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偶然見つけたこの動画。懐かしい気持ちで動画を拝見させていただきました。熊谷生まれの私はこの東武熊谷線(地元では妻沼線)の存在は身近でしたが乗ったことがあるのは廃線になった年の3月に1回だけでした。運転手さんが運転しながら話しかけてきたのはとてもいい思い出です。良い動画をありがとうございます。
廃線直前に乗られたとはうらやましい!乗ってみたかったですが幼い頃でしたので叶いませんでした。
東武としては軍の要請で熊谷から太田まで建設せざるを得なかったが、熊谷ー太田が繋がれば都心へ向かうのに便利な国鉄へ客が流れてしまうので全通させたくなかった。また、東武は妻沼のニュータウン計画に失敗したため利用客が伸びす、熊谷駅南口の自由通路建設の際にホームを秩父鉄道に返還して秩父鉄道との合流地点で秩父鉄道をオーバークロスさせて単独路線で熊谷駅へ入らなければならなかったので廃止を決断したということです。秩父鉄道と上越新幹線の間にあった空き地はその名残りでしょうか。戦時中は人員輸送はしていたようなので軍需路線として使われてはいたようですが、東武日光線を単線化してレールを流用までして建設したのに役割を果たせないまま廃止された東武で一番可愛そうな路線でした。
詳しい解説ありがとうございますm(_ _)mおっしゃる通り国鉄とつなげたらみんなそちらへ流れてしまうというのはあったかもしれないですね( ・ω・)
現実は車やバスで熊谷に行って、そこからJRに乗る人が増えてしまったような。太田から東京浅草への直通列車が、無料の区間急行が廃止されて特急りょうもうだけになってしまいましたし。
熊谷と東松山を繋いで西板線が果たせなかった伊勢崎線と東上線を繋ぐ路線を考えたそうですがまたしても果たせなかったようです。もし果たされていたら高崎線も安泰ではないルートができていたかも?
@@yareyare1968事実そうですよ。伊勢崎線は足利や佐野の方へ遠回りしちゃうし単線だし、東武が明らかに日光鬼怒川への特急以外、事実上館林と南栗橋以北を切り捨ててるのが実情ですから。太田どころか伊勢崎民も、東武や両毛線に乗らないでマイカーで本庄駅周辺のパーキングに停めて高崎線に乗りますから
他の人も書いていましたが東武熊谷線と東武小泉線が繋がってさらに熊谷と東上線の東松山が繋がっていたら東上線経由の特急が館林や太田まで走っていたかも…って妄想してた事もありました
いろいろ考えると結構夢膨らみますよね(^-^)
便利になっただろうね。熊谷から電車で太田行くならかなり時間かかるからね
私は越生線から坂戸川島吉見熊谷はよく妄想してました
FIELD L そしたら伊勢崎線系統と東上線系統の回送受け渡しなんかも楽だったろうに
吉見を鉄道が通るようになっていたら今のようなド田舎にはなっていなかったかも...(町民並感)
30年以上前、熊谷に住んでいた時に祖父が妻沼線を「のろま線」と呼んでいたのを、なつかしく思い出しました。かめ号のくだりにもある通り、本当に遅かったようで。廃線跡、私も歩いてみればよかったな…
整備されていて歩けるところも多いのでぜひ行ってみてください(^-^)/
懐かしい東武熊谷線、私は、妻沼出身ですので、妻沼線と言っていました。早いもので妻沼を出て50年以上経ちました。妻沼線は高校へ通う3年間利用しました。懐かしいです。廃線を聞き残念に思っています。東京、名古屋、神戸、大阪と移転してきました。現在は大阪に住んでいます。生まれ故郷は特別ですね。暑い熊谷ですが皆さんお元気でお過ごしください。
通学で妻沼線を使っていたとはうらやましい限りです。理由がないとなかなか乗れないですからね。
私が小6の時に廃線なった。妻沼高校の生徒が乗ってる電車ってイメージで、この動画観るまでずっと妻沼線っていうもんだと思ってたからビックリした。石原公園では妻沼線見ながらみんなとサッカーしていたなぁ。
石原公園から妻沼線見てみたかったですね( ・ω・)
保存価値のある素晴らしい動画をありがとうございます。by元熊谷市民
不十分な点も多いですが楽しんでもらえたなら幸いですm(_ _)m
撮影お疲れ様です。熊谷駅には2021年始めに行きましたがこんな廃線跡があるなんて知りませんでした。2:47の秩父鉄道7000系は元東急の車両なので懐かしく感じます。今後の動画も楽しみにしています。
なかなか面白い路線だったかと思いますが、やはり採算が取れなかったようです。
東武熊谷線が東武小泉線と繋がって電化されていたら便利だっただろうなぁ…
こういうルートの鉄道も欲しかったですよね( ・ω・)
更に秩父鉄道を介して西武線/東武東上線/東急/東京メトロの車両が直通してきたらJR線とやりあえる路線に化けたかも
@@剛志-l6e 西武線は東武線と敵対してるからねー
撮影ご苦労様です。もろ地元民です。偶然お勧めに出て来て廃線時の記念切符を淋しい思いで買ったあの時を思い出すと共に懐かしい思いで見ました。昔は「妻沼線」とか「のろま線かめ号」なんて呼んでいて郊外で走っていた風景もよみがえってきました。あの頃は保線状況も完璧ではなかったのでしょう走行車両は遠くから見るとユラユラしながら走っていたものです。地元でもあまりここまでは追いかけないので今を知れて良かったです。まだ昔の車両も見られるのですね、最近知った東武熊谷線橋脚(ピアー)跡と共にいづれ見に行きたいと思いました。
妻沼の公民館の展示車や利根川の橋台は見る価値あるかと思います(^^)
動画、懐かしく拝見しました。妻沼線廃止の情報を得て、廃止直前に乗車と撮影に行ったことを思い出しました。当時の車両が残されているんですね。近いうちに車両を見に行ってみたいと思います。今後も動画を楽しみにしております。
駅の跡は残っていませんでしたが、車両がきちんと残っているというのは本当にありがたいですね( ・∀・)
あああ、熊谷駅から続いている「線路をむしった跡」は東武熊谷線の廃線跡だったのですね!てっきり秩父鉄道の需要が減ったので、複線を単線にしたものと思っていました(鉄を売って少しは儲けるため)。勉強になりました、有り難うございます。
まあ秩父鉄道の隣を走っていたようなので、そう思うのも無理はありません(^^;
高崎線の架線柱を新しくしたので熊谷線の線路をむしりました。半年くらい前の話です。
秩父鉄道の複線化予定地(熊谷〜広瀬川原車両基地のうち上熊谷駅先分岐点まで)を軍から東武へ貸すように言われそうしたと記録あります。秩父鉄道としては当時セメント貨物列車を国鉄へ熊谷駅で渡していたので複線化は列車本数確保の上でも課題でした秩父セメントが熊谷工場を設置し籠原へ専用線を敷設し複線化は不要になり上熊谷駅の東武ホームが転落防止のためフェンス設置されました熊谷市民
熊農の農場めちゃくちゃ懐かしいわー学生の頃に亀の道を渡って、学校から農場へと行き来してたのももう20年くらい昔になるのかぁしかし、現スバルの中島まで伸ばす計画だった事を初めて知りました良い動画に感謝です
もっと昔だと線路を渡って農場に行っていたのかもしれませんね(^-^)
@@railway1435 もう卒業して30年近くなるけれど,入学当時の学校案内には敷地のなかに「東武熊谷線跡地」の文字があったし,当時は遊歩道はなくて,砂利敷きの線路敷きとコンクリートの柵が続いていたよ。熊農は,開校100年を超える伝統校だから,線路が廃止されて農場に転用じゃなくて,学校の中を鉄道がつっきていたというのが正解だよ
日の目を見なかった橋脚のうち、敢えてひとつだけ残しているのだと思います。残念に終わってしまった廃線です。利根川を越えて開通していたら廃線されなかったでしょう。
あの橋脚があるだけでイメージがわきやすくなるのでありがたいですよね( ・ω・)
今は熊谷を離れてますが、大幡小、大幡中の卒業なので懐かしいです。中学生の時に廃線になりました。地元では正式名が「東武熊谷線」なのは知ってますが誰も呼んでなく、もっぱら通称名の「妻沼線」って呼んでました。「かめ号」は後付けのような感じです。途中の大幡駅は完全無人駅なのでホームしかなく、切符は駅前(?)にあった駄菓子屋みたいなお店で買うか、直接ホームに行って、列車の乗務員に行き先を言って買ってた記憶があります。廃止された妻沼線の代替えとして、東武バスが熊谷駅~妻沼駅間を「妻沼駅行き急行バス」として国道407号を走行するバス路線を新設しました。が、国道17号との交差点の「熊谷警察署前」という渋滞の名所を通るので「急行」とは名ばかりで、妻沼県道(県道太田熊谷線)を通る「太田駅行き」や「西小泉駅行き」のバスの方がかえって早かったりしてました。また、「妻沼駅」は妻沼線廃線後も急行バスの発着があったので、何年かは駅舎が残ってたと思います。何か思い出したら追記します。
貴重な情報ありがとうございます(^^)やはり当時の状況を聞けるのが一番よくわかりますね!
熊谷線とはまた随分と渋いw久しぶりにキハ2000を見て懐かしい思いがしました。太田まで繋がっていたら廃線になることはなかったでしょうかね。
ちゃんと車両が保存してあるというのは良かったですね(^-^)
東松山、森林公園から熊谷、妻沼、小泉線を通り太田まで結ばれて、複線電化して、熊谷線が東上線と直結していれば、太田から池袋まで直通運転していたかもね⁉️そうしてれば、廃線は免れたけどね⁉️
@@RainbowBridge1969 それは無い?と思いますね😥中島飛行機の後身である富士重工業(スバル)や跡地に進出した東京三洋電機(今のパナソニック)等が「建設資金を含めて鉄道路線を作った」としても、東武鉄道は動かなかったと思いますね😥
東武熊谷線は1983年に廃止されてから約40年ですが、もし電化され小川町(埼玉)~熊谷~西小泉を直結していたら池袋~東毛地域が直結しただろう
もし実現していたら池袋~太田・赤城を特急が走ったかも知れません。池袋からの停車駅は和光市、川越、川越市、東松山、小川町、熊谷、妻沼の順に
東上線とつながるまで行ったらなかなか便利でしたよね( ・ω・)
ただ、現在でもこの《東上伊勢崎短絡線計画》は消えてしまったと言うわけではないようです。小川町ではなく東松山(もともとも東松山からだったらしい)から、大里地域、熊谷駅、埼玉県スポーツ文化公園(ラグビー場、陸上競技場)、妻沼、西小泉、太田へと繋がる路線が計画されているようです。東松山に関しては用地取得の観点及び別ルート(森林公園〜熊谷)との兼ね合いから、熊谷に関しても市街地の大半地下化で実現性に問題ありですが、実現すれば、新たな銅線の開拓と、東武の分断も解消されそうではありますが…。
面白かった!このシリーズ続けてください。この熊谷線の後継が、太田~熊谷を走っている路線バスですね。以前乗りました。
ありがとうございますm(_ _)mバス路線は結構充実してますよね。太田~熊谷、西小泉~熊谷、妻沼~熊谷などがありますね(^-^)
地元民です。いえ、現在も走っているのですが《バイパス経由妻沼行き》と言うのが、東武熊谷線の代行バスとして設定されました。当時は急行バスで、街中1カ所と鉄道廃止後に407号線に新設された数カ所のバス停にて構成されていました。バス会社が変わって、街中は各停形式に変わり、昨年9月からは一部ルートの変更もされました。
谷川智紀 くまぴあ経由とかありましたね
このバスは鉄道があった頃にも走っていました、経由地は違うかもしれませんが妻沼の聖天前から太田駅まで利用したことがあります。
懐かしい動画ありがとうございます。東武熊谷線車両は、クリーム色で東上線カラーでした。
走っているところは見たことなかったのでうらやましいです(^^;
あの当時の東武鉄道の7800系や8000系電車は、全てクリーム色でした。
「妻沼から一直線に南下する道路が廃線跡かぁ」って道路地図見ながら東武熊谷線編楽しませてもらいました😃
地図をよく見ると廃線跡がわかって楽しいですよね!
めちゃめちゃ地元です。妻沼線は私が産まれる数年前に無くなってしまいましたが、一度乗ってみたかったです。さて5分ほど歩いて展示してある車両でも見にいきますかな。
それだけ近くに住んでいたとは、自分だったら乗ってみたくてしょうがなかったと思います(^^;
東武熊谷線、この路線は西小泉までつながる予定だったところ頓挫したあげく廃線になったらしい。ディーゼルカーもかしてつと同型で東急車輌製造の傑作車
ディーゼル車が保存されているのは、やはり地元民にとっても思い入れがあったからでしょうね。
熊谷市妻沼町といえば、欅坂46ゆいぽん(小林由依)の出身地です。旧妻沼町で国道は407(入間市~足利市)が唯一。1981年まで国道がなかったことになります
こんなところの出身者がいるとは…(^^;
もし小泉線と繋がってたら熊谷から太田、足利、伊勢崎方面へは随分、近道で東武の安い運賃で行けたんだよなぁ。高崎線で前橋経由で行くと、遠回りなことこの上ない。
今となっては厳しいですが、戦時中に完成していれば十分実現していたかもしれませんよね(^^;
大幡駅で乗車する場合は近くの売店(今は多分やってないかと…)で切符を買ってから乗車していたみたいですよ。料金も子供50円大人100円とかなり安かったみたいです。
貴重な情報ありがとうございますm(_ _)m鉄道のきっぷを近くのお店で売っていたとは驚きですね( ゚д゚)
熊谷線廃止直前に乗車しましたよ!太田でも北部の方に住んでいるので、鉄道利用はJR両毛線や東武伊勢崎線で熊谷線は全く使わなかったですお別れ乗車の時は自宅から原付バイクで1時間かけて妻沼駅まで行ったのが思い出です今では高規格のバイパスが整備されて熊谷駅まで車で50分程で行けてしまいます
結局車のほうが今は便利になりましたよね(^^;でも一番乗ってみたかったです(T_T)
熊谷〜上熊谷間と上熊谷〜石原間の一部は線路を剥がしてしまったんですね…。残念です…。でめ線路が全て撤去じゃなくて良かったです!これからも残してほしいです。僕がおすすめの廃線をおすすめします。一番おすすめなのは碓氷峠です。信越本線の廃線跡です。熊谷から近いのは深谷駅からの貨物線ですね。深谷駅、東京駅、碓氷峠、めがね橋のレンガを運んでいた貨物線です。あと埼玉県ですと西武安比奈線です。前は休止線でしたが正式に廃線になりました。王子駅からの貨物線、あと相鉄の廃線をリクエストでお願いします。
碓氷峠の廃線跡は確かに見ごたえありますね(^-^)挙げていただいたところも行ってみたいです(^-^)/
遊歩道の入り口に2匹の「亀」の像が映っていましたね。当時(50年以上前)からあまりにも走行速度が遅いので「亀の子特急」「亀の子列車」と呼ばれていました。そして、熊谷線ではなく「妻沼線」という名前だった記憶があります。
通称妻沼線でしたね(^-^)
結構最近まで熊谷から暫く線路が残ってたんですが、撤去部分が広がってしまったんですね。
徐々に痕跡も少なくなってしまいますね(T_T)
昔熊谷住んでて配線後と知らずに通過してた場所ありました.籠原駅前も変わってきたし懐かしかったです
40年近く前ですからもはや何も知らないという人も多いでしょうね(^^;
地元民は妻沼線って呼んでる人が多かったです。保育園の行事で一回乗っただけだったなあ
やはり妻沼線のほうが一般的だったようですね( ・ω・)
15年くらい前までは、川をつなぐ鉄橋や線路なども多数残っていましたね。大幡児童館付近が駅だったみたいですね。
駅の痕跡も何か残っていると良かったですね( ・ω・)
気動車が保存されている展示館(中央公民館)辺りまでが東武鉄道の敷地だと思います。線路は車両基地がドラッグストアの辺りにありました。駅のホームはニュータウン入口バス停の南にありました。駅舎とロータリー?が少し西側だったと思います。中央公民館の交差点を太田方面に行く道路が利根川の河川敷までいってますけど大泉町仙石まで行く予定だった区間の線路の後ですね。線路を敷けば鉄道車両が走れるようになってました。廃止する前に撤去しましたけど利根川の部分にも熊谷線の橋脚ありました。廃止する7年前に利根川に行った時に並んでいたのを思い出します。未整備の区間の道路は12年前に一度見に行った時と同じですね。遊歩道までの区間で整備した道路も去年開通した第二北大通が完成しないと開通しないと住民の人に教えてもらいました
詳しい情報ありがとうございますm(_ _)m駅のあたりはもう知っている人に聞くしかないという感じですね(^^;
@@railway1435 大幡駅があった場所に行った時に未整備だった区間の道路を見に行った時にたまたまお話を聞いた方が大幡駅の近くのお店で乗車券を委託販売していた女性の方の息子さんでした😅妻沼駅の駅前に自転車を駐輪する建物がありました。多分建物はまだ残ってますから聞けば詳しい方いると思いますけど…🤔
懐かしい❗幼稚園~小学生低学年辺りによく乗ったなあその頃の東武車両の、床が木製の防腐剤たっぷりの油っぽい匂いとぬるぬるが大好きでした。あと排気?の匂いも大好きで、それが嗅ぎたくてよく伊勢崎線沿線の我が家から、わざわざ熊谷線まで乗りにいってました
排気の匂いですか( ゚д゚)それは実際に嗅いだことないとわからないですけど、それが思いだせれば当時の様子も思い浮かびそうですね(^-^)
こうして廃線跡を辿ってみると歴史を感じ取れて良いですね。10.7kmをずっと歩いていくのは大変だろうなと途中まで見て思っていましたがまさか途中で車に乗るとは!カーシェアでも利用されてのでしょうか?
廃線跡は短い路線ならまだ歩けるけど、やはり車があったほうがいいですね( ・ω・)車は自分のです(^^;
私が中学1年のとき廃線となりましたが、当時先生と数名の友達で廃線記念プレートを付けた列車のビデオ撮影に行った記憶があります!機材が先生の私物だったのか覚えてませんが、その映像がみたいと…懐かしくなりました!廃線記念切符、木製箱入りで大切に保管してますよ🎵
記念きっぷがあるとはうらやましいですね!
小学生のとき、最終日に乗ったなぁ。実家に写真もある。
重なりますが、もし東上線・東松山から熊谷に支線ができて、そのまま熊谷線を電化し利根川を渡って伊勢崎線太田駅まで繋がっていたら、池袋発の特急(途中ふじみ野・川越・若葉・坂戸・東松山・熊谷に停車)なら1時間半で行けたのかもしれません。
池袋から行けたら便利でしたよね( ・ω・)
おおー妻沼線の車両見れるんだー。営業廃止記念切符ひさしぶりに出して眺めました。
ちゃんと車両が保存されているというのはありがたいですね(^-^)
熊谷は、昨年11月に久しぶりに行って来ました!と言っても、実際は川越から森林公園経由で熊谷から先羽生まで行く途中だったんですけど過去の熊谷とはかなり変わってしまいもう全く解らない場所に変わってしまいました!ちなみに、過去はさいたま博で一度熊谷で降りてシャトルバスで往復して新幹線で都心へと帰ってしまい今度は熊谷もゆっくり行ってビバークにでも行ってお風呂入って泊まりたいと思います。今回は、埼玉のいすゞ・日野の新型路線バス一挙捕獲と銘打ってまず、板橋の赤塚(板橋コミュバス)→川越で東武ウエストの川越観光周遊バスの撮影→森林公園で十王のラグビーワールドカップの撮影予定が失敗してしまいそのまま熊谷で撮影→熊谷で十王と朝日の車両を撮影して→秩父鉄道で羽生に移動して平成エンプラの撮影→秩父鉄道でお花畑→西武秩父→飯能→武蔵高萩と周り川越に戻って川越で1泊して翌朝は宿の送迎車や東武ウエストのラッピング車両の撮影→東上線で赤塚で前日のリベンジ→池袋でイケバスの撮影とモバイルバッテリーを購入して→埼京線で大宮で西武バスのラッピング車両撮影→アーバンパークで春日部→スイツリーラインのせんげん台で茨急バスの撮影→三郷中央で最後マイスカイ交通の車両を撮影して金町→浅草寿町までバスを乗り継ぎしてそこで夕食→地下鉄・東横線で帰宅して来ました!その時は、熊谷線は完全に頭から抜けていて三郷中央→金町に向けて移動していたバスの中でふと自分も思い出しました。
なかなか予定ぎっしりの濃い旅行でしたね(^^;
熊谷から、妻沼まで、走っていた、鉄路すごいです。✨☺️🌠
今となっては知らない人も多いかもしれませんね( ・ω・)
展示館の受付に言えば、電車の鍵を出してくれて乗車することもできますよ
そうなんですね、せっかくなら見てみれば良かったですね。
前面2枚窓の湘南スタイルが流行していた時代ですね。東武には非電化路線もあった、東武はDCも所有していた、····というのも興味深いですね。
確かに東武の中でも異質な路線だったかもしれません( ・ω・)
わーい超地元の妻沼だ\(^o^)/ニュータウン入口のバス停は、妻沼線廃止直後は「妻沼」というバス停でした。ここが駅だったので終点になっていたけど、駅跡の北側に住宅が増えて、そこにバスを通す為に終点が北へ移り、その時にバス停名も変更されました。いきたんさんが車で走った区間は、廃止後割とすぐに道路が整備され地元では緑道と呼ばれ親しまれてます。熊谷駅のホームは5番線を妻沼線が使用してましたね。かなり曖昧な記憶だけど、5番線は真ん中で線路が分断されて、秩父線と妻沼線で半分ずつ使用していたような…最終営業日の5月31日に乗りましたが、2両編成のカメ号が超満員でした🐢終戦前に工事が進んで西小泉と繋がっていたら、今頃はどうなっていたのでしょうね?それでも存続は難しかったような気もします。緑道はネズミ捕りをやってる事もあります、通る方はスピードの出し過ぎにご注意を!
大変詳しい解説ありがとうございますm(_ _)m最終日に乗れたとはうらやましいです(^-^)秩父鉄道と真ん中でホームが分断されていたというのは自分もどこかで見た気がします。緑道は確かに見通しいいのでスピード出ちゃいますね(^^;
私も最終日に乗ってました!(小学生でしたが)そして、熊谷駅の5番線は羽生方面の秩父鉄道と分けていたような記憶があります。
前行きました!しかもラッキーな事にリゾートやまどりを見ました!
高崎線は結構いろんな列車が通りますからね( ・ω・)
国道17号とのクロスはガーター橋で超えていました秩父鉄道から離れてから築堤に上がり、高崎線と17号を超えて熊農(熊谷農業高校の地元呼び)の実習地の辺りで地平に降りてましたガーター橋は90年代まで残ってましたよ大幡駅は大幡駅はこの辺りと紹介されていた場面で遠くに道路橋が写ってますが、その道路橋の手前にありました木造の今にも倒れそうなボロ駅舎がありましたね砂利道はもう数十年あのままです熊谷市民もいつ整備するのか分からないです妻沼駅はバス停の所です片面ホームだけで、ホームから離れた場所に木造駅舎がありましたすぐ奥に機関区もありましたね以上元熊谷市民からの情報です
熊農といえば、命で有名なお笑いコンビTのボケMの母校ですね(相方Yは京都市出身)
詳しい情報ありがとうございますm(_ _)mガーター橋の部分などはよくわからなかったので納得できました(^-^)
本来のルートは高崎線と秩父鉄道を築堤で超える予定だったので、新幹線との間の用地は本来の熊谷線のものです造り始めたはいいが、途中で予算が尽きたので秩父鉄道の複線用地に乗り入れる形にしたそうです予定では小泉線と接続して、熊谷からさらに南へ延伸して東上線の東松山と接続する計画でした熊谷線の廃止以後も埼群新線として開業しようという動きもありましたが、路線は作れても採算が取れないということで休止状態だそうです
詳しい解説ありがとうございますm(_ _)mやはり需要がそこまで見込めなかったというのが結局は大きかったんでしょうね( ・ω・)
地元にこんな路線があったなんて…驚きです!
約40年前の話なので無理もありません。
春には、廃線跡の所を歩くと桜?が見れそうですね!廃線遊歩道の横から高崎線とかが見れていいですね笑東武熊川線が廃止されなかったら今の通りとかはまた変わって居たのでしょうか?
遊歩道は結構使っている人多かったので市民の方々にとっては便利なのかもしれません(^-^)
廃線間際の熊谷駅に停まっているキハ2000型と妻沼駅の写真持ってます。今年は3月から6月の間に西小泉駅から妻沼駅のあった辺りを3回ほど行って写真を撮って来ました。妻沼展示館にも行って色々な話を聞けたのがとても良かったですよ、少し離れたところには渡し舟が今でも有ります。妻沼展示館の近くに在る国宝聖天山の入り口にある聖天寿しのいなり寿司が有名なので買って帰りました
妻沼展示館にも入りたかったですが、撮影時はやってなかったので、またリベンジしたいです!
他の方のコメントにも有りましたが、利根川渡る橋梁と東武小泉線と繋がり電化されていたら、今でも残っていたかも知れませんね。東武東上線と越生線と同じ孤立路線でしたが、やはり非電化だったから、採算とかも有り廃止されたのかも知れませんし。
非電化というのが意外とネックだったのかもしれませんね( ・ω・)
@@railway1435 まあ、戦時中に軍事工場に人を運ぶ為に急遽造られた路線で、これも他の方のコメントに書かれてましたが、やはり熊谷から旧国鉄に乗客取られるの嫌がった東武鉄道の思惑も、やはり有りそうな感じだから、非電化だったのかも知れませんね。後、逆に熊谷から東上線に繋げてたら、どうなっていたでしょうかね。
幼少の頃立川に住んでいて、祖母の家が熊谷駅寄りの現在はアンダーパスになっている踏切近くにありました。電車が好きで日常的に101/103系やEF15や58、セメントのホッパー車を見ていましたが、熊谷の祖母の家に行った時も毎回「恐怖の踏切」(現在よりも車や人が圧倒的に多く時間内に渡りきれない)で電車を見に行ってました。その中で、小さく、遅く、冴えないクリーム色で、めったに来ないキハ2000の違和感は強烈に覚えていますよ。ま・・小学校に上がると同時に "冴えないクリーム色" ばかりで、大半が単線で吊掛け非冷房の巣窟に引っ越すわけですけどねw
吊り掛けとかはボロく感じるけどなんか懐かしいんですよね(^^;
中島飛行機は後のスバルだったんですね初めて知りました
そうなんです、だいぶ昔なので歴史を感じますよね。
上熊谷駅周辺の廃線はつい数年前まで線路が残っていたと記憶しているのですが、現在は剥がされてしまったんですね
跡が残っているということは線路が剥がされたのはそんなに昔ではないのかと思います( ・ω・)
航空写真だと、妻沼の先まで廃線跡があるように見えるのは、そういう理由だったのか
確かに航空写真は廃線跡を見つけるには最適ですね(^-^)
太田ー熊谷ー森林公園(東松山)って今からでも結べないものかな?仮にLRTだとしても、バスよりは輸送力や安全性、定時性に勝りますよね。まぁ、東武鉄道の体質的にも難しいでしょうが…。
結局バスのほうが導入コストは安いのでそちらになってしまうんでしょうね(^^;
今はどうかわかりませんが計画はおよそ10年前まではあったと記憶していますが熊谷駅経由にならないことや国道407号線及び太田熊谷県道の混雑で見送りになったんだと思います。
仮にもし開通していれば、そのまま東上線副都心線東横線みなとみらい線経由で、いっきに太田から横浜、元町中華街まで行けるダイヤもあったかもしれないですね…でも、バスになっちゃいましたねw
いや、まだ消えていないです。消えてはいないですが実現性は?ですね。
太田も人口減り始めてますから、難しいよね
私は、鉄キチでは、ないのですが知っていました。友達(鉄キチ)に廃線に成った熊谷線の事を聞いたら不思議な顔をされた記憶が有ります。JTBから出版されていた廃線や未成線の本に詳しく記載されていて驚きました。
自分もある程度は知っていましたが、実際に行ってみるといろんなことが感じとれてなかなか楽しかったです(^-^)
地元へいらっしゃいませ!熊谷線あれば便利だったと思うんですよね...
通っている場所は微妙でしたが、妻沼まで行けるのは便利だったかと思います( ・ω・)
この路線は、確か当時の中島飛行機✈️太田工場🏭が関係しているんですよね、現在は、富士🗻重工業群馬製作所(太田本工場、小泉工場)になっています、
太田周辺にいくつか工場がありますよね(^-^)
中島知久平氏ですね
本当はもっと町を経由して路線をひく計画だったけど戦争の煽りをうけて直線中心の郊外を走る路線となったすこしかわいそうな東武最後の非電化路線ですね
東武最後どころか大手私鉄の非電化路線はもうないかも、確か名鉄が最後だったような。
非電化だったというのも地味にネックになった部分かもしれませんね( ・ω・)
動画には写ってないのですが、カスミの少し南側にホーム跡っぽい盛り土があって、そこが旧妻沼駅です。(工事で分かりにくくなってしまったかも)
そうなんですね、もっと南でしたか(^^;情報ありがとうございますm(_ _)m
@@railway1435 動画の13:07に工事で黄緑色の囲いみたいな物が映ってますが、その奥辺りです。この道路は東武鉄道の用地で、どの民家も玄関が道路に面していないのがその証拠になります。また訪れてみてください。
東武って面白い鉄道会社ですよね。昔、東上線と伊勢崎線をつなげる計画があったのですが何故かなくなり結局東上線だけが孤立する結果になりましたから
西新井駅から上板橋駅を繋ぐ計画があったようですね。
もしつながっていたら東武東上線の車両を本線に回送する時、 (南栗橋など)秩父鉄道を経由しないで上板橋〜西新井間で回送できたかもしれません。
鉄道の歴史もよく研究してみるといろんな計画があったりして面白いですよね(^-^)
@@鉄道マニアチャンネル その跡が東武大師線だったはず…
東上線って名前なのに 群馬まで行かないんだよね。
東武熊谷線(妻沼線)が廃線になってから今年で40年になりました。新作グッズが新発売されたようです。ちなみに廃線40年のグッズも発売したようです。そのグッズを今年の秩父鉄道ワクワク鉄道フェスタで売っていたようです。4年ぶりに広瀬川原車両基地で行われました。
そうだったんですね!秩父鉄道のワクワクフェスタ行ってみればよかった(^^;
東武が東松山、森林公園から熊谷経由で妻沼、太田まで開通して、複線電化していれば、太田から熊谷経由で東上線の池袋まで直通運転していたかも?直通電車は快速急行で運転していたかもしれない?
つながっていれば多少は便利だったという気はします(・ω・)
東武熊谷線は秩父鉄道ホームの北側に2両分のスペースを継ぎ足してそこから発着。キハ2000系の2両で熊谷↔️妻沼を往復してました。短い路線だったけど、見通しが良く15分程の乗車もなんか旅情を感じさせてくれた。窓を全開して乗れた☺️太田まで開通してたら今存続してたか?それでも厳しいかも^^;バスの方が便利になっているし。廃線探訪、お疲れ様でした♪(^^)
東武熊谷線は一度乗ってみたい路線でしたが、このように廃線跡を歩くのもなかなか楽しかったです(^-^)
遊歩道も群馬県側の公園も「これ跡地だよな」と疑問はあったものの調べるには至らず(横着者です)この動画ですべて納得することができました。
廃線跡は見つけると結構面白いですよね(^-^)
小泉線と繋げられたら良かったですね!埼玉と群馬を跨げば便利だった筈
そうですね、つながって欲しかったですね(T_T)
東海道線の下り電車に乗っていると、鴨宮駅の手前から左側に明らかな怪しげな貨物線らしき線路が併走してきます線路も残っていて、それは鴨宮駅を過ぎて小田原駅手前まで残っています。東海道線の下をくぐって山側に向かってるような遺構もありました。ここを通るたびに気になっていて、じっと見ちゃいます。ぜひ調査をお願いしたいです!
そんな貨物線跡?みたいのもあるんですね!ちょっと遠いからなかなか行けないけど調べてみます。
昔、大泉や妻沼で仕事してました二つの町が繋がっていればなーと今でも思います
そうですね、つながっていたら絶対乗ってましたね(^^;
廃線跡のリクエストとして三島駅の東レとの工場線はいかがですか?
リクエストありがとうございますm(_ _)m廃線跡についても今後の参考にさせていただきます(^-^)/
埼玉北部住みだけど知らなかったあとで見に行ってみようかな
かめのみちは散策もできるのでオススメです(^-^)/
これからはうp主さんの名前も変更ですねはいたん/廃線探訪チャンネル()
ネタがそこまでないからなぁ(^^;
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他にも都心部の廃線は、ピーチライナーとか、山間部の廃線は、夕張線や三江線、代替路線建設での廃線は、学研都市線京橋ー片町間や筑肥線姪浜ー博多間などがありますね。廃線危機としては、神鉄粟生線、近江鉄道、南海汐見橋線などもある。
根室本線(富良野~狩勝信号所)、日高本線、予土線も
廃線になっただけあって行くのが大変なところが多いんですよね(^^;
こんにちは、東武熊谷線は乗りたい路線でしたが以外とあっさり廃止しましたね、新幹線工事の影響もあったんですね、もしも川を越えていたらまだ存続していたでしょうかね、あの気動車に乗って見たかったです。
自分も乗ったことはないので一度は乗ってみたかったですね(T_T)
Yahoo!地図で見ると、高崎線を越えた辺りから妻沼方面へほぼ一直線に続いてるのが見て解りますね。妻沼から西小泉まで開通していたら、利便性も又変ったのでは無いでしょうか。
地図を見るとどういうルートだったのかがよくわかりますよね(^-^)
熊谷というと去年のラグビーワールドカップで盛り上がったところだけど、現在ではコロナの影響か?なんか人通りが全体的にひっそりとしてた感じがある。
熊谷も結局は学生の街なので平日のほうが賑わいありますね(^^;
数年前まで熊谷に通っていましたが、普段は閑散としてますよ。土日ですら人は多くないです。
いつもこんな感じですよ
車の街なんで、東京さいくだの時だけ
貴重な映像有難うございます。皆さん仰る通りJR線と伊勢崎・小泉線が接続すれば、東京方面行きが便利になったかも知れません。そもそも地理的要因として隣町に別路線があるのに接続していないと言うのはかなり不便です。JR桐生から新桐生でりょうもう号を利用している人も多いから桐生線も間接的に助かったはずです。それと個人的に東武で東京方面へ行く人が減って困るという人がいますが、私はそうは思いませんね。何故なら久喜からJR利用すると料金が400円近く高いし、驚くほど早く到着と言う時間差ではない。それにむしろ貨物線も利用する場合には熊谷線は便利だったのでは?他にも東武鉄道借宿線や徳川河岸線等も見たいです
ここの歴史はなかなか面白いので勉強してみるのも良さそうですね(^-^)
結局、利根川を越えられなかったんだ!あちこちにその遺構が今も残っているけど、今の多くの人は気が付かないかもしれない。東武では唯一の気動車での運転だった。当時全部白い色の気動車は国内ではここしかなかった。一度走っているのを見たことがある。確か1両(単行)か2両くらいでゆっくりと走っていた。夏、人のいない終点の妻沼では時が止まっていた。将来電化されて、利根川の北側とも接続されるのかな?と思っていたら廃止されてしまった。今は国道407号などの高規格の道路がその代わりを担っている。過行く時の流れを感じる。
熊谷付近は結構遺構も残っているけど、妻沼付近はだいぶ見当たらなくなりましたね。
初めまして。秩父街道と国道17号の場所は、踏切ではなく、上に鉄橋が掛かっていました。熊谷市在住なのでよく知ってます。
情報ありがとうございます(^^)立体交差で越えていたんですね!
自動車運転シーン珍しいですね。
運転動画も需要あるかな?(^^;
上熊谷のところは去年剥がされましたね… ずっと残ってくもんだと思ってたので残念です。
わりと最近まで残っていたんですね。その頃にレポすれば良かった(^^;
なんと?!👀まだレールの一部が残っていたとは!😲
ただ撤去されてしまったところもあるようです。
@@railway1435 様、返信ありがとうございます。1年の間に、変わってしまったところもあるのですね。😓
全長約10Kmを約30分(だったかな?)かけて走ってた事で、特急かめ号の愛称が付けられてたとか。ちなみに・・・元妻沼駅跡は、以前はブナの木が立ってたけど何故だか撤去されたが故に、今は探し難くなってます。
何か駅の跡を残して欲しかったですが、車両が保存されていたのは良かったかと思います(^-^)
足跡の音がいいっすね(路線関係ない)
静かすぎて足音が目立ってしまうという…(^^;
深谷にも日本煉瓦製造のレンガ輸送専用鉄道の廃線跡を遊歩道にした「あかね通り」てのがありますな。過日、レンタサイクルで巡りました。ところで割と周知かとは思いますが埼玉県民以外の方に一言。「妻沼」は「めぬま」と読みます。ついでに、東武熊谷線および特急かめ号の歴史については「迷列車列車(秩父の人)」によって採り上げられニコ動に上げられてます(「迷列車で行こう 秩父鉄道編 Vol.26 カメの歩いた10.1km(前・後)」(www.nicovideo.jp/watch/sm18562496、www.nicovideo.jp/watch/sm18754955)。すでにご覧の方も多いとは思いますが、一応紹介しておきます。
おっと失礼、リンクしくじりました。前編:www.nicovideo.jp/watch/sm18562496後編:www.nicovideo.jp/watch/sm18754955です。
ありがとうございますm(_ _)mニコ動のもなかなか面白いですね( ・∀・)
地理的に群馬県民も妻沼は読めるはずですよ
西小泉までつながっていたら、邑楽郡周辺から都心まで通勤してる人がたくさんいて、郡ではなく市になっていたかもですね。ただ、東武伊勢崎線や特急りょうもう号がどうなっていたか。
つながっていたらと想像を巡らせるのが楽しいですよね(^-^)
廃線跡地は現在もすべて東武鉄道が所有しています。それを自治体に貸し出し道路や遊歩道に使われているのです。なぜならいずれ再び鉄道を敷くかもしれないから。なのでこの道路、地元では緑道(りょくどう)と呼ばれていますがここから直接敷地に出入り出来ない作りになっていると東武博物館で訊いてきました。妻沼駅跡の東側にある妻沼ニュータウンの分譲住宅に住む知人が購入の際に、開発した東武不動産の営業マンから「あと10年もすれば鉄道が敷かれる予定」などと言われたそう。それから20年以上経つが未だその兆しすら感じられませんが、ただの疑似餌として所有されてるのかもしれません。
確かに言われてみれば緑道から直接出入りできるところはなかった気がします。詳しい情報ありがとうございますm(_ _)m
9:00の辺りは コメントの踏み切りって書いてあったけどこの辺りは築堤で高架でした 高崎線と国道17号は高架で跨いて居ました
踏切だと渋滞してしまうので高架だったみたいですね。
確か保存中のキハは最初野外展示だったのを、後で車両を覆う形に建物作って、屋根とホームを設置したんだよね。
そのおかげで保存状態もよくなりましたね(^^)
その反対側、太田~熊谷までを結ぶ線路の太田側も遊歩道として残ってます。確か利根川の手前には鉄橋の足みたいのもあった気がします。「多分ですけど」西小泉から伸びてます。調べれば多分出ますよ!
西小泉からずっと遊歩道が続いているんですよね(^-^)
埼群軌道新線として復活するという話を聞いたことがあります。軌道じゃなくて普通規格で建設しても良さそうな気がします。東武が建設するとなら念願の東上線接続になりますね。
妻沼線時代も1両とかで運行していたので、現状ではバスで十分な気がします。
最後の運行の日チャリこいで熊谷駅まで行ってさようなら熊谷線の看板かけた電車に乗りました。大勢の客がいましたよ最後の日
妻沼線乗ってみたかったですね。
一昨年まで太田在住…熊谷までの朝日バスは利用した事があるが…妻沼~熊谷は通勤通学は利用があるもし熊谷まで路線があれば太田から快速ぐらいの運転はやるかも知れない太田からだと都内は熊谷経由は便利…
まあ今ならバスが代わりになっているということでしょうか( ・ω・)
@@railway1435 もし…小泉とつながっていたらそれなりに需要はあるかもって事です。太田~熊谷の快速ぐらいはやりそうな…😅宅地開発もやればね😄
軍需路線として建設されたのがその後の運命を決定付けて40年近くの短命にとどまってしまいました。そうでなければ太田方面への延伸と電化は手が届きそうだったし、また、東上線東松山から分岐して熊谷線と接続させて伊勢崎・東上線系統と一体化の可能性も生じますが元々輸送人員は僅少なところ、なにせ熊谷では秩父鉄道線と共用していましたし、その後の上越新幹線建設に伴い、始末のつかない熊谷線は結局廃線を余儀なくされる事になったのでしょう。
本当は妻沼の人口がもっと増えることを見込んでいたのでしょうが、そこまでではなかったということですね。
非電化路線を走る列車の運転士には、電車の運転免許とは別にディーゼル機関車の運転免許が必要だったみたいですね。もし東武熊谷線が会津鉄道の開業まで残っていたら、東武-野岩-会津の3社直通運転が、もっと盛んに行われていたかもしれません。
免許が違うというのも路線継続のネックになった部分かもしれませんね( ・ω・)
現役時代の熊谷線にのりました。全部で車両が3両しかなかったので。朝夕はそのうち二両を連結して妻沼女子高校の生徒運んでました。上熊谷で到着を待っていたら。熊谷線の車両が見えてきて、そのあとに秩父鉄道、さらみは国鉄ボンネンットあさま号が走ってきて上熊谷までに両方に抜かれて、最後に到着。ほほえましい場面でした( ^∀^ )ニコニコ
当時の場面が思い浮かぶのはいいですね(^^)
私が深谷の会社に入社した1982年は、まだ走ってたのですね
特にどこかへ接続しているわけでもないので、沿線民しか使っていなかったと思います。なので貴重な鉄道遺産かと思います。
上熊谷駅の傍にある「秩父鉄道の車輌を使った店舗」ば飲食店でBARの様ですよ。
あれは気になりましたね。
@@railway1435 そうですか😅生まれも育ちも「スバルの街」なので、周辺地域の情報収集を行っていますが、この店を発見したのは数年前?だったと思います😥JR熊谷駅周辺・東武熊谷線の調査を本格的に始めた時に見付けました😙飲食が好きで「飲み屋さん巡りも好き」なので見付けました😁地元企業の八木橋百貨店・イオン熊谷店も近いので、コロナ渦の前は買い物で来た方も利用していたんじゃないですかね?😥
地元です!懐かしい!自分が中学生の頃廃線になり小学生の頃よく利用しました!今では地元も余所からの人が多くなりこの電車に乗った事ある人も少なくなりました!寂しい限りです(T_T)
確かに乗ったことがあるという人は少ないかもしれませんね( ・ω・)
新情報です😃w妻沼駅跡の証拠となる物がありました。伐採されたブナの樹の跡・・つまり、切りかぶを5つ(6つだったかな?)確認しました。これは、たまたま農作業してた地元民に話を聞けたんで、間違いないです。道を挟んだ向かい合いに堀歯科医院と、すぐ脇に工事中の建築現場もあります(先月4月現在)ちなみに、ブナの樹が伐採されたのは2016年だそうです。切らないで欲しかったな・・・🤔
そうなんですか、きちんと跡として残っているものがないと、地元の人に聞くのが一番かもしれませんね(^-^)
偶然見つけたこの動画。
懐かしい気持ちで動画を拝見させていただきました。
熊谷生まれの私はこの東武熊谷線(地元では妻沼線)の存在は身近でしたが
乗ったことがあるのは廃線になった年の3月に1回だけでした。
運転手さんが運転しながら話しかけてきたのはとてもいい思い出です。
良い動画をありがとうございます。
廃線直前に乗られたとはうらやましい!
乗ってみたかったですが幼い頃でしたので叶いませんでした。
東武としては軍の要請で熊谷から太田まで建設せざるを得なかったが、熊谷ー太田が繋がれば
都心へ向かうのに便利な国鉄へ客が流れてしまうので全通させたくなかった。
また、東武は妻沼のニュータウン計画に失敗したため利用客が伸びす、熊谷駅南口の自由通路
建設の際にホームを秩父鉄道に返還して秩父鉄道との合流地点で秩父鉄道をオーバークロスさせて
単独路線で熊谷駅へ入らなければならなかったので廃止を決断したということです。
秩父鉄道と上越新幹線の間にあった空き地はその名残りでしょうか。
戦時中は人員輸送はしていたようなので軍需路線として使われてはいたようですが、
東武日光線を単線化してレールを流用までして建設したのに役割を果たせないまま廃止された
東武で一番可愛そうな路線でした。
詳しい解説ありがとうございますm(_ _)m
おっしゃる通り国鉄とつなげたらみんなそちらへ流れてしまうというのはあったかもしれないですね( ・ω・)
現実は車やバスで熊谷に行って、そこからJRに乗る人が増えてしまったような。
太田から東京浅草への直通列車が、無料の区間急行が廃止されて特急りょうもうだけになってしまいましたし。
熊谷と東松山を繋いで西板線が果たせなかった伊勢崎線と東上線を繋ぐ路線を考えたそうですがまたしても果たせなかったようです。もし果たされていたら高崎線も安泰ではないルートができていたかも?
@@yareyare1968事実そうですよ。伊勢崎線は足利や佐野の方へ遠回りしちゃうし単線だし、東武が明らかに日光鬼怒川への特急以外、事実上館林と南栗橋以北を切り捨ててるのが実情ですから。太田どころか伊勢崎民も、東武や両毛線に乗らないでマイカーで本庄駅周辺のパーキングに停めて高崎線に乗りますから
他の人も書いていましたが
東武熊谷線と東武小泉線が繋がって
さらに熊谷と東上線の東松山が繋がっていたら東上線経由の特急が館林や太田まで走っていたかも…って妄想してた事もありました
いろいろ考えると結構夢膨らみますよね(^-^)
便利になっただろうね。熊谷から電車で太田行くならかなり時間かかるからね
私は越生線から坂戸川島吉見熊谷はよく妄想してました
FIELD L そしたら伊勢崎線系統と東上線系統の回送受け渡しなんかも楽だったろうに
吉見を鉄道が通るようになっていたら今のようなド田舎にはなっていなかったかも...(町民並感)
30年以上前、熊谷に住んでいた時に祖父が妻沼線を「のろま線」と呼んでいたのを、なつかしく思い出しました。かめ号のくだりにもある通り、本当に遅かったようで。廃線跡、私も歩いてみればよかったな…
整備されていて歩けるところも多いのでぜひ行ってみてください(^-^)/
懐かしい東武熊谷線、私は、妻沼出身ですので、妻沼線と言っていました。早いもので妻沼を出て50年以上経ちました。妻沼線は高校へ通う3年間利用しました。懐かしいです。廃線を聞き残念に思っています。東京、名古屋、神戸、大阪と移転してきました。現在は大阪に住んでいます。生まれ故郷は特別ですね。暑い熊谷ですが皆さんお元気でお過ごしください。
通学で妻沼線を使っていたとはうらやましい限りです。
理由がないとなかなか乗れないですからね。
私が小6の時に廃線なった。妻沼高校の生徒が乗ってる電車ってイメージで、この動画観るまでずっと妻沼線っていうもんだと思ってたからビックリした。石原公園では妻沼線見ながらみんなとサッカーしていたなぁ。
石原公園から妻沼線見てみたかったですね( ・ω・)
保存価値のある素晴らしい動画をありがとうございます。
by元熊谷市民
不十分な点も多いですが楽しんでもらえたなら幸いですm(_ _)m
撮影お疲れ様です。
熊谷駅には2021年始めに行きましたがこんな廃線跡があるなんて知りませんでした。
2:47の秩父鉄道7000系は元東急の車両なので懐かしく感じます。
今後の動画も楽しみにしています。
なかなか面白い路線だったかと思いますが、やはり採算が取れなかったようです。
東武熊谷線が東武小泉線と繋がって電化されていたら便利だっただろうなぁ…
こういうルートの鉄道も欲しかったですよね( ・ω・)
更に秩父鉄道を介して西武線/東武東上線/東急/東京メトロの車両が直通してきたらJR線とやりあえる路線に化けたかも
@@剛志-l6e 西武線は東武線と敵対してるからねー
撮影ご苦労様です。もろ地元民です。偶然お勧めに出て来て廃線時の記念切符を淋しい思いで買ったあの時を思い出すと共に懐かしい思いで見ました。
昔は「妻沼線」とか「のろま線かめ号」なんて呼んでいて郊外で走っていた風景もよみがえってきました。あの頃は保線状況も完璧ではなかったのでしょう走行車両は遠くから見るとユラユラしながら走っていたものです。
地元でもあまりここまでは追いかけないので今を知れて良かったです。まだ昔の車両も見られるのですね、最近知った東武熊谷線橋脚(ピアー)跡と共にいづれ見に行きたいと思いました。
妻沼の公民館の展示車や利根川の橋台は見る価値あるかと思います(^^)
動画、懐かしく拝見しました。
妻沼線廃止の情報を得て、廃止直前に乗車と撮影に行ったことを思い出しました。
当時の車両が残されているんですね。
近いうちに車両を見に行ってみたいと思います。
今後も動画を楽しみにしております。
駅の跡は残っていませんでしたが、車両がきちんと残っているというのは本当にありがたいですね( ・∀・)
あああ、熊谷駅から続いている「線路をむしった跡」は東武熊谷線の廃線跡だったのですね!
てっきり秩父鉄道の需要が減ったので、複線を単線にしたものと思っていました(鉄を売って少しは儲けるため)。
勉強になりました、有り難うございます。
まあ秩父鉄道の隣を走っていたようなので、そう思うのも無理はありません(^^;
高崎線の架線柱を新しくしたので熊谷線の線路をむしりました。
半年くらい前の話です。
秩父鉄道の複線化予定地(熊谷〜広瀬川原車両基地のうち上熊谷駅先分岐点まで)を軍から東武へ貸すように言われそうしたと記録あります。秩父鉄道としては当時セメント貨物列車を国鉄へ熊谷駅で渡していたので複線化は列車本数確保の上でも課題でした
秩父セメントが熊谷工場を設置し籠原へ専用線を敷設し複線化は不要になり上熊谷駅の東武ホームが転落防止のためフェンス設置されました
熊谷市民
熊農の農場めちゃくちゃ懐かしいわー
学生の頃に亀の道を渡って、学校から農場へと行き来してたのももう20年くらい昔になるのかぁ
しかし、現スバルの中島まで伸ばす計画だった事を初めて知りました
良い動画に感謝です
もっと昔だと線路を渡って農場に行っていたのかもしれませんね(^-^)
@@railway1435 もう卒業して30年近くなるけれど,入学当時の学校案内には敷地のなかに「東武熊谷線跡地」の文字があったし,当時は遊歩道はなくて,砂利敷きの線路敷きとコンクリートの柵が続いていたよ。熊農は,開校100年を超える伝統校だから,線路が廃止されて農場に転用じゃなくて,学校の中を鉄道がつっきていたというのが正解だよ
日の目を見なかった橋脚のうち、敢えてひとつだけ残しているのだと思います。残念に終わってしまった廃線です。利根川を越えて開通していたら廃線されなかったでしょう。
あの橋脚があるだけでイメージがわきやすくなるのでありがたいですよね( ・ω・)
今は熊谷を離れてますが、大幡小、大幡中の卒業なので懐かしいです。中学生の時に廃線になりました。
地元では正式名が「東武熊谷線」なのは知ってますが誰も呼んでなく、もっぱら通称名の「妻沼線」って呼んでました。「かめ号」は後付けのような感じです。
途中の大幡駅は完全無人駅なのでホームしかなく、切符は駅前(?)にあった駄菓子屋みたいなお店で買うか、直接ホームに行って、列車の乗務員に行き先を言って買ってた記憶があります。
廃止された妻沼線の代替えとして、東武バスが熊谷駅~妻沼駅間を「妻沼駅行き急行バス」として国道407号を走行するバス路線を新設しました。が、国道17号との交差点の「熊谷警察署前」という渋滞の名所を通るので「急行」とは名ばかりで、妻沼県道(県道太田熊谷線)を通る「太田駅行き」や「西小泉駅行き」のバスの方がかえって早かったりしてました。
また、「妻沼駅」は妻沼線廃線後も急行バスの発着があったので、何年かは駅舎が残ってたと思います。
何か思い出したら追記します。
貴重な情報ありがとうございます(^^)
やはり当時の状況を聞けるのが一番よくわかりますね!
熊谷線とはまた随分と渋いw
久しぶりにキハ2000を見て懐かしい思いがしました。太田まで繋がっていたら廃線になることはなかったでしょうかね。
ちゃんと車両が保存してあるというのは良かったですね(^-^)
東松山、森林公園から熊谷、妻沼、小泉線を通り太田まで結ばれて、複線電化して、熊谷線が東上線と直結していれば、太田から池袋まで直通運転していたかもね⁉️
そうしてれば、廃線は免れたけどね⁉️
@@RainbowBridge1969
それは無い?と思いますね😥
中島飛行機の後身である富士重工業(スバル)や跡地に進出した東京三洋電機(今のパナソニック)等が「建設資金を含めて鉄道路線を作った」としても、東武鉄道は動かなかったと思いますね😥
東武熊谷線は1983年に廃止されてから約40年ですが、
もし電化され小川町(埼玉)~熊谷~西小泉を直結していたら池袋~東毛地域が直結しただろう
もし実現していたら池袋~太田・赤城を特急が走ったかも知れません。池袋からの停車駅は和光市、川越、川越市、東松山、小川町、熊谷、妻沼の順に
東上線とつながるまで行ったらなかなか便利でしたよね( ・ω・)
ただ、現在でもこの《東上伊勢崎短絡線計画》は消えてしまったと言うわけではないようです。小川町ではなく東松山(もともとも東松山からだったらしい)から、大里地域、熊谷駅、埼玉県スポーツ文化公園(ラグビー場、陸上競技場)、妻沼、西小泉、太田へと繋がる路線が計画されているようです。東松山に関しては用地取得の観点及び別ルート(森林公園〜熊谷)との兼ね合いから、熊谷に関しても市街地の大半地下化で実現性に問題ありですが、実現すれば、新たな銅線の開拓と、東武の分断も解消されそうではありますが…。
面白かった!このシリーズ続けてください。この熊谷線の後継が、太田~熊谷を走っている路線バスですね。以前乗りました。
ありがとうございますm(_ _)m
バス路線は結構充実してますよね。
太田~熊谷、西小泉~熊谷、妻沼~熊谷などがありますね(^-^)
地元民です。
いえ、現在も走っているのですが《バイパス経由妻沼行き》と言うのが、東武熊谷線の代行バスとして設定されました。
当時は急行バスで、街中1カ所と鉄道廃止後に407号線に新設された数カ所のバス停にて構成されていました。バス会社が変わって、街中は各停形式に変わり、昨年9月からは一部ルートの変更もされました。
谷川智紀 くまぴあ経由とかありましたね
このバスは鉄道があった頃にも走っていました、経由地は違うかもしれませんが妻沼の聖天前から太田駅まで利用したことがあります。
懐かしい動画ありがとうございます。東武熊谷線車両は、クリーム色で東上線カラーでした。
走っているところは見たことなかったのでうらやましいです(^^;
あの当時の東武鉄道の7800系や8000系電車は、全てクリーム色でした。
「妻沼から一直線に南下する道路が廃線跡かぁ」って道路地図見ながら東武熊谷線編楽しませてもらいました😃
地図をよく見ると廃線跡がわかって楽しいですよね!
めちゃめちゃ地元です。妻沼線は私が産まれる数年前に無くなってしまいましたが、一度乗ってみたかったです。さて5分ほど歩いて展示してある車両でも見にいきますかな。
それだけ近くに住んでいたとは、自分だったら乗ってみたくてしょうがなかったと思います(^^;
東武熊谷線、この路線は西小泉までつながる予定だったところ頓挫したあげく廃線になったらしい。ディーゼルカーもかしてつと同型で東急車輌製造の傑作車
ディーゼル車が保存されているのは、やはり地元民にとっても思い入れがあったからでしょうね。
熊谷市妻沼町といえば、欅坂46ゆいぽん(小林由依)の出身地です。
旧妻沼町で国道は407(入間市~足利市)が唯一。
1981年まで国道がなかったことになります
こんなところの出身者がいるとは…(^^;
もし小泉線と繋がってたら熊谷から太田、足利、伊勢崎方面へは随分、近道で東武の安い運賃で行けたんだよなぁ。高崎線で前橋経由で行くと、遠回りなことこの上ない。
今となっては厳しいですが、戦時中に完成していれば十分実現していたかもしれませんよね(^^;
大幡駅で乗車する場合は近くの売店(今は多分やってないかと…)で切符を買ってから乗車していたみたいですよ。
料金も子供50円大人100円とかなり安かったみたいです。
貴重な情報ありがとうございますm(_ _)m
鉄道のきっぷを近くのお店で売っていたとは驚きですね( ゚д゚)
熊谷線廃止直前に乗車しましたよ!
太田でも北部の方に住んでいるので、鉄道利用はJR両毛線や東武伊勢崎線で熊谷線は全く使わなかったです
お別れ乗車の時は自宅から原付バイクで1時間かけて妻沼駅まで行ったのが思い出です
今では高規格のバイパスが整備されて熊谷駅まで車で50分程で行けてしまいます
結局車のほうが今は便利になりましたよね(^^;
でも一番乗ってみたかったです(T_T)
熊谷〜上熊谷間と上熊谷〜石原間の一部は線路を剥がしてしまったんですね…。残念です…。
でめ線路が全て撤去じゃなくて良かったです!これからも残してほしいです。
僕がおすすめの廃線をおすすめします。
一番おすすめなのは碓氷峠です。信越本線の廃線跡です。
熊谷から近いのは深谷駅からの貨物線ですね。深谷駅、東京駅、碓氷峠、めがね橋のレンガを運んでいた貨物線です。
あと埼玉県ですと西武安比奈線です。前は休止線でしたが正式に廃線になりました。
王子駅からの貨物線、あと相鉄の廃線をリクエストでお願いします。
碓氷峠の廃線跡は確かに見ごたえありますね(^-^)
挙げていただいたところも行ってみたいです(^-^)/
遊歩道の入り口に2匹の「亀」の像が映っていましたね。当時(50年以上前)からあまりにも走行速度が遅いので「亀の子特急」「亀の子列車」と呼ばれていました。そして、熊谷線ではなく「妻沼線」という名前だった記憶があります。
通称妻沼線でしたね(^-^)
結構最近まで熊谷から暫く線路が残ってたんですが、撤去部分が広がってしまったんですね。
徐々に痕跡も少なくなってしまいますね(T_T)
昔熊谷住んでて配線後と知らずに通過してた場所ありました.籠原駅前も変わってきたし懐かしかったです
40年近く前ですからもはや何も知らないという人も多いでしょうね(^^;
地元民は妻沼線って呼んでる人が多かったです。
保育園の行事で一回乗っただけだったなあ
やはり妻沼線のほうが一般的だったようですね( ・ω・)
15年くらい前までは、川をつなぐ鉄橋や線路なども多数残っていましたね。
大幡児童館付近が駅だったみたいですね。
駅の痕跡も何か残っていると良かったですね( ・ω・)
気動車が保存されている展示館(中央公民館)辺りまでが東武鉄道の敷地だと思います。線路は車両基地がドラッグストアの辺りにありました。駅のホームはニュータウン入口バス停の南にありました。駅舎とロータリー?が少し西側だったと思います。中央公民館の交差点を太田方面に行く道路が利根川の河川敷までいってますけど大泉町仙石まで行く予定だった区間の線路の後ですね。線路を敷けば鉄道車両が走れるようになってました。廃止する前に撤去しましたけど利根川の部分にも熊谷線の橋脚ありました。廃止する7年前に利根川に行った時に並んでいたのを思い出します。未整備の区間の道路は12年前に一度見に行った時と同じですね。遊歩道までの区間で整備した道路も去年開通した第二北大通が完成しないと開通しないと住民の人に教えてもらいました
詳しい情報ありがとうございますm(_ _)m
駅のあたりはもう知っている人に聞くしかないという感じですね(^^;
@@railway1435 大幡駅があった場所に行った時に未整備だった区間の道路を見に行った時にたまたまお話を聞いた方が大幡駅の近くのお店で乗車券を委託販売していた女性の方の息子さんでした😅妻沼駅の駅前に自転車を駐輪する建物がありました。多分建物はまだ残ってますから聞けば詳しい方いると思いますけど…🤔
懐かしい❗
幼稚園~小学生低学年辺りによく乗ったなあ
その頃の東武車両の、床が木製の防腐剤たっぷりの油っぽい匂いとぬるぬるが大好きでした。あと排気?の匂いも大好きで、それが嗅ぎたくてよく伊勢崎線沿線の我が家から、わざわざ熊谷線まで乗りにいってました
排気の匂いですか( ゚д゚)
それは実際に嗅いだことないとわからないですけど、それが思いだせれば当時の様子も思い浮かびそうですね(^-^)
こうして廃線跡を辿ってみると歴史を感じ取れて良いですね。
10.7kmをずっと歩いていくのは大変だろうなと途中まで見て思っていましたがまさか途中で車に乗るとは!カーシェアでも利用されてのでしょうか?
廃線跡は短い路線ならまだ歩けるけど、やはり車があったほうがいいですね( ・ω・)
車は自分のです(^^;
私が中学1年のとき廃線となりましたが、当時先生と数名の友達で廃線記念プレートを付けた列車のビデオ撮影に行った記憶があります!
機材が先生の私物だったのか覚えてませんが、その映像がみたいと…懐かしくなりました!
廃線記念切符、木製箱入りで大切に保管してますよ🎵
記念きっぷがあるとはうらやましいですね!
小学生のとき、最終日に乗ったなぁ。実家に写真もある。
重なりますが、もし東上線・東松山から熊谷に支線ができて、
そのまま熊谷線を電化し利根川を渡って伊勢崎線太田駅まで繋がっていたら、
池袋発の特急(途中ふじみ野・川越・若葉・坂戸・東松山・熊谷に停車)なら
1時間半で行けたのかもしれません。
池袋から行けたら便利でしたよね( ・ω・)
おおー妻沼線の車両見れるんだー。営業廃止記念切符ひさしぶりに出して眺めました。
ちゃんと車両が保存されているというのはありがたいですね(^-^)
熊谷は、昨年11月に久しぶりに行って来ました!
と言っても、実際は川越から森林公園経由で熊谷から先羽生まで行く途中だったんですけど過去の熊谷とはかなり変わってしまいもう全く解らない場所に変わってしまいました!
ちなみに、過去はさいたま博で一度熊谷で降りてシャトルバスで往復して新幹線で都心へと帰ってしまい今度は熊谷もゆっくり行ってビバークにでも行ってお風呂入って泊まりたいと思います。
今回は、埼玉のいすゞ・日野の新型路線バス一挙捕獲と銘打ってまず、板橋の赤塚(板橋コミュバス)→川越で東武ウエストの川越観光周遊バスの撮影→森林公園で十王のラグビーワールドカップの撮影予定が失敗してしまいそのまま熊谷で撮影→熊谷で十王と朝日の車両を撮影して→秩父鉄道で羽生に移動して平成エンプラの撮影→秩父鉄道でお花畑→西武秩父→飯能→武蔵高萩と周り川越に戻って川越で1泊して翌朝は宿の送迎車や東武ウエストのラッピング車両の撮影→東上線で赤塚で前日のリベンジ→池袋でイケバスの撮影とモバイルバッテリーを購入して→埼京線で大宮で西武バスのラッピング車両撮影→アーバンパークで春日部→スイツリーラインのせんげん台で茨急バスの撮影→三郷中央で最後マイスカイ交通の車両を撮影して金町→浅草寿町までバスを乗り継ぎしてそこで夕食→地下鉄・東横線で帰宅して来ました!
その時は、熊谷線は完全に頭から抜けていて三郷中央→金町に向けて移動していたバスの中でふと自分も思い出しました。
なかなか予定ぎっしりの濃い旅行でしたね(^^;
熊谷から、妻沼まで、走っていた、鉄路すごいです。✨☺️🌠
今となっては知らない人も多いかもしれませんね( ・ω・)
展示館の受付に言えば、電車の鍵を出してくれて乗車することもできますよ
そうなんですね、せっかくなら見てみれば良かったですね。
前面2枚窓の湘南スタイルが流行していた時代ですね。
東武には非電化路線もあった、
東武はDCも所有していた、
····というのも興味深いですね。
確かに東武の中でも異質な路線だったかもしれません( ・ω・)
わーい超地元の妻沼だ\(^o^)/
ニュータウン入口のバス停は、妻沼線廃止直後は「妻沼」というバス停でした。ここが駅だったので終点になっていたけど、駅跡の北側に住宅が増えて、そこにバスを通す為に終点が北へ移り、その時にバス停名も変更されました。
いきたんさんが車で走った区間は、廃止後割とすぐに道路が整備され地元では緑道と呼ばれ親しまれてます。
熊谷駅のホームは5番線を妻沼線が使用してましたね。かなり曖昧な記憶だけど、5番線は真ん中で線路が分断されて、秩父線と妻沼線で半分ずつ使用していたような…
最終営業日の5月31日に乗りましたが、2両編成のカメ号が超満員でした🐢終戦前に工事が進んで西小泉と繋がっていたら、今頃はどうなっていたのでしょうね?それでも存続は難しかったような気もします。
緑道はネズミ捕りをやってる事もあります、通る方はスピードの出し過ぎにご注意を!
大変詳しい解説ありがとうございますm(_ _)m
最終日に乗れたとはうらやましいです(^-^)
秩父鉄道と真ん中でホームが分断されていたというのは自分もどこかで見た気がします。
緑道は確かに見通しいいのでスピード出ちゃいますね(^^;
私も最終日に乗ってました!(小学生でしたが)
そして、熊谷駅の5番線は羽生方面の秩父鉄道と分けていたような記憶があります。
前行きました!
しかもラッキーな事にリゾートやまどりを見ました!
高崎線は結構いろんな列車が通りますからね( ・ω・)
国道17号とのクロスはガーター橋で超えていました
秩父鉄道から離れてから築堤に上がり、高崎線と17号を超えて熊農(熊谷農業高校の地元呼び)の実習地の辺りで地平に降りてました
ガーター橋は90年代まで残ってましたよ
大幡駅は大幡駅はこの辺りと紹介されていた場面で遠くに道路橋が写ってますが、その道路橋の手前にありました
木造の今にも倒れそうなボロ駅舎がありましたね
砂利道はもう数十年あのままです
熊谷市民もいつ整備するのか分からないです
妻沼駅はバス停の所です
片面ホームだけで、ホームから離れた場所に木造駅舎がありました
すぐ奥に機関区もありましたね
以上元熊谷市民からの情報です
熊農といえば、命で有名なお笑いコンビTのボケMの母校ですね(相方Yは京都市出身)
詳しい情報ありがとうございますm(_ _)m
ガーター橋の部分などはよくわからなかったので納得できました(^-^)
本来のルートは高崎線と秩父鉄道を築堤で超える予定だったので、新幹線との間の用地は本来の熊谷線のものです
造り始めたはいいが、途中で予算が尽きたので秩父鉄道の複線用地に乗り入れる形にしたそうです
予定では小泉線と接続して、熊谷からさらに南へ延伸して東上線の東松山と接続する計画でした
熊谷線の廃止以後も埼群新線として開業しようという動きもありましたが、路線は作れても採算が取れないということで休止状態だそうです
詳しい解説ありがとうございますm(_ _)m
やはり需要がそこまで見込めなかったというのが結局は大きかったんでしょうね( ・ω・)
地元にこんな路線があったなんて…驚きです!
約40年前の話なので無理もありません。
春には、廃線跡の所を歩くと桜?が見れそうですね!
廃線遊歩道の横から高崎線とかが見れていいですね笑
東武熊川線が廃止されなかったら今の通りとかはまた変わって居たのでしょうか?
遊歩道は結構使っている人多かったので市民の方々にとっては便利なのかもしれません(^-^)
廃線間際の熊谷駅に停まっているキハ2000型と妻沼駅の写真持ってます。
今年は3月から6月の間に西小泉駅から妻沼駅のあった辺りを3回ほど行って写真を撮って来ました。
妻沼展示館にも行って色々な話を聞けたのがとても良かったですよ、少し離れたところには渡し舟が今でも有ります。
妻沼展示館の近くに在る国宝聖天山の入り口にある聖天寿しのいなり寿司が有名なので買って帰りました
妻沼展示館にも入りたかったですが、撮影時はやってなかったので、またリベンジしたいです!
他の方のコメントにも有りましたが、利根川渡る橋梁と東武小泉線と繋がり電化されていたら、今でも残っていたかも知れませんね。
東武東上線と越生線と同じ孤立路線でしたが、やはり非電化だったから、採算とかも有り廃止されたのかも知れませんし。
非電化というのが意外とネックだったのかもしれませんね( ・ω・)
@@railway1435
まあ、戦時中に軍事工場に人を運ぶ為に急遽造られた路線で、これも他の方のコメントに書かれてましたが、やはり熊谷から旧国鉄に乗客取られるの嫌がった東武鉄道の思惑も、やはり有りそうな感じだから、非電化だったのかも知れませんね。
後、逆に熊谷から東上線に繋げてたら、どうなっていたでしょうかね。
幼少の頃立川に住んでいて、祖母の家が熊谷駅寄りの現在はアンダーパスになっている踏切近くにありました。
電車が好きで日常的に101/103系やEF15や58、セメントのホッパー車を見ていましたが、熊谷の祖母の家に行った時も毎回「恐怖の踏切」(現在よりも車や人が圧倒的に多く時間内に渡りきれない)で電車を見に行ってました。
その中で、小さく、遅く、冴えないクリーム色で、めったに来ないキハ2000の違和感は強烈に覚えていますよ。
ま・・小学校に上がると同時に "冴えないクリーム色" ばかりで、大半が単線で吊掛け非冷房の巣窟に引っ越すわけですけどねw
吊り掛けとかはボロく感じるけどなんか懐かしいんですよね(^^;
中島飛行機は後のスバルだったんですね初めて知りました
そうなんです、だいぶ昔なので歴史を感じますよね。
上熊谷駅周辺の廃線はつい数年前まで線路が残っていたと記憶しているのですが、現在は剥がされてしまったんですね
跡が残っているということは線路が剥がされたのはそんなに昔ではないのかと思います( ・ω・)
航空写真だと、妻沼の先まで廃線跡があるように見えるのは、そういう理由だったのか
確かに航空写真は廃線跡を見つけるには最適ですね(^-^)
太田ー熊谷ー森林公園(東松山)って今からでも結べないものかな?
仮にLRTだとしても、バスよりは輸送力や安全性、定時性に勝りますよね。
まぁ、東武鉄道の体質的にも難しいでしょうが…。
結局バスのほうが導入コストは安いのでそちらになってしまうんでしょうね(^^;
今はどうかわかりませんが計画はおよそ10年前まではあったと記憶していますが熊谷駅経由にならないことや国道407号線及び太田熊谷県道の混雑で見送りになったんだと思います。
仮にもし開通していれば、そのまま東上線副都心線東横線みなとみらい線経由で、
いっきに太田から横浜、元町中華街まで行けるダイヤもあったかもしれないですね…
でも、バスになっちゃいましたねw
いや、まだ消えていないです。消えてはいないですが実現性は?ですね。
太田も人口減り始めてますから、難しいよね
私は、鉄キチでは、ないのですが知っていました。友達(鉄キチ)に廃線に成った熊谷線の事を聞いたら不思議な顔をされた記憶が有ります。JTBから出版されていた廃線や未成線の本に詳しく記載されていて驚きました。
自分もある程度は知っていましたが、実際に行ってみるといろんなことが感じとれてなかなか楽しかったです(^-^)
地元へいらっしゃいませ!
熊谷線あれば便利だったと思うんですよね...
通っている場所は微妙でしたが、妻沼まで行けるのは便利だったかと思います( ・ω・)
この路線は、確か当時の中島飛行機✈️太田工場🏭が関係しているんですよね、現在は、富士🗻重工業群馬製作所(太田本工場、小泉工場)になっています、
太田周辺にいくつか工場がありますよね(^-^)
中島知久平氏ですね
本当はもっと町を経由して路線をひく計画だったけど戦争の煽りをうけて直線中心の郊外を走る路線となったすこしかわいそうな東武最後の非電化路線ですね
東武最後どころか大手私鉄の非電化路線はもうないかも、確か名鉄が最後だったような。
非電化だったというのも地味にネックになった部分かもしれませんね( ・ω・)
動画には写ってないのですが、カスミの少し南側にホーム跡っぽい盛り土があって、そこが旧妻沼駅です。(工事で分かりにくくなってしまったかも)
そうなんですね、もっと南でしたか(^^;
情報ありがとうございますm(_ _)m
@@railway1435 動画の13:07に工事で黄緑色の囲いみたいな物が映ってますが、その奥辺りです。この道路は東武鉄道の用地で、どの民家も玄関が道路に面していないのがその証拠になります。また訪れてみてください。
東武って面白い鉄道会社ですよね。昔、東上線と伊勢崎線をつなげる計画があったのですが何故かなくなり結局東上線だけが孤立する結果になりましたから
西新井駅から上板橋駅を繋ぐ計画があったようですね。
もしつながっていたら東武東上線の車両を本線に回送する時、 (南栗橋など)
秩父鉄道を経由しないで上板橋〜西新井間で回送できたかもしれません。
鉄道の歴史もよく研究してみるといろんな計画があったりして面白いですよね(^-^)
@@鉄道マニアチャンネル その跡が東武大師線だったはず…
東上線って名前なのに
群馬まで行かないんだよね。
東武熊谷線(妻沼線)が廃線になってから今年で40年になりました。
新作グッズが新発売されたようです。ちなみに廃線40年のグッズも
発売したようです。
そのグッズを今年の秩父鉄道ワクワク鉄道フェスタで売っていたようです。4年ぶりに
広瀬川原車両基地で行われました。
そうだったんですね!
秩父鉄道のワクワクフェスタ行ってみればよかった(^^;
東武が東松山、森林公園から熊谷経由で妻沼、太田まで開通して、複線電化していれば、太田から熊谷経由で東上線の池袋まで直通運転していたかも?直通電車は快速急行で運転していたかもしれない?
つながっていれば多少は便利だったという気はします(・ω・)
東武熊谷線は秩父鉄道ホームの北側に2両分のスペースを継ぎ足してそこから発着。
キハ2000系の2両で熊谷↔️妻沼を往復してました。
短い路線だったけど、見通しが良く15分程の乗車もなんか旅情を感じさせてくれた。
窓を全開して乗れた☺️
太田まで開通してたら今存続してたか?
それでも厳しいかも^^;
バスの方が便利になっているし。
廃線探訪、お疲れ様でした♪(^^)
東武熊谷線は一度乗ってみたい路線でしたが、このように廃線跡を歩くのもなかなか楽しかったです(^-^)
遊歩道も群馬県側の公園も「これ跡地だよな」と疑問はあったものの調べるには至らず(横着者です)
この動画ですべて納得することができました。
廃線跡は見つけると結構面白いですよね(^-^)
小泉線と繋げられたら良かったですね!
埼玉と群馬を跨げば便利だった筈
そうですね、つながって欲しかったですね(T_T)
東海道線の下り電車に乗っていると、
鴨宮駅の手前から左側に明らかな怪しげな貨物線らしき線路が併走してきます
線路も残っていて、それは鴨宮駅を過ぎて小田原駅手前まで残っています。
東海道線の下をくぐって山側に向かってるような遺構もありました。
ここを通るたびに気になっていて、じっと見ちゃいます。
ぜひ調査をお願いしたいです!
そんな貨物線跡?みたいのもあるんですね!
ちょっと遠いからなかなか行けないけど調べてみます。
昔、大泉や妻沼で仕事してました
二つの町が繋がっていればなーと今でも思います
そうですね、つながっていたら絶対乗ってましたね(^^;
廃線跡のリクエストとして
三島駅の東レとの工場線はいかがですか?
リクエストありがとうございますm(_ _)m
廃線跡についても今後の参考にさせていただきます(^-^)/
埼玉北部住みだけど知らなかった
あとで見に行ってみようかな
かめのみちは散策もできるのでオススメです(^-^)/
これからはうp主さんの名前も変更ですね
はいたん/廃線探訪チャンネル()
ネタがそこまでないからなぁ(^^;
www
他にも
都心部の廃線は、ピーチライナーとか、山間部の廃線は、夕張線や三江線、代替路線建設での廃線は、学研都市線京橋ー片町間や筑肥線姪浜ー博多間
などがありますね。
廃線危機としては、神鉄粟生線、近江鉄道、南海汐見橋線などもある。
根室本線(富良野~狩勝信号所)、日高本線、予土線も
廃線になっただけあって行くのが大変なところが多いんですよね(^^;
こんにちは、東武熊谷線は乗りたい路線でしたが以外とあっさり廃止しましたね、新幹線工事の影響もあったんですね、もしも川を越えていたらまだ存続していたでしょうかね、あの気動車に乗って見たかったです。
自分も乗ったことはないので一度は乗ってみたかったですね(T_T)
Yahoo!地図で見ると、高崎線を越えた辺りから妻沼方面へほぼ一直線に続いてるのが見て解りますね。
妻沼から西小泉まで開通していたら、利便性も又変ったのでは無いでしょうか。
地図を見るとどういうルートだったのかがよくわかりますよね(^-^)
熊谷というと去年のラグビーワールドカップで盛り上がったところだけど、現在ではコロナの影響か?なんか人通りが全体的にひっそりとしてた感じがある。
熊谷も結局は学生の街なので平日のほうが賑わいありますね(^^;
数年前まで熊谷に通っていましたが、普段は閑散としてますよ。土日ですら人は多くないです。
いつもこんな感じですよ
車の街なんで、東京さいくだの時だけ
貴重な映像有難うございます。皆さん仰る通りJR線と伊勢崎・小泉線が接続すれば、東京方面行きが便利になったかも知れません。そもそも地理的要因として隣町に
別路線があるのに接続していないと言うのはかなり不便です。JR桐生から新桐生でりょうもう号を利用している人も多いから桐生線も間接的に助かったはずです。
それと個人的に東武で東京方面へ行く人が減って困るという人がいますが、私はそうは思いませんね。何故なら久喜からJR利用すると料金が400円近く高いし、驚くほど
早く到着と言う時間差ではない。それにむしろ貨物線も利用する場合には熊谷線は便利だったのでは?他にも東武鉄道借宿線や徳川河岸線等も見たいです
ここの歴史はなかなか面白いので勉強してみるのも良さそうですね(^-^)
結局、利根川を越えられなかったんだ!あちこちにその遺構が今も残っているけど、今の多くの人は気が付かないかもしれない。東武では唯一の気動車での運転だった。当時全部白い色の気動車は国内ではここしかなかった。一度走っているのを見たことがある。確か1両(単行)か2両くらいでゆっくりと走っていた。夏、人のいない終点の妻沼では時が止まっていた。将来電化されて、利根川の北側とも接続されるのかな?と思っていたら廃止されてしまった。今は国道407号などの高規格の道路がその代わりを担っている。過行く時の流れを感じる。
熊谷付近は結構遺構も残っているけど、妻沼付近はだいぶ見当たらなくなりましたね。
初めまして。秩父街道と国道17号の場所は、踏切ではなく、上に鉄橋が掛かっていました。熊谷市在住なのでよく知ってます。
情報ありがとうございます(^^)
立体交差で越えていたんですね!
自動車運転シーン珍しいですね。
運転動画も需要あるかな?(^^;
上熊谷のところは去年剥がされましたね… ずっと残ってくもんだと思ってたので残念です。
わりと最近まで残っていたんですね。
その頃にレポすれば良かった(^^;
なんと?!👀
まだレールの一部が残っていたとは!😲
ただ撤去されてしまったところもあるようです。
@@railway1435 様、
返信ありがとうございます。
1年の間に、変わってしまったところもあるのですね。😓
全長約10Kmを約30分(だったかな?)かけて走ってた事で、特急かめ号の愛称が付けられてたとか。
ちなみに・・・
元妻沼駅跡は、以前はブナの木が立ってたけど何故だか撤去されたが故に、今は探し難くなってます。
何か駅の跡を残して欲しかったですが、車両が保存されていたのは良かったかと思います(^-^)
足跡の音がいいっすね(路線関係ない)
静かすぎて足音が目立ってしまうという…(^^;
深谷にも日本煉瓦製造のレンガ輸送専用鉄道の廃線跡を遊歩道にした「あかね通り」てのがありますな。過日、レンタサイクルで巡りました。
ところで割と周知かとは思いますが埼玉県民以外の方に一言。「妻沼」は「めぬま」と読みます。
ついでに、東武熊谷線および特急かめ号の歴史については「迷列車列車(秩父の人)」によって採り上げられニコ動に上げられてます(「迷列車で行こう 秩父鉄道編 Vol.26 カメの歩いた10.1km(前・後)」(www.nicovideo.jp/watch/sm18562496、www.nicovideo.jp/watch/sm18754955)。すでにご覧の方も多いとは思いますが、一応紹介しておきます。
おっと失礼、リンクしくじりました。
前編:www.nicovideo.jp/watch/sm18562496
後編:www.nicovideo.jp/watch/sm18754955
です。
ありがとうございますm(_ _)m
ニコ動のもなかなか面白いですね( ・∀・)
地理的に群馬県民も妻沼は読めるはずですよ
西小泉までつながっていたら、邑楽郡周辺から都心まで通勤してる人がたくさんいて、郡ではなく市になっていたかもですね。
ただ、東武伊勢崎線や特急りょうもう号がどうなっていたか。
つながっていたらと想像を巡らせるのが楽しいですよね(^-^)
廃線跡地は現在もすべて東武鉄道が所有しています。
それを自治体に貸し出し道路や遊歩道に使われているのです。
なぜならいずれ再び鉄道を敷くかもしれないから。
なのでこの道路、地元では緑道(りょくどう)と呼ばれていますが
ここから直接敷地に出入り出来ない作りになっていると東武博物館で訊いてきました。
妻沼駅跡の東側にある妻沼ニュータウンの分譲住宅に住む知人が
購入の際に、開発した東武不動産の営業マンから
「あと10年もすれば鉄道が敷かれる予定」などと言われたそう。
それから20年以上経つが未だその兆しすら感じられませんが、ただの疑似餌として所有されてるのかもしれません。
確かに言われてみれば緑道から直接出入りできるところはなかった気がします。
詳しい情報ありがとうございますm(_ _)m
9:00の辺りは コメントの踏み切りって書いてあったけどこの辺りは築堤で高架でした 高崎線と国道17号は高架で跨いて居ました
踏切だと渋滞してしまうので高架だったみたいですね。
確か保存中のキハは最初野外展示だったのを、
後で車両を覆う形に建物作って、屋根とホームを設置したんだよね。
そのおかげで保存状態もよくなりましたね(^^)
その反対側、太田~熊谷までを結ぶ線路の太田側も遊歩道として残ってます。確か利根川の手前には鉄橋の足みたいのもあった気がします。「多分ですけど」西小泉から伸びてます。調べれば多分出ますよ!
西小泉からずっと遊歩道が続いているんですよね(^-^)
埼群軌道新線として復活するという話を聞いたことがあります。軌道じゃなくて普通規格で建設しても良さそうな気がします。東武が建設するとなら念願の東上線接続になりますね。
妻沼線時代も1両とかで運行していたので、現状ではバスで十分な気がします。
最後の運行の日チャリこいで熊谷駅まで行ってさようなら熊谷線の看板かけた電車に乗りました。大勢の客がいましたよ最後の日
妻沼線乗ってみたかったですね。
一昨年まで太田在住…
熊谷までの朝日バスは
利用した事があるが…
妻沼~熊谷は通勤通学は
利用がある
もし熊谷まで路線があれば
太田から快速ぐらいの
運転はやるかも知れない
太田からだと都内は熊谷経由は
便利…
まあ今ならバスが代わりになっているということでしょうか( ・ω・)
@@railway1435
もし…小泉とつながっていたら
それなりに需要はあるかもって
事です。太田~熊谷の快速ぐらい
はやりそうな…😅
宅地開発もやればね😄
軍需路線として建設されたのがその後の運命を決定付けて40年近くの短命にとどまってしまいました。そうでなければ太田方面への延伸と電化は手が届きそうだったし、また、東上線東松山から分岐して熊谷線と接続させて伊勢崎・東上線系統と一体化の可能性も生じますが元々輸送人員は僅少なところ、なにせ熊谷では秩父鉄道線と共用していましたし、その後の上越新幹線建設に伴い、始末のつかない熊谷線は結局廃線を余儀なくされる事になったのでしょう。
本当は妻沼の人口がもっと増えることを見込んでいたのでしょうが、そこまでではなかったということですね。
非電化路線を走る列車の運転士には、電車の運転免許とは別にディーゼル機関車の運転免許が必要だったみたいですね。もし東武熊谷線が会津鉄道の開業まで残っていたら、東武-野岩-会津の3社直通運転が、もっと盛んに行われていたかもしれません。
免許が違うというのも路線継続のネックになった部分かもしれませんね( ・ω・)
現役時代の熊谷線にのりました。全部で車両が3両しかなかったので。朝夕はそのうち二両を連結して妻沼女子高校の生徒運んでました。上熊谷で到着を待っていたら。熊谷線の車両が見えてきて、そのあとに秩父鉄道、さらみは国鉄ボンネンットあさま号が走ってきて
上熊谷までに両方に抜かれて、最後に到着。ほほえましい場面でした( ^∀^ )ニコニコ
当時の場面が思い浮かぶのはいいですね(^^)
私が深谷の会社に入社した1982年は、まだ走ってたのですね
特にどこかへ接続しているわけでもないので、沿線民しか使っていなかったと思います。
なので貴重な鉄道遺産かと思います。
上熊谷駅の傍にある「秩父鉄道の車輌を使った店舗」ば飲食店でBARの様ですよ。
あれは気になりましたね。
@@railway1435
そうですか😅
生まれも育ちも「スバルの街」なので、周辺地域の情報収集を行っていますが、この店を発見したのは数年前?だったと思います😥
JR熊谷駅周辺・東武熊谷線の調査を本格的に始めた時に見付けました😙
飲食が好きで「飲み屋さん巡りも好き」なので見付けました😁
地元企業の八木橋百貨店・イオン熊谷店も近いので、コロナ渦の前は買い物で来た方も利用していたんじゃないですかね?😥
地元です!懐かしい!自分が中学生の頃廃線になり小学生の頃よく利用しました!今では地元も余所からの人が多くなりこの電車に乗った事ある人も少なくなりました!寂しい限りです(T_T)
確かに乗ったことがあるという人は少ないかもしれませんね( ・ω・)
新情報です😃w
妻沼駅跡の証拠となる物がありました。
伐採されたブナの樹の跡・・つまり、切りかぶを5つ(6つだったかな?)確認しました。
これは、たまたま農作業してた地元民に話を聞けたんで、間違いないです。
道を挟んだ向かい合いに堀歯科医院と、すぐ脇に工事中の建築現場もあります(先月4月現在)
ちなみに、ブナの樹が伐採されたのは2016年だそうです。
切らないで欲しかったな・・・🤔
そうなんですか、きちんと跡として残っているものがないと、地元の人に聞くのが一番かもしれませんね(^-^)