何も争いはおきていない。しかし、景虎の実子、道満丸の後見役をめぐって両者が争ったのが御舘の乱。
謙信は確かに行くさ上手だけど、運が無かったね。長生きしてたら信長や秀吉の天下はなかったかも知れない。が、家康の天下は決まってた
謙信は兄から家督を譲られてはいない。家督は兄の子に将来譲られ、謙信は子か成人するまでの後見役に付いたにすぎない。兄の子は間もなく死に、実権は謙信のままになるが、家督簒奪の私心がないことを示すため、自分の子を作らなかった。
昔の話。川中島の戦いでは上杉謙信は死んでたんじゃないのか? とかの話を聞いた事がありましたねぇ。鎧兜は春日式の量産型を改造しているが、兜鉢は信長と縁戚のあった伊達政宗の兜鉢に代わって、両肩の盾は1段短くして更に丸く湾曲させて狭くています。コノ伊達と同じ兜鉢に替えた兜では禿頭ではなく髷をゆってたんですよ。盾の大きさから体が極端に小柄だったようだしそれでいて胴回りは手を加えず、腰周りがデカいのはオンナの特長ですよね。他の謙信の改造鎧では一般のオトコでは着られないので小手などの装具で肘迄覆わねばならないモノもありました。上杉謙信にすり替わったオンナがいたのではないか?神功皇后の話にクガタチをしていたオシクマがオトコのナニを猪に食いちぎられて死ぬとあるが。猪は太陽神と表す摩利支天の乗り物。巫女のフリして祭儀を乗っ取ってたオトコが死にました。便所で死んだとある上杉謙信。遺品に琵琶もあるのは比叡山延暦寺の琵琶法師?それとも便所と厠と云う言葉に洒落かけて便所でなく弁財天女と厠を高野でない比叡(クエ)として比叡山の琵琶法師(孔子の格好したウソ仏教、近江の儒教アマノジャク)に殺されたのかもなどと聞いた事ありました。オンナとバレて晒し者にされて殺された?その後の御館の乱は死んだ謙信への反逆だったが景勝達はそれを隠したが家康にバレて上杉家は一度領地も奪われ取り潰しを受けた。今でも上杉家のタブーになってるかも。どうですかねぇ?どうせなら特集動画を作って下さいよwww
謙信は女性だった?以前耳に挟んだことがあります。とてもおもしろいと思います!
@@kainosuke-rekishi ❤マーク貰えて感激です。ところで毘沙門天に関して七福神では弁財天を嫁にしているとして江戸時代から云われますが上杉謙信の事かも。前述の鎧の盾が小さいことから上腕が短い事が理由で改造されたとすれば身長は低くかなり小柄でしかも胴回りとりわけ腰回りの大きい事が女性と推測する理由です。兜のシコロの下にも革で巻いており髪は長く被る時は頭頂部を髷で押えていたようです。元々鎧を着けていた上杉謙信にすり替わったので鎧を改造して兜鉢が破壊していたので取り替えたとすれば、身長130から140センチ、胸と腰が極端にデカい。小柄な成人女性かな?
戦国最強は、なんて言ったって武田信玄に限る!上杉謙信は次点。
かっこいい上杉謙信を思いがちだけどトイレで気張り過ぎてぷちんと血管切れて亡くなったと思うとちょっと笑いが出てしまう人物像😆
現在でこそ、新潟から関東へのトンネルが有るから行きやすいけど、当時は大変だったろう。
春日山城、良かったですよ~
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春日山城からの日の出なんて最高ですね!
埼玉から新幹線で越後湯沢まで行って、そこからレンタカーで春日山城まで行きましたよ。
結構遠くて、これを車も電車もトンネルも無しに逆走するのは大変だろうなと思いました。
ボクの家の近くには、信玄と氏康に攻められて、謙信が助けに来たお城があります。
毘沙門堂の毘沙門天は米沢のお寺で間近で見ることができます。
めちゃくちゃ感動しました。
春日山城、遺構っていうか雰囲気はあのまんま残ってますもんね・・・僕ももう10年近く前になりますが行きましたもん・・・。当時は全然整備もされてなくて。タクシーで乗り付けたはいいけど、帰りがあの辺呼んでないと大変だったのを覚えてます。本丸跡から見える直江津の海がすっごいキラキラしてて素晴らしかったです。
上越市出身で子供の頃から遠足コースでした。今は他県に住んでますが。花ヶ崎盛明という大河ドラマの時代考証も行っておられる郷土史家の先生に直接ガイドしていただく幸運に恵まれ勉強させていただいたことを思い出します。春日神社から南西に向かって歩きだすと甘粕近江守の館跡を最初に見ることになるのですが、こんな狭い所に館があったわけがないと思うけど残存する絵図面にはそう載っているので仕方なくここが甘粕館跡となっている、とおっしゃってました。あと、昭和後半上越教育大学のとある先生が当時の建設ラッシュで春日山城跡がおかしな開発をされることを恐れて自然のままに残すよう進言したおかげで平成の中頃までは鬱蒼とした杉山だったのですが、同先生がそろそろ大丈夫だろうと、木を切ることを進言して、今の姿になったようですね。
春日神社✕→春日山神社
いつか全国のお城巡りがしたいです。
毎回動画楽しませてもらっています。
実写があるので歴史の重みを感じることができるのでありがとうございます
自分は父方が新潟、母方が山梨なので、上杉・武田両方に肩入れできる利点があります😁
勝頼の妹は、上杉景勝の嫁となっていますので、時代は敵対ではなく、融合です。山梨と新潟は。
上杉謙信は内政にも秀でたものがあったという話を聞いてそりゃそうだなと思った。
いくら毘沙門天の生まれ変わりだとか言って戦争ばかりやってたら国力は疲弊する一方だ。
特に謙信の場合義侠心が強かったと言われ何の得にもならない戦をすることもあったという。
しかし一方で国力をつけるのにも秀でていたとなると領民の不満もなかったに違いない。
毘沙門天像は米沢にあるのか。知らなかった。昨年米沢へ行ったのに。
春日山城、いつかは行きたいです。
先祖が武田なので信玄の本を読んでいたら、謙信の方が好きになりました。
まさに武士道の手本。
ウチも父の先祖が武田の家臣だけど同じくです。
でも父の養子先は信長家臣だけど。
三年ほど前に登城しましたが、台風の後で一部登城路が崩れて立入禁止がありました
今はどうなっているのかな?
同時期の七尾城も台風の爪痕で立ち入り禁止になってました
早朝に登った登城道でクマを警戒してラジオ鳴らしながら登った思い出もあるけど、本丸付近の眼下の町並みと山並みはとても良い風景で、ちょっと城主気分を味わいました
春日神社一帯はよく手入れされ、地元に愛されていることがよく分かりました
素敵な動画ですね。私も2年前に登りましたが感激しました。春日山城の本丸は当時もっと広かったようですね。後世、大勢の観光客が足を踏み入れたり雨が降ったりして本丸の土や石が流れ落ちたようです。今では土を本丸まで運んで補強しているようです。
山頂まで登り易く春日山を観光地化するために開発が入り新道や遊歩道をつくり当時あった道は、寸断されて面影をとどめない。春日山の場合むしろ山麓を登る所から山頂まで遺構があったと思うのですが、開発当時のこと文化施設保存の考えは薄く、観光地やハイキングの場所として遺構を無視して開発されてしまった。
いろいろ理由はあると思いますが、遺構の破壊は残念ですね
行ってみたいお城がたくさん見られ、歴史や戦いや武将のことも詳しく分かる、ステキなチャンネルですね!
チャンネル登録させていただきました。
実は私もお城めぐりの動画をアップしています。
なのでとても勉強になりました。
これからも楽しくためになる動画を期待しています。
楽しかったです。
上杉謙信は織田信長、武田信玄と同じく好きな武将の一人。
会ってみたいなぁ
はじめまして。一昨年行った時に改修中で春日山城行けなかったので、ありがたかったです。
チャンネル登録しました。これからの動画も楽しみにしています。
ありがとうございます。見学できないときはくやしいですよね。私もよくあります。
@@kainosuke-rekishi さん 返信ありがとうございます。見学できず残念でした。
私も趣味の動画など投稿してますので、よろしければ遊びにきてください。
良いですね、戦国最強の謙信公とその拠点である春日山城。春日山城には何回か上りましたが、上まで登ったのは2回ぐらい。
武田信玄公でさえその生涯で4回ぐらい負けたとされますが、一度も負けてないとされるのは謙信公ぐらい、それも負ける戦いは戦わないのではなく、要請があれば出陣していたようなので、戦神とはまさに謙信公の為の言葉でしょうか。
ただ勝って得た領地の維持には力を使わず、地理的な問題もありますが、真田弾正や武田信玄公によって北信は制圧され、小田原北条家にも領地を奪われてます。
正義、義の為に戦った唯一の戦国大名かも知れません。
最後に、春日山城を見物するなら、コロナで中止してますが、謙信公祭の時に行けば、パレードと火縄銃の演武が見られて、非常に面白いと思います。
謙信公祭、行ってみたいです!
臼井城の戦いで調べてごらん。
上杉は、越後守護と関東管領を二つある。謙信は守護を上杉定実から、関東管領を上杉憲政から受け継ぎ、兼任していたが、次代は守護を景勝、関東管領を景虎に譲った。死の直後は何も争いはおきていない。しかし、景虎の実子、道満丸の後見役をめぐって両者が争ったのが御舘の乱。
謙信は確かに行くさ上手だけど、運が無かったね。長生きしてたら信長や秀吉の天下はなかったかも知れない。が、家康の天下は決まってた
謙信は兄から家督を譲られてはいない。家督は兄の子に将来譲られ、謙信は子か成人するまでの後見役に付いたにすぎない。兄の子は間もなく死に、実権は謙信のままになるが、家督簒奪の私心がないことを示すため、自分の子を作らなかった。
昔の話。
川中島の戦いでは上杉謙信は死んでたんじゃないのか? とかの話を聞いた事がありましたねぇ。
鎧兜は春日式の量産型を改造しているが、兜鉢は信長と縁戚のあった伊達政宗の兜鉢に代わって、両肩の盾は1段短くして更に丸く湾曲させて狭くています。
コノ伊達と同じ兜鉢に替えた兜では禿頭ではなく髷をゆってたんですよ。
盾の大きさから体が極端に小柄だったようだしそれでいて胴回りは手を加えず、腰周りがデカいのはオンナの特長ですよね。
他の謙信の改造鎧では一般のオトコでは着られないので小手などの装具で肘迄覆わねばならないモノもありました。
上杉謙信にすり替わったオンナがいたのではないか?
神功皇后の話にクガタチをしていたオシクマがオトコのナニを猪に食いちぎられて死ぬとあるが。猪は太陽神と表す摩利支天の乗り物。
巫女のフリして祭儀を乗っ取ってたオトコが死にました。
便所で死んだとある上杉謙信。
遺品に琵琶もあるのは比叡山延暦寺の琵琶法師?
それとも便所と厠と云う言葉に洒落かけて便所でなく弁財天女と厠を高野でない比叡(クエ)として比叡山の琵琶法師(孔子の格好したウソ仏教、近江の儒教アマノジャク)に殺されたのかもなどと聞いた事ありました。
オンナとバレて晒し者にされて殺された?
その後の御館の乱は死んだ謙信への反逆だったが景勝達はそれを隠したが家康にバレて上杉家は一度領地も奪われ取り潰しを受けた。今でも上杉家のタブーになってるかも。
どうですかねぇ?
どうせなら特集動画を作って下さいよwww
謙信は女性だった?以前耳に挟んだことがあります。とてもおもしろいと思います!
@@kainosuke-rekishi
❤マーク貰えて感激です。
ところで毘沙門天に関して七福神では弁財天を嫁にしているとして江戸時代から云われますが上杉謙信の事かも。
前述の鎧の盾が小さいことから上腕が短い事が理由で改造されたとすれば身長は低くかなり小柄でしかも胴回りとりわけ腰回りの大きい事が女性と推測する理由です。
兜のシコロの下にも革で巻いており髪は長く被る時は頭頂部を髷で押えていたようです。
元々鎧を着けていた上杉謙信にすり替わったので鎧を改造して兜鉢が破壊していたので取り替えたとすれば、
身長130から140センチ、
胸と腰が極端にデカい。
小柄な成人女性かな?
戦国最強は、なんて言ったって武田信玄に限る!上杉謙信は次点。
かっこいい上杉謙信を思いがちだけどトイレで気張り過ぎてぷちんと血管切れて亡くなったと思うとちょっと笑いが出てしまう人物像😆