経緯はともかく、wo の発音を表す文字があると現代の我々にとって便利だ。 カタカナで文章書く習慣も遠のいたことだし、ワ行のカタカナを w や v の音として復活させて、「ヲーター」とか「ヰンドウズ」とか「ヷ(ワ゛)イオリン」とか書かせて欲しい。ヤ行同様の小書きも使えると「ス(ヰ)ーツ」みたいな書き方も出来てシンプルになる。私個人のアイディアではなく明治期に実際に用例もあるし、拡張仮名遣いとしてなんとかなりませんか……。
Perhaps some of the old obsolete Kana characters were used to denote grammatical structures. を/wo pronounced o is used to indicate the accusative/direct object while は/ha pronounced wa is used to indicate the topic or for emphasis. Have you investigated the Okinawa language on various island dialects which arose from the Japonic language group to see if and how を is used & pronounced? I hear that Okinawan language retained some features of Old Japanese.
1739年のゴンザ資料も「ヲ」助詞はしっかり「ВО」(キリル文字でウォ)と書かれています。語頭の場合は、例えば「居って」は歴史的には「をって」だが「очче」(オッチェ)となっています。現に、新スラヴ日本語辞典には「ВО」の章は建ててあらず、全て「О」に納まっています。薩摩出身の漂流者二人とロシア人が協力して作った資料で、発音通りに書かれています。 17世紀中の、韓国人による捷解新語(しょうかいしんご)という作品は、拙いひらがなと、ハングルとで書かれていて、ハ助詞を「わ」(ハングルで「와」)とし、ヲ助詞や語頭のヲを「お」(ハングルで「오」)としています。訳官になろうとしている人の勉強のために書かれた資料で、おおむね発音通りに書かれています。 キリシタン資料の日本大文典では、w音をあまり強く発音しすぎないようにとの注意があります。次の通りです。 「また、ある人は、Va・Voを子音のように発音しているが、これはほとんど母音のように発音すべきものである。そういう理由からして、Vôzaca・VômuraなどのようにVoで始まる語をヨーロッパ人が書く場合には、母音であるかのようにOzaka・Omuraなどと書いた方がよい。」 また、1906年に出版されたMacCauley氏のAn Introductory Course to Japaneseには、 「At the beginning of a word, ヲ wo invariably drops its w sound. (中略) As a particle, ヲ wo retains its w sound.」 (語頭では、ヲは例外なくそのw音が脱落します。助詞としては、ヲはそのw音を維持する) とあります。 ご参考までに。
通りかかった韓国人です。 独学で日本語を学んでいるのですが、「お」を「O」で「を」を「WO」で読むと知っていました。 (映像に出るように日本語キーボードの使い方を習っていて偶然に分かるようになりました。)ところが実際に日本の方々が言うことを聞いてみたら人それぞれのようで混乱したがこのように説明を聞いて良いですね。 有益な映像ありがとうございます。(まだ漢字の読み書きができなくて翻訳機を使いました。 翻訳がうまくいくといいですね。)
静岡県出身です🤚
静岡では助詞の「を」を「wo」と発音するのが普通で、
所属していた放送部で「を」は「o」と発音するのが標準語だと教えられました。
昭和生まれの東京山手育ちです。
まだワープロやパソコンなんてなかった時代。周囲で"を"を"wo"と発音していた人、結構いましたよ。
"を"を"wo"と発音するのが普通だと思ってた。
私の場合、現在では「お」も「を」も"o"と発音します。無区別です。
ただ、小1の担任の指導では「『を』は『ぅお"wo"』と、発音しなさい」と指導された記憶があります。それゆえに、20年近くは区別して発音してました。
当該の担任は他にも「横組みの文章では『読点』は使わずに、『カンマ(,)』を使用すること」だったり、「ひらがなに長音符号を組み合わせてはいけない」など、日本語の文法にクセがある指導が多い印象でした。
投稿、ありがとうございます。
愛媛では、woですね
愛媛出身のアーティスト、スーパーフライは
愛wo込めて花束wo〜って歌っていますよね
私は、多分江戸初期までの語中の「ウォ」の発音が現代にも残ったのではないかと考えています。
かをり(香り)
あを(青)
とを(十)
これらの「を」が「オ」と発音されるのは、この音が強調されることがほとんどないので、弱まってしまったのだと思います。一方、助詞の「を」は発話中強調されることが多いので、特に強調するときには「ウォ」となりやすいのではないか、ということです。
だから、もし助詞「を」を「お」と書くようになっていたとしても、「ウォ」と発音する人は今と同じぐらいいたのではないか、と推測しています。
『手*を*開く』の*を*(音価)と、『サダヲのヲは*ヲ*だよ!』って言うときの*ヲ*(文字の名前)が混ざって議論されてるからややこしくなってますよねこの問題。
後者の意味でウォと読んでる人はそこそこ居るけど、前者は流石にほぼ居ないような。
後者は自分なら「Sadao no o ha wo dayo!」とかいう理不尽な言い方をしそうだなあ
文字と発音が一致してないのがコンセンサスだっていう前提で話しちゃうかも。
ここのコメント欄見て,「を」を"wo"と発音している人が多くてびっくりしました。
私には”wo”と"o"の発音を区別する能力がないためか,今までそんな発音の違いに気づきませんでした。
小学校の英語のローマ字の授業で,先生から「パソコンで”wo”と書くのは”ワ行”だから」と教わったのでそれ以上ないもんだと思っていました。
たまに人の名前に”を”が入っていることを伝えるときにはオーバーに"wo"の発音をしますが,それ以外のときに自分らの世代(20代前半)で発音を区別している人っているのでしょうか?
助詞が助詞だとわかりやすいからではないでしょうか?
を→助詞だとわかる
は、へ→h,fは語中にはあまり現れないから(ハ行転呼)、助詞だとわかりやすい
日本語学の講義取ったとき山口ら辺では「を」をwoと発音している地域あると聞いたけど逆に「お=を=wo」になった時代のまま残ってた方言が後学で「お」の方が矯正された説
素人考えすぎるか
関西出身だけど子供の頃(80年代)からたまに「wo」派がいて気になってました。
普段は「o」なのに本読みの時だけ「wo」にする子もいて、一度気になるとずっと気になるから正直やめてほしかったw
巷でこの話題は取り上げられるとき、
1. 通常の文脈の文中の「を」の発音
2. 文中で「を」を強調して読んだときの発音
3. 「を」1文字だけを読むときの発音
4. 「を」という文字の名前(または「お」と区別するための呼称)
が曖昧なまま話されているように思えるのが気になるところです。
どれを想定しているかで変わってきそうですし、話者の内省に対するバイアスも否定できません。
また「「を」は /wo/ と習った」という話の中には 4. の話が一定数混ざっているのではと言う気もします。
国語研の過去の方言分布調査では多くの地点で「を」を /o/ と言っているようなので、ちゃんと言語学的に妥当な方法で収集された最新の統計が見てみたいものです。
他の方のコメントで思い出しましたが、
5. 歌唱等における発音
というのもありましたね。
わたし自身小学校の音楽の授業で、歌では /wo/ や /ŋ/ を適宜使うように指導された記憶があります。
私は「鼻濁音」が聞き分けられない
なんで誰でも区別出来て当然みたいに言われてるんだろうと思ってたけど
生まれ育った地方の方言が、鼻濁音の存在しない方言だったらしい
「こんにちわ」って書かれてるのと同じような感覚ってことだったんでしょうかね。
経緯はともかく、wo の発音を表す文字があると現代の我々にとって便利だ。
カタカナで文章書く習慣も遠のいたことだし、ワ行のカタカナを w や v の音として復活させて、「ヲーター」とか「ヰンドウズ」とか「ヷ(ワ゛)イオリン」とか書かせて欲しい。ヤ行同様の小書きも使えると「ス(ヰ)ーツ」みたいな書き方も出来てシンプルになる。私個人のアイディアではなく明治期に実際に用例もあるし、拡張仮名遣いとしてなんとかなりませんか……。
Perhaps some of the old obsolete Kana characters were used to denote grammatical structures.
を/wo pronounced o is used to indicate the accusative/direct object while は/ha pronounced wa is used to indicate the topic or for emphasis.
Have you investigated the Okinawa language on various island dialects which arose from the Japonic language group to see if and how を is used & pronounced? I hear that Okinawan language retained some features of Old Japanese.
(加えて)の意味で文書に(なを)と書いたら(なお)に修正されたし、「を」の発音も「wo」と当たり前のように読んでいた。
五十音も、ら行の「yi」・「ye」・わ行の「wi」・「wu」・「we」・「wo」と発音。
京都市出身なので、昔し学校で受けた発音の旧仮名遣いオプションが染み付いているのですかね。
酒井法子と森口博子がテレビで歌う時に「お」を「を」と発音していました。
私は北国出身なので強烈に記憶していたのですが、もしかして「を」の発音を温存している地域、
すなわち方言に「を」の発音が保存されているのではないでしょうか。知らんけど。
→福岡県
勉強になりました!ありがとうございます!!😊 (頭の中の謎のループ:ヲォトコ😮 )
4:11の図ではヰとヱもヤ行に書かれていますね。
待ってました!
それで言い争うの教養あるなw
普通に会話する時は「を」は「o」で発音するけど、「を」単体で言う時は「wo」って発音するかも
先生「“を”はwoだけど、oって教えるように指導要綱に書いてあるのよ〜」
はちあさん、お待ちしてました〜🎉 いつか、古事記や日本書紀の神様の名前を当時の音で教えていただきたいと思っています。あと、古い時代の民族や苗字も音を教えてください。よろしくお願いします。
南方で日本語を教えるとなると、戦前のアニメーション「桃太郎 海の神兵」の「アイウエオの歌」を思い出す
このことより、何故日本人はワの発音はできるのにウィやウェの音は無いのか?
日本語でツァ行の音は何故ツ以外のツァツィツェツォの音が無いのか?
そういうことが知りたいな
1739年のゴンザ資料も「ヲ」助詞はしっかり「ВО」(キリル文字でウォ)と書かれています。語頭の場合は、例えば「居って」は歴史的には「をって」だが「очче」(オッチェ)となっています。現に、新スラヴ日本語辞典には「ВО」の章は建ててあらず、全て「О」に納まっています。薩摩出身の漂流者二人とロシア人が協力して作った資料で、発音通りに書かれています。
17世紀中の、韓国人による捷解新語(しょうかいしんご)という作品は、拙いひらがなと、ハングルとで書かれていて、ハ助詞を「わ」(ハングルで「와」)とし、ヲ助詞や語頭のヲを「お」(ハングルで「오」)としています。訳官になろうとしている人の勉強のために書かれた資料で、おおむね発音通りに書かれています。
キリシタン資料の日本大文典では、w音をあまり強く発音しすぎないようにとの注意があります。次の通りです。
「また、ある人は、Va・Voを子音のように発音しているが、これはほとんど母音のように発音すべきものである。そういう理由からして、Vôzaca・VômuraなどのようにVoで始まる語をヨーロッパ人が書く場合には、母音であるかのようにOzaka・Omuraなどと書いた方がよい。」
また、1906年に出版されたMacCauley氏のAn Introductory Course to Japaneseには、
「At the beginning of a word, ヲ wo invariably drops its w sound. (中略) As a particle, ヲ wo retains its w sound.」 (語頭では、ヲは例外なくそのw音が脱落します。助詞としては、ヲはそのw音を維持する)
とあります。
ご参考までに。
@マツモニキ どうでしょう。外国人には昔から聞こえたり聞こえなかったりしたと見受けます。そのw音が一度消えて、歴史的仮名遣いの廃止以後に再びできたというのは事情を簡略化しすぎているように思われます。
私見ですが、
①平安時代に、「を」と「お」、また語中末の「ほ」の発音が合流したのは、表記などによって裏付けられるので、事実でしょう。長年、「お=を=ほ」という意識があったのでしょう。
②その後、語頭の発音はどうであれ、語中末のオ音素(ヲ助詞を含む)は、2通りに発音できたかと。例えば「アオ」と「アゥオ」。大文典の言うように、ヨーロッパ言語ほど強いwではないでしょう。
③上の事情とは関係なく、江戸時代中に、歴史的資料の調査により、ヲ文字は学識ある人によってワ行に位置付けられます。にも拘らず、以前の事情は維持されるでしょう。
④しかし、ヲ文字のワ行に属するという意識が強くなります。ヲ文字はw音を無くした、という考え方が出るようになります。ヲ文字と「ウォ」という発音が ある程度 関連付けられることになります。
⑤仮名遣いの改定により、「を=お」という意識がいっそう強くなります。また、逆に、ヲ助詞のみ「を」と書くのが目立つので、ヲ助詞と「ウォ」という発音が新たに関連付けられます。
⑥その関連付け自体は、現代的・近代的なものでしょうが、昔からの事情②は、変わっていないはずです。ただ、五十音図や現代仮名遣いなどの新たな意識により、その事情が新たに解釈されただけかもしれません。
ザ行のジとダ行のヂは区別してる?
ヤ行のヱとア行のエは区別できるのに、ヤ行の井とア行のイはごっちゃになってる気がする
Oが一旦WOに変わり、更にOに戻ったと言うことですか?WOがOに変わることはありそうですが、OがWOに変わることは、有りそうには思い難いです。何故このような変化が起きるのでしょうか?
経歴としてどれが正しいとは言いませんが、似た例に「ばあい」が「ばわい」や「ばやい」となることがありますね。
@@nickpatella1525 発音しにくい方に変化することも有るのですね?
概於包含“先漢(西漢)”前的使用到所謂漢字的語彙文言文,還不是歸屬基於漢語系的詞序語法。
最初,在先以有更大比例語彙多音節、一音多詞性的東亞西與西南、南的藏緬語系;東亞西與西北、北到東北的阿爾泰語系;南亞到東南亞往東、北(組成日琉祖語之一)的南島語系;南亞往東與北的孟高棉語系(分支古越語從越南往北進入東亞大陸東南)等的亞洲週邊各部原始泛黃種民族主語系,在遷徙進入東亞大陸匯聚競合逐鹿到中原下,從未知的發展出所謂甲骨文起源進而發展形成到用一字一音一意組成的詞彙文字利於東亞大陸諸國政權溝通形容表示的全漢字詞義語彙語法使用。從東亞大陸歷代各國中央集權封建政體統治需要的主導推波,由上層廣為使用到也成為底層所用的歷代過程期間,在普遍全面使用所謂漢字為主的區域下,對發展已使用全漢字語法語彙區域的各部原始原住民族語言也相當程度的被取代而消亡。文明文化交流從來不會是單向的,在受漢字系統回流到週邊文明民族使用形成所謂的漢字圈,自然在使用相當漢字或創字也以其民族語言解釋下來的自有對應用音用法。
在台灣所謂漢化的接受使用全漢字圈下,要更有利推廣台語為主流同時,就要有所區別取代的在本質抽根改變現在部分所謂漢字彙的普通話發音,改回以與韓(包含古諺文方言)、日古民族遺留或所解釋音下來漢字詞彙發音同台語相近的為台灣正體字的台灣正音,取代近代中國定調北京官話正音來的字彙發音。
中國歷史尤以所謂的秦朝為例歷史,是非常仰賴吃重“史記”的從而推敲出來的大中華脈絡本位歷史。在現今中國大陸版圖內可以輕易的變造出符合大中華文明歷史本位脈絡的歷史考古研究工程,更不用說將歷來多手每代本位脈絡考量需要而修撰補遺註記下來到無法公開或以假亂真再版的原始古籍記載文本,透過大中華本位脈絡意識需要的將之整理過的成電子資料文件呈現在現今發達的網絡資訊給受眾。例所謂大明當代陳第的“東番記”是於1959年時年47歲的方豪,概以所略聞杜撰復刻仿史。
高句麗、百濟、新羅長期以來被兩韓視為本族古國,所以韓國史上有三國時代的分期。近年中國在大中華民族主義文明脈絡本位下不再視高句麗為朝鮮國家,反而大力宣揚高句麗乃古代中國治下的一個少數民族地方政權,故其民族和歷史應歸屬於中國,並著手透過所謂歸屬的東北考古、基因等的歷史研究工程來建構強化此論點。
所謂的閩粵祖譜是偽譜;台灣的所謂漢制祖譜並不是由外來殖民對積俗統稱所謂漢人的來台開基祖傳下來的,而是後來有人信以為真按址前去認親帶回來的,並帶回禮儀規矩,使關係愈來愈逼真,至今對大中華民族祖脈信仰早已就如同宗教團體信徒的對感恩Seafood讚嘆Seafood的信仰根深蒂固一般。
中國百姓在明嘉靖十五年(1536)年以後才被准許祭拜四代之前的祖先,把他們寫入祖譜,因此上溯漢唐宋名人甚至炎黃的,明代之前的中國祖譜都是有假造誤差。蓋宋代之前的族譜是官修的,私修族譜極少,直到明代民間修譜的風氣才開始,到清代因受雍正2年頒行的康熙《聖諭廣訓》「修族譜以明疏遠」的號召而大盛,甚至有人把不修族譜看作是「有違聖祖仁皇帝(康熙)敦孝悌、篤宗族之訓」。基因研究早已確認,福建、廣東人都是百越民族的後代,是自古從漢制的皇朝帝國以中原漢譜名人祖譜與堂號消滅了越族。
清帝國實施堅壁清野的戰術對山東、江蘇、浙江、福建、廣東等地實施海禁,禁止人民跑到台灣,同時畫界遷民,在沿海地區的住民強制要遷到界內,並築界墻、立界石,派兵戌守,若越界則殺無赦。
現今在基於有利大中華歷史脈絡下,中國已在淡化明、清國東南沿海的海倭泛濫與海禁的政策歷史,另外近年也強調提出所謂東洋海倭為中國東南而來的假倭等的歷史。
包括在最新的國際合作的基因研究結果裡,中國復旦基因研究有一定影響的主導中國大陸的基因樣本與推論,更以歸屬漢人定義為主的主脈擴展到週邊。
縱觀中國歷史,添加註釋或修改和操縱前代歷史記錄的做法一直存在,往往在有利於當前朝代包括現今中國的歷史版本。
結論!
みんな違って!! み ん な い い !!!
外地人への日本語教育では歴史的仮名遣を教えるのが難しいから現代かなづかいを教えていたらしいですよ
文化審議会が, ことしに ローマ字の かきかたを 考えなおすようです.
ローマ字は しっかり “o” と かくようなので, 安心です.
しかし せっかくの 現代かなづかいは, せっかくの 近代化できる チャンスだったのに, 中途半端になってしまい, ザンネンです.
いま, これが 日本語学習の さまたげとなり, 国際化が はばまれてしまっています.
福建本土裡所謂閩南語的最基本語彙第一人稱“我”語源音來自日語“wa”-
日語はい(hai):應答詞的“是!”意,從江戶時代(1603-1868年)開始使用,在此時代前的武士階級使用はっ(ha,促音っ本身沒有發音),庶民使用へい(hey)或へー(hei)(在台語同樣有用hè、hè-a、hè-lah音表示應答“是”、“對”的回應),而後融合成はい(hai)主要在平民使用,武士階級在正式場合回答仍然是はっ(ha)。明治維新後的日本軍隊也沿用了はい(hai)。はっ(ha)根據語調會成為感嘆詞,表達詢問或懷疑的意思;はっ(ha)?當聽不懂對方在說什麼時,要反問對方而使用,或聽不懂對方的話,不得不反問時使用的詞語。如同在台語用蛤(ha)?音。因此,在武士階層以來所用ha同時有轉發為ho音用,同樣表示“是!”,在台語也使用ho為"好“音表示“是、好的”應答。
뭐 ?(mwo,什麼?、什麼!?)。“嘸”有驚訝、驚詫意境,在台語“嘸mwo”用義常見為通無(沒有)、連詞(要不然)或延伸為語助詞的使用:看kua攏"嘸"、"嘸"看kua到tioh、“嘸”你是昧按抓?、“嘸”啊,今啊系蝦密情形?、 幹呢X,“嘸”利系勒公灑曉!?、啊“嘸”利系勒看kua沙小!?
韓語的먹자 meogja:一起吃飯吧。在台語的“蒙呷”音則是偏向向對方或一起的表示加減、多少、將就吃的用法。
在接觸同時將當下身邊或手邊食物向對方分享的表示:자 ja, 먹자 meogja, 자 ja(這,吃吧,來)。原始底層東夷音源語彙的引導感嘆詞“자 ja”,在台語用為當下對人事物以形容的表示:“這ja”李歡喜、抵“這ja”、”這ja“嗷喔、wi"這ja”過、“這ja”大叢,等用法。從未知接觸的底層基於食物需求引導,台語是基於台語語法的也同時延伸用為“吃”的“呷ja”音用。
쪽팔려 jjogpallyeo:表示“自己很尷尬”(唉唷就見笑的就派勢誒)。在台語的表示我“很”怎樣、我“好”怎樣的台語語源是表示方向一方的쪽jjog音:我“jjog”見笑欸、你“jjog”靠北欸。
바다에 bada-e:在海裡。在台語形容人頭腦“頭殼壞去”的“趴代趴代”的語源。
鮮卑語後裔(概西元317-581年間影響到7世紀中)使用突厥語彙所解釋漢字音的拓拔(鮮卑)裔突厥(大唐皇朝都域已使用漢字系統的突厥語族政權),古突厥語彙:be部族首領;伯peh(台語)、qïmbaq金箔;金箔kim-po̍h(台語)、bi分開;裂pit(台語)、sïqi四至;四至sì-tsì/tì(台語土地範圍術語),台語另用為sì-kè四界(到處、處處)、古突厥語“ɑŋlɑ-”是理解、明白;台語表示安撫應肯的“安啦”音用源、likʐir曆日;日子li̍t-tsí(台語)、tuq纛(旗、旌旗);tō纛(台語意是旗幟邊邊的裝飾)。
西元660年大唐在韓半島與新羅聯合發動了對百濟的攻擊,最終百濟首都泗沘被攻陷,663年8月大唐軍於白江口又大敗倭國(日本)與百濟之聯軍,百濟的故土被大唐和新羅瓜分,百濟義慈王與其子(夫餘豐)王室貴族以及一萬多名百濟平民被大唐擄至河洛一帶的洛陽(現今中國河南洛陽),另有一批百濟貴族則逃往日本。
目前已知最早期東洋倭寇在1370年到1390年的部分高麗賤民群體,亦有純由朝鮮人組成的倭寇集團。1387年明國因東南沿海長年海盜倭寇為患,追勦無功,澎湖反成盜寇巢穴,明國因此厲行「墟地徙民」政策,將福建、浙江、廣東沿海三地的瀕海岸地區與近海諸島上所有居民及所剿佔澎湖上的住民(遷往福建)強迫遷入內地居住,島嶼居民全數淨空。
1602年東洋倭寇以高砂(台灣)為巢穴,1617年(明萬曆四十五年)成員複雜沒有國族歸屬的東洋海盜海商集團,與平埔族群在主要據地範圍的東蕃竹萋港(今台灣新竹縣)曾與剿倭入侵的大明軍發生戰役。福建沿海岸地區在歷代帝國疆域自古以來就是邊陲地帶,在更迭至明、清帝國下這個海濱地區歷經迫遷、招撫,百姓除了來源早已未必是古閩原始居民,同時也不會自稱為漢人。 Laurent Sagart(1951年生於巴黎),法國漢學家。東亞語言研究中心 (CRLAO - UMR 8563) 的成員,他是法國國家科學研究中心的研究主任(已榮譽退休),在西元2008年提出 Kra-Dai 是Formosan ancestor of Tai-Kadai的後期形式,南島語的一個分支,屬於在臺灣發展起來的Puluqic 群的南島語分支,其使用者在西元前3千年後半期左右遷徙回東亞大陸,包括廣東、海南和越南北部。 在他們到達這個地區後,他們與未知的群體進行了語言接觸,導致了FATK詞彙的部分再同化。
基於其假說並保守的有別於其假說,所謂閩南語是由包括台灣根據地的倭寇海盜、海商集團遷往福建沿海濱地區一帶,在延伸形成局部較強勢的政權主導勢力下匯流趨同。
出生於日本的鄭成功,在1652年以福建沿海其中福州為主的駐地,是以海商海盜集團勢力與清帝國對峙談判,不是以所謂打著反清復明的南明勢力。日治時期台灣各地平埔族群也曾發起更名為東寧族的社會運動。
所謂華夏文明的起源是中國向來以中原天朝自居下,視週邊外族夷狄蠻戎等人類在遷徙逐鹿東亞大陸內陸(包括被歷代中原帝國所征擄而落葉中原的夷國都域文明遺族)匯聚競合大鍋炒後才能幹出來的。東夷鮮卑融群在逐鹿中原是貢獻了東亞大陸文明,大抵是高麗半島與東北亞大陸、日本群島融群的前融底定分別出大和、高麗之名民族的前身。
部分由古日、韓(含非現代首爾話標準語的方言)民族所遺留語彙與解釋下來所謂漢字詞彙發音的同台語:不而過put-lî-kò(韓音:geuligo,在韓是"此外、還有"的意思,台灣則是“不過、然而、但是”意)、我(日語的私Watashi的 wa,在上古日語“我”發音使用“wa”和“wata”,上古指在奈良時代的西元710-794年及其以前)。哪do (日語的哪裡:どこdoko)、你(니 li,韓國南部方言音)、親自(韓音:jim-jo。台灣在用音用義皆為斟酌jim-jo)、南無觀世音菩(韓)。
台語與日語互通音:味、好、世界、了/瞭解、振、道、神、死、國家、武器、魔、聯絡、散步、演示、白、夜、戰、實、人類、殺氣、毒、實戰、緊急、雜、車、健康、州、由、治療、誤解、刀、首、水源、王、機械、西、將軍、天才、戰車、要求、獎金、態度、誤解、友、偏見、優秀、天界、時間、結果、上、覺、報酬、感謝、賞金、島民、簡單、收納siu-la̍p/lok(日音:収納Shūnō)、現在hiān-tsāi(Genzai)、撤收thiat-siu(日音:撤収Tesshū)、守備、意識、注意、殘忍、溫度、開始(Kaishi)、良心(Ryōshin)、實在(実際Jissai)、任務、鄰國(隣国Ringoku)、理解、研究gián-kiù(研究Kenkyū)。屬於上代日語語源的純用漢字以一字一音表記下來的用“支”(無義)來表記為日語的“キ” ki音(將“支”用於表記為キki音,在西元250-592年的古墳時代到710-794年奈良時代期間,後作シ,しshi),台語的支(也作tsi)、枝皆用gi音。支持tsi-tshî(しじ支持shiji)、土(日本原住民阿伊努語單字型式的土Toy-Toy)。
台語與韓語互通音:土產(토산품tosanpum土產品的토산tosan)、特產(특산물teugsanmul特產物的특산teugsan)、動物tōng-bu̍t(동물dongmul)、監督(감독gamdog)、己(gi)、暫時、準備、回答、毒、壽、世、陣(jin)、兵、接、孤、高(go)、麗、時辰、統軍、節、度、避、千、人質、真正、臣、時間、陷、軍紀、南京、辱、分明、征服、簡單、出征、援軍、勇氣、服、汁、學(hag)、報、步、職員、聽、道理、本、令、戶、徵、慘、直接、犧牲、真心、乞丐、志、粉、種(jon)、監視、速度、失禮、始(si)、終(jon)、合嘴ha̍p-tshuì(韓語有使用合嘴habchwi表示為閉嘴)、縛起來ba-kiai(古諺文方言)、虎、布、都市、記者、證據tsìng-kù(韓音:증거 jeunggeo)、參考、阿爸、技術、疆、家屬、旗(깃발gisbal的깃gi)、印鑑(인감ingam)、家具、運動、龍、危機(위기wigi)、機會(기회gihoe)、現在(台語的tsìn-má)、滿足buán-tsiok(만족manjog)...。
大約在1930年代後期才出現所謂“閩南語”一詞,其語獨立性在皇朝當代不能與其他方言對談,與操清北京官話(後來普通話)者更全然無法理解,清國常以筆談溝通。在擔任巡視臺灣(1722-1724年)監察御史一職的順天府大興縣(今屬北京市)人黃叔璥,在其所撰之《臺海使槎錄》一書的記載臺灣道習俗的章節中表示:郡中鴃舌鳥語,全不可曉。如劉呼澇、陳呼澹、莊呼曾、張呼丟。余與吳侍御兩姓,吳呼作襖,黃則無音,厄影切,更為難省。
1852年劉家謀的《海音詩》:「耗擲饔飧百口糧,如山狼籍不堪償;傷財翻被居財誤,浪說紅龜是吉祥。吉凶事,皆用「紅龜粿」;臺語「龜」若「居」,取「居財」之意也。每用,常數百箇;其棄之也如泥沙,暴殄甚矣。」 *居ku
助詞の「を」を「wo」で発音するのが当たり前すぎて、「o」と発音する派閥があることのほうが衝撃でした。
話している最中にはwが脱落してしまっていることがあるかもしれませんが、気持ちとしてはwoと発音しているつもりです。
「o」と発音される人にきっと会ったことがあり、聞いたこともあるのでしょうが、違和感を持ったことがないので、聞き分けられてはいないのだと思います。
もちろんことさら一字を取り上げて発音する場合もwoです。
ただ、「サダヲ」のような場合には、oと読むものだと思ってそのように発音しています。「ラヂヲ」を「ラジオ」と読むのと同じ感覚です。
いまだに“を”をwoで発音する人に会ったことない。
いるさっ ここにひとりな!!
むしろ自分の周りは「wo」と発音する方が一般的だし、小学校でもそう習った
会った事が有るか無いかもわからない
区別しない側にとってはどっちも同じで、区別して発音されてもこっちの耳が同じものとして聞いちゃう
次は「い」と「ゐ」と「ヰ」の解説お願いします!
「ヰ」に関しては、漢字だけど、ア行なのかワ行なのかわかりません。
ヰはゐの片仮名です。漢字ではありません。
@@田中舘
そういうのも含めて勘違いしてたりするから解説動画欲しいのです
縱觀中國歷史,添加註釋或修改和操縱前代歷史記錄的做法一直存在,往往在有利於當前朝代包括現今中國的歷史版本。
包含在文學的將某代區域文明文載在某代後世反倒以翻譯、註釋、補遺等詮釋文載文本留了下來。
不少大中華道統典型㲍佬系統尤以習以中國歷史文學哲學向來是畫蛇添足畫餅充饑以假亂真的偽古文尚書。
中國歷史尤以所謂的秦朝為例歷史,是非常仰賴吃重“史記”的從而推敲出來的大中華脈絡本位歷史。在現今中國大陸版圖內可以輕易的變造出符合大中華文明歷史本位脈絡的歷史考古研究工程。
中國最新推出的秦朝考古簡帛,是推論的洗白秦始皇,其中還提到焚書坑儒燒的主要包含是其他列國的史書,可見自古中原皇朝是輕易的能基於本位的消滅當代東亞大陸各國民族與真相歷史,改變歷史脈絡。
中國在近年所謂中華民族復興主軸下,才復刻的拼湊起歷代皇朝帝國文藝與裝飾,尤其反倒從日、韓古裝服飾中拼湊出來。
韓語的먹자 meogja:一起吃飯吧。在台語的“蒙呷”音則是偏向向對方或一起的表示加減、多少、將就吃的用法。
在接觸同時將當下身邊或手邊食物向對方分享的表示:자 ja, 먹자 meogja, 자 ja(這,吃吧,來)。原始底層東夷音源語彙的引導感嘆詞“자 ja”,在台語用為當下對人事物以形容的表示:“這ja”李歡喜、抵“這ja”、”這ja“嗷喔、wi"這ja”過、“這ja”大叢,等用法。從未知接觸的底層基於食物需求引導,台語是基於台語語法的也同時延伸用為“吃”的“呷ja”音用。
쪽팔려 jjogpallyeo:表示“自己很尷尬”(唉唷就見笑的就派勢誒)。在台語的表示我“很”怎樣、我“好”怎樣的台語語源是表示方向一方的쪽jjog音:我“jjog”見笑欸、你“jjog”靠北欸。
바다에 bada-e:在海裡。在台語形容人頭腦“頭殼壞去”的“趴代趴代”的語源。
大唐被歷史紀錄到的風氣榮景也僅在核心都域都城。
鮮卑語後裔(概西元317-581年間影響到7世紀中)使用突厥語彙所解釋漢字音的拓拔(鮮卑)裔突厥(大唐皇朝都域已使用漢字系統的突厥語族開唐政權),古突厥語彙:be部族首領;伯peh(台語)、qïmbaq金箔;金箔kim-po̍h(台語)、bi分開;裂pit(台語)、sïqi四至;四至sì-tsì/tì(台語土地範圍術語),台語另用為sì-kè四界(到處、處處)、古突厥語“ɑŋlɑ-”是理解、明白;台語表示安撫應肯的“安啦”音用源、likʐir曆日;日子li̍t-tsí(台語)、tuq纛(旗、旌旗);tō纛(台語意是旗幟邊邊的裝飾)。
西元660年大唐在韓半島與新羅聯合發動了對百濟的攻擊,最終百濟首都泗沘被攻陷,663年8月大唐軍於白江口又大敗倭國(日本)與百濟之聯軍,百濟的故土被大唐和新羅瓜分,百濟義慈王與其子(夫餘豐)王室貴族以及一萬多名百濟平民被大唐擄至河洛一帶的洛陽(現今中國河南洛陽),另有一批百濟貴族則逃往日本。
這些東夷國的王室貴族與都域平民遺族,在習俗儀式服儀裝飾尤其在臉上粉裝點綴的裝飾,反倒一定程度影響的深受以中原天朝自居的大唐都域王室貴族的青睞喜愛。