ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
もりぞーさんのご説明で誤って居る箇所があるので訂正をしておきます。先ず、中支従軍ですが、同行は詩人の西条八十、佐伯孝夫、作曲家は飯田信夫、深井史郎で団長格は西条八十でした。内地では西条、古関両名は飛行機で博多へ飛び更に上海まで飛行機を乗り継ぎ上海から南京までは汽車で向かったとあります。上海の駅でとまっていた急行列車は日本の機関車で多分C51型だろうとの事でした。さて、愈々揚子江を遡り九江まで行く事になり司令部に挨拶をすると船は大型貨物船と小型の瀬戸内海を走って居た船のどちらがよいか聞かれ、大型船は独航、小型船は船団を組んで行くと云う。小型船は大衆丸と云うので大衆音楽を作って居る我々は大衆丸にしたようです。結果船団を組んで行ったのが多分良かったのでしょう。大型船は船腹に穴をあけられ傾いている姿を古関らは目撃しあれにのらなくて良かったとなったのです。(大きい船と小さい船の説明が逆になっています)その後星子という小さな町まで行った時に敵兵が夜襲をするという情報に襲ってきた自決をする手筈迄整えたと云います。その後西条はもう従軍を打ち切って帰るとし古関もそれに従ったが体調がすぐれずアメーバー赤痢にかかっており帰国後も一か月くらいは治らなかったと云うのはご説明の通りです。二回目は日本放送協会の南方慰問団です。日本放送協会と云うのは現在ではNHKと云っていますがそれは戦後の事ですが、便宜上NHKと呼ぶことにします。NHKの人選たけに歌手、漫談家、落語家、浪曲家、舞踏団に更には東京管弦楽団の選抜などと総勢三十有余名という大所帯でした。大阪から一行が乗った船には軍人や商社マン、タイピストなどで満杯で何と特別三等船室に押し込められてしまった。食事も粗末なクジラ肉が毎夕食に供せられたと云うのはご説明の通りですが、最近は鯨の肉を食べる機会も少なくなったので補足しておくと、このような粗末な食事の鯨肉は保存も多分悪く独特の臭いがしたり筋肉で硬かったりするものですが、多分このトクサンの食事もそのようなものだったろうと思います。更には三等には慰安婦までいたらしいので尚更です。シンガポールまで行った一行は「大南方軍の歌」の作曲や歌唱指導などをした処、御礼として占領時に接収したディズニー映画「ファンタジア」を上映して呉れたそうです。徳川夢声はこれを観てこの戦争は負けると思ったそうですし、別の機会に観た映画監督の小津も矢張りけんかをしてはいけない相手と戦っていると思ったと日記に書いているそうです。戦時中に観た手塚治虫もこの戦争は負けると思ったそうですから、古関も多分同じ様の思いだったと思われます。慰問団はシンガポールとビルマ(現在のミャンマー)とジャワの予定がビルマまででしかも隅々までまわれとなってしまいました。シボレーの話はこのときの話です。シボレーと云うのは当時は高級車の代名詞となっておりそのオープンカーと云えばトラックなどとは比べ物にならない位乗り心地が良いものなので女性陣がそれに乗る事になったのです。インパール作戦従軍と横須賀入営については別の機会に補足する事にします。
すいません、いつも補足ありがとうございます!
インパール作戦で端的に表れた日本軍の本質・・「バカな大将、敵より恐い」
その通りですね…
前回、中支従軍と緬甸(ビルマ)従軍について書いたので、本統ならばインパール作戦従軍と横須賀での応召とを書くことになるのですが、インパール作戦従軍については別に項を立ててらっしゃるので横須賀での応召と関連した事を書くことにします。ドラマでは「若鷲の歌」絡みになっている上に形式的に一日丈となっていますが、大分違います。昭和19年に海軍人事局から「特幹練の歌」の作曲を依頼されます。航空隊の特別幹部練習生の略です。作詞は西條八十で「若鷲の歌」以上のものをと云う事でした。処が「3月15日に横須賀海兵団に入団せよ」と云う趣旨の召集令状が来たのです。古関氏は徴兵検査の結果も丙種でしかも海軍人事局の仕事も頼まれているのにと思い、海軍人事局にその令状を見せると、これは福島の司令部で出したものでしかも古関裕而と知らずに出したものでしょうと云われたのです。ドラマでは本名の儘で活躍したように成って居ますが、史実では古関裕而の本名は勇治でした。もりぞうさんも説明されていますが、このようの場合は文字をみないと解り難いだろうと思います。しかし、一度出した召集令状は取り消すことはできないと云われ更に今「特幹練の歌」を御願いしているときなので一週間位で召集解除なるだろうと云う事であった。なにしろ海軍の人事のすべてを管掌しているのだから取消は出来なくとも、解除は出来るのです。入隊の際の身体検査の際に従軍の無理からヘルニアになったというと海軍病院で手術をしてやると云う事になってしまい入院し手術を受けたようです。コロンビアの慰問団が来た際の事は補足すると、二等水兵(陸軍の二等兵にあたる)なので迎えに出てお茶をいれたりしようとすると歌手たちが吃驚して先生は座っていて下さい私たちがやりますと急須をひったくったと云います。同席の上司がまあ先生じゃ仕方がないかと苦笑して許してくれたと有りますから、やはりそこは海軍らしいところがあります。このとき腸チブス予防注射をうけたようです。結局一か月余で「重要要務者として召集解除する」となって召集解除になりました。処で「特幹練の歌」ですが結局時局重大との事で中止となったのでした。なお、ドラマでバリカンで髪を切るという話が出て居ますが、海軍は陸軍よりもやや髪が長めで所謂丸坊主ではなかったようです。又、昭和13年頃に古関氏は髪が抜けると云う事があったようです。既に昭和12年頃から仕事をしていた菊田一夫と戦後になってから対談した際に菊田氏からあれこれと聞かれて応えています。この対談は「鐘よ鳴り響け」に引用されているのでご興味のある方はご参照下さい。(「舞台は回る」の章の中に引用されているはじめの方です)
もりぞーさんのご説明で誤って居る箇所があるので訂正をしておきます。
先ず、中支従軍ですが、同行は詩人の西条八十、佐伯孝夫、作曲家は飯田信夫、深井史郎で団長格は西条八十でした。内地では西条、古関両名は飛行機で博多へ飛び更に上海まで飛行機を乗り継ぎ上海から南京までは汽車で向かったとあります。上海の駅でとまっていた急行列車は日本の機関車で多分C51型だろうとの事でした。さて、愈々揚子江を遡り九江まで行く事になり司令部に挨拶をすると船は大型貨物船と小型の瀬戸内海を走って居た船のどちらがよいか聞かれ、大型船は独航、小型船は船団を組んで行くと云う。小型船は大衆丸と云うので大衆音楽を作って居る我々は大衆丸にしたようです。結果船団を組んで行ったのが多分良かったのでしょう。大型船は船腹に穴をあけられ傾いている姿を古関らは目撃しあれにのらなくて良かったとなったのです。(大きい船と小さい船の説明が逆になっています)その後星子という小さな町まで行った時に敵兵が夜襲をするという情報に襲ってきた自決をする手筈迄整えたと云います。その後西条はもう従軍を打ち切って帰るとし古関もそれに従ったが体調がすぐれずアメーバー赤痢にかかっており帰国後も一か月くらいは治らなかったと云うのはご説明の通りです。
二回目は日本放送協会の南方慰問団です。日本放送協会と云うのは現在ではNHKと云っていますがそれは戦後の事ですが、便宜上NHKと呼ぶことにします。NHKの人選たけに歌手、漫談家、落語家、浪曲家、舞踏団に更には東京管弦楽団の選抜などと総勢三十有余名という大所帯でした。大阪から一行が乗った船には軍人や商社マン、タイピストなどで満杯で何と特別三等船室に押し込められてしまった。食事も粗末なクジラ肉が毎夕食に供せられたと云うのはご説明の通りですが、最近は鯨の肉を食べる機会も少なくなったので補足しておくと、このような粗末な食事の鯨肉は保存も多分悪く独特の臭いがしたり筋肉で硬かったりするものですが、多分このトクサンの食事もそのようなものだったろうと思います。更には三等には慰安婦までいたらしいので尚更です。シンガポールまで行った一行は「大南方軍の歌」の作曲や歌唱指導などをした処、御礼として占領時に接収したディズニー映画「ファンタジア」を上映して呉れたそうです。徳川夢声はこれを観てこの戦争は負けると思ったそうですし、別の機会に観た映画監督の小津も矢張りけんかをしてはいけない相手と戦っていると思ったと日記に書いているそうです。戦時中に観た手塚治虫もこの戦争は負けると思ったそうですから、古関も多分同じ様の思いだったと思われます。慰問団はシンガポールとビルマ(現在のミャンマー)とジャワの予定が
ビルマまででしかも隅々までまわれとなってしまいました。シボレーの話はこのときの話です。シボレーと云うのは当時は高級車の代名詞となっておりそのオープンカーと云えばトラックなどとは比べ物にならない位乗り心地が良いものなので女性陣がそれに乗る事になったのです。
インパール作戦従軍と横須賀入営については別の機会に補足する事にします。
すいません、いつも補足ありがとうございます!
インパール作戦で端的に表れた日本軍の本質・・「バカな大将、敵より恐い」
その通りですね…
前回、中支従軍と緬甸(ビルマ)従軍について書いたので、本統ならばインパール作戦従軍と横須賀での応召とを書くことになるのですが、インパール作戦従軍については別に項を立ててらっしゃるので横須賀での応召と関連した事を書くことにします。
ドラマでは「若鷲の歌」絡みになっている上に形式的に一日丈となっていますが、大分違います。
昭和19年に海軍人事局から「特幹練の歌」の作曲を依頼されます。航空隊の特別幹部練習生の略です。作詞は西條八十で「若鷲の歌」以上のものをと云う事でした。処が「3月15日に横須賀海兵団に入団せよ」と云う趣旨の召集令状が来たのです。古関氏は徴兵検査の結果も丙種でしかも海軍人事局の仕事も頼まれているのにと思い、海軍人事局にその令状を見せると、これは福島の司令部で出したものでしかも古関裕而と知らずに出したものでしょうと云われたのです。ドラマでは本名の儘で活躍したように成って居ますが、史実では古関裕而の本名は勇治でした。もりぞうさんも説明されていますが、このようの場合は文字をみないと解り難いだろうと思います。しかし、一度出した召集令状は取り消すことはできないと云われ更に今「特幹練の歌」を御願いしているときなので一週間位で召集解除なるだろうと云う事であった。なにしろ海軍の人事のすべてを管掌しているのだから取消は出来なくとも、解除は出来るのです。
入隊の際の身体検査の際に従軍の無理からヘルニアになったというと海軍病院で手術をしてやると云う事になってしまい入院し手術を受けたようです。コロンビアの慰問団が来た際の事は補足すると、二等水兵(陸軍の二等兵にあたる)なので迎えに出てお茶をいれたりしようとすると歌手たちが吃驚して先生は座っていて下さい私たちがやりますと急須をひったくったと云います。同席の上司がまあ先生じゃ仕方がないかと苦笑して許してくれたと有りますから、やはりそこは海軍らしいところがあります。このとき腸チブス予防注射をうけたようです。
結局一か月余で「重要要務者として召集解除する」となって召集解除になりました。
処で「特幹練の歌」ですが結局時局重大との事で中止となったのでした。
なお、ドラマでバリカンで髪を切るという話が出て居ますが、海軍は陸軍よりもやや髪が長めで所謂丸坊主ではなかったようです。又、昭和13年頃に古関氏は髪が抜けると云う事があったようです。既に昭和12年頃から仕事をしていた菊田一夫と戦後になってから対談した際に菊田氏からあれこれと聞かれて応えています。この対談は「鐘よ鳴り響け」に引用されているのでご興味のある方はご参照下さい。(「舞台は回る」の章の中に引用されているはじめの方です)