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1970年ごろまでは人の集まるような場所で傷痍軍人の姿を何人も見かけました。この動画を見て思い出しました。
いつも貴重な映像ありがとうございます。寒い中探索お疲れさまでした。亡き叔父が上野で貴金属店を営んでおりました。傷痍軍人さんはその昔(1965~1970年頃)祖父宅があった大田区本門寺境内に続く階段でよく見掛け、手足がないお姿が怖く夢に出てきて夜中によく泣いていました。
(3:51)辺りに映っている二人の傷痍軍人姿の人たちは、恐らく同じ格好の人物を、郊外の駅前広場でも見たことがあります。昭和30年代半ばです。それから10年経過しても同じだったのかな?とも思います。ただ、別の方がコメントされているように、現在では本当のところは、どうなのかは疑問です。数年前に亡くなりましたが、南方で左腕を撃ち抜かれて麻痺が残る傷痍軍人が仰っていたのは「本当に傷痍軍人だったら、生活できるだけのまともな軍人恩給を、もらえたはず」と。
高校生のときに中型免許を取得して友達と上野のバイク街へ行き初めて買ったバイクは上野で買いました物心付くくらいによく母に連れられて上野公園の階段に白い服を着た義足や義手の方たちが演奏してた覚えがあり母に尋ねると戦争に行ってケガした兵隊さんなんだよって教えてくれました今でもたまに上野公園のこの階段を昇ると思い出します
いつも有難うございます。1978〜1980年代、上野パーツ、東京パーツ、コーリン、東京単車部品(東単)行きました。店員とバイクの話をしているだけで楽しい時代でした。
上野公園の階段、下の方の踊り場にも似顔絵描きさんがいましたね(写真ではイーゼルだけ映ってます)。きっとずっと何年も同じ人が描いてらしたんだと思います。子供のころ、上野公園に行くたびに描いてるところを覗きに行きました。傷痍軍人さんは偽物も交じってたらしいですね。渥美清の「泣いてたまるか」にもそんな話があります。お化け灯籠、今度行ったら見てみます!
上野バイク街90年代半ばですが、中免取ってすぐの頃にバイクで高速走ってパーツとか買い物に行きました。以来、2000年代初頭までバイクで何回も行きましたし、別の用事で新幹線で東京に行った際も、上野に足を延ばしてバイク用品を買いに行ってました。動画に写ってるRABEEでヘルメットを買った記憶もあるので、とても懐かしいですw光輪モータースが倒産してからは全く行ってないですが、光輪の元従業員の方達がやってるお店BIG BEATはまだ営業してるみたいですね。
東京の玄関は今でも上野と思っています。親の都合でS49年ころ東京に来ましたが、上野駅は横に多くのホームがズラッと並びあり、度肝を抜かれた記憶があります。
上野は昔家族と一緒によく行きました 昭和46年に和服姿の女性がいますが小さい頃動物園で撮ってもらった写真にも辛うじて和服の女性がいて懐かしかったです 傷痍軍人は近所の縁日で見かけました 大人は皆どこかに戦争の傷を持っている時代でした
関東に仕事で済んでいた時には、時々上野に行っていました。バイク好きなのでバイク街にも行っていましたね。その通りにあるトンカツ屋の『まる一』でお昼ご飯を食べていましたが、現在でも営業されているようで、また行ってみたいですね。
上野のバイク街は現みずほ銀行主体で再開発の計画により貸しはがしで多くの店舗が廃業した様です。みずほ銀行自体が経営に問題が出て再開発が中止になった様です。光輪モーターが倒産した時に債務者が店舗をこじ開けているを見ました。光輪が倒産した後に残った商品を安価で販売したのでジャンパーやヘルメットを買い今でも皮ジャンなどは愛用しています。
傷痍軍人さんも闇市のお店も「戦後」が平成の30年間で完全に消えてしまった感があります。上野の山に残っている清水堂、五重塔、東照宮は上野戦争、関東大震災、東京大空襲など幾多の困難を乗り越えて奇跡的ですね。
父が昭和41年生まれで現在58歳高校時代あたりから超絶のバイクブームでみんな原付や中免を取って乗っていたそうですMBX50から始まってRZ250,Z400FX,KH250,CBX400やGPZ400,FZ400R,RG250Γ、Z400ゼファー…上野バイク街は半ドンの土曜日に毎週通いつめて夜までいろんな店をふらふら…特にコーリンは支店がたくさんあって面白かったそうです夕飯は昭和通り沿いにあった立ち食いステーキ?のテキサスで食べることが多かったとか晩年はコーリンの社長が夜逃げ?したらしく店に「社長出てこい!」だの「逃げてないで給料払え」の手書きポスターが貼られまくってたとか…この動画を見せたら懐かしがっていました
コーリン、めちゃくちゃ懐かしいですね😅プリカーナというオリジナルの皮ツナギを販売してました。僕はFZR400RでSP忠男にパーツを買いに行ってました。
@@rrgt1590 モリワキとかヨシムラのマフラーも流行りましたよね2ストはチャンバーに変えたりしてたしかプリカーナは比較的安価で買いやすかった皮ツナギでしたね
階段の似顔絵かきで書いてもらったことがあります。松坂屋のあたりにも傷痍軍人やひよこ売りがいました。
20年以上前にオフ会の主催者と階段の所で傷痍軍人と似顔絵業で賑わっていた話と広小路にびっしり都電線路があった話を熱くしてしまいポカンとされたのを思い出しました…
上野の山への階段は付け替えや植栽で様子がかわってしまいましたが、聚楽の横を京成上野に降りてゆく階段の辺りはあまり変わっていません。動画のイーゼルだけが写っている場所は似顔絵書きさんのナワバリだったらしく、私が中学生ぐらいまでは暗いタッチの写実的な鉛筆画、その後は色鉛筆でカラーに、最後はデフォルメされたコメディータッチの絵に変わり、平成の初めぐらいまでは代々の絵描きさんが居ました。私の父親は傷痍軍人さんに対して何故か良くない印象を持っていたようですが、母親が「これを持っていって差し上げてきなさい」と小声で五十円玉を握らせてくれたのをよく覚えています。彰義隊の墓所の手前左側、今はレストラン?のようになっている建物には、彰義隊の遺族の方が小さな記念館を開設されていたように記憶しています。動画には映っていませんが現在の東京文化会館の向かい側には、科学博物館の裏手あたりまで続く得体の知れないバラック群の一帯が有り、暮らしている人々も居たはずです。地元の気の荒い人間でも「あそこはチョットなあ...」と後ずさりする感じの場所でしたが、やはり平成の前半頃にはいつの間にか跡形も無く消滅してしまい、思い切って一度だけでも行っておけば良かったと後悔しています。
昭和47年大学進学で上野駅に降り立った時浅草口に傷夷軍人が立っていました。銀座線に通じる地下通路には戦後27年経っても消し去れぬ敗戦が漂っていました。私の記憶で傷夷軍人を見かけた最後は昭和50年渋谷駅です
傷痍軍人は階段周辺のほかにも、文化会館周辺にも居たのを覚えています。イラン人は階段周辺で煮炊きもしていたことを動画を見て思いました。
3:50 同じ人物かはわかりませんが、地面に手を付いているように見える傷痍軍人を、1960年代から1970年代に、横浜中部の商店街で見たことがあります。その方は両腕が無かった。金属棒で両腕の付け根を支えて、このような姿勢をとっていました。子供の私には衝撃的でした。
1970年代前半には未だ傷痍軍人さんは上野~御徒町あたりでよく見かけましたね。私がよく覚えているのは御徒町駅近くの松坂屋前の歩道で、この画像と同じように腕または足の無かった傷痍軍人さんともうひとりの方がアコーディオンを演奏していた姿でした。私も子供だったのでやはり衝撃的でしたね。
楽しく拝見しました。私の若かった頃(45年前)にもまだ、大勢の似顔絵屋(確か2500円で描いてもらった)、靴磨き(今の車道側の歩道にちらほらでその横に傷痍軍人、靴磨きは駅の構内で)があった事を思い出しました。上野公園今昔では上野戦争の時の話題をよく語れますが、明治末~大正時代の博覧会で多くの建物が建てられ、今はまったく痕跡が何もない(写真や絵葉書は現存)事に興味があります。ネタがつきたら取り上げてくださる事をお待ち申しあげます。
90年代後半だったと思うけど上野光輪にバイクのパーツを友達と買いに行きました当時はバイク街と呼ばれるだけあって多くのバイク関係のショップがあったのを記憶しています、でも今は見る影もない状態なのですねとても貴重な映像ありがとうございました
上野駅の不忍口の所にあった銀座線へ入るスロープのトコにも傷痍軍人さんが座っていましたあと浮浪者も・・バイク街は毎週末通いました、当時は改造に厳しく 都内 昭和通りで何回か整備不良の切符とシール強制的に購入した記憶あります
階段の所にテレカ持った外国人いたの覚えてる〜1980年代後半くらいに軍服みたいなの着たおじさんが座ってて物乞いしてたけど、傷痍軍人の偽物っぽいなって思って見てた
アメ横にもいた。変造テレカ手にした中東系の連中。あれのおかげでテレカの540,320度数が製造中止になった。
1960年頃、谷中に墓参りして上野によりアメ横に行きました、その頃上野広小路には地下道があり、白い服に兵隊さん帽子を被りアコウデオンを弾いていた軍人さんが数人いました。少し湿っぽい通路でした。1965ごろにはもう居なくなりましたね、
昭和40年代になってもまだ傷痍軍人がいたんだな。上野は行く用がないから知らないが、昭和三十年代に新宿駅前にいたのは覚えてる。
バイク街、ありましたよね。高校生の頃、よく見に行きましたよ。外国製の大排気量のバイク等を羨望の眼差しで見てました。
彰義隊の墓が登場するのは、前々回で紹介された円通寺からの流れでしょうか。彰義隊の墓、初代は円通寺に作られ、翌1869年に今の墓の前に2代目となる小さな墓が、1881年に現在の3代目ができます(「台東区の名所と文化財」)。この墓には山岡鉄舟の筆による「戦死之墓」の字句だけが記されたのですが、戊辰戦争から10年以上経ったにもかかわらず、賊軍彰義隊の名を墓に書くことには、当時未だ無理だったようです。
上野は郷愁を感じる街。子供の頃、親と一緒に出掛けた場所で一番多かったのが池袋と上野でした。
光輪が潰れてから一気にバイク店がなくなった印象があります。
傷痍軍人、似顔絵、懐かしいですね。階段にずらっと並んでいましたね。傷痍軍人はサンシャイン通りや巣鴨にもいました。最後に見たとハッキリ記憶にあるのは昭和55年ですね。白い衣装にアコーディオン、そしてでっかい犬と一緒に居ました。明治生まれの亡き祖母が上野に行ったときに書いてもらった似顔絵を大切にしてましたね。上野寛永寺や芝増上寺の灯篭、戦災で散逸してしまってますが、移設目録とか見てみたいです。近所の造園業の敷地に破壊された灯篭があったので、かなりの数無くなってると思いますが…
傷痍軍人の方たち。昔は、渋谷のガード下に居たなぁ。
懐かしい。。。感謝します🤗🤗
上野のバイク街ですね。原付免許をとってすぐに行きましたよ。ヤマハのスポーツタイプの原付を6万5000円で買いました。しかしすぐに事故ってフロントフォークが曲がって廃車になりました。親父に滅茶苦茶怒られたことは言うまでもありません。
傷痍軍人さん、覚えています。が、母方の祖父が遺骨も髪の毛すらもない状態で帰って来たことを聞かされていたので、この人達はまだマシな方だと子供心に思いましたね。
1988年(昭和63年)、この辺りでホンダVT250Fを中古で買いました。総額12万円でしたが、消費税導入の前年だったので、ホントに12万円しか払わずに済んだのが今となっては懐かしいです。
私が御幼少の砌、母とお出かけすると、駅前に白い服を着てアコーディオンを奏でるおじさんが、まだいました。昭和40年代の初頭です。私がその人に視線を向けると、母は「見るんじゃない!」と強く言いました、本質分かっていたようで。ちなみに母は、国民学校の時にグラマンに機銃掃射食らって、ギリ防空壕に飛び込んで命拾いした経験あり。
90年代初頭にも傷痍軍人いたなー恩給やら貰ってるはずなのに😂
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo comme toujours ! ✌
アラ還暦の者ですが、幼少期は何ヶ所かの地方で育ちました。どこでもお祭り会場で傷痍軍人の方がゴザをひいていらっしゃいました。とても悲しい歴史です。いつも懐かしい動画、有難うございます!
傷痍軍人をニセモノと決めつける人は何なんだろう。アメリカにだってベトナム帰りの物乞い傷痍軍人はたくさん居た。そんなこと当たり前なのに。
大型のバイクぐらい乗り回す男の子でないと本当は、、と思いますがね。あんなになっちゃいましたか壊滅ですね、日本人の野性はバイクと共に消滅か。街頭で募金を求める傷痍軍人があんな遅くまでいましたか。あの歌をご記憶と思います、独特のロシア音楽のメロディーでしたね。「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の赤い夕陽に照らされて友は野末の石の下」昭和30年頃までの路頭の姿だったと思いますが、アコーディオンは独特でした。あの傷痍軍人達は言わば詐欺であってあんな姿で物乞いする必要は無かったはずです。情ナシ日本政府も傷痍軍人にだけは早くから援助の手を差し伸べていましたから。子供にはあの手足切断や失明された姿は怖かったですね。
わたしが利用していた1985頃、階段の周りに占い師さんが多くいた気がします。
わたくしが16歳くらいの頃は埼玉から上野バイク街まで2ストの50ccで白バイにビビりながら行ったものですね😊とても懐かしく思います( ^ᵕ^)今でも仕事柄よく通りますが街並みはガラリと変わりましたね。あの頃の景色を被せながら通過していますとてもあたたかい気持ちになりました😊ありがとうございます。
あの傷痍軍人の人たちはほんとはなんだったのでしょうか?高校時代私のすむ町にもおられました。アコーディオンをひいてました。気の毒でした。
傷痍軍人はほとんどインチキで腕は包帯で体に縛り付けその上から軍服を着ていました と 亡き父がよく言ってました
自分の記憶では義足・義手を隠してなく本物の義足や義手をさらけ出して演奏してました。それも現代の義足や義手とは違い粗末は物でした
上野のバイク街、こんなんなっちゃったんだ…
今晩は東京都上野駅は当時は
バブル時代にイラン人がテレホンカードあるよ!10枚1000円!と言って偽造テレホンカードを上野で売っていたのを覚えています。一時、上野の山への階段で似顔絵を描いていた人たちが階段を外国人に占拠され居なくなった。今は、似顔絵を描く方は、上野の階段に居るのでしょうか?誰か知っている人が居たら教えてください。
あの階段似顔絵描きのおじさん達15年くらい前までは、4人は居たよな。😢
バイク街の先の石橋メモリアルホールに何回も行きましたホールは譲渡され、立派なオルガンも取り壊されてしまったようで大変残念です
昭和41年ころ階段付近の絵描きにお願いしました。コンテと鉛筆画を選べて1000円でしたね。
上野公園の階段と言えば、やはり変造テレカ。「10枚¥1000~」
上野光輪街だ!
えー!今そうなのバイク街!全然知らなかった!やっぱり衰退してるなニッポン🇯🇵国は。自民党と公明党に骨までしゃぶられ食い尽くされてしまった。
似顔絵絵描きの友達ももういない古い街へ いまでもそこにあなたがいたら僕はなんて言うだろう
1970年ごろまでは人の集まるような場所で傷痍軍人の姿を何人も見かけました。この動画を見て思い出しました。
いつも貴重な映像ありがとうございます。寒い中探索お疲れさまでした。
亡き叔父が上野で貴金属店を営んでおりました。
傷痍軍人さんはその昔(1965~1970年頃)祖父宅があった大田区本門寺境内に続く階段でよく見掛け、手足がないお姿が怖く夢に出てきて夜中によく泣いていました。
(3:51)辺りに映っている二人の傷痍軍人姿の人たちは、恐らく同じ格好の人物を、郊外の駅前広場でも見たことがあります。昭和30年代半ばです。それから10年経過しても同じだったのかな?とも思います。ただ、別の方がコメントされているように、現在では本当のところは、どうなのかは疑問です。数年前に亡くなりましたが、南方で左腕を撃ち抜かれて麻痺が残る傷痍軍人が仰っていたのは「本当に傷痍軍人だったら、生活できるだけのまともな軍人恩給を、もらえたはず」と。
高校生のときに中型免許を取得して友達と上野のバイク街へ行き初めて買ったバイクは上野で買いました
物心付くくらいによく母に連れられて上野公園の階段に白い服を着た義足や義手の方たちが演奏してた覚えがあり母に尋ねると戦争に行ってケガした兵隊さんなんだよって教えてくれました
今でもたまに上野公園のこの階段を昇ると思い出します
いつも有難うございます。1978〜1980年代、上野パーツ、東京パーツ、コーリン、東京単車部品(東単)行きました。
店員とバイクの話をしているだけで楽しい時代でした。
上野公園の階段、下の方の踊り場にも似顔絵描きさんがいましたね(写真ではイーゼルだけ映ってます)。きっとずっと何年も同じ人が描いてらしたんだと思います。
子供のころ、上野公園に行くたびに描いてるところを覗きに行きました。
傷痍軍人さんは偽物も交じってたらしいですね。渥美清の「泣いてたまるか」にもそんな話があります。
お化け灯籠、今度行ったら見てみます!
上野バイク街
90年代半ばですが、中免取ってすぐの頃に
バイクで高速走ってパーツとか買い物に行きました。
以来、2000年代初頭までバイクで何回も行きましたし、
別の用事で新幹線で東京に行った際も、
上野に足を延ばしてバイク用品を買いに行ってました。
動画に写ってるRABEEでヘルメットを買った記憶もあるので、
とても懐かしいですw
光輪モータースが倒産してからは全く行ってないですが、
光輪の元従業員の方達がやってるお店BIG BEATはまだ営業してるみたいですね。
東京の玄関は今でも上野と思っています。
親の都合でS49年ころ東京に来ましたが、上野駅は横に多くのホームがズラッと並びあり、度肝を抜かれた記憶があります。
上野は昔家族と一緒によく行きました 昭和46年に和服姿の女性がいますが小さい頃動物園で撮ってもらった写真にも辛うじて和服の女性がいて懐かしかったです 傷痍軍人は近所の縁日で見かけました 大人は皆どこかに戦争の傷を持っている時代でした
関東に仕事で済んでいた時には、時々上野に行っていました。バイク好きなのでバイク街にも行っていましたね。
その通りにあるトンカツ屋の『まる一』でお昼ご飯を食べていましたが、現在でも営業されているようで、また行ってみたいですね。
上野のバイク街は現みずほ銀行主体で再開発の計画により貸しはがしで多くの店舗が廃業した様です。
みずほ銀行自体が経営に問題が出て再開発が中止になった様です。
光輪モーターが倒産した時に債務者が店舗をこじ開けているを見ました。
光輪が倒産した後に残った商品を安価で販売したのでジャンパーやヘルメットを買い今でも皮ジャンなどは愛用しています。
傷痍軍人さんも闇市のお店も「戦後」が平成の30年間で完全に消えてしまった感があります。
上野の山に残っている清水堂、五重塔、東照宮は上野戦争、関東大震災、東京大空襲など幾多の困難を乗り越えて奇跡的ですね。
父が昭和41年生まれで現在58歳
高校時代あたりから超絶のバイクブームでみんな原付や中免を取って乗っていたそうです
MBX50から始まってRZ250,Z400FX,KH250,CBX400やGPZ400,FZ400R,RG250Γ、Z400ゼファー…
上野バイク街は半ドンの土曜日に毎週通いつめて夜までいろんな店をふらふら…特にコーリンは支店がたくさんあって面白かったそうです
夕飯は昭和通り沿いにあった立ち食いステーキ?のテキサスで食べることが多かったとか
晩年はコーリンの社長が夜逃げ?したらしく店に「社長出てこい!」だの「逃げてないで給料払え」の手書きポスターが貼られまくってたとか…
この動画を見せたら懐かしがっていました
コーリン、めちゃくちゃ懐かしいですね😅
プリカーナというオリジナルの皮ツナギを販売してました。
僕はFZR400RでSP忠男にパーツを買いに行ってました。
@@rrgt1590
モリワキとかヨシムラのマフラーも流行りましたよね
2ストはチャンバーに変えたりして
たしかプリカーナは比較的安価で買いやすかった皮ツナギでしたね
階段の似顔絵かきで書いてもらったことがあります。松坂屋のあたりにも傷痍軍人やひよこ売りがいました。
20年以上前にオフ会の主催者と階段の所で傷痍軍人と似顔絵業で賑わっていた話と広小路にびっしり都電線路があった話を熱くしてしまいポカンとされたのを思い出しました…
上野の山への階段は付け替えや植栽で様子がかわってしまいましたが、聚楽の横を京成上野に降りてゆく階段の辺りはあまり変わっていません。
動画のイーゼルだけが写っている場所は似顔絵書きさんのナワバリだったらしく、私が中学生ぐらいまでは暗いタッチの写実的な鉛筆画、その後は色鉛筆でカラーに、最後はデフォルメされたコメディータッチの絵に変わり、平成の初めぐらいまでは代々の絵描きさんが居ました。
私の父親は傷痍軍人さんに対して何故か良くない印象を持っていたようですが、母親が「これを持っていって差し上げてきなさい」と小声で五十円玉を握らせてくれたのをよく覚えています。
彰義隊の墓所の手前左側、今はレストラン?のようになっている建物には、彰義隊の遺族の方が小さな記念館を開設されていたように記憶しています。
動画には映っていませんが現在の東京文化会館の向かい側には、科学博物館の裏手あたりまで続く得体の知れないバラック群の一帯が有り、暮らしている人々も居たはずです。地元の気の荒い人間でも「あそこはチョットなあ...」と後ずさりする感じの場所でしたが、やはり平成の前半頃にはいつの間にか跡形も無く消滅してしまい、思い切って一度だけでも行っておけば良かったと後悔しています。
昭和47年大学進学で上野駅に降り立った時浅草口に傷夷軍人が立っていました。銀座線に通じる地下通路には戦後27年経っても消し去れぬ敗戦が漂っていました。私の記憶で傷夷軍人を見かけた最後は昭和50年渋谷駅です
傷痍軍人は階段周辺のほかにも、文化会館周辺にも居たのを覚えています。イラン人は階段周辺で煮炊きもしていたことを動画を見て思いました。
3:50 同じ人物かはわかりませんが、地面に手を付いているように見える傷痍軍人を、1960年代から1970年代に、横浜中部の商店街で見たことがあります。その方は両腕が無かった。金属棒で両腕の付け根を支えて、このような姿勢をとっていました。子供の私には衝撃的でした。
1970年代前半には未だ傷痍軍人さんは上野~御徒町あたりでよく見かけましたね。
私がよく覚えているのは御徒町駅近くの松坂屋前の歩道で、この画像と同じように腕または足の無かった傷痍軍人さんともうひとりの方がアコーディオンを演奏していた姿でした。私も子供だったのでやはり衝撃的でしたね。
楽しく拝見しました。
私の若かった頃(45年前)にもまだ、大勢の似顔絵屋(確か2500円で描いてもらった)、靴磨き(今の車道側の歩道にちらほらでその横に傷痍軍人、靴磨きは駅の構内で)があった事を思い出しました。
上野公園今昔では上野戦争の時の話題をよく語れますが、明治末~大正時代の博覧会で多くの建物が建てられ、今はまったく痕跡が何もない(写真や絵葉書は現存)事に興味があります。
ネタがつきたら取り上げてくださる事をお待ち申しあげます。
90年代後半だったと思うけど上野光輪にバイクのパーツを友達と買いに行きました当時はバイク街と呼ばれるだけあって多くのバイク関係のショップがあったのを記憶しています、でも今は見る影もない状態なのですね
とても貴重な映像ありがとうございました
上野駅の不忍口の所にあった銀座線へ入るスロープのトコにも傷痍軍人さんが座っていました
あと浮浪者も・・
バイク街は毎週末通いました、当時は改造に厳しく 都内 昭和通りで何回か整備不良の切符とシール強制的に購入した記憶あります
階段の所にテレカ持った外国人いたの覚えてる〜
1980年代後半くらいに軍服みたいなの着たおじさんが座ってて物乞いしてたけど、傷痍軍人の偽物っぽいなって思って見てた
アメ横にもいた。変造テレカ手にした中東系の連中。
あれのおかげでテレカの540,320度数が製造中止になった。
1960年頃、谷中に墓参りして上野によりアメ横に行きました、その頃上野広小路には地下道があり、白い服に兵隊さん帽子を被りアコウデオンを弾いていた軍人さんが数人いました。少し湿っぽい通路でした。1965ごろにはもう居なくなりましたね、
昭和40年代になってもまだ傷痍軍人がいたんだな。上野は行く用がないから知らないが、昭和三十年代に新宿駅前にいたのは覚えてる。
バイク街、ありましたよね。高校生の頃、よく見に行きましたよ。外国製の大排気量のバイク等を羨望の眼差しで見てました。
彰義隊の墓が登場するのは、前々回で紹介された円通寺からの流れでしょうか。彰義隊の
墓、初代は円通寺に作られ、翌1869年に今の墓の前に2代目となる小さな墓が、1881年に
現在の3代目ができます(「台東区の名所と文化財」)。この墓には山岡鉄舟の筆による
「戦死之墓」の字句だけが記されたのですが、戊辰戦争から10年以上経ったにもかかわら
ず、賊軍彰義隊の名を墓に書くことには、当時未だ無理だったようです。
上野は郷愁を感じる街。
子供の頃、親と一緒に出掛けた場所で一番多かったのが池袋と上野でした。
光輪が潰れてから一気にバイク店がなくなった印象があります。
傷痍軍人、似顔絵、懐かしいですね。階段にずらっと並んでいましたね。傷痍軍人はサンシャイン通りや巣鴨にもいました。最後に見たとハッキリ記憶にあるのは昭和55年ですね。白い衣装にアコーディオン、そしてでっかい犬と一緒に居ました。明治生まれの亡き祖母が上野に行ったときに書いてもらった似顔絵を大切にしてましたね。
上野寛永寺や芝増上寺の灯篭、戦災で散逸してしまってますが、移設目録とか見てみたいです。近所の造園業の敷地に破壊された灯篭があったので、かなりの数無くなってると思いますが…
傷痍軍人の方たち。
昔は、渋谷のガード下に居たなぁ。
懐かしい。。。感謝します🤗🤗
上野のバイク街ですね。原付免許をとってすぐに行きましたよ。ヤマハのスポーツタイプの原付を6万5000円で買いました。しかしすぐに事故ってフロントフォークが曲がって廃車になりました。親父に滅茶苦茶怒られたことは言うまでもありません。
傷痍軍人さん、覚えています。が、母方の祖父が遺骨も髪の毛すらもない状態で帰って来たことを聞かされていたので、この人達はまだマシな方だと子供心に思いましたね。
1988年(昭和63年)、この辺りでホンダVT250Fを中古で買いました。
総額12万円でしたが、消費税導入の前年だったので、ホントに12万円しか払わずに済んだのが今となっては懐かしいです。
私が御幼少の砌、母とお出かけすると、駅前に白い服を着てアコーディオンを奏でるおじさんが、まだいました。昭和40年代の初頭です。私がその人に視線を向けると、母は「見るんじゃない!」と強く言いました、本質分かっていたようで。
ちなみに母は、国民学校の時にグラマンに機銃掃射食らって、ギリ防空壕に飛び込んで命拾いした経験あり。
90年代初頭にも傷痍軍人いたなー恩給やら貰ってるはずなのに😂
Merci beaucoup pour cette très belle vidéo comme toujours ! ✌
アラ還暦の者ですが、幼少期は何ヶ所かの地方で育ちました。どこでもお祭り会場で傷痍軍人の方がゴザをひいていらっしゃいました。とても悲しい歴史です。
いつも懐かしい動画、有難うございます!
傷痍軍人をニセモノと決めつける人は何なんだろう。アメリカにだってベトナム帰りの物乞い傷痍軍人はたくさん居た。そんなこと当たり前なのに。
大型のバイクぐらい乗り回す男の子でないと本当は、、と思いますがね。
あんなになっちゃいましたか壊滅ですね、日本人の野性はバイクと共に消滅か。
街頭で募金を求める傷痍軍人があんな遅くまでいましたか。
あの歌をご記憶と思います、独特のロシア音楽のメロディーでしたね。
「ここはお国を何百里、離れて遠き満州の赤い夕陽に照らされて友は野末の石の下」
昭和30年頃までの路頭の姿だったと思いますが、アコーディオンは独特でした。
あの傷痍軍人達は言わば詐欺であってあんな姿で物乞いする必要は無かったはずです。
情ナシ日本政府も傷痍軍人にだけは早くから援助の手を差し伸べていましたから。
子供にはあの手足切断や失明された姿は怖かったですね。
わたしが利用していた1985頃、階段の周りに占い師さんが多くいた気がします。
わたくしが16歳くらいの頃は
埼玉から上野バイク街まで2ストの50ccで白バイにビビりながら行ったものですね😊
とても懐かしく思います( ^ᵕ^)
今でも仕事柄よく通りますが街並みはガラリと変わりましたね。
あの頃の景色を被せながら通過しています
とてもあたたかい気持ちになりました😊
ありがとうございます。
あの傷痍軍人の人たちはほんとはなんだったのでしょうか?高校時代私のすむ町にもおられました。アコーディオンをひいてました。
気の毒でした。
傷痍軍人はほとんどインチキで腕は包帯で体に縛り付けその上から軍服を着ていました と 亡き父がよく言ってました
自分の記憶では義足・義手を隠してなく本物の義足や義手をさらけ出して演奏してました。それも現代の義足や義手とは違い粗末は物でした
上野のバイク街、こんなんなっちゃったんだ…
今晩は東京都上野駅は当時は
バブル時代にイラン人がテレホンカードあるよ!10枚1000円!と言って偽造テレホンカードを上野で売っていたのを覚えています。一時、上野の山への階段で似顔絵を描いていた人たちが階段を外国人に占拠され居なくなった。今は、似顔絵を描く方は、上野の階段に居るのでしょうか?誰か知っている人が居たら教えてください。
あの階段似顔絵描きのおじさん達15年くらい前までは、4人は居たよな。😢
バイク街の先の石橋メモリアルホールに何回も行きました
ホールは譲渡され、立派なオルガンも取り壊されてしまったようで大変残念です
昭和41年ころ階段付近の絵描きにお願いしました。コンテと鉛筆画を選べて1000円でしたね。
上野公園の階段と言えば、やはり変造テレカ。「10枚¥1000~」
上野光輪街だ!
えー!今そうなのバイク街!全然知らなかった!
やっぱり衰退してるなニッポン🇯🇵国は。
自民党と公明党に骨までしゃぶられ食い尽くされてしまった。
似顔絵絵描きの友達ももういない古い街へ いまでもそこにあなたがいたら僕はなんて言うだろう