重力奏法、認知度と誤認

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  • เผยแพร่เมื่อ 14 พ.ย. 2024

ความคิดเห็น • 3

  • @和佳奈エペペ
    @和佳奈エペペ 2 ปีที่แล้ว +1

    私はど素人ですが。
    最近、思うのですが、音楽、ピアノ🎹を弾く時にスイッチが入り神様か何かが降りてきて入り込んで弾いてると思う時があります。重力奏法になってるかどうかはわかりませんが、こちらの動画を拝見して、弾き方を自分なりに変えていきました。
    元々、何故スムーズに弾けないのか?と思った時に、手首を回転させると上手く弾けてたので、ネットで調べてたまたま重力奏法がある事に気付きました。そこからが事の始まりでした^_^。
    凄く弾きやすく、楽しみながら弾く様になり、とても無理と思っていた壁を超え、難しい曲も弾ける様になりました。え?こんなにスラスラ弾けるの?と思う程です。長時間弾いても疲れないし、よく聴こえるし、色んな音が出せて楽しくなりました。弾いてると止まらなくなり、自分が弾いてるのに自分が弾いてなくて、横で聴いてる感じで、自分でも凄くびっくりする事もあります。そんな時は凄く感動して爽快な気持ち。
    感謝‼️でいっぱいになります。これからも動画楽しみにしています。知らない事ばかりです^_^

  • @happa0922
    @happa0922 3 ปีที่แล้ว

    初めまして。
    私は、還暦も過ぎています。
    習い始めは、卵を掴む形で指を良く上げる、意識は指先、でした。
    大学後半で先生が変わり、支えるのは手の甲、第三関節、と直されました。
    卒業後は指導は受けておりませんでした。
    その後、今から四年前に、シューベルト作曲、リスト編曲の、糸を紡ぐグレートヒェンをテレビで見た時に衝撃を受け、その頃から、音大で重力奏法を学んで来た、という先生を紹介され、今やゼロからやり直しの状態です。、
    昨年末に、鍵盤の手直しをお願いした、スタインウェイ専門のピアノ調律師の方に、私のピアノの響きについて感想を伺ったところ、ピアノの一番向こうにハンマーがあるようなつもりで、ピアノ全体が共鳴してくれるように弾くべきで、自分の手元を鳴らそうとすると、叩く響きとなり、音が割れる、との指摘を受け、更に驚いた事に、今のピアノの先生にも全く同じ事を言われたばかりだったのです。
    感無量でしたし、改めて調律師さんの存在に敬意を感じました。
    とはいうものの、レッスンでは理解出来て、それなりの響きが出せても、家に戻って、いざ復習となると、???となります。
    まさに、我慢時です。
    学生時代のようにコンスタントにレッスンに行く事もできない中でも、何としても諦められず、模索しながら弾いています。
    継続しきれない環境、という事もあり、ピアノに向かえない時でも、頭の中は、ピアノ奏法の事でいっぱいです。
    現在は、ドヴュッシーの水の反映と、ベートーヴェンソナタのNo.3の全楽章に取り組んでいます。
    指は細いです。
    弱くはなく、広がりもしますが、良い響きがなかなか出せないでいます。
    せめて、あと10年若ければ、などと思ったりもします。
    無理かもしれなくても、諦められない現在です。
    長々と失礼致しましたが、何か、アドバイスでも頂けたら幸いです。
    m(_ _)m

  • @bandgerrard
    @bandgerrard  3 ปีที่แล้ว

    とある視聴者さん(生徒さん)から、
    コメントを頂戴いたしましたので、
    以下、転載いたします。
    「重力奏法、認知度と誤認」というタイトルを拝見し、ある事情で見付けた神戸大学
    の博士論文が、認知度の向上に資するのではと思い、ご紹介申し上げます:
    「ハイフィンガー奏法による日本のピアノ教育の系譜 : 明治末期から井口基成の時代
    まで」
    www.lib.kobe-u.ac.jp/repository/thesis/d1/D1002501.pdf
    この論文によると、日本では幼少のお子さんからプロを目指す音大生まで、圧倒的多
    数のピアノ学習者が、ごく当然の如く「手を丸め、指を立て、指を上げ」るよう言わ
    れ、まるでそれ以外の奏法は存在しないかの如く指導されているそうです。
    ピアノ学習者が、自分の弾き方を一つの奏法として認識できていないとすると、異な
    る奏法としての重力奏法の認知度も上がりようが無いという気が致します。その意味
    で、当然の如く指導されているものを「ハイフィンガー奏法」と明確に規定し、欧米
    では100年も前から重力奏法が一般化しているのに、なぜ日本では抜き難く広まった
    ままなのかを分析したこの論文は、多くの人々に読んでもらう価値があると考えた次
    第です。
    ピアニストの中村紘子が、著書『チャイコアスキー・コンクール』の中で初めて「ハ
    イフィンガー奏法」を概念化し、この奏法がもたらす数々の弊害に注意を促したとの
    ことですが、自身も同奏法による典型的な教育を受けて育った後に、ジュリアード音
    楽院で徹底的に矯正されたそうです。
    最後の「おわりに」に全体が要約されているので、何ヶ所か抜粋しました。
    「音楽性 」とはあまり関係のない部分ではあるが、「バリパリ弾く (弾いているよう
    に聴かせる)」という点で、ハイフィンガー奏法はきわめて合目的的なのである。そ
    して井口をはじめハイフインガー奏法を推進した人々は、教育の基礎段階において
    「柔軟な音楽表現」の領域を完全に切り捨て、一目瞭然で万人に分かる「(狭い意味
    での) 技術」の部分にだけ絞って徹底的な訓練を施した。
    「技術か音楽か」という点において、日本近代のピアノ教育は堂々巡りを繰り返して
    きたように思える。「音楽」こそが最終目的であることは分かっている。しかしピア
    ノという楽器はあまりに難しく、パルナッソスの山へ至る道は険しい。従って「音楽
    を楽しむ」ためには、音楽を一旦後回しにして、まずは手っ取り早く技術だけを先に
    習得させてしまおうとする一種の倒錯が起きる。そして技術至上主義への批判が出て
    きても結局は、「しかし難曲を弾きこなすにはまずは技術だ」という最初の出発点に
    議論が戻ってしまうのである。
    こうした悪循環にピリオドを打つために必要なのは、十人の生徒を十人ともコンサー
    ト・ピアニストに仕立てようとするのではなく、余裕をもって弾ける技術の範囲内で
    もっと音を味わい、もっと音楽を考え、そして楽しむ教育を模索することではないだ
    ろうか。
    そしてまた、本論文で述べたようなピアノ奏法の歴史についての教養を教師自らが持
    つことも、これからのピアノ教育にとってきわめて重要であると思われる。ピアノ音
    楽史を「ピアノ奏法史」という視点から眺めることは、ある楽曲を弾く際の適切な身
    体の使い方 (=演奏様式) を理解するうえで、非常に役に立つに違いない。
    最後になりましたが私は、70過ぎてから思い立って『メトードローズ』『ピアノの
    練習 ABC』で練習し、その後は独学の気儘さで、気に入った曲で弾けそうなものを
    試みる程度です。