義経の逆落しを空から見る
ฝัง
- เผยแพร่เมื่อ 22 พ.ย. 2024
- 【 源義経の逆落し 】
神戸には、若者の勇気を語る逆落としの崖があります。この崖は義経の戦略の素晴らしさを後世に伝えると共に、若者に夢と感動を与えるものです。
では、神戸で行われた最大の戦い、一の谷合戦についてお話しをしましょう。
須磨一の谷説神戸で語られる義経の逆落としは、須磨で行われたと言う説が通説になっていますが、800年前の史料には、須磨に一の谷があった史料も、須磨で逆落としがあったと言う史料もありません。
先ず、鵯越の名の由来からお話しましょう。
孝徳天皇の時代に、摂津と播磨の国境(くにざかい)を示すために、標識を取ったことから標取り越えと云われ、訛って鵯越と云われる国境でした。
鵯越山頂より和田岬鵯越の案内人は、和田岬で輝いている灯台の光を指さして「あれに見える光が摂津播磨の国境(くにざかい)にある、一の谷の光です」と伝えたように、一の谷は和田岬の近くにありました。
和田岬と湊川河口和田岬には湊川の河口があります。この湊川が「口狭くして奥広し」と呼ばれた一の谷の河口です。
湊川を遡ると薬仙寺の西側で大きな一の谷と呼ばれる湖につながります。
この湖は万葉集に「浜きよみ 浦うるわしみ 神代より 千船(ちふね)の泊(は)つる 大和田の浜」と詠まれた大きな湊(みなと)で、遣唐使・防人(さきもり)たちの船が停泊していました。
この兵庫にあった湖の記録は数多く残されていますが、中国の資料には100ヘクタール程の大きな湖と記されています。
一の谷・赤石櫛淵真光寺の北側にある岸辺は、JR兵庫駅近くにある菟原住吉に続く大きな櫛の歯状の岸辺で、この湖が摂播両国の国境である赤石櫛淵でした。
鎌倉末期、一遍上人が終焉(しゅうえん)の地として兵庫に訪れ、湖の美しい情景を眺め、世界遺産になった中国の西湖の情景が、都となった福原の地にあると、感嘆の記事を残しています。この湖が一の谷合戦の舞台となりました。
ただ、平安中期頃には湊川が運ぶ土砂に依って埋め立てられたため、真光寺の東に清盛が経ケ島を築き、宋の船が泊まれる大輪田泊をつくりました。一の谷合戦当時、三種(さんしゅ)の神器(じんぎ)を帯びた平家一門は、この大輪田泊に集結していたため、義経の攻撃目標になりました。
では、一の谷合戦の舞台を上空から見ると、このように大きな湖がありました。湖の存在を語る文献・物語・和歌などは数多く残されています。平家はこの湖一の谷を西の城郭にしていました。特に西木戸の位置は鵯越の下、山の手の陣から尾根を伝い、麓に下りた処に設けられていました。
湖周辺の地名湖があった土地には、現在も水に関する地名が残されていますが、地質調査の資料を重ねるならば、湖の所在が明らかになると思います。
平家が籠った一の谷城は、生田の森から苅藻川までで、二重三重の逆茂木(さかもぎ)を連(つら)ね、その陰に無数の軍勢を並べた他、海上には数千艘の舟を浮かべる堅固な陣容でした。義経はこの強固(きょうこ)な平家の陣を知り、北から平家の陣内に入ることに決めましたが、北は屏風を立てたような崖が連なり、陣内に入るには鹿道を利用する以外にはありませんでした。
そこで義経は、鹿道に自信のある馬達者70騎を集め、この70騎を用いて一の谷城を破る作戦を考えだしました。
鵯越の末端から鹿道を下り、山間(やまあい)から平家の山の手の陣を通り、平家の本陣大輪田泊まで、奇襲部隊のルートを空撮で追ってみます。ここで問題なのは、鹿道を下るところを平家に見つかると、義経の奇襲攻撃は失敗です。従って、平家の目を逸らす陽動作戦が必要でした。
山の手の陣の下から陽動作戦を命じられたのが土肥と田代です。平家の山方更に、高取山の峠への陽動作戦を命じられたのが岡崎と多田です。
いよいよ合戦の当日になりました。夜半に鵯越の休息地を出発した一行、義経率いる奇襲部隊70騎と、岡崎と多田が率いる陽動作戦の部隊とに分かれて合戦場に向かいました。
鵯越の尾根伝いに鵯越の末端鉢伏に到着した義経は、山頂から眼下を見下ろすと、平家の無数の赤旗が、山の手から尾根伝いに和田の州に下(くだ)り、海辺(うみべ)まで風に靡いていました。しかし土肥と田代の陽動作戦の部隊は到着していなかったのか山の手では合戦をしていません、ただ山の手の平家の武者は西の方を眺めているだけです。
彼らは高取山の峠で行われている合戦に目を奪われ、いつ源氏の大軍が峠を越えて来るのかと注目しているのです。
山の手の平家が、頭上の源氏に気付いていないと知った義経は、危険な鹿道に挑戦しました。崖は3段に分れ、1段目は長さ100m強、勾配18°程で馬の背に着きます。
2段目は高さ15m程、勾配は26°前後、但し、足場のない白砂で滑り下(お)りなければなりません。
2段目の崖を真っ先に滑り降りた佐原十郎義連が、蟻の戸を見下ろす3段目の崖を覗いて言ったことは、「なお、5丈ばかりぞありける、味方へ向かって申しけるは、これより下へは如何に思うとも叶うまじ、思い止(とど)まり給え」と告げた崖で、苔生(こけむ)した岩の割れ目のような岩場で、高さが15m程、勾配が33°程なので、5階建てマンションの屋上にかけた滑り台のようなもの、歩いて下りるだけでも恐ろしいですが、馬に乗って下りねばならないのです。
この坂を義連が先頭に、目を瞑り、馬にエイエイと声をかけながら下りました。
後にこの崖を見た人は、「これは人の仕業(しわざ)ではない、鬼神(おにがみ)の仕業ではないか」と思ったそうです。
さて、義経が辿った3段の鹿道を追ってみます。
平家の武者は山間に潜む源氏の武者には気付いていません。
そこで義経は30騎に白旗を掲げさせ、山の手の陣に襲いかかりました。
大きな地響きに驚いて見上げた坂の上には、土煙の中から、馬上で大刀(だいとう)・薙刀(なぎなた)を振りかざしながら襲い掛かる源氏の武者が現れました。これに驚いた山の手はパニックに陥りました。
山の手から大輪田泊まで山の手の平家は数千騎、襲った源氏は僅か70騎、その数の差を見定めないままに平家は逃げました。山の手と大輪田泊とは僅か2キロ半、山の手の混乱は大輪田泊をも混乱に陥れました。
大輪田泊を守っていた平家の武者たちは、山の手から逃げて来る平家の一団を源氏の武者と見間違い、味方同士の同士討ちが始まりました。この混乱から逃げ出した平家の武者は浜辺の舟に救いを求めましたが、この武者たちを乗せ過ぎた舟が転覆、舟に乗ろうとする武者と乗せまいとする武者の争いなど、大輪田泊は鬼が泣き叫ぶ血の池地獄になりました。
山の手から逃げる平家を追いながら上げた煙は、東の木戸を守っていた平家の武者の知るところとなり、平家に従って来た地方の武者たちは戦場から逃げ出しました。
残された平家の武者は源氏の武者に追われ、福原から大輪田泊まで累々と亡骸を並べ、一の谷合戦は幕を閉じました。
この合戦で源氏に勝利をもたらしたものは、常識では下りられないと考える崖を、勇気をもって逆落としに挑戦した、常識にとらわれない義経の判断であり、現存する逆落としの崖は義経らの勇気を語り続けていますが、800年間の土砂と雑草・木々ゴミなどに覆われ、無残な姿で横たわっています。
この崖を逆落とし当時の姿に戻すことが出来たならば、復元された崖を見た人々は、義経の大志と勇気に感動することでしょう。
では、義経一行が鵯越を辿り、平家の山の手の陣の傍らで逆落としをしたことを、平家物語では「義経鵯越を落とす」のタイトルをつけているのは、鵯越の末端で逆落としが行われたことを伝えていました。
この戦いは、都から150キロ離れた神戸での戦いに勝つため、義経が都で戦略を練りあげました。都を出発した3日後の戦いにおいて、彼の戦略が見事に成功した戦いであり、我が国の合戦史上最高の戦いであると共に、珍しい戦いでもありました。その戦いの跡が神戸の街の中にあるので、ご確認願います。
なお、眼下に広がる神戸の地には、一の谷合戦を筆頭として様々な歴史が埋もれています。特に一の谷合戦の城郭となった一の谷と呼ばれた湖は、播磨風土記を始めとして、住吉物語・源氏物語・栄花物語・平家物語・太平記の舞台となったばかりか、千数百の和歌や漢詩の舞台にもなり、「すみよしと あまは告ぐとも 長いすな 人忘草 おふといふなり」の歌が詠まれ、多くの人が一度は訪れてみたいと言われた土地でした。
勉強になりました。
ありがとうございます。
鵯越の逆落としなんて迷信なんじゃないかとふと思い、辿り着きました。割と史実なんだと実感できました。神鉄の鵯越駅を通る度に昔から気になっていました。
一ノ谷の合戦は、想像するに鬼神の活躍。
若武者たちの勇気に感服。
是非整備してほしい。
バックグラウンドの曲の音が大き過ぎ。
一の谷は神戸市全体ではないのですか?
これだと結局、鵯トンネルの場所が逆落としの現場で、夢野タウンの平家の陣が混乱、という説でしょうか。12:16~のマップ 鵯越山っていうのが地図上見当たらないのと、このマップにある鉢伏山はこれだと兵庫区辺りになるはずと思うのですが、須磨のほうの有名な鉢伏山しか地図に見当たりませんでした。鉢伏山って2か所あるのでしょうか。それとも、中世には、鉢伏山は須磨ではなくそこの場所だったのでしょうか。なので、蟻の戸も結局どこのことなのかさっぱり、、地図上位置関係が照合できず、よくわからなかったです。
「義経の奇襲攻撃で混乱した山の手の陣」がマンションw
神戸市さん、整備してください。
つい最近まで、須磨浦公園の一ノ谷と思っていました。
現在どころかかなり昔に地形変わったのか
一ノ谷だけ入念に見せて欲しかった
正直、鉄拐山説だとあまりにも後方過ぎて、前線との連携も取れず、小勢で挟み撃ちにしても平家にとってそれほどのダメージではない気がしていた
この動画の解説のように、逆落としが行われたのがその名の通り鵯越であると考える方が、敵の側背を突くという戦術の常道にも合致するし受け入れ安い