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思わず、膝を叩いてしまいました。ありがとうございました。
誠一郎 冨田様ご視聴、コメントありがとうございます。膝を叩いて頂けましたか!ありがとうございます。叩いた以上……どうぞ、『こだわらない真宗の生活』を邁進して頂きたく、切に願っております。共に真宗の生活を精進して行きましょう。南無阿弥陀仏合掌高科修
高科様いつもありがとうございます。北陸の皆様が1日も早く平穏な生活に戻られますことを心よりお祈り申し上げます。「違いを認める」→私が正だけども、仕方ないから他も認めようという上から目線。「違いにうなづく」→皆が違うのが当たり前だからバラバラでいいでしょう。金子みすゞさんの詩に「みんなちがって、みんないい」があります。嬉しい言葉です。「まるさんかくしかく」のブレスレットを見つめながら、改めて考えさせられました。ありがとうございました。南無阿弥陀仏合掌
しろくま様ご視聴、コメントありがとうございます。しろくま様のコメントを拝読して、私も「まるさんかくしかく」のブレスレットを見つめながら、改めて考えさせて頂きました。改めて、考える機会を頂きまして、ありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
難しい話、ありがとうございます。違うという事が当たり前に思えるようになれば、こだわる必要も無いので「はい」と頷くだけですね(*'▽')
A・シキミ様ご視聴、コメントありがとうございます。A・シキミ様のコメントの中に、A・シキミ様の深い深い『頷き』を感じさせて頂きまし。A・シキミ様のコメント…『違うという事が当たり前に思えるようになれば、こだわる必要も無いので「はい」と頷くだけですね』は、正にその通りであります。ただただ、A・シキミ様に合掌を致すしか御座いませ。ありがとうございます。南無阿弥陀仏合掌高科修
こだわらない、其れに拘っている人多いです、何か答えが視えた想いです。合掌
白河夜舩様ご視聴、コメントありがとうございます。違うという事が当たり前に思えるようになれば、こだわる必要も無いので「はい」と頷くだけなのです。『違うという事が当たり前に思えるようになる』と言うことは、例えば、人…例えば、その人の行為・言動・素行…例えば、社会の習慣・風習・慣習…等々それらを好きになれ!認めろ!嫌いになるな!と、言っているのではありません。好きになれないものは好きになれません。認めれないものは認めれません。嫌いなモノは嫌いです。その事と『頷く』事とは違います。好きになれないもの。認めれないもの。嫌いなモノ。それらは、私が、好きになれなくても、認められなくても、嫌いでも、そこに『ある』のです。そこに『ある』ことに『はい』と頷くということです。頷いた…その後は………そこからあとは…白河夜舩様ご自身の、したいことできることしなければならないことしたくないことできないことしてはいけないことの3×3の無数の組み合わせに、七転八倒すれば良いだけです。この七転八倒の生活を、真宗の生活と呼びます。『こだわらない』とは、厳しく苦しく悩ましいモノなのです。ただ、この『こだわらない』に含まれる『そこに有るモノを有るモノとして、はい!と頷く』生き方は、それこそ『精神の自由』を生みます。その精神の自由は、何事が起こっても、何事と出会おうが、自分自身がブレることのない自分自身に成って行けるのです。南無阿弥陀仏合掌高科修
こだわらない…。簡単に気楽に考えていました。今日のお話を聞いて「難しい」とか「わかっちゃいるけどなかなかできない」とか逃げの言葉が出てきました。「うん」と言ったとしても、心の奥底でどこかで引っかかってしまいます。「うん!でもやっぱり…」言い続けていると、そのうち変わってくるものでしょうか。自分の規範に合わないものを、心の底で認めないのは、やっぱりこだわりなんでしょうか。それとも、それも自分のそういうところも含めて認めることが「こだわらない」につながるものなのでしょうか。どこまでも自分の良いように解釈している、と先日返信コメントをいただきました。どこかで逃げているのでしょうか。よくわからなくなりました。
あきら様ご視聴、コメントありがとうございます。違うという事が当たり前に思えるようになれば、こだわる必要も無いので「はい」と頷くだけなのです。『違うという事が当たり前に思えるようになる』と言うことは、例えば、人…例えば、その人の行為・言動・素行…例えば、社会の習慣・風習・慣習…等々それらを好きになれ!認めろ!嫌いになるな!と、言っているのではありません。好きになれないものは好きになれません。認めれないものは認めれません。嫌いなモノは嫌いです。その事と『頷く』事とは違います。好きになれないもの。認めれないもの。嫌いなモノ。それらは、私が、好きになれなくても、認められなくても、嫌いでも、そこに『ある』のです。そこに『ある』ことに『はい』と頷くということです。太陽は東から登り西に沈みます。私が認めたくなくても、嫌いでも、太陽は東から登り西に沈みます。西向きに窓を作り、西日が暑いと文句を言ったり怒ったり、嘆いたりしても、それは自分勝手であり、どうにもならないことです。太陽が東から登り西に沈むという自然現象を知らなかったということが無知です。無知が、自分勝手な思いを自分勝手に、自分の中に作るのです。そして…太陽が東から登り西に沈むという自然現象を、『太陽は東から登り西に沈むということに、はい!そうなのですねと言うことが『頷く』ということです。『知って頷く』……そこからあとは…あきら様ご自身の、したいことできることしなければならないことしたくないことできないことしてはいけないことの3×3の無数の組み合わせに、七転八倒すれば良いだけです。この七転八倒の生活を、真宗の生活と呼びます。『こだわらない』とは、厳しく苦しく悩ましいモノなのです。ただ、この『こだわらない』に含まれる『無知の解消…知ろうとする姿勢』と『そこに有るモノを有るモノとして、はい!と頷く』生き方は、それこそ『精神の自由』を生みます。その精神の自由は、何事が起こっても、何事と出会おうが、自分自身がブレることのない自分自身に成って行けるのです。あきら様。「よくわからなくなりました」とコメントの最後にありますが、「よくわからなくなりました」でよろしいのです。「よくわからなくなりました」が先ずなければ、「よくわかるようになろう」とは決して成らないからです。浄土真宗は、「よくわからなくなりました」を、大歓迎であります。南無阿弥陀仏合掌高科修
@@buddhism_japan 大納得です!私が嫌いだろうが受け入れなかろうが、そこにはもともとそれが存在してたんですね!だから「認めて受け入れて」なんておこがましいですね。これからも小話を聞いた時、簡単に「わかったつもり」にならないように、いちいち引っかかって、立ち止って、考えてみるようにしようと思います。
あきら様簡単に、大納得してはいけません。疑って疑って、穿って穿って…それでも納得するしかない私がいる。それを行って、はじめて大納得なのです。あきら様…子供のころ見たり読んだりした映画や小説を、大人になってあらためて見たり読んだりすると、まったく違った感じ方をすることが、しばしばあります。それは…経験をつんで物事を深く見たり感じたり出来るようになっいるから…また逆に子供の頃の純真さを失っていたりするからと…その理由は様々です。この『小話』の動画も…くわえて、あきら様へのご返信の文章も、繰り返しご視聴、通読してください。自分が健康なとき、病気のとき、恋をしているとき、失恋したとき、楽しいとき、怒っているとき、身近な人の死を経験したとき…さまざまなときにご視聴ください。そのたびに、感じ方・捉え方はきっと違ったものになるはずです。そのたびの感じ方・捉え方の違ったものの中に、必ず統一された変わらない『私(あきら様自身)』がいるはずです。その『私』に出会うことが、真宗であります。南無阿弥陀仏合掌高科修
思わず、膝を叩いてしまいました。
ありがとうございました。
誠一郎 冨田様
ご視聴、コメントありがとうございます。
膝を叩いて頂けましたか!
ありがとうございます。
叩いた以上……
どうぞ、『こだわらない真宗の生活』を邁進して頂きたく、切に願っております。
共に真宗の生活を精進して行きましょう。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
高科様
いつもありがとうございます。
北陸の皆様が1日も早く平穏な生活に戻られますことを心よりお祈り申し上げます。
「違いを認める」→私が正だけども、仕方ないから他も認めようという上から目線。
「違いにうなづく」→皆が違うのが当たり前だからバラバラでいいでしょう。
金子みすゞさんの詩に「みんなちがって、みんないい」があります。
嬉しい言葉です。
「まるさんかくしかく」のブレスレットを見つめながら、改めて考えさせられました。
ありがとうございました。
南無阿弥陀仏
合掌
しろくま様
ご視聴、コメントありがとうございます。
しろくま様のコメントを拝読して、私も「まるさんかくしかく」のブレスレットを見つめながら、改めて考えさせて頂きました。
改めて、考える機会を頂きまして、ありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
難しい話、ありがとうございます。違うという事が当たり前に思えるようになれば、こだわる必要も無いので「はい」と頷くだけですね(*'▽')
A・シキミ様
ご視聴、コメントありがとうございます。
A・シキミ様のコメントの中に、A・シキミ様の深い深い『頷き』を感じさせて頂きまし。
A・シキミ様のコメント…
『違うという事が当たり前に思えるようになれば、こだわる必要も無いので「はい」と頷くだけですね』は、正にその通りであります。
ただただ、A・シキミ様に合掌を致すしか御座いませ。
ありがとうございます。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
こだわらない、其れに拘っている人多いです、何か答えが視えた想いです。合掌
白河夜舩様
ご視聴、コメントありがとうございます。
違うという事が当たり前に思えるようになれば、こだわる必要も無いので「はい」と頷くだけなのです。
『違うという事が当たり前に思えるようになる』
と言うことは、
例えば、人…
例えば、その人の行為・言動・素行…
例えば、社会の習慣・風習・慣習…等々それらを
好きになれ!
認めろ!
嫌いになるな!
と、言っているのではありません。
好きになれないものは好きになれません。
認めれないものは認めれません。
嫌いなモノは嫌いです。
その事と『頷く』事とは違います。
好きになれないもの。
認めれないもの。
嫌いなモノ。
それらは、
私が、好きになれなくても、認められなくても、嫌いでも、そこに『ある』のです。
そこに『ある』ことに『はい』と頷くということです。
頷いた…その後は…
……そこからあとは…
白河夜舩様ご自身の、
したいこと
できること
しなければならないこと
したくないこと
できないこと
してはいけないこと
の3×3の無数の組み合わせに、七転八倒すれば良いだけです。
この七転八倒の生活を、真宗の生活と呼びます。
『こだわらない』とは、厳しく苦しく悩ましいモノなのです。
ただ、この『こだわらない』に含まれる『そこに有るモノを有るモノとして、はい!と頷く』生き方は、それこそ『精神の自由』を生みます。
その精神の自由は、何事が起こっても、何事と出会おうが、自分自身がブレることのない自分自身に成って行けるのです。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
こだわらない…。
簡単に気楽に考えていました。
今日のお話を聞いて
「難しい」とか
「わかっちゃいるけどなかなかできない」とか
逃げの言葉が出てきました。
「うん」と言ったとしても、心の奥底でどこかで引っかかってしまいます。
「うん!でもやっぱり…」
言い続けていると、そのうち変わってくるものでしょうか。
自分の規範に合わないものを、心の底で認めないのは、やっぱりこだわりなんでしょうか。
それとも、それも自分のそういうところも含めて認めることが「こだわらない」につながるものなのでしょうか。
どこまでも自分の良いように解釈している、と
先日返信コメントをいただきました。
どこかで逃げているのでしょうか。
よくわからなくなりました。
あきら様
ご視聴、コメントありがとうございます。
違うという事が当たり前に思えるようになれば、こだわる必要も無いので「はい」と頷くだけなのです。
『違うという事が当たり前に思えるようになる』
と言うことは、
例えば、人…
例えば、その人の行為・言動・素行…
例えば、社会の習慣・風習・慣習…等々それらを
好きになれ!
認めろ!
嫌いになるな!
と、言っているのではありません。
好きになれないものは好きになれません。
認めれないものは認めれません。
嫌いなモノは嫌いです。
その事と『頷く』事とは違います。
好きになれないもの。
認めれないもの。
嫌いなモノ。
それらは、
私が、好きになれなくても、認められなくても、嫌いでも、そこに『ある』のです。
そこに『ある』ことに『はい』と頷くということです。
太陽は東から登り西に沈みます。
私が認めたくなくても、嫌いでも、太陽は東から登り西に沈みます。
西向きに窓を作り、西日が暑いと文句を言ったり怒ったり、嘆いたりしても、それは自分勝手であり、どうにもならないことです。
太陽が東から登り西に沈むという自然現象を知らなかったということが無知です。
無知が、自分勝手な思いを自分勝手に、自分の中に作るのです。
そして…
太陽が東から登り西に沈むという自然現象を、『太陽は東から登り西に沈むということに、はい!そうなのですねと言うことが『頷く』ということです。
『知って頷く』
……そこからあとは…
あきら様ご自身の、
したいこと
できること
しなければならないこと
したくないこと
できないこと
してはいけないこと
の3×3の無数の組み合わせに、七転八倒すれば良いだけです。
この七転八倒の生活を、真宗の生活と呼びます。
『こだわらない』とは、厳しく苦しく悩ましいモノなのです。
ただ、この『こだわらない』に含まれる『無知の解消…知ろうとする姿勢』と『そこに有るモノを有るモノとして、はい!と頷く』生き方は、それこそ『精神の自由』を生みます。
その精神の自由は、何事が起こっても、何事と出会おうが、自分自身がブレることのない自分自身に成って行けるのです。
あきら様。
「よくわからなくなりました」とコメントの最後にありますが、
「よくわからなくなりました」でよろしいのです。
「よくわからなくなりました」が先ずなければ、
「よくわかるようになろう」とは決して成らないからです。
浄土真宗は、
「よくわからなくなりました」を、大歓迎であります。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修
@@buddhism_japan
大納得です!
私が嫌いだろうが受け入れなかろうが、そこにはもともとそれが存在してたんですね!
だから「認めて受け入れて」なんておこがましいですね。
これからも小話を聞いた時、簡単に「わかったつもり」にならないように、いちいち引っかかって、立ち止って、考えてみるようにしようと思います。
あきら様
簡単に、大納得してはいけません。
疑って疑って、穿って穿って…それでも納得するしかない私がいる。
それを行って、はじめて大納得なのです。
あきら様…
子供のころ見たり読んだりした映画や小説を、大人になってあらためて見たり読んだりすると、まったく違った感じ方をすることが、しばしばあります。
それは…経験をつんで物事を深く見たり感じたり出来るようになっいるから…また逆に子供の頃の純真さを失っていたりするからと…その理由は様々です。
この『小話』の動画も…くわえて、あきら様へのご返信の文章も、繰り返しご視聴、通読してください。
自分が健康なとき、病気のとき、恋をしているとき、失恋したとき、楽しいとき、怒っているとき、身近な人の死を経験したとき…さまざまなときにご視聴ください。そのたびに、感じ方・捉え方はきっと違ったものになるはずです。
そのたびの感じ方・捉え方の違ったものの中に、必ず統一された変わらない『私(あきら様自身)』がいるはずです。
その『私』に出会うことが、真宗であります。
南無阿弥陀仏
合掌
高科修