岸岳城跡 佐賀県唐津市相知町

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  • เผยแพร่เมื่อ 21 ส.ค. 2024
  • 佐賀県唐津市相知町にある岸岳城跡へ行ってきました。
    山の稜線を利用して造られた城で山の姿を見ると、山頂は横一線に見えます。
    石垣も見事に残ってて、素晴らしい城跡でした。
    岸岳城は波多氏(17代約450年続いた)のお城です。
    築城時期は定かではないが、南北朝時代には築かれていたと考えられてるそうです。
    源平合戦のあと、平家方の武士が住み着いたという説もある。
    岸岳城を中心とした上松浦党の最大の勢力を誇っていた波多氏である。
    波多氏を調べてみると、
    1019年(平安時代)刀伊の入寇で活躍した源知という武士がいました。
    この人物の子孫といわれている源久が松浦郡の荘官となり松浦姓を名乗るようになった。
    源久改め松浦久は息子たちに領地を分けて支配すようになり、またその子孫たちが領主になって
    力を合わせた武士団が松浦党。
    波多氏は源久の二男、源持の子孫と伝えられているが、松浦党は48家あるいは52家あったといわれているので、分流が波多氏を創設した可能性があるみたい。
    またこちらの源家一族は諱が一文字という特徴がある。
    南北朝時代には、上松浦党と下松浦党に分かれたが、何かの折に目的を同じにして結束する一揆というものを結んでいて、結束の場も唐津と平戸に決まっていた。
    室町時代の1398年 彦島河原の戦い(九州探題渋川氏と少弐氏の戦い)で少弐氏側で戦い敗れ
    松浦党が大損害に陥った。
    立ち直るまでに相当な時間を要したみたいだ。
    ようやく文献に名前が登場するのが1431年室町時代になる。
    1441年の赤松攻めの際にも九州の武将たちの中に上松浦一族がいたと記されているとか。
    秀吉による九州平定の際は島津寄りだったが、領地は安堵された。
    がしかし、文禄の役の時に改易されてしまった。
    17代目最後の当主は波多親。 有馬家からの養子だった。
    上松浦党は散り散りに、下松浦党の平戸松浦氏は平戸藩として存続した。
    波多城は岸岳城以前の居城だったようだ。

ความคิดเห็น • 3

  • @namename-kl3gt
    @namename-kl3gt หลายเดือนก่อน

    普段山歩きしないから登るのはしんどかったけど
    そこに残る遺構は素晴らしものがありますよね
    近くにある獅子ヶ城跡も良好な状態で残ってる石垣など素晴らしかったです

    • @gfc6993
      @gfc6993  หลายเดือนก่อน

      石垣跡が素晴らしい城跡でした。

  • @suhirojointomasuino1423
    @suhirojointomasuino1423 9 หลายเดือนก่อน

    なぜか何度も登った。末孫さんの墓も400年守ってきたが、そろそろ終焉、祟りも終わってくれるのかどうか、この場所は400年前に上っていたような気はする。