三軒茶屋教会礼拝説教「神の御招きに気付く」2024年12月8日アドベント2
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- เผยแพร่เมื่อ 11 ธ.ค. 2024
- 2024年12月8日 アドベント第2主日礼拝式説教
イザヤ書59章12~20節
「神の御招きに気付く」
日本ナザレン教団三軒茶屋教会
牧師 石川博詞
<説教から> アドベント第2主日を迎えました。救い主イエス・キリストの誕生をひたすら待ち望んでいた信仰者たちの忍耐と希望を思い、私たちも同じ信仰でありたいと願います。
さて、今、イザヤ書59章を読みました。これは、バビロン捕囚から解放された民に、神様の御旨を伝えるゆる第3イザヤ(56章以降)と呼ばれる預言者の言葉です。ちなみに、先週の礼拝式で読みましたイザヤ書2章には、北イスラエルがアッシリアに、南ユダがバビロニアによって立て続けに滅ぼされてしまう預言が39章まで記されていて、そうした試練の背景には、民の背信があったことが語られています。それでも後の時代には、必ず解放と復興の希望があることも預言されています。その希望こそが「神の光」なのだから、苦しくても光の中を歩む信仰を持つようにと預言者イザヤは伝えたのです。そして、今読みました59章、イザヤ書の終盤では、ユダの民が捕囚から解放されて故国へと帰還してからのことが述べられています。神の光を信じて歩んだ民が、試練の末、ようやく救われました。まさに預言の通りです。しかし、懐かしい故国に帰り着いた民は愕然とします。なぜなら、故国はすっかり荒れ果ててしまっていたからです。捕囚生活という苦しく切ない日々を支え続けていたのは、麗しい都エルサレムへの憧れでした。それなのに、帰還した民の目に映る現実は、あまりにも無残な光景でした。主の神殿は、もうありません。せっかく解放され、帰還できたというのに、民は更なる悲しみと落胆へと突き落とされてしまったのです。それでも預言者イザヤは、主なる神様からの希望の光を指し示し続けます。むしろ落胆のどん底だからこそ、主なる神様の御言葉にだけすがるのです。“主なる神様は、ここまでずっと導いて来てくださったではないか、ならば、これからも私たちを必ずお導きくださるのは疑いようのないことだ。あなたたちは、神様の御招きに気付きなさい。そして、どこまでも主なる神様の御光の中を歩み続けるのみだ!”と希望を語るのです。もちろん預言者イザヤは何の確信もないのに、ただ民を励ましているのではありません。預言者イザヤには確信がありました。それは民が、主なる神様からの預言を真剣に聞くことさえできたなら、必ずや神様が招いていてくださることに気付き、さらに前へと進んでいけるとの確信です。自分たちの前にある現実はとても厳しいけれども、それは神様が自分たちの向かう方向を御光で照らしていてくださるからこそ、現実の厳しさもよく見えているのであって、はっきり厳しさが見えているのであれば、後は神様の御導きに従って行くのみだとの確信です。
では、主なる神様の御招きにいつも気付いていられるためには、どうしたら良いのでしょうか。それは、へりくだった心、打ち砕かれた魂をもって、ひたすら神様の御言葉を聞き続けようとする信仰を求めることです。私たち罪ある者は、そのままでは神様の御招きだと気付くことが出来ず、神様の光も目に入ってこないままです。かつての民もそうでしたが、私たちの罪の心は、主なる神様の御言葉に気付こうとはしません。なぜなら、罪は主なる神様の存在さえも覆い隠そうとするからです。せっかく私たちに向けられている神様の愛にさえ、背を向けさせてしまうようにするのが罪です。罪は神様に背を向けさせるだけでに止まらず、神様から私たちを遠く離れさせてしまおうとします。この「背かせ」「遠く離れさせる」ことこそが、罪の目的なのです。そうして希望を消し、闇が覆うようにしてしまうのです。今読んだイザヤ書には、そのことが幾度も書かれています。
では、心から罪の覆いを取り払い、神様の御招きに気付くことができるようにし、神様の御光を見続けるために、私たちはどうしたらよいのでしょうか。それは告白と祈りです。告白とは、自分が主なる神様の御前に罪人であることを認めることです。主なる神様の導きの光、希望を見ようともしてこなかったこと、御言葉を聞こうとしてこなかった自己中心的な身勝手さを認め、その罪を神様の御前に告白し、悔い改めるのです。そして第二に、苦難や試練の中でも、神様を信じて救いを祈り求め続けるのです。救いを求める祈りを決して止めてはなりません。諦めてはなりません。祈りを止め、諦めてしまうことこそが、神様に背を向けることだからです。神様を信じて待ち望み続ける者と共に、神様は必ずいてくださるのです。そのことを忘れてはなりません。
12~13節を見ますと「背きの罪」「主に対して偽り背き」「神から離れ去り」とあります。このように、神様の御招きに気付くことがなかったなら、どうして私たちは希望の光の中を歩むことが出来るでしょうか。ひたすら神様の御導きを気付かせてくださいと祈り求め続けるのみです。自分だけを絶対に正しい者としたままでいたならば、私たちは本当に正しいこと、すなわち主なる神様の真理が見えないままになってしまいます。先週の祈祷会では、ローマの信徒への手紙16章25~27節を読みました。25節には「この福音は、世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものです。」とあります。隠され、秘められた計画とは、神様があえて私たちに分からないよう隠蔽していたというような意地の悪い意味ではありません。そうではなく、自分だけを絶対に正しいと思い続けてきた罪、すなわち真の主なる神様に背を向け続けているままでは、決して気付くことなどできない真理、それが救い主イエス・キリストの十字架による救いだということです。アドベントの今、私たちクリスチャンは、救い主がこの罪の世にお出でくださった事実に、ひたすら心を向け続けています。そしてこれからもずっと神様のお導きに気付いていられるようにと祈り求め続けます。神様は、そんな私たちに常に真理を示していてくださいます。感謝しながら、この恵みを証ししましょう。
主なる神様の御恵みをお祈りします。アーメン。