県内の炭鉱閉山から50年 “最後の炭鉱”で働いた男性の記憶【佐賀県】 (23/03/08

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ความคิดเห็น • 6

  • @manabu2625
    @manabu2625 ปีที่แล้ว +8

    私が高校生の時に北方の杵島炭鉱が閉山してましたね
    大町なども徐々に人口減少して寂しくなってましたね

  • @fd3s336
    @fd3s336 ปีที่แล้ว +6

    つい先週、福岡県大牟田市にある三池炭鉱へ行ってきました😆当時は皆さん坑内の現場作業の方が給料が良かったため、危険ですがそちらを選ぶ方が多かったそうです。歴史と、当時の日本のために働いた方々の努力を勉強してきました。
    佐賀にも有名な炭鉱ありましたね!多久市にも行ってみます✨

  • @b1p0s2wn
    @b1p0s2wn ปีที่แล้ว +2

    40代後半です。地元(唐津市南部)にいる頃は親に炭坑の様子を聞いたことはあったけれども、写真や映像や遺構を目にする機会はなく、インターネットが普及した2000~2010年代でもほとんど情報がなかったです。今ではこうやってサガテレビで取り上げてくださったり、唐津駅に旧産炭地の地図が置いてあったり、ブロガーやTH-camrが訪れてくれて誇らしい産業があったんだなと思えるようになりました。

  • @ytg1123
    @ytg1123 ปีที่แล้ว +4

    うちの親父は火薬類取扱保安責任者をしており昭和42年迄明治佐賀に居ました。4組3交代なので四人の甲種火薬免許所有者が必要なのですが、親父の居る最後の頃は二人しか居なかった。なので、二人で3交代勤務。給料は凄く良かったらしい。火薬庫管理業務は発破方にダイナマイトを受け渡しするだけなので暇で年中火薬庫で寝てたらしい。火薬庫は地下に人車と言う小型電車で行くらしい。昭和42年頃はもう閉山目前だったので多くの人が日産トヨタ新日鐵などの再就職先に旅立つ親子が多かった。近くは北九州、そして大阪名古屋神奈川等に散らばった。私は中学2年だったが神奈川に家族で引っ越した。
    さて、1945年敗戦後、生き残り戦地から命だけを抱えた若者が、職を求め九州に集まった。そこで、家族を持ち 昭和40年代迄一家を構えるので有る。
    昭和30年代 まだ幼かったが明治佐賀のおじさんたちは優しく カッコよく勇ましかった。あれはいつ頃だったか旦那の有る奥様と若い炭鉱労働者が仲良くなりついにはダイナマイト心中をした事件が有った。確かあれは杵島炭鉱の火薬類取扱保安責任者だったが、深夜、うちの親父を訪ねてきた。当時ダイナマイトは一本も無かった事にし盗まれた事を隠したいとの事、それでダイナマイト10数本を雷管と共に親父は預かった。翌日 親父はそのダイナマイトをポキポキ折って畑に巻いた。翌年畑の葡萄とか蜜柑が凄いよくできた。雷管は中身を取り出して灰皿の上で燃やした。私はそばで見ていたので有る。
    戦地帰りの血気に溢れる山の男たちは、よく喧嘩もしていたが、基本的には良い人たちだったなあ。
    昭和40年位の頃は小学校では遠くに転校する人が多かった、悲しい別れが毎月の様に有った。西多久の小中学校が多久町の小中学校と合併し多少は小中学校も賑わいを見せた事もあった。 明治佐賀にあった社宅は今は無くなっているのだろうか?、炭鉱の大きなお風呂は楽しかったなあ。病院もあったし。
    明治佐賀は大正時代生まれの血気盛んなおじさん等の戦場だった。既に皆様、鬼籍の住人。私も今年で70歳、いつまでも忘れられない心の故郷。

    • @梅香-u6u
      @梅香-u6u ปีที่แล้ว +3

      多久市は炭坑町でしたね、唱和40年頃から閉山し皆さん関西方面に引っ越しされる方が多かったように思います。あなたのコメントを見て故郷がなつかしくなりました。

  • @ytg1123
    @ytg1123 9 หลายเดือนก่อน

    このアナウンサー 川浪さんと言うんだね!ひょっとしたら親戚かもしれない。うちの家内が川浪だよ