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西御所町にかつてお住まいだった服部さん夫婦のことが思い起こされます。
映画「東京物語」のラストシーンには、国鉄山陽本線のカーブを東京方面へ汽車が走って行く様子を長江一丁目の福善寺から撮影した場面があります。そのロケ地は、現在の「茶房こもん」がある長江口交差点の辺りです。その場面で、走り去る汽車の奥に映り込むのが「浄土寺山」です。尾美としのりさんが演じた斉藤一夫が映画「転校生」のラストシーンで尾道から発つ場面にも「浄土寺山」がそれと同様に映り込みます。大林監督の「東京物語」に対する愛情の念が「おのみち映画資料館」を訪問した人々に対してうまく伝わらないことが、私はとてもとてももどかしいのです。小林聡美さんが演じた斉藤一美の背後に映り込む「仁井時計店の看板」は、当然、小津安二郎監督が撮影した「栗吉材木店の看板」のオマージュです。
本日は2024年8月12日です。小津安二郎監督による「東京物語」の尾道ロケは1953年8月12日から始まりました。それは71年も前のことですが、浄土寺の境内へ行く度に今でも原節子さんと笠智衆さんの会話が聞こえてきます。「あぁ、綺麗な夜明けだった、あぁ、今日も暑うなるぞ。」の場面が収録されたのは、1953年8月16日(日曜日)の早朝でした。笠智衆さんが演じた平山周吉は、とみの葬儀を長江一丁目の「福善寺」で執り行い、久保三丁目の「竹村家本館」において食事をします。映画「時をかける少女」に出てくる「タイル小路」のロケ地を訪問した際、平山敬三と紀子が焼香直前に語り合った「福善寺」の縁側は「タイル小路」から直線でわずか10メートルの位置に存在していることを知り、私はたいへん驚きました。尾美としのりさんが演じた堀川悟朗は、劇中、3度も「俺、ションペンに行って来る。」と唱えます。これは、食事中に席を外してトイレへ行った平山周吉の場面を思い起こさせるための大林監督流の演出だったのではないでしょうか。
映画「東京物語」の尾道ロケが行われたのは1953年8月12日から同月19日まで8日間でした。本日はちょうど70年の記念日です。映画「転校生」で斉藤一美がトラックを追いかけて駆け出した地点が「栗吉材木店」の看板があった辺りですよね。
「時をかける少女」の堀川悟朗は、芳山和子が帰った後、堀川醤油醸造所の裏でハンカチを顔の上に載せました。どんなに上手な監督や俳優であっても、映画で「匂い」を伝えることは物理的に不可能です。しかし、「ラベンダーの香り」や「醤油の匂い」を連想させる上で、これは極めて有効な演出であったと言えるでしょう。ところで、その場面において堀川悟朗のわきに「物干し竿と洗濯物」が現れることにお気づきですか。これは、「東京物語」のオマージュです。大林宣彦監督は、何気ない場面で「東京物語」のワンシーンを何気なく映し込んでいるのです。私がこのことに気づいたのは、尾道市長江一丁目の「タイル小路」での経験があったからです。「タイル小路」に辿り着いた私の目の前わずか10メートルの位置に「福善寺の境内」があるのを目の当たりにした時、私はたいへん驚きました。「時をかける少女」の芳山和子は、1983年4月17日(日曜日)9:87に目覚めた朝、目の前のテーブルに置かれたカップの中がいきなり「紅茶」で満たされた様子を目の当たりにして驚きました。これと同様の体験を私は「タイル小路」でしたのです。大林監督とそのスタッフは、私が芳山和子と同じ体験をすることをどうして知っていたのですか。私だけでなく、多くの映画ファンが同様の体験することが仕組まれていたからです。「匂いを伝えるための仕掛け」、「映画の主人公と同じ体験をさせるための仕掛け」があったことは、本当に大いなる驚きです。
「あぁ、綺麗な夜明けだった。あぁ、今日も暑うなるぞ。」浄土寺の境内へ行く度に、1953年8月16日(日曜日)早朝の笠智衆さんと原節子さんの姿を思い出します。ところで、筒湯小学校の木造校舎を撮影するために小津安二郎監督がカメラをセットしたポジションをご存知でしょうか。なんとそのポジションは、1991年劇場公開の映画「ふたり」のラストシーンで忠実に記録されています。北尾実加を演じた石田ひかりさんは、小津監督がセットしたカメラポジションから現れ、「千津子の事故現場」とされた尾道市東久保町の坂道を登っているのです。浄土寺住職の小林海暢さんが映画「ふたり」のピアノ発表会の場面でチョイ役出演していたのは、小林住職が当時15歳の大林宣彦少年とともに尾道ロケの生き証人だったからなのでしょう。
1991年劇場公開の映画「ふたり」のラストシーンで大林宣彦監督は、千津子を演じた中嶋朋子さんの「顔」でなく、その「お尻」を撮影しています。映画の視聴者は、否応なく尾道市東久保町の坂道を登っていく中嶋朋子さんの「お尻」を見せられるわけですから、その映像に違和感を覚えた人も少なくなかったと思います。でも実は、その場面には深い深い意味が込められていたのです。大林監督は、大勢の人々が「千津子の背後にあるもの」の存在に気づいてほしいと考えていたはずです。それは「尾道市立筒湯小学校」です。同校は、香川京子さんが演じた平山京子先生の勤務先とされた学校です。スクリーンの中には映っていませんが、「筒湯小学校」というのは大林監督にとってかけがえのない思い出が込められていたものでした。大林監督の背後にあったものは、「尾道という故郷」と「小津安二郎監督の存在」だったのです。
1983年劇場公開の映画「時をかける少女」で入江若葉さんが演じた芳山和子の母が「寝てた方がいいんじゃないの?」と言う場面で「物干し竿」と「洗濯物」がチラッと映り込むのはなぜでしょうか。世間の人々によって語られることはほぼ皆無ですが、これは「東京物語」のオマージュだったのです。私は、初めて「時をかける少女」見た時以来ずっとその映像が謎でした。でも、尾道市長江一丁目の「タイル小路」を訪問した時に気づきました。「1983年4月に芳山和子が元気に学校へ通ったタイル小路」と「1953年7月に平山とみの葬儀が執り行われた福善寺」とが隣り合う敷地だったのですから。
今日大切な友人が突然亡くなりました。音楽が色々な思い出を思い起こさせてくれました。ありがとうございます。
千津子「寒くなってきたね」、実加「へぇー、オバケさんでも感じるの。」おもしろおかしく描かれていますが、これらのセリフは、笠智衆さんが映画「東京物語」で演じた平山周吉の「あぁ、今日も暑うなるぞ」のセリフと深い関係があるはずです。当時15歳の大林宣彦少年が浄土寺のロケ現場で耳にした「あぁ、今日も暑うなるぞ」というセリフは1953年8月16日に収録されたものでした。映画「東京物語」が劇場で公開された11月3日当日、大林少年は「寒くなってきたね」と心の中で答えていたのかもしれません。
Beautiful!
映画「時をかける少女」で尾美としのりさんが演じた堀川悟朗は、劇中、不自然に「俺、ションベンに行って来る」と3回も告げます。これは、実は、小津安二郎監督の映画「東京物語」のパロディーなんですよ。笠智衆さんが演じた平山周吉は、妻とみの葬儀後、用を足すために家族との食事の席を一時的に外すのです。ただ、平山周吉が席を外した時は無言でしたし、しかもそれは1回だけです。どうして「3回」なのか気づいた人はいますか。その答えは、香川京子さんが演じた平山京子のセリフにあるのです。「(勤務先である筒湯小学校へ)行って参ります。」と3回告げたのは平山京子先生でした。
私は、当時16歳の小林聡美さんが映画「転校生」で演じた斉藤一美の15歳の誕生日がずっとずっと気がかりでした。どうして「1981年7月12日(日曜日)」が一美の15歳の誕生日だったのか、映画公開から40年以上、私はその理由をまったく理解できませんでした。昨年2023年11月3日で映画「東京物語」が劇場公開から70年を迎えたので改めて見ていたところ、私は、筒湯小学校の教室の窓から汽車を見送る平山京子先生の背後にカレンダーがあることに気づきました。「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、これがその理由だったのか!!」と声をあげてしまいました。「1953年7月の暦」と「1981年7月の暦」が同一の曜日配列だったなんて、思いもしませんでした。小津監督の尾道ロケがあった際、大林宣彦少年は15歳でした。信じられないことですが、なんと1982年公開の映画「転校生」のラストシーンは、1953年公開の映画「東京物語」のオープニングシーンに繋がっていたのです。一美は、1953年8月当時「栗吉材木店」の看板があった場所からトラックを追い駆けて海岸通りを走っていたのです。一美がトラックを追って走って行く先には、つい先ほど出発したばかりの「斉藤一夫の家」があり、一夫の背後に「浄土寺山」が映り込んでいたのはそのためです。時間と空間の無限ループだったのですね、大林監督が描きたかったのは。
映画「時をかける少女」で原田知世さんが演じた芳山和子は、1983年4月17日(日曜日)9:87に目覚めた後、母から「寝てた方がいいんじゃないの?」と告げられたにもかかわらず、前日に借りたハンカチを返すため堀川悟朗に会いに行きます。その場面は、尾道市西久保町の「旧K濱邸」の庭で撮影されました。その際、スクリーンの片隅に「物干し竿」と「洗濯物」がチラッと映り込みます。変だと思いませんでしたか。そして、和子は、堀川醤油醸造所へ向かう途中の「石の階段」で「二人の男の子」と出会います。なぜでしょうか。実は、前者は、「1953東京物語」のワンシーンのオマージュであり、後者は、「1960裸の島」に登場した太郎・次郎のオマージュなんです。大林宣彦監督が尾道市長江二丁目のK林邸前に実在する階段に振り子時計を置き、その様子をコマ撮りした理由はそのためです。「石の階段」は、天秤棒を担いで乙羽信子さんと殿山泰司さんが登った宿禰島の険しい険しい階段を想起させるための演出だったのです。
1982年4月17日劇場公開の映画「転校生」で、小林聡美さんが演じた斉藤一美の15歳の誕生日は「1981年7月12日(日曜日)」とされています。どうしてでしょうか。私は、40年以上、その理由がまったくわかりませんでした。ところが、先日、映画「東京物語」のラストシーンを見ていてたいへん驚きました。なんと、香川京子さんが演じた平山京子先生の背後に掲げられていたカレンダーと関係があったのです。紀子が東京へ帰るために乗車した汽車を筒湯小学校の教室から見送った京子、その背後にあるカレンダー「1953年7月の暦」を注意深く観察してみてください。なんと、「1953年7月の暦」と「1981年7月の暦」は曜日配列が同一だったのです。
映画「転校生」で小林聡美さんが演じた斉藤一美は、ラストシーンで斉藤一夫が乗ったトラックを追って駆け出すのですが、実は、そのロケ地は、1953年8月当時、「栗吉材木店の倉庫と看板」があった場所です。それは、現在の「おのみち映画資料館」の東隣にある市の公用車専用駐車場辺りです。そのロケ現場を実際に歩いてみると、訪問者はすぐに地理的違和感に気づくはずです。というのは、一美は、尾道市久保一丁目の海岸通りを走っているのですが、その先は、つい先ほど出発したばかりの「斉藤一夫の家」の方向なのです。私は、初めてロケ地を訪問した時は理解できませんでした。ところが、たびたび訪問しているうちに大林監督とそのスタッフの意図がわかりました。信じ難いことですが、「1982転校生のラストシーン」は、なんと「1953東京物語のオープニングシーン」へと繋がっていたのです。「時間と空間の無限ループ」、小津監督が「東京物語」のモチーフにした親子の関係を大林監督は見事に具現化していたのです。小林聡美さんの背後に「仁井時計店の看板」が、尾美としのりさんの背後に「浄土寺山」が映し込まれていたのは決して偶然などではなかったのです。
1953年8月16日(日曜日)早朝、浄土寺の境内に2000人を超えるギャラリーを集めて笠智衆さんと原節子さん出演の名場面は撮影されました。その時の小津監督の様子とたくさんのギャラリーを記録した写真が残されています。笠智衆さんが演じた平山周吉、原節子さんが演じた平山紀子の「平山」という名は、1740年当時の広島藩尾道町奉行であった「平山角左衛門」がその由来です。世間の人々によって語られることがほとんどないのでとても残念なのですが、2000人のギャラリーの後ろ、つまり多宝塔の北側に「平山角左衛門の墓」はあるのです。小津安二郎監督は、町奉行だった平山角左衛門さんにもロケの様子を見守ってもらっていたのです。
広島県立尾道商業高等学校そばに据え置かれている蒸気機関車を「旧筒湯小学校」の敷地内へ移転させる計画はないのでしょうか。蒸気機関車の先頭を糸崎駅方面に向けたのはなぜですか、福山駅方面でなければダメだと思います。
尾美としのりさんが映画「時をかける少女」で演じた堀川悟朗は、どうして3度も「俺、ションベンに行ってくる」と述べるのでしょうか。尾美さんが「転校生」で演じた斉藤一夫が御袖天満宮の階段下で小便を垂れたからですか。でも、その回数は1回だけでしたね。堀川悟朗は、どうして3度も語るのでしょうか。世間の人々によって語られることが皆無ですが、実は、これは「東京物語」のパロディーなんです。笠智衆さんが演じた平山周吉は、妻とみの葬儀後に家族とともに竹村家で食事をします。その際、周吉は用を足すため無言で席を外しますが、これも1回だけです。では、「3度の異なる場面」で同一のセリフを複数回語ったのは誰でしょうか。それは、香川京子さんが演じた平山京子です。京子は、勤務先である「尾道市立筒湯小学校」へ出勤するたびに家族に向かって「行って参ります」とその都度告げています。3度のうち最初の場面はオープニングシーンの直後にあり、京子は、「行って参ります」を連続3回告げています。どうぞ確認してみてください。
尾道市の名誉市民第1号となった人の名をご存知でしょうか。小津安二郎監督は、どうして「住吉神社の石灯籠」の映像をオープニングシーンに用いたのでしょうか。その理由がわかりますか。大林宣彦監督は、どうして原田知世さんのことを「尾道ロイヤルホテル」に宿泊させたのでしょうか。その理由がわかりますか。その人の名は「平山角左衛門」といいます。なんと、その人は1741年当時の尾道町奉行だった人です。信じられないと思いますが、映画「時をかける少女」のストーリーはまだ終わっていません。
オリンピックの閉会式、国旗入場の場面で流れて来た時、我が耳を疑いました。素晴らしい演出でした。世界の一流の映画作家が観ていたら、感激して涙を流したと思います。世界に誇る日本の宝です。それにしても一言もふれないNHKの教養の無さには呆れました。
斎藤高順の曲(スコア)を希望したい。どこから購入できるのでしょうか?
私は一演奏家として、この曲は演奏しません。この曲は至宝であり、それゆえに自分ごときが触れてはならないと思うからです。それは曲を汚してしまうことだ。その意味では、オリンピックごときに使われたのは本当に残念でした。
小池百合子が積極関与していたからですよね。
オリンピックの閉会式で「東京物語」が流れてきて、私も嫌でした。こんなことに利用されるとは。小池都知事はこの映画を知らないのでは。だれかの入知恵ではないか。日本が誇る映画をこういう場面で使われたくないと思う。
西御所町にかつてお住まいだった服部さん夫婦のことが思い起こされます。
映画「東京物語」のラストシーンには、国鉄山陽本線のカーブを東京方面へ汽車が走って行く様子を長江一丁目の福善寺から撮影した場面があります。
そのロケ地は、現在の「茶房こもん」がある長江口交差点の辺りです。
その場面で、走り去る汽車の奥に映り込むのが「浄土寺山」です。
尾美としのりさんが演じた斉藤一夫が映画「転校生」のラストシーンで尾道から発つ場面にも「浄土寺山」がそれと同様に映り込みます。
大林監督の「東京物語」に対する愛情の念が「おのみち映画資料館」を訪問した人々に対してうまく伝わらないことが、私はとてもとてももどかしいのです。
小林聡美さんが演じた斉藤一美の背後に映り込む「仁井時計店の看板」は、当然、小津安二郎監督が撮影した「栗吉材木店の看板」のオマージュです。
本日は2024年8月12日です。
小津安二郎監督による「東京物語」の尾道ロケは1953年8月12日から始まりました。
それは71年も前のことですが、浄土寺の境内へ行く度に今でも原節子さんと笠智衆さんの会話が聞こえてきます。
「あぁ、綺麗な夜明けだった、あぁ、今日も暑うなるぞ。」の場面が収録されたのは、1953年8月16日(日曜日)の早朝でした。
笠智衆さんが演じた平山周吉は、とみの葬儀を長江一丁目の「福善寺」で執り行い、久保三丁目の「竹村家本館」において食事をします。
映画「時をかける少女」に出てくる「タイル小路」のロケ地を訪問した際、平山敬三と紀子が焼香直前に語り合った「福善寺」の縁側は「タイル小路」から直線でわずか10メートルの位置に存在していることを知り、私はたいへん驚きました。
尾美としのりさんが演じた堀川悟朗は、劇中、3度も「俺、ションペンに行って来る。」と唱えます。
これは、食事中に席を外してトイレへ行った平山周吉の場面を思い起こさせるための大林監督流の演出だったのではないでしょうか。
映画「東京物語」の尾道ロケが行われたのは1953年8月12日から同月19日まで8日間でした。
本日はちょうど70年の記念日です。
映画「転校生」で斉藤一美がトラックを追いかけて駆け出した地点が「栗吉材木店」の看板があった辺りですよね。
「時をかける少女」の堀川悟朗は、芳山和子が帰った後、堀川醤油醸造所の裏でハンカチを顔の上に載せました。
どんなに上手な監督や俳優であっても、映画で「匂い」を伝えることは物理的に不可能です。
しかし、「ラベンダーの香り」や「醤油の匂い」を連想させる上で、これは極めて有効な演出であったと言えるでしょう。
ところで、その場面において堀川悟朗のわきに「物干し竿と洗濯物」が現れることにお気づきですか。
これは、「東京物語」のオマージュです。
大林宣彦監督は、何気ない場面で「東京物語」のワンシーンを何気なく映し込んでいるのです。
私がこのことに気づいたのは、尾道市長江一丁目の「タイル小路」での経験があったからです。
「タイル小路」に辿り着いた私の目の前わずか10メートルの位置に「福善寺の境内」があるのを目の当たりにした時、私はたいへん驚きました。
「時をかける少女」の芳山和子は、1983年4月17日(日曜日)9:87に目覚めた朝、目の前のテーブルに置かれたカップの中がいきなり「紅茶」で満たされた様子を目の当たりにして驚きました。
これと同様の体験を私は「タイル小路」でしたのです。
大林監督とそのスタッフは、私が芳山和子と同じ体験をすることをどうして知っていたのですか。
私だけでなく、多くの映画ファンが同様の体験することが仕組まれていたからです。
「匂いを伝えるための仕掛け」、「映画の主人公と同じ体験をさせるための仕掛け」があったことは、本当に大いなる驚きです。
「あぁ、綺麗な夜明けだった。あぁ、今日も暑うなるぞ。」
浄土寺の境内へ行く度に、1953年8月16日(日曜日)早朝の笠智衆さんと原節子さんの姿を思い出します。
ところで、筒湯小学校の木造校舎を撮影するために小津安二郎監督がカメラをセットしたポジションをご存知でしょうか。
なんとそのポジションは、1991年劇場公開の映画「ふたり」のラストシーンで忠実に記録されています。
北尾実加を演じた石田ひかりさんは、小津監督がセットしたカメラポジションから現れ、「千津子の事故現場」とされた尾道市東久保町の坂道を登っているのです。
浄土寺住職の小林海暢さんが映画「ふたり」のピアノ発表会の場面でチョイ役出演していたのは、小林住職が当時15歳の大林宣彦少年とともに尾道ロケの生き証人だったからなのでしょう。
1991年劇場公開の映画「ふたり」のラストシーンで大林宣彦監督は、千津子を演じた中嶋朋子さんの「顔」でなく、その「お尻」を撮影しています。
映画の視聴者は、否応なく尾道市東久保町の坂道を登っていく中嶋朋子さんの「お尻」を見せられるわけですから、その映像に違和感を覚えた人も少なくなかったと思います。
でも実は、その場面には深い深い意味が込められていたのです。
大林監督は、大勢の人々が「千津子の背後にあるもの」の存在に気づいてほしいと考えていたはずです。
それは「尾道市立筒湯小学校」です。
同校は、香川京子さんが演じた平山京子先生の勤務先とされた学校です。
スクリーンの中には映っていませんが、「筒湯小学校」というのは大林監督にとってかけがえのない思い出が込められていたものでした。
大林監督の背後にあったものは、「尾道という故郷」と「小津安二郎監督の存在」だったのです。
1983年劇場公開の映画「時をかける少女」で入江若葉さんが演じた芳山和子の母が「寝てた方がいいんじゃないの?」と言う場面で「物干し竿」と「洗濯物」がチラッと映り込むのはなぜでしょうか。
世間の人々によって語られることはほぼ皆無ですが、これは「東京物語」のオマージュだったのです。
私は、初めて「時をかける少女」見た時以来ずっとその映像が謎でした。
でも、尾道市長江一丁目の「タイル小路」を訪問した時に気づきました。
「1983年4月に芳山和子が元気に学校へ通ったタイル小路」と「1953年7月に平山とみの葬儀が執り行われた福善寺」とが隣り合う敷地だったのですから。
今日大切な友人が突然亡くなりました。音楽が色々な思い出を思い起こさせてくれました。ありがとうございます。
千津子「寒くなってきたね」、
実加「へぇー、オバケさんでも感じるの。」
おもしろおかしく描かれていますが、これらのセリフは、笠智衆さんが映画「東京物語」で演じた平山周吉の「あぁ、今日も暑うなるぞ」のセリフと深い関係があるはずです。
当時15歳の大林宣彦少年が浄土寺のロケ現場で耳にした「あぁ、今日も暑うなるぞ」というセリフは1953年8月16日に収録されたものでした。
映画「東京物語」が劇場で公開された11月3日当日、大林少年は「寒くなってきたね」と心の中で答えていたのかもしれません。
Beautiful!
映画「時をかける少女」で尾美としのりさんが演じた堀川悟朗は、劇中、不自然に「俺、ションベンに行って来る」と3回も告げます。
これは、実は、小津安二郎監督の映画「東京物語」のパロディーなんですよ。
笠智衆さんが演じた平山周吉は、妻とみの葬儀後、用を足すために家族との食事の席を一時的に外すのです。
ただ、平山周吉が席を外した時は無言でしたし、しかもそれは1回だけです。
どうして「3回」なのか気づいた人はいますか。
その答えは、香川京子さんが演じた平山京子のセリフにあるのです。
「(勤務先である筒湯小学校へ)行って参ります。」と3回告げたのは平山京子先生でした。
私は、当時16歳の小林聡美さんが映画「転校生」で演じた斉藤一美の15歳の誕生日がずっとずっと気がかりでした。
どうして「1981年7月12日(日曜日)」が一美の15歳の誕生日だったのか、映画公開から40年以上、私はその理由をまったく理解できませんでした。
昨年2023年11月3日で映画「東京物語」が劇場公開から70年を迎えたので改めて見ていたところ、私は、筒湯小学校の教室の窓から汽車を見送る平山京子先生の背後にカレンダーがあることに気づきました。
「うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ、これがその理由だったのか!!」と声をあげてしまいました。
「1953年7月の暦」と「1981年7月の暦」が同一の曜日配列だったなんて、思いもしませんでした。
小津監督の尾道ロケがあった際、大林宣彦少年は15歳でした。
信じられないことですが、なんと1982年公開の映画「転校生」のラストシーンは、1953年公開の映画「東京物語」のオープニングシーンに繋がっていたのです。
一美は、1953年8月当時「栗吉材木店」の看板があった場所からトラックを追い駆けて海岸通りを走っていたのです。
一美がトラックを追って走って行く先には、つい先ほど出発したばかりの「斉藤一夫の家」があり、一夫の背後に「浄土寺山」が映り込んでいたのはそのためです。
時間と空間の無限ループだったのですね、大林監督が描きたかったのは。
映画「時をかける少女」で原田知世さんが演じた芳山和子は、1983年4月17日(日曜日)9:87に目覚めた後、母から「寝てた方がいいんじゃないの?」と告げられたにもかかわらず、前日に借りたハンカチを返すため堀川悟朗に会いに行きます。
その場面は、尾道市西久保町の「旧K濱邸」の庭で撮影されました。
その際、スクリーンの片隅に「物干し竿」と「洗濯物」がチラッと映り込みます。
変だと思いませんでしたか。
そして、和子は、堀川醤油醸造所へ向かう途中の「石の階段」で「二人の男の子」と出会います。
なぜでしょうか。
実は、前者は、「1953東京物語」のワンシーンのオマージュであり、後者は、「1960裸の島」に登場した太郎・次郎のオマージュなんです。
大林宣彦監督が尾道市長江二丁目のK林邸前に実在する階段に振り子時計を置き、その様子をコマ撮りした理由はそのためです。
「石の階段」は、天秤棒を担いで乙羽信子さんと殿山泰司さんが登った宿禰島の険しい険しい階段を想起させるための演出だったのです。
1982年4月17日劇場公開の映画「転校生」で、小林聡美さんが演じた斉藤一美の15歳の誕生日は「1981年7月12日(日曜日)」とされています。
どうしてでしょうか。
私は、40年以上、その理由がまったくわかりませんでした。
ところが、先日、映画「東京物語」のラストシーンを見ていてたいへん驚きました。
なんと、香川京子さんが演じた平山京子先生の背後に掲げられていたカレンダーと関係があったのです。
紀子が東京へ帰るために乗車した汽車を筒湯小学校の教室から見送った京子、その背後にあるカレンダー「1953年7月の暦」を注意深く観察してみてください。
なんと、「1953年7月の暦」と「1981年7月の暦」は曜日配列が同一だったのです。
映画「転校生」で小林聡美さんが演じた斉藤一美は、ラストシーンで斉藤一夫が乗ったトラックを追って駆け出すのですが、実は、そのロケ地は、1953年8月当時、「栗吉材木店の倉庫と看板」があった場所です。
それは、現在の「おのみち映画資料館」の東隣にある市の公用車専用駐車場辺りです。
そのロケ現場を実際に歩いてみると、訪問者はすぐに地理的違和感に気づくはずです。
というのは、一美は、尾道市久保一丁目の海岸通りを走っているのですが、その先は、つい先ほど出発したばかりの「斉藤一夫の家」の方向なのです。
私は、初めてロケ地を訪問した時は理解できませんでした。
ところが、たびたび訪問しているうちに大林監督とそのスタッフの意図がわかりました。
信じ難いことですが、「1982転校生のラストシーン」は、なんと「1953東京物語のオープニングシーン」へと繋がっていたのです。
「時間と空間の無限ループ」、小津監督が「東京物語」のモチーフにした親子の関係を大林監督は見事に具現化していたのです。
小林聡美さんの背後に「仁井時計店の看板」が、尾美としのりさんの背後に「浄土寺山」が映し込まれていたのは決して偶然などではなかったのです。
1953年8月16日(日曜日)早朝、浄土寺の境内に2000人を超えるギャラリーを集めて笠智衆さんと原節子さん出演の名場面は撮影されました。
その時の小津監督の様子とたくさんのギャラリーを記録した写真が残されています。
笠智衆さんが演じた平山周吉、原節子さんが演じた平山紀子の「平山」という名は、1740年当時の広島藩尾道町奉行であった「平山角左衛門」がその由来です。
世間の人々によって語られることがほとんどないのでとても残念なのですが、2000人のギャラリーの後ろ、つまり多宝塔の北側に「平山角左衛門の墓」はあるのです。
小津安二郎監督は、町奉行だった平山角左衛門さんにもロケの様子を見守ってもらっていたのです。
広島県立尾道商業高等学校そばに据え置かれている蒸気機関車を「旧筒湯小学校」の敷地内へ移転させる計画はないのでしょうか。
蒸気機関車の先頭を糸崎駅方面に向けたのはなぜですか、福山駅方面でなければダメだと思います。
尾美としのりさんが映画「時をかける少女」で演じた堀川悟朗は、どうして3度も「俺、ションベンに行ってくる」と述べるのでしょうか。
尾美さんが「転校生」で演じた斉藤一夫が御袖天満宮の階段下で小便を垂れたからですか。
でも、その回数は1回だけでしたね。
堀川悟朗は、どうして3度も語るのでしょうか。
世間の人々によって語られることが皆無ですが、実は、これは「東京物語」のパロディーなんです。
笠智衆さんが演じた平山周吉は、妻とみの葬儀後に家族とともに竹村家で食事をします。
その際、周吉は用を足すため無言で席を外しますが、これも1回だけです。
では、「3度の異なる場面」で同一のセリフを複数回語ったのは誰でしょうか。
それは、香川京子さんが演じた平山京子です。
京子は、勤務先である「尾道市立筒湯小学校」へ出勤するたびに家族に向かって「行って参ります」とその都度告げています。
3度のうち最初の場面はオープニングシーンの直後にあり、京子は、「行って参ります」を連続3回告げています。
どうぞ確認してみてください。
尾道市の名誉市民第1号となった人の名をご存知でしょうか。
小津安二郎監督は、どうして「住吉神社の石灯籠」の映像をオープニングシーンに用いたのでしょうか。
その理由がわかりますか。
大林宣彦監督は、どうして原田知世さんのことを「尾道ロイヤルホテル」に宿泊させたのでしょうか。
その理由がわかりますか。
その人の名は「平山角左衛門」といいます。
なんと、その人は1741年当時の尾道町奉行だった人です。
信じられないと思いますが、映画「時をかける少女」のストーリーはまだ終わっていません。
オリンピックの閉会式、国旗入場の場面で流れて来た時、我が耳を疑いました。素晴らしい演出でした。
世界の一流の映画作家が観ていたら、感激して涙を流したと思います。
世界に誇る日本の宝です。
それにしても一言もふれないNHKの教養の無さには呆れました。
斎藤高順の曲(スコア)を希望したい。どこから購入できるのでしょうか?
私は一演奏家として、この曲は演奏しません。この曲は至宝であり、それゆえに自分ごときが触れてはならないと思うからです。それは曲を汚してしまうことだ。その意味では、オリンピックごときに使われたのは本当に残念でした。
小池百合子が積極関与していたからですよね。
オリンピックの閉会式で「東京物語」が流れてきて、私も嫌でした。こんなことに利用されるとは。
小池都知事はこの映画を知らないのでは。だれかの入知恵ではないか。日本が誇る映画を
こういう場面で使われたくないと思う。