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ありがとうございます!
今晩は、拓馬さん 無花果のたとえ話の疑問点がお陰様で解けました。此処にも深い意味が隠されていたんですね。とても良い学びになりました。感謝です☆今年も最後の月になりましたね。何時も聖霊様に満たされ主の臨在の中歩んで行きたいです。感謝!
励ましのコメントをいつもありがとうございます
此方こそ何時も学ばせて頂き感謝致します。
今回の聖書解釈もわかりやすかったです。感謝します。
コメントありがとうございます!
初めて視聴しました。大変勉強になりました。ありがとうございました。
アーメン!!全てに納得できる分かりやすいメッセージをありがとうございます。
アーメン 一件懲罰的なくだりから人間に想像及ばない恵み深さを導き出す素晴らしい解説をありがとうございます とてもわかった
「正」「無花果」の木の教訓は、弟子たちに「信仰の質の重要性」をイエスは実例をもって教えられたのではないでしょうか?「あなた方(弟子たち)に真実に言いますが、ただ 信仰を抱いて疑うことさえないなら、わたしが無花果の木に行なったようなことができるだけでなく、この山(オリーブ山)に、持ち上がって海に落ちよと言ったとしても、そのこともまた起きるのです。そしてあなた方は、信仰を抱いて祈り求めるものすべてを受けるのです。」間もなく生じる恐しい信仰の質が試される試練を考えると、「弟子たち」にとってこれは本当に重要な教訓でした。「絶対的な信仰」が不可欠でした。!!!イエスの死やその後にも不当な迫害や数々の試練に対処できる「質の高い信仰」が不可欠でした。 !!!また、もう一つの教訓は、偽善的で不信仰な宗教指導者たちだけでなく、イスラエル国民は、この無花果の木のように「外見」で人を欺いていました。彼らは、神と契約関係に入っていて、外見では神の掟を守っているかのように見えましたが、「実際」には信仰がなく「良い実」を生み出していないことを示してきました。イスラエル国民には信仰が欠如しているため、メシアなるイエスを退けるようなことさえしています。ですから、B.C.70年に神の裁きを受ける「不信仰な国民」に臨む結末を目に見える仕方で示されたのです。!!!
拓磨 今回は良かった。ヘブライ語でサラッと語れるおまえはすごいな。ありがとう😊
牧師様、いつも、とてもわかりやすく聖書の説明してくださりありがとうございます。
聖書を『音読』すれば、神様と直接つながれ、今まで停滞していた人も、救いの扉が開かれるかもしれませんよ。テモテへの第一の手紙 4:13わたしが行くときまで、聖書の『朗読』と勧めと教えに専念しなさい。ヨハネによる福音書の最初に書いてあります。1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は、初めに神と共にあった。 3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
メッセージ感謝します。後半の聖書箇所の字幕に誤記があるようです(ぶどう園のたとえあたりからです)。「マタイの福音書24章」ではなく、正しくは「マタイの福音書21章」と思われます。
お教えください。旧約聖書の中の雅歌はどう解釈すれば良いのでしょうか?よろしくお願い致します。
エレミヤはネブカドネザルの次の王の即位までエレミヤ書に記録してるからエジプトで死んだ説は?って思います。
旧約聖書にヒントを求めていくのは、正解です いちじくの木は、何処にあったか、旧約聖書では。 昔の画家は、これを良く考えています。 アダムとエバが、自分達が裸である事に気がつく。そして、恥部をいちじくの葉で隠したと解釈し、いちじくの葉を描きました。 知恵の木の実を食べて、自分が裸だと気がつく。いちじくは、知恵の木を象徴しています。 天で起こることは地でも起こります。 それは、いちじくの実であっても、象徴的にエデンの園の知恵の実であり、木そのものは知恵の木の象徴でしょう。 エデンの園の知恵の木が、象徴としてジーザスの前に現れたのでしょう。 象徴の知恵の木の中に、象徴としての蛇も存在したのでしょう。 蛇は、ジーザスに語るのです。 あなたは神なのだから、この木に、実がなるように命じなさい。 ジーザスは、実がならないから枯れるよう命じたのではなく、人類が実を食べて罪を犯す、言い換えれば、エバが蛇に騙されて犯す、姦淫の罪、すなわち原罪、それを神の権威に頼む事で、その罪を克服していけることをも示しています。 その為に、いちじくの木ではなく、人類を罪に導いた、蛇の巣食う象徴としての知恵の木を、もうこの世に関わるな、枯れてしまえと命じたのでしょう。 山を動かすほどの信仰の代償として、ジーザスは蛇の巣食う知恵の木から守ってくださいます。
教えてください、そもそも何故ユダヤ人を選民したのですか?イエスが契約を新たにしてようやく全ての人となった事を思うと旧約の神とイエスさま以降の神とは同一神とは思えないです。
コメントありがとうございます。おそらく「選民」を勘違いされているかなと拝察します。イスラエルの選びは救いの選びではなく、神様の存在やその聖さ、基準、世界観などを律法を通して証ししていくことにありました。「役得」では決してなく、むしろ「責任」が生じる重いものでした。またその究極の責任と役割は、メシアをダビデの子孫から誕生させることでした。また、イスラエルには神に従う人であれば誰でも参画できました。出エジプトの際には神を恐れたイスラエルに従ってきたエジプト人も含まれていました。また、カナン後の異邦人でも、例えばヨシュア記に登場するようなラハブのように、神を恐れる者には救いがありました。モーセの妻も、ダビデの先祖も、ソロモンの母親も、みな異邦人です。このように「旧約の神はユダヤ人だけを選民し救った」というのは明らかに誤った理解です。逆に、イスラエルであっても、例えばコラの子らのように、神に逆らう者は神罰を受けて滅びました。究極的には、旧約も新約も、神に従うかどうかが問われている点ではまったく同じです。ヘブル人への手紙には「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、とこしえに変わることがない」と書かれています。つまり、旧約の神も新約の神もまったく同じ神です。違うと感じるのは、私たちの聖書を読む目と理解が歪んでいるからです。実際には神はずっと同じ神です。イスラエルの選びの目的やその役割と責任については、かなり細かいところまでローマ人への手紙にしっかりと分かりやすく書かれているのでぜひお読みください。
ご教授をありがとうございました。よくわかりました。
@@cloud_church この質問がなかったら、「選民思想に走る人」いたかも…8977さんは、「そのような人が道を間違えない為」の道備えをしたのかもですね!8977さん、素晴らしいご質問ありがとうごさいます。
選民はイスラエル民族だから、別にユダヤ人って訳では(^_^;)それが後々ユダヤ人って呼ばれるだけで違うかと。ヤコブの後孫、若しくはアブラハムの神イサクの神ヤコブの神を信じる者の事だから、バアル神とか言う邪神を信じてしまうイスラエル民族は選民と呼べるか疑問ですけどwwwイスラエル民族は偶像礼拝が好きすぎて(^_^;)
普通に花言葉から連想すると女さん、多産って意味だしそれが枯れると言う事は使わないって事だろうし単純に産むなって意味かなぁ?
旧約聖書では他に例があっても新約聖書では無かったと言う事かぁ。うーん(笑)なら違うんちゃうかそれだけあるのに新約にした途端全部省いたって事は(^_^;)それ、いらない要素だったんちゃう?イエス様って旧約聖書を全面的には肯定してないからね。
腹が減ったのに実がなってなかったからムカついて枯らしたんでしょ
パンをとりだして食べるなり、イエスの神通力があれば腹は満たせたはづ。
やはりキリスト教は、日本人とは全く違った文化背景をもとにした異人種の宗教ってことですね。キリスト教の日本での普及率が1%以下というのはある意味正しいことを示している。異なった文化背景の出来事を可哀想と思う日本人の気持ちをズレていると評するのはどうかと思う。何を中心としているのだろうか。私は日本人だから、自分の軸足は日本人の感性である。だから酷い話だと普通に思った。
少し誤解があるようですが、「ズレている」というのは、ユダヤ人の感覚で書かれた聖書を理解する際に、日本人の感覚で解釈してはいけないという趣旨です。日本人的感覚が悪いということは言っていません。これは、日本人が書いた文章は、日本人の感覚で読まなければならないのと同じです。その際、日本人の感覚についての評価をしているわけではありません。神がその霊感によって書いた聖書は、主にヘブライ語とギリシャ語で、ユダヤ人の感覚を通して残されました。私たちは聖書を理解する際に、自分たちの感覚を脇に置き、彼らの感覚をできる限り想定して読んで理解する必要があります。
@ 自分の胸先三寸で物事を好きな様にしてはいけないというのは人間の普遍的倫理観だと思うのですよ。自分はヨブ記を読んだ時に何とも釈然としない気持ちになりましたし、ヨシュア記に至っては、これは邪神じゃないかと感じましたね。その時代の人々の感覚で善悪を評価すべきというのはお為ごかしだと思う。ではホロコーストを正当化するのかという話です。物事の善悪の感覚は普遍的なものです。その時代の文化をわざわざ慮ってこじつけて正当化する必然性を私は感じませんね。
@@cloud_church アーメン
ありがとうございます!
ありがとうございます!
今晩は、拓馬さん 無花果のたとえ話の疑問点がお陰様で解けました。此処にも深い意味が隠されていたんですね。とても良い学びになりました。感謝です☆今年も最後の月になりましたね。何時も聖霊様に満たされ主の臨在の中歩んで行きたいです。感謝!
励ましのコメントをいつもありがとうございます
此方こそ何時も学ばせて頂き感謝致します。
今回の聖書解釈もわかりやすかったです。
感謝します。
コメントありがとうございます!
初めて視聴しました。大変勉強になりました。ありがとうございました。
アーメン!!全てに納得できる分かりやすいメッセージをありがとうございます。
アーメン 一件懲罰的なくだりから人間に想像及ばない恵み深さを導き出す素晴らしい解説をありがとうございます とてもわかった
「正」
「無花果」の木の教訓は、弟子たちに「信仰の質の重要性」をイエスは実例をもって教えられたのではないでしょうか?
「あなた方(弟子たち)に真実に言いますが、ただ 信仰を抱いて疑うことさえないなら、わたしが無花果の木に行なったようなことができるだけでなく、この山(オリーブ山)に、持ち上がって海に落ちよと言ったとしても、そのこともまた起きるのです。そしてあなた方は、信仰を抱いて祈り求めるものすべてを受けるのです。」
間もなく生じる恐しい信仰の質が試される試練を考えると、「弟子たち」にとってこれは本当に重要な教訓でした。
「絶対的な信仰」が不可欠でした。!!!
イエスの死やその後にも不当な迫害や数々の試練に対処できる「質の高い信仰」が不可欠でした。 !!!
また、もう一つの教訓は、偽善的で不信仰な宗教指導者たちだけでなく、イスラエル国民は、この無花果の木のように「外見」で人を欺いていました。彼らは、神と契約関係に入っていて、外見では神の掟を守っているかのように見えましたが、「実際」には信仰がなく「良い実」を生み出していないことを示してきました。イスラエル国民には信仰が欠如しているため、メシアなるイエスを退けるようなことさえしています。
ですから、B.C.70年に神の裁きを受ける「不信仰な国民」に臨む結末を目に見える仕方で示されたのです。!!!
拓磨 今回は良かった。ヘブライ語でサラッと語れるおまえはすごいな。ありがとう😊
牧師様、いつも、とてもわかりやすく聖書の説明してくださりありがとうございます。
聖書を『音読』すれば、神様と直接つながれ、今まで停滞していた人も、救いの扉が開かれるかもしれませんよ。
テモテへの第一の手紙 4:13
わたしが行くときまで、聖書の『朗読』と勧めと教えに専念しなさい。
ヨハネによる福音書の最初に書いてあります。
1初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2この言は、初めに神と共にあった。 3万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。
メッセージ感謝します。後半の聖書箇所の字幕に誤記があるようです(ぶどう園のたとえあたりからです)。
「マタイの福音書24章」ではなく、正しくは「マタイの福音書21章」と思われます。
お教えください。
旧約聖書の中の雅歌はどう解釈すれば良いのでしょうか?
よろしくお願い致します。
エレミヤはネブカドネザルの次の王の即位までエレミヤ書に記録してるからエジプトで死んだ説は?って思います。
旧約聖書にヒントを求めていくのは、正解です
いちじくの木は、何処にあったか、旧約聖書では。
昔の画家は、これを良く考えています。
アダムとエバが、自分達が裸である事に気がつく。そして、恥部をいちじくの葉で隠したと解釈し、いちじくの葉を描きました。
知恵の木の実を食べて、自分が裸だと気がつく。いちじくは、知恵の木を象徴しています。
天で起こることは地でも起こります。
それは、いちじくの実であっても、象徴的にエデンの園の知恵の実であり、木そのものは知恵の木の象徴でしょう。
エデンの園の知恵の木が、象徴としてジーザスの前に現れたのでしょう。
象徴の知恵の木の中に、象徴としての蛇も存在したのでしょう。
蛇は、ジーザスに語るのです。
あなたは神なのだから、この木に、実がなるように命じなさい。
ジーザスは、実がならないから枯れるよう命じたのではなく、人類が実を食べて罪を犯す、言い換えれば、エバが蛇に騙されて犯す、姦淫の罪、すなわち原罪、それを神の権威に頼む事で、その罪を克服していけることをも示しています。
その為に、いちじくの木ではなく、人類を罪に導いた、蛇の巣食う象徴としての知恵の木を、もうこの世に関わるな、枯れてしまえと命じたのでしょう。
山を動かすほどの信仰の代償として、ジーザスは蛇の巣食う知恵の木から守ってくださいます。
教えてください、
そもそも何故ユダヤ人を選民したのですか?
イエスが契約を新たにしてようやく全ての人となった事を思うと旧約の神とイエスさま以降の神とは同一神とは思えないです。
コメントありがとうございます。おそらく「選民」を勘違いされているかなと拝察します。
イスラエルの選びは救いの選びではなく、神様の存在やその聖さ、基準、世界観などを律法を通して証ししていくことにありました。「役得」では決してなく、むしろ「責任」が生じる重いものでした。またその究極の責任と役割は、メシアをダビデの子孫から誕生させることでした。
また、イスラエルには神に従う人であれば誰でも参画できました。出エジプトの際には神を恐れたイスラエルに従ってきたエジプト人も含まれていました。また、カナン後の異邦人でも、例えばヨシュア記に登場するようなラハブのように、神を恐れる者には救いがありました。モーセの妻も、ダビデの先祖も、ソロモンの母親も、みな異邦人です。
このように「旧約の神はユダヤ人だけを選民し救った」というのは明らかに誤った理解です。逆に、イスラエルであっても、例えばコラの子らのように、神に逆らう者は神罰を受けて滅びました。
究極的には、旧約も新約も、神に従うかどうかが問われている点ではまったく同じです。ヘブル人への手紙には「イエス・キリストは、きのうも、きょうも、とこしえに変わることがない」と書かれています。つまり、旧約の神も新約の神もまったく同じ神です。違うと感じるのは、私たちの聖書を読む目と理解が歪んでいるからです。実際には神はずっと同じ神です。
イスラエルの選びの目的やその役割と責任については、かなり細かいところまでローマ人への手紙にしっかりと分かりやすく書かれているのでぜひお読みください。
ご教授をありがとうございました。よくわかりました。
@@cloud_church この質問がなかったら、「選民思想に走る人」いたかも…8977さんは、「そのような人が道を間違えない為」の道備えをしたのかもですね!
8977さん、素晴らしいご質問ありがとうごさいます。
選民はイスラエル民族だから、別にユダヤ人って訳では(^_^;)
それが後々ユダヤ人って呼ばれるだけで違うかと。
ヤコブの後孫、若しくはアブラハムの神イサクの神ヤコブの神を信じる者の事だから、バアル神とか言う邪神を信じてしまうイスラエル民族は選民と呼べるか疑問ですけどwww
イスラエル民族は偶像礼拝が好きすぎて(^_^;)
普通に花言葉から連想すると女さん、多産って意味だし
それが枯れると言う事は使わないって事だろうし
単純に産むなって意味かなぁ?
旧約聖書では他に例があっても
新約聖書では無かったと言う事かぁ。
うーん(笑)なら違うんちゃうか
それだけあるのに新約にした途端全部省いたって事は(^_^;)
それ、いらない要素だったんちゃう?イエス様って旧約聖書を全面的には肯定してないからね。
腹が減ったのに実がなってなかったからムカついて枯らしたんでしょ
パンをとりだして食べるなり、イエスの神通力があれば腹は満たせたはづ。
やはりキリスト教は、日本人とは全く違った文化背景をもとにした異人種の宗教ってことですね。キリスト教の日本での普及率が1%以下というのはある意味正しいことを示している。
異なった文化背景の出来事を可哀想と思う日本人の気持ちをズレていると評するのはどうかと思う。何を中心としているのだろうか。私は日本人だから、自分の軸足は日本人の感性である。だから酷い話だと普通に思った。
少し誤解があるようですが、「ズレている」というのは、ユダヤ人の感覚で書かれた聖書を理解する際に、日本人の感覚で解釈してはいけないという趣旨です。日本人的感覚が悪いということは言っていません。
これは、日本人が書いた文章は、日本人の感覚で読まなければならないのと同じです。その際、日本人の感覚についての評価をしているわけではありません。
神がその霊感によって書いた聖書は、主にヘブライ語とギリシャ語で、ユダヤ人の感覚を通して残されました。私たちは聖書を理解する際に、自分たちの感覚を脇に置き、彼らの感覚をできる限り想定して読んで理解する必要があります。
@ 自分の胸先三寸で物事を好きな様にしてはいけないというのは人間の普遍的倫理観だと思うのですよ。自分はヨブ記を読んだ時に何とも釈然としない気持ちになりましたし、ヨシュア記に至っては、これは邪神じゃないかと感じましたね。その時代の人々の感覚で善悪を評価すべきというのはお為ごかしだと思う。ではホロコーストを正当化するのかという話です。物事の善悪の感覚は普遍的なものです。その時代の文化をわざわざ慮ってこじつけて正当化する必然性を私は感じませんね。
@@cloud_church アーメン
ありがとうございます!