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田中先生の、新しい視点からの日本史に大変感慨深く見ております。私は千葉県出身ですが鹿島・香取の両神宮が大和からは全く独立して存在していることには昔から疑問を持っておりました。またその後山陰(境港市)に10年程住でいまして出雲の歴史にも触れ、これまでの歴史観にも多くの疑問を持っていました。所沢にも住みましたので日高見国についても興味津々です。先生の益々のご研究の成果の発表と、後継者の登場を願って止みません。
大祓の祝詞に大倭日高見国というのが出てきます。これに最初に着目したのが折口信夫です。
現東京から東へ、関東には当時江戸のお膝元が何重にも屋敷を構えて都を御守りしていた事が史跡からもよくわかりました。機会があれば是非、巡ってみると面白いかと思います
こんにちは、和多志は仙台人です。先生のこの動画を拝見し、同感致しました。現代でも何かと、東北は、置いてけぼりですよね。コンサートとか催し物が全国展開と謳っておきながら、何故か?東北をすっ飛ばして、いきなり札幌ってあるかよ💢、と思います。何か差別でもしてるのかと、ずっと思ってました。🤣。
言葉間違えてます。一人称は私ですよ。
吉里吉里人にはつらいですね。キリキリします。
非常に面白い、新しい観点で、いろいろな謎を解き明かしてくれるように思います。地理的な背景とか気候的な背景とか、広い見方が含まれており、面白いです。
面白いなぁ〜。定年してから歴史に興味を持った「理系人」ですが、白紙から考えたらとても客観的で「なるほど」って歴史観ですよね。義務教育で教える歴史は偏っているかもしれないと、最近やっと気づきました。本当に面白い!
日高見国と、大和があったとするならば、日本書紀の話の辻褄が合います。地名に歴史の事実が見え隠れしているのが面白いです。
日立市には巨石も有ります 他の方がコメントされていますが日本最古とされる地層もあり、鉱山もあった・本当の古き書物のつながりもあるなー ちなみに日立市には日高と言う地名あります
先生のお話をいつも拝聴し、学ばせて頂いております。ありがとうございます。和歌山県にも日高地方がございます。
古事記、日本書紀以前の歴史とても興味があります。国譲り以前の日本海側丹後、出雲、関東の香取、鹿島神宮一の宮を巡りながら日本の歴史に想いを馳せています。行く先々で出会う足元のスミレもその土地の歴史を知っているのだろうなあ。❤😊教えて❤楽しい旅の思い出❤
田中教授のファンで四年前から色々と講義動画を見させて頂いてます!戦後からの政策に思いますが、事実を複雑化するため、東西の地名や人の移動が鏡様になってる気がします。神社の元祀神が封印され、戦後神が祀られてる神社が多いことに切ない思いがあります。自分は関東在住ですが、関東山奥には、アメノミナカヌシ様の神社がひっそりとあったりして、田中先生の講義が現実的にあぁ、ここは日高見国だったんだと実感しました。
鹿島生まれで香取も川向いです。非常に興味深い面白いお話です。
賛同できます。縄文時代の気候や遺跡を考えて東北や信州が人口が多いので此方が中心だったはず。
ぼんやりした関東以北の歴史イメージも明かりがともった感じがするお話ですね。
茨城県水戸市在住ですが、近所に「高天原」というバス停があります。
調査してくださいね。
@@asa01053 鹿島に高天原という地名があるそうです。確か田中さんの著書の一つに、よくある町名表示の写真が載っていたはずです。地名は高天原1丁目だったはずです。
古代エジプト文明に相当する文明があって、ミトコンドリアと呼ばれたりして❤。
さすが田中先生。わかりやすい!国というのが土地ではなく、結びのかみによる結び連合であった。納得がいきます。天なる道の伝えの考え方とも繋がりますね。
現代のような国についてですが西洋も中国も国がなぜ出来たかと言うと戦争するためです。縄文時代の日本は戦争する必要が無かったのでしょう。山にも海にも食べるものは豊富で争う必要が無かったのでしょう。日本書紀でも東の方に良い土地があるらしいので見て来いと景行天皇が武内宿祢を派遣しています。
鹿島、鹿児島、教えない歴史動画ありがとうございます。
自分も2つあったほうが辻褄が合うとずっと思ってたからやっと腑に落ちた。古事記にも国譲りしたって言ってるし争うことを嫌って同化していったんやろな。それを嫌った人達は東へと戻って行ったんやろな。神代文字とか岩に刻まれてる文字が沢山神社とかに有るからね。
勉強になりました続きが楽しみです❤
日本が昔2つの国だったのは、一部では知られた話で、今回、田中先生が学術的に解明したと考えています。 愛知県の知立神社には、神武天皇の敵方のウガヤフキアエズ朝の王が祀って有り、愛・地球博の時は、古代に東西日本が衝突した場所で21世紀最初の記念すべきイベントと讃えた先生もいました。
東西で文化もイントネーションも違います。やはり二大国家。
その考察もまた面白いです。
田中英道先生を視聴し学んでします深謝申し上げます。アカホヤ噴火との関係を教えて下さい。
2つでいいのでしょうか?大和に匹敵する規模だと諏訪や越、吉備にもありましたよね。
日高見国を治めていたのが天氏系で、天=海であり、海洋民族で太陽信仰、アリューシャン列島沿いに中南米まで拡がっていた大和国を治めていたのが出雲系で、出雲=盆地であり、山師で山岳信仰、鍛治に長けていた
日高見国があったとこちらで拝見しはっとしました、飛騨地方(ひだ)には高天原は乗鞍岳を中心とした太陽神殿から始まり、そこに古代王朝があったと文献が残っています。ぜひ調べてみて下さい!
古事記を口述した稗田阿礼は、日高見国の一部であった飛騨の阿礼さんだったのではないか。阿礼の口述を太安万侶が大和王朝に都合のよいように取捨選択して編纂したのが古事記で、稗田阿礼が口伝したものはもっと膨大なものであったとか、阿礼一族の子孫が生きているとかいううわさもある。
岩手県北上市には日高見橋という橋が普通にあるえみしの古墳群である江釣子古墳群の近くには鳥海柳地区があったり、鬼柳という地名があります
発語 読み 訛り…当時でも空耳あったでしょうから口伝 書写で微妙な変化は否めませんね。今関東での発掘が熱いです。手をつけていない多摩川台古墳群もそのひとつ。西郷 殿=セゴ ドン明治時代以降でさえサイゴゥ サイゴオ セイゴ セゴ等苗字 地名読みの違いあります。日本語の柔軟さは奥深いですね。
宮内庁が古墳調査に協力的になってくれれば、古代史がもっとわかりそうなものを。
協力的になれば、というより隠蔽をやめれば、でしょうかね…
都合の悪いことがたくさんあるのでそれはない
それをしちゃうと、中国にとって大変有利な事になるから出来ないんですよ。
信濃川水系の縄文文化について田中先生に徹頭徹尾調べてほしい。火焔型土器があの近辺からしか大量出土しない理由が知りたいです。
伊邪那美(女神、水神)、火之迦具土(火之神)を祀る愛宕信仰のもとになるようなものがあったのかなと推測。縄文の女神の土偶や遮光器土偶は死んだ黄泉の国に行った伊邪那美自体だといった考察もあるし
兵庫県北部、神鍋山(火山)付近は日高と呼ばれています。出石神社(御祭神は天日鉾命)の元の漢字は伊豆志だそうで色々由来がありそうです。
サハラが砂漠化したりしたのも東北が寒冷化したのも先史と言われた時代のことですね 点が線になってほしいな
先生にお知らせします。奈良県橿原市に飛田と言う村があり、高山の方に移住したから飛田と言う名前がついたと、高山のホテルに冊子がありましたよ。
2018年末に奈良の橿原考古研究所から、奈良・中西遺跡から2400年前の最大10haを超える可能性がある日本最大級の水田遺構が発見されたと発表しています。国内から出て来た水田遺構の中でもけた外れに大きい移籍が出て来たということです。ある意味で記紀の記述を裏付けているとも言えます。古事記で言えば塩土の爺が西に豊かな土地がある。行って手に入れよう的な発言が歴史的な事実を踏まえていることの証明になっているんじゃないかと愚考する次第です。
自分は飛騨の人間です。先祖は鎌倉から記録がありますがそれ以前に長野から山を越えて移り住んだのかと思い巡らすと歴史を探索するのも楽しいです。子供たちも楽しく学べるんじゃないでしょうか
神武天皇誕生以前の事が気になっていたので、2つ国 日高見国 を知れて良かったです。また、鹿児島やその他のお話も繋がっていて興味深いです。これから少しづつ学びを深めていきたいです。
先日茂木誠先生が群馬高崎で講演なさり日高上国の事に少し触れたのですが高崎にも日高遺跡がありまして鉄鋼生産してたように思われますわりと大きな日高病院もあり金井姓が沢山おられます
大祓祝詞に高天原、豊葦原、日高見、そして方々に国ができたとあるので、かなり多くの国があり、交流があったはずです。
アイヌと蝦夷の区分と先住が良く解りました。
フタツどころか何百もの国があったのではないですか?
『古代日本には2つの国があった?』ほか先生の著書数点を興味深く読ませていただき感銘を受けております。私は2000年に定年退職後 北海道から岡山市に移住しこの地方の古代について勉強してきました。非常に初歩的なことで恐縮ですが、質問させて下さい。この地方には、大和朝廷が開かれる以前、「吉備王国」栄えた地域として捉えておりました。山陰地方の「出雲の国」と併せて、「古代日本には2つの国」との関わりから、この「吉備王国」と「出雲の国」など2つの国をどのように捉えておけば宜しいでしょうか?先生の解明された「古代日本には2つの国」 のあと、縄文・弥生時代以降に出来た国(集落)と捉えるべきなのかご指導頂けますでしょうか。
いろいろ説があるなあと楽しんでます。 私神社好きですが 卑弥呼を祀る神社がないことでその存在をまだ信じてません。また最近知りました「ホツマツタエ」偽書と言われているそうですが、内容は田中先生いわれていることと矛盾せず、逆に先生は立場がおありになる人なので、この本の事は口にできないのかな と疑っております。古事記のおかしいなと思っている点が腑に落ちていきます。古事記は皇統の正当性を言わなければなりませんので、少し矛盾する点は仕方ないのかなとは思っておりますが。
これは、小名木さんはもっと明らかに言われていますよ。そもそも、古代に統一国家などと言うモノが作れるわけがない。日本各地にそれぞれリーダーのある一団がいた。人が集まればそれを統率する人間が出て来るのは自然なことです。始めは町内会程度の規模でも、それが次第に自治体レベルになる。それが同時多発的に日本各地に出来ていたとしても何も不思議はありません。同時はそう言う集まりをどう呼ぶかなんて決まってないんですから日本国内に複数の国が存在したって何の不思議もありません。実際、家康は日本を統一はしましたが、各藩はそれぞれ財政も司法も独自採算だったそうです。
天皇という頭をいただいて幕府が全国的な統治をして各藩が独自な行政を行っていたということで、日本という一つの国であったことは間違いありませんよ。
@@山崎富雄-e2b だから、幕府なんてモノが生まれる以前から天皇はいたんですよ。神武が日本を統治する以前から全国に集団生活をしていた一族はいた。で、九州にいた一族が京都に移って起こしたのが大和朝廷。
でも江戸時代の人に、「自分は日本人だ」というアイデンティティがあったとはとても思えない。彼らにとってはクニといえば、薩摩とか長州といった単位だったはずで、せいぜい天皇と幕閣の一部でしかなかったのでは?幕末になってようやく勝海舟や島津成彬のような広い視野で日本全体を見られる人物が出てきた。日本という国があったというのは事実だが、江戸時代に近代以降のような「日本人」はいなかったと言ってもいい
そりゃあ一般民衆にまで話しを落とすと近代以前はどの国も統一国家を意識できないだろう。知識も情報も無いんだから目の前から逆算できる社会システムしかイメージできない。ただ問題は言語含めた人種の差だと感じる。例えば江戸時代に中国人やオランダ人を見たら言葉の違う別人種の外国人と認識するだろう。これが、遠く離れた藩の人達であっても言葉と見た目と文化が同じ日本人同士なら同じ人種の人と認識する。 つまり、見た目と言葉と文化と社会システムの基礎が同じである事が統一国家の元である。そのため、平安時代以降で特に江戸時代は実質的に統一国家の民族であると言える。
江戸時代は言葉と文化と社会システムが同じなら日本の民族(抽象的な意味の)だと言う意識はあったろ。オランダ人や中国人は言葉が違うから外国人で、言葉と文化が同じなら同一民族だと判断したはず
神々を作った人達、皇統を作った人達、技術で日本を発展した人達。それぞれの役割分担で豊かな国になったんだなぁと感慨深いです。
秋田県協和と言う所に唐松という神社があり代々伝わる物部(氏)という苗字の方、宮司さんがいらっしゃいます。祀っている中の一つに朝鮮から渡ってきた鏡なども祀られていることに驚きます。敷き詰められている砂利は全て丸石。社殿は縄文時代を思わせるような見事な式庭園
日高見も北上も、我々(宮城)の発音ではほぼ同一なのです。シダカミチタカミ北に上る川と言う発想は、あくまでも我々から見た南側から来た人々の目線。北上川は北から南へ流れる大河です。西高東低の歴史学が日本国の主流ゆえ、我々東北人の関心が薄くなってしまった。そもそも、教科書に出てくる歴史的遺物に触れる機会は、中学高校の修学旅行位ですからね 笑人間とて生き物ですから、寒い所から暖かい所へ移動するのが自然かと思います。これが逆転したのが特に奈良時代、黄金の発見(宮城県遠田郡涌谷町)や馬と女性であったと言う意見もあります。言うなれば欲ですね。それらの為に北上して来たと。寒い中わざわざ 笑北上川流域は正にそれらの名産地。大和人たちは文字通り北上川沿いに北上して来たのか?と感じます。近世、特に江戸時代になってからの繁栄を見せた仙台藩は、北上川を始め川を効果的に活用した治水事業展開にて発展しました。重要な交通インフラでもありました。等々、東北の歴史にはまだまだ沢山のユニークな痕跡が残っていますよ!是非遊びに来てください 笑
日本列島はかつて、欧州に例えればドイツフランススペインポルトガルくらい離れた民族意識をもつ集合体が武力や外交によって徐々に言語文化経済が統一されヤマト朝廷に統一された
私が独自で調べたものなんですけど、茨城県の日立市が有力だと推してます。・鹿島や香取の二神でも歯が立たず、倭文神武葉槌命がやっと封じ込めたとされるラスボス的存在の甕星香々背男がいたこと(君の名はのモデルになった大甕神社です!)・その大甕神社の少し北にある真弓神社周辺で日本最古の地層が発見されてること・そして、その北に行くと宇宙飛行士が見た光の柱でも有名な御岩神社(縄文時代は儀式の場だったそうです)があること・またまた、その北に行くと高天原の地名があることこれら一つの山脈から成り立っています。他に、大祭礼(72年ごとに行われる祭りで約1200年の歴史を持ってます)でも有名な東西金砂神社の御神体は、大甕の近くに現れたとか近江国の日吉神社と関わりがあるそうです!なにかの参考になれれば!
先生おっしゃることは、どうもホツマツタヱの伝えている記述と似て居ますね。
先生の貢献は本当に大きい
現代でも日本を東西に分けると、中部地方あたりが境界線になりますよね。近世まで、西には天皇がいて、東国に幕府があり...。そう考えると、日高見国があったというのも、すんなり納得できます。
今でも住みやすい関東平野。昔だってそこに手を付けないわけ無いですね。私は、天津甕星の話も絡んでくると思います。
今は遺伝子で解析されて、東北と近い遺伝子は九州だと解っている。関西中心に異なる遺伝子が多かった事も解っている。遺伝子が近い人間、歳をとってくると不思議と顔も似たような顔になってくるんだよな。
長野県にも高天原と言う地名が有りますね志賀高原に有ります・
日航123便が落ちたところが高天原であると、ネットで見た覚えがあります。
高天原という地名がが鹿島神宮の近くにありますが、高天原があるならアマテラスを祀る神社があってもよさそうに思いますが・・・。
古代は地方都市乱立っていうイメージが沸いてきました。江戸時代、鳥島に漂着した2つのグループはお互いに出くわすまで鳥島は各々自分達だけの島だった。本土の歴史も同じなんじゃ?
かつてから疑問に思ってたことが繋がってくるお話ですね。家格の差異が大きな意味を持つ東北社会と単なる本分家関係になる西日本は世界観が全く違います。まるで別の文化かなとさえ思えるほど。坂口安吾も昔、飛騨中心説を書いていますが、今回の話に関係あるのでしょうか?🤔😊
祝詞に出てくる日高見国は茨城県にあったと言われています!高天原も茨城県にありました(今も同じ地名ですがw)
鹿島神宮が冬至ライン、香取神宮が夏至ライン。太陽🌄の通り道。
茨城県日立市の御岩神社は、かつて葦原山や天香久山と呼ばれていたそうです。奈良県の橿原市の天香具山との関連があるのではないでしょうか。そして、大甕神社のカンブリア紀の岩に封印された、天津甕星こと天香々背男との音の響きも似ています。日本最古の地層の上に消された歴史が埋もれているのかもしれません。
絵巻物として残ってる最古の日の丸、蝦夷たちが乗っている船に書かれた盾の模様だったしね。アイヌ人たちは自分を北海道の先住民ていうてるけど、実際はほぼ日本の先住民なのよね
全国的に見て千葉県に貝塚が最も多いこと古墳が4番目くらいに多いことから古代から人が多く、古墳時代には豪族が多かったと考えられますね。
佐藤という名字は藤原氏の中の位の低い家と言われていますが、ほとんどが東北から関東に分布していることを考えると、藤原といっても京都の藤原氏ではなく平泉のほうの藤原氏から藤の字を取り、佐は佐殿と言われた源頼朝から取ったのではないでしょうか?開拓農民だった下層武士たちが滅んでしまった源頼朝と平泉の藤原氏を偲んで佐藤の名字を名乗ったというのが1番しっくりきます。
天日鷲(あめのひわし)の元は天日鷹(あまのひたか)鷲=大きい鷹、西日本の方言で鷲と呼び、東日本の方言で鷹と呼んでいた
九州にヤマト王朝より古い、ウガヤフキアエズ王朝もありましたよ。
九州ウガヤフキアエズ王朝から、関西ヤマト王朝に交代したんですね。
先生の講義は面白い。ただ、国という概念が日高としてあった、とは西側からの見方なのではないでしょうか
理化学研究所のゲノム情報だと関西に住んでいるのが古墳系(黄河系)要素が強いみたいで、東北に住んでいる人は北東アジアのアムール系遺伝子を多く持っていた民族で沖縄が縄文系が多いみたいですね。
関西は中国、朝鮮からの渡来人系だろ
2つどころじゃないと思う
日本の地形から見て富士山中心に北は東北・関東の集落群南は琉球・鹿児島・佐賀・福岡・熊本の集落群日本海側の島根近郊集落と四国集落九州集落群が拡大しながら北上し近畿に定着した天皇勢力が率いる大集落群が日本国家を定着させたと考えたらスッキリしますね
奈良の橿原考古研究所が奈良・中西遺跡から2400年前の推定10haを超える可能性がある日本最大級の水田遺構を発見したという発表がなされています。東京ドーム2個分を超える大きさです。又、中国の考古学を統括する国家機関から朝鮮半島の水田稲作は日本から伝わったと2016年に発表しています。このことは神武東征が歴史的事実に基づくものであることを示唆しているのではないかと思われます。少なくとも邪馬台国東征せつのは不都合な事実だと思います。
やっぱりアイヌは縄文とは関係ないんですね。とても勉強になりました。
林原チャンネルでしたっけ?あれで詳細に述べられていて、ずっと聞いていました。
鹿島に行った時、鎌足の生誕神社があると聞き自分の源流なので見に行ったことがある。鎌足が鹿島の鹿に乗り奈良の春日の地に行ったと書いてあったが ???その後談山神社にも行って、大和を作った豪族は関東から来ている事がわかった。その中で鹿島の重要な国が鹿島の児ども=鹿児島というのを知った。更に鹿島香取の日高見国の重要な国が出雲、纒向、諏訪で、約束の地大和に向い統一国家を作り上げた!出雲の国譲りや鹿児島日向の神武東征の様な話は各国にもあったらしい。
東北大学名誉教授でもある田中英道先生が日本の古代文明の解説されていますが、学校教育では教えられていない、縄文時代や、関東地方、東北地方、鹿島神宮、大和朝廷以前の日高見国のことなども話されています。日立市にも日高町もありますし、カンブリア期の地層もあります。日本の歴史を深く考えさせられる講義内容です。高市早苗さんは、天武天皇の長子高市の宮の子孫であることは他のチャンネルで話しておられました。鹿島神宮のことや郷土のこと、日本のことを深く勉強してみる必要があります。
鹿児島が鹿島の子供という説はとてもロマンがあり面白いのですが、当時の航海技術で黒潮に逆行して、関東から鹿児島に辿り着く事は可能なのでしょうか。
14:00 政府のアイヌ政策は歴史改ざんだということがよく分かりました。
むすぶ。のお話し期待です。
延喜式の大祓詞(おおはらえのことば)のなかに、『大倭日高見國を安國と定め奉りて(おおやまとひだかみのくにをやすくにとさだめまつりて)』とちゃんと記載されておりますね。当時から、日ノ本は二つの国で構成されていると云う認識があった訳ですね。日高見國とは、現在の北上川以北の東北地域の連合国家のことですね。北上川は、後世の当て字で当時は日高見川だったと推測されます。ちなみに、日本国の元となった『日ノ本』ですが、これは決まった地域の固有の地名ではなく、フロンティアと同義であって、九州から見たら大和が日ノ本、大和から見たら東国が日ノ本、東国から見たら陸奥が日ノ本になります。同じ理屈で、中華から見たらが東の小島が日ノ本だった訳ですね。
日高見国と称する国があったことは知っていましたが、その国が北上川以北の地に実存した東北地方の国家連合であった、とは全く思いがけないことで、目から鱗の感を覚えました。田中英道先生の、歴史に対する深い洞察に改めて感銘を受けた次第です。ありがとうございました。
国譲りがあったと言うことは 別な国があったと言うことですよね
国ってなに?家族、部落、地域集団、まとめる組織の存在? 縄文期に武器や戦闘の痕跡は? 住居跡に上座がない?平等?部落間に従属関係(概念)が伺える遺跡は?
縄文、弥生、邪馬台国、大和、古代日本の歴史は国土が狭いにも係わらず大部分が未知、古墳の大々的な調査と皇室秘蔵の文献資料の調査公開をすれば日本の古代史研究は解明される
賛成します。タブーにしないで徹底的に解明すればいいのに。直系男子の遺伝子解明も日本人のルーツを探る大きな鍵になるかも。
文字もなかったのに、そんなもん残ってるはずがないやろ。日本は文字という点では遅れてたんだよ。古墳だって、結構、調査はされている。でも、例えば骨なんかは見つかりにくい。土壌が酸性だから。縄文時代の骨が割と完全な形で見つかるのは、貝塚に葬られたから。貝殻の成分はアルカリ性だから、土壌が中和されて遺骨が残る。本当は天皇陵と目され、でも陵墓指定を受けてない古墳がいくつかあって、調査は普通にされてるが、あなた方が望むような決定的な?遺物なんてものは見つかっていない。酸性の土性と盗掘によって。
日高見 ひたかみ 高級鮨店に必ずおいてある日本酒銘柄です。宮城県の日本酒です。濁りません。
北上はキダカミとは言わないしな
私は帰化人の大蔵です。太宰府で役人をしていて、そこから分家したと伝わり、太宰府天満宮にお参りのたびに、近くに本家があったと言われました。後から調べてみると、分家後の室町時代の宝篋印塔を一族でお祀りしてるので、案外本当かもしれません。藩の一番の神社は太宰府天満宮の宮司の分家ですし。
あと蝦夷は愛彌詩が元とあり、元々そんなに軽く扱っていたわけでもなさそうただ、戦いを好まなかったことあり北へ追いやられたというか、自ら元の地へ還っていったのかなと考察します
長髄彦
4200年前の世界的な寒冷化でメソポタミアや長江もほとんど壊滅
一つの疑問は、千葉の方面から黒潮に逆らって九州に遠征したということです。かなりの苦労があったと思うのですが、どういう操船で可能だったのでしょうか?
旧唐書倭国伝にも、倭国と日本国の2つがあったと書かれていますしね。
彼らが日高見国を建国したのは、この地に戦(いくさ)のない平和な国(Arzareth)を作ろうとしたのでしょう。しかし、日本武尊、坂上田村麻呂と2度にわたって滅ぼされました。復活を願って奥州藤原氏がミイラとなって埋葬されたのかも知れません。即身仏が東日本に多いのもうなづけます。
函館の戸井と宮崎の都井が関係しているのではないかと、以前から気になっていました。どちらも、南に突き出した岬(函館の戸井は本州との最短距離地点)。数年前、函館の語源となった箱館の主・河野政通の子孫という方にお会いして、その後宮崎県知事・河野俊嗣さんのお顔を知り、そっくりなのにびっくりしました。北海道の日高国は、アイヌの聖地でもあります。アイヌ2大勢力の対峙する地域で、その東西対立がシャクシャインの戦いのきっかけとなりました 。先生の仰る異民族のアイヌは東の勢力で、西の方は我々縄文人と外見で区別がつきません。和人で言う関ヶ原のように、ここを境に東西の方言が違うそうです(田村すず子)。
尾張が西の終わりとはよく言いますね
田子の浦ゆうち出てみれば名城にぞ富士の高嶺に-----という歌が万葉集にあります。間違っています。
国譲りは実際は虐殺だったといいます。
日高見国は「飛騨神国」からという説があったり、高天原がどこか古代系文書文献には数通りあります。どれが正しいはそれぞれ読む人が決めればいいかなと感じます。あとアイヌ民族について先生の見解は理解しましたが、だとするとアイヌ民族の文化や言語がオホーツク由来となりますし現代に残るアイヌ由来の地名なども微妙に説明がつきません。北海道にいた縄文系の人とオホーツクの辺りから来た人の混血が現在のアイヌ民族の先祖というなら理解できますが琉球にもアイヌ由来な系統あり本州にもあり、千島、樺太、いろいろあります。それらは、全て縄文人との混血だからではないでしょうか?DNA解析すれば現代では解ることです。しかも、アイヌって言葉は「人間」という意味です
2つ。もっとたくさん
もっと有ったでしょう
古事記のどの辺に出てくるのか知りたいです
愛媛に多い飛鷹(ひだか)さんも、何か関係があるのでしょうか?
すごい名前
高天原は「たかまがはら」ではなく、「たかのあまはら」が正しい読みで唯一である。
「たかまがはら」という読みは「曲つ神(邪神)」の障りで後世作られたと聞いたことがあります。「内宮・外宮:ないくう・げくう」や「神宮:かむのみや」のように濁音が入らないのが本来の読みと言われます。「たかまがはら」は不自然すぎますね。
ホツマツタエでは天照大神はヒタカミ国のトヨケ大神(イザナミの父)のところに預けられ教育を受けています。
確かに言われるように、弥生以降に西日本で遺跡や人口が増えてはいますが、東日本で減っているかと言うとそんな事はなく東日本でも縄文晩期以降も遺跡も人口も増え、関東の遺跡数や人口は近畿とさして変わらないと思えるのですが、これはどう説明できるのでしょうか?寒冷化で西日本に移動したのであれば、東日本の遺跡や人口が減っていないと説明がつかないのではないでしょうか?また、大和朝廷の祖先が日高見国であるならば、なぜ蔑視する必要があるのでしょうか?大和朝廷以外、または以前に国を作るだけの他の勢力があった事は否定しませんが、なぜ建国神話の中で祖先を蔑視するのかが説明できないと、先生の説は成り立たないのではないでしょうか。
勝った側に都合の悪い事実は消すか捻じ曲げて歴史に織り込むのが世の常です。ちなみに記紀も何度も改ざんされているようです。偽書認定された文書たちからわかります。ウエツフミ(だったかな)には「ウガサフキアエズ王朝の系図が8代(かな?うろ覚え)しか載っていない。けしからん」とありますが、現代では1台のみ記載。
四方の國中と大倭日高見國を安國と定め奉りて。祝詞にあります。
田中先生は北海道の先住民族アイヌ民族と縄文人は別と考えておられるということがわかりました。
この人は日本史に詳しいよね
面白い見解だけど、学会では無視されるんだろうな〜。
田中先生の、新しい視点からの日本史に大変感慨深く見ております。私は千葉県出身ですが鹿島・香取の両神宮が大和からは全く独立して存在していることには昔から疑問を持っておりました。またその後山陰(境港市)に10年程住でいまして出雲の歴史にも触れ、これまでの歴史観にも多くの疑問を持っていました。所沢にも住みましたので日高見国についても興味津々です。先生の益々のご研究の成果の発表と、後継者の登場を願って止みません。
大祓の祝詞に大倭日高見国というのが出てきます。これに最初に着目したのが折口信夫です。
現東京から東へ、関東には当時江戸のお膝元が何重にも屋敷を構えて都を御守りしていた事が史跡からもよくわかりました。機会があれば是非、巡ってみると面白いかと思います
こんにちは、和多志は仙台人です。先生のこの動画を拝見し、同感致しました。現代でも何かと、東北は、置いてけぼりですよね。コンサートとか催し物が全国展開と謳っておきながら、何故か?東北をすっ飛ばして、いきなり札幌ってあるかよ💢、と思います。何か差別でもしてるのかと、ずっと思ってました。🤣。
言葉間違えてます。一人称は私ですよ。
吉里吉里人にはつらいですね。キリキリします。
非常に面白い、新しい観点で、いろいろな謎を解き明かしてくれるように思います。地理的な背景とか気候的な背景とか、広い見方が含まれており、面白いです。
面白いなぁ〜。定年してから歴史に興味を持った「理系人」ですが、白紙から考えたらとても客観的で「なるほど」って歴史観ですよね。義務教育で教える歴史は偏っているかもしれないと、最近やっと気づきました。本当に面白い!
日高見国と、大和があったとするならば、日本書紀の話の辻褄が合います。
地名に歴史の事実が見え隠れしているのが面白いです。
日立市には巨石も有ります 他の方がコメントされていますが日本最古とされる地層もあり、鉱山もあった・本当の古き書物のつながりもあるなー
ちなみに日立市には日高と言う地名あります
先生のお話をいつも拝聴し、学ばせて頂いております。ありがとうございます。
和歌山県にも日高地方がございます。
古事記、日本書紀以前の歴史とても興味があります。国譲り以前の日本海側丹後、出雲、関東の香取、鹿島神宮
一の宮を巡りながら日本の歴史に想いを馳せています。行く先々で出会う足元のスミレもその土地の歴史を知っているのだろうなあ。❤😊教えて❤
楽しい旅の思い出❤
田中教授のファンで四年前から色々と講義動画を見させて頂いてます!
戦後からの政策に思いますが、
事実を複雑化するため、東西の地名や人の移動が鏡様になってる気がします。
神社の元祀神が封印され、戦後神が祀られてる神社が多いことに切ない思いがあります。
自分は関東在住ですが、関東山奥には、アメノミナカヌシ様の神社がひっそりとあったりして、田中先生の講義が現実的にあぁ、ここは日高見国だったんだと実感しました。
鹿島生まれで香取も川向いです。非常に興味深い面白いお話です。
賛同できます。縄文時代の気候や遺跡を考えて東北や信州が人口が多いので此方が中心だったはず。
ぼんやりした関東以北の歴史イメージも明かりがともった感じがするお話ですね。
茨城県水戸市在住ですが、近所に「高天原」というバス停があります。
調査してくださいね。
@@asa01053 鹿島に高天原という地名があるそうです。確か田中さんの著書の一つに、よくある町名表示の写真が載っていたはずです。地名は高天原1丁目だったはずです。
古代エジプト文明に相当する文明があって、ミトコンドリアと呼ばれたりして❤。
さすが田中先生。わかりやすい!
国というのが土地ではなく、結びのかみによる結び連合であった。納得がいきます。天なる道の伝えの考え方とも繋がりますね。
現代のような国についてですが西洋も中国も国がなぜ出来たかと言うと戦争するためです。縄文時代の日本は戦争する必要が無かったのでしょう。山にも海にも食べるものは豊富で争う必要が無かったのでしょう。日本書紀でも東の方に良い土地があるらしいので見て来いと景行天皇が武内宿祢を派遣しています。
鹿島、鹿児島、教えない歴史動画ありがとうございます。
自分も2つあったほうが辻褄が合うとずっと思ってたからやっと腑に落ちた。古事記にも国譲りしたって言ってるし争うことを嫌って同化していったんやろな。それを嫌った人達は東へと戻って行ったんやろな。神代文字とか岩に刻まれてる文字が沢山神社とかに有るからね。
勉強になりました続きが楽しみです❤
日本が昔2つの国だったのは、一部では知られた話で、今回、田中先生が学術的に解明したと考えています。
愛知県の知立神社には、神武天皇の敵方のウガヤフキアエズ朝の王が祀って有り、愛・地球博の時は、古代に東西日本が衝突した場所で21世紀最初の記念すべきイベントと讃えた先生もいました。
東西で文化もイントネーションも違います。やはり二大国家。
その考察もまた面白いです。
田中英道先生を視聴し学んでします深謝申し上げます。
アカホヤ噴火との関係を教えて下さい。
2つでいいのでしょうか?大和に匹敵する規模だと諏訪や越、吉備にもありましたよね。
日高見国を治めていたのが天氏系で、天=海であり、海洋民族で太陽信仰、アリューシャン列島沿いに中南米まで拡がっていた
大和国を治めていたのが出雲系で、出雲=盆地であり、山師で山岳信仰、鍛治に長けていた
日高見国があったとこちらで拝見しはっとしました、飛騨地方(ひだ)には高天原は乗鞍岳を中心とした太陽神殿から始まり、そこに古代王朝があったと文献が残っています。
ぜひ調べてみて下さい!
古事記を口述した稗田阿礼は、日高見国の一部であった飛騨の阿礼さんだったのではないか。阿礼の口述を太安万侶が大和王朝に都合のよいように取捨選択して編纂したのが古事記で、稗田阿礼が口伝したものはもっと膨大なものであったとか、阿礼一族の子孫が生きているとかいううわさもある。
岩手県北上市には日高見橋という橋が普通にある
えみしの古墳群である江釣子古墳群の近くには鳥海柳地区があったり、鬼柳という地名があります
発語 読み 訛り…
当時でも空耳あったでしょうから口伝 書写で微妙な変化は否めませんね。
今関東での発掘が熱いです。手をつけていない多摩川台古墳群もそのひとつ。
西郷 殿=セゴ ドン
明治時代以降でさえサイゴゥ サイゴオ セイゴ セゴ等苗字 地名読みの違いあります。
日本語の柔軟さは奥深いですね。
宮内庁が古墳調査に協力的になってくれれば、古代史がもっとわかりそうなものを。
協力的になれば、というより隠蔽をやめれば、でしょうかね…
都合の悪いことがたくさんあるのでそれはない
それをしちゃうと、中国にとって大変有利な事になるから出来ないんですよ。
信濃川水系の縄文文化について田中先生に徹頭徹尾調べてほしい。火焔型土器があの近辺からしか大量出土しない理由が知りたいです。
伊邪那美(女神、水神)、火之迦具土(火之神)を祀る愛宕信仰のもとになるようなものがあったのかなと推測。縄文の女神の土偶や遮光器土偶は死んだ黄泉の国に行った伊邪那美自体だといった考察もあるし
兵庫県北部、神鍋山(火山)付近は日高と呼ばれています。
出石神社(御祭神は天日鉾命)の元の漢字は伊豆志だそうで色々由来がありそうです。
サハラが砂漠化したりしたのも東北が寒冷化したのも先史と言われた時代のことですね 点が線になってほしいな
先生にお知らせします。奈良県橿原市に飛田と言う村があり、高山の方に移住したから飛田と言う名前がついたと、高山のホテルに冊子がありましたよ。
2018年末に奈良の橿原考古研究所から、奈良・中西遺跡から2400年前の最大10haを超える可能性がある日本最大級の水田遺構が発見されたと発表しています。国内から出て来た水田遺構の中でもけた外れに大きい移籍が出て来たということです。ある意味で記紀の記述を裏付けているとも言えます。古事記で言えば塩土の爺が西に豊かな土地がある。行って手に入れよう的な発言が歴史的な事実を踏まえていることの証明になっているんじゃないかと愚考する次第です。
自分は飛騨の人間です。先祖は鎌倉から記録がありますがそれ以前に長野から山を越えて移り住んだのかと思い巡らすと歴史を探索するのも楽しいです。子供たちも楽しく学べるんじゃないでしょうか
神武天皇誕生以前の事が気になっていたので、2つ国 日高見国 を知れて良かったです。
また、鹿児島やその他のお話も繋がっていて興味深いです。
これから少しづつ学びを深めていきたいです。
先日茂木誠先生が群馬高崎で講演なさり日高上国の事に少し触れたのですが高崎にも日高遺跡がありまして鉄鋼生産してたように思われますわりと大きな日高病院もあり金井姓が沢山おられます
大祓祝詞に高天原、豊葦原、日高見、そして方々に国ができたとあるので、かなり多くの国があり、交流があったはずです。
アイヌと蝦夷の区分と先住が良く解りました。
フタツどころか何百もの国があったのではないですか?
『古代日本には2つの国があった?』ほか先生の著書数点を興味深く読ませていただき感銘を受けております。
私は2000年に定年退職後 北海道から岡山市に移住しこの地方の古代について勉強してきました。
非常に初歩的なことで恐縮ですが、質問させて下さい。
この地方には、大和朝廷が開かれる以前、「吉備王国」栄えた地域として捉えておりました。
山陰地方の「出雲の国」と併せて、「古代日本には2つの国」との関わりから、この「吉備王国」と「出雲の国」など2つの国をどのように捉えておけば宜しいでしょうか?
先生の解明された「古代日本には2つの国」 のあと、縄文・弥生時代以降に出来た国(集落)と捉えるべきなのかご指導頂けますでしょうか。
いろいろ説があるなあと楽しんでます。 私神社好きですが 卑弥呼を祀る神社がないことでその存在をまだ信じてません。また最近知りました「ホツマツタエ」偽書と言われているそうですが、内容は田中先生いわれていることと矛盾せず、逆に先生は立場がおありになる人なので、この本の事は口にできないのかな と疑っております。古事記のおかしいなと思っている点が腑に落ちていきます。古事記は皇統の正当性を言わなければなりませんので、少し矛盾する点は仕方ないのかなとは思っておりますが。
これは、小名木さんはもっと明らかに言われていますよ。
そもそも、古代に統一国家などと言うモノが作れるわけがない。
日本各地にそれぞれリーダーのある一団がいた。人が集まればそれを統率する人間が出て来るのは自然なことです。始めは町内会程度の規模でも、それが次第に自治体レベルになる。それが同時多発的に日本各地に出来ていたとしても何も不思議はありません。
同時はそう言う集まりをどう呼ぶかなんて決まってないんですから日本国内に複数の国が存在したって何の不思議もありません。
実際、家康は日本を統一はしましたが、各藩はそれぞれ財政も司法も独自採算だったそうです。
天皇という頭をいただいて幕府が全国的な統治をして各藩が独自な行政を行っていたということで、日本という一つの国であったことは間違いありませんよ。
@@山崎富雄-e2b だから、幕府なんてモノが生まれる以前から天皇はいたんですよ。
神武が日本を統治する以前から全国に集団生活をしていた一族はいた。
で、九州にいた一族が京都に移って起こしたのが大和朝廷。
でも江戸時代の人に、「自分は日本人だ」というアイデンティティがあったとはとても思えない。彼らにとってはクニといえば、薩摩とか長州といった単位だったはずで、せいぜい天皇と幕閣の一部でしかなかったのでは?
幕末になってようやく勝海舟や島津成彬のような広い視野で日本全体を見られる人物が出てきた。
日本という国があったというのは事実だが、江戸時代に近代以降のような「日本人」はいなかったと言ってもいい
そりゃあ一般民衆にまで話しを落とすと近代以前はどの国も統一国家を意識できないだろう。知識も情報も無いんだから目の前から逆算できる社会システムしかイメージできない。
ただ問題は言語含めた人種の差だと感じる。例えば江戸時代に中国人やオランダ人を見たら言葉の違う別人種の外国人と認識するだろう。これが、遠く離れた藩の人達であっても言葉と見た目と文化が同じ日本人同士なら同じ人種の人と認識する。 つまり、見た目と言葉と文化と社会システムの基礎が同じである事が統一国家の元である。そのため、平安時代以降で特に江戸時代は実質的に統一国家の民族であると言える。
江戸時代は言葉と文化と社会システムが同じなら日本の民族(抽象的な意味の)だと言う意識はあったろ。オランダ人や中国人は言葉が違うから外国人で、言葉と文化が同じなら同一民族だと判断したはず
神々を作った人達、皇統を作った人達、技術で日本を発展した人達。それぞれの役割分担で豊かな国になったんだなぁと感慨深いです。
秋田県協和と言う所に唐松という神社があり代々伝わる物部(氏)という苗字の方、宮司さんがいらっしゃいます。
祀っている中の一つに朝鮮から渡ってきた鏡なども祀られていることに驚きます。
敷き詰められている砂利は全て丸石。社殿は縄文時代を思わせるような見事な式庭園
日高見も北上も、我々(宮城)の発音ではほぼ同一なのです。
シダカミ
チタカミ
北に上る川と言う発想は、あくまでも我々から見た南側から来た人々の目線。北上川は北から南へ流れる大河です。
西高東低の歴史学が日本国の主流ゆえ、我々東北人の関心が薄くなってしまった。そもそも、教科書に出てくる歴史的遺物に触れる機会は、中学高校の修学旅行位ですからね 笑
人間とて生き物ですから、寒い所から暖かい所へ移動するのが自然かと思います。
これが逆転したのが特に奈良時代、黄金の発見(宮城県遠田郡涌谷町)や馬と女性であったと言う意見もあります。言うなれば欲ですね。それらの為に北上して来たと。寒い中わざわざ 笑
北上川流域は正にそれらの名産地。大和人たちは文字通り北上川沿いに北上して来たのか?と感じます。
近世、特に江戸時代になってからの繁栄を見せた仙台藩は、北上川を始め川を効果的に活用した治水事業展開にて発展しました。重要な交通インフラでもありました。
等々、東北の歴史にはまだまだ沢山のユニークな痕跡が残っていますよ!是非遊びに来てください 笑
日本列島はかつて、欧州に例えればドイツフランススペインポルトガルくらい離れた民族意識をもつ集合体が武力や外交によって徐々に言語文化経済が統一されヤマト朝廷に統一された
私が独自で調べたものなんですけど、茨城県の日立市が有力だと推してます。
・鹿島や香取の二神でも歯が立たず、倭文神武葉槌命がやっと封じ込めたとされるラスボス的存在の甕星香々背男がいたこと(君の名はのモデルになった大甕神社です!)
・その大甕神社の少し北にある真弓神社周辺で日本最古の地層が発見されてること
・そして、その北に行くと宇宙飛行士が見た光の柱でも有名な御岩神社(縄文時代は儀式の場だったそうです)があること
・またまた、その北に行くと高天原の地名があること
これら一つの山脈から成り立っています。
他に、大祭礼(72年ごとに行われる祭りで約1200年の歴史を持ってます)でも有名な東西金砂神社の御神体は、大甕の近くに現れたとか近江国の日吉神社と関わりがあるそうです!
なにかの参考になれれば!
先生おっしゃることは、どうもホツマツタヱの伝えている記述と似て居ますね。
先生の貢献は本当に大きい
現代でも日本を東西に分けると、中部地方あたりが境界線になりますよね。近世まで、西には天皇がいて、東国に幕府があり...。
そう考えると、日高見国があったというのも、すんなり納得できます。
今でも住みやすい関東平野。昔だってそこに手を付けないわけ無いですね。私は、天津甕星の話も絡んでくると思います。
今は遺伝子で解析されて、東北と近い遺伝子は九州だと解っている。関西中心に異なる遺伝子が多かった事も解っている。遺伝子が近い人間、歳をとってくると不思議と顔も似たような顔になってくるんだよな。
長野県にも高天原と言う地名が有りますね志賀高原に有ります・
日航123便が落ちたところが高天原であると、ネットで見た覚えがあります。
高天原という地名がが鹿島神宮の近くにありますが、高天原があるならアマテラスを祀る神社があってもよさそうに思いますが・・・。
古代は地方都市乱立っていうイメージが沸いてきました。
江戸時代、鳥島に漂着した2つのグループはお互いに出くわすまで鳥島は各々自分達だけの島だった。
本土の歴史も同じなんじゃ?
かつてから疑問に思ってたことが繋がってくるお話ですね。家格の差異が大きな意味を持つ東北社会と単なる本分家関係になる西日本は世界観が全く違います。まるで別の文化かなとさえ思えるほど。
坂口安吾も昔、飛騨中心説を書いていますが、今回の話に関係あるのでしょうか?🤔😊
祝詞に出てくる日高見国は茨城県にあったと言われています!高天原も茨城県にありました(今も同じ地名ですがw)
鹿島神宮が冬至ライン、香取神宮が夏至ライン。太陽🌄の通り道。
茨城県日立市の御岩神社は、かつて葦原山や天香久山と呼ばれていたそうです。奈良県の橿原市の天香具山との関連があるのではないでしょうか。そして、大甕神社のカンブリア紀の岩に封印された、天津甕星こと天香々背男との音の響きも似ています。日本最古の地層の上に消された歴史が埋もれているのかもしれません。
絵巻物として残ってる最古の日の丸、蝦夷たちが乗っている船に書かれた盾の模様だったしね。アイヌ人たちは自分を北海道の先住民ていうてるけど、実際はほぼ日本の先住民なのよね
全国的に見て千葉県に
貝塚が最も多いこと
古墳が4番目くらいに多いことから
古代から人が多く、古墳時代には豪族が多かったと考えられますね。
佐藤という名字は藤原氏の中の位の低い家と言われていますが、ほとんどが東北から関東に分布していることを考えると、藤原といっても京都の藤原氏ではなく平泉のほうの藤原氏から藤の字を取り、佐は佐殿と言われた源頼朝から取ったのではないでしょうか?
開拓農民だった下層武士たちが滅んでしまった源頼朝と平泉の藤原氏を偲んで佐藤の名字を名乗ったというのが1番しっくりきます。
天日鷲(あめのひわし)の元は天日鷹(あまのひたか)
鷲=大きい鷹、西日本の方言で鷲と呼び、東日本の方言で鷹と呼んでいた
九州にヤマト王朝より古い、ウガヤフキアエズ王朝もありましたよ。
九州ウガヤフキアエズ王朝から、関西ヤマト王朝に交代したんですね。
先生の講義は面白い。ただ、国という概念が日高としてあった、とは西側からの見方なのではないでしょうか
理化学研究所のゲノム情報だと関西に住んでいるのが古墳系(黄河系)要素が強いみたいで、東北に住んでいる人は北東アジアのアムール系遺伝子を多く持っていた民族で沖縄が縄文系が多いみたいですね。
関西は中国、朝鮮からの渡来人系だろ
2つどころじゃないと思う
日本の地形から見て富士山中心に北は東北・関東の集落群
南は琉球・鹿児島・佐賀・福岡・熊本の集落群
日本海側の島根近郊集落と四国集落
九州集落群が拡大しながら北上し近畿に定着した天皇勢力が率いる大集落群が
日本国家を定着させたと考えたらスッキリしますね
奈良の橿原考古研究所が奈良・中西遺跡から2400年前の推定10haを超える可能性がある日本最大級の水田遺構を発見したという発表がなされています。東京ドーム2個分を超える大きさです。又、中国の考古学を統括する国家機関から朝鮮半島の水田稲作は日本から伝わったと2016年に発表しています。このことは神武東征が歴史的事実に基づくものであることを示唆しているのではないかと思われます。少なくとも邪馬台国東征せつのは不都合な事実だと思います。
やっぱりアイヌは縄文とは関係ないんですね。とても勉強になりました。
林原チャンネルでしたっけ?あれで詳細に述べられていて、ずっと聞いていました。
鹿島に行った時、鎌足の生誕神社があると聞き自分の源流なので見に行ったことがある。
鎌足が鹿島の鹿に乗り奈良の春日の地に行ったと書いてあったが ???
その後談山神社にも行って、大和を作った豪族は関東から来ている事がわかった。
その中で鹿島の重要な国が鹿島の児ども=鹿児島というのを知った。
更に鹿島香取の日高見国の重要な国が出雲、纒向、諏訪で、約束の地大和に向い統一国家を作り上げた!
出雲の国譲りや鹿児島日向の神武東征の様な話は各国にもあったらしい。
東北大学名誉教授でもある田中英道先生が日本の古代文明の解説されていますが、学校教育では教えられていない、縄文時代や、関東地方、東北地方、鹿島神宮、大和朝廷以前の日高見国のことなども話されています。日立市にも日高町もありますし、カンブリア期の地層もあります。日本の歴史を深く考えさせられる講義内容です。高市早苗さんは、天武天皇の長子高市の宮の子孫であることは他のチャンネルで話しておられました。鹿島神宮のことや郷土のこと、日本のことを深く勉強してみる必要があります。
鹿児島が鹿島の子供という説はとてもロマンがあり面白いのですが、当時の航海技術で黒潮に逆行して、関東から鹿児島に辿り着く事は可能なのでしょうか。
14:00 政府のアイヌ政策は歴史改ざんだということがよく分かりました。
むすぶ。のお話し期待です。
延喜式の大祓詞(おおはらえのことば)のなかに、『大倭日高見國を安國と定め奉りて(おおやまとひだかみのくにをやすくにとさだめまつりて)』とちゃんと記載されておりますね。
当時から、日ノ本は二つの国で構成されていると云う認識があった訳ですね。
日高見國とは、現在の北上川以北の東北地域の連合国家のことですね。
北上川は、後世の当て字で当時は日高見川だったと推測されます。
ちなみに、日本国の元となった『日ノ本』ですが、これは決まった地域の固有の地名ではなく、フロンティアと同義であって、九州から見たら大和が日ノ本、大和から見たら東国が日ノ本、東国から見たら陸奥が日ノ本になります。
同じ理屈で、中華から見たらが東の小島が日ノ本だった訳ですね。
日高見国と称する国があったことは知っていましたが、その国が北上川以北の地に実存した東北地方の国家連合であった、とは全く思いがけないことで、目から鱗の感を覚えました。
田中英道先生の、歴史に対する深い洞察に改めて感銘を受けた次第です。ありがとうございました。
国譲りがあったと言うことは 別な国があったと言うことですよね
国ってなに?
家族、部落、地域集団、まとめる組織の存在? 縄文期に武器や戦闘の痕跡は? 住居跡に上座がない?平等?部落間に従属関係(概念)が伺える遺跡は?
縄文、弥生、邪馬台国、大和、古代日本の歴史は国土が狭いにも係わらず大部分が未知
、古墳の大々的な調査と皇室秘蔵の文献資料の調査公開をすれば日本の古代史研究は
解明される
賛成します。タブーにしないで徹底的に解明すればいいのに。直系男子の遺伝子解明も日本人のルーツを探る大きな鍵になるかも。
文字もなかったのに、そんなもん残ってるはずがないやろ。
日本は文字という点では遅れてたんだよ。
古墳だって、結構、調査はされている。
でも、例えば骨なんかは見つかりにくい。
土壌が酸性だから。
縄文時代の骨が割と完全な形で見つかるのは、貝塚に葬られたから。
貝殻の成分はアルカリ性だから、土壌が中和されて遺骨が残る。
本当は天皇陵と目され、でも陵墓指定を受けてない古墳がいくつかあって、調査は普通にされてるが、あなた方が望むような決定的な?遺物なんてものは見つかっていない。
酸性の土性と盗掘によって。
日高見 ひたかみ 高級鮨店に必ずおいてある日本酒銘柄です。宮城県の日本酒です。濁りません。
北上はキダカミとは言わないしな
私は帰化人の大蔵です。太宰府で役人をしていて、そこから分家したと伝わり、太宰府天満宮にお参りのたびに、近くに本家があったと言われました。後から調べてみると、分家後の室町時代の宝篋印塔を一族でお祀りしてるので、案外本当かもしれません。藩の一番の神社は太宰府天満宮の宮司の分家ですし。
あと蝦夷は愛彌詩が元とあり、元々そんなに軽く扱っていたわけでもなさそう
ただ、戦いを好まなかったことあり北へ追いやられたというか、自ら元の地へ還っていったのかなと考察します
長髄彦
4200年前の世界的な寒冷化でメソポタミアや長江もほとんど壊滅
一つの疑問は、千葉の方面から黒潮に逆らって九州に遠征したということです。かなりの苦労があったと思うのですが、どういう操船で可能だったのでしょうか?
旧唐書倭国伝にも、倭国と日本国の2つがあったと書かれていますしね。
彼らが日高見国を建国したのは、この地に戦(いくさ)のない平和な国(Arzareth)を作ろうとしたのでしょう。しかし、日本武尊、坂上田村麻呂と2度にわたって滅ぼされました。復活を願って奥州藤原氏がミイラとなって埋葬されたのかも知れません。即身仏が東日本に多いのもうなづけます。
函館の戸井と宮崎の都井が関係しているのではないかと、以前から気になっていました。どちらも、南に突き出した岬(函館の戸井は本州との最短距離地点)。数年前、函館の語源となった箱館の主・河野政通の子孫という方にお会いして、その後宮崎県知事・河野俊嗣さんのお顔を知り、そっくりなのにびっくりしました。
北海道の日高国は、アイヌの聖地でもあります。アイヌ2大勢力の対峙する地域で、その東西対立がシャクシャインの戦いのきっかけとなりました 。先生の仰る異民族のアイヌは東の勢力で、西の方は我々縄文人と外見で区別がつきません。和人で言う関ヶ原のように、ここを境に東西の方言が違うそうです(田村すず子)。
尾張が西の終わりとはよく言いますね
田子の浦ゆうち出てみれば名城にぞ富士の高嶺に-----という歌が万葉集にあります。間違っています。
国譲りは実際は虐殺だったといいます。
日高見国は「飛騨神国」からという説があったり、高天原がどこか古代系文書文献には数通りあります。
どれが正しいはそれぞれ読む人が決めればいいかなと感じます。
あとアイヌ民族について先生の見解は理解しましたが、だとするとアイヌ民族の文化や言語がオホーツク由来となりますし
現代に残るアイヌ由来の地名なども微妙に説明がつきません。
北海道にいた縄文系の人とオホーツクの辺りから来た人の混血が現在のアイヌ民族の先祖というなら理解できますが
琉球にもアイヌ由来な系統あり本州にもあり、千島、樺太、いろいろあります。
それらは、全て縄文人との混血だからではないでしょうか?DNA解析すれば現代では解ることです。
しかも、アイヌって言葉は「人間」という意味です
2つ。もっとたくさん
もっと有ったでしょう
古事記のどの辺に出てくるのか知りたいです
愛媛に多い飛鷹(ひだか)さんも、何か関係があるのでしょうか?
すごい名前
高天原は「たかまがはら」ではなく、「たかのあまはら」が正しい読みで唯一である。
「たかまがはら」という読みは「曲つ神(邪神)」の障りで後世作られたと聞いたことがあります。「内宮・外宮:ないくう・げくう」や「神宮:かむのみや」のように濁音が入らないのが本来の読みと言われます。「たかまがはら」は不自然すぎますね。
ホツマツタエでは天照大神はヒタカミ国のトヨケ大神(イザナミの父)のところに預けられ教育を受けています。
確かに言われるように、弥生以降に西日本で遺跡や人口が増えてはいますが、東日本で減っているかと言うとそんな事はなく東日本でも縄文晩期以降も遺跡も人口も増え、関東の遺跡数や人口は近畿とさして変わらないと思えるのですが、これはどう説明できるのでしょうか?
寒冷化で西日本に移動したのであれば、東日本の遺跡や人口が減っていないと説明がつかないのではないでしょうか?
また、大和朝廷の祖先が日高見国であるならば、なぜ蔑視する必要があるのでしょうか?大和朝廷以外、または以前に国を作るだけの他の勢力があった事は否定しませんが、なぜ建国神話の中で祖先を蔑視するのかが説明できないと、先生の説は成り立たないのではないでしょうか。
勝った側に都合の悪い事実は消すか捻じ曲げて歴史に織り込むのが世の常です。
ちなみに記紀も何度も改ざんされているようです。偽書認定された文書たちからわかります。ウエツフミ(だったかな)には「ウガサフキアエズ王朝の系図が8代(かな?うろ覚え)しか載っていない。けしからん」とありますが、現代では1台のみ記載。
四方の國中と大倭日高見國を安國と定め奉りて。祝詞にあります。
田中先生は北海道の先住民族アイヌ民族と縄文人は別と考えておられるということがわかりました。
この人は日本史に詳しいよね
面白い見解だけど、学会では無視されるんだろうな〜。