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高科先生、本日もありがとうございます。物心ついた頃から、なんまんだぶが身近にありました。なんまんだぶは、幸せになる呪文でもなければ、難を逃れる魔法の言葉でもありません。なんまんだぶは、心からの叫び、いえ、そう言わずにはいられない感謝と喜びの現れとなっているものだと感じています。良くも悪くもなんまんだぶ。全てを頂き、糧として生きる、それがなんまんだぶではないでしょうか?南無阿弥陀仏。合掌。
難しいお話しありがとうございました。あっちこっちに答えを探しフラフラしてる弟子に「頭が付いてるのに、なぜ頭を探すのだ?もう一つ頭を乗せようというのか?」と皮肉った師匠の話を思い出していました。先生のおっしゃる通り、その時に最適だと思った答えも、他人から学び、自身の成長でひっくり返ってゆきます。私もこの動画に(先生に)出会うまで思い切り勘違いをしていました(知ってるつもりになっていました)自分の出した答えをひっくり返すために、他人から学び、自身の成長を続けてゆかねばと思いました。ありがとうございました。
「ひとえに親鸞一人がためなりけり」歎異抄。私のための本願でありましたね。南無阿弥陀仏
ちゃんとちゃんとの味の素やね、😂ちゃんとやね😅
生きるのが憂鬱です。生きながら死んでると、思っています…何を考えて解決すればいいですか?
「働かざる者食うべからず」正直、耳が痛いです私は訳あって社会からドロップアウトしました私が主演の映画は、どうやらバッドエンドのようですそれでも救われるのかしら南無阿弥陀
念仏では無理です。
ひこひこ様ご視聴、コメントありがとうございます。「働かざる者食うべからず」である!と言うお話をいたしておるわけではございません。逆であります。人は、働かなくても食べなければ生きて行くことが出来ない者であり、また、その『生きる』は、他の命を奪っての『生きる』であるという事実への、自分自身の自覚のお話であります。その自覚こそが、『ありがとう』と『ごめんなさい』の表裏一体の『南無阿弥陀仏』であるのです。社会からドロップアウトしても、しなくても、他の命を奪って自分の命を生きながらせている事実はかわりません。故に…私たちは、どんなに苦しくても、どんなに辛くても、悲しくても、寂しくても、自分のその時が来るまで生きていなくてはならないのです。私自身がいつも胸に刻み、反芻している言葉があります。何気なく過ごした私の今日は…昨日亡くなった人が、生きたいと思った明日である!お釈迦様も、親鸞聖人も、ある意味、『何気なく過ごした私の今日は…昨日亡くなった人が、生きたいと思った明日である!』との自覚を、自らの、何があっても生きる!という覚悟に結びつけております。その覚悟が、お釈迦様や親鸞聖人ご自身の『救い』となっておられます。生老病死の私の人生を、七転八倒しながら生きて行くしかないとの頷きを、南無阿弥陀仏と浄土真宗は呼んでおります。出来るなら、ひこひこ様に南無阿弥陀仏の思いが届きますことを、切に願わずにはいられません。南無阿弥陀仏合掌高科修
ありがとうございます。
高科先生、本日もありがとうございます。
物心ついた頃から、なんまんだぶが身近にありました。
なんまんだぶは、幸せになる呪文でもなければ、難を逃れる魔法の言葉でもありません。
なんまんだぶは、心からの叫び、いえ、そう言わずにはいられない感謝と喜びの現れとなっているものだと感じています。
良くも悪くもなんまんだぶ。
全てを頂き、糧として生きる、それがなんまんだぶではないでしょうか?
南無阿弥陀仏。合掌。
難しいお話しありがとうございました。
あっちこっちに答えを探しフラフラしてる弟子に「頭が付いてるのに、なぜ頭を探すのだ?もう一つ頭を乗せようというのか?」と皮肉った師匠の話を思い出していました。
先生のおっしゃる通り、その時に最適だと思った答えも、他人から学び、自身の成長でひっくり返ってゆきます。私もこの動画に(先生に)出会うまで思い切り勘違いをしていました(知ってるつもりになっていました)
自分の出した答えをひっくり返すために、他人から学び、自身の成長を続けてゆかねばと思いました。
ありがとうございました。
「ひとえに親鸞一人がためなりけり」歎異抄。私のための本願でありましたね。南無阿弥陀仏
ちゃんとちゃんとの味の素やね、😂ちゃんとやね😅
生きるのが憂鬱です。
生きながら死んでると、思っています…
何を考えて解決すればいいですか?
「働かざる者食うべからず」正直、耳が痛いです
私は訳あって社会からドロップアウトしました
私が主演の映画は、どうやらバッドエンドのようです
それでも救われるのかしら
南無阿弥陀
念仏では無理です。
ひこひこ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
「働かざる者食うべからず」である!と言うお話をいたしておるわけではございません。
逆であります。
人は、働かなくても食べなければ生きて行くことが出来ない者であり、また、その『生きる』は、他の命を奪っての『生きる』であるという事実への、自分自身の自覚のお話であります。
その自覚こそが、『ありがとう』と『ごめんなさい』の表裏一体の『南無阿弥陀仏』であるのです。
社会からドロップアウトしても、しなくても、他の命を奪って自分の命を生きながらせている事実はかわりません。
故に…私たちは、どんなに苦しくても、どんなに辛くても、悲しくても、寂しくても、自分のその時が来るまで生きていなくてはならないのです。
私自身がいつも胸に刻み、反芻している言葉があります。
何気なく過ごした私の今日は…
昨日亡くなった人が、生きたいと思った明日である!
お釈迦様も、親鸞聖人も、ある意味、『何気なく過ごした私の今日は…
昨日亡くなった人が、生きたいと思った明日である!』との自覚を、自らの、何があっても生きる!という覚悟に結びつけております。
その覚悟が、お釈迦様や親鸞聖人ご自身の『救い』となっておられます。
生老病死の私の人生を、七転八倒しながら生きて行くしかないとの頷きを、南無阿弥陀仏と浄土真宗は呼んでおります。
出来るなら、ひこひこ様に南無阿弥陀仏の思いが届きますことを、切に願わずにはいられません。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
ありがとうございます。