日本人の常識⁉世界最古のオーケストラ「雅楽」の歴史と教養│山口創一郎✕松永光弘

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  • เผยแพร่เมื่อ 4 ส.ค. 2022
  • 01:51 雅楽のルーツ
    04:11 雅楽という言葉の意味
    08:56 なぜ日本で雅楽が伝承され続けたのか?
    13:45 明治前後で姿を変えた雅楽
    22:41 雅楽は何を表現しているのか?
    30:14 雅楽から生まれた言葉
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    雅楽演奏家・山口 創一郎
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    lit.link/sougagaku
    雅楽の演奏会「10月29日 さやま雅楽祭り」
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ความคิดเห็น • 89

  • @LandMark291
    @LandMark291 ปีที่แล้ว +21

    このようにどっしりと構えて座学を聴けるというのはなかなか、贅沢な事だし、本当に為になりますね。
    雅楽のほんの入口を紹介していただいただけなのに、奥が深いですよね。
    ありがとうございます。
    また、機会があればよろしくお願いします。

  • @kyamamoto5510
    @kyamamoto5510 ปีที่แล้ว +11

    日本人であるのに雅楽を知らない自分に大苦笑。
    奥ゆかしいお話有難うございました。

  • @Larphy002
    @Larphy002 ปีที่แล้ว +19

    3000年前 中国の周代の記録 礼記のなかに
    『礼記』「昧 まい(舞)、東夷の楽なり。任、南蛮の楽なり。 と記されています。
    3000年前の日本語 「まい」が今も伝えられています。

  • @Morinorobin_uk
    @Morinorobin_uk ปีที่แล้ว +13

    ヤマトと言う言葉は雅楽の太鼓からできた言葉と聞きましたが、孔子の時代の中国、又は韓国、ベトナムから日本にきたものなのでしょうか??全て大陸から日本に来たという考えに疑い深くなってますが。。

  • @user-cf5cp3pt6t
    @user-cf5cp3pt6t ปีที่แล้ว +6

    こんばんは、毎晩配信ありがとうございました。神社で、雅楽流れていましたね。

  • @user-sj9vo4ix1e
    @user-sj9vo4ix1e ปีที่แล้ว +2

    ありがとうございます。🎶🎶🎶
    詳しい 雅楽の内容を 教えて頂きありがとうございます。
    日本の歴史と文化を教えて頂き楽しく ご講義受けました。

  • @user-zz7bu3cj1z
    @user-zz7bu3cj1z ปีที่แล้ว +16

    とても興味深い楽しいお話しでした、源氏物語が好きなので光源氏が舞った青海波や、陵王の舞の話も出てくるのでこういういわれがあったのかと感慨深いし、平安時代が偲ばれて面白いです!

  • @user-wl3jy5xy6s
    @user-wl3jy5xy6s ปีที่แล้ว +5

    アメノウズメは伊勢神宮の内宮で「宮比神:みやびのかみ」という名で祀られています
    雅楽の雅は「みやび」なので繋がってますね

  • @user-lq4xj9mm5e
    @user-lq4xj9mm5e ปีที่แล้ว +3

    そうだったんですか、色々と雅楽からきた言葉ってあるんですね。奥が深いんですね、日本ってすごいなあ〜

  • @nekocat3999
    @nekocat3999 ปีที่แล้ว +7

    身近なものの凄さに気付けるようでありたいです。

  • @user-xd8it3vw8f
    @user-xd8it3vw8f ปีที่แล้ว +11

    すっきり日本古来の音楽と言っていいですね、外来からの影響がないものは外国にも勿論在りません、学者に由来は任せ子供たちに日本人としての誇りを持たせるのが私達大人の義務と思います

    • @seimeiabeno
      @seimeiabeno 6 หลายเดือนก่อน

      確かに由来は、学者まかせでもよいかもしれませんが、まずたくさん雅楽の曲を聞かなければ、誇りを持たせられませんよね。残念ながら、雅楽の曲自体を聞いたことが無い人が多くて、まして生演奏を聴いたことのある人は本当に少ないと思います。毎年、秋に宮内庁楽部が一般の人に公開している演奏会があるので、抽選にはなりますが、ぜひたくさんの人にきいてもらいたいとおもっております。

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c ปีที่แล้ว +5

    雅楽ー4
    雅楽の曲の分類と演目
    人長舞
    日本に古くから伝わるもの(国風歌舞 くにぶりのうたまい)
    神楽歌
    人長舞(にんじょうまい)
    東遊(あずまあそび)
    駿河舞
    求子舞(もとめごまい)
    大和歌(倭歌とも)
    大和舞(倭舞とも)
    久米歌
    久米舞
    大歌(おおうた)
    五節舞(ごせちのまい)
    誄歌(るいか)
    悠紀・主基(ゆき・すき)
    歌詞はs:国風歌舞を参照
    日本国外から伝来したもの
    左方舞・唐楽 ………中国、天竺(インド)、林邑(南ベトナム)系のもの
    右方舞・高麗(中国東北部)楽………渤海(中国の東北地方)、朝鮮、系のもの
    これらには上記の作風を真似て日本で制作された曲(本邦楽)も含む。
    平安時代にできた歌曲(謡物 うたいもの)
    催馬楽(さいばら)
    朗詠(ろうえい)
    今様(いまよう)
    歌詞は謡物を参照
    ※国風歌舞と謡物を古代歌謡と総称する場合がある。
    唐楽・高麗楽
    演奏形態
    楽器のみの演奏を管絃と言い、主として屋内で演奏され、舞を伴う演奏を舞楽と言い、主として屋外で演奏される。
    管絃は、管楽器、絃楽器、打物に分けることができる。 すなわち左方の楽は、管楽器は横笛、篳篥および笙を、絃楽器は琵琶および箏を、打物は太鼓、鉦鼓および鞨鼓を、右方の楽は、管楽器は高麗笛および篳篥を、絃楽器は琵琶および箏を、打物は太鼓、鉦鼓、三の鼓を、それぞれ用いる。 ただし略式では絃楽器が除かれる場合がある。 一曲を奏するには、はじめ音頭の横笛または高麗笛が一人奏し始め、これに打物がつき、付所(つけどころ)から他の管楽器がこれに合奏し、それから一二節ずつ遅れて順に琵琶および箏が参加する。 曲の終わりは、各楽器の音頭のみが止め手(とめて)を奏する。 管絃を奏するとき、同じ調に属する複数曲をあつめて、順に奏するので、最初にその調の音取(ねとり)または調子を奏する。 中古以降、その間に催馬楽および朗詠が加えられ、時にはうち1曲が残楽(のこりがく)とされた。
    楽曲の様式
    曲には序(じょ)・破(は)・急(きゅう)があり、西洋音楽で言う第一楽章、第二楽章、第三楽章に相当する。
    序は一番ゆったりした流れで、自由な緩急で旋律を演奏する。
    破はゆったりした流れだが、拍子が決められていて小拍子(西洋音楽の小節に相当)を八拍として演奏する。
    急はさっくりした流れとなり、拍子は小拍子を四拍として演奏する。
    ただし、演目によっては必ずしも急が速いテンポとはならないので、あくまでも一組の曲の3番目ぐらいの意味である。
    序・破・急を完備する楽曲は、五常楽など極めて少ない。多くの場合、破のみあるいは急のみの演奏となる。序・破・急を通しで演奏することを「一具」と呼ぶ。

  • @kayanochino
    @kayanochino ปีที่แล้ว +16

    身近過ぎて気づいていないというよりは、実際学校の音楽室から閉め出されています。
    民族音楽学者の徳丸吉彦氏に言わせれば「(伝統音楽教育は)抑圧されている」(2021学会講演)
    日本に根付いた音楽なのに学校で教えないなんておかしいと思いませんか?

    • @erikasono565
      @erikasono565 ปีที่แล้ว +4

      そうでもないですよ。90年代以降、音楽の教育指導要綱が大きく変わり、日本の伝統音楽や各民族の音楽が教科書でも積極的に取り上げられています。
      私の大学時代のクラスメートで、観世流能楽師の奥さんになっている人がいて、旦那様名義で、中学の音楽の教科書に能楽の四つ割符などの読み方の項目を記載しています。
      彼女の能楽師である夫君や二人の息子たちは、中学の音楽の先生を生徒役にして、能楽の楽譜の読み方をどのように実際に中学の音楽の授業で教えるかの模擬授業もしているそうです。
      ちなみに、雅楽《越天楽》は、音楽の教育指導要綱が90年代に変わる以前から、共通鑑賞教材ですよね。
      -
      音楽の教育指導要綱が変わり、私のクラスメートのように伝統邦楽を教育の場に導入することに尽力する人たちがいても、実際の音楽教育がなかなか変わらないのは、徳丸氏も教鞭を執っていたお茶大音楽科を含め、音楽教師を養成する教育学部音楽科の教育カリキュラムがなかなか変わらないからでは?
      徳丸氏は、お茶大音楽科で、雅楽や能楽、或いは近世邦楽をきちんと教えていたのでしょうか?
      「(伝統音楽教育は)抑圧されている」「日本に根付いた音楽なのに学校で教えない」って、それは徳丸氏らの責任でしょう?
      *****
      芸大に邦楽科を設立する際、反対したのはむしろ伝統邦楽に関わっていた人達。
      でも、伝統邦楽が従来の閉鎖的な家元制度の中でだけ教えられている限り、学校音楽教育で伝統邦楽を教える動きは出てきません。
      ですから、芸大関係者は、伝統邦楽関係者の反対を押し切って、芸大に邦楽科を設立した。確か70年代のことだったと思います。
      それからもう半世紀が経過しているのに、徳丸氏は何をしていたのでしょう?
      -
      更に芸大楽理科では、西洋音楽史の教授だった服部幸三氏が、西洋音楽関係者の反対を押し切って、日本の民族音楽学の草分けだった小泉文夫氏を芸大教授に迎えました。
      また、やはり西洋音楽史を専攻していた高野紀子氏らの学生時代、「日本人なのに、日本の雅楽を芸大で教えていないのはおかしい」とのことで、高野氏らが中心となって雅楽奏者の東儀氏を招いて、楽理科の授業の一環として、雅楽の授業を開講させたそうです。
      のちに高野氏はドイツ留学を経て国立音大教授になり、国立音大でも雅楽の授業を開講させています。
      -
      長野オリンピック開会式で、雅楽版《君が代》を壇上で演奏した龍笛奏者の芝祐靖氏と笙奏者の宮田まゆみ氏は、芸大や国立音大で雅楽の指導に当たる傍ら、雅楽集団「令楽舎」を設立して活動を続けてきました。
      芝祐靖氏は、宮内庁楽部職出身ですが、宮田氏は、国立音大ピアノ科出身で、国立音大で雅楽と出会い、雅楽に目覚めて、笙演奏家になった方です。
      徳丸氏は、お茶大音楽科に雅楽その他の授業を取り入れ、伝統邦楽に開眼する学生を育てていらしたのでしょうか?
      徳丸氏が、西洋音楽史専攻である高野氏ほどのこともしてこられなかったのなら、なぜ今更、「(伝統音楽教育は)抑圧されている」「日本に根付いた音楽なのに学校で教えない」などと言えるのですか?
      *****
      更には、日本で伝統邦楽や民族音楽に関わっている人達は、対外的に日本の伝統邦楽をアピールする活動には消極的ですよね?
      私は西洋音楽史専攻で、専門は歴史的音楽文献学、つまりは自筆譜研究の専門家です。
      既に日本より在欧の方が長くなりましたが、当然、伝統邦楽を対外的にアピールする立場の人間ではありません。
      -
      しかしながら、私は2018年にアゼルバイジャン・シェキで開催されたユネスコ・アゼルバイジャン作曲家連盟・アゼルバイジャン文化省共催のシルクロード音楽祭に於けるでの国際シンポジウムで、病気欠席した日本人研究者の代理のピンチヒッターとして、開催10日前に急遽、研究発表を依頼されました。
      当然私は、「専門外だから」と断ったのですが、シンポジウムを取り仕切っていた知人のアゼルバイジャンの研究者から「日本から誰も参加しないのは困るから」と懇願され、雅楽の調が特定の機会や感情に応じて使い分けられていたことと、雅楽の各楽器特有の奏法、そしてそれが雅楽のもととなった中国の宮廷音楽や、引いてはシルクロードの反対側に位置する西洋音楽にまで共通点があることについてプレゼンテーションをしてきました。
      急なことでもあり、私は、芸大で芝先生の授業の際に配布されたプリントを基に、令楽舎に所属する後輩や、芸大で伝統邦楽や民族音楽を講じる先輩後輩の助力を仰いで、令楽舎のメンバーが演奏してくれた譜例などをパワーポイントで説明しました。
      -
      後日私は、協力してくれた民族音楽教授に、「今回は急だったから仕方がないけれど、次回はこういう時にはあなたが行ってね」と言ったのですが、なんと彼は、「シンポジウムを仕切っていたアゼルバイジャンの研究者の方には、僕のことは言わないで」と。
      実は私は、アゼルバイジャンの知人の研究者からだけではなく、参加していたウズベキスタンその他の研究者からも、「次回、私たちのところでこういうシンポジウムがあったら、またあなたに連絡していい?」といわれていて、専門外の私がこういう立場であたかも日本代表のように見られることに当惑。
      でも、こんなことになってしまうのは、要は徳丸氏も含め、日本の伝統邦楽や民族音楽の研究者たちが、きちんと対外PRをしないからでしょう?
      ひとつには、小泉氏や、その後任として国立音大から移ってきた柘植氏のように英語の堪能な研究者が少ないからなのかもしれませんが、努力不足でしょう?
      -
      (続く)

    • @erikasono565
      @erikasono565 ปีที่แล้ว +2

      (続き)
      -
      私は若い頃、外務省・日本外交協会共催の国際問題論文・討論コンクールに入賞してアセアン五か国親善訪問をした経験もあり、この種のことは文化外交だと割り切っています。
      ですから、伝統邦楽や民族音楽専攻の日本人研究者たちが協力してくれて、私は、要は通訳に毛が生えたくらいのつもりで英語でプレゼンテーションをしてくればいいだけなら、別に構いません。
      このアゼルバイジャンでの国際シンポジウムは、アゼルバイジャン国内での移動、宿泊、食事はすべて開催者もちで、バクー空港からシェキへはマイクロバスで送り迎え、そしてリゾート地シェキでの高級リゾートホテルのスウィートルームの宿泊(ダブルベッドの寝室、大型液晶画面のテレビがあるリビング・ダイニング・キッチン、広々としたバスルーム付き)、毎食レストランでの会食と、コンサートなど盛りだくさんのプログラムや、各国から来た研究者との交流で結構楽しませてもらったしね。
      ですから、誰も他に行きたい人がいなくて、それでも日本から一人も参加者がいないのは不都合だと開催者側が言うのであれば、皆が協力してくれて、参加費も出してくれるのなら、私が行きます。
      でも、在外生活が長くて、外国語慣れしているという理由だけで、いつまでも門外漢の私にお任せというのは不自然。
      第一、そんな状態なのに、「(伝統音楽教育は)抑圧されている」、「日本に根付いた音楽なのに学校で教えない」などと言えた義理ではないでしょう?
      徳丸氏は、もし私のように開催10日前にピンチヒッターでプレゼンテーションしてくれるように依頼されたら、行くのでしょうか?
      -
      ちなみに、2018年にアゼルバイジャンで開催された国際シンポジウムの公用語は、アゼルバイジャン語、ロシア語、英語で、旧ソ連圏からの参加者が多かったため、食事中などの会話や、シンポジウムの実行委員などとの会話はロシア語。
      シンポジウムには公用語3か国語の同時通訳がついたため、私の発表言語は英語でもよかったのですが、パワーポイントプレゼンテーションは英語とロシア語を併記しました。
      実際問題、ロシア語が全く理解できない状態だと、参加するのは少し厳しかったかもしれません。
      でも、小泉文夫氏は、世界中にフィールドワークに行く前に必ず現地の言語を習得してから行かれたそうで、一つの言語の基本を1か月でマスターしていたとのこと。
      民族音楽学者を自称しながら、その努力をしないのは軟弱ではありませんか。
      *****
      実際の音楽教育の現場に関しても、「(伝統音楽教育は)抑圧されている」、「日本に根付いた音楽なのに学校で教えない」って、それは学校側のやり方次第。
      伝統邦楽の授業ができる音楽教師を育成しない徳丸氏も悪いけれど、公立校の音楽教育がそういう状態なのは、教育委員会も悪いのでは?
      -
      私の母校の中高は、アメリカ系ミッションスクールで、当然ながら、英語教育や西洋音楽教育には熱心です。
      ですが、日本史や伝統邦楽の教育に関しても、明らかに普通の公立校より遥かにレヴェルが上です。
      -
      前述の笙演奏家、宮田まゆみさんは、母校の中高の先輩。宮田さんが教育実習で母校に戻ってきた際には、日本の民俗音楽について授業し、当時中学生だった我々の日本史の授業を、宮田さんは机と椅子を持ち込んで聴講し、熱心にノートを取っていました。
      ちょうど平安時代を扱っていたので、雅楽の時代背景を知るのに参考にしていたようです。
      母校の礼拝堂では、卒業生らによるサタデーコンサートが開催されていて、女優になった卒業生が源氏物語を朗読し、宮田さんが笙と竽を演奏し、神戸愉樹美さんがヴィオラ・ダ・ガンバを演奏する「源氏物語の夕べ」が開催されたこともあります。
      また、能楽堂を貸し切りにして、母校の生徒だけのために能・狂言を上演してもらったり、三味線の家元である卒業生を講師に招き、高校の音楽選択授業で三味線を教えてもらったり。
      -
      「(伝統音楽教育は)抑圧されている」、「日本に根付いた音楽なのに学校で教えない」……?
      少なくとも、私の母校ではそんなことはありませんでしたね。私自身、母校で教育実習をした時には、共通鑑賞教材である《越天楽》と《黒田節》を例に、いかに雅楽が伝統邦楽の底流に流れ続けていたかを解説しましたし。
      アメリカ系ミッションスクールの母校で伝統邦楽がこれだけ教えられていて、普通の公立校では全く教えられていないのはなぜ?
      それは、まず、徳丸氏を含め、音楽教師養成機関の教授たちの責任、ついで教育委員会と公立校側の責任でしょう?

    • @kayanochino
      @kayanochino ปีที่แล้ว +2

      @@erikasono565
      興味深い体験談をありがとうございます。
      徳丸氏の発言を引用しましたが、私は別に「徳丸派」に属しているわけではなく擁護する義理はありません。しかし日本の教育現場での伝統音楽教育が遅れているのを彼一人や彼の周りの人たちの責任にするというのも違うかなと思います。
      私が学生の時はせいぜい越天楽・春の海・ノヴェンバー・ステップス(伝統音楽というわけではありませんが)くらいしか習わなかったので、それよりはマシになってきているのですね。
      とはいっても西洋音楽をやるなら、伝統音楽をベースとして、その視点からの西洋音楽の再解釈を提供するぐらいでないと、日本人の音楽家・研究者はいつまでたっても「学生」のまま、世界の音楽文化に何も貢献することができないと思います。小泉氏などの例外を除いて、自国の音楽文化について大して語ることができない人ばかり、というのは大問題です。日本人である限り、あなたも決して「専門外」なんかではないはずです。
      小泉氏の名前が出たのでついでに言うと、私の研究分野はテトラコルド理論と西洋音楽理論の橋渡しをすることです。これができれば西洋音楽理論を相対的に見ることができるようになり、これまでよりも豊かな音楽が作られるようになると確信しています。
      いくつか作品を紹介して「日本という国ではこんな民族音楽をやっていたんだよ」なんて態度で教えるのは、閉め出しと変わらないと個人的には認識しています。これでは伝統音楽について他人事になっても仕方がありません。吹奏楽部や軽音部はあっても雅楽はおろか、三味線や琴を演奏する部活すら(探せばあるかもしれませんが一般の学校では)ないのでは、やはり抑圧されている・閉め出されているとしか考えられないのです。
      私のところではちゃんと教えていた、とかあの学校では力を入れている、とかでは不十分です。国は西洋音楽と伝統音楽の間で自由放任主義であってはいけません。伝統音楽を守るのは個人の頑張りではなく国の責任です。決して排外的な理由からではなく、日本伝統音楽からの視点という、かけがえのない多様性を守るためです。

  • @user-fj6ew2sy7k
    @user-fj6ew2sy7k ปีที่แล้ว +5

    何日か前に、日本語で普段使っている言葉の語源が気になっていたので、タイムリーな動画でした。

  • @DaruiRama
    @DaruiRama ปีที่แล้ว +3

    雅楽は唐から伝わってきた音楽だけど、唐の音楽は遥かシルクロードを渡って、メフテル(トルコ軍楽隊)の音楽がルーツで、クラシックのオーケストラもメフテルだから、いずれにしても中近東がルーツで同じところから派生しています。東洋の方が音楽に親しむのが早かったということですね。

  • @skyposition.1711
    @skyposition.1711 ปีที่แล้ว +2

    地元山形県河北町では、大阪四天王寺流れの林家舞楽があります1300年前の古典的な所作を今に伝えています
    PRになりますが是非グクッてみてください。

  • @user-hj7hi6dp7k
    @user-hj7hi6dp7k ปีที่แล้ว +6

    空海の真言宗が神仏混合だった。初詣での参拝者が来るお寺は、真言宗が多いと思う。
    香川県の総本山善通寺に勤めていたころ、法要のとき雅楽の笙(しょう)をよく聞きました。
    おっしゃる通り、大きい寺だけ残っていると思う。
    それと、
    上の世代の僧侶から金毘羅さんについて聞いた。
    金毘羅(こんぴら)さんのマーク『金』が入った仏具が多数残っているらしい。
    神仏混合とはいえ、明治以前の古い寺の境内図をみても、同じ区域にあるが、
    しかし、神社拝殿と寺のお堂は別になっている。

  • @nabekura4029
    @nabekura4029 ปีที่แล้ว +3

    甲乙の甲が高い音を意味していたというのは初耳です。
    甲高い声ってのはそこからきてるんすかね?
    雅楽は序破急の三楽章構成から成っているのは聞いたことありますが、現在はいずれかが欠損しているものが多いということですか。
    そうなってくると欠けている楽章を推測して復元するというのは面白そうですね。

  • @Figreflekt
    @Figreflekt 5 หลายเดือนก่อน +2

    クラシックという括りは、よろしくないです。何故ならば、ギリシャのテトラコルドの時点から考えると、紀元前からの歴史があるからです。でも、この頃のクラシックは、儀式的で宗教的で、民俗的でした。
    500年前のクラシックは、ルネサンス後期で、その時の西洋音楽は、まさしく西洋の神に祈りを捧げるものでしたが、
    すぐに歪な真珠と呼ばれるバロック音楽が興り、ポピュラー音楽の元祖が作られました。
    皆さんがギターをジャカジャカ弾いて嗜むのは、ジャン・フィリップ・ラモーの機能和声の成り立ちがあるからです。そこから、即興音楽が発展しました。
    のちの古典派のモーツァルトの破天荒さは、有名な逸話です。
    雅楽の素晴らしいところは、ラモーの築いた俗世的ポピュラー音楽的ルールよりも、
    より古典旋法的なポリフォニーが"現存"し、古来の全世界津々浦々の宗教音楽で見られる五音音階が使われ、その響きを聴くと日本人は、「神社の風情」「初詣の風情」を感じます。
    これはまさしく国民に根づいた文化財なのです。

  • @irusupii
    @irusupii ปีที่แล้ว +3

    雅楽をゆっくり聴く心の余裕こそ、調和の心だと思います。

  • @philosophydoubtfuljournalcom
    @philosophydoubtfuljournalcom ปีที่แล้ว +2

    あの笛の一番いいやつの音を聞いてみたい。

  • @Your_Life_is_Good
    @Your_Life_is_Good 5 หลายเดือนก่อน +1

    戦国時代であっても明治維新であっても第二次世界大戦終戦であっても天皇は継続して存在していたのが大きい

  • @ooamisannmu7690
    @ooamisannmu7690 ปีที่แล้ว +2

    雅楽は戦で一度滅びたと
    地方に散った人々を集めて再編成して再編集したとか

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c ปีที่แล้ว +1

    雅楽ー9
    雅楽を鑑賞する機会
    コンサートホールではなく神社等で行われるもの。※は童舞(厚化粧の少年、または少女)が登場
    北海道
    東北
    5月5日:一切経会慈恩寺舞楽 - 慈恩寺(山形県寒河江市)
    8月12日:御鎮座記念祭 雅楽の夕べ - 大崎八幡宮(宮城県仙台市)
    9月14日、15日:林家舞楽 - 谷地八幡宮(山形県河北町)
    北関東
    5月上旬:雅楽鑑賞の夕べ - 群馬県護国神社(群馬県高崎市)
    10月上旬:雅楽秋の演奏会 - 貫前神社(群馬県富岡市)
    11月中旬:舞楽祭 - 笠間稲荷神社(茨城県笠間市)※
    南関東
    7月上旬:雅楽の夕べ - 大宮八幡宮(東京都杉並区)
    10月上旬:乃木神社管絃祭 - 乃木神社(東京都港区)
    中部
    4月16日:東照宮祭 - 名古屋東照宮(愛知県名古屋市中区)
    4月29日:春季神楽祭 - 伊勢神宮(三重県伊勢市)※
    5月1日:舞楽神事 - 熱田神宮(名古屋市熱田区)※
    9月中旬:仲秋管絃祭 - 静岡浅間神社(静岡市葵区)※
    京都府
    4月上旬:お花祭 - 観音寺(山崎聖天)(京都府大山崎町)※
    5月中旬:三船祭(京都市右京区)※
    7月7日:水祭り - 貴船神社(京都市左京区)※
    9月15日未明:石清水祭 - 石清水八幡宮(京都府八幡市)※
    11月中旬:嵐山もみじ祭(京都市右京区)※
    その他の近畿地方
    4月22日:聖霊会 - 四天王寺(大阪市天王寺区)※
    5月5日:こどもの日舞楽演奏会 - 春日大社(奈良市)※
    5月上卯日:卯之葉神事奉納舞楽 - 住吉大社(大阪市住吉区)※
    6月10日:漏刻祭 - 近江神宮(滋賀県大津市)
    中秋の名月:観月祭 - 住吉大社(大阪市住吉区)
    9月下旬:雅楽の夕べ - 生田神社(兵庫県神戸市中央区)
    11月3日:文化の日舞楽演奏会 - 春日大社(奈良市)※
    中国
    四国
    九州
    通年:「古民家喫茶室ギャラリー雲の森(雲八幡宮文化館)」にてコーヒーを注文すると聴くことができる(不定休) - 雲八幡宮 (大分県中津市)
    また、雅楽協議会が2005年より発行している雅楽だよりや、アメリカ合衆国スタンフォード大学音楽学部CCRMAのウェブサイトで、雅楽や現代雅楽の研究成果を閲覧できる。
    海外
    近年は日本国外においても雅楽の価値が高まり、特にアメリカ合衆国コロンビア大学では雅楽アンサンブルが結成され、熱心な指導が行われ、学生を京都、東京に派遣している。

    • @erikasono565
      @erikasono565 ปีที่แล้ว +2

      宮内庁楽部の演奏が年1回、4月頃に国民に公開されており、希望者は往復はがきで申し込み、当選すると招待状が届きます。
      私は80年代に芝祐靖氏から入場券を頂いて聞きに行ったのですが、恐らく今でも行われていると思いますので、調べてみて下さい。
      -
      龍笛奏者の芝祐靖氏と笙奏者の宮田まゆみさんが設立した民間雅楽集団令楽舎が、全国を回ってコンサートツァーを行っています。
      私がアゼルバイジャンでの国際シンポジウム発表の際にお世話になった令楽舎の篳篥奏者は、スタンフォード大学でウェブ公開されている篳篥収録もしています。
      令楽舎は、アラブ音楽などとのコラボもあり、国際的に活躍しています。
      -
      雅楽は、芸大、国立音大、天理大学などでも講じられており、大学祭の折には、学生の演奏を聴くことができます。
      芸大の大学祭は9月。雅楽のほか、インドネシアのガムラン音楽など世界各国の音楽の演奏もあります。学外の方も入場自由ですので、聴いてやってください。

    • @user-zf1bn1ub5c
      @user-zf1bn1ub5c ปีที่แล้ว

      @@erikasono565
      ご丁重にありがとうございますm(__)m
      芸大とは上野の東京芸大、国立とは国立の国立音大のことですね。
      日本でもう少し認知が広がればという氣がしていますが、日本の良きものは海外で先に評価される傾向があるのかという気がしています。
      一般的になりすぎると品格が落ちるという傾向もあるかもしれませんが後進のご指導なども含めて今時は苦労されてるかという氣が致します。
      演奏者の方かと拝察しましたが、ご活躍をお祈り申し上げますm(__)m
      以下、ご興味のある方々の為に補足を書いておきます。
      芝 祐靖
      (しば すけやす、1935年〈昭和10年〉8月13日 - 2019年〈令和元年〉7月5日)は、日本の雅楽師、作曲家。勲等は文化勲章。株式会社ブルーシート所属、日本芸術院会員、文化功労者。筆名として祁笛(きてき)を用いることもある。
      宮内庁式部職楽部楽師、東京芸術大学音楽学部講師、一般社団法人伶楽舎代表理事、国立音楽大学音楽学部招聘教授などを歴任した。
      概要
      東京府出身の雅楽師である。日本芸術院会員である芝祐泰の三男として生まれた。宮内庁の式部職にて楽部の予科、本科を経て楽生科を卒業し、のちに楽部にて楽師を務めた。また、東京芸術大学や国立音楽大学で教鞭を執り[1]、後進を育てた。雅楽演奏集団である「伶楽舎」の結成に参画すると、その音楽監督を務めるとともに、代表理事などを歴任した。なお、音楽事務所である「ブルーシート」に所属していた。その業績に対しては、芸術選奨文部大臣賞や日本芸術院賞・恩賜賞などが授与されており、2017年には雅楽師として史上初めて文化勲章を受章した。また、父と同じく日本芸術院会員に選任されていた。
      来歴
      狛氏の一族で代々続く雅楽師の家柄。祖父・芝祐夏の代から宮内庁楽部で楽師を務める[1]。自身も10歳から横笛や琵琶などを習う[1]。雅楽に仕える一方で、オーケストラ作品も作曲している[2]。宮中晩餐会において、天皇と国賓が豊明殿に入場する際に演奏される曲「親愛」は、同氏が作曲したものである[3]。
      2019年7月5日、悪性リンパ腫のため東京都の自宅で死去[4]。83歳没。

  • @bassist6192
    @bassist6192 ปีที่แล้ว +1

    万世一系!

  • @japansafer6861
    @japansafer6861 ปีที่แล้ว +2

    雅楽という言葉がのっている論語って2500年前の春秋戦国時代ですよね。それって中国と呼んでいいものかどうか悩みますよね。

  • @woods9033
    @woods9033 ปีที่แล้ว +1

    世界でも まれな 気質 ここに 日本人の本質を見ました

  • @user-vy4ug8ru4c
    @user-vy4ug8ru4c ปีที่แล้ว

    雅楽って、中国人の方々が比喩として日本には古代の中国が存在しているの話ですよね。
    『中国人が古代の自国の文化を知りたければ日本に言った方が良い』
    と言ったのはフランスの社会人類学者のクロード・レヴィ=ストロースでしたよね!

  • @erikasono565
    @erikasono565 ปีที่แล้ว +4

    篳篥は確かに主旋律かもしれませんが、龍笛は篳篥の旋律を装飾・敷衍していて、龍笛の唱歌もそのように歌うし、笙の唱歌は、笙の和音の基音を歌っているのであって、篳篥の旋律を歌っているわけではありませんよね?
    和音の基音が唱歌になっているのは、楽筝や琵琶などの弦楽器の場合も同じ。
    -
    雅楽は、同じ旋律を各楽器がそれぞれの流儀にアレンジして同時に奏でる、一種のヘテロフォニー。
    ですから、鞨鼓がリズムをコントロールすれば、指揮者は不要なのは、ある意味当たり前だと思います。
    -
    西洋音楽のオーケストラも、実は19世紀半ば過ぎまで、小編成のオーケストラなど、ヴァイオリンも立って演奏し、コンサートマスターが指揮者を兼ねることの方が多かったそうです。
    「阿吽の呼吸」が必要なのは、西洋音楽でも同じ。そうでなければ、室内楽などせいりつしないではありませんか。
    そもそも、雅楽の編成は、西洋の特に19世紀後半の大オーケストラとは違って室内楽的な小編成だしね。
    インドネシアのガムランも、太鼓がコンサートマスター的にリズムをコントロールするけれども、雅楽と同じで基本的にはヘテロフォニーで指揮者がいないのは同じですし。
    -
    「西洋音楽の記譜法は五線譜」というのも、歴史的には正しくありません。
    五線譜が使われるようになったのはバロック時代くらいからで、それまでは古代ギリシャ音楽以降、楽器を使う音楽はタブラチュア、中世のグレゴリオ聖歌は、声明や催馬楽などの楽譜に似たネウマ譜です。
    ルネッサンス期にグレゴリオ聖歌を定旋律(カントゥス・フィルムス)にして発達した多声音楽は、定量記譜法という独特の楽譜で書かれています。
    雅楽の管弦の楽譜も、一種のタブラチュアですから、その意味では、日本でも西洋でも、古い時代の音楽は、器楽はタブラチュア、声楽はネウマ譜や墨譜で書かれていたわけで、似たようなものです。
    *****
    ついでに言ってしまえば、雅楽の歴史は1000年、西洋音楽の歴史は500年くらいだから日本の雅楽の方が歴史が古いというのは間違いです。
    雅楽は、天皇の朝廷が基本的に神道を祀るのが第一義であり、その朝廷を中心とする宮廷社会や神社で主として伝承されてきたという意味で、西洋音楽におけるグレゴリオ聖歌と最も近い位置にあると私は考えます。
    -
    グレゴリオ聖歌は、キリスト教西洋社会の根幹にあるローマカトリック教会の典礼音楽の基盤であり、中世以来、約1000年、ほとんど変わらずに教会や修道院で伝えられてきています。
    西洋社会における中世は、日本で雅楽が現代に伝わるような形で整備された平安時代とほぼ同時期ですから、どちらも歴史は約1000年です。
    -
    明治維新以降、洋楽を日本人が受容した際、主として古典派以降のオーケストラ曲を中心に取り入れたのは、鹿鳴館の舞踏や軍楽隊で互いの国歌を儀礼的に演奏する必要があったため。
    明治政府は、新たな国民的音楽の基礎として小学校唱歌を作る際、西洋の民謡やリートに日本語の歌詞をつけたこともありましたが、言葉の問題もあり、西洋社会では今でも貴族や富裕層のサロンの中心であるオペラの受容は遅れました。
    更には、明治政府は天皇親政のために国家神道を宗教的基盤としましたから、西洋キリスト教社会と西洋音楽の根幹にあるグレゴリオ聖歌などの教会音楽は、意図的に無視して取り入れませんでした。
    -
    ですから、日本人は、西洋音楽と言えば、あたかも五線譜で書かれた近代的なオーケストラがすべてであるかのように錯覚している、。
    これは大きな間違いです。
    ちなみにドイツ・オーストリアで始まった音楽学、つまり音楽の歴史や理論を体系的に学ぶ学問の主対象は、今でも一般の日本人にはほとんど知られていない、バッハ以前、バロック音楽以前の音楽です。

  • @kaisermuto
    @kaisermuto 5 หลายเดือนก่อน

    雅楽1300年以上、神社の祭りの鳴り物3000年以上。日本には8万6千の神社がある。

  • @user-mp5fk4gk4s
    @user-mp5fk4gk4s ปีที่แล้ว

    小学校や中学校の音楽の授業ではもっぱら西洋のクラシック音楽を聴いたり、西洋の楽器が利用されており、雅楽が取り上げらることはありませんでした。和楽器もまったく授業で扱わず。今から振り返ってみると不自然に感じますね。これもGHQの占領政策の影響なのだろうか?

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c ปีที่แล้ว +1

    雅楽ー3
    明治時代に入ると、明治政府によって三方楽所や紅葉山楽所の楽人が東京へ招集され、雅楽局(後の宮内省雅楽部)が編成された。 しかし各楽所・楽家によって演奏方法や舞の振り付けが異なっており、伝承されていた楽譜や曲目にも差があった。そこで無用な軋轢や演奏に際しての不都合を避けるために急遽これらを統一する作業が行われた。このとき楽曲の取捨選択が行われ、明治選定譜と呼ばれる楽譜が作成された。明治撰定譜の楽曲がどのような考え方で選ばれたのかは不明である。明治撰定譜の作成後は選定曲以外の曲の演奏を行わない事になったため千曲以上あった楽曲の大半が途絶えたとされている。 しかし、江戸時代後期には既に八十曲あまりしか演奏がなされていなかったとの研究もあり、この頃まで実際にどの程度伝承されていたかはよくわかっていない。
    雅楽の演奏風景(2010年)
    現在、宮内省雅楽部は宮内庁式部職楽部となり百曲ほどを継承しているが、使用している楽譜が楽部創設以来の明治選定譜に基づいているにもかかわらず昭和初期から現代にかけて大半の管弦曲の演奏速度が遅くなったらしく、曲によっては明治時代の三倍近くの長さになっており、これに合わせて奏法も変化している。これは廃絶された管絃曲を現代の奏法で復元した際に演奏時間が極端に長くなったことにも現れている。このような変化や律と呂が意識されなくなってきている事などから現代の雅楽には混乱が見られ、全体としての整合性が失われているのではないかと見ている研究者もいるが、その成立の過程や時代ごとの変遷を考慮すれば時代ごとの雅楽様式があると見るべきで、確かに失われた技法などは多いが現代の奏法は現代の奏法として確立しているとの見方もある。
    近年では伶楽舎などの団体が廃絶曲を現代の雅楽様式に合わせて編曲して復曲する試みを行っている。失われた演奏技法や廃絶曲を古楽譜などの当時の資料に基づいて復元し、平安時代の雅楽様式を再現する試みを行っている団体もある。また、後述のように雅楽の新曲や雅楽の要素を含んだ音楽の創作活動も行われている。
    雅楽の演奏を、インターネットの動画共有サービスやイベントで披露する個人やグループもある[5]。
    現代の雅楽における諸問題
    伝統的製法の楽器や舞楽装束は元々需要が殆ど無かった事もあり、職人の技量の維持や技術の継承が難しくなってきている。具体的に一例を挙げると割管という龍笛や篳篥の製作技法を持つ職人は今や数人しか残っていない。
    雅楽の民間への普及は進んでいるものの、実力のある指導者が少なく寺社などで技量を問われず慣習によって演奏を任される場合が多いため技量の低い団体が非常に多くなっている。さらに技量の低い者が指導を行い、間違った演奏方法、舞楽の舞い方が広まるという悪循環に陥っている。また、寺社の関係者の場合は儀式のために仕方なくやっているという意識の者も多く技量向上に関心を示さないというケースが多い。
    宮内庁式部職楽部においては楽師の定員が少なく、年間の活動時間の大半を洋楽に取られているため雅楽の技量の維持が難しくなっており若手の楽師に細かい技法の伝承がうまくなされていないのが現状である。
    日本音楽著作権協会(JASRAC)が演奏者に使用料の申告を要請する事例が発生したが、直ぐに和解をしている。これについて協会は「著作権消滅等、管理楽曲のないことが確認できた場合には、当然に著作物使用料のお支払いは必要ございません」「雅楽は平安時代から伝わる古典芸術であり、通常は著作権が存在するような楽曲ではありません」とした上で、「しかし、現代雅楽など著作権の存続する楽曲がこれら催物において利用される場合もある」との事である。因みに今回の事例は、申告要請された演奏者は古典芸術のみの演奏しかしないために使用料の発生がしなかったからである。
    笙に使われる竹は、本来は茅葺家屋の屋根裏で長期間囲炉裏の煙で燻されたもの(煤竹)が使われており、そのような家が解体されるときに、楽器製作者が貰い受けているが、そのような家屋自体が激減し、材料難となっている。そのため近年作られる笙のうち大部分は白竹で作られた笙である。

  • @clatro00
    @clatro00 ปีที่แล้ว

    クラシックって言うほど古い音楽じゃない。弦楽器はともかく、管楽器は産業革命後に発展した工業製品だしね。

    • @erikasono565
      @erikasono565 ปีที่แล้ว +5

      西洋芸術音楽を「クラシック音楽」と呼ぶのは日本特有の呼び方で、いわば誤訳です。
      欧米諸言語では、例えばロマンは音楽に対する対語としてウィーン古典派音楽という言い方はしますが、西洋芸術音楽一般を「クラシック音楽」とは呼びません。
      -
      また、西洋芸術音楽の基盤にあるのは、古代ギリシャ音楽から旋法理論を継承した中世のグレゴリオ聖歌です。
      明治期に鹿鳴館舞踏音楽や儀典的な軍楽隊音楽の必要に迫られ、明治政府が洋楽を移入した際、キリスト教の教会音楽であるグレゴリオ聖歌や、それに基づくルネッサンス期のポリフォニー音楽は、異教の音楽ということで、意図的に需要対象から外されました。
      また、欧米各国では、現在に至るまで支配者階級、富裕層のサロンに中心であるオペラも、言葉の壁から受容が遅れました。
      そのため、日本に於ける西洋芸術音楽の受容は、五線譜に書かれた古典派以降のオーケストラ曲中心という、非常に偏ったものになりました。
      -
      これは日本側の問題であり、これをもって西洋芸術音楽の歴史は日本の雅楽などより浅いと考えるのは、大きな間違いです。
      西洋芸術音楽の根幹をなしているグレゴリオ聖歌は、約1000年前の中世期に成立し、現在までほぼ同じ形で伝承されています。
      西洋の中世は、日本で雅楽が現在の形に整えられた平安時代に相当します。ですから、西洋音楽が日本伝統音楽より新しいと考えるのは誤りです。
      *****
      また、オーケストラの楽器も、現在のような形になったのは19世紀半ば以降ですが、当然ながら、その時期に急にできたわけではありません。「管楽器は産業革命後に発展した工業製品」という言う言い方は間違いです。
      特に管楽器の場合、現在は金属で作られていることが多いフルートなどの木管楽器がベーム式の近代的な鍵を備えるようになったのは19世紀半ば以降で、当初は黒檀などの木製に取り付けられていました。
      それ以前、18世紀頃までは、鍵のない木製で、当然ながら手作り。次第に金属の鍵が部分的に取り付けられるようになりましたが、20世紀に入っても、近代的で合理的なベーム式鍵を取り付けた金属製のフルートと、黒檀などの木管に古風なフュルステナウ式の鍵を取り付けた楽器が併存していました。
      金管楽器も、例えばホルンなどは、もともとは動物の角で作られた角笛です。
      次第に金属が使われるように名は何りましたが、初期の金属製ホルンはまだ弁がない自然ホルンで、手作りで鋳造されていました。
      ウィーンフィルなどは、イマダニホルンやオーボエなど、古風な独自の楽器を使っています。
      -
      現代使われている多くの楽器が工業的に作られているのは、西洋のオーケストラの管楽器だけではありません。
      ヴァイオリンなどの弦楽器も、安価な鈴木ヴァイオリンなどをはじめとして、現在では多くは興行的に作られています。
      むしろ、欧州では、未だに職人が手作りで選定した木を削って制作したヴァイオリンが多く作られています。
      新品は200万円くらいしますが、欧州では20世紀初頭以前の古い弦楽器を職人が修理したものが比較的安価に手に入るので、そうしたものを使う人も多い。
      むしろ日本で売られているヴァイオリンは、ドイツやチェコなどの会社のものでも、経費削減のため、中国の工場で作られているものがほとんどです。正直、欧州では見向きもされないものでしょうけれど。
      -
      和楽器も、安いものは工業的に大量生産されていますから、その意味では同じことです。

  • @user-kq5hs4hx2i
    @user-kq5hs4hx2i ปีที่แล้ว +1

    烏帽子のサイズがおかしくない❓😅

  • @kouseiyamada1402
    @kouseiyamada1402 ปีที่แล้ว

    1300年って事は、持統帝以降のものという事ですね。

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c ปีที่แล้ว +1

    歌舞伎ー3
    文化 - 幕末
    『十一段目』左から三代目岩井粂三郎の大星力弥、五代目澤村長十郎の大星由良助、二代目市川九蔵の寺岡平右衛門。嘉永2年(1849年)7月、江戸中村座。三代目豊国画。
    これまで歌舞伎の中心地は京・大坂であったが、文化文政時代になると、四代目鶴屋南北が『東海道四谷怪談』(四谷怪談)や『於染久松色読販』(お染の七役)など、江戸で多くの作品を創作し[39]、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。南北はまた生世話(侠客や相撲取りの意地の張り合いや心中事件などを扱う狂言[40])を確立して評判を得た[40]。
    天保3年(1832年)には七代目市川團十郎(当時は五代目市川海老蔵)が歌舞伎十八番の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」として18の演目を明記した刷り物を贔屓客に配り、天保11年(1840年)に 松羽目物の嚆矢となった『勧進帳』を初演した際に現在の歌舞伎十八番に固定した。
    その後、大南北や人気役者の死去と天保の改革による弾圧が重なり、歌舞伎は一時大きく退潮した。天保の改革の影響は大きく、七代目市川團十郎が奢侈を理由に江戸所払いになったり(天保13年)、役者の交際範囲や外出時の装いを限定されたりと、弾圧に近い統制がなされたばかりか、堺町・葺屋町・木挽町に散在していた江戸三座と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外[注 5]に移転させられた[41]。移転先の聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名にちなんで猿若町(さるわかまち)と改名された。
    しかし、江戸三座が猿若町という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花した。
    幕末から明治の初めにかけては、二代目河竹新七(黙阿弥)が『小袖曾我薊色縫』(十六夜清心)、『三人吉三廓初買』(三人吉三)、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)、『天衣紛上野初花』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった[42]。
    江戸時代、歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(賎民)として身分上は差別された[43]とされる。
    文化 - 幕末
    『十一段目』左から三代目岩井粂三郎の大星力弥、五代目澤村長十郎の大星由良助、二代目市川九蔵の寺岡平右衛門。嘉永2年(1849年)7月、江戸中村座。三代目豊国画。
    これまで歌舞伎の中心地は京・大坂であったが、文化文政時代になると、四代目鶴屋南北が『東海道四谷怪談』(四谷怪談)や『於染久松色読販』(お染の七役)など、江戸で多くの作品を創作し[39]、江戸歌舞伎のひとつの全盛期が到来する。南北はまた生世話(侠客や相撲取りの意地の張り合いや心中事件などを扱う狂言[40])を確立して評判を得た[40]。
    天保3年(1832年)には七代目市川團十郎(当時は五代目市川海老蔵)が歌舞伎十八番の原型となる「歌舞妓狂言組十八番」として18の演目を明記した刷り物を贔屓客に配り、天保11年(1840年)に 松羽目物の嚆矢となった『勧進帳』を初演した際に現在の歌舞伎十八番に固定した。
    その後、大南北や人気役者の死去と天保の改革による弾圧が重なり、歌舞伎は一時大きく退潮した。天保の改革の影響は大きく、七代目市川團十郎が奢侈を理由に江戸所払いになったり(天保13年)、役者の交際範囲や外出時の装いを限定されたりと、弾圧に近い統制がなされたばかりか、堺町・葺屋町・木挽町に散在していた江戸三座と操り人形の薩摩座・結城座が一括して外堀の外[注 5]に移転させられた[41]。移転先の聖天町は江戸における芝居小屋の草分けである猿若勘三郎の名にちなんで猿若町(さるわかまち)と改名された。
    しかし、江戸三座が猿若町という芝居町に集約されたことで逆に役者の貸し借りが容易となり、また江戸市中では時折悩まされた火事延焼による被害も減ったため、歌舞伎興行は安定を見せ、これが結果的に江戸歌舞伎の黄金時代となって開花した。
    幕末から明治の初めにかけては、二代目河竹新七(黙阿弥)が『小袖曾我薊色縫』(十六夜清心)、『三人吉三廓初買』(三人吉三)、『青砥稿花紅彩画』(白浪五人男)、『梅雨小袖昔八丈』(髪結新三)、『天衣紛上野初花』(河内山)などの名作を次々に世に送り出し、これが明治歌舞伎の全盛へとつながった[42]。
    江戸時代、歌舞伎役者らは伝統的に「河原者」(賎民)として身分上は差別された[43]とされる。

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c ปีที่แล้ว

    雅楽ー7
    雅楽の楽譜
    笙の楽譜は、基本的には合竹の名前を順に並べたものとなっている[8]。それに対して、篳篥と龍笛の楽譜は、唱歌がカタカナで書いてあり、その左側の漢字が音程を表す。いずれの場合も、右側には黒丸や小さな黒点が書いてあり、黒丸は拍子、黒点は小拍子を表す。
    楽譜に書かれる、繰り返しに関する用語としては、「二返」「自是」「重頭」「換頭」「返付」などが挙げられる。「二返」は「自是」のところから、「自是」がなければ曲の頭あるいは前の「二返」の直後からそのフレーズをもう一度繰り返すというものである。「重頭」は曲自体を繰り返すときに、1回目の終わりに加えられるフレーズで、重頭を経て冒頭に戻る。「換頭」も曲自体を繰り返すときのものだが、こちらは冒頭に戻らず、換頭のフレーズを演奏してから「返付」の位置へと戻るものである。
    雅楽のテンポ
    現代の雅楽のテンポは、多くの西洋音楽と比較しても非常に遅い場合が多いが、管弦より舞楽の方が速い傾向にあり、管弦曲であっても舞楽会の最終に舞楽吹で奏される長慶子などは雅楽としては非常に速いテンポとなっている。
    歴史的には、前述のように昭和初期から現代にかけて大半の管弦曲の演奏速度が遅くなったということもあるが、近代以前に遡っても平安時代の演奏と江戸時代の演奏とでは江戸時代の演奏の方が遅くなっているという説もあり、平安時代の演奏を当時のものと思われる速いテンポで再現する試みもある。
    装束、仮面、化粧
    陵王の装束の人形 2013年秋の京都御所一般公開にて
    案魔の装束の人形 2013年秋の京都御所一般公開にて
    楽人の正式な装束は衣冠、または狩衣が原則であるが、明治以降に楽部が直垂を制定して以降は神社仏閣や民間の伝承団体でも直垂を着用する場合が多い。直垂の場合、生地は海松色(みるいろ)と呼ばれる、見る角度によって色彩が変わる美しいものが使われる場合が多い。略式では比較的安価な白衣に差袴(神職の普段着と同様)、稀に夏には統一の浴衣(俗楽の浴衣ざらいに倣う)となる。装束を統一しない場合、僧職は法衣、女性は女性神職装束や巫女装束、一般的な和服の場合がある。通常、化粧しない(女性は薄化粧の場合有り、三管の場合は口紅を塗らない)が、舞人と兼任の場合や、祭り等によっては厚化粧の場合もある。
    舞人の装束は国風歌舞や謡物では白系、唐楽では赤系、高麗楽では緑、茶、黄褐色系が多い。それぞれに、特定の曲目専用の装束(別装束)と、複数の曲目で共通に使う装束(襲装束、等)がある。
    曲によっては指定の仮面を着用する場合がある。仮面を付けない曲の場合や、仮面が指定された曲を女性や少年少女が舞う場合は仮面を付けずに素顔のままか、化粧(団体によっては歌舞伎舞踊と同様の舞台化粧)をする場合がある。
    尚、これらの正式な装束、仮面(特に別装束、とりわけ、童舞の装束)は大変高価であるため、これらを購入できる神社仏閣、団体は大規模な神社、寺院や財政に余裕がある団体に限定される。また、童舞以外のほとんどの装束は成人男性、または女性用に仕立てられ、また、重量があること、仮面を付けた場合に視野が制約されること、長く伸びてる部分(裾、裳、等)があるため、振り付けに関しても伸びてる部分の捌き方等の難易度が高いこと、また、東日本においては伝承団体のメンバーのほとんどが成人であることと財政に余裕がない場合が多いことから、少年少女の育成に消極的な場合が多い。育成している場合でも略式なら安価な装束で済む管弦と『浦安の舞』等にとどまり、舞楽は行わないか、行う場合でも成人に限られる場合が多い。従って、童舞は特に関東地方においては希少価値がきわめて高い。
    伶楽 (一度廃絶し、近年復元された雅楽)
    現在、国立劇場の企画の一環として、廃絶された楽器や楽曲を復元する試みが行われている。これを総称して、「伶楽」(れいがく)ないし「遠楽」(えんがく)と呼ぶ。芝祐靖が音楽監督を務める伶楽舎が演奏活動を行っている。
    復元された楽器
    箜篌、五弦琵琶、阮咸 (楽器)、排簫、尺八(近世邦楽の尺八とは異なる)、竽、大篳篥、方響など
    明治時代にも正倉院に残る残欠を参考に箜篌や五弦琵琶などを復元したことがある。江戸時代から途絶えることなく伝わる漆工芸や螺鈿の技術等により工芸品としては高度なものであるが、弦の張力は演奏に耐えるものではなく、演奏のための楽器としての復元は昭和になってからである。
    廃絶曲(遠楽・亡失曲)の曲名
    雅楽の現行曲以外の曲名は、古文書で確認できるものだけでも次のようなものがある。
    壱越調 - 皇帝破陣楽、団乱旋、玉樹後庭花、壱弄楽、河水楽、溢金楽、詔応楽、河曲子、飲酒楽 (壱越調)、左撲楽、最涼州、渋河鳥、安楽塩、壱徳塩、承嘉楽、天寿楽、承天楽、厥磨賦、蘇羅密、古詠詩、香呂娘、勒念娘、細要娘、天感楽、骨崙曲子、二郎神曲子、羅紫渃県、古玉樹、延慶楽、九明楽、補臨褌脱、曹婆、弄槍、婆理、筑紫諸県舞、師子
    平調 - 宮商荊仙楽、娬媚娘、渋金楽、豊生楽、永隆楽、直火鳳、平調火鳳、連珠火鳳、移都師、駱勢娘、廻忽、龍勝楽、城頭楽、感恩多、偈頌、送秋楽、安弓子、千金女児、長命女児、番假崇
    双調 - 和風楽、催馬楽 (双調)、狭鰭河、萬春楽、絲楊園、悠紀作物、主基作物、落梅曲、林光楽
    黄鐘調 - 弄殿楽、応天楽、散吟打毬楽、安城楽、河南浦、感城楽、清上楽、皇帝三台、提金楽、皇帝調、長生楽、赤白蓮華楽、夏引楽、承燕楽、天安楽、催馬楽 (黄鐘調)、榎葉井、英雄楽、重光楽、九城楽、承涼楽、汎龍舟、聖明楽、青海楽、弊契児、韋郷堂々、韓神
    盤渉調 - 秋風楽、感秋楽、明月楽、山鷓鴣、元歌、徳貫子、盤渉参軍、永宝楽、登貞楽、阿嬀娘、徳伴子、鳥歌萬歳楽、承秋楽、鶏鳴楽、玄城楽、長元楽、曹娘褌脱、遊児女
    太食調 - 賀王恩、天人楽、飲酒楽 (太食調)、如意娘、秦王破陣楽、放鷹楽、西河、河満子、六胡州、天長久、薜問堤、惜々塩、上元楽、五更囀、大天楽、大宝楽、大酺楽、大定楽、興明楽、五坊楽、後散、古堂々、慣々塩
    高麗壱越調 - 黒甲序、都志、顔徐、酣酔楽、狛犬、石川、狛龍、新河浦、桔桿、常武楽、作物 (高麗壱越調)、葦波、鞘切、啄木、歌良古蘇呂
    高麗平調 - 作物 (高麗平調)
    高麗双調 - 作物 (高麗双調)
    遠楽と亡失曲の区別には曖昧な部分もあり、古文書で龍笛や琵琶など一部パートしか楽譜が現存していないものや、ある特定の現行曲のことではないかとする説があるものなどもある。伶楽舎の芝祐靖などはそういった遠楽の数々を復曲しているが、一部パートしか楽譜が現存していないものでも、その残りのパートを作成して復曲した例もある。雅楽の特に管絃曲は歴史的にテンポが遅くなっていく傾向があるので、廃絶された管絃曲を現代の奏法で復元した際に演奏時間が極端に長くなったことは前述の通りだが、盤渉調の盤渉参軍などはその良い例である。

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    ・短歌
    (たんか、Tanka)とは、和歌の一形式で五・七・五・七・七の五句体の歌体のこと。ただし短歌は古より詠まれている歌体であるが、この項目では明治以降の短歌すなわち近代短歌と現代の短歌について取り上げる。
    概要
    短歌は記紀歌謡や『万葉集』初期の作品にはすでに見られるもので、古今を通じ広く行われ、長歌や旋頭歌が詠まれることがなくなるにつれて、和歌といえば短歌をさすようになった。五・七・五・七・七の五句体(31モーラ)の詩形は、その時代に盛んであった長い詩形との関連で呼び名が変わった。奈良時代には長歌に対して反歌としての短歌、平安時代以降は漢詩に対して和歌、明治時代後半からは新体詩に対して再び短歌と呼ばれて現在に至っている。狂歌とは文体を同にするが、定義では全く異なるものである。和歌と近代以降の短歌は、その韻文としてのかたちは基本的には変わらぬものであるが、和歌はその中で使われたいわゆる序詞や縁語、また歌枕といった修辞を重要視し、のちのちまでそれらを伝えて詠まれたのに対し、近代以降の短歌ではそういったものは原則として否定されている。すなわち前代からの和歌とは違う思想に基づいて作歌されているということである。ちなみに、五・七・五の俳句と違い、五・七・五・七・七の短歌は季語が要らない。
    ・狂歌(きょうか)とは、社会風刺や皮肉、滑稽を盛り込み、五・七・五・七・七の音で構成した諧謔形式の短歌(和歌)。
    歴史
    狂歌の起こりは古代・中世に遡り、狂歌という言葉自体は平安時代に用例があるという。落書(らくしょ)などもその系譜に含めて考えることができる。独自の分野として発達したのは江戸時代中期で、享保年間に上方で活躍した鯛屋貞柳などが知られる。
    特筆されるのは江戸の天明狂歌の時代で、狂歌がひとつの社会現象化した。そのきっかけとなったのが、明和4年(1767年)に当時19歳の大田南畝(蜀山人)が著した狂詩集『寝惚先生文集』で、そこには平賀源内が序文を寄せている。明和6年(1769年)には唐衣橘洲(からころもきっしゅう)の屋敷で初の狂歌会が催されている。これ以後、狂歌の愛好者らは狂歌連を作って創作に励んだ。朱楽菅江(あけらかんこう)、宿屋飯盛(やどやのめしもり、石川雅望)らの名もよく知られている。
    狂歌には、『古今和歌集』などの名作を諧謔化した作品が多く見られる。これは短歌の本歌取りの手法を用いたものといえる。
    明治以降は、1904年(明治37年)頃から読売新聞記者の田能村秋皐(筆名は朴念仁もしくは朴山人)が流行語などを取り入れた新趣向の狂歌を発表し、「へなぶり」という呼称で人気ジャンルとなった。
    現代でも愛好者の多い川柳と対照的に、狂歌は近代以降人気は衰えた。しかし石川啄木をはじめ近代の大歌人たちも「へなぶり」に感化をされており、近代短歌の精神の中に狂歌的なものは伏流しているという指摘が吉岡生夫らによってなされている。
    ・俳句
    (はいく)は、季語(有季)及び五・七・五(十七音)を主とした定型を基本とする日本の定型詩である。江戸時代には十七文字と呼称され、現代では十七音とも表記される[1]。和歌や連句(俳諧連歌)の発句と同様に、俳句は発生の時点で無季(雑)の作品も存在しており、無季俳句といわれる。有季定型性を捨象する形で派生した自由律俳句もある。また、多くの外国語でも俳句は作られているが、外国語では季節感のある言葉でも季語の本意・本情が成立しがたく、しかも五・七・五では切れや季語が活きる短さにならない言語が多いため、結果として日本で言うところの無季自由律俳句となることが多い。世界最短の定型詩のうちの一つとされる。俳句を詠む(作る)人を俳人と呼ぶ。
    概要
    現代の俳句は近世に発展した文芸である俳諧連歌、略して俳諧から生まれた近代文芸である。室町時代に流行した連歌の遊戯性、庶民性を高めた文芸が俳諧で、17世紀に松尾芭蕉が出てその芸術性を高めた。なかでも単独でも鑑賞に堪える自立性の高い発句、すなわち地発句を数多く詠んだ事が後世の俳句の源流となる。
    明治時代に入り、正岡子規が幕末から明治初期のありふれた作風を「月並俳句(月並俳諧)」と呼んで批判し、1893年(明治26年)に『芭蕉雑談』「連俳非文学論」を発表、「発句は文学なり、連俳は文学に非ず」と述べ、俳諧から発句を独立させた[2]。これ以降「俳句」の語が一般に用いられ、以降近現代の俳句につながるようになった[2]。
    季語や季感を持たない無季俳句や、定型からの自由を目指す自由律俳句も、詩感の追求という点で共通するため俳句に含むのが一般的であるが、それらを俳句と認めない立場も存在する。
    また、英語などの非日本語による3行詩も「俳句」と呼ばれ、日本のオリジナルを尊重しつつも非日本語であることを強調して「Haiku」と表記されることもある。日本語以外の俳句では五・七・五のシラブルの制約がなく、季語もない場合が多い。
    現在では日本語を母語としない者が日本語で俳句を作っている。そうした俳人には現在マブソン青眼、ドゥーグル・J.リンズィー、アーサー・ビナードなどがいる。
    日本の詩歌の伝統をひきついで成立した俳句は、五・七・五の拍(モーラ)による言葉の調べ(韻律)と「季語」と「切れ」によって、短い詩でありながら心のなかの場景(心象)を大きく広げることができる特徴を持っている。
    ・川柳
    (せんりゅう)は、五・七・五の音を持つ日本語の定型詩である。
    特徴
    俳諧、すなわち俳諧連歌から派生した近代文芸である。俳句と同じ五七五の音数律を持つが、俳句が発句から独立したのに対し、川柳は連歌の付け句の規則を、逆に下の句に対して行う前句付け(前句附)が独立したものである。俳句にみられる季語や切れの約束[1]がなく、現在では口語が主体であり、字余りや句跨りの破調、自由律や駄洒落も見られるなど、規律に囚われない言葉遊びの要素も少なくない。かつての俳諧では雑俳に含めて呼ばれたことがある。
    ・都々逸
    (どどいつ)とは、江戸末期に初代の都々逸坊扇歌(1804年-1852年)によって大成された、口語による定型詩。七・七・七・五の音数律に従う。
    概略
    元来は、三味線と共に歌われる俗曲で、音曲師が寄席や座敷などで演じる出し物であった。 主として男女の恋愛を題材として扱ったため情歌とも呼ばれる。
    七・七・七・五の音数律に従うのが基本だが、五字冠りと呼ばれる五・七・七・七・五という形式もある。
    ・田植歌
    (たうえうた)は、労働歌の一種で、田植え作業をしながら歌う民謡をいう[1]。田唄(たうた)とも表記する。
    主に田の神に敬意を示し、無病息災と豊穣・豊作を願う田植えの伝統的な芸能として、古くから日本各地で歌われている。田植は神事儀礼的な民俗行事でもあることから、こうした歌が歌われた。
    大正時代に広島県で発見された、「田植草紙」には、この地域での田植歌がまとめられている。これは、室町時代頃に成立し、江戸時代に筆写されたとされるものだが編者は不詳である。田植の進行にそって朝歌から昼歌、晩歌と配列されている[2]。近世初期から田植歌が伝わったとされる中国地方では、こうした写本が数多く見つかっている。
    中国地方の山間部では、旧家の由緒ある田に美しく着飾った牛を入れて代かきをし、ささら・笛・太鼓・鉦などの囃に合わせて田植歌をうたいながら早乙女たちが田植をすることを大田植と呼んでいる。同様の行事を花田植と呼ぶ地方もある。

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    浄瑠璃
    (じょうるり)は、三味線を伴奏楽器として太夫が詞章(ししょう)を語る音曲・劇場音楽である。
    詞章が単なる歌ではなく、劇中人物のセリフやその仕草、演技の描写をも含み、語り口が叙事的な力強さを持つ。このため浄瑠璃を口演することは「歌う」ではなく「語る」と言い、浄瑠璃系統の音曲をまとめて語り物(かたりもの)と呼ぶ。
    江戸時代初期以降、個々の太夫の口演が「――節」と呼ばれるようになり、その後流派として成立して、現在は義太夫節[注 1]・河東節・一中節・常磐津節・富本節・清元節・新内節・宮薗節(薗八節)の8流派が存在する。
    単独で素浄瑠璃として演じられるほか、流派によっては人形劇である人形浄瑠璃として(文楽など)、歌舞伎音楽として、日本舞踊の伴奏として演じられる(流派ごとの上演形態については後述)。
    歴史
    起源
    傀儡子
    戦国時代ごろの御伽草子の一種『浄瑠璃十二段草子』。作者は「百家系譜」によれば小野阿通という織田信長に仕える侍女で、大病のため静養していた信長のために三味線を用いて語ったという説が江戸時代までは有力であったが、現在までに様々な学者により議論が進められ、享禄4年(1531年)の「宗長日記」には、少なくともそれ以前から浄瑠璃(十二段草紙)が存在していた、との記述があり、それを当道座に所属していた琵琶法師によって、平曲(平家物語を琵琶により伴奏して語ったもの)に次ぐ新たなものとして扱われ、滝野検校によって節づけがなされ、はじめ琵琶で演奏されていたものが、虎沢検校に師事した沢住検校によって三味線を用いて語るようになり、それを小野阿通が信長に聞かせたという説が一般的である。
    浄瑠璃物語(浄瑠璃姫十二段草紙)
    浄瑠璃御前(浄瑠璃姫、もしくは三河国矢矧宿の遊女)と牛若丸の情話に薬師如来など霊験譚をまじえたものを語って神仏の功徳を説いた芸能者にあるとするのが通説であり、「浄瑠璃」の名もここから生まれたものである。浄瑠璃とはサンスクリット語からの訳で、清らかな青いサファイヤを意味し、薬師如来の浄土はこれによって装飾されているとされた[1]。
    その内容はだいたいにおいて享禄年間(1528-32年)には完成していたと考えられる。最初期は平曲、謡曲、説経節などの節付けに学んで扇拍子を伴奏にしたようだが、永禄年間(1558-1570年)に琉球から三線が渡来し、これが三味線へと発達するにしたがって飛躍的な成熟を遂げることになる。三味線をいち早く音曲に取入れたのは上方の盲人であったが(上方地歌)、沢住検校が浄瑠璃と合体させ、さらに文禄年間(1593-1596年)にいたってこれが傀儡子の伴奏として用いられるようになり、現在にまでいたる浄瑠璃音曲が完成してゆく。浄瑠璃姫十二段草紙の構成は下記のとおり。
    一段 「申し子の段」 - 姫父母の素性。申し子すなわち神仏に子を願うこと。浄瑠璃の由来。
    二段 「花そろえの段」 - 姫の庭に咲く美しい花の描写。
    三段 「美人そろえの段」 - 姫の侍女たちの美を形容。
    四段 「そとの管弦の段」 - 姫と侍女たちの管弦に、牛若丸が門外で笛を合わせる。
    五段 「笛の段」 - 牛若の服装と容姿の美に侍女たちが騒ぐ。
    六段 「使ひの段」 - 姫が使いを出し歌によって牛若の心を引き、謎かけをする。
    七段 「忍びの段」 - 牛若が忍び入ろうと、故事を引き、姫の心をうかがう。
    八段 「枕問答」 - 仏法になぞらえて姫に問い詰め、姫が負けて無言になる。
    九段 「やまとことばの段」 - さらにやまとことばで問い続け、姫に口を開かせる。
    十段 「御ざうつりの段」 - 一夜の契りの後、朝の別れ。
    十一段 「吹上の段」 - 吹上の浦で牛若が奇病にかかり、姫が八幡山の知らせで駆けつける。
    十二段 「御曹司東くだりの段」 - 両人は記念の品を交わし、牛若は奥州に下る。
    浄瑠璃『本朝廿四孝』の八重垣姫。上杉謙信の娘、武田勝頼の許婚として登場する。画/橋本周延(1838年 - 1912年)
    古浄瑠璃
    浄瑠璃が本格的な芸術性を備えるようになるのは江戸時代に入ってからである。浄瑠璃に節づけをした滝野検校の門人である杉山丹後掾と、浄瑠璃に三味線をはじめて用いた沢住検校の門人の薩摩浄雲によって京から江戸へともたらされた浄瑠璃という三味線音楽は、彼らの門下によって多くの流派にわかれ、世人に大いに受入れられるようになっていった。
    杉山丹後掾の門下からは、江戸肥前掾(肥前節)、近江大掾語斎(語斎節)、江戸半太夫(半太夫節)。薩摩浄雲の門下からは、桜井丹波少掾(金平節・金平浄瑠璃)、薩摩外記(外記節)、内匠土佐少掾(土佐節)、井上播磨掾(播磨節)、虎屋永閑(永閑節)、宇治加賀掾(嘉太夫節)、別系統で伊藤出羽掾(出羽節)、二代目岡本文弥(文弥節)など多くの古浄瑠璃太夫が現れ、掾号を受領した太夫も多かった。日本邦楽史では、近松門左衛門が竹本義太夫のために書いた『出世景清』(貞享3年/1686)が従前にはない物語性を持った革命的な浄瑠璃作品であることから、それ以前に出た浄瑠璃を「古浄瑠璃」、以後を「新浄瑠璃」あるいは「当流」といって区別している。古浄瑠璃からは説教節の影響も受けて説教浄瑠璃なども生まれた。古浄瑠璃時代の詞章(歌詞)や戯曲には未発達なものが多く、かならずしも文学的には高い評価を得るものではないが、これが現存する完成度の高い8つの浄瑠璃への橋渡しとなった。

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    歌舞伎ー1
    (かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能のひとつ。重要無形文化財(1965年4月20日指定[1])。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され[2]、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。
    語源
    歌舞伎という名称の由来は、「傾く(かたむく)」の古語にあたる「傾く(かぶく)」の連用形を名詞化した「かぶき」だと言われている[3]。戦国時代の終わりから江戸時代の初頭にかけて京で流行した、派手な衣装や一風変わった異形を好んだり、常軌を逸脱した行動に走ることを指した語で、特にそうした者たちのことを「かぶき者」とも言った[4]。
    そうした「かぶき者」の斬新な動きや派手な装いを取り入れた独特な「かぶき踊り」が慶長年間(1596年 - 1615年)に京で一世を風靡し、これが今日に連なる伝統芸能「かぶき」の語源となっている。
    「かぶき踊り」はおもに女性が踊っていたことから、「歌舞する女」の意味で「歌舞姫」「歌舞妃」「歌舞妓」などの表記が用いられ[5]たが、江戸を通じて主に用いられたのは「歌舞妓」であった[5]。現在用いられる「歌舞伎」の表記も江戸時代に使われないことはなかった[5]が、一般化したのは近代になってからである[5]。
    なお、江戸時代には「歌舞伎」という名称は俗称[6]であり、公的には「狂言」もしくは「狂言芝居」と呼ばれていた[6]。また能もその一つである。
    現在では神格化された伝統芸能であるが、かつては河原乞食と呼ばれる下賎な見せ物であった。
    歴史
    草創期
    お国(今日でいう出雲阿国)
    阿国歌舞伎発祥地の碑(京都市東山区、南座前)
    歌舞伎の元祖は、「お国」という女性が創始した「かぶき踊」であると言われている。「かふきをとり」という名称が初めて記録に現れるのは『慶長日件録』、慶長8年(1603年)5月6日の女院御所での芸能を記録したものである。お国たちの一座が「かぶき踊」という名称で踊りはじめたのはこの日からそう遡らない時期であろうと考えられている[7]。
    『当代記』によれば、お国が踊ったのは傾き者が茶屋の女と戯れる場面を含んだものであった[7]。ここでいう「茶屋」とはいわゆる色茶屋のこと[8]で、「茶屋の女」とはそこで客を取る遊女まがいの女のことである[8]。後述するように、「かぶき踊」は遊女に広まっていくが、もともとお国が演じていたものも上述したようなエロティックなシチュエーションを含んだものであって、お国自身が遊女的な側面を持っていた可能性も否定できない[9]。
    『時慶卿記』の慶長5年(1600年)の条には、お国が「ややこ踊」というものを踊っていたという記録があり[10]、「かぶき踊」は「ややこ踊」から名称変更されたものだと考えられている[10]。しかし内容面では両者は質的に異なった[11]ものであり、「ややこ踊」がかわいらしい少女の小歌踊であると考えられているのに対し[7]、「かぶき踊」は前述のように傾き者の茶屋遊びというエロティックな場面を含んだものである。
    現在、お国のことを「出雲阿国(いずものおくに)」と呼ぶが、彼女と同時代の文献にはこの名称はなく、また出雲の出身であるかどうかにも確証がないため、軽々に用いるべき言葉ではないという意見もある[11]が、このころの歌舞伎は能舞台で演じられており、現在の歌舞伎座をはじめとする劇場で見られる花道はまだ設置されていない[12]。
    「かぶき踊」が流行すると、当時数多くあった女性や少年の芸能集団が「かぶき」の看板を掲げるようになったとされる。そこには「ややこ踊」のような踊り主体のものもあれば、アクロバティックな軽業主体の座もあった[13][14]。
    その後、「かぶき踊」は遊女屋で取り入れられ(遊女歌舞伎)、当時各地の城下町に遊里が作られていたこともあり、わずか10年あまりで全国に広まった[15]。今日でも歌舞伎の重要要素のひとつである三味線が舞台で用いられるようになったのも、遊女歌舞伎においてである[5]。当時最新の楽器である三味線をスターが弾き、50、60人の遊女を舞台へ登場させ、虎や豹の毛皮を使って豪奢な舞台を演出し、数万人もの見物を集めたという[16]。
    ほかにも若衆(12歳から17、18歳の少年)の役者が演じる歌舞伎(若衆歌舞伎、わかしゅかぶき)が行われていた。男娼のことを陰間というのは「陰の間」の役者、つまり舞台に出ない修行中の役者の意味で、一般に男色を生業としていた[17][9]ことからも分かるように好色性を持ったものであった[9]。全国に広まった遊女歌舞伎と違い、若衆歌舞伎の広がりは京、大阪、江戸の三都を中心とした都市部に限られている[18][19]。
    しかし、こうした遊女や若衆をめぐって武士同士の取り合いによる喧嘩や刃傷沙汰が絶えなかったため[20]、遊女歌舞伎や若衆歌舞伎は、幕府により禁止される[15]。遊女歌舞伎が禁止された時期に関して、従来は寛永6年(1629年)であるとされていた[注 1]が、全国に広まった遊女歌舞伎が一度の禁令でなくなるはずもなく、近年では10年あまりの歳月をかけて徐々に規制を強めていったと考えられている[15]。それに対し、若衆歌舞伎は17世紀半ばまで人気を維持していたものの、こちらも禁止されてしまう[18]。
    なお、古い解説書には、若衆歌舞伎は遊女歌舞伎が禁止されたあとに作られたものだと書かれているものがある[21]が、これはのちの研究で否定されており、実際には「かぶき踊」の最初の記録が残る慶長8年(1603年)にはすでに若衆歌舞伎の記録がある[9]。また、こうした古い解説書では、若衆歌舞伎が禁止されたあと「物真似狂言づくし」にすることを条件に再興が認められ、野郎歌舞伎(役者全員が野郎頭の成年男子)へと発展していったという説明がなされることがあるが、現在では「物真似狂言づくし」を再興の条件としたことを否定するばかりでなく[22]、野郎歌舞伎という時代を積極的には認めない説も存在する[23]。

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    田楽
    (でんがく)は、平安時代中期に成立した日本の伝統芸能。楽と躍りなどから成る。「田植えの前に豊作を祈る田遊びから発達した[1]」「渡来のものである」などの説があり、その由来には未解明の部分が多い。
    概要
    もともと耕田儀礼の伴奏と舞踊だったものが仏教や鼓吹と結びついて一定の格式を整え、芸能として洗練されていった[2]。やがて専門家集団化した田楽座は在地領主とも結びつき、神社での流鏑馬や相撲、王の舞などとともに神事渡物の演目に組み入れられた[2]。
    中世以来、各地に伝わる民俗芸能の田楽をまとめると、共通する要素は次のようになる[2]。
    びんざさらを用いる
    腰鼓など特徴的な太鼓を用いるが、楽器としてはあまり有効には使わない
    風流笠など、華美・異形な被り物を着用する
    踊り手の編隊が対向、円陣、入れ違いなどを見せる舞踊である
    単純な緩慢な踊り、音曲である
    神事であっても、行道のプロセスが重視される
    王の舞、獅子舞など、一連の祭礼の一部を構成するものが多い
    歴史
    文献史料に残された田楽と、今日に伝わる郷土芸能の田楽には開きがあり、時期によってその中身に変化があったと考えられる[2]。田楽の文献史料では992年の『和泉大鳥社流記帳』が最も古いとされるが、史料的にやや疑問がある。次いで古い記録には、998年の『日本紀略』に京都松尾神社の祭礼で山崎の津人が田楽を演じたという記録がある。
    平安時代
    平安時代に書かれた『栄花物語』には田植えの風景として歌い躍る「田楽」が描かれており、大江匡房の『洛陽田楽記』によれば、永長元年(1096年)には「永長の大田楽」と呼ばれるほど京都の人々が田楽に熱狂し、貴族たちがその様子を天皇にみせたという。平安後期には寺社の保護のもとに座(田楽座)を形成し、田楽を専門に躍る田楽法師という職業的芸人が生まれた。
    草創期の田楽は御霊会との結びつきが強く[2]、仏事に演じられる舞楽に対して卑俗な演芸と見られていた様子が、比叡山の教円座主の若い頃のエピソードとして『今昔物語』に「近江国矢馳郡司堂供養田楽語第七」として残されており、当時の田楽の様子も活写されている。
    鎌倉・室町時代
    鎌倉時代にはいると、田楽に演劇的な要素が加わって田楽能と称されるようになった。鎌倉幕府の執権北条高時は田楽に耽溺したことが『太平記』に書かれており、室町幕府の4代将軍足利義持は増阿弥の芸を好んだことが知られる。田楽ないし田楽能は「能楽」の一源流であり、「能楽」の直接の母体である猿楽よりむしろ高い人気を得ていた時代もあった。
    田楽は、大和猿楽の興隆とともに衰えていったが、現在の能(猿楽の能)の成立に強い影響を与えた。能を大成した世阿弥は、「当道の先祖」として田楽から一忠(本座)、喜阿弥(新座)の名を挙げている。
    近世以後
    江戸時代には一部の故実家や国学者が関心を向ける程度で、芸能としてはほぼ忘れ去られた存在となっていたが、大正末から戦後にかけて興った芸能史・民俗芸能研究とそのフィールドワークの結果、日本各地の神事祭礼のなかに残された田楽の記録が集積された。
    郷土芸能
    現在までに、びんざさらを使う躍り系の田楽と、擦りささらを使う田はやし系の田楽とに分かれてきた。躍り系の田楽には、豊穣を祈念するものと、魔事退散を祈念するものとがある。
    文化財指定
    2009年現在、以下の24件が民俗芸能の田楽の分類で、重要無形民俗文化財に指定されている(指定日 都道府県)。このうち秋保の田植踊および那智の田楽はユネスコ無形文化遺産に登録されている。
    秋保の田植踊(1976年5月4日 宮城県)
    板橋の田遊び(1976年5月4日 東京都)
    西浦の田楽(1976年5月4日 静岡県)
    藤守の田遊び(1977年5月17日 静岡県)
    睦月神事(1978年5月22日 福井県)
    八戸のえんぶり(1979年2月3日 青森県)
    山屋の田植踊(1981年1月21日 岩手県)
    花園の御田舞(1981年1月21日 和歌山県)
    磯部の御神田(1990年3月29日 三重県)
    石井の七福神と田植踊(1995年12月26日 福島県)
    田原の御田(2000年12月27日 京都府)
    塩原の大山供養田植(2002年2月12日 広島県)
    御宝殿の稚児田楽・風流(1976年5月4日 福島県)
    水海の田楽・能舞(1976年5月4日 福井県)
    那智の田楽(1976年5月4日 和歌山県)
    吉良川の御田祭(1977年5月17日 高知県)
    三河の田楽(1978年5月22日 愛知県)
    住吉の御田植(1979年2月3日 大阪府)
    下呂の田の神祭(1981年1月21日 岐阜県)
    杉野原の御田舞(1987年12月28日 和歌山県)
    隠岐の田楽と庭の舞(1992年3月11日 島根県)
    安芸のはやし田(1997年12月15日 広島県)
    白鬚神社の田楽(2000年12月27日 佐賀県)
    都々古別神社の御田植(2004年2月6日 福島県)

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    雅楽の演奏会ー1
    一般社団法人伶楽舎(れいがくしゃ)
    雅楽の合奏研究を目的として、1985 年に芝祐靖が創設し、長らく音楽監督を務めた雅楽演奏団体。発足以来、現行の雅楽古典曲以外に、廃絶曲の復曲や正倉院楽器の復元演奏、現代作品の演奏にも積極的に取り組み、国内外で幅広い活動を展開している。特に、現代作曲家への委嘱作品や古典雅楽様式の新作の初演には力を入れ、年2回のペースで開催している自主演奏会で度々発表している。
    また、武満徹『秋庭歌一具』の演奏に関しては定評があり 2001年5月、同曲を演奏したサントリーホールでの自主演奏会が評価され、2002 年2月中島健蔵音楽賞特別賞を受賞、同時に録音したCD『秋庭歌一具』(ソニークラシカル)は平成 14 年度芸術祭レコード部門優秀賞受賞。平成15年度芸術祭大賞を受賞した「薬師寺最勝会復興上演」の新作(猿谷紀郎作曲)初演を担当。「伶楽舎第十三回雅楽演奏会~武満徹 秋庭歌一具」は、サントリー芸術財団の第16回(2016年度)「佐治敬三賞」を受賞。また令和2年(2020年)には「第50回ENEOS音楽賞邦楽部門」を受賞した。
    他に、解説を交えた親しみやすいコンサートを企画し、雅楽への理解と普及にも努める。また、文化庁「文化芸術による子供の育成事業」他、小中高校生を対象としたワークショップ、レクチャーコンサートなどの教育プログラムも多く行っている。
    なお「伶楽舎」の名前は、古代中国の楽人の祖とされる「伶倫」に因んで、現行の雅楽のみならず、廃絶曲や新作など、従来の枠にとらわれない自由な活動を目指してつけられた会名である。
    第11回 雅楽の夕に、―雅楽を、うたおう
    公演日
    2022年8月13日(日)
    公演時間
    16時開演
    プログラム
    〈第一部〉
    平調音取 三台塩急
    萬代の舞(+皆さまと歌のワークショップ)
    舞楽 陵王
    〈第二部 楽器演奏ご参加の皆さまと共に〉
    平調音取 越天楽(冒頭部)
    越天楽唱歌を歌おう
    場所
    大崎八幡宮 社殿前特設舞台
    伶楽舎 雅楽
    公演日
    2022年10月1日(土)
    公演時間
    17時開演(開場16:30)
    プログラム
    管絃「平調音取」「越天楽」「三台塩急」
    お話し 楽器紹介
    芝祐靖作曲 古典形式による小編成管絃曲『瀬見のたはむれ』「斗垣」「頓手」「汝影」「歓醒楽」
    舞楽「五常楽急」
    退出音声「太食調音取」「長慶子」
    場所
    こしがや能楽堂
    国内公演 (自主公演、学校公演を除く)
    国立劇場(’90~)、大阪いずみホール(’91,’97~’00,)、八ヶ岳高原音楽祭(’94)、創造する伝統(’95,’04~’06)、さいたま芸術劇場(’95,’98), PMF札幌1997、オペラシティコンサートホール (’97) 、サントリーホール(’95,’99,’00,’05,12)、福岡アクロスシンフォニーホール(’02) 、紀尾井ホール(’03) 、福島市音楽堂(’04,’10,’13) 、狛江エコルマホール(’05) 、豊田市能楽堂(’06,’17) 、所沢ミューズ(’06) 、札幌コンサートホールキタラ(’06~’17) 、熊本城本丸御殿(’08) 、早稲田大学大隈講堂(’08)、神奈川県立音楽堂(’09) 、北とぴあ(’09) 、法政大学薩埵ホール(’10) 、千葉市文化センター (’11) 、サイトウキネンフェスティバル松本(’12) 、アークヒルズ音楽週間(’12) 、上野学園・唐代伝来の音楽の再現(’14) 、関西大学(’14) 、船橋市民文化ホール(’15) 、アクトシティ浜松(’15) 、ルツェルンフェスティバル・アークノヴァin福島(’15) 、柏崎市文化会館アルフォーレ(’16) 、蕨市文化ホールくるる(’17) 、サントリー芸術財団サマーフェスティバル(’17) 、蕨市民会館コンクレレホール(’18)、浦安音楽ホール(’18)、成城ホール(’18)、水戸芸術館(’18-’19)、港北公会堂(’18)、宇佐八幡宮(’18)、静岡音楽館(’05,’08,’12,’19)、他
    海外公演
    □USA(’96.タングルウッド、ニューヨーク(NY)、’04NYカーネギーホール、ワシントン、バークレー、LAウォルトディズニーコンサートホール、’05シカゴ他、’10NYマーキンホール、ワシントンDCフリーアギャラリー、’19NYジャパンソサエティ、イーストン ラファイエット大学)
    □ヨーロッパ(’98.ロンドン、ケンブリッジ他、’99.ケルン、サラマンカ、リスボン、’00.ブリュッセル、ベルリン、オスロ他、’02.インスブルック、ボーゼン、’04キプロス、’05アムステルダム、オスロ、ヴォロス、’09 パリ、トリノ、ミラノ、 ジェノバ、’15フランクフルト、’18ロンドン、パリ)
    □アフリカ(’05フェズ)
    □韓国(’15ソウル、釜山)
    レパートリー
    ◆雅楽古典作品◆
    □管絃 (「越天楽」など)
    □舞楽 (「還城楽」など)
    □歌物 (朗詠「嘉辰」など)
    ◆復元作品◆
    □天平琵琶譜による音楽:
    『番假祟』(芝祐靖復曲)
    □敦煌琵琶譜からの音楽:
    『風香調調子』『西江月』『急胡相問』『長沙女引』『伊州』『急曲子』『傾盃楽一具』他(芝祐靖復曲)
    □遠楽の復曲:
    *は伶楽舎委嘱曲
    『鳥歌萬歳楽』、『柳花苑』 (延只拍子)*、『拾翠楽一具』*(1997)、『三台塩 序破急』 * (以上、芝祐靖復曲)、『秋風楽』(伶楽舎復曲)など
    ◆現代作品◆
    *は伶楽舎委嘱曲
    武満徹『秋庭歌一具』(1979)
    芝祐靖『招杜羅紫苑』(1980)
    菅野由弘『月の位相』*(1998)
    三宅榛名『とき見るごとに』*(1999)
    猿谷紀郎『凛刻』*(1999)
    芝 祐靖『呼韓邪單于』*(1999)
    芝 祐靖『巾下輪説』*(2000)
    芝 祐靖『瀬見の秘曲づくし』*(2002)
    細川俊夫『夜明けの庭』*(2003)
    権代敦彦『彼岸の時間』*(2003)
    西村 朗『夢幻の光』*(2004)
    芝 祐靖『ポン太と神鳴りさま』*(2004)
    芝 祐靖『瑞霞苑』*(2005 改訂初演)
    中川俊郎『天門楽』*(2006)
    吉松 隆『夢寿歌』*(2007)
    東野珠実『幻想女楽・花かさね』*(2008)
    池辺晋一郎『桜樹峨峨』*(2009)
    猿谷紀郎『綸綬』*(2010)
    湯浅譲二『Music for Cosmic Rite』*(2011)
    増本伎共子『博雅の生まれた日に...』*(2012)
    芝 祐靖『秋燕子~皇麞一具~遊声、破、颯踏』*(2013)
    伊左治 直『紫御殿物語』*(2013)
    伊左治 直『紫御殿物語鳥瞰絵巻』*(2014)
    東野珠実『ききみみずきん』*(2014)
    芝祐靖『瀬見のたわむれ』*(2015 改訂初演)
    伊左治 直『踊れ!つくも神~童子丸てんてこ舞いの巻』*(2017)
    北爪道夫『季節の絵本』*(2017)
    東野珠実『雅楽絵巻 鳥獣戯楽~正倉院復元楽器のための』*(2017)
    藤家溪子『瞳の色は夜の空』*(2017)
    山根明季子『星のテンテンテン』*(2017)
    一柳慧『二十四節気』*(2018)

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c ปีที่แล้ว

    日本人はなぜうまくいくかー文芸社ー七沢賢治著ー1
    言葉の力を使いこなす
    前の章で、情緒に溺れないようにするためには情緒語をたくさん読んでいくだけでいいというようなお話をしました。これは何をしているかというと、自分の感情にぴったりくる言葉を探しているわけです。この本の前半部分で山上憶良が「言霊」という言葉を使った背景について考察をしました。その中で、私は憶良が日本語に対して、物事を表すのにぴったりの言葉を使っていることに感嘆したのではないかと書いたわけですが、この、物事を表すのにその物事にぴったりの言葉を使うということがでkりえば、ものすごく人間としての可能性が広がるのです。
    実は、ここに言葉の力をつかい使いこなすカギがると思っています。
    この章では言霊というか、言葉の力を使いこなす方法について書いていきます。

    コミュニケーションと「ぴったり言葉」
    「言霊の幸ふ国」とは物事を表す時に、まさにその物事にぴったりの言葉を使っているということえはないかというお話をしました。では、物事にぴったり合った言葉があると何がいいのか。まず、物事にぴったり合った言葉を使うと、コミュニケーションが円滑になるのです。
    ここでいうコミュニケーションには、自分自身とのコミュニケーションと、自分以外の他者とのコミュニケーションのふたつがあります。物事を表現するのに、その物事にぴったりの言葉をつかい使いこなすと、このふたつのコミュニケーションがそれぞれうまくいくようになるのです。
    実は、ここに言葉の力を使いこなすカギがあると思っています。
    この章では言霊というか、言葉の力を使いこなす方法について書いています。


    コミュニケーションと「ぴったり言葉」
    「言霊の幸ふ国」とは物事を表す時に、まさにその物事にぴったりの言葉を使っているということではにかというお話をしました。では、物事にぴったり合った言葉があると何がいいのか。まず、物事にぴったり合った言葉を使うと、コミュニケーションが円滑になるのです。ここでいうコミュニケーションには、自分自身とのコミュニケーションと、自分以外の他者とのコミュニケーションのふたつがあります。物事を表現するのに、その物事にぴったりの言葉を使いこなすと、このふたつのコミュニケーションがそれぞれうまくいくようになるのです。
    自分とのコミュニケーション
    まず、自分とのコミュニケーションでいうとどうなるか。これは前の章でも書いたように、ぴったりの言葉を使うことで情動から自由になるわけです。
    というのも、何かの物事を表現する時に、どうもぴったりでないなぁと思いながら、ぴったりではない言葉で表現すると、その何となく感じている違和感の情動が心の中に巣くうことになります。そして、この違和感は、また別の物事を、またぴったりこない言葉で表現するたびに積み重なっていく。
    毎日これを繰り返すわけですから、違和感の情動はあっという間に膨れ上がってしまうのは当然です。その結果、その違和感の情動から逃れられなくなる。
    ところが、物事を表す時に、その物事にぴったりの言葉を使いさえすれば、この違和感を持つことはありません。それだけで心の重荷から解放されることになる。
    その結果、足取り軽く進んでいけるようになるわけです。
    もちろん、物事を表す時に、その物事にぴったりの言葉を使うためには、その言葉を知っていなければなりません。その意味では少々のトレーニング、練習は必要です。
    とはいえ、このトレーニングはむずかしいものではありません。
    先ほどの情動語の例と同じく、物事を表す言葉をザーッと読み上げていくだけで十分です。
    ぴったり言葉の効用
    では、なぜぴったりの言葉で物事を表現し始めると、物事が実現するようになるかというと、言葉の前には思考があるからです。ぴったりした言葉を使うとは、思考と言葉のギャップがない状態を作り出すということです。そこには自分の足を引っ張る要素はない。
    だから物事が速やかに実現していくのだと、私は理解しています。
    ということはつまり、言葉が主役なのではないのです。
    主役はあくまでもあなたの思考です。
    ですので、自分の足を引っ張る思考がある場合、どんなにいい言葉を使ってもギャップは消えない。それどころか、言葉の良さが増すほど、思考と言葉とのギャップが大きくなる。それによってますます強く自分の足を引っ張ることになるかもしれません。

    良い思考があって、ダメな言葉をつかう使う場合にもギャップがある。ただこの場合には、そんなにひどい状況にはならないとはおもいます思います。なぜなら先にも書いたように、言葉と思考を比べた時には、必ず思考が優先されるからです。ですので、最終的には思考が規定した方向に動いていくことになると思います。もちろん、動き出すまでにも動き出してからも時間はかかるかもしれませんが。
    良い思考があって、ぴったりの言葉を使えばギャップがなくなる。
    すると、すいすい進める。
    自分で自分の足をひっぱる引っ張るエネルギーの浪費がないから当然いえば当然ですが、これは気持ちの良いものです。
    いずれにせよ、言葉の力を活用しようと思う時には、言霊というものを神秘的なものと考えるのではなく、こういうロジックがあるという前提で考えていただければと思います実際、古事記もそのような言葉の使い方のマニュアルだったわけですから。

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c ปีที่แล้ว

    ・月のテンポ
    「音で楽(らく)にする」のが、娯楽とは別の音楽の目的。音楽家だった故・「片岡慎介」は、重度のリウマチで苦しんでいる妻(義理の母)が少しでも「楽」になって欲しいと願い、音楽の新しい可能性を探求し毎日を生きていました。そんな片岡慎介に、ある日突然メッセージが響きました。『116ハ、オツキサマデス』なんのことかわからずにそのままにしていた片岡慎介。片岡慎介は、お月さまからいただいたメロディ(固有の情報)を116のテンポによって作曲を始めました。すると、不思議なことに片岡慎介の楽曲を聴いた方から、お喜びの声が多数届くようになったのです。●身体の不調がよくなった。●精神的な病だと言われていたがよくなった。●土壇場に強くなった。(受験やスポーツの試合の結果の喜びの声が多いです)●不眠症が改善された。●不妊が改善された。●喧嘩が減った。●子どもの表情が豊かになった。●仕事がうまくいくようになった。●経済的に豊かになった。などなど、数えきれません。そして、義理の母の重度のリウマチは完治まではしていませんが、驚くべき回復をみせ、いまでは新幹線に乗って旅行ができるようになるまで元気になっています。
    ・月のテンポ「つながり合う喜び~天地人~」
    ・月のテンポ ♩=116 ロングバージョン 月の雫
    ・あらゆる問題が解決し、なぜか"良いこと"が次々起こります。【テンポ116(58).癒し.睡眠.安眠.高波動.覚醒】
    ※ハーモニーベル
    すべての物質には波動があります。ならば、それを調節すること、物事の根本が正しくなるなら、もちろん、体にも…。そんな思いから、わたしたちRFS研究所では、波動の世界を周波数という「数字」で表現し、それを「ハーモニーベル」というオリジナル音叉で
    表現するというプログラムを開発しました。「ハーモニーベル」とは、当研究所が独自に人に影響を与える周波数を特定し、その周波数を音として精密に変換させるための道具ですRFS研究所は、小宇宙である個人、またコスモスである宇宙全体、そこに生きとし生けるものなどすべてにおいて、ハーモニーというものがとても大切だと認識しています。“ハーモニーベル”という言葉の響き、それは、人々と世界に調和をもたらす波動を持った名前です。※ハーモニーベルは、RFS研究所の商標登録です。
    ・積極的に愛を選択する
    ・運命を変える鍵~新たなる目覚め~
    ・リフレッシュ(REFRESH) ICHIGEKIシリーズ
    ・行動力アップ(ENERGIZE) ICHIGEKIシリーズ
    ・運命を変える鍵~新たなる目覚め~
    ・【金運アップ】 癒しのハーモニーベル8時間(Up money for luck)

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c ปีที่แล้ว


    (まい)とは、日本舞踊のうちメロディに合わせた旋回運動を主としたもの[1]。
    本来、踊りとは異なる性格のもので、舞が旋回を要素とするのに対し、踊りは跳躍を要素とするものをいう[2]。また、舞は個人的・芸術的な要素を古くから強くもっていたのに対し、踊りは群舞または乱舞といった集団的形態をとりむしろ生活的な要素を強くもつものだった[2]。明治以前には、踊りとは明確に区別されていたが、ダンスの和訳として舞踊という言葉ができ、区別が意識されなくなった[注釈 1]。
    解説
    古典的な神楽に大陸からの渡来芸が加わったものとされ、民衆の中から生まれた踊りに較べて専門的技能を要するものである。ゆえに世襲的に伝えられてきたものが多いが、明治維新後は家禄を失ったことにより多くは絶えてしまい、伝統芸能としては能楽の要素として残される程度である。しかし多くの民俗芸能(郷土芸能)が重要無形民俗文化財に指定されているほか、その伝統を引き継ぐものは多々り、面影をしのぶことができる。
    なお室町時代から江戸時代の初期にかけては、舞(まい)といえば幸若舞を指すことが多かった[3]。
    舞楽
    舞楽とは、舞を伴った雅楽を指している。日本の舞楽は唐楽・林邑楽・度羅楽・高麗楽・新羅楽・百済楽といった、中国を中心とした広い範囲の種種雑多な諸楽を楽舞群としてまとめたもので、日本に伝来したのは欽明天皇の時代から推古天皇の時代にかけてと考えられる[4]。現代でも演じられているが、中国・朝鮮で整理された形で日本に伝来したため、元となったものよりも昇華した部分もある。舞楽は演目に合わせて舞楽面と呼ばれる仮面をつけて踊る。
    以下は、重要無形民俗文化財に指定されている舞楽であり、口承などでは平安時代からの歴史をもつとされるものが多い。
    大日堂舞楽(秋田県)
    林家舞楽(山形県)- 天王寺舞楽系
    糸魚川・能生の舞楽(新潟県)
    弥彦神社燈篭おしと舞楽(新潟県) - 大々神楽は四天王寺系
    遠江森町の舞楽(静岡県) - 春日神社系
    聖霊会の舞楽(大阪府) - 四天王寺舞楽
    重要無形民俗文化財指定の「舞」
    以下に、重要無形民俗文化財に指定されている舞を掲げる。口承では、いずれも室町時代以前からの歴史をもつものばかりである。
    糸崎の仏舞
    岩国行波の神舞
    越中の稚児舞
    鬼剣舞
    上鴨川住吉神社神事舞
    車大歳神社の翁舞
    幸若舞
    杉野原の御田舞
    天津司舞
    奈良豆比古神社の翁舞
    花園の御田舞
    松尾寺の仏舞
    水海の田楽・能舞
    隠岐国分寺蓮華会舞
    隠岐の田楽と庭の舞
    鷺舞
    さまざまな舞
    その他、以下のような舞の芸能が各地に伝承されている。
    巫女舞
    筑紫舞
    剣扇舞
    稚児舞
    吉志舞
    剣詩舞
    翁舞
    曲舞
    地歌舞
    仏舞
    上方舞
    神舞
    獅子舞
    座敷舞
    御田舞
    つく舞
    纏舞

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    @user-zf1bn1ub5c ปีที่แล้ว

    雅楽ー8
    近代における雅楽の派生
    雅楽器を用いた宗教音楽、祭典楽などがある。
    『浦安の舞』『悠久の舞』『豊栄の舞』『朝日舞』など近代に作られた神楽(s:近代に作られた神楽)
    真如苑の、古楽器を復元して仏教声明(しょうみょう)と融合した『千年の響き』
    岡山県(黒住教、金光教)発祥の、雅楽と能楽・俗楽の要素が合わさった「吉備楽」[1]
    金光教楽長尾原音人によって創始された金光教祭典楽の「中正楽」[2]
    現代雅楽
    詳細は「現代雅楽」を参照
    国立劇場では、雅楽の編成のための新しい作品を現代の国内外の作曲家に委嘱し、演奏している。国立劇場以外の民間でも同様の試みが行われている。特に武満徹の『秋庭歌一具』(1973年 - 1979年)は優秀な解釈により頻繁に演奏され、現代雅楽の欠かせないレパートリーとなっている。
    ポップスの分野では篳篥、笙奏者の東儀秀樹が、篳篥の音色を生かしたポピュラー音楽の編曲および自作を演奏し、メディアにも頻繁に出演するなど、雅楽のイメージを一新し一般に紹介している。
    また東儀の他に、雅楽器も用いた演奏集団「MAHORA」、音楽理論の分析・研究に重点を置き現代的雅楽曲を創作する、吉川八幡神社 (豊能町)宮司 久次米一弥主催の現代雅楽ユニット「天地雅楽」、 主に雅楽曲をアレンジした演目を多く演奏する「トラロ会」などがある。
    冨田勲の『源氏物語幻想交響絵巻』(オーケストラと雅楽の楽器による演奏)。
    雅楽にまつわる言葉
    塩梅(えんばい)
    西洋音楽で言うところのメリスマ。近似する音程へ徐々に移行する一種のポルタメント。ゆっくりと慎重に音程を変更するところから、具合を測りつつ物事を進めるさまを表す。
    八多羅(やたら)、八多羅滅多羅(やたらめったら)、滅多(めった)
    現在は「矢鱈」と書くがこれは明治時代に夏目漱石によって作られた当て字で、本来は雅楽の拍子を指す。2拍子と3拍子のリズム細胞を繋げる変拍子。転じて、リズムが合わず滅茶苦茶で大袈裟な身振りや様を指す。多羅(たら)はサンスクリットのターラ(リズム)に由来する。
    打ち合わせ(うちあわせ)
    管楽器同士で練習をした後、打楽器を交えて、最終的なリハーサルをしたことから。
    野暮(やぼ)
    笙の17本の管のうち「也」と「毛」の音が使用されないことから。
    様になる(さま-)/左舞なる(さまい-)
    左舞(さまい)が上達することから。
    上手い(うまい)
    右舞(うまい)から。
    二の舞を舞う(にのまいをまう)
    「二ノ舞」は「安摩」とセットの番舞、ただし例外的にどちらも左方に属し、装束のみ二ノ舞は右方の装束。安摩が上手に舞った後、二ノ舞は真似て舞おうとするが、上手に出来ずに滑稽な動きになるという設定。転じて他人の成功 を真似て失敗すること。他人の失敗 を繰り返す例に使われるのは本来は誤用。
    呂律(ろれつ)
    古くは「りょりつ」とも読んだ。呂と律は雅楽における曲調の大分類であり(上述の曲の調子を参照)、呂律は広い意味での曲の調子を意味する。呂旋法を前提に作られた曲を律旋法で詠おうとすると調子がおかしくなることから、音の調子が合わない(転じて詠唱や講演でうまく言葉が続けて発音できない)ことを「呂律が回らない」と表現するようになった。
    呂旋法(りょせんぽう)
    雅楽では、この旋法の曲はきわめてまれで、壱越調、双調、太食調、沙陀調、水調などがこれに属するが、その大半は中国の商調(宮、商、角、嬰角、徴、羽および嬰羽からなる)で、ただし、宮調(宮、商、角、変徴、徴、羽および変宮からなる)、徴調(宮、商、角、嬰角、羽および変宮からなる)もある。
    つまり、日本雅楽の呂旋法は、商調において起止音を宮音と定めたものである。
    律旋法(りつせんぽう)
    宮、商、嬰商、角、徴、羽および嬰羽の7音であり、角が宮の上完全4度にあるのがその特徴である。
    雅楽では、平調、黄鐘調、盤渉調がこれに属する。
    二の句を継げない(にのくをつげない)
    朗詠で、一の句から二の句に移る時、急に高音となるため歌うのが難しいことから。
    唱歌(しょうが)
    三味線や、篳篥、箏などの邦楽器を記憶するために、一定の規則にしたがって奏法の情報も含めて歌う体系。⇒唱歌

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    @user-zf1bn1ub5c ปีที่แล้ว

    雅楽の演奏会ー2
    日本雅樂會とは
    日本雅樂會は、1962年雅楽の普及と発展を目的に押田良久を会長として発足、雅楽の講習、演奏会の開催、海外公演などを行っています。会員約60名。
    雅楽を教わってみたい方は、どなたでもお気軽にお問い合わせ下さい。
    主な活動
    定期演奏会の開催
    雅楽の教室の開催(週1回、笙・篳篥・笛・琵琶・箏・舞・歌の講習を行う)
    学生に向け雅楽解説を含めた雅楽教室の開催
    その他 雅楽の普及・発展の為の活動
    2021年11月18日に予定されておりました定期演奏会は、新型コロナウイルス感染症感染拡大の状況から公演の開催は困難であると判断し、中止とさせていただくことになりました。
    次回は2022年10月19日(国立劇場小劇場)を予定しております。
    詳細は決定次第掲載いたします
    雅楽の歴史
    雅楽は1200年以上の歴史を持ち、日本の古典音楽として、また世界の古典音楽として外国でも非常に高く評価されてきています。
    雅楽は、日本古来の儀式音楽や舞踊などと、仏教伝来の飛鳥時代から平安時代初めにかけての400年間あまりの間に、中国大陸や朝鮮半島から伝えられた音楽や舞、そして平安時代に日本独自の様式に整えられた音楽などです。
    奈良時代・平安時代から、雅楽の演奏は宮廷は勿論、寺院や神社において盛んに演奏されました。そして1000年以上、京都・奈良・大阪の専門の演奏家によって伝承され続けました。明治時代に宮内庁式部職楽部が創設され雅楽を伝承しています。最近は、民間の雅楽の演奏団体も増えてきています。
    雅楽の種類
    現在日本で雅楽と称しているものは、奈良・平安時代に日本へ伝えられた音楽と舞、そしてわが国に古来からあった舞楽や、平安時代に作られた歌曲も含まれます。
    その種類を大別すると、以下の三種類になります。
    1.日本に古くから伝わるもの
    国風歌舞(くにぶりのうたまい)
    2.外来のもの
    唐楽(とうがく)...中国、インド(天竺)、南ベトナム(林邑)等より伝来し たもの。器楽合奏の管絃(かんげん)と、舞のある舞楽(ぶがく)です。
    高麗楽(こまがく)...朝鮮、中国北東方面などより伝来したもの。昔は管絃もありましたが、現在では演奏されず、舞楽のみが演奏されます。
    3.平安時代にできた歌曲
    催馬楽(さいばら)...民謡などの歌詞に拍節的な節をつけて歌うもの。
    朗詠(ろうえい)...漢詩に非拍節的な節をつけて歌うもの。
    なお、「歌披講(うたひこう)」(宮中の歌会始の儀で行われる)は、雅楽の楽器を用いないため、雅楽の中には入れていません。
    日本古来の舞楽(国風歌舞)と催馬楽・朗詠は歌曲が主となっているのに対し、外 来曲は全て器楽曲です。
    管絃
    管絃は以下の編成で演奏される、器楽合奏を指します。
    管楽器 笙 (和音) 三管
    篳篥(主旋律)
    龍笛(旋律)
    絃楽器 琵琶(拍節) 両絃
    筝 (拍節)
    打楽器 鞨鼓(拍節) 三鼓(さんこ)
    太鼓(拍節)
    鉦鼓(拍節)
    このような編成となったのは平安時代の中頃と言われており、管楽器、絃楽器、打 楽器の編成は西洋音楽のオーケストラと同じです。 明治の始めにオーケストラが輸入されたときに、雅楽の「管絃」に音楽の「楽」をつ けて「管弦楽」としたといわれています。
    管絃で演奏されるものは唐楽で、壱越調(いちこつちょう)、平調(ひょうじょう)、 双調(そうじょう)、黄鐘調(おうしきちょう)、盤鐘調(ばんしきちょう)、太食調(たいしきちょう)の6つの調子があります。
    舞楽
    舞楽とは雅楽の楽曲を伴奏として舞う舞で、日本古来の舞と、外国から伝えられた舞とに大きく分けられています。
    日本古来の舞は、国風歌舞と言われ、歌曲の伴奏で舞われるものです。
    現在は左方(さほう)の舞と右方(うほう)の舞とに区別されていて、左方の舞は唐楽(とうがく)(中国系統)、右方の舞は一部の例外を除き高麗楽(こまがく)(朝鮮半島系統)の伴奏で舞われます。
    使われる楽器も異なり、左方の舞では笙・篳篥・龍笛に打楽器 鞨鼓・太鼓・鉦鼓を用います。右方では笙は用いず、篳篥・高麗笛に打楽器 三の鼓・太鼓・鉦鼓を用います(但し、右方の還城楽・抜頭・陪臚の三曲は変則で、笙・篳篥・龍笛に打楽器 三の鼓・太鼓・鉦鼓を用います)。

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    雅楽ー1
    (ががく)は、日本の古典音楽の一つ。以下、宮内庁式部職楽部に伝わる雅楽(重要無形文化財、ユネスコの無形文化遺産→2007年)を中心に述べる。
    ベトナムについては「ベトナムの雅楽」を参照。
    概説
    アジア大陸の諸国からもたらされた音楽や舞に、上代以前から伝わる音楽や舞が融合して日本化した芸術。10世紀頃の平安時代に大まかな形態が成立し、今日まで伝承されている。元は、奈良時代にまで遡る[1]。
    現在においては、以下の三つに大別される。
    国風歌舞(くにぶりのうたまい) - 日本古来の歌謡をもとに平安期に完成された、神道や皇室に深い関わりをもつ歌舞。神楽、東遊、倭歌、大歌、久米歌、誄歌などで、主に宮廷の行事や儀式で演奏される[2]。
    大陸系の楽舞 - 5世紀頃から9世紀頃までの間に大陸から伝わった楽舞をもとに日本で作られた、中国、天竺、林邑系の唐楽(とうがく)と、朝鮮半島、渤海系の高麗楽(こまがく)。インド ・ベトナム地域やシルクロードを西にたどった地域から伝来した音楽や舞も含まれる[2]
    謡物(うたいもの) - 日本古来の民詩や漢詩に節づけをした声楽で、大陸からの渡来楽器による伴奏を伴う平安期に新しく作られた歌曲。催馬楽や朗詠など[2]。
    雅楽の原義は「雅正の楽舞」で、「俗楽」の対。国内の宮内庁式部職楽部による定義では、宮内庁式部職楽部が演奏する曲目の内、洋楽を除くもの、とされる。多くは器楽曲で宮廷音楽として継承されている。現在でも大規模な合奏形態で演奏される伝統音楽としては世界最古の様式である。ただし、平安時代に行われた楽制改革により大陸から伝来したものは編曲や整理統合がなされ国風化しているため、かなり変化している。主に京都の貴族の間で行われていた宮廷音楽としての雅楽の形態については応仁の乱以降、江戸幕府が楽師の末裔(楽家)を集めて再編するまでの100年以上は、各家々で細々と継承を続けてきた為、同じ曲でも流派によって何通りもの解釈が存在する。また、後述するように明治時代以降は演奏速度に変化が見られる。
    篳篥のカタカナで記されている譜面を唱歌(しょうが : メロディーを暗謡するために譜面の文字に節をつけて歌う事)として歌うときに、ハ行の発音を「ファフィフフェフォ」と発音するなど16世紀以前の日本語の発音の特徴などはそのまま伝えられている可能性が高い。
    楽琵琶の譜面のように漢字で記されるものは、中国の敦煌で発見された琵琶譜とも類似点が多く、さらに古い大陸から伝わった様式が多く継承されている。
    最も重要な史料としては、狛近真の『教訓抄』(きょうくんしょう)、豊原統秋の『體源抄』(たいげんしょう)、安倍季尚の『楽家録』(がっかろく)が日本三大楽書とされている。
    明治撰定譜に収録され、現在演奏されている曲は現行曲と呼ばれ、唐楽103曲と高麗楽32曲がある。現在楽譜が残っているが、明治撰定譜にない雅楽の曲は遠楽と呼ばれ、現代では稀に復曲されて演奏されることもある。また曲名は資料で確認できるが、楽譜が現存せず既に演奏が不可能な雅楽の曲は亡失曲と呼ばれる。雅楽の古典曲の総数は、現行曲だけでなく遠楽や亡失曲も含めると現行曲の倍以上にのぼる。
    現在では、雅楽のジャンルの中では唐楽が最も有名であることから、一般的に雅楽というと、唐楽のイメージが強いが、他にも上述のような多くのジャンルの雅楽がある。

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    神楽
    (かぐら)は、日本の神道の神事において神に奉納するため奏される歌舞。
    概要
    巫女神楽(柏原八幡)
    神社の祭礼などで見受けられ、まれに寺院でも行われる。平安中期に様式が完成したとされ、約90首の神楽歌が存在する[1]。神楽は、神社に「神楽殿」がある場合、そこで行われる事が多い。
    一般に、「かぐら」の語源は「神座」(かむくら・かみくら)が転じたとされる。神座は「神の宿るところ」「招魂・鎮魂を行う場所」を意味し、神座に神々を降ろし、巫・巫女が人々の穢れを祓ったり、神懸かりして人々と交流するなど神人一体の宴の場であり、そこでの歌舞が神楽と呼ばれるようになったとされる。古事記・日本書紀の岩戸隠れの段でアメノウズメが神懸りして舞った舞いが神楽の起源とされる。アメノウズメの子孫とされる猿女君が宮中で鎮魂の儀に関わるため、本来神楽は招魂・鎮魂・魂振に伴う神遊びだったとも考えられる。
    神楽は、宮中の御神楽(みかぐら)と、民間の里神楽(さとかぐら)に分けられる。また幾つかの神社では、近代に作られた神楽も行われている。
    神楽殿
    [icon]
    この節の加筆が望まれています。
    神楽を舞うための施設を神楽殿(神楽堂、楽殿)という。[2][3] 舞楽専用の施設を舞殿として区別することがある。[4] 特に里神楽では様々な用途の舞台(演舞場、演武場、音楽堂)、ライブステージ、コンサート会場として利用されることもある。
    御神楽
    宮中の賢所で行われる御神楽(賢所御神楽)を指し、古くは内侍所御神楽と言われた。雅楽(国風歌舞)に含まれる。大嘗祭の清暑堂での琴歌神宴(神楽)、賀茂臨時祭の還立の神楽、園并韓神祭の神楽、石清水八幡宮臨時祭の神楽がもとになったという。長保4年(1002年)あるいは寛弘2年(1005年)から隔年で行われ、後に毎年の行事となった。
    明治41年(1908年)の皇室祭祀令で「小祭」の一つと定められたが、1947年にその祭祀令は廃止となる。
    現在も毎年12月中旬に、宮内庁式部職楽部によって、簡略化された御神楽が賢所で行われる。また、大嘗祭でも同様に行われる。系譜などは、平出久雄の研究に詳しく纏められている。
    石見神楽(演目は『大蛇』)
    一般的に「神楽」と言われるもの。里神楽という語は御神楽と対比して用いられ、狭義では関東の民間の神楽を指す。芸能研究者の本田安次(1906年-2001年)がさらに下記4系統へ分類したが、各地の神楽にはこれらの要素が混合している場合があるなど、この分類では不都合もあるため近年里神楽の分類の見直しも考えられている。
    巫女神楽(神懸かり系・早乙女系)
    巫女が舞う神楽。本来は神懸かりのための舞であったが様式化して、祈祷や奉納の舞となった。前者の特徴は順・逆に回って舞うことなどだが、現在では後者がほとんどである。鈴・扇・笹・榊・幣など依り代となる採物を持って舞う。
    採物神楽(出雲流神楽)
    出雲国・佐陀大社の御座替神事を源流とする。この神事(佐陀神能[5])は取り替えた御座を清めるための採物舞と、日本神話や神社縁起などを劇化した神能から成り、この出雲流神楽の流れを汲んで演劇性・娯楽性を高め、独自の変化を遂げた神楽が中国地方を中心として全国へ広がっている。
    湯立神楽(伊勢流神楽)
    湯立と神楽が結びついたもの。伊勢外宮の摂末社の神楽役たちが行ったものが各地へ広まったとされる。霜月神楽、花祭とも言われる。釜で湯を沸かし、巫女などが自身や周囲の人にその湯をかけて清める「湯立」に、採物または着面の神楽が加わる。
    獅子神楽
    獅子舞の一種。風流系とは異なり、獅子頭を神体として各地を巡って祈祷やお払いを行う。二系統あり、東北地方の山伏神楽と、伊勢などの太神楽がある。
    太神楽
    太神楽曲芸『傘の曲』
    伊勢神宮や熱田神宮の神人が各地を巡って(回檀)、神札を配り、竃祓いや村の辻での悪魔祓いとして行った神楽。大神楽・代神楽とも。獅子舞と曲芸から成る。余興だった曲芸は舞台芸としての太神楽に発展、江戸太神楽や水戸大神楽となった。江戸末期からの寄席では神楽よりも演芸色の強い曲芸(ジャグリング)の方が多く演じられた。寄席での神楽は落語、講談とは違い色物とされることが多く太神楽曲芸と言う。
    詳細は「太神楽」を参照

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    ・講談
    (こうだん)とは、日本の伝統芸能のひとつ。
    演者は高座におかれた釈台(しゃくだい)と呼ばれる小さな机の前に座り、張り扇(はりおうぎ)でそれを叩いて調子を取りつつ、軍記物(軍記読み)や政談など主に歴史にちなんだ読み物を、観衆に対して読み上げる。
    歴史
    起源は戦国時代の御伽衆(おとぎしゅう)であると言われているが、寄席演芸としての講談の原型は、江戸時代の大道芸のひとつである辻講釈(つじこうしゃく、または大道講釈)に求めることができる。辻講釈は太平記などの軍記物を注釈を加えつつ調子を付けて語るものである。
    宝永年間には公許の常設小屋で上演されるようになり、「講釈」と呼ばれるようになった。文政年間には話芸としてほぼ確立し、幾つかの流派が誕生した。『守貞謾稿』の記述によると、興業は昼席が午の刻半ば~申の刻まで、夜席は六つ半~四つ時までが一般的で、料金は通常48文(未熟な演者は36文、子どもは半額)だったという。講談の享受層は幅広く、江戸時代に広く読まれた実録本との影響関係が見られるほか[1]、講釈での人気演目が歌舞伎や人形浄瑠璃化されることもあった。
    江戸末期から明治時代にかけて、講釈は全盛期を迎え、明治時代以降、講釈は「講談」と呼ばれるようになった。「泥棒伯圓」とあだ名された二代目松林伯圓が出、明治政府より教導職を賜るのもそのころである。明治末期には立川文庫など講談の内容を記載した「講談本」が人気を呼んだ(その出版社の中に、講談社がある。講談本の成功ですぐに大手出版社になった)。また、新聞や雑誌に講談が連載されるようにもなった。しかし、明治末に浪花節、昭和に入っての漫才など他の人気大衆芸能の誕生、大衆メディアの発達など(「講談倶楽部」の臨時増刊「浪花節十八番」刊行に関するトラブル[2]に象徴される)に追いつけず、次第に衰微していった。第二次大戦後はGHQにより、仇討ちや忠孝ものが上演を禁止され一時は大きな影響を受けた。その後テレビの普及によって、講談はますます衰退した。
    現代の講談
    東京の講談
    現在、講談師の所属団体には「講談協会」とそこから神田派が分裂し成立した「日本講談協会」がある。定席は本牧亭と永谷商事の演芸場があったが、本牧亭は閉場(のちに破産)。一部の講談師は「落語芸術協会」や「落語協会」にも所属し落語定席に出演しているほか、浅草木馬亭で行われる浪曲定席にも出演している。
    また女性の進出が目覚ましい分野であり、近年の若手講談師はむしろ女流が中心となっている[3]。特に若手の入門者は女性が圧倒的に多く、講談協会では1988年から2012年まで、男性真打が一人も誕生しなかったほどである[4]が、3代目神田松鯉が講談師二人目の「人間国宝」となり、さらに弟子である6代目神田伯山の登場により男性の入門希望者も散見されるなど、講談の人気も徐々に取り戻しつつある[5]。
    講談協会(宝井琴梅会長)
    日本講談協会(神田紅会長)
    上方の講談
    上方(関西)の講談は「軍談」と「神道講釈」の二つの流れが融合したもので、大正時代に立川文庫の生みの親である玉田玉秀斎などの玉田派が上方講談界を席巻した。その後、玉田、松月堂など上方講談の一門は昭和初期で命脈が尽き、本来の上方講談の系譜はいったん絶えたと言える。こうして、本来は江戸の屋号である旭堂のみが残り、二代目南陵の奮闘もあって、上方講談唯一の屋号として今日まで継承されている。
    戦後になると、上方落語以上に衰退著しい上方講談は、江戸講談の系譜に連なる二代目旭堂南陵と二代目旭堂小南陵(後の三代目旭堂南陵)父子のみの状態となった。1965年に二代目が亡くなった後は三代目の孤軍奮闘が長く続いた。現在も数は多くはないが、三代目南陵の弟子たちにより地道な活動が続けられ当面の危機は脱した。「上方講談を聞く会」「天満講談席」「トリイ講談席」「日本一亭南陵会」など定期講談席も続けられている。
    その後、三代目南陵の弟子間で訴訟にまで発展する内紛があり、四代目南陵(前名小南陵・元参議院議員)一門は「上方講談協会」を除名され「大阪講談協会」を結成した。
    2017年、さらに旭堂南鱗以下の旧三代目南陵一門が離脱し「なみはや講談協会」を設立。「上方講談協会」は旭堂南左衛門一門のみとなり、上方の講談界は少人数ながら三団体となる。
    上方講談協会(会長旭堂南左衛門)
    大阪講談協会(会長4代目旭堂南陵→2020年7月死去により会長空席)
    なみはや講談協会(会長旭堂南鱗)
    題材
    江戸時代以降、講談の主な材料源は実録本だったとされる[6]。演目は、軍談・金襖物(評定物)・捌き物・仇討物・白浪物・三尺物などがある他、明治時代には政治講談・新聞講談・文芸講談などの新演目が起こった[6]。さらに現代では、国際的事件や経営理論、経営者の自伝など、新たな題材を取り上げる試みもなされている。
    代表的な演目
    上方
    安倍晴明
    天野屋利兵衛
    一休和尚
    応挙の幽霊
    木津の勘助
    木村長門守重成
    楠の泣男
    食わんか船の由来
    西行法師
    菅原天神記
    曽呂利新左衛門
    太閤記
    壺阪の沢市
    難波戦記
    水戸黄門漫遊記
    奴の小万
    藪井玄意
    良弁杉の由来
    江戸
    赤穂義士伝(忠臣蔵)
    名月赤城山(国定忠治)
    清水次郎長伝
    四谷怪談
    宮本武蔵
    徳川天一坊
    真景累ヶ淵
    佐倉宗五郎
    扇の的
    天保水滸伝
    慶安太平記
    畔倉重四郎
    浪速侠客伝
    川中島合戦
    鉢の木
    笹野名槍伝
    青龍刀権次
    大岡政談
    芝居の喧嘩
    赤垣源蔵
    鏡ヶ池操松影
    梅雨小袖昔八丈
    左甚五郎
    牡丹灯篭
    寛永三馬術
    天保怪鼠伝
    天保六花撰
    日蓮記
    松山伊予守
    柳田角之進
    その他、講談の演目と梗概については、吉沢英明編『講談作品辞典』(昭和堂、2008年)が詳しい。

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    雅楽ー2
    歴史
    5世紀前後から中国、朝鮮半島など大陸(南アジアについては、736年に大宰府に漂着した林邑(ベトナム)僧から伝えられたとされる舞楽が「林邑楽」と呼ばれ、唐楽に分類される[3]。)から儀式用の音楽や舞踊が伝わるようになった[4]。大宝元年の大宝令によって、これらの音楽とあわせて日本古来の音楽や舞踊を所管する雅楽寮が創設されたのが始まりであるとされる。この頃は唐楽、高麗楽、渤海楽、林邑楽(チャンパの音楽)等大陸各国の音楽や楽器を広範に扱っていた。中国の雅楽は儀式に催される音楽であったが、日本の雅楽で中国から伝わったとされる唐楽の様式は、この雅楽とは無関係で、唐の宴会で演奏されていた燕楽という音楽がもとになっているとされる。ベトナムの雅楽(nhã nhạc)や韓国に伝わる国楽は中国の雅楽に由来し、日本の雅楽とは異なる。 天平勝宝四年の東大寺の大仏開眼法要の際には雅楽や伎楽が壮大に演じられるなど、この頃までは大規模な演奏形態がとられていた。 また、宮中の他に四天王寺、東大寺、薬師寺や興福寺など一部の大きな寺社では雅楽寮に属さない楽師の集団が法要などの儀式で演奏を担っていた。
    平安時代になると雅楽寮の規模は縮小され、宮中では左右の近衛府の官人や殿上人、寺社の楽人が雅楽の演奏を担うようになった。貴族の間では儀式や法要と関係のない私的な演奏会が催されるようになり、儀式芸能としての雅楽とは性格を異にする宮廷音楽としての雅楽が発展していった。この流れの中で催馬楽、朗詠、今様など娯楽的性格の強い謡物が成立した。唐楽、高麗楽の作風や音楽理論を基にした新曲も盛んに作られるようになった。 また、平安初期から中期にかけては楽制改革と呼ばれる漸進的な変更が行われた。 三韓、渤海の楽は右方の高麗楽として、中国、天竺、林邑などの楽は左方の唐楽として分類された。また、方響や阮咸など他の楽器で代用できる物や役割の重なる幾つもの楽器が廃止された。この他にいくつかの変更を経て現代の雅楽に近い形が整い本格的に日本独自の様式として発展していく事になる。
    平安時代末期からは地下人の楽家が台頭するようになり、宮中では鎌倉時代後期以降はそれまで活動の主体であった殿上人の楽家に代わって雅楽演奏の中核をなすようになる。 この影響で龍笛に代わって地下人の楽器とされていた篳篥が楽曲の主旋律を担当するようになった。
    室町時代になると応仁の乱が起こり戦場となった京都の楽人は地方へ四散し、宮中の雅楽の担い手である貴族の勢力は大きく衰退した。また、乱により楽譜などの資料や舞楽装束の大半が焼失した。乱が雅楽に与えた影響は大きく、多くの演奏技法や曲目が失われ宮廷音楽としての雅楽はほぼ断絶した。京都では乱の後しばらく残った楽所や各楽人によって細々と雅楽が伝承される状態が続く事になる。一方で四天王寺など京都から離れた寺社では乱の前後で雅楽の伝承にはあまり影響がなかったため、後に宮中雅楽の復興に大きく関わることになる。
    正親町天皇、後陽成天皇の代になると四天王寺、興福寺などの寺社や地方から京都に楽人が集められ、雅楽の関わる宮廷儀式が少しずつ復興されていった。
    江戸時代に入ると江戸幕府が南都楽所(奈良)、天王寺楽所(大阪)、京都方の楽所を中心に禁裏様楽人衆を創設し、宮中の雅楽の復興を行った。 江戸時代の雅楽はこの三方楽所を中心に展開していくこととなる。三代将軍家光の代には紅葉山にある徳川家康の廟所での祭儀のため三方楽所より八人の楽人が江戸に召喚され、元和4(1618)年に寺社奉行の傘下に紅葉山楽人が設置された。 雅楽を愛好する大名も増え、宮中では朝儀全般の復興が行われる中で古曲の復曲が盛んに行われるようになった。

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    落語
    (らくご)は、江戸時代の日本で成立し、現在まで伝承されている伝統的な話芸の一種である。最後に「落ち(サゲ)」がつくことをひとつの特徴としてきた経緯があり、「落としばなし」略して「はなし」ともいう[1]。「はなし」は「話」または「噺」とも表記する。都市に人口が集積することによって市民・大衆のための芸能として成立した。成立当時はさまざまな人が演じたが、現在はそれを職業とする落語家によって演じられることが多い。能楽や歌舞伎など他の芸能と異なり、衣装や道具、音曲に頼ることは比較的少なく、ひとりで何役も演じ、語りのほかは身振り・手振りのみで物語を進め、また扇子や手拭を使ってあらゆるものを表現する独特の演芸であり、高度な技芸を要する伝統芸能である[1][2]。
    歴史
    落語の祖、安楽庵策
    おもしろみのある話の源流は『竹取物語』、または『今昔物語』や『宇治拾遺物語』に収められた説話にまでさかのぼる。
    滑稽な話を集めた本の元祖としては、京都誓願寺の安楽庵策伝が京都所司代の板倉重宗に語った話をもとに作られたという元和9年(1623年)の『醒睡笑』が挙げられる。浄土宗の説教師であった策伝は御伽衆として大名の話し相手となり、「落とし噺」の名手であるばかりではなく、文人であり茶人でもあった[4]。策伝の著した『醒睡笑』は、幼少時から聞き覚えた話を集めた全8冊から成る笑話集で、収載された話は約1,000話におよんでいる[4]。収載された話は最後に落ち(サゲ)がついており、策伝はこの形式で説教をしていたと考えられている[4]。『醒睡笑』には現在の小咄(短い笑い話)もみられ、また、この本に収載された話を元にして『子ほめ』『牛ほめ』『唐茄子屋政談』『たらちね』など現在でも演じられるはなしが生まれているところから、策伝は「落語の祖」といわれる[4]。なお、豊臣秀吉の茶話相手として近侍した御伽衆の一人、曽呂利新左衛門も噺家の祖といわれることもあるが、この人物の実在性については疑いがもたれている。
    噺家のはじまり
    落語はもともと「落とし噺」といい、落ちのある滑稽なものを指した[3]。
    元禄期、京都では露の五郎兵衛が四条河原や北野などの大道(だいどう)で活躍した。これを「辻噺」といい、これを行った人々を「噺家」といい、落語家の始まりとされる[3]。五郎兵衛が机のような台に座って滑稽な話をし、ござに座った聴衆から銭貨を得るというものであった[5]。五郎兵衛は、後水尾天皇の皇女の御前で演じたこともあった。
    少し遅れて大坂に米沢彦八が現れて人気を博した[5]。彦八は生玉神社の境内で小屋掛けの辻噺をおこない、名古屋でも公演した[5]。『寿限無』の元になる話を作ったのが、この初代彦八であるといわれており、彼の出身地の大阪市では毎年9月に「彦八まつり」がおこなわれるほど上方演芸史において重要人物であるとされる[6]。
    同じころ、江戸の町では大坂出身の鹿野武左衛門が芝居小屋や風呂屋に呼ばれ、あるいは酒宴など、さまざまな屋敷に招かれて演じる「座敷噺」(「座敷仕方咄」)を始め、これが講談と並び評判となった。
    時期をほぼ同じくして三都で活躍した上記3名は、いずれも不特定多数の観客から収入を得ていることから後世では噺家の祖とされる。ただし、江戸の武左衛門が些細なことから流罪に処せられたことから、江戸の「座敷噺」人気は下火となった[5]。
    なお、上方落語では今日「見台(けんだい)」という小型の机を用い、小拍子で打ち鳴らして音をたてる演出がある。これは京・大坂での大道芸として発展した「辻噺」の名残りといわれている[5][注 1]。噺を聞く事が目的でない通行人の客足をとめるため、喧騒に負けず目立つ必要があったためと考えられている[7]。さらには上方言葉で聞き手に語りかけ、旺盛なサービス精神で愛嬌を振るまうなどの親近感を出すための多彩な工夫も特徴とされる。
    対して江戸落語(その後の東京落語)は、屋内でもともとは少人数を相手にした噺であり、噺家も聞き手に遠慮せず簡潔とすることが粋(いき)とされた[7]背景が特徴とされる。
    寄席の成立
    東京における代表的な寄席の一つ・新宿末廣亭
    上方における唯一の定席・天満天神繁昌亭
    18世紀後半になると、上方では雑俳や仮名草子に関わる人々が「咄(はなし)」を集め始めた。幕臣であった木室七右衛門(白鯉館卯雲)は京はじめ各地で滑稽な話を収集して、狂歌師としてばかりではなく噺本作者としても活動し、広敷の番頭にまで出世した。
    こうしたなか、天明(1781年 - 1789年)から寛政年間(1789年 - 1801年)にかけて、江戸では再び落語の流行がみられた[8]。大工職人を本業としながらも、狂歌師や戯作者としても活躍した烏亭焉馬(初代)は天明6年(1786年)、江戸で新作落とし噺の会を主催して好評を博した[8]。その後、料理屋の2階などを会場として定期的に開かれるようになり、江戸噺は活況を呈するようになった[6]。焉馬はこれにより江戸落語中興の祖と称される[8]。
    寛政に入ると、大都市となった江戸では浄瑠璃や小唄・軍書読み・説教などが流行し、聴衆を集めて席料をとるようになった。これは「寄せ場」「寄せ」と称され、現在の寄席の原型となった[8]。寛政3年(1791年)に大坂の岡本万作が江戸におもむき、神田に寄席の看板をかかげて江戸で初めて寄席興行をおこない、寄席色物が登場した[6][8]。落とし噺の分野では、寛政10年(1798年)、江戸の櫛職人だった初代三笑亭可楽が下谷(現台東区)で寄席をひらいた[8][注 2]。
    可楽の寄席興行そのものは必ずしも成功しなかったが、「謎解き」や、客が出した3つの言葉を噺の中にすべて登場させて一席にまとめる「三題噺」、さらに線香が1分(約3ミリメートル)燃え尽きるあいだに即興で短い落とし噺を演じる「一分線香即席噺」など趣向を凝らした名人芸で人気を得た[8]。また、多数の優秀な門人を育成し、江戸における職業落語家の嚆矢となった[6][8]。
    一方、上方では松田彌助(初代)が職業落語家のはしりであり、その門下からは松田彌七・2代目松田彌助・初代桂文治があらわれた。寛政6年(1794年)頃から活動を始めた初代文治(伊丹屋惣兵衛)は、大坂の坐摩神社境内に初めて常設の寄席を設けて興行したと記録されており、上方落語中興の祖と称されると同時に上方寄席の開祖でもある。また、当時さかんであった素人による座敷での素噺に対抗して、鳴物入り・道具入りの芝居噺を創作した。文治もまた、多数の優秀な門人を育て、桂派の祖となった。

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    浄瑠璃ー2
    新浄瑠璃(当流)
    貞享元年(1684年)ごろ、竹本義太夫(後に筑後掾)が道頓堀に竹本座を開設して義太夫節を樹ててよりのちは、浄瑠璃に新たな時代が訪れる。名作者近松門左衛門と結ぶことによって、戯曲の文学的な成熟と詞章の洗練が行われ、義太夫節と人形浄瑠璃は充分に芸術性がたいへん優れていた。この新しい様式は上方の人士から熱狂的な支持を受け、義太夫節はそれ以前の古浄瑠璃を圧倒することになる。たとえば古浄瑠璃時代にはその人の名を付して何某節と呼ばれていたように、それがひとつの様式として後代に受け継がれる性格のものではなかった(一節一太夫)が、義太夫節にいたってはそのあまりに完璧な内容のために、「義太夫節」という流儀名が竹本義太夫死後もひとつの様式の名前として用いられ続け、家元制をひいていないにもかかわらず、今日まで残っているのは、その象徴的な事例であろう。義太夫節の特徴は「歌う」要素を極端に排して、「語り」における叙事性と重厚さを極限まで追求したところにある。太夫と三味線によって作りあげられる間の緊迫、言葉や音づかいに対する意識、一曲のドラマを「語り」によって立体的に描きあげる構成力、そのいずれをとっても義太夫は浄瑠璃界にのこした功績は大きい。
    一方、このころ竹本義太夫と同期の都太夫一中は京で一中節を創始し、その弟子宮古路豊後掾がさらに豊後節へと改めて、享保19年(1734年)これを江戸へもたらした。豊後節の特徴は義太夫節の豪壮な性格とは対照的に、一中節の上品な性格を生かしたやわらかで艶っぽい語り口にあり、江戸において歌舞伎の劇付随音楽として用いられたため、またたく間に大流行を見た。その人気は、心中ものの芝居にさかんに用いられたために江戸で心中が横行し、風俗紊乱を理由に豊後節の禁止が布告され、豊後掾が江戸を去らねばならなくなったほどであった(ただし、この豊後節禁止は河東節をはじめとする江戸浄瑠璃側の嫌がらせという説もある)。
    しかし、この宮古路豊後掾に師事した宮古路文字太夫(のちの常磐津文字太夫)、宮古路加賀太夫(のちの富士松薩摩)、宮古路薗八らが、数年後にそれぞれ常磐津節、富士松節、薗八節を創始するにいたって、豊後節の伝統は江戸に根付き、大阪の義太夫節と共に、それ以前の古浄瑠璃の人気を奪いさってゆく。常磐津節は歌舞伎の伴奏用浄瑠璃として盛んに用いられ、豊後節のやわらかさと江戸古浄瑠璃の豪壮さを取混ぜた独特の風情を持っており、江戸らしい気風のよさを感じることができる。一方、富士松節からは鶴賀若狭掾、鶴賀新内という名人が輩出し、特に鶴賀新内は新内節を創始することにより、豊後節系浄瑠璃の新たな局面を開くことになる。新内節は一時期、歌舞伎にも用いられたことがあるが、江戸時代後期からは主として門付けを中心として行われ、豊後節の艶麗な部分を引継いで情緒纏綿たる世界をつくりあげてゆく。薗八節からはが出て、宮薗鸞鳳軒と称し宮薗節を創始した。
    四代目範馬のような豊後節系浄瑠璃の展開は江戸中期以降にいたって新たな局面を見せる。常磐津文字太夫の門弟、富本豊前掾が一派を立てて富本節を称し、さらに二代目富本豊前太夫の門下から清元延寿太夫による清元節が生れる(文化11年、1814年)。これらはいずれも常磐津節の艶麗な芸風をさらにつよめた流儀で、むろん歌舞伎の劇付随音楽としても用いられたが、それだけにとどまらず、素人の習事、座敷音曲としての性格をも備えるようになってゆく。通常豊後節から見て、子、孫、曾孫になる常磐津節、富本節、清元節を「豊後三流」と称し、それぞれに微妙な性格の違いがある。常磐津節は艶麗さの反面、古い江戸浄瑠璃の名残を引いて豪壮な部分があり、歯切れのいい語り口をも兼ね備えている。それに対して、富本節と長唄の混交から生れた清元節には豪壮さがまったくなく、高音を多用した繊細で情緒的な浄瑠璃になっており、「語り」よりも「歌」の要素がきわめてつよい。常磐津節には素朴で豪放な部分があり、清元節にはそれを洗練させすぎたゆえの美しさともろさがある。そして富本節は艶麗さと古雅な味いを共存させ、寂びた風情には捨てがたいものがあるが、惜しむらくは常磐津節と清元節のあいだにあって独自性が発揮できなかったために、明治以降は衰微するに至った。
    現在、義太夫節は人形浄瑠璃(文楽・結城座・淡路人形座)・歌舞伎音楽(文楽とは別流派となっている竹本連中)・素浄瑠璃、河東節は歌舞伎音楽(『助六』上演時)・素浄瑠璃、一中節は日本舞踊伴奏・素浄瑠璃、常磐津節は歌舞伎音楽・日本舞踊伴奏・素浄瑠璃、富本節は素浄瑠璃、清元節は歌舞伎音楽・日本舞踊伴奏・素浄瑠璃、新内節は素浄瑠璃として、それぞれ活動を続けている。
    芸脈
    義太夫節
    薩摩浄雲→虎屋源太夫→井上播磨掾(播磨節)→清水理兵衛
    河東節
    杉山丹後掾→江戸肥前掾(肥前節)→江戸半太夫(半太夫節)→十寸見河東(河東節創始)
    一中節
    伊藤出羽掾(出羽節)→二代目岡本文弥(文弥節)→都万太夫(都越後掾)→都太夫一中(一中節創始)
    常磐津節
    都太夫一中(一中節)→宮古路豊後掾(豊後節)→常磐津文字太夫(常磐津節創始)
    富本節
    常磐津文字太夫(常磐津節)→富本豊前掾(富本節創始)
    清元節
    富本豊前掾(富本節)→初代富本斎宮太夫→清元延寿太夫(清元節創始)
    新内節
    宮古路豊後掾(豊後節)→富士松薩摩(富士松節)→鶴賀若狭掾→鶴賀新内(新内節創始)
    宮薗節
    宮古路豊後掾(豊後節)→宮古路薗八(薗八節)→宮薗鸞鳳軒(宮薗節創始)
    大薩摩節
    享保年間に大薩摩主膳太夫が創始した江戸浄瑠璃の一派。文政年間に長唄演奏者の四代目杵屋三郎助に家元権が預けられ、2020年現在も長唄の演奏家により演奏される。ほかの浄瑠璃と同様の姿勢で演奏されるほか、立ち位置で演奏する歌舞伎の演出があり、このとき三味線演奏者は右足を四角錐状の足置きに乗せ膝上に三味線を載せて演奏し、太夫は原稿を手にもって語る[2][3]。
    また、桜井丹波少掾(和泉太夫)の創始した金平浄瑠璃は、後に歌舞伎の荒事に影響を与えた。半太夫節は河東節、長唄、地唄に、外記節は河東節に面影が残る。

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    (うたい)とは能の声楽(言葉・台詞)にあたる部分のこと。また、それのみを謡うこともいう。大和田建樹によると、「うたう」という動詞の名詞形であるが、詠歌や小唄などと区別するため「うた」でなくて「うたい」と読ませたという[1]。江戸時代までは「謡」とだけ言い、「謡曲」という言葉が使われ始めたのはそれ以降である[1]。
    概説
    能は本来、舞・謡・囃子の三要素から成り立っている。謡は登場人物の台詞と地謡(じうたい)とよばれるコーラス部分を含めた、能において言語で表現される部分の総称ともいえるが、能の場合にはこれに特殊な台詞回しや節が付加されており、独立した芸能として鑑賞することが充分に可能であるために、室町末期ごろから能の舞台以外の場所で主に素人の習い事、娯楽として謡が盛んに行われた。これを「素謡」(すうたい)とも称する。
    能および謡は身分の別無く愛好され、この風潮は町人に猿楽が禁じられた江戸時代中期以降になってもまったく衰えることなく、実際の能としては上演されない素謡専用の曲が新作されるほどであった。愛好家たちは謡の師匠について稽古し、謡宿(うたいやど)と呼ばれる会場で謡うことを楽しみ(町人でも謡だけなら大目に見られた)、能役者の側も積極的に謡の師匠としての活動を行うようになる。江戸中期ごろまで地謡がワキ方の所管であったために、当初各地の謡の師匠はワキ方の役者であることが多かったが、徐々にこれはシテ方に移行した。
    明治以降も能楽や謡を好む人口の盛衰はあるにしろ、基本的にこうした状況は変わっておらず、今なお謡における素人弟子は能役者の重要な収入源となっている。
    九州では結婚式に高砂などのお祝いの席にふさわしいおめでたい謡を新郎新婦の年配の親戚が謡う風習がある。3曲続けて謡うため「お謡い三番」とも呼ばれる。
    謡曲
    (ようきょく)とは、能の詞章のこと。 演劇における脚本に相当する。本来、「謡」と言われていたものが、大正・昭和初期から「謡曲」とも称するようになった[1]。謡曲は「謡の曲」という意味であり、この項目では便宜上能の声楽部分に当たる謡については措き、テキストとしての能の詞章やそれを収めた書籍について取り上げる。謡については謡の項参照。
    概要
    能は古くは自作自演が原則であり、その台本ともいえる謡曲は現存する曲や廃曲になったものも含めると、その数は約二千番にのぼり、その大部分が江戸時代以前に作られたものである。しかし作者に関しては不明のものが多く、現在その中の二、三割程度が観阿弥、世阿弥、金春禅竹などの作者の確定できるものとされている。ただしそれらの曲の中には、その以前からあった曲を改作したり、内容を補ったりした曲もあったという。世阿弥の自筆本はいくつか現存しており、本文は片仮名で記されている。
    謡曲は台詞と地の文とで構成され、その文章は古歌・古詩などの引用、縁語・掛詞・枕詞・序詞といった修辞技法を駆使した和文体である。だがその本文はさらに「小段」と呼ばれる細かい単位に分けることができる。たとえば能『高砂』を例にあげると、その冒頭は次のような「小段」になっている。『高砂』の内容については高砂 (能)を参照。
    〔真ノ次第〕〈次第〉ワキ・ワキツレ「今を始めの旅衣、今を始めの旅衣…(以下略、以後も同様)
    〈名ノリ〉ワキ「抑も是は九州肥後国、阿蘇の宮の神主…
    〈上歌〉ワキ・ワキツレ「旅衣、末遥々の都路を、末遥々の都路を…
    〈着キゼリフ〉ワキ「急ぎ候間、播州高砂の浦に着いて候…
    〔真ノ次第〕以下括弧で括られているのは「小段」の名である。〔真ノ次第〕〈次第〉というのは、曲の最初にワキが登場するための囃子と謡であり、それに続く〈名ノリ〉というのは、そのワキが自分は何者でどうしたわけでここに登場したのかを述べる部分である。〈上歌〉とは謡の旋律の一種であり、〈着キゼリフ〉は曲中で登場人物が目的地に着いたことを述べるもの。これは『高砂』以外のほかの曲目であっても、能楽師はその曲目に〈次第〉という「小段」があれば、すべてほぼ同じ旋律でもってそれを謡い、〈名ノリ〉とあればその定められた型でもって自分のことを述べる。要するにシテ・ワキをはじめとする舞台に立つ能楽師は(アイも含めれば狂言師も)、どんな曲目でも謡曲の本文に何々の「小段」とあれば、それに従ってその通りに演じるようになっている。「小段」は謡だけのもの、囃子だけのもの、舞だけのもの、せりふだけのもの、またそれらを組み合わせたものなどその種類は数十種類に及ぶ。上の『高砂』の冒頭で見ると〔真ノ次第〕が囃子、〈次第〉と〈上歌〉が謡、〈名ノリ〉と〈着キゼリフ〉がせりふということになる。そしてそれら「小段」を始めから終りまでモザイクのように積み重ねることによって、ひとつのストーリーにしているのである。能すなわち謡曲はすべてこのように構成されており、それゆえに現在の演劇の脚本と違って「小書」(こがき)と呼ばれる特殊演出を曲中に付け加えたり、また半能のように謡曲の前半部分を大幅にカットして後半の舞中心に演じるなど、内容を抜き差しすることが容易となっている。
    謡本
    安土桃山時代から寛永期になると武士、町人が能を愛好し、またその声楽部分を独立させた謡は空前の流行を見るようになり、謡本(うたいぼん)も各流派家元の認可によるものが発行されるようになった。謡本とは、謡の稽古の際に用いる謡曲の詞章、節付を記した本のことで、古くは「能の本」とも呼ばれた。謡本の中には、嵯峨本と呼ばれる豪華なものが発行されたりもした(俵屋宗達下画、本阿弥光悦筆の版下によるもの)。
    謡本は江戸時代には当時よく知られた曲目を「内組」(うちぐみ)、あまり知られていないものを「外組」(そとぐみ)と称して出版されていたが、当時すでに舞台で演じられなくなった番外曲と呼ばれるものも出されており、合せて六百番近い数の謡本が出版されている。このうち江戸時代を通してもっとも流布したのは観世流の謡本であった。謡本の発行権は江戸期以降、各流儀の家元に帰属するのがたてまえになっているが、観世流のような大きな流派では、家元以外の有力な職分家の認可によるものも発行されており、過去訴訟問題が起こったこともある(矢来観世家の項参照)。
    謡本にはアイの台詞やアイとワキとのやりとりは省略されており、ト書に相当するものもなく、完全な上演台本とはいえない。これは謡本が通常、謡を学ぶための稽古本とされているからである。ただし能の舞台進行を知る上では非常に役に立つ。なお能楽師の芸の伝習は口伝によるため謡本を必要としない。
    現在、謡曲の流儀として謡本を発行しているのは以下の六流である(シテ方五流、ワキ方一流)。
    シテ方
    観世流
    宝生流
    金剛流
    金春流
    喜多流
    ワキ方
    下掛宝生流
    刊行本
    『謡曲・狂言集』(『校注古典叢書』、新装版) 古川久・小林責、明治書院(2001/03) ISBN 4-625-71309-9
    『謡曲大観』第一巻 佐成謙太郎、明治書院(1982/04) ISBN 4-625-51079-1
    『謡曲大観』第二巻 佐成謙太郎、明治書院(1982/05) ISBN 4-625-51080-5
    『謡曲大観』第三巻 佐成謙太郎、明治書院(1982/06) ISBN 4-625-51081-3
    『謡曲大観』第四巻 佐成謙太郎、明治書院(1982/07) ISBN 4-625-51082-1
    『謡曲大観』第五巻 佐成謙太郎、明治書院(1982/08) ISBN 4-625-51083-X
    『謡曲大観』首巻 佐成謙太郎、明治書院(1982/09) ISBN 4-625-51078-3
    『謡曲大観』別巻 佐成謙太郎、明治書院(1982/10) ISBN 4-625-51084-8

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    文楽ー2
    文楽人形
    文楽人形(国立文楽劇場)
    文楽人形の改良
    (1861年(文久元年刊行)の文献[4]による)
    足を附けるようになる。・・・・・・17世紀後半[5](山本土佐椽角太夫(やまもととさのじょうかくだゆう)の時代)の「源氏烏帽子折(げんじえぼしおり)」の木偶より。
    指先を動かせるようになる。・・・・1733年(享保18年)「車返合戦桜大森彦七(くるまかえしかっせんざくらおおもり ひこしち)」の木偶より。
    帷子衣装を着せるようになる。・・・1745年(延享2年)「夏祭浪花鑑(なつまつりなにわかがみ)」の木偶より。
    眉毛を動かせるようになる。・・・・1741年(元文5年)「武烈天皇艤(ぶれつてんおうふなよそおい)」の木偶より。
    目を動かし、舌を出し、髪を逆立て、腹を動かせるようになる。…1861年(文久元年)の当時の様子。
    現在の文楽人形
    文楽人形には、男女のほか、年齢・身分・性格によって「かしら」が異なり、それぞれ以下のような種類がある。
    男性のかしら
    男性的で哀愁を帯びた強さがあらわれている立役、検非違使・剣菱(けんびし)
    嫌味で卑屈な表情の端敵役の陀羅助(だらすけ)
    三枚目の敵役、与勘平(よかんぺい)
    正直な町人、又平(またへい)
    慈愛に満ちた心を持つ老武士、鬼一(きいち)
    20代前後の二枚目役、源太(げんだ)
    10代の恋愛ものの相手役に用いられる、若男(わかおとこ)
    40代から50代頃の武将で、聡明繊細な表情を浮かべた孔明(こうめい)
    時代物の豪快な武将、金時(きんとき)
    など
    女性のかしら
    14、5歳の未婚女性他に用いられる、初々しい表情の娘(むすめ)
    20代から40代の幅広い女性に用いられる老女形(ふけおやま)
    最高位の遊女としての気品と色気、芯の強さを持ち合わせた女性のかしらで、最も華麗である傾城(けいせい)
    三枚目役のお福(おふく)
    など
    素材は木曽檜を用い、眉(アオチ)・目(ヒキ目・ヨリ目)など動くものには仕掛けを、また内部にうなづき糸をつけるなどして、表情を豊かにする工夫が施されている。かしらを動かすための操作索には鯨ひげが使われる。
    人形の衣裳はそのつど脱がされ、かしらと別々に保管されている。よって使用する際には、人形遣いは自分で遣う人形の衣裳をつけることが必要となる。それを、人形拵えという。
    歴史
    人形浄瑠璃について
    国立文楽劇場(大阪市中央区)
    人形芝居が江戸時代初期に三味線音楽、浄瑠璃と結びついて生まれたとされる。太夫では竹本座を大坂に開いた竹本義太夫、作者では近松門左衛門や紀海音といった優れた才能によって花開いた。一時期は歌舞伎をしのぐ人気を誇り、歌舞伎にもさまざまな影響を与えた。今日でも櫓下(最高位の太夫)は芸事における地位が高いとされる。多くの歌舞伎が人形浄瑠璃の翻案であり、浄瑠璃を省略なく収めた本を丸本と称するところから、丸本物(まるほんもの)と呼ばれる。
    その後、福内鬼外(平賀源内)により江戸浄瑠璃が発生した。18世紀末から19世紀のはじめにかけて(寛政年間)、淡路仮屋出身の初世植村文楽軒は歌舞伎の人気に押されて廃れつつあった人形浄瑠璃の系統を引き継ぎ、高津橋(大阪市中央区)に座を作り再興させた。この劇場は1872年、三世植村文楽軒(文楽翁)の時に松島(大阪市西区)に移り、「文楽座」を名乗る。大正期には文楽座が唯一の人形浄瑠璃専門の劇場となったことから、人形浄瑠璃の代表的存在となった。
    1909年には文楽座は松竹の経営となり、松竹が文楽の興行を行うこととなった。文楽座はのちに御霊神社境内(大阪市中央区)に移転。焼失後の1929年には四ツ橋(大阪市西区)に新築移転したが、1945年の大阪大空襲で再度焼失。翌1946年に復興したが、1956年、道頓堀弁天座跡(大阪市中央区)へ新築移転した。
    1948年、松竹との待遇改善がからみ、文楽界は会社派の「文楽因会」と組合側の「文楽三和会」に分裂した。こうした内紛もあって戦後は興行成績が低迷。1963年、松竹は文楽から撤退し、文楽座も朝日座と改称。新たに大阪府・大阪市を主体に文部省(現・文部科学省)・NHKの後援を受けた財団法人文楽協会が発足し、文楽界は再統一され、再出発することとなった。
    1984年には国立文楽劇場が完成し、松竹の撤退後も文楽を興行して大阪の文楽の定席的役割を担っていた道頓堀朝日座(旧文楽座)は長い歴史の幕を閉じた。
    2003年、「人形浄瑠璃文楽」が「人類の口承及び無形遺産の傑作」と宣言された(無形文化遺産参照)。
    2012年、有料入場者数が3年ぶりに10万人を超えた。劇場の開場25周年だった09年度以来[6]。
    2014年、日本財団が人形浄瑠璃「文楽」の普及をめざし「にっぽん文楽」プロジェクトを立ち上げ、東京オリンピックが開催される2020年まで年2回の全国公演を実施することを発表した[7]。
    2015年、2014年度の入場者数が増加。1994年度以来、20年ぶりの高水準で、1984年の劇場開場以来3番目に多い。平均入場者数は、過去最高となった[8]。3月には「にっぽん文楽」プロジェクトの一環で、六本木ヒルズのアリーナに檜舞台を組み立てての公演を実施した[9]。
    主な作品
    江戸時代から見て過去の出来事を扱った「時代物」[10][11]と、同時代のことを主題にした「世話物」[12]がある。ほとんどの作品は江戸時代に創作・初演されたものだが、明治以降に創作・初演された作品もある。 昭和年間以降では大西利夫の翻訳、脚本化によりハムレット、蝶々夫人などの「赤毛物」も上演されるようになった[13]。

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    雅楽ー6
    番舞一覧
    平安以降、唐楽の曲目と高麗楽の曲目が番舞(つがいまい)としてセットで上演される場合が多くなった。その一覧を示す。
    唐楽 高麗楽 備考
    迦陵頻 胡蝶 (舞楽) 童舞(厚化粧が原則)
    蘭陵王 納曽利
    菩薩 蘇利古
    抜頭 還城楽 還城楽は双方に同名曲
    還城楽 抜頭 抜頭は双方に同名曲
    甘州 林歌
    太平楽 陪臚 陪臚は双方に同名曲
    陪臚 地久
    春庭楽 白浜
    五常楽 登天楽
    蘇莫者 蘇志摩利
    打球楽 埴破
    散手 貴徳
    雅楽に使われる楽器
    2013年秋の京都御所一般公開での雅楽の演奏
    管絃の合奏の中心となる楽器は、一般的に三管、三鼓、両絃(二絃)の8種類といわれる。
    笙(鳳笙)、篳篥(ひちりき)、龍笛(横笛、おうてき)または高麗笛(こまぶえ)または神楽笛または中管
    楽太鼓または大太鼓(鼉太鼓、だだいこ)、鉦鼓または大鉦鼓、羯鼓(鞨鼓)または三ノ鼓
    楽琵琶、楽箏または和琴(倭琴)
    これらの楽器は大変高価であるが、篳篥や龍笛には、練習用の安価な楽器(プラスチック製)もある。 その他に笏拍子などが使われることもある。 笙は簧(リード)に結露すると音程が狂うので、演奏の合間に必ず暖めておく。このため夏でも火鉢や電熱器をそばに置く。篳篥は舌(リード)を柔らかくするため、緑茶に浸ける。
    三管の説明
    三管については次のような説明がなされる。
    「天から差し込む光」を表す笙(しょう、天の音)。
    「天と地の間を縦横無尽に駆け巡る龍」を表す龍笛(りゅうてき、空の音。横笛(おうてき))。
    「地上にこだまする人々の声」を表す篳篥(ひちりき、地の音)。
    この3つの管楽器をあわせて「三管」と呼ぶ。合奏することで、宇宙を創ることができると考えられていた。
    合奏時の主な役割は、主旋律を篳篥が担当する。篳篥は音程が不安定な楽器で、同じ指のポジションで長2度くらいの差は唇の締め方で変わる。演奏者は、本来の音程より少し下から探るように演奏を始めるため、その独特な雰囲気が醸しだされる。また、その特徴を生かして、「塩梅(あんばい)」といわれる、いわゆるこぶしのような装飾的な演奏法が行われる。
    龍笛は篳篥が出ない音をカバーしたりして、旋律をより豊かにする。
    笙は独特の神々しい音色で楽曲を引き締める役割もあるが、篳篥や龍笛の演奏者にとっては、息継ぎのタイミングを示したり、テンポを決めたりといった役割もある。笙は日本の音楽の中では珍しく和声(ハーモニー)を醸成する楽器であり、その和声は雅楽用語で合竹という。基本的には6つの音(左手の親指、人差し指、中指、薬指と右手の親指と人差し指を使用)から構成され、4度と5度音程を組み合わせた20世紀以降の西欧音楽に使用されるような複雑なものであるが、調律法が平均律ではないので不協和音というより、むしろ澄んだ音色に聞こえる。クロード・ドビュッシーの和音は笙の影響がみられるという説もある。
    三鼓の説明
    「三鼓」とは、羯鼓(または三ノ鼓)、鉦鼓、太鼓であるが、羯鼓の演奏者が洋楽の指揮者の役割を担い、全体のテンポを決めている。
    両絃(二絃)の説明
    「両絃」とは、楽琵琶、箏のことで、演奏者が一定の音形を演奏し、拍(はく)を明確にしている。
    使われる楽器
    国風歌舞
    笏拍子、和琴、篳篥、神楽笛(倭舞、神楽)、高麗笛(東遊)、中管(東遊)、龍笛(五節舞)
    管弦(管絃舞楽)
    羯鼓、楽太鼓、鉦鼓、笙、篳篥、龍笛、楽琵琶、楽箏
    唐楽(左方)
    羯鼓、大太鼓、大鉦鼓、笙、篳篥、龍笛
    高麗楽(右方)
    三ノ鼓、大太鼓、大鉦鼓、篳篥、高麗笛(明治撰定譜には右方の楽琵琶と楽箏の譜が残されているが近代に入ってから演奏に用いられたという記録はない)
    催馬楽、今様
    笏拍子、笙、篳篥、龍笛、楽琵琶、楽箏
    朗詠
    笏拍子、笙、篳篥、龍笛
    浦安の舞(参考)
    笏拍子、または楽太鼓(一般の和太鼓もok)、和琴、または楽箏(生田流等の箏もok)、篳篥、神楽笛

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    ・ソルフェジオ周波数
    「ソルフェジオ周波数って、実際にどんな音なんだろう?」って疑問を、一緒に解決していきましょう。以前の記事で、ソルフェジオ周波数が9種類から成り立っていると、調べてみてわかりました。今回の記事では、その9種類の音を実際に聴いてみたいと思います。この記事は、筆者が自分のヒーリングミュージックに、ソルフェジオ周波数を取り入れてみたいと思い、調べた内容を備忘録的にまとめた内容となっております。また私と同じように、ソルフェジオ周波数いついて興味の湧いた人が、周波数の意味など、それぞれの音とともに確認していきますので、参考にしてみてください。
    ソルフェジオ周波数とは?
    全部で9種類のソルフェジオ周波数について、調べてみた特徴
    174Hz「苦痛の軽減や安定の周波数」
    285Hz「多次元領域の知覚や、促進の周波数」
    396Hz「罪・トラウマ・恐怖から解放の周波数」
    417Hz「マイナスから変化を促す周波数」
    528Hz「基本となる癒しの周波数」
    639Hz「人とのつながり、調和の周波数」
    741Hz「表現力の向上、自由の周波数」
    852Hz「目覚め、直感の周波数」
    963Hz「高次元、宇宙意識とつながる活性の周波数」
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    ・174Hz は、1秒間に 174 回振動する音ですね。
    174Hz のソルフェジオ周波数の意味は、調べたところ「意識の拡大と進化」「苦痛の軽減」「安定の周波数」といった意味があるようです。174Hz の音は、心に安定をもたらし、意識の拡大と進化の基礎となる音と言われると、ヒーリングミュージックのベース音として非常に重要な役割を担うのかもしれません。
    ・285Hz は、1秒間に 285 回振動する音ですね。
    285Hz のソルフェジオ周波数の意味は、調べたところ「多次元領域を知覚した意識の拡大と促進」「多次元領域の知覚」「促進の周波数」といった意味があるようです。285Hz の音は、4次元・5次元といった3次元をこえた世界に意識を向けることで、「ゼロポイントフィールド」とつながる可能性もひろがるなんて言われたら…ヒーリングミュージック作りのアイディアが広がる気がします。
    ・396Hz は、1秒間に 396 回振動する音ですね。396Hz のソルフェジオ周波数の意味は、調べたところ「 罪・トラウマ・恐怖からの解放」「解放の周波数」といった意味があるとされているようです。396Hz の音は、私もも忘れている心のトラウマから、解放してくれるかもしれないと考えたら…一歩前にふみだせない人に向けた音楽に入れてあげたら、曲の説得力が上がるんじゃないかと思いました。
    ・417Hz は、1秒間に 417 回振動する音ですね。417Hz のソルフェジオ周波数の意味は、調べたところ「マイナスな状況からの回復、変容の促進」「変化の周波数」「変容を促す周波数」といった意味があるとされているようです。417Hz の音は、失敗から立ち直りたい時、がんばる勇気が欲しいという人に向けたヒーリング音楽を作りたいときに、ヒントになる周波数かもしれませんね。
    ・528Hz は、1秒間に 528 回振動する音ですね。
    528Hz のソルフェジオ周波数の意味は、調べたところ「理想への変換、奇跡、DNAの回復」「基本となる癒しの周波数」「奇跡の周波数」といった意味があるとされているようです。528Hz の音は、奇跡の周波数とよばれネットで話題になっていましたよね。実際に音を聴いて、どんな音なのか実際に確認してみましょう。この音が、ヒーリングミュージックの基本となりうる音だと思うので、個人的にしっかり耳で覚えておきたいところです。
    ・639Hz は、1秒間に 639 回振動する音ですね。639Hz のソルフェジオ周波数の意味は、調べたところ「人とのつながり、関係の修復」「調和の周波数」といった意味があるとされているようです。639Hz の音は、現代社会の抱える人間関係に疲れたリスナーに向けてヒーリング音楽を作成する際に、隠し味として使用すると説得力が上がるのかもしれません。これは、メモですね。
    ・741Hz は、1秒間に 741 回振動する音ですね。741Hz のソルフェジオ周波数の意味は、調べたところ「表現力の向上、問題の解決」「自由の周波数」といった意味があるとされているようです。741Hz の音は、741Hz の音は、問題の複雑化した社会で、もっとも必要とされる周波数かもしれませんね。段々と音が高くなってきているので、実際にヒーリングミュージックに盛り込むときにも、使いやすいそうな印象です。
    ・852Hz は、1秒間に 852 回振動する音ですね。852Hz のソルフェジオ周波数の意味は、調べたところ「直感力の覚醒、目覚め」「直感の周波数」といった意味があるとされているようです。852Hz の音は、モノづくりをするクリエイターにとって頼れる味方の周波数ですよね?これはヒーリングミュージックを作っているときに、自分に向けて鳴らしながら作ったらいいんじゃないか?なんてアイディアがすでに浮かんできておりますよ。
    ・963Hz は、1秒間に 963 回振動する音ですね。963Hz のソルフェジオ周波数の意味は、調べたところ「高次元、宇宙意識とつながる」「活性の周波数」「抽象的な存在と自分をリンク」といった意味があるようです。963Hz の音は、宇宙とつながる高い波動を感じることができる特別な周波数となっていますね。これは、壮大で幻想的なヒーリングサウンドでは、必須の音かもしれません。宇宙を連想させる楽曲でも、積極的に使用していきたいですね。
    参考
    ・【科学的根拠あり】ソルフェジオ周波数は嘘で効果なし?驚愕の事実
    ・「超知」ライブラリー、ジョン・レノンを殺した凶気の調律A=440Hz―人間をコントロールする「国際標準音」に隠された謀略
    ・ホロウィッツ,レオナルド・G.【著】/渡辺 亜矢【訳】
    著者等紹介
    ホロウィッツ,レオナルド・G.[ホロウィッツ,レオナルドG.]
    博士。公衆衛生、行動科学、新興疾病、自然治癒といった分野の権威として国際的に知られている。1977年、タフツ大学にて歯科医学博士号取得。ロチェスター大学では、特別研究員として行動科学を研究。ハーバード大学ではメディア関連を研究し、公衆衛生学修士号を取得。ビーコンカレッジでは衛生教育学/カウンセリング心理学修士号を取得。その後、ハーバード歯科医学校にて口腔衛生と疾病予防における心理社会的要因の研究を行う。四半世紀以上にわたり、非営利教育法人を運営(のちにテトラヘドロン社)
    渡辺亜矢[ワタナベアヤ]
    札幌市出身。日本大学芸術学部卒業。サブリミナルへの興味から、大学では放送学科にて広告について学ぶ。卒業後は映像・広告関連業界に身を置いていたが、3・11を期に首都圏一極集中構造から脱すべく札幌市に帰郷(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
    ※書籍に掲載されている著者及び編者、訳者、監修者、イラストレーターなどの紹介情報です。

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    狂言ー2
    脇狂言(わききょうげん)
    祝言本位の曲。正月などに演じられる。「末広がり」「三本の柱」「福の神」「大黒連歌」「筑紫奥」「三人夫」「松楪」「佐渡狐」「鍋八撥」「隠笠(※和泉流では宝の笠)」「宝の槌」など。
    大名狂言(だいみょうきょうげん)
    主従もののうち、大名がシテを務めるもの。「粟田口」「入間川」「鼻取相撲」「蚊相撲」「靱猿[7]」「墨塗」「鬼瓦」「萩大名」「二人大名」「文蔵」「富士松」「武悪」「寝音曲」「栗焼」「今参り」など。
    小名狂言(しょうみょうきょうげん)
    大名などに仕える「太郎冠者」がシテを務めるもの。「止動方角」「鐘の音」「空腕」「縄綯」「千鳥」「太刀奪」「素袍落」「木六駄」「棒縛」「附子」「文荷」「呼声」など。
    聟・女狂言(むこ・おんなきょうげん)
    聟がシテを務めるものおよび、女性が登場するもの。「八幡前」「鶏聟(雞聟)」「船渡聟」「二人袴」「吹取」「釣針」「水掛聟」「右近左近(※和泉流では内沙汰)」「鎌腹」「箕被」「貰聟」「伯母ヶ酒」「千切木」「比丘貞」「花子」など。
    鬼・山伏狂言(おに・やまぶしきょうげん)
    閻魔王や鬼の類がシテを務めるもの(人が鬼に化ける話もこれに含まれる)および、山伏がシテを務めるもの。舞狂言(仕舞狂言、能がかり狂言)もここに含まれる。「朝比奈」「節分」「首引」「清水」「神鳴」「禰宜山伏」「蟹山伏」「柿山伏」「梟(※和泉流では梟山伏)」「菌(※和泉流では茸)」「蝸牛」「枕物狂」「髭櫓」「通圓」「八尾」など。
    出家・座頭狂言(しゅっけ・ざとうきょうげん)
    出家(僧侶)、新発意(しんぼち 出家したばかりの若い僧侶)、座頭がシテを務めるもの。「宗論」「布施無経」「悪太郎」「魚説教(※和泉流では魚説法)」「御茶の水」「六地蔵」「丼礑」「月見座頭」「川上」「薩摩守」「猿座頭」「伯養」「呂連」など。
    集狂言(あつめきょうげん)
    上記の分類に収まらないもの。「瓜盗人」「連歌盗人」「金藤左衛門」「茶壺」「磁石」「膏薬練」「酢薑」「鳴子遣子」「芥川」「八句連歌」「横座」「合柿」「居杭(※和泉流では井杭で、小名狂言に分類)」「釣狐」など。
    流派
    江戸時代に家元制度を取っていた流派には、大藏流(おおくらりゅう 新字体で大蔵流とも表記)・和泉流(いずみりゅう)・鷺流(さぎりゅう)の3派があったが、このうち現在能楽協会に所属する流派として存続しているのは大蔵流と和泉流だけである。鷺流は今日山口県・新潟県佐渡島・佐賀県に残存しているが、能楽協会への入会資格を認められていない。その他に、室町時代後期から江戸時代初期にかけては南都禰宜流(なんとねぎ りゅう)という神人を中心とした流派があったことが知られている。神人とは神社に属して芸能その他卑賤の仕事に従事した者の称で、かつて猿楽が有力寺社に属していた名残とも言える存在である。室町時代には盛んに活動していたことが諸記録によって知られるが、江戸時代に入ると急速に衰え、江戸初期には既存の流派(大蔵流など)に吸収されて消滅したと言われている。その他にも無名の群小諸派が存在したようで、流派としては既に滅んでしまったが、一部の台本は『狂言記』『続狂言記』『狂言記拾遺』『狂言記外編』という一般読者向けの読み物となって江戸時代に出版され世に残った。
    大藏流
    詳細は「大藏流」を参照
    流祖玄恵法印(1269ー1350)。二世日吉彌兵衛から二十五世大藏彌右衛門虎久まで700年余続く、能楽狂言最古の流派。
    猿楽の本流たる大和猿楽系の狂言を伝える唯一の流派で、代々金春座で狂言を務めた大藏彌右衛門家が室町後期に創流した。
    現在大藏流には、東京を本拠とする宗家大藏彌右衛門家・山本東次郎家、京都を本拠とする茂山千五郎家・茂山忠三郎家、大阪・神戸を本拠とする善竹彌五郎家など、五家がある。神戸に本家のある善竹家の中で、関東を拠点とする善竹十郎は、初世彌五郎の五男、圭五郎の嫡男。
    台本は、宗家の台本のほか、京都を本拠としてきた茂山千五郞家のものと、江戸の大藏宗家の芸系を受け継ぐ山本東次郞家のものとに大別される。
    京都と関東では芸風も対照的で、京都・千五郞家の庶民的な親しみやすい芸風と、関東山本家の武家式楽の伝統を今に残す、古風で剛直な芸風がある。
    過去に大藏流から人間国宝に認定されたのは初世善竹彌五郎・三世茂山千作・四世茂山千作・四世山本東次郞の4名。四世茂山千作は2000年に文化功労者、2007年には狂言界で初の文化勲章を受章している。
    和泉流
    詳細は「和泉流」を参照
    和泉流は、江戸時代初頭に京都の素人出身の職業狂言師である手猿楽師(てさるがくし)として禁裏御用を務めつつ、尾張藩主徳川義直に召し抱えられていた七世山脇和泉守元宜が、同輩の三宅藤九郞家、野村又三郞家を傘下に収めて創流した流派である。宗家は山脇和泉家で、一応の家元制度を取ってはいたが、三派合同で流儀を形成したという過去の経緯もあり、近世を通じて家元の力は弱かった。特に三宅藤九郞家と野村又三郞家には和泉流における狂言台本である六義(りくぎ)を独自に持つことができる特権があり、そうした面からも一定の独自性が保たれてきた。
    現在和泉流は、名古屋を本拠とする野村又三郞家(いわゆる野村派)と狂言共同社(いわゆる名古屋派)、そして東京を本拠とする野村萬藏家・野村万作家・三宅右近家(いわゆる三宅派)の3派に大別され、台本もそれぞれ異なる。
    過去に和泉流から人間国宝に認定されたのは六世野村萬藏、九世三宅藤九郞、七世野村萬藏(野村萬)、二世野村万作の4名。野村萬は2008年には文化功労者に選ばれている。
    鷺流
    鷺流は徳川家康のお抱え狂言師となった鷺仁右衞門宗玄(1560-1650年)が一代で築き上げた流派である。宗玄は、もとは山城国猿楽系の長命座に属していたが、長命座が金剛座に吸収されてからは宝生座に移り、慶長19年(1614年)に家康の命令で観世座の座付となったのを機に一流をなした。家康に寵愛され、大蔵流を差し置いて幕府狂言方筆頭となって以降は、江戸時代を通じて狂言界に重きをなした。芸風は良く言えば当世風で写実的、悪く言えば派手で泥臭く卑俗なものだったらしい。宗家は鷺仁右衞門(さぎ にえもん)家、分家に鷺傳右衞門(さぎ でんえもん)家、門弟家に名女川六左衞門(なめかわ ろくざえもん)家などがあったが、宗家をはじめとしてほとんどの職分が観世座に属していた。
    この観世座という巨大な座に頼り切った脆弱な構造が災いし、明治維新を迎えるや鷺流は混乱の極みに達した。時の家元だった十九世鷺権之丞は変人と評されるほどの人物で、とても流派を統率する力はなく、困窮した職分は大挙して吾妻能狂言に参加した。これは能楽と歌舞伎を折衷した演劇で、成功せずに明治14年(1881年)頃までには消滅してしまった。そして明治28年(1895年)に十九世鷺権之丞が死去すると宗家は断絶。「松羽目物」と言われる能楽写しの舞踊劇の演出に多大な影響を与えた。その意味では、鷺流は今日の歌舞伎によって継承されているということができる。なお鷺流の狂言自体は山口県山口市で傳右衞門派が同県の指定無形文化財に、新潟県佐渡市で仁右衞門派が同県の指定文化財に、そして佐賀県神埼市千代田町高志地区で高志狂言が同県の指定無形民俗文化財として残っており、時折国立能楽堂などで上演されたこともある。
    比喩としての狂言
    上述の「冗談や嘘、人をだます意図を持って仕組まれた行い」としての意味の「狂言」は現代でも比喩的に用いられる(狂言誘拐、狂言強盗など)。

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    歌舞伎ー6
    演目
    明治28年(1895年)11月、東京歌舞伎座上演の『暫』(中央で見得を切るのは九代目市川團十郎の鎌倉権五郎)。鹿島清兵衛撮影
    分類
    現代の歌舞伎の演目は普通の芝居である歌舞伎狂言と歌舞伎舞踊に分けられる[49]。
    歌舞伎狂言は、さらにその内容により時代物と世話物に大別される。時代物とは、江戸時代より前の時代に起きた史実を下敷きとした実録風の作品[50]や、江戸時代に公家・武家・僧侶階級に起きた事件を中世以前に仮託した作品をいう[51]。一方、世話物とは、江戸時代の市井の世相を描写した作品をいう[52]。
    時代物のうち、お家騒動を書いたものは御家物(おいえもの)、飛鳥時代から平安時代を描いたものは王朝物(おうちょうもの)と呼ばれる。また世話物のうち、特に写実的要素の濃いもの[53]を生世話物(きぜわもの)という。明治になると当時の世相を描いた散切物という世話物のサブジャンルも生まれた。
    また歌舞伎狂言はその起源によって分類することもでき、人形浄瑠璃の演目を書き換えたものを丸本物[54]といい、能・狂言の曲目を原作としてそれらに近い様式で上演する所作事を松羽目物[注 9]という。丸本物は義太夫物・義太夫狂言・でんでん物[55]などとも呼ばれる。なお丸本物の対義語は純歌舞伎[56]である。
    活歴物(かつれきもの)は明治時代に歌舞伎を近代社会にふさわしい内容のものに改めようとして生まれた演目の総称であり、新歌舞伎(しんかぶき)は、明治後期から昭和の初期にかけて、劇場との関係を持たない独立した作者によって書かれた歌舞伎の演目の総称である。なお、第二次世界大戦の戦中から戦後以降に書かれた新しい演目は、新作歌舞伎(しんさくかぶき)または単に新作(しんさく)と呼んで、新歌舞伎とは区別している。
    歌舞伎狂言の分類方法は人によって揺れがあり、時代物と世話物で2分する代わりにこれにお家物を加えて3分する用例[57]もある。
    特徴
    西光亭芝國・春好齋北洲画『故人市川團藏十七囘忌追善狂言 平家女護嶋』四枚續物、文政7年9月大阪角座上演『平家女護嶋』(1824年)
    歌舞伎の演目にはほかの演劇の演目にはない特徴がいくつかある。まず歌舞伎狂言は世界という類型に基づいて構成されている。「世界」とは物語が展開するうえでの時代・場所・背景・人物などの設定を、観客の誰もが知っているような伝説や物語あるいは歴史上の事件などの大枠に求めたもので[58]、たとえば「曾我物」「景清物」「隅田川物」「義経物(判官物)」「太平記物」「忠臣蔵物」などがあり、それぞれ特有の約束ごとが設定されている。当時の観客はこれらの約束事に精通していたため、世界が設定されていることにより芝居の内容が理解しやすいものになっていた。ただし世界はあくまで狂言を作る題材もしくは前提にすぎず、基本的な約束事を除けば原作の物語から大きく逸脱して自由に作られたものであることも多く、登場人物の基本設定すらも原作とかけ離れていることも珍しくない。
    複数の世界を組み合わせてひとつの演目を作ることもあり、これを綯交ぜ(ないまぜ)とよぶ。世界ごとに描いている場所や時代が異なるはずであるが、前述のように世界はあくまで題材にすぎないので、無理やり複数の世界を結びつけてひとつの演目を作りだす。
    江戸時代に作られた演目のその他の特徴として、その長さが長大なこと、本筋の話の展開の合間に数多くのサイドストーリーを挟んだり、場面ごとに違った種類の演出(時代物と世話物(後述))が行われたりすることなどがあげられる。前者はこれは当時の歌舞伎が日の出から日没まで上演した[注 10][注 11]ことによる。一方、後者は興行の中にさまざまな場面を取り込むことで多種多様な観客を満足させることを狙ったものである。
    現在[注 12]ではこのような長大な演目の全場面を上演すること(通し狂言)はまれになり、複数の演目の人気場面のみを順に演じること(ミドリ/見取り)[注 13]が多い。昭和のはじめごろまでは、演目を並べるときに「一番目」(時代物)、「中幕」[54](所作事または一幕物の時代物)、「二番目」(世話物)と呼ぶ習慣があったが、現在では行われていない。
    また江戸時代には(当時における)現代の人物や事件やをそのまま演劇で用いることが幕府により禁止されていたため、規制逃れのため登場人名を仮名にしたうえで無理やり過去の出来事として物語が描かれるという特徴もある。しかし仮名といっても羽柴秀吉のことを「真柴久吉」と呼ぶ程度のもので、このように歪曲された演目の内容から真に描きたい事件を読み解くのは容易であった[注 14]。
    演目名と通称
    江戸時代の歌舞伎狂言の演目名(外題(げだい)という)は縁起を担いで「割りきれない」奇数個の漢字で書けるものが選ばれることが多く、その読み方は粋を競って当て字や当て読みを駆使したものであるため、一見しただけではその読み方が分からないものも少なくない。こうした事情により、外題のほかにより親しみやすい通称がついていることが多く、この場合もともとの外題を通称と区別するために本外題と呼ぶ。また各演目の人気のある場面(段・場・幕など)には演目それ自身の通称とは別にその場面の通称がついている場合もある。
    具体例は下記のとおりである。
    演目そのものに通称がついている例:
    『都鳥廓白波』(みやこどり ながれの しらなみ) →『忍の惣太』(しのぶの そうた)
    『大塔宮曦鎧』(おおとうのみや あさひの よろい) →『身替り音頭』(みがわり おんど)
    『慙紅葉汗顔見勢』(はじ もみじ あせの かおみせ) →『伊達の十役』(だての じゅうやく)
    『刈萱桑門筑紫𨏍』(かるかや どうしん つくしの いえづと) →『刈萱道心』(かるかや どうしん)
    『青砥稿花紅彩画』(あおとぞうし はなの にしきえ) →『白浪五人男』(しらなみ ごにんおとこ)
    『与話情浮名横櫛』(よはなさけ うきなの よこぐし) →『切られ与三』(きられ よさ)
    『蘆屋道満大内鑑』(あしやどうまん おおうち かがみ) →『葛の葉』(くずのは)
    特定の段に通称がついている例:
    『絵本太功記』(えほん たいこうき)十段目「尼ヶ崎閑居の場」 →『太十』(たいじゅう)
    『心中天網島』(しんじゅう てんの あみじま)二段目「天満紙屋内の場」→『時雨の炬燵』(しぐれの こたつ)
    『国性爺合戦』(こくせんや かっせん)二段目「獅子ヶ城楼門の場」→『楼門』(ろうもん)
    『楼門五三桐』(さんもん ごさんの きり)二幕目返し「南禅寺山門の場」→『山門』(さんもん)
    『平家女護島』(へいけ にょごがしま)二段目切「鬼界が島の場」→『俊寛』(しゅんかん)
    『恋飛脚大和往来』(こいびきゃく やまと おうらい)二段目「新町井筒屋の場」→『封印切』(ふういんぎり)
    『義経千本桜』(よしつね せんぽん ざくら)四段目「道行初音旅の場」→『吉野山』(よしのやま)、四段目切「河連法眼館の場」→『四ノ切』(しのきり)
    なお、返し(返し幕)とはいったん幕を引くが幕間を設けず、鳴り物などで間をつなぎ用意ができ次第すぐに次の幕を開けること[59]、切とは義太夫狂言のその段の最後の場面のことで[60]、すなわち『四ノ切』とは四段目の最後の場のことをいう。『義経千本桜』の四段目の切はケレンを使った派手な演出が有名な人気の場面で、これが上演されることが特に多かったことから、ただ「四ノ切」と言えばこの場面を指すようになった。
    「外題」という語は「芸題(げいだい)」が詰まって「げだい」になったとする説もあるが、古代から中世にかけては絵巻物の外側に書かれた短い本題を「外題」、内側に書かれた詳題を「内題」と言っており、これが起源だとする説もある。外題はもともと上方歌舞伎の表現で、江戸歌舞伎では名題(なだい)といっていた[61]。こちらにも「内題(ないだい)」が詰まって「なだい」になったとする説があり、上方の「外題」と江戸の「名題」で対になることが、絵巻物起源説の根拠となっている。

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    猿楽ー1
    (さるがく、猿樂)は、室町時代に成立した日本の伝統芸能。能は江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治以降のことである[1]。
    名称
    散楽(さんがく、散樂)、申楽(申樂)、猿楽とも書く。読み方は「さるごう(さるがう)」とも。演者(狂言含む)は座頭級のものを楽頭、太夫、一般の座員を申楽師、または単に申楽とよんだ。申楽という言葉は散楽の転訛したものであるともいう。 申楽の表記は世阿弥の伝書で使われる。世阿弥は猿楽の起源を綴った『風姿花伝』「神儀云」[2] で、「上宮太子、末代のため、神楽なりしを、といふ文字の片を除けて、旁を残し給ふ。是日暦のなるがゆえにと名づく。」として、猿楽の文字を嫌っているが、歴史的には誤りであるとされる[3]。
    歴史
    申楽(猿楽)(能郷の能・狂言)が毎年4月13日に開催されている能郷白山神社(岐阜県本巣市根尾能郷)の舞台
    現在能楽と称されている芸能の起源について正確なことはわかってはいないが、7世紀頃に(南方)中国大陸より日本に伝わった日本最古の舞台芸能である伎楽や、奈良時代に伝わった散楽に端を発するのではないかと考えられている。散楽は当初、雅楽と共に朝廷の保護下にあったが、やがて民衆の間に広まり、それまでにあった古来の芸能と結びついて、物まねなどを中心とした滑稽な笑いの芸・寸劇に発展していった。それらはやがて申楽(猿楽)と呼ばれるようになり、現在一般的に知られる能楽の原型がつくられていった[4]。
    飛鳥・奈良時代
    (南方)中国大陸から伝わった散楽が申楽(猿楽)のはじまりと考えられている。申楽(猿楽)・能楽の始祖とされる秦河勝が「六十六番の物まね」を創作して紫宸殿にて上宮太子(聖徳太子)の前で舞わせたものが「申楽」のはじまりであると風姿花伝に記されている。散楽の具体的な内容は、史料が少ない為にはっきりしていないが、正倉院宝物の「墨絵弾弓」に描かれた「散楽図」などから推測される限りでは、軽業や手品、物真似、曲芸、歌舞音曲など様々な芸能が含まれていたものとされる。朝廷は散楽師の養成機関「散樂戸」を設けるなどし、この芸能の保護を図った[5]。
    平安時代
    延暦元年(782年)、桓武天皇の時代に散楽戸は廃止される。朝廷の保護から外れたことにより、散楽師たちは、寺社や街角などでその芸を披露するようになった。そして散楽の芸は、他の芸能と融合していき、それぞれ独自の発展を遂げていった[6]。
    この散楽が含む雑芸のうち、物真似などの滑稽芸を中心に発展していったのが申楽(猿楽)と言われる。当初は物真似だけでなく、散楽の流れをくむ軽業や手品、曲芸、呪術まがいの芸など、多岐に渡る芸能を行った。平安時代中期頃より、神道的行事が起源の田楽や、仏教の寺院で行われた延年などの芸能も興り、それぞれ発達していった。これらの演者は元々農民や僧侶だったが、平安末期頃から専門的に演じる職業集団も成立していった。平安時代後期に藤原明衡が著した『新猿楽記』には、「福広聖の袈裟求め・妙高尼の襁褓乞い」「京童のそらざれ・東人の初京上」のような演目が並んでいる。僧侶が袈裟をなくして探し回る、独身の尼さんに乳児用のオムツが必要になる、口の上手な京童とおのぼりさんの東人の珍妙なやりとり、といった寸劇が演じられ、都の人たちが抱腹絶倒していた様子が伺える[7]。また同史料には、咒師と呼ばれる呪術者たちへの言及が見られることから、呪禁道の影響を受けた儀式を芸能と融合させたものがこの時期に存在しており、それらが翁申楽(猿楽)へと発展したのではないかとの説もある[8]。
    鎌倉時代から室町時代
    鎌倉時代には平安時代に成立した初期の申楽とは異なる芸態の申楽が出現した。現行の翁に相当する翁申楽である。永仁5年(1297年)に書かれた『普通唱導集』では、もっぱら翁申楽について言及しており当時の申楽が翁申楽を本芸としていたことを物語っている[9]。
    翁申楽は寺社の法会や祭礼に取り入れられたため、申楽は寺社との結びつきを強め、座を組織して公演を催す集団も各地に現れた。一部の申楽の座は、寺社の庇護を得て、その祭礼の際などに芸を披露した。最初は余興的なものとして扱われていたが、寺社の祭礼の中に申楽が重要な要素として組み込まれるような現象も起き始めた。寺社の由来や神仏と人々の関わり方を解説するために、申楽の座が寸劇を演じるようなこともあった。これらがやがて、「申楽(猿樂)の能」となり、公家や武家の庇護をも得つつ、能や狂言に発展していったと言われている[10]。
    座のなかでも、とくに大和申楽の四座、近江猿楽六座が名高い。もともと申楽(猿楽)は大和において「七道の者」であった。漂泊の白拍子、神子、鉢叩、猿引きらとともに下層の賤民であり同じ賤民階級の声聞師の配下にあった。室町時代には、鎌倉時代の猿楽が発展し観阿弥や世阿弥らの登場によって現在の能楽とほぼ同等の芸能としての申楽(猿楽)が形作られる[11][12][13]。

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    歌舞伎ー4
    明治以降
    二代目沢村淀五郎の川連法眼と初代坂東善次の鬼佐渡坊
    明治になると新時代の世相を取り入れた演目(散切物、ざんぎりもの)が作られた。これは明治の時代背景を描写し、洋風の物や語を前面に押し出して書かれていたが、構成や演出は従来の世話物の域を出るものではなく、革新的な演劇というよりは、むしろ流行を追随したかたちの生世話物といえる。しかし1872年になると歌舞伎の価値観を根底から揺るがす要求が新政府から出される。新政府はこの年から歌舞伎に対して干渉しはじめ[34]、「高い身分の方や外国人」が見るにふさわしいものを演じること、狂言綺語(作り話)を廃止することなどを要求した[34]のである。江戸時代にはむしろ現実そのままに書くことを禁じられていた歌舞伎にとって「狂言綺語」は長きにわたって大切にしてきた価値観であり[34]、新政府の要求は江戸歌舞伎の持つ虚の価値観を全面否定するものであった[34]。
    明治19年(1886年)には「日本が欧米の先進国に肩を並べうる文明国であることを顕示する目的で[34]演劇改良会が設立され、政治家、実業家、学者、ジャーナリストら[34]が参加した。翌年には、演劇改良会は歌舞伎誕生以来初となる天皇による歌舞伎鑑賞(天覧歌舞伎)を実現させ、役者たちの社会的地位の向上を助けるきっかけとなった[34]。
    時代は前後するが、こうした要求に応じて作られたのが活歴物[注 6]と呼ばれる一連の作品群であり、役者として活歴物の芝居の中心となったのが九代目市川團十郎である。芝居の価値観が新政府のそれと一致していた彼は事実に即した演劇を演じ始め、彼の価値観に反した歌舞伎の特徴、たとえば七五調の美文、厚化粧、定型の動きを拒否した[34]。それに対して彼が工夫した表現技法がいわゆる「腹芸」で[34]、セリフと動きを極力減らし[34]、「目と顔」による表現[34]で演じ始めた。
    こうした團十郎の芸は高く評価され[34]ながらも、活歴をよしとするのは一部の上流知識人のみ[34]で、世間の人はその芝居らしくない活歴には背を向けた[34]が、團十郎の演技志向に対する共感は次第に広がっていった[34]。しかし日清戦争前後の復古主義の風潮の中で團十郎は従来の狂言を演じるようになり、猥雑すぎるところ、倫理にもとるところ以外には手を入れないほうがよいと考えるようになった。それでもなお芝居が完全に旧来に復したわけではなく、創造方法において活歴の影響を受けたものであった[44]。こうして團十郎の人物造形が従来の歌舞伎にも適応され[34]、それが今日の歌舞伎の演技の基礎になっていった[34]ことが活歴の歴史的意義である[34]。
    劇場の面では、明治22年(1889年)には演劇改良会の会員であった福地桜痴が金融業者の千葉勝五郎と共同経営で歌舞伎座を設立。歌舞伎座には九代目市川團十郎、五代目尾上菊五郎、初代市川左團次らの名優が舞台に立ち、いわゆる「團菊左」の時代をもたらした。その後、経営者の内紛を得て、1913年(大正2年)に今日の経営母体である松竹が歌舞伎座を買収した。
    歌舞伎座は歌舞伎の歴史にさまざまな影響を与え、歌舞伎座とともに歌舞伎座を本拠とする九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎を頂点として、役者集団の階層性が定まった[34]。ほかにも歌舞伎の中央集権化[34]、改良演劇の確立[34]、歌舞伎演出の様式美化の促進[34]といった影響があったことが指摘されている。
    一方の江戸三座は、歌舞伎座設立時に千歳座(のちの明治座)と組んで歌舞伎座に対抗(四座同盟)するなどした。また大正のころの市村座では、六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門が菊吉時代・二長町時代と呼ばれる時代を築いた。しかしこれが江戸三座の放った最後の輝きであった。江戸三座は失火等で順に廃座になっていき、昭和7年(1932年)に市村座の仮小屋が焼失したのを最後に江戸三座は潰える。
    19世紀末[45]になると、新歌舞伎という新たな歌舞伎狂言が登場する。これは「近代的な背景画や舞台照明」の採用[45]、劇界外部の作者の作品や翻訳劇の上演[45]、「新しい観客の掘り起こし」[45]によって成立した、「近代の知性・感性に訴える歌舞伎」[45]である。松井松葉の『悪源太』(明治38年・1899年)や坪内逍遥の『桐一葉』(明治43年・1904年)を皮切りに、以後さまざまな背景を持つ作者によって数々の作品が書かれた。それまでは各劇場に所属する座付きの狂言作者が、立作者を中心に共同作業で狂言をこしらえていたが、次第に外部の劇作家の作品が上演されるようになったのである。これが「黄金時代」と呼ばれた明治後期から大正にかけての東京歌舞伎によりいっそうの厚みを与えることにつながった。ほかにも岡本綺堂の『修禅寺物語』『鳥辺山心中』、真山青果の『元禄忠臣蔵』十部作などが著名である。
    その一方では、従前からの梨園の封建的なあり方に疑問を呈する形で二代目市川猿之助の春秋座結成に始まり、ついに歌舞伎界での封建制的な部分に反発して昭和6年(1931年)には四代目河原崎長十郎、三代目中村翫右衛門、六代目河原崎國太郎らによる前進座が設立された[46]。

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    歌舞伎ー7
    演出
    舞台上の黒衣
    歌舞伎の舞台には役者に小道具を手渡すなど演技の手助けをする役割の人物がいることがあり、この人を後見(こうけん)という。特に全身黒装束に身を包んだ後見を黒衣後見(くろごこうけん)、あるいは略して黒衣(くろご)という。役者以外の人物が舞台に登場しないことが原則の通常の演劇と違い、黒衣をはじめとした後見は観客の目から見える位置に現れる。しかし後見たちが舞台にいないものとして扱うのが歌舞伎の暗黙のルールである。
    黒衣以外にも、紋付袴の後見(着付後見(きつけごうけん)もしくは袴後見という)や裃の後見(裃後見(かみしもごうけん)という)もいる[62]。さらに海や水辺の場面に登場する青装束の波後見(なみごうけん)、雪の場面に登場する白装束の雪後見(ゆきごうけん、白衣(しろご)とも)などの後見がいるが、波後見は幕末、白衣はおそらく明治以降に考案されたものである[63]。
    また歌舞伎の演出では拍子木(ひょうしぎ)あるいは略して柝(き)を用いることがあり、芝居の開始時の合図として打ったり幕切れで打ったりし、これらのときには2本を打ち合わせる[64]。また役者の足取りに合わせて打たれたるなど、動作や物音を強調するためにも用いられ(ツケという)[注 15]、この場合には床に置いた板(ツケ板)に打ちつける[64]
    隈取の例
    隈取はおもに時代物で行われる化粧法である。顔に線を描いたもので、もともとは血管や筋肉を誇張するために描かれたものだとされている。役柄により色が異なり、赤系統の色は正義の側の人間に、青系統の色は敵役に、茶色は鬼や妖怪などに用いられる。
    見得は演目の見せ場において役者がポーズを決めて制止することを指す。映画におけるストップモーション技法に相当し、役者を印象づけたり舞台の絵画的な美しさを演出したりするのに用いられる。六方(ろっぽう)は伊達や勇壮なさまなどを誇張したり美化した荒事の要素をもつ所作である。歌舞伎では、当初は舞台への出のときに行われたが、後代になるともっぱら花道への引っ込みのときにこれが行われる。
    外連(けれん)は宙乗りや早替り、仕掛けなどを使うなど観客を驚かせるような演出である。
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    この節の加筆が望まれています。
    役者
    名跡と屋号
    一代に終わらず何代も受け継がれる歌舞伎役者の芸名は、名跡(みょうせき)と呼ばれている。名跡を継ぐことを襲名(しゅうめい)といい、役者たちは経験を経るにつれ、名跡を順々に取り換えて次第に大きな名跡を継いでいく。実子や血縁者が継承することが多いが、養子や実力のある高弟など[65]に名跡を継がせることもある。ただし、ここでいう養子は法的な意味でのそれとは限らず、いわば芸の上での養子であることもあり、これを芸養子という。
    役者たちは名跡とは別に名跡・芸名ごとにきまる屋号(やごう)を持っている(歌舞伎役者の屋号一覧参照)。歌舞伎では役者の登場時やセリフ・見得が決まった時などに[注 16]に大向こう(≒後ろの方の席)などから役者に声をかける習慣があるが、その時は芸名でなく屋号で呼ぶのが基本である。

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    猿楽ー3
    即興芸術としての能
    また聖職者である呪師に代って、猿楽師という、いわばエンターテインメントの玄人によって例式の後の余興芸として行われるようになった能は、入念なリハーサルを行わない上に一度きりの公演であるという点も独特である。通常の演劇では事前にリハーサルを重ね、場合によってはゲネプロという形で全て本番と同じ舞台・衣装を用いるが、能では事前に出演者が勢揃いする「申し合わせ」は原則一回であり、しかも面や装束は使用しない。これについて前出の八世観世銕之丞は、能は本来、全て即興で演じられるものであり、出演者同士がお互いのことを解りすぎていることは、能においてはデメリットになると論じている[19]。
    幽玄と妙
    能が表現する美的性質として広く知られた概念に「幽玄」がある。能を大成した世阿弥の著述においても「幽玄」が意味するところは必ずしも一定していないが、例えば『花鏡』においては、同時代(室町時代初期)の公家の挙措や佇まいのように、「ただ美しく柔和なる体」を、つまり、「平安朝的な優美さを持つことで、女性的な美しさをいう」ことを「幽玄」としている。「あはれ」と「艶」との調和した静寂美と優雅美が合致して寂びて見える優美が能楽の「幽玄」といえる。
    ただし、梅若猶彦は世阿弥の能論における最も重要な美的概念が「幽玄」ではなく「妙」であることを指摘しており[21]、「幽玄」が能の美的側面における支配原理というわけではない。「妙」については世阿弥もその出現の原理や内容を完全に説明しきれておらず、「形無き姿」「無心」といった比喩によって説明を試み、またこの美的性質は子方の演技においても稀に感得されることがあると指摘している。梅若は「妙」と「幽玄」を比較し、「妙」はそれが現れた時には演技者と観客のいずれにも作用するものであるのに対し、「幽玄」はあくまでも演技者が観客に対して意図的に表現しようとする美的性質に留まると論じている。
    能においては、仮面が様々な表情を見せるという意見は非常に多い。悲しみ、怒り、喜びなどそれらの表情が無表情の仮面の中に現れるというのである。これらは観客が演技者の演技によって、その世界に没入し感得することで得ているといえる。それらのように深奥にあるものを感じさせる、感じ取ることを幽玄の具体的な意味として受け取っている観客も多い。
    世阿弥の著作
    応永7年(1400年)、世阿弥は『風姿花伝』を著した。この書の第一章にあたる「年来稽古条々」は「初心わするべからず」や「時分の花」などよく知られた内容があり、その理論は現代で通用するものと評価されている。内容には、観阿弥の考えも含まれていると考えられている。その後世阿弥は、『花鏡』、『拾玉得花』、『申楽談儀』(口述)など研鑽に基づく理論を伝書として残している。現在二十一種が伝書として知られている。
    型附
    現在でも、古くから続く家には、秘伝を記した書物が伝承されていることがある。これを「型附」(かたづけ)と呼ぶ。
    織豊時代の申楽(猿楽)
    戦国時代には、猿楽の芸の内容に大きな発展はなかったと考えられている。また通説では、申楽は織田信長や豊臣秀吉ら時の権力者に引き続き愛好されていた。『宇野主水日記』によると、信長は天正10年(1582年)に安土(現在の近江八幡市安土町)の摠見寺で徳川家康とともに梅若家の申楽を鑑賞しており、自身も小鼓をたしなんだと言われ、長男の信忠は自ら申楽を演じた、などともされている。ただし、信長が愛好したとして有名な「敦盛」は幸若舞であり能ではないにもかかわらず、映画やテレビで演じられる桶狭間の戦いの前の信長の舞は能の舞と謡いで行われ、そして司馬遼太郎の紀行文集『街道をゆく 四十三 濃尾参州記』のように「まず陣貝を吹かせ、甲冑をつけ、立ったまま湯漬けを喫し、謡曲「敦盛」の一節をかつ謡いかつ舞ったのは、有名である」などという誤りが広められてしまっていることには注意すべきである[22][23]。
    幸若舞を好んだ信長に対して、秀吉は晩年熱心に申楽を演じた。文禄2年(1593年)10月には秀吉は後陽成天皇の前で、3日間続けて何番もの申楽を演じている[24]。しかしその一方で、秀吉は大和四座以外の申楽には興味を示さなかったため、この時期に多くの申楽の座が消滅していった。いわば、現在能と称されている猿楽が、それ以外の申楽から秀吉によって選別されたのである。
    江戸時代の猿楽
    江戸時代には、徳川家康や秀忠、家光など歴代の将軍が猿楽を好んだため、猿楽は武家社会の文化資本として大きな意味合いを持つようになった。また猿楽は武家社会における典礼用の正式な音楽(式楽)も担当することとなり、各藩がお抱えの猿楽師を雇うようになった。間部詮房は猿楽師出身でありながら大名、さらには幼少の将軍を代行する事実上の国家の執政にまで出世した人物として知られている[25]。
    なお、家康も秀吉と同じく大和四座を保護していたが、秀忠は大和四座を離れた申楽師であった喜多七太夫長能に保護を与え、元和年間(1615年から1624年)に喜多流の創設を認めている。家康は観世座を好み、秀忠や家光は喜多流を好んだとされるが、綱吉は宝生流を好んだため、綱吉の治世に加賀藩や尾張藩がお抱え猿楽師を金春流から宝生流に入れ替えたと言われている。その結果、現在でも石川県や名古屋市は宝生流が盛んな地域である。
    その一方、猿楽が武家社会の式楽となった結果、庶民が猿楽を見物する機会は徐々に少なくなっていった[要出典]。しかし、謡は町人の習い事として流行し、多くの謡本が出版された(寺子屋の教科書に使われた例もある)。実際に観る機会は少ないながらも、庶民の関心は強く、寺社への寄進を集める目的の勧進能が催されると多くの観客を集めたという[要追加記述]。四座一流に属さない役者による庶民を対象とした猿楽の興行も行われ、桃山時代に引き続き辻能と呼ばれた[26]。
    明治時代
    明治14年(1881年)、明治維新で衰微した猿楽の再興を目指して能楽社が設立された際に能楽と改称された。「能楽社設立之手続」には、「前田斉泰ノ意見ニテ猿楽ノ名称字面穏当ナラサルヲ以テ能楽ト改称シ……云々」とある[27]。

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    歌舞伎ー2
    元禄
    次の画期が元禄にあたるとするのが定説である。歌舞伎研究では寛文・延宝頃を最盛期とする歌舞伎を「野郎歌舞伎」と呼称し[24]、この時代の狂言台本は伝わっていないものの、役柄の形成や演技類型の成立、続き狂言の創始や引幕の発生、野郎評判記の出版など、演劇としての飛躍が見られた時代と位置づけられている[24]。この頃には「演劇」といってはばかりのないものになっていた[23]。江戸四座(後述)のうち格段に早くに成立した猿若勘三郎座を除き、それ以外の三座が安定した興行を行えるようになったのも寛文・延宝のころである[25]。
    元禄年間(1688~1704)を中心とする約50年間で、歌舞伎は飛躍的な発展をとげ、この時代の歌舞伎は特に「元禄歌舞伎」と呼ばれている[26]。この時代の特筆すべき役者として、荒事芸を演じて評判を得た江戸の市川團十郎 (初代)と[27]、「やつし事」(高貴な人が一時的に零落して苦難を経験する場面[18])を得意とし[28]て評判を得た京の坂田藤十郎 (初代)がいる。藤十郎の演技は、のちの和事と呼ばれる芸脈の中に一部受け継がれ[28]、後になって藤十郎は和事の祖と仰がれた[29]。芳沢あやめ (初代)も京随一[30]の若女形として評判を博した。
    なお藤十郎と團十郎がそれぞれ和事・荒事を創始したとする記述[31]が散見されるが、藤十郎が和事を演じたという同時代記録はない[29]。当時「やつし事」を得意としたのも藤十郎だけではない[32]。また荒事の成立過程はよくわかっておらず[28]、「団十郎が坂田金時役で荒事を創始した」「金平浄瑠璃を手本にした」といった俗説は現在では信じられていない[29]。
    狂言作者の近松門左衛門もこの時代の人物で、初代藤十郎のために歌舞伎狂言を書いた。のちに近松門左衛門は人形浄瑠璃にも多大な影響を与えたが、ほかの人形浄瑠璃作品と同様、近松の作品ものちに歌舞伎に移され、今日においても上演され続けている。なお、今日では近松門左衛門は『曽根崎心中』などの世話物が著名であるが、当時人気があったのは時代物、特に『国性爺合戦』であり、『曽根崎心中』などは昭和になるまで再演されなかった。
    作品面では1680年ごろには基本となる7つの役柄がすべて出揃った[33]。すなわち立役、女方(若女方)、若衆方、親仁方(おやじがた、老年の善の立場の男性)、敵親仁方役、花車方(かしゃがた、年増から老年の女性)、道外方(どうけがた)である[33]。
    また作品づくりにおいて江戸幕府の禁令ゆえの制限ができた。正保元年(1644年)に当代の実在の人名を作品中で用いてはならないという法令ができ[34]、元禄16年(1703年)には赤穂浪士の事件に絡んで(当時における)現代社会の異変を脚色することが禁じられた[34]のである。これ以降、歌舞伎や人形浄瑠璃は、実在の人名を改変したり時代を変えたりするなど一種のごまかしをしながら現実を描くことを強いられることとなる。
    江戸では芝居小屋は次第に整理されていき、延宝の初めごろ(1670年代)までには中村座・市村座・森田座・山村座の四座(江戸四座)のみが官許の芝居小屋として認められるようになり、正徳4年(1714年) に江島生島事件が原因で山村座が取り潰される。以降、江戸時代を通して、江戸では残りの三座(江戸三座)のみが官許の芝居小屋であり続けた。
    享保 - 寛政
    三代目大谷鬼次(二代目中村仲蔵)の江戸兵衛、寛政六年五月、江戸河原崎座上演『恋女房染分手綱』(1794年)
    歌舞伎の舞台が発展し始めるのは享保年間からである[35]。享保3年(1718年)、それまで晴天下で行われていた歌舞伎の舞台に屋根がつけられて全蓋式になる[35][注 2]。これにより後年盛んになる宙乗りや暗闇の演出などが可能になった[35]。また、享保年間には花道が演技する場所として使われるようになり[35][注 3]、「せり上げ」が使われ始め[35]、廻り舞台もおそらくこの時期に使われ始めた[35]。宝暦年間の大阪では並木正三が廻り舞台を工夫し、現在のような地下で回す形にする[35][36]など、舞台機構の大胆な開発と工夫がなされ、歌舞伎ならではの舞台空間を駆使した演出が行われた[35]。これらの工夫は江戸でも取り入れられた[35]。こうして歌舞伎は花道によってほかの演劇には見られないような二次元性(奥行き)を、迫りによって三次元性(高さ)を獲得し、廻り舞台によって場面の転換を図る高度な演劇へと進化した。
    作品面では趣向取り・狂言取りの手法が18世紀から本格化した[37]。これらは17世紀にもすでに行われていたが、17世紀時点では特定の役者が過去に評判を得た得意芸や場面のみを再演する程度だったのが、18世紀になると先行作品全体が趣向取り・狂言取りの対象になったのである[37]。これは17世紀の狂言が役者の得意芸を中心に構成されていたのに対し、18世紀になると筋や演出の面白さが求められるようになったことによる[37]。
    また、このころになると人形浄瑠璃からも趣向取り・狂言取りが行われるようになり、義太夫狂言が誕生した[37]。すなわち歌舞伎が人形浄瑠璃の影響を受けるようになったが、それ以前には逆に人形浄瑠璃が歌舞伎に影響を受けていた時期もあり、単純化すれば「歌舞伎→人形浄瑠璃→歌舞伎」という図式であった[37]。
    延享年間にはいわゆる三大歌舞伎が書かれた。これらはいずれも人形浄瑠璃から移されたもので、三大歌舞伎にあたる『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』の(人形浄瑠璃としての)初演はそれぞれ1746年、1747年、1748年である。
    またそれから少しさかのぼる1731年には瀬川菊之丞 (初代)が能の道成寺にヒントを得た『無間の鐘新道成寺』で成功をおさめ[37]、これにより舞踊の新時代の幕開きを告げた[37][注 4]。その後、道成寺をモチーフにした舞踊がいくつも作られ、1753年には今日でも上演される『京鹿子娘道成寺』が江戸で初演されている[37]。なお当時の江戸はほかのどの土地にも増して舞踊が好まれており[37]、上述の『無間の鐘新道成寺』や『京鹿子娘道成寺』があたりを取ったのはいずれも江戸の地であった[37]。
    1759年、並木正三が『大坂神事揃(おおさかまつりぞろえ)』で「愛想尽かし」を確立[38]。これは女が諸般の事情で心ならずも男と縁を切らねばならなくなり、それを人前で宣言すると、男はそれを真に受けて怒る場面である。その後、男が女を殺す場面につながることが多い[38]。

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    猿楽ー2
    申楽(猿楽)の集大成
    申楽は平安時代には中央的ではなかったが、室町時代になると寺社との結びつきを背景に、延年や田楽の能(物真似や滑稽芸ではない芸能)を取り入れ、現在の能楽とほぼ同等の芸能として集大成された。
    申楽・田楽・延年は、互いに影響を及ぼしあい発展していった。平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて同業組合としての座が生まれ、寺社の保護を受けるようになる。それが鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての動乱期を経て室町時代に入る頃になると、これに代わって武家が田楽を保護するようになり、それとともに衣装や小道具・舞台も豪華なものになっていった。このような状況の中、大和申楽の一座である結崎座より観阿弥が現れ、旋律に富んだ白拍子の舞である曲舞などを導入して、従来の申楽に大きな革新をもたらした。
    このような革新の背景の一つと考えられているのが、当時行われていた「立ち会い能」と呼ばれる催しである。これは申楽や田楽の座が互いに芸を競い、勝負を決するというもので、「立ち会い能」で勝ち上がることは座の世俗的な成功に直結していた。観世座における猿楽の革新も、この「立ち会い能」を勝ち上がるためという側面があった。
    永和元年(1375年)、室町幕府の三代将軍足利義満は、京都の今熊野[14] において、観阿弥とその息子の世阿弥による申楽を鑑賞した。彼らの芸に感銘を受けた義満は、観阿弥・世阿弥親子の結崎座を庇護した。これがのちの観世座の前身である。この結果、彼らは足利義満という庇護者、そして武家社会という観客を手に入れることとなった。また二条良基をはじめとする京都の公家社会との接点も生まれ、これら上流階級の文化を取り入れることで、彼らは申楽をさらに洗練していった。その後、六代将軍足利義教も世阿弥の甥音阿弥を高く評価し、その庇護者となった。こうして歴代の観世大夫たちは、時の権力と結びつきながら、申楽を発展させ現在の能の原型として完成させた。
    なお、室町時代に成立した大和申楽の外山座(とびざ)・結崎座(ゆうさきざ)・坂戸座(さかどざ)・円満井座(えんまいざ)を大和四座(やまとしざ)と呼ぶ。それぞれ、後の宝生座・観世座・金剛座・金春座につながるとする説が有力である[15]。
    (「時宗の踊り念仏が 申楽や狂言を取込んだ」とも考えられるが) 申楽(猿楽)を集大成させた観阿弥と世阿弥は時宗系の法名を持っており、時宗の踊り念仏の持つ鎮魂儀礼としての側面や、時宗が深く関わっていた連歌(特に花の下連歌と呼ばれる鎮魂儀礼としての連歌)が、後述する夢幻能の成立に強く影響したとの指摘がある[16]。また中世の勧進聖が上演した唱導劇(仏教の教理を説く劇)も夢幻能の形式に強い影響を与えたと考えられている。時宗の踊り念仏は民衆の極楽往生願望が根底にあったが、同時に死者の追善供養の場でもあった。すなわち生前の行いによって地獄に墜ちている死者を、踊り念仏への供養によって救うという考え方である。こうした発想が12世紀から14世紀にかけて、寺社の造営資金を集めるための勧進興行へと発展し、田楽や猿楽もその興行の中に組み込まれていった。民衆を対象として仏教の教義を見せる勧進興行において、それまで「翁申楽」のような呪術的性格を持っていた(超自然の存在を主な観客と想定していた)例式に対し、いわば余興芸として演じられた「申楽能」は生身の人々を主な観客と想定する芸能へと進化していった[17]。
    また、世阿弥は幼少時は藤若と呼ばれた稚児で、東大寺の尊勝院に所属していたと考えられている。当時の仏教寺院の稚児は女装に近い服装や化粧をしている中性的な存在であり、また仏教僧の男色行為の対象でもあった。立花 [要曖昧さ回避]や蹴鞠、連歌といった芸能も仏教寺院の稚児が必ず習得したものであった。こうした稚児独特の性的な位置づけや芸能が、世阿弥の能に強く影響を与えたとも考えられている[18]。
    現在能と夢幻能
    観阿弥は田楽のもつ面白さに曲舞の旋律を取り入れ、大和申楽(猿楽)を総合的ドラマとして創り出した。そして、世阿弥は「夢幻能」の完成を成し遂げ、現在までに伝えられる高度な芸術に飛躍させた。
    現在能とは、現在進行しているように演じられるドラマのような能(劇能)である。例えば「安宅」は、歌舞伎の勧進帳の元になった曲であるが、シテ弁慶を中心に義経主従が奥州へ落ち延びようとしているところに、ワキ富樫(関守)がそれを疑い、弁慶の機転によって難関を脱出する様子を、時間の経過とともにストーリーが展開されていく。
    これに対して夢幻能は「死者」が中心となった能である。八世観世銕之丞は夢幻能の大きな特徴として「死者の世界からものを見る」という根本的な構造を指摘している。すなわち、多くの場合、亡霊や神仙、鬼といった超自然的な存在が主役(シテ)であり、常に生身の人間である脇役(ワキ)が彼らの話を聞き出すという構造を持っているのである。これについて銕之丞は、観阿弥・世阿弥・金春禅竹らによって申楽が集大成された室町時代は政情不安の時代であり、死が人々にとって極めて身近なものであったことを、こうした構造の理由に挙げている[19]。
    梅若猶彦もこのような死者による語りの構造を重視し、能はこのような構造を持つことで、能独自の美の世界の構築を可能としていると指摘している。梅若はその例として、「実盛」のシテである斎藤実盛の亡霊がワキの夢の中に登場し、己の死に様を語りながら、己の生首を洗うという場面を挙げている。この場面ではシテ演じる実盛の亡霊には首が付いているのであるが、同時に実盛の亡霊は切り落とされた自分の生首を手に持っているのである。このような不条理な演出が可能となっている理由として梅若は、能が一般に「ワキの夢の中でシテが夢を見ている」という難解な構造を持っていることを指摘し、「死者による語り」という夢幻能の基本構造が、こうした他に例を見ない物語世界の構築を実現していると論じている[20]。

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    @user-zf1bn1ub5c ปีที่แล้ว

    歴史が長ければ長いほど文化的蓄積が自ずと生じるものである。ゲルマン人やローマ人の音楽や譜面が残っていない理由である。古代の音楽が長く残るというのは、音楽の効能、効用、あるいは衝動、情動、民族感情を保存することである。日本語の情緒語の語彙は約8000。他言語をベースとする国家では比較にならない。もっとも、国民が8000の情緒を網羅体感修得しているかはまた別の話だから、文明によって文化的な貧困を生じた現在ということになる。主は文化であって文明ではないことは明らかだが、コスパだのスペックだのと功利的な生き方をしていれば、雅楽を紹介した出演者の意図や、指向性はあまり伝わってないように見受けられる。ギリシャ人はホメロスを持ち、ローマ人はヴェルギリウスを持ち、悲喜劇を持ったが、ゲルマン人はワーグナーしか持てなかった。アメリカ人はジャズを持ったが、オーストラリア人は特に覚えもなく、アボリジニーはディジリドゥならある。
    補記ー水琴窟
    江戸時代の風流な水琴窟
    江戸時代に生まれた水琴窟は、手を洗う手水鉢(ちょうずばち)近くの地中に埋めた甕(かめ)に、水滴の音を共鳴させてその音を楽しみました。
    手水鉢とは、手を洗ったり、口をゆすいだりする今の洗面所のようなところです。その下に溜まった水の排水装置として、水琴窟は生まれました。汚水を流すところにも、涼や風情を求める昔の日本の人はとても粋だったのですね。水琴窟の中に、ピチャン、ポチャンと落ちる水滴の音はとても心地よいものです。
    なぜなら、水琴窟の水滴の音には『波動の高い音』が含まれているからです。『波動の高い音』には、サラサラと流れる川のせせらぎや、寄せては返す海の波の音、チチチ…と鳴く鳥の声など、繊細で豊かな自然の音に多く含まれます。そのような自然の波動の高い音は、私たちの脳に作用して、心と体を活性化する効果があることが分かっています。
    人工の音にさらされる毎日
    産業革命によって飛躍的な発展を遂げてきた人類ですが、それと引き換えに、生まれた瞬間から私たちは、エアコン、自動車、冷蔵庫など、今まで自然界にはなかった機械の人工的な波動の低い音にさらされることになりました。繊細で豊かな自然の音に対して、人工的な音はとても単調で、大雑把な音です。このような低い波動の音にさらされていることが、現代人の心身の不調の原因のひとつでもあるのです。
    水琴の音の効果
    聞こえていてもいなくても、意識していてもしていなくても、私たちは人工的な音の洪水の中にいます。そのため、私たちの脳は気づかないうちに過剰に緊張していたり、必要以上に疲れていたりします。身体の老化や酸化を予防するためにいろいろな健康法があったり、健康食品があったりしますし、そのためのケアは老若男女問わず、みんなが気をつけていたり、新しい知識を求めています。同じように、脳にも人工的な音から解放したり、意識的に休ませたりする時間が必要です。水琴の音は、脳にとっては『音のサプリメント』のようなものですし、水琴の音を聴くことは脳のアンチエイジングにもつながります。そして、水琴の音のように波動の高い自然の音は、脳波をα波にしてくれます。水琴の音に深いリラックス効果があることは、科学的にも証明されているのです。
    イライラを改善する
    また、水琴の音には『イライラを改善する』効果もあります。イライラするのは、元は心にゆとりがないことが原因であることがほとんどです。たとえ5分や10分の短い時間でも、ゆったりとリラックスする時間があれば、自然と心にゆとりも生まれてきます。集中して聞ける時間がない場合は、仕事や家事などしながらでも大丈夫です。水琴の音を聴いているだけ、少しずつ、脳がリラックスして、イライラすることが減っていくことでしょう。
    不眠解消
    寝つきが悪かったり、深く熟睡できないのは、脳がリラックスできていないことが要因です。そのため、お風呂からあがって寝るまでの間や、眠りにつくときなどに、水琴の音を聴いて脳をリラックスさせると、眠りにつきやすくなり、深く良く熟睡できるようになります。ただ、よく眠れない人の中には、ベッドルームは本来寝る場所であるのに、そうではないと脳が認識してしまっている人もいます。ベッドでいつまでもスマホをいじっていたり、本など仕事や勉強のものを置いていると、無意識ではリラックスできず、いつまでも副交感神経が優位になりません。よく眠れないな、眠りが浅いなと感じる方は、水琴の音で積極的に脳をリラックスさせながら、リラックスして眠るための適切な環境を整えることも大切です。
    不定愁訴(ふていしゅうそ)の解消
    体がだるかったり、頭痛や腹痛といった症状があるのに、その原因が良くわからない不定愁訴(ふていしゅうそ)を抱えている人が増えています。これは、脳がリラックスできないことにより、活動的な交感神経とリラックス状態の副交感神経がうまく交代できないことが原因です。昔は、昼の明るい時に交感神経が優位になり、精力的に活動し、夜になって暗くなってくると、家でリラックスして、副交感神経が優位になってくるということが、自然と行えていました。しかし、現代では夜でも煌々と明かりがついていて、いつまでも作業ができますし、耳には聞こえないような低周波の機械音に囲まれていて、脳がリラックスできにくい生活習慣になっています。そのため、不定愁訴を抱える人は、特に意識的に脳をリラックスさせることを心掛ける必要があります。水琴の音は、きっとその手助けをしてくれるでしょう。

  • @saltysugar4259
    @saltysugar4259 ปีที่แล้ว +4

    歴史がながければ良いものではない。雅楽は音楽性貧弱。西欧オーケストラを比べるのは無茶。なんでもかんでも日本がいちばんとするのは贔屓の引き倒しになってしまいます。

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c ปีที่แล้ว

    日本人はなぜうまくいくかー文芸社ー七沢賢治著ー2
    会話ができない親子たち
    話は戻って、他者とのコミュニケーションの話です。先ほど、物事を表現する時にその物事にぴったりの言葉を使いこなすと、他者とのコミュニケーションもうまくいくというお話を書きました。実際、他者とのコミュニケーションがうまくいかないと実生活に支障をきたします。たとえば、あっちに行ってほしいのに、こっちに来られるとか。売ってほしいのに売ってもらえないとか。
    伝えたいことが伝わらないと実生活が成り立たないわけです。
    他者とのコミュニケーションがうまくいかなくなって、コミュニティーが崩壊したというお話が、聖書に登場するバベルの塔として描かれていることからも分るように、他者とのコミュニケーションが崩壊するというのは、社会的な大打撃になりうるわけです。にも拘わらず、このコミュニケーションのずれは今もいたるところで見受けられます。違う言語をはなす話す人同士はもちろん、同じ言語を話している人の中でされ、まったく意味が通じない。
    たとえば女子高生とビジネスマンでは会話の中で使う語彙がそもそも違います。
    主婦とキャリアウーマンの会話も同じです。そして、話が通じない相手との間には対立関係が起こりがちになる。これは思春期の子供たちとその両親との間によく見受けられる出来事を考えていただければ分かりやすいとおもいます思います。
    コミュニケーションのギャップを取り除く
    では、コミュニケーションのずれがなくなるとどうなるのか。先ほどかいた書いた自分とのコミュニケーションの場合とお暗示ように、やはり物事がすいすいと進み始めるわけです。相手の言っていることが分かって、こちらが言いたいことが伝われば、しかも先ほど書いたようにその時にぴったりの言葉を使えば、情動がクリアになる。
    これは私たちのこれまでの研究からも実証されています。先にもかきましたが書きましたが、この分野で私たちが最初に手を付けたのはビジネスシステムの開発でした。なぜなら、当時のびじねすビジネスの現場では企業間はもちろんのこと、同じ社内の部署間でも言葉が通じないというコミュニケーションギャップが見えていたからです。
    たとえばこれが友人や知人という関係なら、コミュニケーションがとりにくい相手とは付き合わないということもできるかもしれません。
    しかしビジネスの現場では、しかも同じ社内の人間とのコミュニケーションをとらずに済ますわけにはいかないわけです。
    しかも、会社という共同体の一員として利益という共通目標に進まなければならないという命題もある。ですので、当時、国からの委託を受けてナレッジマネジメントに関するソフトウェアの開発をしていた私たちは、このコミュニケーションギャップの解消は良いビジネステーマになると考えたわけです。
    こうしてソフトウェア開発に踏み込んでいったわけっですが、その時の状況は先に書いた通りでした。まず、ビジネス的には同じ意味を持つはずの内容が業種や業態によってまったく違う呼び名でよばれている。
    また、学問的に同じ意味を持つはずのないようについても、学問によってまったく違う呼び方がされている。かと思えば、社内の各部署の間でぽっかりと穴がいあているような部分があると言った具合でした。何らかの用語を使って定義しなければならない内容に対して対応する用語がないために、ビジネス上ぽっかり穴があいていて、そこに問題が頻発していたりする。そんな中で工業的な方法で短期間に大量にソフトウェアをつくるために考え出した方法が、ひとつの言葉に対してひとつの意味だけが対応しているビジネス用語の辞書を作り、その辞書を基にシステムを組み上げることでした。
    これは先にも書いた通りです。その結果、「もれなく、重複なく、かつビジネス上のすべての活動が網羅されている」ビジネス用語辞典ができあがり出来上がり、その時点をもとにシステムを組んでいったわけです。いったんシステムが組み上がった後は、システムの中に格納されているデータのラベルを各企業の現状、つまり、そのクライアント企業さんの社内で実際に使わている呼称に差し替えていきました。
    たとえば、サービスの提供前におきゃくさんからあらかじめお金をもらう行為について、基本となるシステムでは「前受金」と呼んでいるとします。
    それをクライアントさんの現状に合わせて呼称を変えていく。たとえば、ある企業では「前受金」というらべるラベルを「着手金」というラベルに貼り替える。また別の企業では「前受金」というラベルを「着手金」というラベルに貼り替える。また別の企業では「前受金」というラベルを「工事預かり金」というラベルに貼り替える。また別の企業では「前受金」というラベルを「仮受金」というラベルに貼り替えるという具合でした。
    また、動揺の作業をお暗示ひとつの企業の中の複数の部署に対いても行っていきました。
    というのは、経理部で使っている言葉と、営業部で使っている言葉とは、たとえ同じ内容を指していたとしても、呼び方が違う場合があったからです。
    具体的な例を挙げると、ホテル業でいえば、営業部では「ラックレート」という言葉を使い、経理部は「室料」という言葉を使っているようなケースがありました。これらの呼び名をひとつひとつ、貼り替えていったわけです。
    これはある意味、他者とのコミュニケーションを円滑にするための取り組みだったとも言えます。
    使っている言葉が違うがゆえに、コミュニケーションに不具合をきたしている部署Aと部署Bの間にこのシステムを置くおとによって、一回このシステムの知識データーベースという共通語にアクセスしてからお互いがコミュニケーションをとれるようになるからです。
    この取り組みを経て、私はそれぞれにとってぴったりの言葉を使うことで、他者とのコミュニケーションがスムーズになることに確証を得たのでした。
    ビジネス曼荼羅とメンタルプロセッサー
    ところで、このシステムについて少々補足をしておくと、このシステムのアイデア自体は曼荼羅と呼ばれる密教の絵図体系からヒントを得たものです。曼荼羅は教義には密教の絶対的真理の本質を絵図の上に表現したものと言われています。が、一方で広義では全体性を持った宇宙観・世界観の象徴を表すものとされています。
    私たちはこの多重多層の宇宙観・世界観を表す曼荼羅を通してビジネスの役割を定義していきました。具体的に言うと、その役割を5つの階層に分けていったわけですが、この階層の数がちょうど知識ん階層数と同じことにも、私が氣がついていない「なんらかのいみ意味」があったのかもしれません。
    具艇的に言うと、その役割を5つの階層に分けていたわけですが、この階層の数がちょうど知識の階層数と同じことにも、私が氣が付いていない「なんらかの意味」があったのかもしれません。このシステムは下位者の全社的な動きを統合するためのシステムとして、今もご提供を続けていますが、今ご提供を開始しているもうひとつの新しい取り組みは、主に顧客の購買心理に関するものです。
    本書でご紹介したシステムが企業の活動を漏れなく、重複なく、かつすべて網羅するように整理していくのに対して、このもうひとつのシステムは、顧客の購買心理を漏れなく、重複なく、かつすべて網羅するように整理したものです。メンタルプロセッサーという名前で稼働を始めているこの内容は、きぎょうが営業などの場面で顧客の購買心理に応じた対応をするのに役に立つのではないかと想定しています。
    いずれにしても、ある特定の活動や情報に対して漏れなく、重複なく、かつすべて網羅するように整理していくナレッジモデリングの手法自体に変わりはないわけで、この手法を活用する場面はまだまだ広いと感じています。

  • @user-zf1bn1ub5c
    @user-zf1bn1ub5c ปีที่แล้ว

    歌舞伎ー5
    第二次大戦後
    太平洋戦争(大東亜戦争)の激化にともない、劇場の閉鎖や上演演目の制限など規制が行われ、歌舞伎の興行も困難になり、戦災による物的・人的な被害も多かった。
    終戦後、GHQは日本の民主化と軍国主義化の払拭との理由から「仇討ち物」や「身分社会を肯定する」の演目の上演を禁止した。1945年11月15日、GHQは東京劇場上演中の「菅原伝授手習鑑」寺子屋の段を反民主主義的として中止命令、11月20日、上演中止[47]となった。松竹本社ではGHQの指導方針に即して自主的に脚本の再検討を行った結果、『忠臣蔵』『千代萩』『寺子屋』『水戸黄門記』『番町皿屋敷』などの演目を締め出すこととした[48]。しかし、マッカーサーの副官バワーズの進言で、古典的な演目の制限が解除され、昭和22年(1947年)11月、東京劇場で東西役者総出演による『仮名手本忠臣蔵』の通し興行が行われた。
    1950年代、人々の生活に余裕が生まれ、娯楽も多様化し始めた。1953年(昭和28年)2月1日、NHKテレビジョンの放送開始により日本のテレビ放送が開始された。同日同局が日本のテレビ史初の番組として放映したのが歌舞伎番組であったが、プロ野球やレジャー産業の人気上昇、映画や放送の発達が見られるようになり、歌舞伎が従来のように娯楽の中心ではなくなってきた。そして歌舞伎役者の映画界入り、関西歌舞伎の不振、小芝居が姿を消すなど歌舞伎の社会にも変動の時代が始まった。
    そのような社会の変動の中、昭和37年(1962年)の十一代目市川團十郎襲名から、歌舞伎は人気を回復する。役者も團十郎のほか、六代目中村歌右衛門、二代目尾上松緑、二代目中村鴈治郎、十七代目中村勘三郎、七代目尾上梅幸、八代目松本幸四郎、十三代目片岡仁左衛門、十七代目市村羽左衛門などの人材が活躍。国内の興行も盛んとなり、欧米諸国での海外公演も行われた。
    戦後の全盛期を迎えた1960年代から1970年代には次々と新しい動きが起こる。特に明治以降、軽視されがちだった歌舞伎本来の様式が重要だという認識が広がった。昭和40年(1965年)に芸能としての歌舞伎が重要無形文化財に指定され(保持者として伝統歌舞伎保存会の構成員を総合認定)、国立劇場が開場し、復活狂言の通し上演などの興行が成功する。国立劇場はさかんに高校生のための歌舞伎教室を開催して、数十年後の歌舞伎ファンの創出につとめた。その後、大阪には映画館を改装した大阪松竹座、福岡には博多座が開場し、歌舞伎の興行はさらに充実さを増す。さらに、三代目市川猿之助は復活狂言を精力的に上演し、その中では一時は蔑まれたケレンの要素が復活された。猿之助はさらに演劇形式としての歌舞伎を模索し、スーパー歌舞伎というより大胆な演出を強調した歌舞伎を創り出した。また2000年代では、十八代目中村勘三郎によるコクーン歌舞伎、平成中村座の公演、四代目坂田藤十郎などによる関西歌舞伎の復興[注 7]などが目を引くようになった。また歌舞伎の演出にも蜷川幸雄や野田秀樹といった現代劇の演出家が迎えられるなど、新しいかたちの歌舞伎を模索する動きが盛んになっている現代の歌舞伎公演は、劇場設備などをとっても、江戸時代のそれとまったく同じではない。その中で長い伝統を持つ歌舞伎の演劇様式を核に据えながら、現代的な演劇として上演する試みが続いている。このような公演活動を通じて、歌舞伎は現代に生きる伝統芸能としての評価を得るに至っている。
    歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は、ユネスコ無形文化遺産保護条約の発効以前[注 8]の2005年(平成17年)に「傑作の宣言」がなされ、「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に掲載され、無形文化遺産に登録されることが事実上確定していたが、2009年(平成21年)9月の第1回登録で正式に登録された。

  • @user-ee9mp8iq7m
    @user-ee9mp8iq7m ปีที่แล้ว

    雅正の楽と書いて、がしょうのがくと読みませんか😱

  • @user-qc8cw3yw6w
    @user-qc8cw3yw6w ปีที่แล้ว

    もうすこし全体をみたら。

  • @YANAGITAtokinori
    @YANAGITAtokinori ปีที่แล้ว +1

    古譜より4~12倍遅く演奏されてる件言わないね。戦国時代の朝廷の雅楽が断絶した件も。