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昭和五十年代中百舌鳥の二軍の秀鷹寮で仕事してましたが、たしかにボロボロでした。
漫画あぶさんの功績は計り知れない。昭和のパリーグの野球しるオールドファンにとっては、故水島先生はヒーローです。あの漫画のお陰でパリーグの良さがコアな野球ファンの間で知られる様になった。その水島先生が自腹でホークスの選手に賞金を出していたとは。。。。
軟式の少年野球の大会も大阪球場でやりましたグランドは堅いですが、土は黒く細かく子供心に本格的だなあと感動しました
西武全盛期の子供時代、周囲が巨人ファンと西武ファンで二分されてた時、自分は一人南海ファンでした。球団が無くなり、九州に移転しそれでも強くならないホークス、南海時代から20年近く応援し続けダイエーホークス優勝の時は号泣しましたよ。やべー涙があふれるわw
南海の緑ユニは昔も今もカッコいいと思っているんですが…w現在のSBがたまに着用してくれるのは何よりです。
緑ユニ自分もかっこいいと思ってますw
王さんが意外に似合ってましたね。
今年あったけ復刻ユニホーム
南海と西鉄のユニフォームはパ・リーグ史上に残るベストデザイン。
当時、小学生だったが、哀愁という感情を初めて覚えたのが南海の深緑である、と言っても過言ではない。
鶴岡監督や当時の南海の選手が今のソフトバンクホークスの贅沢さと練習環境の良さ、高レベルの育成選手などの指導を見たらどんな顔をするのだろう。
場所柄怖い人もたくさん来ていましたが南海ファン同士みんな優しかった
南海時代はスパイクがホーム・ビジター関係無く統一。福岡ダイエーになってからはスパイクがホーム・ビジターで異なるので選手達が間違わない様に連絡徹底をマネージャーに頼んだと杉浦監督が後年語っていました。
昔はスパイクはホーム・ビジター関係なく統一という球団ほとんどだったような。阪神が日本一になったあと低迷しましたが、村山実が2度目の監督になってからホームは白、ビジターは黒と分けていたスパイクを「黒はあまり縁起よくない」ということでビジターも白に統一しました。そして野村克也が阪神の監督2年目で帽子が縦じまから黒一色にしたのと同時にホーム・ビジターとも黒のスパイクに変更されました。
南海のユニフォーム個人的に日本球界史上1番好きです
王球団会長も、南海の復刻ユニフォームで指揮した時、良いとおっしゃってました。
巨人ファンですが、南海のモスグリーンのユニフォームはかっこいいと思ってました。南海がダイエーに球団を売却する際、条件に出したのが、ホークスの名前を残すこと、杉浦監督の留任、そして選手の待遇改善でした。
自分が小学生の頃、70年代から80年代にラジオで野球中継を聴いていたけど、関東キー局は圧倒的にジャイアンツ戦に傾いていたから、パ・リーグの試合はどんなものかとチューナーを合わせて、南海の試合を雑音混じりの中で聴いていたことがある☺️選手の顔も名前もほとんどわからず、トランペットや応援歌など全く聴こえない静かな球場😲それでも、門田のバッティングをラジオとはいえ感じることが出来たのはいい思い出です😊
週末になると大阪球場に向かってかなりの人が集まる。それは外野スタンド下のJRAの場外馬券売り場に向かうおっちゃん達。「今日の南海、試合やっとるんか。」の声が空しかった。
以前、加藤伸一さんの東スポのコラムでも同じ事が載っていました。
0:56 は良い写真ですね!あぶさん連載開始の頃が想い出されます。コミックス20巻?ぐらいのサチ子とあぶさんの結婚までは本当に面白かった。当時のホークスをはじめパリーグのチームはどこもマスコミの扱いがひどく小さく、パリーグの選手が描かれるあぶさんは、貴重なインサイドレポートでした。加藤秀司さんと高井保弘さんが大虎の近所で偶然あぶさんと会って昼から飲み比べをするエピソードが秀逸です。
ダイエーへの身売りがほぼ決まると、選手控室には冷蔵庫やメロン等のフルーツが差し入れられるようになり、選手たちは「なんかの罠か?」と疑ったと言うwあぶさんは契約金50万、年俸100万であった。
南海、近鉄、阪急の観客の野次合戦は最高に面白かった。
その野次の代表格の方々がいましたね😄
南海電車はボロ電車!
@@きよみのおっと さんそんなフレーズもありましたね😅懐かしいです。
日本シリーズ4連投4勝の杉浦忠を忘れちゃいかん!!
野村さんに天才と言われた鷹の爪広瀬叔功さんもいるぞ!この人が盗塁王のタイトルを作ったと言っても過言ではないし、バッティングもイチローが出てくるまで年間最多安打記録持ってた選手
@@DORA-q3o さん広瀬さんの盗塁成功率は、あの福本さんをはるかに凌いでいますよね。
@@大雨乾燥注意報 広瀬さんは、昭和39年頃に中央大から入団した小池兼司選手のショートでの守備を見て、外野手(センター)へのコンバートを決めたらしいです。
@@DORA-q3o さん 広瀬さんが10年選手のボーナスを故障を理由に減額された話は球団の貧乏エピソードのひとつに加えてもいいですね。
全くその通りです‼️
南海ホークスの緑のユニフォームが目に沁みるなぁ〜😆
エモやんがいた時の昭和40年代中盤は昭和の目蒲線や池上線みたいなダークグリーンで49年〜広瀬ホークスは国鉄時代の山手線のようなグリーンと記憶しています。最後の南海はまたダークグリーンかな?
@@小林一昭-m2n 最後はダークグリーンです。最後のユニフォームはホームビジターともよかったと思います。逆に昭和40年代後半から昭和50年代前半つまり野村克也が選手兼任監督の頃のユニフォームはあまり…いいとは思いませんでした。
当初はどこの球団も同様だったのでしょうが、プロ野球がビッグビジネスになってからも旧態依然として取り残された感がありましたね。
それが今や人気も資金も強さも球界一二を争う球団!うらやましい!😆
南海からダイエーになった時、選手がチャーター機で福岡空港に降り立った事を、鮮明に覚えています
結論として、金村 義明さんの話は本当でした!
移転直前まで火鉢が現役だったのと南海のミールマネーの安さに絶句した相手球団の助っ人にお情けで肉奢られた際にみんな泣きながら噛み締めてたとかいうエピソードがすき
そんなエピソードがww
肉を奢られて落涙しながら食べるって😅ダイエーになって今はソフトバンク、ベンチ裏のケータリングは12球団トップクラスの充実ぶりと聞きます😆やはり食事は大事🙋
@@三軒茶屋豪徳 ダルビッシュ選手が仰っていましたが、ホークスはサプリやプロテインなどの種類もとても充実しているらしいですねまぁ、この話はダルビッシュ選手が日本にいた頃(まだウエイトがあまり普及していなかったころ)の話なので今はどの球団もやっていると思いますが昔からそういった所を気にかけているのも強さの秘訣かもしれませんね
ケータリングにポテトチップスが出てたって話聞きました。
@@前田貴史-b9t それはケータリングとは言わないw
スカウトが有力選手のところに挨拶に行ったら、「ナンカイ来ても同じや‼️」と追い返されたらしい😭
上手い❗️座布団一枚
南海からダイエーになった時、選手は天と地の差って言ってたらしい。
天と地の差ってなりますよねww
ヤクルトファンだけどダイエーの頃からホークスも好きだった
ホークスも知れば知るほど魅力的な球団ですよね!!
確かオールスター戦か何かで、ヤクルトのとある選手が、「いざ行け!若鷹軍団」をカッコイイから一緒に歌ったと、ラジオのベンチアナウンサーが報告してました。応援歌もめちゃくちゃカッコイイです。
80年代は他球団が海外や沖縄でキャンプする中、南海は広島の呉でキャンプをしていましたね😅鶴岡一人さんの故郷で安く出来たのかな??中3の時に観に行きましたが、吹雪の中練習されていて当然観客は選手より少なかったです😢サブグラウンドとは呼べない校庭みたいな場所で内野手がノックを受けていましたが、その中に今は亡き久保寺選手が居たのが懐かしい思い出です!
南海ホークス最後の数年間は、当時中百舌鳥に住んでいたこともあってファンでしたが、杉浦監督の最後の挨拶「行ってまいります」を聞いて涙したのを覚えています。
87年のドラ1吉田豊彦投手は、1位指名してくれるとは思ってなかったので大喜びで契約に望んだら、契約金が想像していたよりはるかに少なかったので、「すみません、これはどういう事ですか?」と聞いたら、「ウチは金がないから他の球団が1位で指名するような選手は取れないんや。だから本来3位指名の君を1位にするしかなかったんや。だから契約金も3位指名の選手並や」と言われてぐうの音も出なかったらしい。
デマ流すな。あの年は立浪を単独指名の予定が突如中日に持っていかれてしまった。予定通りに立浪を1位指名できていたならそれなりの金額を出していたよ。
吉田豊彦がエース格で優勝争いしていた根本政権のダイエー、西武のカリメロとの投げあいで格落ち感は否めず、勝てなくて差は開くばかりやったな…阪神行ったら中継ぎまでやったし、どんだけ投手いなかったのかって中で、根本監督は地道にダイエーの基礎を作っていましたね。そのカリメロや、九州男児の秋山を引き抜いて常勝球団にしたのも、根本はんが暗躍したとか
立浪だっけ、藤波だったような?豊彦さんの実家は牛を飼ってたなぁ。
カズ山本選手はプレイヤーとしてもキャラクターもめっちゃ好きでした(笑)
あのお方は、片耳が聞こえないハンディがありながらも、プロ野球であれだけの成績を残された。南海からの偉大なバッターです。サインボールを今でも傍らに置いてます。
私が子供の頃はパ・リーグの中継がなく南海を知ったのは珍プレー・好プレーと野球チップスだったな懐かしい
実は大阪では毎日放送が大阪スタジアムの放映権持っていた関係で土曜日のディーゲームは結構な頻度で中継されてたりする
ファミコン初期のベースボールにもパリーグは入っていなかったですから・・
@@jyouban531レールウェイズ、フーズフーズ
@@隅倉功雄-p2d 初代ファミスタねw
親会社が代わっても「ホークスは不滅」。。。ありがたいです
あれは大きかった。あの発言が無かったらホークスの名前もない。
後楽園時代の日ハムファンでしたけど、南海の地域密集型の応援も好きでした。今風に言えば、「すぐに会いに行けるプロ野球選手」みたいな😁
柏○由紀「せやな」
地域密着いいですよね
@@野球ナイン さん、後楽園の南海戦やオールスターを何度も観に行きましたが、南海ファンは、すごい温かみのある応援されてました。
南海小寺副団長vs阪急今坂団長のヤジ合戦も名物でございましたね😁決して相手を罵倒するようなヤジは出さず、最後は「お互い西武だけには勝とうな~❗」でお開きでございました😁
@@対馬裕也 さん、関西同士の試合はなかなか関東圏では流れなかったので、そのヤジ合戦は観れてませんが、想像するだけで和みます。当時は、パ・リーグは閑散としてたけど、いい意味で味わいと言うか、深みがありましたね。
お金がなくで、鶴岡さん地元の雪の中での呉キャンプが個人的に好き
雪の中でのキャンプっすごいですね!
しかも当時の旧二河球場は観客席はただの土手に芝生だったような気がする。今思うと草野球の球場レベル。
子供心にせめて九州でキャンプ張れと思た。呉はホンマに大阪以上に寒かったらしい。
@@山本太郎-z2g 野村監督時代は和歌山広瀬監督時代が高知(門田がアキレス腱切った所)んで最後が呉か・・
親会社がダイエーに代わってからは、本当に待遇が見違えるくらい良くなったとか。当時のダイエーオーナーの中内功さんが、福岡に球団を持ってきたことに未だに感謝しています。
金村義明さんがダイエーはケータリングがローソンみたいだと話してましたそれだけ豪華だったんでしょうね。
南海ホークスの負債も肩代わりしての買収だったとの話もございましたね。福岡移転は吉と出ましたね。
監督・コーチ・選手等関係者がお揃いのブレザーを着用してチャーター機で大阪から福岡入りした裏話として杉浦監督が中内オーナーと雑談した時、本拠地移転時チャーター機で関係者が移動したMLB球団があったと話したら「この話もらった!」と言い実行。行動力の高さと早さにとにかく驚いたと言っていました。
@@konkonasami ダイエーは近鉄に比べれば球場から全ていいでしょうね。その中内さんもプロ野球を知らないまま金を掛けていましたからね。
「お金は出すけど、口は出さない」と言うスタンスは西武鉄道がライオンズを買収して西武ライオンズになって確立しました。
大阪球場の中に料理教室などがありました。室内練習場もなく、雨天時は中百舌鳥の室内練習場で練習する選手となんば花月の楽屋に行き芸人に飯を奢ってもらう選手もいました。後、選手ではにゃんこも忘れずに
バットが折れると、自腹で揃えないといけないから半泣きになってた選手もいたって聞いたことある...
バットは未だに自前ですけどね
@@完全にお前よて返信された人 道具が自腹なのは独立とかだけやで。プロはどの選手にもどこかのメーカーはついてる。バットは年間○本、グローブは何個までって契約をプロ野球選手は全員どこかしらのメーカーと結んでる。
@@user-ot3un5uu3e その手の返信だれか来ると思って書いた
その当時の選手の自腹はきついですね。。
@@完全にお前よて返信された人 人に説明させる意味w
森脇健児さんが言ってたエピソードで、南海は金がないから春のキャンプを雪の降りやすい広島の呉でやったらキャンプの初日に大雪が降ってしまってキャンプの最初の練習がグラウンドの雪かきになったって話も面白かった
広島の呉で雪が降るって相当寒い時期に当たっちゃったんでしょうね。その後広島県での大雪は1984年1月31日までなかなか降らない。
金がないからじゃなく、呉は鶴岡御大の出身地やで…。鶴岡時代からずっと呉や鶴岡退任後一時高知とか和歌山でもしたが、また呉に戻る
それってキャンプやなくて寒稽古やないですかw
近鉄は、阪神淡路大震災の時はキャンプに行かず地元で練習寒い為グラウンドにドラム缶の焚き火が置かれており、当時の鈴木監督がインタビューで「寒い時は、魚も身が引き締まるから…」なんてワケの分からない事言ってたのをテレビで見た記憶があります。
身売り前の数年間、職場が近かった事もあり良く観に行ってました。マクドナルドは球場入口の交差点にあり、選手が並ぶのも想像出来ますね。週末は併設するWINSが大混雑、球場はチケットの半券見せたら出入り出来たので、競馬新聞片手に行き来する人が多かった。観戦していると、ビールの売り子さん(おじさん)は1人しか確認できなかった。周り(徒歩1〜2分以内)にはコンビニ・酒屋・マクド、そして551蓬莱本店もあり、球場内で買食いする事はなかった。『オ〜イ!かどた〜豚まん食うかぁ〜』懐かしいなぁ
そんなかんじだったんですね。
ビールの売り子がおじさんは笑った😆なんか買う気が失せるなあ💦
当時は瓶ビールを紙コップ注いで販売、応援歌に合わせて栓抜きで瓶叩きながら売り歩いてたわ!
入口のマクドは、今でも盛業中でんな。流石に店名は変わったけど
阪急の名物おじさんのだみ声は草不可避なんだよなぁ門田〜肉まん食べよ〜
1リーグ時代の巨人×南海戦は『黄金カード』で大阪球場が満員札止めとなった時も多々あったとか。
ホークスが福岡に来た当時、選手の動きが緩慢で「ザル」って言われてた。その後の数年、なかなか勝てなかったけど、素人目でも選手の動きが変わったのがわかった。結局のところ、選手のモチベーションが削られるほど、南海がシブチンだったのを理解した。
世界一の王さんが監督を引き受けたけど選手の無気力症候群は治らず終いには連敗街道を爆進し、ファンが監督が乗ったバスに「辞めちまえ‼︎」と生卵を投げるまでに発展。王さんが恥辱に塗れる姿を見た選手達が「俺達の所為で、監督があんな目に…」と一念発起それから、連勝街道を直走り涙の優勝を飾りました。そこから「常勝軍団」となり、今ではAクラスの常連に…王さん、福岡に来てくれて本当にありがとうございます🙇♂️🙇♂️🙇♂️
確か南海の最後の方の時期にロッテ戦で最多失策記録を作ったはず。
@@孤高のメタラー 王さんは巨人時代は切れやすい監督だったけどずいぶん忍耐強くなったからな
阪神タイガースのエースだった上田二郎さんが南海ホークスに移籍した際、「練習に来るなら、一番乗りで行かないとアカンで。」と言われたそうです。言われた通りにすると、帽子が無造作に置いてあって、「自分の頭のサイズに合うやつを取ってや。」と言われたそうです。球団から支給されるのはユニフォームとヘルメット、スパイクくらいだったらしいです。「阪神タイガースはケチと言われても、一式揃えてくれるのに信じられなかった。」と上田さんが語っていた記憶があります。
「南海は社会人チーム以下の待遇」と言われていましたからね。
ダイエーになる前のキャンプでアンパンをかじりながら週プレのインタビューに答えていた山内孝徳選手→ダイエーになったら各種バイキングになってびっくり🍴
当時のダイエーのキャンプはハワイでしたよね。確か香川さんがバイキングの料理を全部食べ尽くしたエピソードもあったみたいですよね。次の日、食べ過ぎてコーチに怒られたみたいらしいですよ。
@@ヤミツキ-x4g 連絡ありがとうございます。当時を知るオールドファンとしては南海近鉄阪急と切ない話は切りないですね😉近鉄ネタは金村義明氏が話してくれますが覚えてるのは西本幸雄監督がナインを集めて何かと思ったら球団と近所の先生がとりひきして栄養剤一本注射できるとなってみんながっかりって😨
山内トリオ懐かしい
広島カープが広島県は寒いと、宮崎県日南市でキャンプするのに、南海ホークスは広島県呉市の二河球場でキャンプした事がありました。当時、銀行員で呉支店に勤務していて、寒さが身に凍みたものです。
ロッテや日ハムで監督をやっていた大沢親分も現役時代は南海だった。
その親分が大学スターの長嶋茂雄を誘って入団直前までいったが巨人に持っていかれた彼がいたら球団の歴史も変わっていただろうと言われています
南海身売りから5年前の間の話。一部の日を除いて球場の観衆より場外馬券売り場・レストランスタジアム・古本屋街の一日の利用者の方が明らかに多かった。スポニチの南海ホークス激励Sの招待券プレゼントに応募してもハズレた事が無かった。門田は電車通勤で帰宅は早かった。ドカベン香川はデーゲームの時は帰り際にナイターの時は入り際に球場入り口の売店で大スポを買っていた。一番最後に出てくるのは藤原(チャイ)コーチで馴染みのファンに笑いながら大体いつも麻雀牌をかき回すポーズをして球場入り口斜め前の雀荘のあるビルの方を指さしていた。良く言えばプロ野球選手の地位向上時期に1番最後まで庶民的だったかな❓(笑)ただ当時の川崎のロッテの在り方ってのがわからないからなぁ~(苦笑)あそこも大阪球場っぽかったのかな❓
南海ホークス凄い球団でしたけど自分は子供の頃大好き😍💓💓でした
今の時代に南海時代のあぶさんを読むと、何とも言えないノスタルジーを感じる。江夏がロッカーで火鉢をいじっているところとかwww
今はダイエー→ソフトバンクと福岡へ移転してから待遇が12球団トップクラスで巨人以上のデカい球団になりましたからね。近鉄を上回るレベルの貧乏エピソードが南海にもあるんですね。
船小屋温泉の近くにあるタマホームスタジアムとかすごいよね。あれが二軍専用ってんだからもう言葉がない。
今や、四軍まである。育成入団選手が、ドラフト指名選手層に割って入って、メジャーリーガーまで育った。こんな球団、他に無い。
でも後半、名前の挙がった選手たちって凄いネームバリューの人たちばかりですよね。やっぱりハングリー精神って大切ですね。
犯罪者が出なくてよかったです。
そういう問題かね?
最後に紹介された選手たちにはワクワクする魅力を感じる今のソフトバンクの選手層よりも魅力的
一人ひとりの選手が個性ありすごい選手ばかりでしたよね
80年代の南海ホークスは、本当に悲惨だった。大阪難波の一等地でガラガラの球場置いてるのがもったいないとか言われてた…
日生も西宮も当時は外野席は無人状態、客がいたのはバックネット付近とベンチの上辺りだけでした。
90年代入ると同時に関西空港開港に伴う難波駅再開発を予定しており、移転関係無く難波球場は取り壊してホークス本拠地移転が決定していたのでボロくても補修する気が無かったんですよ。移転先は堺市からのラブコールで大浜か電鉄会社は住之江周辺かとか言われていました。まぁ空港開港寸前でバブル崩壊と言うか空港の開港がそもそも遅れて不景気になってから再開発となり駅舎の改築だけで周辺はほったらかし。ようやく球場と入れ替わるカタチでなんばパークスとなるため解体とグダグダした時代を象徴する球場でしたね。
故S城H樹さんのLiveの方が客が入っていたでしょうね。
@@無意味-c6q 様。大阪球場閉場からなんばパークス着工までには空白期間がございましたね。その間は「なんば大阪球場住宅博」となっていました。1997年になんばパークスの計画が再スタートしモデルハウスは撤去、1998年秋に鶴瓶上岡パペポTVの公開収録や南海OBによる野球教室などのさよならイベントが開催されて大阪球場は正式に閉場となりました。
@@対馬裕也 解体が開始されると食われていくピザのように1/4ずつ解体されていき線路側から見える大阪球場の文字が途切れた時にホークスがいないのに惨めな姿になっても残っていた球場がやっと成仏したような気持ちになりました。なんばパークスが完成しマウンドやホームベース。ホークス記念館を見た時には「こんな事するならなんで球団売ってしもたんや」と複雑な気持ちになったもんです。
野村さんが選手兼任監督だったのは、監督の年俸けちるためって話だったと思います。
なるほど!そんな裏があったんでね!!
もうほとんど一般企業の発想だよな。
貧乏エピソードもすごいですが、ダイエーに身売りが決まったとたんにその日の株式市場で南海電鉄の株価がストップ高になったのもすごい気が。
そうだったんですね!
子供の頃一度だけ大阪球場で南海vs阪急を見た。たしかに客は少ないが、選手たちの声、打球音、グラブにボールが入る音など生々しく聞こえて面白かったです。
子供の頃、ボーイズリーグの本拠地だった大阪球場で試合した思い出は永久に不滅です。
小学生時代、当時強かった阪急の「H」を被る子が多い中で、あぶさんの影響で南海の帽子を被ってた。意外に巨人の帽子は少数派。北陸のとある田舎での話。
1シーズン130試合もこなすのに、年間でスパイクが4足しか支給されなかった球団なんて聞いたことがない(笑)。大洋に移籍した時に池之上が、あの球団には夢がなかったと、しみじみ語っていたのを思い出します。
4足・・・夢は見れなそうでうすね。。
イチローはたしか相当のスパイクを履きつぶしてた。かなり軽量のタイプばかりだった。イチローが昔の貧乏南海にいたならどうしてただろうか?
ユニフォームも晩年は生地が悪くなって洗濯するとすぐ縮んでしまうという話もありましたね。
山崎さんか、サインしてもらったっけ。
南海ホークスは凄まじい劣悪な環境であったと思います。これでは選手の頑張ろうというモチベーションが上がらず、万年Bクラスも無理はないと思います。
73年の優勝を最後に、最下位争いしたほど弱小球団になってしまいましたね。だが当時のオーナーは「生きている間は、絶対に球団を手放さない」として身売りしませんでした。
(選手としては)晩年のチャイこと藤原満選手が所有していた車はいすゞのピアッツァだった。門田選手も所有していた車はソアラだったが、球場へは奈良から電車利用だった。
おぉーー車の車種情報すごいです!
門田選手だけは、「 南海電車で、はよ帰れぇ!」ではなく、「 近鉄特急で、はよ帰れぇ!」って野次られていましたね。しかも、門田選手の自宅の最寄り駅には近鉄奈良線の特急列車が停車しますから。
岩切さん阪神からダイエーへ移籍してきた時にトヨタのスプリンター乗っててサラリーマンと変わんなぇと思った
キックボクシングのチャチャイに似ているからチャイなんや。アホ チャチャイがワイに似てるんやないけと言う藤原満選手とあぶさんの会話シーンがあった
南海高野線沿線に住んでいましたので子供の頃からのフアンでした。鶴岡、野村の監督時代は強いチームでしたがその後はめっきり弱くなりさみしい思いをしていました。でも一癖も二癖もあるが力もある選手たちが多く吉本新喜劇の様なチームだったのを覚えています。いつだったか南海きっての鈍足コンビである野村克也とケント・ハドリがダブルスチールを敢行し、成功したときの相手キャッチャーの慌てっぷりは今でも鮮明に覚えています。古きよき時代でした。
貧乏会社とは言うが、南海鉄道は大都市圏の鉄道業という安定した業種で売上高も当時で1000億円(今は2000億円)なのに球団に対する仕打ちが酷過ぎる球団を持つべき企業ではなかったと言うしかない
結局南海も近鉄も阪急も球団を捨てたな・・・
鉄道会社がプロ野球球団を持つメリットが無くなっただけ…鉄道事業は金は掛かるし利幅は薄い。今期、南海は連結で2000億円あるが15億(単独なら35億弱)の赤字。利益のトップは不動産・貸しビルで、鉄道事業は😓ましてあの立地で運賃収益は見込めないし、地元密着の企業としては広告費は高い。赤字なら捨てられても仕方ないかな。
ここで売上は無意味だよ
南海は大阪球場の立地が良すぎてあかんかった類。あの位置だと、南海沿線以外から来る客は南海電車を全く使わない。
繁華街のど真ん中難波に球場を持ってたから維持費か莫大だったんやろね。
本物の軍人が率いていたは笑いを禁じえない(笑)
ですよねwwルーツがすごいです(笑)
志願が軍人で徴兵は一兵卒とかで分類するとそうなるのかも。その頃は軍隊経験者は結構いたみたい。戦死した選手で一番?有名なのは沢村。惜しまれる選手は結構いたみたいです。幸い五体満足で復員後にプロ野球を盛り上げた人達もいるし。
だからノムさんが昔の監督と比べて今の監督は小物しかいないというのもわかる。川上も鶴岡も軍人で立派な大将ですから。
鶴岡監督は大学卒なら資格がある幹部候補生試験を合格して陸軍の高射砲部隊に配属されています。勤務先は日本本土での防空任務なので外地へは行かなかったそうです。知覧飛行場の機関砲中隊で中隊長をされているので階級は中尉もしくは大尉あたりです。
因みに(;^ω^)元軍人の有名人ならウルトラセブンのキリヤマ隊長こと中山昭二も元軍人
素晴らしい企画映像を、本当に有り難うございました 確かに、今はソフトバンクで強くファンも多いですが、昔は大変だったんですね そんな中で、素晴らしい選手が生まれていますね これからも楽しみにしています本当に有り難うございました。素晴らしい企画です。
1973年(昭和48年)の日本シリーズ、南海×巨人。第1戦に先勝した南海の野村監督は、翌日、球場へ来て唖然。雨で試合が流れると思っていたが、南海球団が職員・2軍選手を総動員してグランド整備をしていた。雨も考慮した選手起用を考えていて、「(整備を)止めてくれ!」と叫んだという。ただ球団は、日曜日の巨人戦、日本シリーズであり満員の観客を見込んでいた。この試合で堀内投手(元巨人軍監督)が大活躍、4連勝で巨人軍の日本一となった。これも貧乏エピソード...なのかなあ。
西鉄と南海のように西武とバンクで優勝争いがしたかった…
大学の時、ユニフォームを南海カラーに替えた事が有った。 グランドに来た、付属高校から南海に入団した同い年の選手のユニフォーム姿を目の当りにし、とにかく、格好良かったので!
かっこいいですよね!
鶴岡親分と言えば、昔気質と思われがちですが、ノムさんのアイデアと思われることのあれこれも、実は鶴岡監督に倣っていたようです。鶴岡監督もはじめは、選手兼任だったと思います。
小さい頃に父親から、『南海は何回やっても負けるから南海なんや』って言われたの覚えてるしかし、何回やっても勝つから南海でもアリなんじゃないかと、子供ながらに思った記憶がw
昔のパ・リーグはどこも似たり寄ったりですよ。 メディアからほぼ無視されてましたからね。関西では阪神の独り勝ち状態ですが、それは関西電鉄3社を裏切って巨人戦があるセ・リーグに加盟したからでメディアに作られた人気だったんです。もし南海がセ・リーグにいたらいまでも大阪球場で南海が野球をしていたと思います。
ただそれでも今のような阪神一辺倒というわけではなかったんですよね。在阪メディアに電鉄会社が大株主に居た関係もあって、MBS=南海・ABC=阪神&近鉄・テレビ大阪=近鉄・関テレ=阪急・よみうり=阪神&巨人といった具合に棲み分けができていたんですよ。恐らく星野阪神の優勝と近鉄・オリックス合併後の時期を境に阪神一辺倒になっていったかと。
@@donmome5422 やっぱ1985年のタイガース日本一が、南海&近鉄&阪急のその後の運命を決められてしまった感がある。
@@壱号機 それもあるけど同じ時期に国鉄民営化でJR西日本ができたから、関西私鉄各社が本業で押され始めたたのもあると思う。
阪神がパ・リーグに加盟してたらどうなってただろうか?昭和24年、25年あたりのことなので細かいところはわからないけど、勢力図や経営など様々なところで大幅に違ってたんだろうなと想像してしまいます。
たらればを言っても仕方はないんだろうけど、南海も近鉄も阪急もセ・リーグに所属できてたら、確かに今でも球団経営をしていたかもしれない。
選手達は全て懐かしい…。大阪球場も今では考えられないくらいすり鉢状のスタンドで、最初に入った時は驚きと恐怖を感じました。
関西出身の祖父は南海ファンだった。「かっとばせ!キヨハラくん」でしか知らなかった自分はマゾな人だ、としか思わなかったけど鶴岡の現役時代から黒い霧事件までは阪神ともかなり人気を争ってたというから奇特ではなかったんだな。
大阪の難波周辺のご年配の方々は「今でもホークスファンです!」という方が一定数いらっしゃいますね。関西クラシックシリーズではこの人たちが南海時代のユニや法被を着て京セラドームに押し寄せどっちのホームなのかわからなくなる位盛り上がってる印象です。
6:11火鉢で暖をとるのは凄い!南海ホークスって大正時代の1910年代の球団かな?
あと天才佐々木誠も加えてほしかったな。
秋山とトレードでライオンズに来たけど、秋山と遜色なかったよ。ライオンズに来てくれた事を今でも感謝している。
首位打者と盗塁王のダブル同時に取ったんだっけ
笑いながらも涙が滲む話ですねー。
笑いを交えないと辛いなと思いまして。。
6:59 サーカスのクマというより他の部屋に出稽古へ向かう相撲取りのイメージwちなみに香川さんが自転車通勤してた話は島田紳助氏もネタにしてましたね。
阪神が優勝した翌年、阪神とのオープン戦を大阪球場で観ました。大阪球場が超満員だったのを記憶しています。貴重な記憶だったのですね。
1986年は大阪球場最後のオールスターも超満員でございました。全セ吉田監督の推薦で出場した阪神川藤選手のレフト前ヒットからのオーバーラン→タッチアウトは大爆笑でございました😁
初めて大阪球場で緑のユニフォーム見たときの感動は一生忘れられへん。
ぶっちゃけ貧乏よりも鶴岡体制飯田監督を経由してから野村体制に変わったときのエピソードが貧乏よりも100倍くらいやばい
そういえば、何時の頃からか春季キャンプ地は呉の二河球場でしたね。下手すりゃ中百舌鳥より寒い。
バブルの時代に火鉢はほんとにびびったww
バブルですからねぇーw
東京ドームは空調完備で古い球場は取り残された感がありましたからね。
南海のユニフォームは濃緑のものがやはり格好いいですね!
南海って自分の祖父がファンだけれども柚木って人が好きっていってた大阪球場に行ったら柚木がイケメンだったから柚木ーっていうコールがすごかったそうです
それは、柚木進投手のことですね。昭和20年代30年代あたりで杉浦忠投手が入団する前に活躍したピッチャーです。
@@前田貴史-b9t 柚木ですね、ありがとうございますまさか柚木さんを知っている方がいるとは笑
何度見ても面白い。
南海は大阪の難波駅のすぐ近くの恵まれた地に球場がありながら、特にナイターはプロ野球ニュースでしか見られずいつもガラガラだった。あぶさん、の初期の頃は大好きだった身売りが決まった年には、南海ファンやもん、と言う歌も出されローカルで話題にもなった
東京で言えば、池袋駅か渋谷駅のすぐとなりに球場がある様なものだったのですけれどもね……。
「だってオレ〜、だってオレ〜、南海ファンやも〜ん」
元南海(後に近鉄)の 新井宏昌氏は、以前ラジオの番組で「 南海時代 球団は、新幹線は 普通車の分しか出してくれなかった。しかしプロ野球選手としての 見栄や体裁もあるので、自腹で払って グリーン車に乗っていた。」という話をされていました。
ドカベン香川は移動の際、あの体型なので新幹線の普通席が窮屈で、自腹か球団からの支給かわかりませんが座席幅が広いグリーン車に乗っていたと友人が言ってました。
投手のミチさんこと佐藤道郎さんは「普通車とグリーン車どちらに乗りたい?」と聞かれグリーン車を希望して乗車したらグリーン車の料金給料から引かれていたそうです。
大阪時代から現在に至るまで応援している間寛平氏は福岡ソフトバンクホークスファン、球団は感謝しなければいけないと。大阪球場といえば尾崎豊ライブだね。
タレントの森脇健児も大阪時代から福岡に移転してから今もホークスファンです。今年はわからないですが、京セラドームのオリックス戦や交流戦の甲子園での阪神戦観戦してましたよ。
大阪球場のホームランミュージックや試合開始や終了、後イニングの間も運動会の時かかるような音楽が聞けて本当に昔ながらの昭和の球場でした。誰か編集してくれないかな・・
初期のコミック本のあぶさんが好きでパリーグは南海を応援してました。内容は野球一辺倒じゃなくて下町人情モノってかんじで、独身だったあぶさんは安アパート住まいでした。水島新司も漫画もその頃が一番良かったですね。
水島作品の魅力は古き良き時代の下町人情でしたからね。平成以降はなんか時代に不釣り合いな感じでしたね…
ドカベンの山田太郎の実家は畳屋ですが、山田がプロ入りしてからも家はかなり古い状態でした。そこに山田の高級車が停まっていてかなりの違和感がありました。山田はしなかったみたいですが、同じ家が古かったキャプテン翼の日向小次郎はプロ入りしたあと、親やきょうだいが住むための家をプレゼントしましたね。
@@前田貴史-b9t おそらく水島先生は「山田=貧乏」の構図を外したくなかったのでしょうね。プロ野球編をなかなか始めなかったのは、その構図が崩れるのが嫌だったからでしょう。プロに入って活躍すれば間違いなく高年俸プレイヤーになるので、プロ入り後の長屋住まいは余りに不自然でしたが、「貧困」をテーマにした作品を多く描いた水島先生には絶対に譲りたくないものがあったのでしょうね…
@@前田貴史-b9t 里中も母子家庭で生活は楽ではないし岩鬼は岩鬼建設が倒産して自宅売却。比較的裕福なのは音楽家の殿馬。八百屋の山岡。ラーメン屋の石毛。土井垣。渚
うろ覚えですが、あぶさんこと影浦安武氏が昭和47年に契約金50万円・年俸250万円で南海ホークスと契約してた記憶が・・・・俺の生誕年と同じだ(汗
選手が契約時にオーナーから金庫の中を見せられ「金無いねん!」はマジな話らしい。当時12球団貧乏な球団が今じゃ12球団一の金持ち球団なんて当時を知るファンとしては考え深い
クラウンから西武に身売りされたライオンズの前例がありましたから。
あの当時パ・リーグは西武以外貧しかったからな。日本ハムもユニフォームの替えがなくて、退団した選手の名前と背番号を貼り替えて、新入団選手のユニフォームに使い回してたという。島田誠が球団に「ユニフォームの予備を作ってほしい」と直談判したらしい。プロ球団とは思えないエピソード。
マイナーリーグみたいな話ですね❗
その島田誠って西武の捕手野村克也さんから二、三、本盗を連続的に決めてたんでしたっけw。もう送球もできなくなったノムさんに追い打ちをかけたw。
81年の優勝時にはそのボロボロになったユニフォームで日本シリーズに出てましたからね。今だと帽子でさえスポンサーワッペン入りがあるというのに・・
昔のラジオ・テレビは、パリーグの途中経過を聞くために聞いていました🥴
もしタイムマシンで昔に戻れるなら大阪球場のほとんど貸切状態(!)のようなスタンドでプロ野球そのものをじっくりと観てみたいです。
そう考えると、コロナ下での観戦は、後々貴重だったと言われるのかもしれませんね。
ヤジ飛ばしたら顔バレ確実やから、笑えるヤジしか飛ばせへんかったと聞きますわ。何せ選手はパンチパーマで、下手なヤーさんより怖いから…
西宮球場で流しそうめんもどうぞ
南海の緑のユニホームが似合うなら、ソイツは余程のスタイルで男前。山本カズなんか凄い似合ってたよなぁ…
今や一番資金力のある球団。ホークスの不遇時代知らない世代おおいだろうなー。
3:56近鉄のターミナルは、上本町か難波で、天王寺(阿倍野橋駅)は、直接名古屋には、線路は繋がってませんね。
80年代関西で幼少期を過ごしましたが南海の試合をTVで見た記憶がない初めて満員の大阪球場をTVで見たのはダウンタウンのコンサートでした
西城秀樹さんが大阪球場で10年間コンサートを開催しましたが、「西城秀樹のコンサートよりも客おらんがな❗」のヤジもございました😅
一応、MBSさんが主催ゲームの権利を持っていて、大阪球場の一塁側フェンスにテレビの4ch、ラジオの1179Khzが不気味に記されてたよね。
MBSの深夜ラジオ番組ヤンタン若かりし頃のさんまや紳助らで試合した会場が満員の大阪球場でした。「さんま。ベンチに入れたら客増えるぞ。」その野次が笑うに笑えんかった。
毎日放送で土曜や日曜のデーゲームでたまにやってました。同じ在阪パ・リーグの阪急ブレーブスは関西テレビ、近鉄パファローズは朝日放送です。どこもナイトゲームは滅多と放送されませんでしたが、阪急だけ阪神の試合がないときにサンテレビで夜も中継していました。
昭和の時代。在版球団も試合中継にお金を使いだして懐かしいですね。南海は昭和の頃、ラジオ大阪が南海太郎さんのMCで週末に中継近鉄は朝日放送ラジオが土曜のデーゲームをラジオ大阪が平日の夜のナイターを中継阪急は毎日放送ラジオが昭和50年代に2年程、松井昭憲アナがMCで日曜日のデーゲームを夜に録音中継関西テレビが土曜の在版球団のデーゲームを中継。殆ど試合途中で放送終了でした。
埋まれて初めて後楽園球場で見た試合が南海VS日ハムでしたがその試合は区の少年野球の開会式前に行われた試合だったので声をかけると選手は手を振ってくれたりとても楽しい思い出になりました。
ちょうど球団身売りの時期、中百舌鳥球場近くの大学に通っていました。講義をサボって中百舌鳥球場で練習を見ることがありましたが、選手がお昼に球団から出されたらしきパンを食べながら牛乳を飲んでいて、これにはさすがに驚きました。
南海時代に川勝オーナーがキャンプ視察で差し入れたのはミカンにポテチ。ダイエーになったらキャンプ場に大型冷蔵庫が設置されて中には新鮮な果物と飲み物。しかし貧乏性が染みついた選手達は後日請求されると思い暫くは飲み物しか減らなかったとか。でも南海、近鉄、大洋みたいな打高投低のチームってロマンあるな(笑)白地に緑の筆記体ユニフォームはカッコイイですね。
全然知らないエピソードだらけで面白かったです。ノムさんが怒るのも無理はないです。ただなぜ強い球団が出来上がるのか?軍隊の特訓は想像できません。
「ホークスは好きだが南海は嫌い」は国定選手も同じようなコメントをされてますね。
楽しんでいただけてよかったです。練習内容・時間ともにすごかったんですかね。
@@田中雅規-i9s 様。江夏豊も引退後、ホークスではないが「タイガースは好きやけど、阪神は嫌いやった」と言ってました。
@@前田貴史-b9t さんへ 江夏氏の話は初耳です。いい話ありがとうございますm(_ _)m
監督が全国駆け巡って選手をスカウトしまくるっていうこの時代としての監督としては超有能だったんだそのせいで後任の監督が内部に潰されてドラフト当日に急死するっていうとんでもない大事件も起きた
昔、たまたま試合のあった日に球場の前を通りかかって一緒にいた職場の同僚とちょっと野球見てみようとふらっと入ったことがあります。入ってみて外野席がかなり高いところにあってものすごくすり鉢状の球場でびっくりしました。動画にもありましたが、お客さんはホントに少なくて選手たちがかわいそうでした。試合内容は全く覚えていませんが、ナイターなのに怖ささえ感じるすり鉢状の球場の雰囲気は忘れられません。
昭和五十年代中百舌鳥の二軍の秀鷹寮で仕事してましたが、たしかにボロボロでした。
漫画あぶさんの功績は計り知れない。昭和のパリーグの野球しるオールドファンにとっては、故水島先生はヒーローです。あの漫画のお陰でパリーグの良さがコアな野球ファンの間で知られる様になった。その水島先生が自腹でホークスの選手に賞金を出していたとは。。。。
軟式の少年野球の大会も大阪球場でやりました
グランドは堅いですが、土は黒く細かく子供心に本格的だなあと感動しました
西武全盛期の子供時代、周囲が巨人ファンと西武ファンで二分されてた時、
自分は一人南海ファンでした。球団が無くなり、九州に移転し
それでも強くならないホークス、南海時代から20年近く応援し続け
ダイエーホークス優勝の時は号泣しましたよ。
やべー涙があふれるわw
南海の緑ユニは昔も今もカッコいいと思っているんですが…w
現在のSBがたまに着用してくれるのは何よりです。
緑ユニ自分もかっこいいと思ってますw
王さんが意外に似合ってましたね。
今年あったけ復刻ユニホーム
南海と西鉄のユニフォームはパ・リーグ史上に残るベストデザイン。
当時、小学生だったが、哀愁という感情を初めて覚えたのが南海の深緑である、と言っても過言ではない。
鶴岡監督や当時の南海の選手が今のソフトバンクホークスの贅沢さと練習環境の良さ、高レベルの育成選手などの指導を見たらどんな顔をするのだろう。
場所柄怖い人もたくさん来ていましたが南海ファン同士みんな優しかった
南海時代はスパイクがホーム・ビジター関係無く統一。
福岡ダイエーになってからはスパイクがホーム・ビジターで異なるので選手達が間違わない様に連絡徹底をマネージャーに頼んだと杉浦監督が後年語っていました。
昔はスパイクはホーム・ビジター関係なく統一という球団ほとんどだったような。阪神が日本一になったあと低迷しましたが、村山実が2度目の監督になってからホームは白、ビジターは黒と分けていたスパイクを「黒はあまり縁起よくない」ということでビジターも白に統一しました。そして野村克也が阪神の監督2年目で帽子が縦じまから黒一色にしたのと同時にホーム・ビジターとも黒のスパイクに変更されました。
南海のユニフォーム
個人的に
日本球界史上
1番好きです
王球団会長も、南海の復刻ユニフォームで指揮した時、良いとおっしゃってました。
巨人ファンですが、南海のモスグリーンのユニフォームはかっこいいと思ってました。
南海がダイエーに球団を売却する際、条件に出したのが、ホークスの名前を残すこと、杉浦監督の留任、そして選手の待遇改善でした。
自分が小学生の頃、70年代から80年代にラジオで野球中継を聴いていたけど、関東キー局は圧倒的にジャイアンツ戦に傾いていたから、パ・リーグの試合はどんなものかとチューナーを合わせて、南海の試合を雑音混じりの中で聴いていたことがある☺️
選手の顔も名前もほとんどわからず、トランペットや応援歌など全く聴こえない静かな球場😲
それでも、門田のバッティングをラジオとはいえ感じることが出来たのはいい思い出です😊
週末になると大阪球場に向かってかなりの人が集まる。それは外野スタンド下の
JRAの場外馬券売り場に向かうおっちゃん達。「今日の南海、試合やっとるんか。」の声が空しかった。
以前、加藤伸一さんの東スポのコラムでも同じ事が載っていました。
0:56 は良い写真ですね!あぶさん連載開始の頃が想い出されます。コミックス20巻?ぐらいのサチ子とあぶさんの結婚までは本当に面白かった。当時のホークスをはじめパリーグのチームはどこもマスコミの扱いがひどく小さく、パリーグの選手が描かれるあぶさんは、貴重なインサイドレポートでした。加藤秀司さんと高井保弘さんが大虎の近所で偶然あぶさんと会って昼から飲み比べをするエピソードが秀逸です。
ダイエーへの身売りがほぼ決まると、選手控室には冷蔵庫やメロン等のフルーツが差し入れられるようになり、選手たちは「なんかの罠か?」と疑ったと言うw
あぶさんは契約金50万、年俸100万であった。
南海、近鉄、阪急の観客の野次合戦は最高に面白かった。
その野次の代表格の方々がいましたね😄
南海電車はボロ電車!
@@きよみのおっと さん
そんなフレーズもありましたね😅
懐かしいです。
日本シリーズ4連投4勝の杉浦忠を忘れちゃいかん!!
野村さんに天才と言われた鷹の爪広瀬叔功さんもいるぞ!
この人が盗塁王のタイトルを作ったと言っても過言ではないし、バッティングもイチローが出てくるまで年間最多安打記録持ってた選手
@@DORA-q3o さん
広瀬さんの盗塁成功率は、あの福本さんをはるかに凌いでいますよね。
@@大雨乾燥注意報 広瀬さんは、昭和39年頃に中央大から入団した小池兼司選手のショートでの守備を見て、外野手(センター)へのコンバートを決めたらしいです。
@@DORA-q3o さん 広瀬さんが10年選手のボーナスを故障を理由に減額された話は球団の貧乏エピソードのひとつに加えてもいいですね。
全くその通りです‼️
南海ホークスの緑のユニフォームが目に沁みるなぁ〜😆
エモやんがいた時の昭和40年代中盤は昭和の目蒲線や池上線みたいなダークグリーンで49年〜広瀬ホークスは国鉄時代の山手線のようなグリーンと記憶しています。最後の南海はまたダークグリーンかな?
@@小林一昭-m2n 最後はダークグリーンです。最後のユニフォームはホームビジターともよかったと思います。逆に昭和40年代後半から昭和50年代前半つまり野村克也が選手兼任監督の頃のユニフォームはあまり…いいとは思いませんでした。
当初はどこの球団も同様だったのでしょうが、プロ野球がビッグビジネスになってからも旧態依然として取り残された感がありましたね。
それが今や人気も資金も強さも球界一二を争う球団!
うらやましい!😆
南海からダイエーになった時、選手がチャーター機で福岡空港に降り立った事を、鮮明に覚えています
結論として、金村 義明さんの話は本当でした!
移転直前まで火鉢が現役だったのと南海のミールマネーの安さに絶句した相手球団の助っ人にお情けで肉奢られた際にみんな泣きながら噛み締めてたとかいうエピソードがすき
そんなエピソードがww
肉を奢られて落涙しながら食べるって😅
ダイエーになって今はソフトバンク、ベンチ裏のケータリングは12球団トップクラスの充実ぶりと聞きます😆
やはり食事は大事🙋
@@三軒茶屋豪徳 ダルビッシュ選手が仰っていましたが、ホークスはサプリやプロテインなどの種類もとても充実しているらしいですね
まぁ、この話はダルビッシュ選手が日本にいた頃(まだウエイトがあまり普及していなかったころ)の話なので今はどの球団もやっていると思いますが昔からそういった所を気にかけているのも強さの秘訣かもしれませんね
ケータリングにポテトチップスが出てたって話聞きました。
@@前田貴史-b9t それはケータリングとは言わないw
スカウトが有力選手のところに挨拶に行ったら、「ナンカイ来ても同じや‼️」と追い返されたらしい😭
上手い❗️座布団一枚
南海からダイエーになった時、選手は天と地の差って言ってたらしい。
天と地の差ってなりますよねww
ヤクルトファンだけどダイエーの頃からホークスも好きだった
ホークスも知れば知るほど魅力的な球団ですよね!!
確かオールスター戦か何かで、ヤクルトのとある選手が、「いざ行け!若鷹軍団」をカッコイイから一緒に歌ったと、ラジオのベンチアナウンサーが報告してました。応援歌もめちゃくちゃカッコイイです。
80年代は他球団が海外や沖縄でキャンプする中、南海は広島の呉でキャンプをしていましたね😅
鶴岡一人さんの故郷で安く出来たのかな??
中3の時に観に行きましたが、吹雪の中練習されていて当然観客は選手より少なかったです😢
サブグラウンドとは呼べない校庭みたいな場所で内野手がノックを受けていましたが、その中に今は亡き久保寺選手が居たのが懐かしい思い出です!
南海ホークス最後の数年間は、当時中百舌鳥に住んでいたこともあってファンでしたが、
杉浦監督の最後の挨拶「行ってまいります」を聞いて涙したのを覚えています。
87年のドラ1吉田豊彦投手は、1位指名してくれるとは思ってなかったので大喜びで契約に望んだら、契約金が想像していたよりはるかに少なかったので、「すみません、これはどういう事ですか?」と聞いたら、「ウチは金がないから他の球団が1位で指名するような選手は取れないんや。だから本来3位指名の君を1位にするしかなかったんや。だから契約金も3位指名の選手並や」と言われてぐうの音も出なかったらしい。
デマ流すな。あの年は立浪を単独指名の予定が突如中日に持っていかれてしまった。
予定通りに立浪を1位指名できていたならそれなりの金額を出していたよ。
吉田豊彦がエース格で優勝争いしていた根本政権のダイエー、西武のカリメロとの投げあいで格落ち感は否めず、勝てなくて差は開くばかりやったな…
阪神行ったら中継ぎまでやったし、どんだけ投手いなかったのかって中で、根本監督は地道にダイエーの基礎を作っていましたね。
そのカリメロや、九州男児の秋山を引き抜いて常勝球団にしたのも、根本はんが暗躍したとか
立浪だっけ、藤波だったような?
豊彦さんの実家は牛を飼ってたなぁ。
カズ山本選手はプレイヤーとしてもキャラクターもめっちゃ好きでした(笑)
あのお方は、片耳が聞こえないハンディがありながらも、プロ野球であれだけの成績を残された。南海からの偉大なバッターです。
サインボールを今でも傍らに置いてます。
私が子供の頃はパ・リーグの中継がなく
南海を知ったのは珍プレー・好プレーと野球チップスだったな懐かしい
実は大阪では毎日放送が大阪スタジアムの
放映権持っていた関係で土曜日のディーゲームは結構な頻度で中継されてたりする
ファミコン初期のベースボールにもパリーグは入っていなかったですから・・
@@jyouban531
レールウェイズ、フーズフーズ
@@隅倉功雄-p2d 初代ファミスタねw
親会社が代わっても「ホークスは不滅」。。。ありがたいです
あれは大きかった。あの発言が無かったらホークスの名前もない。
後楽園時代の日ハムファンでしたけど、南海の地域密集型の応援も好きでした。
今風に言えば、「すぐに会いに行けるプロ野球選手」みたいな😁
柏○由紀「せやな」
地域密着いいですよね
@@野球ナイン さん、後楽園の南海戦やオールスターを何度も観に行きましたが、南海ファンは、すごい温かみのある応援されてました。
南海小寺副団長vs阪急今坂団長のヤジ合戦も名物でございましたね😁
決して相手を罵倒するようなヤジは出さず、最後は「お互い西武だけには勝とうな~❗」でお開きでございました😁
@@対馬裕也 さん、関西同士の試合はなかなか関東圏では流れなかったので、そのヤジ合戦は観れてませんが、想像するだけで和みます。
当時は、パ・リーグは閑散としてたけど、いい意味で味わいと言うか、深みがありましたね。
お金がなくで、鶴岡さん地元の雪の中での呉キャンプが個人的に好き
雪の中でのキャンプっすごいですね!
しかも当時の旧二河球場は観客席は
ただの土手に芝生だったような気がする。
今思うと草野球の球場レベル。
子供心にせめて九州でキャンプ張れと思た。呉はホンマに大阪以上に寒かったらしい。
@@山本太郎-z2g 野村監督時代は和歌山
広瀬監督時代が高知(門田がアキレス腱切った所)
んで最後が呉か・・
親会社がダイエーに代わってからは、
本当に待遇が見違えるくらい良くなったとか。
当時のダイエーオーナーの中内功さんが、
福岡に球団を持ってきたことに未だに感謝しています。
金村義明さんがダイエーはケータリングがローソンみたいだと話してました
それだけ豪華だったんでしょうね。
南海ホークスの負債も肩代わりしての買収だったとの話もございましたね。
福岡移転は吉と出ましたね。
監督・コーチ・選手等関係者がお揃いのブレザーを着用してチャーター機で大阪から福岡入りした裏話として杉浦監督が中内オーナーと雑談した時、本拠地移転時チャーター機で関係者が移動したMLB球団があったと話したら「この話もらった!」と言い実行。行動力の高さと早さにとにかく驚いたと言っていました。
@@konkonasami
ダイエーは近鉄に比べれば球場から全ていいでしょうね。その中内さんもプロ野球を知らないまま金を掛けていましたからね。
「お金は出すけど、口は出さない」と言うスタンスは西武鉄道がライオンズを買収して西武ライオンズになって確立しました。
大阪球場の中に料理教室などがありました。室内練習場もなく、雨天時は中百舌鳥の室内練習場で練習する選手となんば花月の楽屋に行き芸人に飯を奢ってもらう選手もいました。
後、選手ではにゃんこも忘れずに
バットが折れると、自腹で揃えないといけないから半泣きになってた選手もいたって聞いたことある...
バットは未だに自前ですけどね
@@完全にお前よて返信された人 道具が自腹なのは独立とかだけやで。プロはどの選手にもどこかのメーカーはついてる。バットは年間○本、グローブは何個までって契約をプロ野球選手は全員どこかしらのメーカーと結んでる。
@@user-ot3un5uu3e その手の返信だれか来ると思って書いた
その当時の選手の自腹はきついですね。。
@@完全にお前よて返信された人 人に説明させる意味w
森脇健児さんが言ってたエピソードで、南海は金がないから春のキャンプを雪の降りやすい広島の呉でやったらキャンプの初日に大雪が降ってしまってキャンプの最初の練習がグラウンドの雪かきになったって話も面白かった
広島の呉で雪が降るって相当寒い時期に当たっちゃったんでしょうね。その後広島県での大雪は1984年1月31日までなかなか降らない。
金がないからじゃなく、呉は鶴岡御大の出身地やで…。鶴岡時代からずっと呉や
鶴岡退任後一時高知とか和歌山でもしたが、また呉に戻る
それってキャンプやなくて寒稽古やないですかw
近鉄は、阪神淡路大震災の時は
キャンプに行かず地元で練習
寒い為グラウンドにドラム缶の
焚き火が置かれており、当時の
鈴木監督がインタビューで
「寒い時は、魚も身が引き締まるから…」
なんてワケの分からない事言ってたのをテレビで見た記憶があります。
身売り前の数年間、職場が近かった事もあり良く観に行ってました。
マクドナルドは球場入口の交差点にあり、選手が並ぶのも想像出来ますね。
週末は併設するWINSが大混雑、球場はチケットの半券見せたら出入り出来たので、競馬新聞片手に行き来する人が多かった。
観戦していると、ビールの売り子さん(おじさん)は1人しか確認できなかった。
周り(徒歩1〜2分以内)にはコンビニ・酒屋・マクド、そして551蓬莱本店もあり、球場内で買食いする事はなかった。
『オ〜イ!かどた〜豚まん食うかぁ〜』懐かしいなぁ
そんなかんじだったんですね。
ビールの売り子がおじさんは笑った😆なんか買う気が失せるなあ💦
当時は瓶ビールを紙コップ注いで販売、応援歌に合わせて栓抜きで瓶叩きながら売り歩いてたわ!
入口のマクドは、今でも盛業中でんな。流石に店名は変わったけど
阪急の名物おじさんのだみ声は草不可避なんだよなぁ
門田〜肉まん食べよ〜
1リーグ時代の巨人×南海戦は『黄金カード』で大阪球場が満員札止めとなった時も多々あったとか。
ホークスが福岡に来た当時、選手の動きが緩慢で「ザル」って言われてた。
その後の数年、なかなか勝てなかったけど、素人目でも選手の動きが変わったのがわかった。
結局のところ、選手のモチベーションが削られるほど、南海がシブチンだったのを理解した。
世界一の王さんが監督を引き受けたけど
選手の無気力症候群は治らず
終いには連敗街道を爆進し、ファンが監督が乗ったバスに「辞めちまえ‼︎」と生卵を投げるまでに発展。
王さんが恥辱に塗れる姿を見た選手達が「俺達の所為で、監督があんな目に…」と一念発起
それから、連勝街道を直走り
涙の優勝を飾りました。
そこから「常勝軍団」となり、今ではAクラスの常連に…
王さん、福岡に来てくれて
本当にありがとうございます
🙇♂️🙇♂️🙇♂️
確か南海の最後の方の時期にロッテ戦で最多失策記録を作ったはず。
@@孤高のメタラー 王さんは巨人時代は切れやすい監督だったけどずいぶん忍耐強くなったからな
阪神タイガースのエースだった上田二郎さんが南海ホークスに移籍した際、「練習に来るなら、一番乗りで行かないとアカンで。」と言われたそうです。言われた通りにすると、帽子が無造作に置いてあって、「自分の頭のサイズに合うやつを取ってや。」と言われたそうです。球団から支給されるのはユニフォームとヘルメット、スパイクくらいだったらしいです。「阪神タイガースはケチと言われても、一式揃えてくれるのに信じられなかった。」と上田さんが語っていた記憶があります。
「南海は社会人チーム以下の待遇」と言われていましたからね。
ダイエーになる前のキャンプでアンパンをかじりながら週プレのインタビューに答えていた山内孝徳選手→ダイエーになったら各種バイキングになってびっくり🍴
当時のダイエーのキャンプはハワイでしたよね。確か香川さんがバイキングの料理を全部食べ尽くしたエピソードもあったみたいですよね。次の日、食べ過ぎてコーチに怒られたみたいらしいですよ。
@@ヤミツキ-x4g 連絡ありがとうございます。当時を知るオールドファンとしては南海近鉄阪急と切ない話は切りないですね😉近鉄ネタは金村義明氏が話してくれますが覚えてるのは西本幸雄監督がナインを集めて何かと思ったら球団と近所の先生がとりひきして栄養剤一本注射できるとなってみんながっかりって😨
山内トリオ懐かしい
広島カープが広島県は寒いと、宮崎県日南市でキャンプするのに、南海ホークスは広島県呉市の二河球場でキャンプした事がありました。
当時、銀行員で呉支店に勤務していて、寒さが身に凍みたものです。
ロッテや日ハムで監督をやっていた大沢親分も現役時代は南海だった。
その親分が大学スターの長嶋茂雄を誘って入団直前までいったが巨人に持っていかれた
彼がいたら球団の歴史も変わっていただろうと言われています
南海身売りから5年前の間の話。一部の日を除いて球場の観衆より場外馬券売り場・レストランスタジアム・古本屋街の一日の利用者の方が明らかに多かった。スポニチの南海ホークス激励Sの招待券プレゼントに応募してもハズレた事が無かった。門田は電車通勤で帰宅は早かった。ドカベン香川はデーゲームの時は帰り際にナイターの時は入り際に球場入り口の売店で大スポを買っていた。一番最後に出てくるのは藤原(チャイ)コーチで馴染みのファンに笑いながら大体いつも麻雀牌をかき回すポーズをして球場入り口斜め前の雀荘のあるビルの方を指さしていた。良く言えばプロ野球選手の地位向上時期に1番最後まで庶民的だったかな❓(笑)ただ当時の川崎のロッテの在り方ってのがわからないからなぁ~(苦笑)あそこも大阪球場っぽかったのかな❓
南海ホークス凄い球団でしたけど自分は子供の頃大好き😍💓💓でした
今の時代に南海時代のあぶさんを読むと、何とも言えないノスタルジーを
感じる。江夏がロッカーで火鉢をいじっているところとかwww
今はダイエー→ソフトバンクと福岡へ移転してから待遇が12球団トップクラスで巨人以上のデカい球団になりましたからね。近鉄を上回るレベルの貧乏エピソードが南海にもあるんですね。
船小屋温泉の近くにあるタマホームスタジアムとかすごいよね。あれが二軍専用ってんだからもう言葉がない。
今や、四軍まである。育成入団選手が、ドラフト指名選手層に割って入って、メジャーリーガーまで育った。こんな球団、他に無い。
今や、四軍まである。育成入団選手が、ドラフト指名選手層に割って入って、メジャーリーガーまで育った。こんな球団、他に無い。
でも後半、名前の挙がった選手たちって凄いネームバリューの人たちばかりですよね。
やっぱりハングリー精神って大切ですね。
犯罪者が出なくてよかったです。
そういう問題かね?
最後に紹介された選手たちにはワクワクする魅力を感じる
今のソフトバンクの選手層よりも魅力的
一人ひとりの選手が個性ありすごい選手ばかりでしたよね
80年代の南海ホークスは、本当に悲惨だった。大阪難波の一等地でガラガラの球場置いてるのがもったいないとか言われてた…
日生も西宮も当時は外野席は無人状態、
客がいたのはバックネット付近と
ベンチの上辺りだけでした。
90年代入ると同時に関西空港開港に伴う難波駅再開発を予定しており、移転関係無く難波球場は取り壊してホークス本拠地移転が決定していたのでボロくても補修する気が無かったんですよ。
移転先は堺市からのラブコールで大浜か電鉄会社は住之江周辺かとか言われていました。
まぁ空港開港寸前でバブル崩壊と言うか空港の開港がそもそも遅れて不景気になってから再開発となり駅舎の改築だけで周辺はほったらかし。ようやく球場と入れ替わるカタチでなんばパークスとなるため解体とグダグダした時代を象徴する球場でしたね。
故S城H樹さんのLiveの方が客が入っていたでしょうね。
@@無意味-c6q 様。
大阪球場閉場からなんばパークス着工までには空白期間がございましたね。
その間は「なんば大阪球場住宅博」となっていました。
1997年になんばパークスの計画が再スタートしモデルハウスは撤去、1998年秋に鶴瓶上岡パペポTVの公開収録や南海OBによる野球教室などのさよならイベントが開催されて大阪球場は正式に閉場となりました。
@@対馬裕也 解体が開始されると食われていくピザのように1/4ずつ解体されていき線路側から見える大阪球場の文字が途切れた時にホークスがいないのに惨めな姿になっても残っていた球場がやっと成仏したような気持ちになりました。
なんばパークスが完成しマウンドやホームベース。ホークス記念館を見た時には「こんな事するならなんで球団売ってしもたんや」と複雑な気持ちになったもんです。
野村さんが選手兼任監督だったのは、監督の年俸けちるためって話だったと思います。
なるほど!そんな裏があったんでね!!
もうほとんど一般企業の発想だよな。
貧乏エピソードもすごいですが、ダイエーに身売りが決まったとたんにその日の株式市場で南海電鉄の株価がストップ高になったのもすごい気が。
そうだったんですね!
子供の頃一度だけ大阪球場で南海vs阪急を見た。たしかに客は少ないが、選手たちの声、打球音、グラブにボールが入る音など
生々しく聞こえて面白かったです。
子供の頃、ボーイズリーグの本拠地だった大阪球場で試合した思い出は永久に不滅です。
小学生時代、当時強かった阪急の「H」を被る子が多い中で、
あぶさんの影響で南海の帽子を被ってた。
意外に巨人の帽子は少数派。北陸のとある田舎での話。
1シーズン130試合もこなすのに、年間でスパイクが4足しか支給されなかった球団なんて聞いたことがない(笑)。大洋に移籍した時に池之上が、あの球団には夢がなかったと、しみじみ語っていたのを思い出します。
4足・・・夢は見れなそうでうすね。。
イチローはたしか相当のスパイクを履きつぶしてた。かなり軽量のタイプばかりだった。イチローが昔の貧乏南海にいたならどうしてただろうか?
ユニフォームも晩年は生地が悪くなって洗濯するとすぐ縮んでしまうという話もありましたね。
山崎さんか、サインしてもらったっけ。
南海ホークスは凄まじい劣悪な環境であったと思います。
これでは選手の頑張ろうというモチベーションが上がらず、万年Bクラスも無理はないと思います。
73年の優勝を最後に、最下位争いしたほど弱小球団になってしまいましたね。だが当時のオーナーは「生きている間は、絶対に球団を手放さない」として身売りしませんでした。
(選手としては)晩年のチャイこと藤原満選手が所有していた車はいすゞのピアッツァだった。
門田選手も所有していた車はソアラだったが、球場へは奈良から電車利用だった。
おぉーー車の車種情報すごいです!
門田選手だけは、「 南海電車で、はよ帰れぇ!」ではなく、「 近鉄特急で、はよ帰れぇ!」って野次られていましたね。しかも、門田選手の自宅の最寄り駅には近鉄奈良線の特急列車が停車しますから。
岩切さん
阪神からダイエーへ移籍してきた時に
トヨタのスプリンター乗っててサラリーマンと変わんなぇと思った
キックボクシングのチャチャイに似ているからチャイなんや。アホ チャチャイがワイに似てるんやないけ
と言う藤原満選手とあぶさんの会話シーンがあった
南海高野線沿線に住んでいましたので子供の頃からのフアンでした。鶴岡、野村の監督時代は強いチームでしたがその後はめっきり弱くなりさみしい思いをしていました。でも
一癖も二癖もあるが力もある選手たちが多く吉本新喜劇の様なチームだったのを覚えています。いつだったか南海きっての鈍足コンビである野村克也とケント・ハドリがダブルスチールを敢行し、成功したときの相手キャッチャーの慌てっぷりは今でも鮮明に覚えています。古きよき時代でした。
貧乏会社とは言うが、南海鉄道は大都市圏の鉄道業という安定した業種で
売上高も当時で1000億円(今は2000億円)
なのに球団に対する仕打ちが酷過ぎる
球団を持つべき企業ではなかったと言うしかない
結局南海も近鉄も阪急も球団を捨てたな・・・
鉄道会社がプロ野球球団を持つメリットが無くなっただけ…
鉄道事業は金は掛かるし利幅は薄い。
今期、南海は連結で2000億円あるが15億(単独なら35億弱)の赤字。
利益のトップは不動産・貸しビルで、鉄道事業は😓
ましてあの立地で運賃収益は見込めないし、地元密着の企業としては広告費は高い。
赤字なら捨てられても仕方ないかな。
ここで売上は無意味だよ
南海は大阪球場の立地が良すぎてあかんかった類。
あの位置だと、南海沿線以外から来る客は南海電車を全く使わない。
繁華街のど真ん中難波に球場を持ってたから維持費か莫大だったんやろね。
本物の軍人が率いていたは笑いを禁じえない(笑)
ですよねwwルーツがすごいです(笑)
志願が軍人で徴兵は一兵卒とかで分類するとそうなるのかも。
その頃は軍隊経験者は結構いたみたい。戦死した選手で一番?有名なのは沢村。惜しまれる選手は結構いたみたいです。幸い五体満足で復員後にプロ野球を盛り上げた人達もいるし。
だからノムさんが昔の監督と比べて今の監督は小物しかいないというのもわかる。川上も鶴岡も軍人で立派な大将ですから。
鶴岡監督は大学卒なら資格がある幹部候補生試験を合格して陸軍の高射砲部隊に配属されています。
勤務先は日本本土での防空任務なので外地へは行かなかったそうです。
知覧飛行場の機関砲中隊で中隊長をされているので階級は中尉もしくは大尉あたりです。
因みに(;^ω^)元軍人の有名人なら
ウルトラセブンのキリヤマ隊長こと中山昭二も元軍人
素晴らしい企画映像を、本当に有り難うございました 確かに、今はソフトバンクで強くファンも多いですが、昔は大変だったんですね そんな中で、素晴らしい選手が生まれていますね これからも楽しみにしています本当に有り難うございました。素晴らしい企画です。
1973年(昭和48年)の日本シリーズ、南海×巨人。第1戦に先勝した南海の野村監督は、翌日、球場へ来て唖然。雨で試合が流れると思っていたが、南海球団が職員・2軍選手を総動員してグランド整備をしていた。雨も考慮した選手起用を考えていて、「(整備を)止めてくれ!」と叫んだという。ただ球団は、日曜日の巨人戦、日本シリーズであり満員の観客を見込んでいた。この試合で堀内投手(元巨人軍監督)が大活躍、4連勝で巨人軍の日本一となった。これも貧乏エピソード...なのかなあ。
西鉄と南海のように西武とバンクで優勝争いがしたかった…
大学の時、ユニフォームを南海カラーに替えた事が有った。 グランドに来た、付属高校から南海に入団した同い年の選手のユニフォーム姿を目の当りにし、とにかく、格好良かったので!
かっこいいですよね!
鶴岡親分と言えば、昔気質と思われがちですが、ノムさんのアイデアと思われることのあれこれも、実は鶴岡監督に倣っていたようです。鶴岡監督もはじめは、選手兼任だったと思います。
小さい頃に父親から、『南海は何回やっても負けるから南海なんや』って言われたの覚えてる
しかし、何回やっても勝つから南海でもアリなんじゃないかと、子供ながらに思った記憶がw
昔のパ・リーグはどこも似たり寄ったりですよ。
メディアからほぼ無視されてましたからね。
関西では阪神の独り勝ち状態ですが、それは関西電鉄3社を裏切って巨人戦があるセ・リーグに加盟したからでメディアに作られた人気だったんです。
もし南海がセ・リーグにいたらいまでも大阪球場で南海が野球をしていたと思います。
ただそれでも今のような阪神一辺倒というわけではなかったんですよね。在阪メディアに電鉄会社が大株主に居た関係もあって、MBS=南海・ABC=阪神&近鉄・テレビ大阪=近鉄・関テレ=阪急・よみうり=阪神&巨人といった具合に棲み分けができていたんですよ。恐らく星野阪神の優勝と近鉄・オリックス合併後の時期を境に阪神一辺倒になっていったかと。
@@donmome5422 やっぱ1985年のタイガース日本一が、南海&近鉄&阪急のその後の運命を決められてしまった感がある。
@@壱号機 それもあるけど同じ時期に国鉄民営化でJR西日本ができたから、関西私鉄各社が本業で押され始めたたのもあると思う。
阪神がパ・リーグに加盟してたらどうなってただろうか?昭和24年、25年あたりのことなので細かいところはわからないけど、勢力図や経営など様々なところで大幅に違ってたんだろうなと想像してしまいます。
たらればを言っても仕方はないんだろうけど、南海も近鉄も阪急もセ・リーグに所属できてたら、確かに今でも球団経営をしていたかもしれない。
選手達は全て懐かしい…。
大阪球場も今では考えられないくらいすり鉢状のスタンドで、最初に入った時は驚きと恐怖を感じました。
関西出身の祖父は南海ファンだった。「かっとばせ!キヨハラくん」でしか知らなかった自分はマゾな人だ、としか思わなかったけど鶴岡の現役時代から黒い霧事件までは阪神ともかなり人気を争ってたというから奇特ではなかったんだな。
大阪の難波周辺の
ご年配の方々は
「今でもホークスファンです!」
という方が一定数いらっしゃいますね。
関西クラシックシリーズでは
この人たちが南海時代のユニや
法被を着て京セラドームに押し寄せ
どっちのホームなのかわからなくなる位
盛り上がってる印象です。
6:11火鉢で暖をとるのは凄い!南海ホークスって大正時代の1910年代の球団かな?
あと天才佐々木誠も加えてほしかったな。
秋山とトレードでライオンズに来たけど、秋山と遜色なかったよ。ライオンズに来てくれた事を今でも感謝している。
首位打者と盗塁王のダブル同時に取ったんだっけ
笑いながらも涙が滲む話ですねー。
笑いを交えないと辛いなと思いまして。。
6:59 サーカスのクマというより他の部屋に出稽古へ向かう相撲取りのイメージw
ちなみに香川さんが自転車通勤してた話は島田紳助氏もネタにしてましたね。
阪神が優勝した翌年、阪神とのオープン戦を大阪球場で観ました。
大阪球場が超満員だったのを記憶しています。
貴重な記憶だったのですね。
1986年は大阪球場最後のオールスターも超満員でございました。
全セ吉田監督の推薦で出場した阪神川藤選手のレフト前ヒットからのオーバーラン→タッチアウトは大爆笑でございました😁
初めて大阪球場で緑のユニフォーム見たときの感動は一生忘れられへん。
ぶっちゃけ貧乏よりも鶴岡体制飯田監督を経由してから野村体制に変わったときのエピソードが貧乏よりも100倍くらいやばい
そういえば、何時の頃からか春季キャンプ地は呉の二河球場でしたね。
下手すりゃ中百舌鳥より寒い。
バブルの時代に火鉢はほんとにびびったww
バブルですからねぇーw
東京ドームは空調完備で古い球場は取り残された感がありましたからね。
南海のユニフォームは濃緑のものがやはり格好いいですね!
南海って自分の祖父がファンだけれども柚木って人が好きっていってた
大阪球場に行ったら柚木がイケメンだったから柚木ーっていうコールがすごかったそうです
それは、柚木進投手のことですね。昭和20年代30年代あたりで杉浦忠投手が入団する前に活躍したピッチャーです。
@@前田貴史-b9t 柚木ですね、ありがとうございます
まさか柚木さんを知っている方がいるとは笑
何度見ても面白い。
南海は大阪の難波駅のすぐ近くの恵まれた地に球場がありながら、特にナイターはプロ野球ニュースでしか見られずいつもガラガラだった。
あぶさん、の初期の頃は大好きだった
身売りが決まった年には、南海ファンやもん、と言う歌も出されローカルで話題にもなった
東京で言えば、池袋駅か渋谷駅のすぐとなりに球場がある様なものだったのですけれどもね……。
「だってオレ〜、だってオレ〜、南海ファンやも〜ん」
元南海(後に近鉄)の 新井宏昌氏は、以前ラジオの番組で「 南海時代 球団は、新幹線は 普通車の分しか出してくれなかった。しかしプロ野球選手としての 見栄や体裁もあるので、自腹で払って グリーン車に乗っていた。」という話をされていました。
ドカベン香川は移動の際、あの体型なので新幹線の普通席が窮屈で、自腹か球団からの支給かわかりませんが座席幅が広いグリーン車に乗っていたと友人が言ってました。
投手のミチさんこと
佐藤道郎さんは
「普通車とグリーン車
どちらに乗りたい?」と聞かれ
グリーン車を希望して乗車したらグリーン車の料金給料から
引かれていたそうです。
大阪時代から現在に至るまで応援している間寛平氏は福岡ソフトバンクホークスファン、球団は感謝しなければいけないと。
大阪球場といえば尾崎豊ライブだね。
タレントの森脇健児も大阪時代から福岡に移転してから今もホークスファンです。今年はわからないですが、京セラドームのオリックス戦や交流戦の甲子園での阪神戦観戦してましたよ。
大阪球場のホームランミュージックや試合開始や終了、後イニングの間も運動会の時かかるような音楽が聞けて本当に昔ながらの昭和の球場でした。誰か編集してくれないかな・・
初期のコミック本のあぶさんが好きでパリーグは南海を応援してました。
内容は野球一辺倒じゃなくて下町人情モノってかんじで、独身だったあぶさんは安アパート住まいでした。
水島新司も漫画もその頃が一番良かったですね。
水島作品の魅力は古き良き時代の下町人情でしたからね。平成以降はなんか時代に不釣り合いな感じでしたね…
ドカベンの山田太郎の実家は畳屋ですが、山田がプロ入りしてからも家はかなり古い状態でした。そこに山田の高級車が停まっていてかなりの違和感がありました。山田はしなかったみたいですが、同じ家が古かったキャプテン翼の日向小次郎はプロ入りしたあと、親やきょうだいが住むための家をプレゼントしましたね。
@@前田貴史-b9t おそらく水島先生は「山田=貧乏」の構図を外したくなかったのでしょうね。プロ野球編をなかなか始めなかったのは、その構図が崩れるのが嫌だったからでしょう。プロに入って活躍すれば間違いなく高年俸プレイヤーになるので、プロ入り後の長屋住まいは余りに不自然でしたが、「貧困」をテーマにした作品を多く描いた水島先生には絶対に譲りたくないものがあったのでしょうね…
@@前田貴史-b9t 里中も母子家庭で生活は楽ではないし岩鬼は岩鬼建設が倒産して自宅売却。比較的裕福なのは音楽家の殿馬。八百屋の山岡。ラーメン屋の石毛。土井垣。渚
うろ覚えですが、あぶさんこと影浦安武氏が昭和47年に契約金50万円・年俸250万円で南海ホークスと契約してた記憶が・・・・俺の生誕年と同じだ(汗
選手が契約時にオーナーから
金庫の中を見せられ
「金無いねん!」はマジな話
らしい。当時12球団貧乏な球団が
今じゃ12球団一の金持ち球団なんて
当時を知るファンとしては考え深い
クラウンから西武に身売りされたライオンズの前例がありましたから。
あの当時パ・リーグは西武以外貧しかったからな。日本ハムもユニフォームの替えがなくて、退団した選手の名前と背番号を貼り替えて、新入団選手のユニフォームに使い回してたという。島田誠が球団に「ユニフォームの予備を作ってほしい」と直談判したらしい。プロ球団とは思えないエピソード。
マイナーリーグみたいな話ですね❗
その島田誠って西武の捕手野村克也さんから二、三、本盗を連続的に決めてたんでしたっけw。もう送球もできなくなったノムさんに追い打ちをかけたw。
81年の優勝時にはそのボロボロになったユニフォームで日本シリーズに出てましたからね。
今だと帽子でさえスポンサーワッペン入りがあるというのに・・
昔のラジオ・テレビは、パリーグの途中経過を聞くために聞いていました🥴
もしタイムマシンで昔に戻れるなら大阪球場のほとんど貸切状態(!)のようなスタンドでプロ野球そのものをじっくりと観てみたいです。
そう考えると、コロナ下での観戦は、後々貴重だったと言われるのかもしれませんね。
ヤジ飛ばしたら顔バレ確実やから、笑えるヤジしか飛ばせへんかったと聞きますわ。
何せ選手はパンチパーマで、下手なヤーさんより怖いから…
西宮球場で流しそうめんもどうぞ
南海の緑のユニホームが似合うなら、ソイツは余程のスタイルで男前。山本カズなんか凄い似合ってたよなぁ…
今や一番資金力のある球団。
ホークスの不遇時代知らない世代おおいだろうなー。
3:56
近鉄のターミナルは、上本町か難波で、天王寺(阿倍野橋駅)は、直接名古屋には、線路は繋がってませんね。
80年代関西で幼少期を過ごしましたが南海の試合をTVで見た記憶がない
初めて満員の大阪球場をTVで見たのはダウンタウンのコンサートでした
西城秀樹さんが大阪球場で10年間コンサートを開催しましたが、「西城秀樹のコンサートよりも客おらんがな❗」のヤジもございました😅
一応、MBSさんが主催ゲームの権利を持っていて、大阪球場の一塁側フェンスにテレビの4ch、ラジオの1179Khzが不気味に記されてたよね。
MBSの深夜ラジオ番組ヤンタン若かりし頃のさんまや紳助らで試合
した会場が満員の大阪球場でした。「さんま。ベンチに入れたら客増えるぞ。」
その野次が笑うに笑えんかった。
毎日放送で土曜や日曜のデーゲームでたまにやってました。
同じ在阪パ・リーグの
阪急ブレーブスは関西テレビ、近鉄パファローズは朝日放送です。
どこもナイトゲームは滅多と放送されませんでしたが、阪急だけ阪神の試合がないときにサンテレビで夜も中継していました。
昭和の時代。在版球団も試合中継にお金を使いだして懐かしいですね。
南海は昭和の頃、ラジオ大阪が南海太郎さんのMCで週末に中継
近鉄は朝日放送ラジオが土曜のデーゲームをラジオ大阪が平日の夜のナイターを中継
阪急は毎日放送ラジオが昭和50年代に2年程、松井昭憲アナがMCで日曜日のデーゲームを夜に録音中継
関西テレビが土曜の在版球団のデーゲームを中継。殆ど試合途中で放送終了でした。
埋まれて初めて後楽園球場で見た試合が南海VS日ハムでしたがその試合は区の少年野球の開会式前に行われた試合だったので声をかけると選手は手を振ってくれたりとても楽しい思い出になりました。
ちょうど球団身売りの時期、中百舌鳥球場近くの大学に通っていました。講義をサボって中百舌鳥球場で練習を見ることがありましたが、選手がお昼に球団から出されたらしきパンを食べながら牛乳を飲んでいて、これにはさすがに驚きました。
南海時代に川勝オーナーがキャンプ視察で差し入れたのは
ミカンにポテチ。
ダイエーになったらキャンプ場に大型冷蔵庫が設置されて中には
新鮮な果物と飲み物。しかし貧乏性が染みついた選手達は後日請求されると
思い暫くは飲み物しか減らなかったとか。
でも南海、近鉄、大洋みたいな打高投低のチームってロマンあるな(笑)
白地に緑の筆記体ユニフォームはカッコイイですね。
全然知らないエピソードだらけで面白かったです。
ノムさんが怒るのも無理はないです。
ただなぜ強い球団が出来上がるのか?軍隊の特訓は想像できません。
「ホークスは好きだが南海は嫌い」は国定選手も同じようなコメントをされてますね。
楽しんでいただけてよかったです。
練習内容・時間ともにすごかったんですかね。
@@田中雅規-i9s 様。江夏豊も引退後、ホークスではないが「タイガースは好きやけど、阪神は嫌いやった」と言ってました。
@@前田貴史-b9t さんへ 江夏氏の話は初耳です。いい話ありがとうございますm(_ _)m
監督が全国駆け巡って選手をスカウトしまくるっていうこの時代としての監督としては超有能だったんだ
そのせいで後任の監督が内部に潰されてドラフト当日に急死するっていうとんでもない大事件も起きた
昔、たまたま試合のあった日に球場の前を通りかかって一緒にいた職場の同僚とちょっと野球見てみようとふらっと入ったことがあります。
入ってみて外野席がかなり高いところにあってものすごくすり鉢状の球場でびっくりしました。
動画にもありましたが、お客さんはホントに少なくて選手たちがかわいそうでした。
試合内容は全く覚えていませんが、ナイターなのに怖ささえ感じるすり鉢状の球場の雰囲気は忘れられません。