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こんばんは。ポットちゃん日記です。鳥取県、城跡には、行った事がありません。鳥取砂丘、米子、蒜山高原などには、お邪魔した事があります。大きな城跡ですね。🔔👍️させて頂きました。綺麗に石垣も積まれています。色々教えて頂き、ありがとうございました。
お城漫遊へ、ようこそ!コメント、ありがとうございます。
市内の米子IC付近寿製菓によって建てられた米子城天守閣をモチーフにした建物「米子お菓子の壽城」があると聞きました。
私も知っています。
米子城の動画作成&投稿ありがとうございます。米子城には大人になってから一度だけ登りましたが、たしかに高さは100mないのに、登りはキツかったです。でも、天守跡からの米子市内と大山の眺めは格別でした。米子城は、天守と副天守(四重櫓とも呼んだようです)がそれぞれ独立して建っているという珍しい形(土塀や渡櫓で連結されていない)でした。副天守は関ヶ原の戦いの前に城主だった吉川広家の築造、天守は関ヶ原後に城主となった中村一忠の築造のためです。副天守は3層で、犬山城に似た姿でした。天守は4層で大入母屋破風が同方向に二つ重なっていました。また築造当初は最上層にあった高欄を雨風による被害を防ぐために板庇で囲い込んでおり、他に類例のない独特の姿をしていました(副天守も同様)。天守と副天守を含む城内の建造物は、明治初期にことごとく取り壊されてしまいました。天守一つでも残っていれば、建造時期の古さ(隣県の国宝・松江城天守より古い)や形態の独特さ、城郭研究史上の重要性などから、国宝指定は間違いなかっただろうと言われています。鳥取県出身者として、大変に残念なことです。天守は古写真が、副天守は古写真はないのですが幕末に修理をした際の詳細な指図(設計図)が残っており、復元の資料はある程度揃っているのですが、鳥取城に比べて復元への気運は官民ともに盛り上がってはいないようです。 ※文化庁が城郭の復元を許可するには、古写真・指図・雛形のいずれかがあることが大きなポイントになるそうです。ただ、東部の鳥取市と西部の米子市は、歴史的に見ても何かと張り合っていたので、将来鳥取城の復元が完成したら、米子城も「鳥取に先を越された。うちらだって!」とばかりに、一気に復元へと進むかもしれません。いまTH-camに映像が残っているか分かりませんが、地元の米子工業高等専門学校のチームが米子城の復元的考察の詳細な解説をTH-camにアップしていました。
詳しい情報有難うございます。参考になりました。私は本丸からの眺望がすばらしく、初めて根石を見れたことです。お城整備の一環として石垣の調査がされていたようです。将来、米子城も櫓か天守の復元がされれば良いですね。
米子城、中海沿いにあるんですね。お城の縄張り全体を見て、攻守両方の立場で見るのが好きです。米子城、守りに易く攻めるに硬いお城の様ですね。
いらっしゃい!守りを重視して縄張りされていますね。
こんばんは。
ポットちゃん日記です。
鳥取県、城跡には、行った事がありません。
鳥取砂丘、米子、蒜山高原などには、お邪魔した事があります。
大きな城跡ですね。
🔔👍️させて頂きました。
綺麗に石垣も積まれています。
色々教えて頂き、ありがとうございました。
お城漫遊へ、ようこそ!
コメント、ありがとうございます。
市内の米子IC付近寿製菓によって建てられた米子城天守閣をモチーフにした建物「米子お菓子の壽城」があると聞きました。
私も知っています。
米子城の動画作成&投稿ありがとうございます。
米子城には大人になってから一度だけ登りましたが、たしかに高さは100mないのに、登りはキツかったです。
でも、天守跡からの米子市内と大山の眺めは格別でした。
米子城は、天守と副天守(四重櫓とも呼んだようです)がそれぞれ独立して建っているという珍しい形(土塀や渡櫓で連結されていない)でした。副天守は関ヶ原の戦いの前に城主だった吉川広家の築造、天守は関ヶ原後に城主となった中村一忠の築造のためです。
副天守は3層で、犬山城に似た姿でした。
天守は4層で大入母屋破風が同方向に二つ重なっていました。また築造当初は最上層にあった高欄を雨風による被害を防ぐために板庇で囲い込んでおり、他に類例のない独特の姿をしていました(副天守も同様)。
天守と副天守を含む城内の建造物は、明治初期にことごとく取り壊されてしまいました。天守一つでも残っていれば、建造時期の古さ(隣県の国宝・松江城天守より古い)や形態の独特さ、城郭研究史上の重要性などから、国宝指定は間違いなかっただろうと言われています。鳥取県出身者として、大変に残念なことです。
天守は古写真が、副天守は古写真はないのですが幕末に修理をした際の詳細な指図(設計図)が残っており、復元の資料はある程度揃っているのですが、鳥取城に比べて復元への気運は官民ともに盛り上がってはいないようです。
※文化庁が城郭の復元を許可するには、古写真・指図・雛形のいずれかがあることが大きなポイントになるそうです。
ただ、東部の鳥取市と西部の米子市は、歴史的に見ても何かと張り合っていたので、将来鳥取城の復元が完成したら、米子城も「鳥取に先を越された。うちらだって!」とばかりに、一気に復元へと進むかもしれません。
いまTH-camに映像が残っているか分かりませんが、地元の米子工業高等専門学校のチームが米子城の復元的考察の詳細な解説をTH-camにアップしていました。
詳しい情報有難うございます。参考になりました。
私は本丸からの眺望がすばらしく、初めて根石を見れたことです。
お城整備の一環として石垣の調査がされていたようです。
将来、米子城も櫓か天守の復元がされれば良いですね。
米子城、中海沿いにあるんですね。
お城の縄張り全体を見て、攻守両方の立場で見るのが好きです。
米子城、守りに易く攻めるに硬いお城の様ですね。
いらっしゃい!守りを重視して縄張りされていますね。