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西田氏は日本人がアニミズム思考をするということが分かっておらず最後は、「答えは自分自身の中にある」という結論になりやすい。極めて日本人的な思想です。
何となく非常に興味深い 15:50
14:26 ワオ。そうなんだけどね。わかってるんだけど、わかんないみたいな現象ですよ。私は。だからこそ読んでみたいな。
人間の本質に仏性、愛が備わっている。愛を深め自己をみていく、自己見ていくと他者が見えてくる、、
そういう見方もあるかと新鮮に拝聴しました。短くまとめられていて感心しました。私の現在の理解では、善の研究で述べられている内的要求は、方程式でいえば一般解なのでイメージがつかみにくいですが、仏教という境界条件を与えると、彼の旧友の大拙が説く大慈大悲に相当するのではないかと思います。もう少し考えてみますが…。
小坂国継注釈版を今読んでます。解説読みながらでも分かりにくい内容を読み解く良い動画をありがとうございます。注釈ざっと眺めるだけでも100年以上前に膨大な西洋哲学の知識を取り込んだ西田幾多郎すごい。牧野富太郎もだけど学者ってどこか変態的でかっこいい。是非同郷のもう1人の大学者鈴木大拙(日本的霊性ですかね?)も解説お願いします。
リクエストありがとうございます。気になっていた人物なので、いつか動画にしたいと思います!☺️
く
good interpretation, Thankyou Gaku.
近代思想はちかぢか読んでみようと考えています。
最近、読んでいて挫折しそうになってました。また先に進めそうな気がします
うん、でもほんとは、悲哀を楽しむ方がいいんだけどね。知に染まろうと愛に染まろうと、或いはそれらを排除しようとも、自分がどう納得するのかはその時の自分にしかわからないし、それが社会的にどのような意味を持つのかも、個人だけでは決定のしようがない。移ろい変わりゆくものの一部としての私と変わらないと私と変わったり変わらなかったりする全てのものたちがどうなのかは、私がどう感じるのか、或いはどう感じていきたいのかの決定要因とは何の関係もない好きに決めてよいというか、何がどうあろうとも、そうでしかない全体は私ではなく、私は私だけではないが、その感覚を感じる私が社会的にどうありたいのかは私が感じているだけなので、先入観があろうとなかろうと、それが先入観であり私なので悲しみたくないのであれば悲しまなくなることはできる。人々の心は皆等しく自由である。
西田の哲学はその根源に宗教的神秘主義体験があるよ。善の研究の最終編が「宗教」だし最後の哲学論文集第七編の最後も「場所的論理と宗教的世界観」だからね。純粋経験と言うのも主客合致とか主客未分とかの深い宗教的経験のことだよ。ベルグソンの純粋持続やウイリアム・ジェームスの純粋経験の概念を借りて表現したんだろうね。難解といわれる西田の全著作も宗教体験を理解認識すれば明快に理解できるよ。
4文目まではそうやなと思って読んでたら、「全著作明快に理解できる」でワロタ
(8:18~)「実在主義」というのは実存主義の入力スでしょうか。入力ミスなら、「このころ」(『善の研究』の書かれた1911年ごろ)西洋哲学の主流が実存主義になっていた事実はありません。サルトルらの実存主義の隆盛は西田の亡くなった1945年以降(戦後)です。入力ミスでないなら、西田哲学の重要なテーマ「実在とは何か」という問題とヨーロッパの「実在主義」というもの、とはどういう関係になるのでしょうか。
「小学館版学習まんが 2 西田幾多郎」には西田の人生が詳しくわかりますのでお薦め本です。
無の境地!
コメント欄大体半分くらい香ばしくて笑う
ありがとうございます。なるほど、これを伺って西田氏が少し分かった気がします。つまり、西田氏は良くも悪くも「哲学家」であるのだな、と思いますね。そして、西田氏の発言こそがまさしく、西洋哲学の限界を示しているといっても良いかもしれません。昔から、学問する能力のない人間は東洋には哲学はなかったと言いますが、それこそが「知のフィルター」であり、物事を正しく認識する能力の欠如を言います。そもそも西洋の哲学と東洋の哲学は全然違うものであり、西洋では、哲学とか宗教とかを別個のもの、別々のものとして独立させますが、東洋では、哲学だとか道徳だとか宗教だとかを、区別しません。物事は、すべて一緒、同じだと認識します。禅にいう「即身成仏」などがまさしくそう。仏という超越的存在、超常的存在があるのではなく、自分もすでにして仏であるのだ、と「悟る」ことが東洋哲学です。自分という人間の中に、哲学とか宗教とかが、別個に、何の関連もつながりもなく小分けにされて存在しているのではなく、自分の中にそれらすべてが渾然と、相関連して調和をもって溶け込んでいるのが、東洋の哲学です。東洋人が哲学を語るとすれば、それは同時に宗教や道徳や人物学、歴史、様々な教え、思想が混じり合っているのです。だから、孔子様が「文質彬彬としてしかる後に君子なり」とおっしゃったように、自分の言葉と行動と日常生活が、何の破綻も矛盾もなくまた、イライラもソワソワもクヨクヨもしない落ち着いてゆったりと日々を生きるのが東洋思想です。そして、「生活に活きる学問」を民衆のために人生のすべてを使って考えられたのが孔子様などの聖人君子であり、民衆からかけ離れた空理空論で概念のお遊戯をしたのが西洋哲学です。西田氏にもう少し東洋の学問があれば、「孔子様に学ぼう!」とおっしゃったかも知れませんね。まあ、尊欧卑亜、華やかな明治ではこのくらいが限界でしょうね。-人-
実存主義と実在主義を間違えるような人間の哲学の授業なんて内容が良くてもその時点で信頼度は無に等しいよね
どゆことだってばよ
実存主義じゃね?
🌱💙🌸😃
BGMは気が散ります
結局何が言いたい❓️知も愛足りない私には難しいよややこしい教えはもう沢山知りたいことを知りたいですね😃
僕と何か視点が異なるナ西田さんは愛他主義なぞ説いてないし貴方の仰るニーチェ或いはサルトルさえ僕は仏教的に観てるゴメンね....(⁎×﹏×⁎)💦
????
西田先生はどうも哲学者というより浄土真宗のお坊さんだった感じです。もともと哲学に向いてもいなかったし、自分がつかんだ「空」のアイデアを表現する言葉ももっていなかった人だと思う。いずれ、ありがとう!
西田氏は日本人がアニミズム思考をするということが分かっておらず
最後は、「答えは自分自身の中にある」という結論になりやすい。
極めて日本人的な思想です。
何となく非常に興味深い 15:50
14:26 ワオ。そうなんだけどね。わかってるんだけど、わかんないみたいな現象ですよ。私は。だからこそ読んでみたいな。
人間の本質に仏性、愛が備わっている。愛を深め自己をみていく、自己見ていくと他者が見えてくる、、
そういう見方もあるかと新鮮に拝聴しました。短くまとめられていて感心しました。私の現在の理解では、善の研究で述べられている内的要求は、方程式でいえば一般解なのでイメージがつかみにくいですが、仏教という境界条件を与えると、彼の旧友の大拙が説く大慈大悲に相当するのではないかと思います。もう少し考えてみますが…。
小坂国継注釈版を今読んでます。
解説読みながらでも分かりにくい内容を読み解く良い動画をありがとうございます。
注釈ざっと眺めるだけでも100年以上前に膨大な西洋哲学の知識を取り込んだ西田幾多郎すごい。牧野富太郎もだけど学者ってどこか変態的でかっこいい。
是非同郷のもう1人の大学者鈴木大拙(日本的霊性ですかね?)も解説お願いします。
リクエストありがとうございます。
気になっていた人物なので、いつか動画にしたいと思います!☺️
く
good interpretation, Thankyou Gaku.
近代思想はちかぢか読んでみようと考えています。
最近、読んでいて挫折しそうになってました。また先に進めそうな気がします
うん、でもほんとは、悲哀を楽しむ方がいいんだけどね。知に染まろうと愛に染まろうと、或いはそれらを排除しようとも、自分がどう納得するのかはその時の自分にしかわからないし、それが社会的にどのような意味を持つのかも、個人だけでは決定のしようがない。
移ろい変わりゆくものの一部としての私と変わらないと私と変わったり変わらなかったりする全てのものたちがどうなのかは、私がどう感じるのか、或いはどう感じていきたいのかの決定要因とは何の関係もない
好きに決めてよいというか、何がどうあろうとも、そうでしかない
全体は私ではなく、私は私だけではないが、その感覚を感じる私が社会的にどうありたいのかは私が感じているだけなので、先入観があろうとなかろうと、それが先入観であり私
なので悲しみたくないのであれば悲しまなくなることはできる。
人々の心は皆等しく自由である。
西田の哲学はその根源に宗教的神秘主義体験があるよ。
善の研究の最終編が「宗教」だし最後の哲学論文集第七編の最後も「場所的論理と宗教的世界観」だからね。
純粋経験と言うのも主客合致とか主客未分とかの深い宗教的経験のことだよ。
ベルグソンの純粋持続やウイリアム・ジェームスの純粋経験の概念を借りて表現したんだろうね。
難解といわれる西田の全著作も宗教体験を理解認識すれば明快に理解できるよ。
4文目まではそうやなと思って読んでたら、「全著作明快に理解できる」でワロタ
(8:18~)「実在主義」というのは実存主義の入力スでしょうか。入力ミスなら、「このころ」(『善の研究』の書かれた1911年ごろ)西洋哲学の主流が実存主義になっていた事実はありません。サルトルらの実存主義の隆盛は西田の亡くなった1945年以降(戦後)です。入力ミスでないなら、西田哲学の重要なテーマ「実在とは何か」という問題とヨーロッパの「実在主義」というもの、とはどういう関係になるのでしょうか。
「小学館版学習まんが 2 西田幾多郎」には西田の人生が詳しくわかりますのでお薦め本です。
無の境地!
コメント欄大体半分くらい香ばしくて笑う
ありがとうございます。なるほど、これを伺って西田氏が少し分かった気がします。つまり、西田氏は良くも悪くも「哲学家」であるのだな、と思いますね。そして、西田氏の発言こそがまさしく、西洋哲学の限界を示しているといっても良いかもしれません。
昔から、学問する能力のない人間は東洋には哲学はなかったと言いますが、それこそが「知のフィルター」であり、物事を正しく認識する能力の欠如を言います。そもそも西洋の哲学と東洋の哲学は全然違うものであり、西洋では、哲学とか宗教とかを別個のもの、別々のものとして独立させますが、東洋では、哲学だとか道徳だとか宗教だとかを、区別しません。物事は、すべて一緒、同じだと認識します。禅にいう「即身成仏」などがまさしくそう。仏という超越的存在、超常的存在があるのではなく、自分もすでにして仏であるのだ、と「悟る」ことが東洋哲学です。
自分という人間の中に、哲学とか宗教とかが、別個に、何の関連もつながりもなく小分けにされて存在しているのではなく、自分の中にそれらすべてが渾然と、相関連して調和をもって溶け込んでいるのが、東洋の哲学です。東洋人が哲学を語るとすれば、それは同時に宗教や道徳や人物学、歴史、様々な教え、思想が混じり合っているのです。
だから、孔子様が「文質彬彬としてしかる後に君子なり」とおっしゃったように、自分の言葉と行動と日常生活が、何の破綻も矛盾もなくまた、イライラもソワソワもクヨクヨもしない落ち着いてゆったりと日々を生きるのが東洋思想です。
そして、「生活に活きる学問」を民衆のために人生のすべてを使って考えられたのが孔子様などの聖人君子であり、民衆からかけ離れた空理空論で概念のお遊戯をしたのが西洋哲学です。
西田氏にもう少し東洋の学問があれば、「孔子様に学ぼう!」とおっしゃったかも知れませんね。まあ、尊欧卑亜、華やかな明治ではこのくらいが限界でしょうね。-人-
実存主義と実在主義を間違えるような人間の哲学の授業なんて内容が良くてもその時点で信頼度は無に等しいよね
どゆことだってばよ
実存主義じゃね?
🌱💙🌸😃
BGMは気が散ります
結局何が言いたい❓️知も愛足りない私には難しいよややこしい教えはもう沢山知りたいことを知りたいですね😃
僕と何か視点が異なるナ
西田さんは愛他主義なぞ
説いてないし貴方の仰る
ニーチェ或いはサルトル
さえ僕は仏教的に観てる
ゴメンね....(⁎×﹏×⁎)💦
????
西田先生はどうも哲学者というより浄土真宗のお坊さんだった感じです。もともと哲学に向いてもいなかったし、自分がつかんだ「空」のアイデアを表現する言葉ももっていなかった人だと思う。いずれ、ありがとう!