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私は大愚和尚さまに頂いた処方箋が 宝物です。あの世の 私の娘もママを元気にしてくれてありがとうと笑っている気がします。ありがとうございました。
わが家には難病を抱える重度障がい児がいます。それがわが家の人生のリアルです。驚くほどの苦しみがそこにあります。「くちづけ」を私も以前拝見しましたがあの辛い表現の裏にある光、底にあるメッセージも受け取っていただけたら嬉しいです。暗く不健康な世界ではみえない愛が世の中にはたくさんあります。できる限り愛のほうに目を向けて生きていきたいな〜と日々おもいます。息子の笑顔はわたしの光です。大愚和尚に感謝いたします🙏
今、仕事先が実質休止してしまい、給料も入らない状態になりました。だからこそ、来年からやりたい仕事をやろうと思ってた矢先ですが、正直不安や恐怖がありました。この動画で「できないと信じている妄想している。不健康でもったいない」「運命とは命を運ぶ。つまり、今日なにをするか」この2つを心に秘めて頑張ろうと思えました。
一年も終ろうとしています。辛い事が多く、くじけそうなとき、いいお話を聞かせて頂き、救われてまいりました。自分を大切にまた、先へ進もうと思いました。本当にありがとうございました。新しい年が、皆様にとってもいい一年となりますように。 感謝❗️
3年前に咽頭がんに罹患し、喉頭を摘出し発声機能をなくした51歳男です。自分の人生に絶望しかけ、現在もがんになる前に比べたらモチベーションが中々上がりません。それでも、今日が人生で一番若い日だと思い行動していると、小さな幸せを見つけることができてきた感じがします。あるものに目を向ける大切さを改めて再認識できました。ありがとうございます。
大愚和尚さん‥いつも優しく、穏やかなお話し、ありがとうございます、これからもよいおはなしを、たくさんおきかせください、べんきようになります。だいすきです。
大愚和尚様、今年もありがとうございました!コメント欄の皆様からも沢山学ばせていただきました。和尚様やコメント欄の皆様のお言葉を得て知った気にならぬよう、嗚呼そうかと納得したつもりで終わらぬよう自らを行動し精進したいと思える一年でした。ありがとうございました!
新たな気持ちで仕事ができる環境を与えてくれた方々に感謝してます。
和尚さんのお話は私の中に生きています 有難う御座居ます🎉✨🌿🌿🌿
お和尚さま(^^)今年も一年ありがとうございました😊母と2人で毎日お話しを聞かせていただいています。今度のお正月には書き初めをと思っていて、お題は四諦八正道にしたいと思っています😊
和尚様の仰るように思います。最初の相談者さんの、そう思う気持ちも分かります。私は相談員をしていたので障がいを持つ親御さん御家族を見てきました。感じたのは周りがもっと寛容であって欲しい。どう生まれようと一人の人間として尊重する気持ちを持っていれば自ずと良い道を引き出す方向へ心が動くのです。簡単に引きずられないで欲しいですし、そういう方達は私なんかよりも、一生懸命に生きようとしてるんです。逆に、私の方が生きる力を貰えてた気がしてます。どうしたら良いか、相談に来てコミュニティを求めにきているのです。今の日本は、なんとか社会福祉は潰れないで存在しています。今は他の仕事に就きましたがコミュニティや地域のボランティアしてます。 健常者でも障がい者でもひとりでは生きていけないですよね。 一緒に今を生きる人間同士差別なく支え合う人がもっともっと増えて欲しいと願います。
今年は、この動画に辿りつけました😀❤️大好き😆🎵ありがとうございますm(_ _)m❤️御参考にさせて頂き普段の生活で、浄土真宗を、実践していきます。来年も良い年にしましょうm(_ _)mありがとうございます❤️😀m(_ _)mあっ!私は聖飢魔2の、悪魔教でもあります😀
明けました😃おめでとうございます😃🎵👍くれた方、ありがとうございますm(_ _)m
悲田院町。現在天王寺駅辺りの所在地ですね。ボクは其の近くの、茶臼山のメンタルの先生にお世話になっています。今では親は鬼籍に入って久しいですが、私は子どもの頃から、天王寺に縁の有る人生です。私の人生には他にも色々日々生活に不思議な縁を感じ暮らしております。今は仏様の御手に生かされている心地です。
運命は自ら招き自ら創る。 32:34
会社の上の人はリーダーに周りを明るくし元気にしヤル気が出る、下の子たちが寄ってくる人材を求めていますね。努力して成る部分も大いにありますが、素質の部分も有りそうな感じがしています。
1本目を見て。差別ってなんなのか?それは「違いが受け入れられない人達がする行為」なのだと考えています。私は他者を必要以上に「かわいそう」とは思いません。 私は自分自身を必要以上に不幸だとは思いません。 (まぁ、相当な変わり者だとは自認していますが。)自分で出来ることは自分でしろ、と言います。 自分ではできないだろうと思えば、当たり前のことのように代わりにやります。チビは障害ですか? 指が1本無いのは障害ですか? 下半身が無いのは障害ですか? 目が見えないのは障害ですか? 論理的思考力が低いことは障害ですか?足があるなら自分で歩けばいい。 足が無いなら周囲の人が手助けすればいい。 「助けてあげる」とかおこがましい。 皆が自分の出来ることをして、出来ないことは助け合えば良いだけだ。そもそも「障害」という言葉がキライです。 社会保障制度としての区分が必要なことは理解できますが、それを一般生活の中で意識することはキライです。人間が勝手に線を引き、「ここまでは正常」、「ここからは障害」っておかしいですよね?人それぞれ得手不得手があり、身体的特徴も様々であり、思考能力も人それぞれ特定の方向に偏っています。『違うのが当たり前なんだ』その発想が無いと「あの人は違う」となり、それが差別を生むのだと考えます。そうだね、みんな違うよね。 お互いに違いを尊重しないとね。 周りから見たら、自分だって「変わった人」でしかないんだからね。人は皆違う。 そんな当たり前の事が認められないって、悲しいことですね。
1人目の方の相談は、現代の日本社会の問題点を象徴していると感じました。私が感じた問題点は彼女の視野が非常に狭いという点です。障害者が仮に1人残されても生きていけるような福祉サービスは沢山あります。障害者手帳で様々なサービスが安く受けられるし、自分が加入している生命保険もある。必要な金額を計算し、生命保険で足りなければ生活保護や後見制度使うなど色々方法があります。それも調べずに勝手に絶望している。これは彼女の勉強不足だけではなく、支えてくれる仲間や、信頼できる共同体がないからでしょう。あと彼女自身に人望がなかった。もしあれば周囲に相談するという選択肢があったはずです。私自身仲間は皆無に等しく、頼れる親友などいませんし、そのような共同体は持っていませんが、普段から政治、社会問題に関心があるのでそこまで絶望するようなことではないと瞬時に判断できました。ただ同時に、1人でやれる事、知ることができる事には限界があるとも感じます。だからこそ、ゆるくても良いので、ほんの少し頼れる共同体、コミュニティを作るということが一つの解決策なのではないかと思います。なので自分もそのようなコミュニティに積極的に加わっていこうと思っています。
まだひとつめの回答しか聞いていませんが、いまいち腑に落ちません。先のことを想像することで、また人に起きたことを自分の身に置き換えて考えることで人の痛みが分かり、また自分なりの軸ができるのではないでしょうか。悪い方悪い方にベクトルを向かせる点はまずいと思いますが逆にまた良い方向のみにベクトルを向かわせれば事なかれ主義の完成だと思います。
父の三回忌を行います家族で22日に行いますが本当に家族だけでいいのですか
1つ目の話「くちづけ」は竹中直人さんが父親役で映画化されています父親が余命宣告された時今まで施設でも馴染めなかった娘が、グループホームの同じ入居者中にはじめて心を許せる人をつくることができたこれなら自分が亡くなっても安心できると思った矢先、その入居者が暴力事件をおこす父親は焦る父親の頭の中にある噂がよぎる「頭陀袋を引きずるように歩くホームレスのほとんどは身寄りがなくなった障害者だ」「挙動不審の障害者は、店で万引きをしていると間違えられ警察につきだされる自分の気持ちを思うように伝えれない障害者は警察に尋問され警察の圧力に言うがままにコントロールされ犯罪者にしたてあげられると、言っていた」と父親は本当かどうかわからない噂や妄想にとらわれ、パニックになっていくそして追い詰められた父親は・・という内容だった映画でみるとその妄想にとらわれた先に悲しき結末をむかえたことがわかる昔は、障害者に差し伸べる手は少なく、社会の支援も薄かったしかし今は違う声を上げ続ければ必ず届く先がある2つ目の話「無い物に目を向けるより、ある物に目を向ける」例えば、目が見える、話せる、聞こえる手足が動く、食べれる、美味しいと感じれる、などなどこれらは当たり前だろうかいや、当たり前ではなく今その与えられているものは「奇跡」かもしれないそう考えるとこれだけできることがあるそれらができることで、可能性は無限にひろがっているなのにそれらを当たり前として無い物を見てなげいている例えば、それらがある今の自分ではなく突然それらすべてを失ったとする目が見えず話せず聞こえず味わえず手足が動かなくなるその時、神様が降りてきて言う「一度だけそのすべてを元に戻してあげよう」そしてそれが戻った時見える景色、聞こえる音、味わえる感動、手足が動く自由、様々な匂いどんなに新鮮で感動的で可能性に満ちたものかその瞬間を想像してみれば当たり前のように感じていたことへのありがたみと可能性を無限に感じるはずです仕事やお金はないけど自分はこんなにも可能性に満ちていると
主治医が統合失調症の私の処方をバッサリと切って無くしてしまい私は苛つきしかない優しさを忘れてしまった様な感じになりました。そんな自分が嫌でたまりません。以前かかっていた心療内科の余った処方を飲んでいます。優しさを取り戻すまで愛犬に会わずに居ようと思っています。愛犬が可哀相です、お袋にも怒りをぶつけてしまいました早く優しさを取り戻しお袋、愛犬に会いたいです。
何故人は土に返せない物で地球を汚し、何百年も争いをし続けるのでしょうか?私には分かりませんもう他人には何も期待しなくなりました親が亡くなったらいつでも旅立とうと考えています
私は大愚和尚さまに
頂いた
処方箋が 宝物です。
あの世の 私の娘も
ママを元気にしてくれて
ありがとうと笑っている気がします。ありがとう
ございました。
わが家には難病を抱える重度障がい児がいます。
それがわが家の人生のリアルです。
驚くほどの苦しみがそこにあります。
「くちづけ」を私も以前拝見しましたが
あの辛い表現の裏にある光、底にあるメッセージも受け取っていただけたら嬉しいです。
暗く不健康な世界ではみえない
愛が世の中にはたくさんあります。
できる限り愛のほうに目を向けて生きていきたいな〜と日々おもいます。
息子の笑顔はわたしの光です。
大愚和尚に感謝いたします🙏
今、仕事先が実質休止してしまい、給料も入らない状態になりました。だからこそ、来年からやりたい仕事をやろうと思ってた矢先ですが、正直不安や恐怖がありました。
この動画で「できないと信じている妄想している。不健康でもったいない」「運命とは命を運ぶ。つまり、今日なにをするか」この2つを心に秘めて頑張ろうと思えました。
一年も終ろうとしています。辛い事が多く、くじけそうなとき、いいお話を聞かせて頂き、救われてまいりました。自分を大切にまた、先へ進もうと思いました。本当にありがとうございました。新しい年が、皆様にとってもいい一年となりますように。 感謝❗️
3年前に咽頭がんに罹患し、喉頭を摘出し発声機能をなくした51歳男です。自分の人生に絶望しかけ、現在もがんになる前に比べたらモチベーションが中々上がりません。それでも、今日が人生で一番若い日だと思い行動していると、小さな幸せを見つけることができてきた感じがします。あるものに目を向ける大切さを改めて再認識できました。ありがとうございます。
大愚和尚さん‥いつも優しく、穏やかなお話し、ありがとうございます、これからもよいおはなしを、たくさんおきかせください、べんきようになります。だいすきです。
大愚和尚様、今年もありがとうございました!
コメント欄の皆様からも沢山学ばせていただきました。
和尚様やコメント欄の皆様のお言葉を得て知った気にならぬよう、嗚呼そうかと納得したつもりで終わらぬよう自らを行動し精進したいと思える一年でした。
ありがとうございました!
新たな気持ちで仕事ができる環境を与えてくれた方々に感謝してます。
和尚さんのお話は私の中に生きています 有難う御座居ます🎉✨🌿🌿🌿
お和尚さま(^^)今年も一年ありがとうございました😊母と2人で毎日お話しを聞かせていただいています。
今度のお正月には書き初めをと思っていて、お題は四諦八正道にしたいと思っています😊
和尚様の仰るように思います。
最初の相談者さんの、そう思う気持ちも分かります。私は相談員をしていたので障がいを持つ親御さん御家族を見てきました。
感じたのは周りがもっと寛容であって欲しい。どう生まれようと一人の人間として尊重する気持ちを持っていれば自ずと良い道を引き出す方向へ心が動くのです。簡単に引きずられないで欲しいですし、そういう方達は私なんかよりも、一生懸命に生きようとしてるんです。逆に、私の方が生きる力を貰えてた気がしてます。
どうしたら良いか、相談に来てコミュニティを求めにきているのです。
今の日本は、なんとか社会福祉は潰れないで存在しています。今は他の仕事に就きましたがコミュニティや地域のボランティアしてます。 健常者でも障がい者でもひとりでは生きていけないですよね。 一緒に今を生きる人間同士差別なく支え合う人がもっともっと増えて欲しいと願います。
今年は、この動画に
辿りつけました😀❤️
大好き😆🎵
ありがとうございます
m(_ _)m❤️
御参考にさせて頂き
普段の生活で、浄土真宗を、実践していきます。
来年も良い年にしましょう
m(_ _)m
ありがとうございます
❤️😀m(_ _)m
あっ!私は
聖飢魔2の、悪魔教でもあります😀
明けました😃
おめでとうございます😃🎵
👍くれた方、
ありがとうございます
m(_ _)m
悲田院町。現在天王寺駅辺りの所在地ですね。ボクは其の近くの、茶臼山のメンタルの先生にお世話になっています。今では親は鬼籍に入って久しいですが、私は子どもの頃から、天王寺に縁の有る人生です。私の人生には他にも色々日々生活に不思議な縁を感じ暮らしております。今は仏様の御手に生かされている心地です。
運命は自ら招き自ら創る。 32:34
会社の上の人はリーダーに周りを明るくし元気にしヤル気が出る、下の子たちが寄ってくる人材を求めていますね。努力して成る部分も大いにありますが、素質の部分も有りそうな感じがしています。
1本目を見て。
差別ってなんなのか?
それは「違いが受け入れられない人達がする行為」なのだと考えています。
私は他者を必要以上に「かわいそう」とは思いません。 私は自分自身を必要以上に不幸だとは思いません。 (まぁ、相当な変わり者だとは自認していますが。)
自分で出来ることは自分でしろ、と言います。 自分ではできないだろうと思えば、当たり前のことのように代わりにやります。
チビは障害ですか? 指が1本無いのは障害ですか? 下半身が無いのは障害ですか? 目が見えないのは障害ですか? 論理的思考力が低いことは障害ですか?
足があるなら自分で歩けばいい。 足が無いなら周囲の人が手助けすればいい。 「助けてあげる」とかおこがましい。 皆が自分の出来ることをして、出来ないことは助け合えば良いだけだ。
そもそも「障害」という言葉がキライです。 社会保障制度としての区分が必要なことは理解できますが、それを一般生活の中で意識することはキライです。
人間が勝手に線を引き、「ここまでは正常」、「ここからは障害」っておかしいですよね?
人それぞれ得手不得手があり、身体的特徴も様々であり、思考能力も人それぞれ特定の方向に偏っています。
『違うのが当たり前なんだ』その発想が無いと「あの人は違う」となり、それが差別を生むのだと考えます。
そうだね、みんな違うよね。 お互いに違いを尊重しないとね。 周りから見たら、自分だって「変わった人」でしかないんだからね。
人は皆違う。 そんな当たり前の事が認められないって、悲しいことですね。
1人目の方の相談は、現代の日本社会の問題点を象徴していると感じました。
私が感じた問題点は彼女の視野が非常に狭いという点です。
障害者が仮に1人残されても生きていけるような福祉サービスは沢山あります。障害者手帳で様々なサービスが安く受けられるし、自分が加入している生命保険もある。必要な金額を計算し、生命保険で足りなければ生活保護や後見制度使うなど色々方法があります。
それも調べずに勝手に絶望している。
これは彼女の勉強不足だけではなく、支えてくれる仲間や、信頼できる共同体がないからでしょう。あと彼女自身に人望がなかった。もしあれば周囲に相談するという選択肢があったはずです。
私自身仲間は皆無に等しく、頼れる親友などいませんし、そのような共同体は持っていませんが、普段から政治、社会問題に関心があるのでそこまで絶望するようなことではないと瞬時に判断できました。
ただ同時に、1人でやれる事、知ることができる事には限界があるとも感じます。
だからこそ、ゆるくても良いので、ほんの少し頼れる共同体、コミュニティを作るということが一つの解決策なのではないかと思います。なので自分もそのようなコミュニティに積極的に加わっていこうと思っています。
まだひとつめの回答しか聞いていませんが、いまいち腑に落ちません。先のことを想像することで、また人に起きたことを自分の身に置き換えて考えることで人の痛みが分かり、また自分なりの軸ができるのではないでしょうか。悪い方悪い方にベクトルを向かせる点はまずいと思いますが逆にまた良い方向のみにベクトルを向かわせれば事なかれ主義の完成だと思います。
父の三回忌を行います家族で22日に行いますが本当に家族だけでいいのですか
1つ目の話
「くちづけ」は竹中直人さんが父親役で映画化されています
父親が余命宣告された時
今まで施設でも馴染めなかった娘が、グループホームの同じ入居者中にはじめて心を許せる人をつくることができた
これなら自分が亡くなっても安心できると思った矢先、
その入居者が暴力事件をおこす
父親は焦る
父親の頭の中にある噂がよぎる
「頭陀袋を引きずるように歩くホームレスのほとんどは身寄りがなくなった障害者だ」
「挙動不審の障害者は、店で万引きをしていると間違えられ警察につきだされる
自分の気持ちを思うように伝えれない障害者は警察に尋問され警察の圧力に言うがままにコントロールされ犯罪者にしたてあげられると、言っていた」
と
父親は本当かどうかわからない噂や妄想にとらわれ、パニックになっていく
そして追い詰められた父親は・・
という内容だった
映画でみるとその妄想にとらわれた先に悲しき結末をむかえたことがわかる
昔は、障害者に差し伸べる手は少なく、社会の支援も薄かった
しかし今は違う
声を上げ続ければ必ず届く先がある
2つ目の話
「無い物に目を向けるより、ある物に目を向ける」
例えば、目が見える、話せる、聞こえる
手足が動く、食べれる、美味しいと感じれる、などなど
これらは当たり前だろうか
いや、当たり前ではなく今その与えられているものは「奇跡」かもしれない
そう考えるとこれだけできることがある
それらができることで、可能性は無限にひろがっている
なのにそれらを当たり前として
無い物を見てなげいている
例えば、それらがある今の自分ではなく
突然それらすべてを失ったとする
目が見えず話せず聞こえず味わえず手足が動かなくなる
その時、神様が降りてきて言う
「一度だけそのすべてを元に戻してあげよう」
そしてそれが戻った時
見える景色、聞こえる音、味わえる感動、手足が動く自由、様々な匂い
どんなに新鮮で感動的で可能性に満ちたものか
その瞬間を想像してみれば
当たり前のように感じていたことへのありがたみと可能性を無限に感じるはずです
仕事やお金はないけど
自分はこんなにも可能性に満ちていると
主治医が統合失調症の私の処方をバッサリと切って無くしてしまい私は苛つきしかない優しさを忘れてしまった様な感じになりました。そんな自分が嫌でたまりません。以前かかっていた心療内科の余った処方を飲んでいます。優しさを取り戻すまで愛犬に会わずに居ようと思っています。愛犬が可哀相です、お袋にも怒りをぶつけてしまいました早く優しさを取り戻しお袋、愛犬に会いたいです。
何故人は土に返せない物で地球を汚し、何百年も争いをし続けるのでしょうか?
私には分かりません
もう他人には何も期待しなくなりました
親が亡くなったらいつでも旅立とうと考えています