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25番小ト短調聞くと、映画アマデウスの冒頭シーンを思い出します。このシーン、音楽映画史上、歴史に残る名場面と思っています。私、この2つのト短調聞いているうちに、少し涙を流してしまいました。吉田先生もいつになく張り切っていますね。感激!!
ありがとうございます。25番小ト短調、わたしも映画アマデウスを思い出します。すばらしい映画だと思います。あまり聴きすぎると自分のなかで、慣れてしまうのがちょっと怖くって、抑え抑え聴いているような感じすらあります。このカール・ベームの死を悼んでというのも、とても惹かれます。実は、この回の視聴回数は、とっても多く、このチャンネルのトップではないかと思うほどです。吉田先生のこうちょっと張り切ってっていうのもとってもわかります。すごくそういう感じになるのがわかるっていうのも、この声のよさなんですね。
久々に吉田氏の声を聞いたなあ。懐かしい。時間が戻ってきたような気がする。ありがとうございました。
ありがとうございます。そういっていただきうれしいです。
いつも貴重な録音をありがとうございます。カール・ベームの音楽に耽溺しない演奏を見習いたいと思いました。
演奏されたりするのですね。音に包まれたり、音を紡いだり、羨ましいです。コメントは励みになってうれしいです。ありがとうございます。
いつも貴重な音源をありがとうございます。第25番と申しますと、何と申しましても映画「アマデウス」の冒頭でありまして、公開当時学生でありましてバンクーバーの映画館で鑑賞したのを思い出します。特に映画の冒頭部分は大変ドラマティックで、せっかく売店で買ったポップコーンを床に落としてしまう程の衝撃でした。第40番のこの演奏は恐らくドイツ・グラモフォンのレコードでは無いかと思います。両腕を上げたベームさんを正面から捉えたジャケットでしたね。裏面の解説にはジャン=ヴィクトル・オカールの著書「比類なきモーツァルト」の言葉が引用されていました。曰く「そのドアはいつ開くかわからない。鍵は内側にあるのです。」何とも哲学的な内容です。でも、このチャンネルに出会っている事を考えますと、そのモーツァルトのドアは既に僕に開いてくれているのでは無いかと感じます。
海外での学生生活、いいですね。わたしも「アマデウス」とっても惹かれました。あの精神病院でのシーンからの始まり、天才と凡才の物語なのかもしれませんが、つい人と比較してしまう人生の姿を、サリエリを通して描いているようで、定年になってから、自分の人生の評価を思い、よりわたしのなかにしみるような気がします。それにラストのレクイエム。もともと、モーツァルトの作品の衝撃はレクイエムだったので、それもすごいシーンとして覚えています。ジャン=ビクトル・オカールの本も言葉も知りませんでした。ついつい日常の言葉、メディアで流れるような言葉にだけ触れていると、こんな言葉に触れません。いいですね。
そう、そう、クレンペラーの名前もならんでいましたね。懐かしいです。
ここで吉田氏は「ベームが来日時に25番を演奏した」と語っていますが、63年(フィデリオ/フィガロ/ベートーヴェン9番)75年(ベートーヴェン4・7番/ブラームス1番/モーツァルト41番/シューベルト8・9番/火の鳥/他)77年(ベートーヴェン5・6番/ブラームス2番/モーツァルト29番/R・シュトラウス「ドンファン」他)80年(ベートーヴェン2・7番/フィガロ/ナクソス島のアリアドネ)の演奏曲目のなかには25番は無かったような(29番の誤り?)・・・
こうして、きちんとした情報を寄せていただいてありがとうございます。そうした情報に対して、的確にお答えできないのが残念ですが、こうして他の方に伝えられて、共有させていただけるのは、とってもありがたいです。今回のなかでも、第40番は、かかれた年を1780年と、吉田先生が言っているところがありますが、これも1788年だと思います。気が付かないでいたことが、こうしてわかるなんてうれしいです。また、ありましたら、教えて下さい。
KTKさんのおっしゃる通りで、ベームは、日本での演奏会では、25番の演奏はありません。
カールベームが亡くなって40年経とうとしています。確かカールベームは無人島に行くとして持っていく楽譜が2部しか許されなかったら何を持っていくのかという質問に対して、モーツァルト の40番とベートーベンの第九と答えたのをうろ覚えています。40番は2つのバージョンがありますが、演奏されているクラリネット版の方なのかなと思います。
コメントありがとうございます。こうして教えていただき、ありがとうございます。吉田先生は、カール・ベームの練習風景を見て、なにか田舎のおじいさんが、ぼそぼそしゃべっているように見えた、というようなことをどこかでいっていたような気がします。つい最近、「ヨーロッパの文化(演劇にしても音楽にしても)はとても基盤がしっかりしていて、論理的でないものは、下の人?みんな?はついていかない。」(たとえば、ユークリッドの「原論」は、聖書の次に読まれていて、その論理性が学ばれ、教養として大切にされている)といったことを聞きました。論理や感性など、指揮者のなかでは(あるいは、その音楽を演奏したり聴いたるする人たちのなかでは)、どんな下地?があって受け止められているのだろうなぁっていうのが、いま疑問に思っていることです。(今年はクラシック音楽としては、ベートーベンの年でもあるのに、ほんとに残念です。でも、(人生や日々の)喜びってなんだろうって、思い巡らすような機会にもなっています。)
ベームは、交響曲第40番ではいつも、クラリネットを入れない版で演奏しています。
25番小ト短調聞くと、映画アマデウスの冒頭シーンを思い出します。このシーン、音楽映画史上、歴史に残る名場面と思っています。私、この2つのト短調聞いているうちに、少し涙を流してしまいました。吉田先生もいつになく張り切っていますね。感激!!
ありがとうございます。
25番小ト短調、わたしも映画アマデウスを思い出します。すばらしい映画だと思います。
あまり聴きすぎると自分のなかで、慣れてしまうのがちょっと怖くって、抑え抑え聴いているような感じすらあります。
このカール・ベームの死を悼んでというのも、とても惹かれます。
実は、この回の視聴回数は、とっても多く、このチャンネルのトップではないかと思うほどです。
吉田先生のこうちょっと張り切ってっていうのもとってもわかります。すごくそういう感じになるのがわかるっていうのも、この声のよさなんですね。
久々に吉田氏の声を聞いたなあ。懐かしい。時間が戻ってきたような気がする。ありがとうございました。
ありがとうございます。そういっていただきうれしいです。
いつも貴重な録音をありがとうございます。カール・ベームの音楽に耽溺しない演奏を見習いたいと思いました。
演奏されたりするのですね。音に包まれたり、音を紡いだり、羨ましいです。コメントは励みになってうれしいです。ありがとうございます。
いつも貴重な音源をありがとうございます。
第25番と申しますと、何と申しましても映画「アマデウス」の冒頭でありまして、公開当時学生でありましてバンクーバーの映画館で鑑賞したのを思い出します。特に映画の冒頭部分は大変ドラマティックで、せっかく売店で買ったポップコーンを床に落としてしまう程の衝撃でした。
第40番のこの演奏は恐らくドイツ・グラモフォンのレコードでは無いかと思います。両腕を上げたベームさんを正面から捉えたジャケットでしたね。裏面の解説にはジャン=ヴィクトル・オカールの著書「比類なきモーツァルト」の言葉が引用されていました。曰く「そのドアはいつ開くかわからない。鍵は内側にあるのです。」何とも哲学的な内容です。でも、このチャンネルに出会っている事を考えますと、そのモーツァルトのドアは既に僕に開いてくれているのでは無いかと感じます。
海外での学生生活、いいですね。
わたしも「アマデウス」とっても惹かれました。あの精神病院でのシーンからの始まり、天才と凡才の物語なのかもしれませんが、つい人と比較してしまう人生の姿を、サリエリを通して描いているようで、定年になってから、自分の人生の評価を思い、よりわたしのなかにしみるような気がします。
それにラストのレクイエム。もともと、モーツァルトの作品の衝撃はレクイエムだったので、それもすごいシーンとして覚えています。
ジャン=ビクトル・オカールの本も言葉も知りませんでした。ついつい日常の言葉、メディアで流れるような言葉にだけ触れていると、こんな言葉に触れません。
いいですね。
そう、そう、クレンペラーの名前もならんでいましたね。懐かしいです。
ここで吉田氏は「ベームが来日時に25番を演奏した」と語っていますが、
63年(フィデリオ/フィガロ/ベートーヴェン9番)
75年(ベートーヴェン4・7番/ブラームス1番/モーツァルト41番/シューベルト8・9番/火の鳥/他)
77年(ベートーヴェン5・6番/ブラームス2番/モーツァルト29番/R・シュトラウス「ドンファン」他)
80年(ベートーヴェン2・7番/フィガロ/ナクソス島のアリアドネ)
の演奏曲目のなかには25番は無かったような(29番の誤り?)・・・
こうして、きちんとした情報を寄せていただいてありがとうございます。
そうした情報に対して、的確にお答えできないのが残念ですが、こうして他の方に伝えられて、共有させていただけるのは、とってもありがたいです。
今回のなかでも、第40番は、かかれた年を1780年と、吉田先生が言っているところがありますが、これも1788年だと思います。
気が付かないでいたことが、こうしてわかるなんてうれしいです。また、ありましたら、教えて下さい。
KTKさんのおっしゃる通りで、ベームは、日本での演奏会では、25番の演奏はありません。
カールベームが亡くなって40年経とうとしています。
確かカールベームは無人島に行くとして持っていく楽譜が2部しか許されなかったら何を持っていくのかという質問に対して、モーツァルト の40番とベートーベンの第九と答えたのをうろ覚えています。
40番は2つのバージョンがありますが、演奏されているクラリネット版の方なのかなと思います。
コメントありがとうございます。
こうして教えていただき、ありがとうございます。
吉田先生は、カール・ベームの練習風景を見て、なにか田舎のおじいさんが、ぼそぼそしゃべっているように見えた、というようなことをどこかでいっていたような気がします。つい最近、「ヨーロッパの文化(演劇にしても音楽にしても)はとても基盤がしっかりしていて、論理的でないものは、下の人?みんな?はついていかない。」(たとえば、ユークリッドの「原論」は、聖書の次に読まれていて、その論理性が学ばれ、教養として大切にされている)といったことを聞きました。論理や感性など、指揮者のなかでは(あるいは、その音楽を演奏したり聴いたるする人たちのなかでは)、どんな下地?があって受け止められているのだろうなぁっていうのが、いま疑問に思っていることです。
(今年はクラシック音楽としては、ベートーベンの年でもあるのに、ほんとに残念です。でも、(人生や日々の)喜びってなんだろうって、思い巡らすような機会にもなっています。)
ベームは、交響曲第40番ではいつも、クラリネットを入れない版で演奏しています。