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関東戦国史の講義設けてくださーい🙌🏻
結城合戦の解説 ありがとうございます。結城市内に捕らえられた春王丸、安王丸を偲んで城下の人々が建てた地蔵尊があります。
大変おもしろい動画をありがとうございます。 当方、看聞御記に記された、足利義嗣の嫡子(6歳)であった、一色直明の末孫です。私は、永享の乱、結城合戦、大和永享の乱、嘉吉の乱には一つのつながりがあると仮説を立てています。いずれの乱にも、反足利義教の元三管領・四織家などの守護大名に関係する動きがあります。永享の乱のとき、足利持氏には、一色直兼・時家・直明親子、一色長兼と子の持家、そして上杉憲直親子が従がっていました。そして、足利持氏・一色直兼・直明親子、一色長兼上杉憲直親子は永享の乱で亡くなりますが、鎌倉を出奔した一色持家(刑部大輔)は三河守護の一色義貫の領内、豊川の牛窪に一色城を築きます。また、一色時家(伊予守)は、武蔵国内で反乱を起こし、結城城の落城で捕えられます。この時、結城城内には足利春王丸・安王丸・一色直明(実父:足利義嗣)の娘、三男一色直清・四男其阿が捕えられ、京に連行され、途中の美濃国の金連寺で足利持氏の遺児2人が殺され、一色直明の娘と其阿の2人は、金連寺で持氏の遺児2人を弔うべく、残り、褐食となり、後に同寺の和尚と尼になります。一色直清(7歳)が京に連行された時は、足利義教は、嘉吉の乱で赤松親子と足利直冬の孫足利義尊に殺された後でしたので、処分保留のまま3年の間、押し込めとなります。その4年後、元服を迎えた一色直清(14歳)は、幕臣として、九州に下向。 彼が関東に戻るのは五代鎌倉公方足利成氏の、江の島合戦の後、一色長兼の幸手領を相続し、鎌倉公方に帰属したと考察しています。(幸手一色氏系譜より)また、大和永享の乱(1440)で、四織家の一色義貫と土岐?が足利義教の命で、大将として大和の越智氏を討伐する軍幕の中で足利義教の命を受けた代官武田某により、謀殺されます。関東では結城合戦で、関東の公方がたが籠城する中でのことです。そして翌年、京の赤松亭での結城合戦の戦勝祝いの席に呼ばれた足利義教も、赤松氏に謀殺されます。豊川の関東方の一色持家は、駿河守護の今川領を抜けて豊川に城を築いたのであれば、伊勢半国・尾張知多・三河の守護でもあった一色義貫に守られたといえ、結果として一色持家は、同族の今川氏・吉良氏にも守られたといえます。そして、越智氏と一色義貫、美濃国守護の土岐?、尾張国守護の斯波氏、駿河守護の今川氏。京では赤松氏。彼らは反足利義教派であり、赤松氏を京に残して、他が結城城を囲む、上杉軍を囲むようなことが、足利持氏の遺命であったとしたら、足利義教の後の将軍は、足利春王丸であったのかも、しれませんよ。 実は、細川以外の三管領、斯波氏、畠山氏も反足利義教だったのかもしれませんね。一色持家・一色時家に託した、足利持氏の遺命。これにより、持家は駿河守護の今川領を抜け、三河守護代一色義遠から、京の四織、一色義貫へ援軍を要請、一色義貫は幕府内の赤松・土岐、山名、斯波、畠山、大和の越智氏など、その他反足利義清派の守護大名と手を組み、室町御所を取り囲むと同時に、関東軍に援軍を差し向ける。 関東に残る一色時家は、足利春王丸・安王丸を日光山に、永寿王丸(後の5代鎌倉公方、足利成氏)を信濃に隠し、関東の鎌倉公方方の守護・地頭を勢力に、結城合戦を起こす。関東の幕府軍(上杉軍・今川軍)を囲み、今川軍は、打ち合わせどうりに寝返り、上杉軍を責める。籠城して、上杉軍を引き付けていた結城場内から、関東軍が弓を射かけ押し出す計画であったが、この動きが足利義教に、もれていた。 しかし義教は、事の処理を誤り、事を大きくすると反義教派に京にて、将軍の御所が囲まれてしまうので、大和永享の乱の越智氏討伐に向かわせた一色・土岐の両大将を、だまし討ちにすることで、反足利義清派に、睨みをきかせたので、結城合戦は籠城のみで、無益な合戦となり、落城した。尾張知多の大興寺(一色範氏の菩提寺)の一色家の系譜では、時家は直兼の子(伊予守)、持家(刑部大輔・左京助)は長兼の子として、記されています。一色持家と時家は、実は別人なんです。
関東戦国史めっちゃおもしろいっす!
地元住民ですが、わからなかったことが、理解できました(゚-゚)
享徳の乱のカオスっぷりは好き
イチコメ、毎日楽しく拝見させていただいております。
関東戦国史の講義設けてくださーい🙌🏻
結城合戦の解説 ありがとうございます。結城市内に捕らえられた春王丸、安王丸を偲んで城下の人々が建てた地蔵尊があります。
大変おもしろい動画をありがとうございます。 当方、看聞御記に記された、足利義嗣の嫡子(6歳)であった、一色直明の末孫です。
私は、永享の乱、結城合戦、大和永享の乱、嘉吉の乱には一つのつながりがあると仮説を立てています。
いずれの乱にも、反足利義教の元三管領・四織家などの守護大名に関係する動きがあります。
永享の乱のとき、足利持氏には、一色直兼・時家・直明親子、一色長兼と子の持家、そして上杉憲直親子が従がっていました。
そして、足利持氏・一色直兼・直明親子、一色長兼上杉憲直親子は永享の乱で亡くなりますが、鎌倉を出奔した一色持家(刑部大輔)は
三河守護の一色義貫の領内、豊川の牛窪に一色城を築きます。
また、一色時家(伊予守)は、武蔵国内で反乱を起こし、結城城の落城で捕えられます。この時、結城城内には足利春王丸・安王丸・一色
直明(実父:足利義嗣)の娘、三男一色直清・四男其阿が捕えられ、京に連行され、途中の美濃国の金連寺で足利持氏の遺児2人が殺され、
一色直明の娘と其阿の2人は、金連寺で持氏の遺児2人を弔うべく、残り、褐食となり、後に同寺の和尚と尼になります。
一色直清(7歳)が京に連行された時は、足利義教は、嘉吉の乱で赤松親子と足利直冬の孫足利義尊に殺された後でしたので、処分保留の
まま3年の間、押し込めとなります。その4年後、元服を迎えた一色直清(14歳)は、幕臣として、九州に下向。 彼が関東に戻るのは
五代鎌倉公方足利成氏の、江の島合戦の後、一色長兼の幸手領を相続し、鎌倉公方に帰属したと考察しています。(幸手一色氏系譜より)
また、大和永享の乱(1440)で、四織家の一色義貫と土岐?が足利義教の命で、大将として大和の越智氏を討伐する軍幕の中で足利義教の
命を受けた代官武田某により、謀殺されます。関東では結城合戦で、関東の公方がたが籠城する中でのことです。
そして翌年、京の赤松亭での結城合戦の戦勝祝いの席に呼ばれた足利義教も、赤松氏に謀殺されます。
豊川の関東方の一色持家は、駿河守護の今川領を抜けて豊川に城を築いたのであれば、伊勢半国・尾張知多・三河の守護でもあった一色義貫
に守られたといえ、結果として一色持家は、同族の今川氏・吉良氏にも守られたといえます。
そして、越智氏と一色義貫、美濃国守護の土岐?、尾張国守護の斯波氏、駿河守護の今川氏。京では赤松氏。彼らは反足利義教派であり、
赤松氏を京に残して、他が結城城を囲む、上杉軍を囲むようなことが、足利持氏の遺命であったとしたら、足利義教の後の将軍は、
足利春王丸であったのかも、しれませんよ。 実は、細川以外の三管領、斯波氏、畠山氏も反足利義教だったのかもしれませんね。
一色持家・一色時家に託した、足利持氏の遺命。これにより、持家は駿河守護の今川領を抜け、三河守護代一色義遠から、京の四織、一色義貫
へ援軍を要請、一色義貫は幕府内の赤松・土岐、山名、斯波、畠山、大和の越智氏など、その他反足利義清派の守護大名と手を組み、室町御所
を取り囲むと同時に、関東軍に援軍を差し向ける。 関東に残る一色時家は、足利春王丸・安王丸を日光山に、永寿王丸(後の5代鎌倉公方、
足利成氏)を信濃に隠し、関東の鎌倉公方方の守護・地頭を勢力に、結城合戦を起こす。関東の幕府軍(上杉軍・今川軍)を囲み、今川軍は、
打ち合わせどうりに寝返り、上杉軍を責める。籠城して、上杉軍を引き付けていた結城場内から、関東軍が弓を射かけ押し出す計画であっ
たが、この動きが足利義教に、もれていた。 しかし義教は、事の処理を誤り、事を大きくすると反義教派に京にて、将軍の御所が囲まれてし
まうので、大和永享の乱の越智氏討伐に向かわせた一色・土岐の両大将を、だまし討ちにすることで、反足利義清派に、睨みをきかせたので、
結城合戦は籠城のみで、無益な合戦となり、落城した。
尾張知多の大興寺(一色範氏の菩提寺)の一色家の系譜では、時家は直兼の子(伊予守)、持家(刑部大輔・左京助)は長兼の子として、
記されています。
一色持家と時家は、実は別人なんです。
関東戦国史めっちゃおもしろいっす!
地元住民ですが、わからなかったことが、理解できました(゚-゚)
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