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今日もご講義ありがとうございました。言葉の乱れは思想の乱れ。日常から言葉遣いに気をつけたいと思います。
今日もありがとうございます🙇
こんばんは。今日も、ありがとうございます。👨👦👴👵👩👧🤱👨🍼👩🍼
今日も大変,学びになりました。尊い、ご説法ありがとうございました。
今回、先生に浄土真宗で使わない言葉を、教えて頂きとても有り難いです。勉強に成ります。これからも教えて下さい。楽しみです。
眠るように死んだとか安らかな死に顔だったから極楽に行けるということではないんですね.僕も死んだ形相がえぐいからと言って地獄へ落ちたんだということはおかしなことだと思っていました.親鸞聖人の教えをまた一つ学んでよかったです.菊谷先生、今日も大事な教えをありがとうございました.
仏教の基本の教えは、仏になるため教えであり、「仏性」と言う種があるから、「仏」と言う花が咲き、花を咲かせる為には、水や日光を与え(修行)なさいと言う縁起の理法そのもの。種がなければ花は咲かない。「功徳を積む」というのは、平たく言えばお布施の勧めで、仏の教えを支える尊い行為であり、在家にとっては善行をなすチャンスであり、最大の善因善果をもたらすもののひとつである。宗教の使命は「魂」の救済であり、生きている人には教えを説き、死んだ人には、祈願や祈りを通じて「回向」を手向けるという修法がある。これは、宗派に関係なく、お釈迦様の大切な教えである。
ありがとうございました親鸞聖人の事を考えてしまいます親鸞聖人はいったいどれくらいの疑問をもたれ自分の生き方で自分のお考えを実戦されたのだろうと親鸞聖人はその時代の常識を破壊した異端児扱いだったはずでその生き方に人間としての興味を感じます親鸞聖人は自らの生き方で時代を超え現代社会の私達を助ける生き方を実戦され私達は修行しなくならないという強迫観念を消していただいと思っています修行しなくいいは悪行していいどはなくやはり人としての良心は育まなければならないと感じました今日のお話しは言葉使いの学びも含めていくつかの疑問がなくなりましたありがとうございました
先生の動画を拝見する度に 浄土真宗が現代にあったスマートな教えであると思います 自然体で受け入れられる教えです たまたま実家が浄土真宗でした もっと勉強したいと思います
言葉を通してこれは合ってる間違ってると論ずること自体、ナンセンスですね。仏教の目的は最終的には言葉を越えた悟りです。日本の仏教は宗派にこだわり、宗祖をあおぐばかりで、言ってることがちぐはぐで同じ方向を向いていないから、疑いが生じ離れていくのです。戦後、宗教法人制になってその傾向がより顕著になりました。分別的な執着は退廃を生じさせます。自力も他力も仏説である以上、これらをしっかり伝え、本師は釈迦牟尼仏ただ一人という共通認識の上に、改めて纏まることが仏教界には求められます。
「功徳を積む」事は普通に仏教でも使う言葉ですが、それを否定するんですね。阿弥陀如来の誓願の十九番で善行を勧めていたと思うのですが、それを無視するという事ですね。煩悩は「喜怒哀楽」を作り、「諸行無常」を認めさせられるから「功徳を積む事」も「諸行無常」の中に入れてしまったのかな、残念な事ですね。「信心獲得」されていない事が解ってしまいますね、それともその程度で「悟った」とか「仏になった」と言えるのかな。親鸞上人は「自戒」し続けて浄土宗の教えを追求した人だと思っていますが、「自戒」の言葉が出てこなかった事は残念です。「功徳を積む事」は「諸行無常」に入りません、煩悩の生み出した「判断」や「意業」「口業」「行業」が諸行無常であるとお釈迦様は説いているようです。煩悩が判断して「功徳を積む事」は出来ないと親鸞上人は認識していたので、「功徳を積む事」を否定していたわけではない。どうすれば「功徳を積む事」が出来るのかは、煩悩は「喜怒哀楽」を生み出すという事が認識出来れば「功徳を積む事」が出来るようになります。「善行」する時、した時に「喜怒哀楽」が生まれれば「諸行無常」になります。「助けたのに」「信じていたのに」「仲間だと思っていたのに」などの後悔の言葉、裏切られた怒りが少なからず湧いてきます。全て煩悩の判断で作られた「業」ですから「因果応報」が働いて「後生の一大事」になります。親鸞上人が使わなかった「幸福」を何故使うのか、阿弥陀如来の誓願にも入っていないものが使われる不思議な講義ですね。
これを聞いて母を亡くした自分は心をを切り替えることができるだろうか今日もありがとうございます🙇
日蓮宗、曹洞宗など多くの宗派がある。全ての宗派は正しいと思う。
すみません、内容とは全然関係ないんですけど、私は、今はハートマークを貰うよりも、高評価を貰う方が、すごく簡単だと思います。お手数をおかけしますが、宜しくお願い致します。
あなたのコメントを読んでいたら、つまらない事で、怒ったり悩んでいる自分が、アホらしくなってきました。ありがとう御座います。🙂
「平生業成」を説くのは、浄土真宗しかありませんよね。「真なるものは 甚だ以て難く、実なる物は 甚だ以て稀なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し…」真宗の真宗たる『唯信獨達の法門』を発揮して、今の本願寺を復興して頂きたい。
死んだら永遠の眠りにつく無の世界だったら、各仏教の教えって何なんだろうね。
最近になって流行り出した「一粒万倍日」。良い行いをすれば良い結果が万倍になって返ってくるけど悪いことも万倍になって返ってくるとかいうの、そんなの一粒万倍日に限らず毎日のことだろとは思っていました笑
今日もご講義ありがとうございました。
言葉の乱れは思想の乱れ。
日常から言葉遣いに気をつけたいと思います。
今日もありがとうございます🙇
こんばんは。今日も、ありがとうございます。👨👦👴👵👩👧🤱👨🍼👩🍼
今日も大変,学びになりました。尊い、ご説法ありがとうございました。
今回、先生に浄土真宗で使わない言葉を、教えて頂きとても有り難いです。勉強に成ります。これからも教えて下さい。楽しみです。
眠るように死んだとか安らかな死に顔だったから極楽に行けるということではないんですね.僕も死んだ形相がえぐいからと言って地獄へ落ちたんだということはおかしなことだと思っていました.親鸞聖人の教えをまた一つ学んでよかったです.菊谷先生、今日も大事な教えをありがとうございました.
仏教の基本の教えは、仏になるため教えであり、「仏性」と言う種があるから、「仏」と言う花が咲き、花を咲かせる為には、水や日光を与え(修行)なさいと言う縁起の理法そのもの。種がなければ花は咲かない。
「功徳を積む」というのは、平たく言えばお布施の勧めで、仏の教えを支える尊い行為であり、在家にとっては善行をなすチャンスであり、最大の善因善果をもたらすもののひとつである。
宗教の使命は「魂」の救済であり、生きている人には教えを説き、死んだ人には、祈願や祈りを通じて「回向」を手向けるという修法がある。
これは、宗派に関係なく、お釈迦様の大切な教えである。
ありがとうございました
親鸞聖人の事を考えてしまいます
親鸞聖人はいったいどれくらいの疑問をもたれ自分の生き方で自分のお考えを実戦されたのだろうと
親鸞聖人はその時代の常識を破壊した異端児扱いだったはずでその生き方に人間としての興味を感じます
親鸞聖人は自らの生き方で時代を超え現代社会の私達を助ける生き方を実戦され私達は修行しなくならないという強迫観念を消していただいと思っています
修行しなくいいは悪行していいどはなくやはり人としての良心は育まなければならないと感じました
今日のお話しは言葉使いの学びも含めていくつかの疑問がなくなりました
ありがとうございました
先生の動画を拝見する度に 浄土真宗が現代にあったスマートな教えであると思います 自然体で受け入れられる教えです たまたま実家が浄土真宗でした もっと勉強したいと思います
言葉を通してこれは合ってる間違ってると論ずること自体、ナンセンスですね。仏教の目的は最終的には言葉を越えた悟りです。
日本の仏教は宗派にこだわり、宗祖をあおぐばかりで、言ってることがちぐはぐで同じ方向を向いていないから、疑いが生じ離れていくのです。
戦後、宗教法人制になってその傾向がより顕著になりました。
分別的な執着は退廃を生じさせます。
自力も他力も仏説である以上、これらをしっかり伝え、本師は釈迦牟尼仏ただ一人という共通認識の上に、改めて纏まることが仏教界には求められます。
「功徳を積む」事は普通に仏教でも使う言葉ですが、それを否定するんですね。
阿弥陀如来の誓願の十九番で善行を勧めていたと思うのですが、それを無視するという事ですね。
煩悩は「喜怒哀楽」を作り、「諸行無常」を認めさせられるから「功徳を積む事」も「諸行無常」の中に入れてしまったのかな、残念な事ですね。
「信心獲得」されていない事が解ってしまいますね、それともその程度で「悟った」とか「仏になった」と言えるのかな。
親鸞上人は「自戒」し続けて浄土宗の教えを追求した人だと思っていますが、「自戒」の言葉が出てこなかった事は残念です。
「功徳を積む事」は「諸行無常」に入りません、煩悩の生み出した「判断」や「意業」「口業」「行業」が諸行無常であるとお釈迦様は説いているようです。
煩悩が判断して「功徳を積む事」は出来ないと親鸞上人は認識していたので、「功徳を積む事」を否定していたわけではない。
どうすれば「功徳を積む事」が出来るのかは、煩悩は「喜怒哀楽」を生み出すという事が認識出来れば「功徳を積む事」が出来るようになります。
「善行」する時、した時に「喜怒哀楽」が生まれれば「諸行無常」になります。
「助けたのに」「信じていたのに」「仲間だと思っていたのに」などの後悔の言葉、裏切られた怒りが少なからず湧いてきます。
全て煩悩の判断で作られた「業」ですから「因果応報」が働いて「後生の一大事」になります。
親鸞上人が使わなかった「幸福」を何故使うのか、阿弥陀如来の誓願にも入っていないものが使われる不思議な講義ですね。
これを聞いて母を亡くした自分は心をを切り替えることができるだろうか
今日もありがとうございます🙇
日蓮宗、曹洞宗など多くの宗派がある。全ての宗派は正しいと思う。
すみません、内容とは全然関係ないんですけど、私は、今はハートマークを貰うよりも、高評価を貰う方が、すごく簡単だと思います。お手数をおかけしますが、宜しくお願い致します。
あなたのコメントを読んでいたら、つまらない事で、怒ったり悩んでいる自分が、アホらしくなってきました。
ありがとう御座います。🙂
「平生業成」を説くのは、浄土真宗しかありませんよね。「真なるものは 甚だ以て難く、実なる物は 甚だ以て稀なり、偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し…」真宗の真宗たる『唯信獨達の法門』を発揮して、今の本願寺を復興して頂きたい。
死んだら永遠の眠りにつく無の世界だったら、各仏教の教えって何なんだろうね。
最近になって流行り出した「一粒万倍日」。良い行いをすれば良い結果が万倍になって返ってくるけど悪いことも万倍になって返ってくるとかいうの、そんなの一粒万倍日に限らず毎日のことだろとは思っていました笑