死ぬまでに○○をしないと絶対に後悔する【仏教の教え】
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- เผยแพร่เมื่อ 12 ก.ย. 2024
- 話題の漫画「100日後に死ぬワニ」を、遅ればせながら読みましたが、胸に迫る内容でした。
ワニくんの日常が4コママンガで淡々と綴られるだけなのに、「ワニくんの死があと○日」と一言書かれるだけで、こんなにも切ないものになるのか、と。
まるで在りし日のワニくんとの記憶を友人が泣きながら綴って、追悼しているような感覚さえするマンガでした。
誠実に生きている姿に「このワニくんがもうすぐ死ぬのか」と、両思いとなり、将来を語って笑ったりしている表情に「ここで死んでいくのか」と、何気ない日常が、何気ないだけによけい胸にこたえました。
「死に方が強引」「最後がつまらない」という否定的な意見もありました。
どんな死に方なのか、エンディングはさぞ盛り上げるのだろう、クライマックスはどう感動的に持っていくのだろうか、と期待していた人からすると、そんな意見が出るのはわかりますが、私個人としてはあの終わり方が良かったと思います。
ここはドラマと現実の違いです。
ドラマなら紆余曲折あるものの、最後は落ち着いた形になり、めでたしめでたし、死にゆく人の最後のメッセージやら、最後の本音の語り合いなど、大々的に盛り上がって終わるのですが、現実の死にはそんなクライマックスはなく、あまりにあっけないもので、死に様にさえ会えない、ただ死んだと聞かされただけ、とても死んだとは思えず、死に顔を見て初めて「死んだのだ」と改めてショックを受け、最期の可能性の芽も潰され、泣く。
そういうものだからです。
現実の死を現実的に描いていたマンガだったのに、最後になっていきなりグッズや歌やら露骨な商業展開に、読者は裏切られたような気持ちになって炎上したのもよくわかります。
一人一人が「儲けなきゃ」「認められなきゃ」と躍起になっている自分の心に、何か忘れているものを思い出させてくれる内容だっただけに、最後「儲けなきゃ」の意図がドバッと出てきたのに辟易した、ということでしょう。
私も20代のときロサンゼルスで車にひかれ、救急車で病院に運び込まれ、九死に一生を得た経験があるのですが、ひかれる直前、何を思っていたかと言いますと、一時間後に行われるスピーチの内容をアレコレ考えていたのです。
それが突然、ブレーキ音と共に「ドン」です。
下手したらワニくん同様、即死だったかもしれない、そんな瞬間は突然何の前触れもなくやってくることを否応にも自覚させられました。
ちょうどたとえるならば、没頭して観ていた映画が、突然の停電で終わってしまうように、あるいはテレビで観ていたドラマが、突然誰かにコンセントを抜かれて終わってしまうように、「今からいいとこだったのに」といった、こちらの都合は、全くお構いなしに、人生は終わるのです。
「何だ、今までのことは全部絵空事か」と我に返る瞬間。
その突然の瞬間はいつやってくるか、誰も予測が立ちません。
臨終に「安らかに死にたい」「いい人生だったと言いたい」と語る人がありますが、「死」とは、そんな感慨に浸る間もなく、身構える猶予もなく、突如、そしてあまりにもあっけなくやってきます。
「あれどうしよう」「これどうなった」と目の前のことに追われている平凡な一コマに、突然ドンと割り込んでくる傍若無人の無法者が「死」です。
お釈迦さまはその現実を『出息入息 不待命終』(しゅっそくにゅうそく ふたいみょうじゅう)「出る息は入る息を待たず、命終わる」と説かれています。
吸った息が吐き出せなければ死ぬとき、吐いた息が吸えなければ、その時が死ぬときだ、と説かれています。
あまりにも身近なところに触れ合っているのが「死」なのだよ、とブッダは言われているのです。
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(自己紹介)
1988年早稲田大学を中退し、仏教講師の道を目指す。
浄土真宗親鸞会で仏教講師の資格を取得、全国各地で公開講座を始める。
2010年からメールマガジンをはじめ、読者12000人の仏教最大級のメルマガ執筆
2014年からは全国をつなぐオンライン講座の動画レクチャーでも活動中。
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ありがとうございます
仕事も同じ考えと思いました。
どうでもいいことに、忙しいと追われてはいけない。限られた時間の中でどう効果的に成果を出すか考えるきっかけになりました。
今日も、とても大変、学び勉強になりました。ありがとうございました。
南无阿弥陀佛🙏🙏🙏
2024年4月10日(水曜日☀17時22分)大きな石と小さな石と砂で人生を例えるのは理解しやすかったでした。武蔵は剣の達人でも有るが頭の良さも優れた人物だとさっしました。確かに死が人生の中で1番の強敵ですね。焦点に成るのが生死の一大事ですね。菊谷先生、本日も大切なお話をありがとう御座いました🙇♂🙏
人間のおかしな所はいつか必ずくる「死」を考えないで生きてることと聴いたことあります。菊谷さんいつも大事なお話をありがとうございます。
南無阿弥陀仏🙏
死ぬ事は恐れていない。
むしろ今の日本人は安楽死を望んでいる。
チャンネル登録したけど、全部見ようと思ったら大変だ。
死は私の未来だと捉えるとワクワクします❤
動画をありがとうございます❤
菊谷先生いつも本当にありがとうございます。「人生の大切な忘れ物」それこそが人生の究極の目的である「後生(生死)の一大事の解決」であり、何度も何度も繰り返す聞くべき尊い説法です。仏法が倫理や道徳と一線を画する所以でもあります。〜大命将心に終わらんとして悔懼交至る〜ただ仏法は聴聞に極まることなり。改めて心より深く感謝申し上げます。今後ともどうぞよろしくお願い申し上げます。釈尊出世の本懐の中の本懐〜大無量寿経〜阿弥陀仏の御本願〜一向専念無量寿仏〜信心正因称名報恩〜南無阿弥陀仏〜三戸拝🙏🙏🙏
自分の頭、魂で考えながら生きていないから、他人の言うことに影響されるんだよ。甘えるな
かげろうは明日を知らず、セミは春秋を知らない。過去世も未来も知らず、生々世々、六道を水車のように流転しながら、それすら知りえない我々は、大馬鹿者だ。〜南無阿弥陀仏〜三戸拝🙏🙏🙏
お話、よく分かりました。有難うございます。
今回もありがとうございます🙇
無碍の一道
そう簡単に辿り着けるものではないと思いますが、そこに向けて進んでいきたいと思いました。
「死」という人間にとっての最大の敵をやっつけるために今日も仏縁に感謝しております。
ありがとうございました。
砂利や砂ばかりの人が多いですね。… 。😢
いつも有難うございます
一月は往ぬ(いぬ)、二月は逃げる、三月は去る、
ですね。
仏教を聞いていなかったら、最期に生死の一大事が待ってるとは全く分かりませんでした。臨終に後悔と恐れが来るのは嫌なので、解決するべく、これからも聞法させて頂きます。ご説法ありがとうございました。
菊谷隆太先生、こんばんは。🤱🧑🍼👨🍼👩🍼今日も、ありがとうございます。🤱🧑🍼👨🍼👩🍼
人生のあらゆる諸問題はあとからやってくる大親玉「死」の子分に過ぎない。考えてみればそうですよね。最後に生死の一大事を解決することが一番大事なこと。では「死」という最後の敵を前にしてどうしたらいいのだろうか。それが無碍の一道に到達することなんですね。先生、今日も貴重な教えをありがとうございました。
ありがとうございます。
生にとって恐ろしいのは死とするなら死にとって恐ろしいのは生かもしれません 生が昼間の機能する時間であるなら死は夜の休養や準備に該当します 生とは悩み多き時ですので幸福とは言えませんが 死は休養や準備に該当するなら不幸とも言い切れません 見える時間は暗いから目に見えることが幸福です 死という生前に結論づけ獲得した光があの世です 明るすぎて見えないので不幸なあの世ではありません ありがとうございました
😊
ありがとうございました。
生死の一大事って何ですか?
仏教は紀元前500年頃から教えられていますが、未だ200年以上生きたという話は聞いたことがありません。
生死の一大事を解決するとはどういうことなのでしょうか?
「次にどこへ行くのかを考えてこなかったこと」を後悔する?
考えるとどうなるのでしょうか? 考えた場合と考えなかった場合で何が変わるのでしょうか?
浄土に向かう大船に乗り換えるとどこに向かうというのでしょうか?
輪廻を生きるとは苦です。
「生きているといろいろ苦労することもある」とか、そんな話ではありません。 「生きる = 苦」です。
苦は認識そのものであり、認識する主体は心であり、心は体を変えながら(輪廻転生)、認識するという機能を継続する。
そんな延々と続く苦の連続から逃れたいと思いませんか?
輪廻から脱出する方法ならありますよ。 輪廻から脱出すれば苦も無くなりますよ。
苦から完全に離れるための方法を教えますので、挑戦してみてはどうですか?
それが仏教からの提案だと理解しています。
では何故それが「生死の一大事」なのか?
それは、人間界で輪廻からの脱出方法が説かれたから。
他の欲界六道(色界、無色界もですが)では脱出は難しく、次にいつ人間界に生まれられるかなんて分からないから。
人間界に生まれるのは、(命の数を考えれば明らかなように)確率的に非常に稀なことだから。
だからこそ、今生で輪廻からの脱出を実現できないのは非常にもったいない。
脱出できなければ「苦を感じ続けること」が非常に長い間継続することを意味するのだから、このチャンスを無駄にするのはもったいない。
私の理解では上記のようなことが仏教では語られていると認識しています。
「浄土に向かう」というのも、同じような考え方なのでしょうか?
はい、よく学んでおられますね。輪廻から出離して仏界に到ることが、浄土へ向かうということです。
@@byBuddhism
ご回答ありがとうございます。
目的について認識に相違がないことが理解できました。
あとは手段の問題ということですね。
達磨大師のように「ただ黙って座っていればよい」的な発想(※)もあり、それはそれで(可能か不可能かで言えば)間違いではないと思えますので、手段は複数あるということかと。
浄土真宗だと「仏法は聴聞に極まる」って感じなのだと思いますが、それが何を意味しているのかは私にはまだ理解できていません。
※) 達磨大師は無言で壁面座禅し続けて悟りをひらいたと言われています。
まぁ、あり得ないとは言いませんが、ほぼ不可能と言えるくらい難易度が高すぎるような気が、、、
南無阿弥陀仏m(__)m
私にとって死は苦労した人生の終焉であり、死後の生活は苦労の報酬である!天に徳を積んできたからである!子育てはイエスのように、霊界でするつもりです!
蓮如聖人の一代記に「仏法は、忙しい世間の仕事をさしおいて聞かねばならぬ。それなのに、あなたは、ひまが出来たら聞こうと思ってはいないか。それは浅はかなことである。仏法のうえから言えば、老少不定の身であるから、明日があると思ってはならない。」でも…、多くの人は「死ぬ間際」まで、この後生の一大事を「先延ばし」にして、またもとのごとく、迷いの世界に生まれ変わり、輪廻を繰り返す。その様を阿弥陀様は、胸を痛め、涙を流しておられるのではないでしょうか。
人生と言うのは限りられている、有限の時間
人生に於いて極めて大事
な事、生死の一大事を
解決する事が仏教では
説かれているのですね
人生後悔しないためにも
決して忘れてはいけないと言う事ですね!😊
さぁ今夜菊谷ルーティン
私は死んだら新しい✨🆕✨エルサレムに行くと確信しています。信心決定しているのでしょうか?上品上生はその様な行いをする人又は。上品上生に生まれた人と書いてありました!私は弥勒菩薩です😆🎵🎵兜卒国に行くのですか?兜卒浄土とお聞きしましたが?私は信楽と思います。菊谷先生!教えてください。
こんばんは!
今日もありがとうございました!
(菊谷隆太先生動画視聴メモ)
★人生を後悔しないために忘れてはならないこと
1.人生で最も大切なこと(大きな石・小さな石・砂)
2.武蔵の剣法(一番強い者から)
3.生死の一大事の解決(無碍の一道)
むげのいちどう
説明できるものではないと思う
もしくは私には理解できないものだと
思う。何度聞いても説明になっていない。そもそも説明できないものではないかと思う。
必ず平等に死がやってきます。もし人間に死がなかったらどうなるんだろう。人類の種の存続とは?
「輪廻転生」の世界観を持つと死の持つ意味が変わってきます。死んでも必ず生まれ変わるという理の中で死ぬことは無ではないという事です。漫画の「異世界転生」の様な輝かしい物語が遅れればいいのですが保証されてはいません、これが「生死の一大事」という事です。生きとし生きるもの必ず死にます、同時に生まれ変わるのです。生まれ変わる時に「因果応報」によって地獄行き、人間界などの振り分けが行われる、この振り分けが「生死の一大事」と気が付かないと後悔しますよと説いているのが仏教ですね。生きてきた人生の善し悪しが明らかにされ評価されて次の世界が決まると言われていました。煩悩に振り回されることなく徳を積めていれば最上位に転生できるが、徳が足らないと判断されれば地獄行き、人間が判断や評価をする訳でないので人々を不安に落とします。お釈迦様は煩悩に振り回されて行動しては救われないと説きました。人生の「幸不幸」「善悪」「成否」は人知では判断できない、「自戒」を忘れずに徳を積むことが大切であると教えて、「阿弥陀如来の誓願」も在家の信者「仏道を歩む人」の為にあるそうです。
🎉🎉🎉🎉😢😢き
成る程😊
菊谷先生 こんばんは😊
本日もありがとうございます。
本日は『人生を後悔しないために忘れてはならないこと』と言うことをテーマにお話しされました。
死ぬまでに『生死の一大事の解決』をしないと後悔すると言うことでした。
人生と言うのは限られている。 なので、人生で最も大切なこと『死んだらどうなるか』と言う死の問題を解決しておかないと後悔する。
念仏者は無碍の一道なり
『大命、将に
終わらんとして
悔懼交至る』
↑
臨終の心相、心の姿としてお釈迦様が教えられている。
生死の一大事を解決する為に小さな小舟から大船に乗り換える。このことを親鸞聖人は『大悲の願船』と言われている。
浄土行きの大船、仏が創られた大慈悲の願の船に乗り換えることが一番優先してやらなければならないことである。
死に向かう小舟から浄土に向かう大船に乗り換えることこれを『生死の一大事の解決』と言う。
本日も貴重なお話しをありがとうございました。