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ユダヤ教の一神教と神道の多神教を比較する前の動画はこちらです: th-cam.com/video/gsju7aKHbxA/w-d-xo.html
26分、あっという間に見終わりました!わかりやすかったです!
それは嬉しいです!😊
大変興味をもちました。ありがとうございます。
こちらこそ、いつも見て下さってありがとうございます!😊
投稿ありがとうございます。丁寧に解説してくださったので、とても理解しやすかったです。私は、宗教学を学んだことがなく、今回の動画で、新しい知識を学ぶことが出来ました。
理解しやすくて本当に良かったです!動画が少しでもためになれたら光栄に思います😊
包含的に自分の中にも神があるというのはキリスト教では聖霊になるのかな。ニカイア公会議は聖書執筆の様な啓示による結論ではないので、私はクリスチャンですが、元々ニカイア等のキリスト教の歴史の中で生まれた解釈を聖書と同列の効力を持つ教義として捉えることには懐疑的でした。むしろ、この動画のいくつかのキーワードによって、補完的に神との直接的なつながりを意識し回帰していくようにという神の意思そのものの啓示がキリストによってなされていたと言う構造に、キリストが神と人を繋ぐ鍵になっているという意味の解釈を広げ、納得が強まりました。その起点となるキリストとは何かという問いに、いわゆる歴史上のイエスという個人に限定するのかどうかについては、それぞれが信じるところを信じたら良いと思いました。
包含的だからこそ、「自分の中に神がある」のではなく、「神様の中に自分がいる」の方が正しいです。「自分の中に神がある」というと、神様が人間の中に限界されるという思想になります。つまり神様が物理的と時間的に有限の人間に限界されることになり、無限じゃなくなって神様じゃなくなると一緒です。だからユダヤ教がその思想を厳に拒否して、むしろ人が神様の中にいる、言い換えれば神様の意志の表現だと教えます。「神と人を繋ぐ鍵」と仰いましたが、神様が万物を永遠に超えながら全てを含めるため、人も神様と別の存在ではなく、そもそもその間を繋ぐ外的な存在はないと聖書が教えます。例えば、創世記2:7に人間の魂は神様の息吹だと記述されて、ヨブ記31:2には魂が「上からの神様の一部」だと呼ばれます。つまり人も神様から分かれた存在ではなく、神様の一部です。申命記4:35に書いてある通り、神様以外に「他には何もない」からです。
なるほど。「自分の中に」と文章表現した自分の言い方が拙かったです。私としては、「自分の中」も「神の中」も、どちらの視点を主軸に文章を綴っているかという違いでしかないのです。自分の中に見出すこともまた、包まれているから発生する事象だと考えています。私は特別な感知能力をいただいた預言者でも神学者でもありませんので、自分の感じ考えた主観から「自分の中に起こった変化」を立脚点として「自分の中」と表現しました。私が述べたかったのは、キリスト教は神性を3分割することに真理を見出しているのではないのではないか?という事。注目しているのがそこだというだけです。無限なる神は無限の方法を持って人間に干渉していることを信じる人はキリスト教にもいるという事です。
@@teruADHD なるほど、説明して下さってありがとうございます。
アリーさん、お久し振りです。🌃🇮🇱最近は私個人の入院や家族の逝去等で慌ただしかったのでコメントが遅くなりました。(_ _)一神教についてそれぞれの信仰の観点からとても分かりやすいご説明だと思いました。🌍前にもお伝えしましたがアリーさんの解説動画は大学時代の講義を聞いてた時の雰囲気にとても似ていると感じますね…。🏫📝👀
お久しぶりです!なるほど、入院はもう大丈夫ですか?体に気を付けて下さい。そしてご家族の逝去も本当に大変でしょう、お悔やみ申し上げます。大学講義と言われると「つまらない」という意味合いがあるか気になりますが😅でも少しでも勉強になれたらご光栄です!
アリさん、ユダヤ人には抵抗のある新約聖書を引用してくださり感謝します。複数の神様についてクリスチャンとして書かせていただきます。他の信仰をお持ちの方を傷つける意図は全くありません。ベレシート1:1に神様をאלהיםと複数形で書いてありますね。しかも創造するという動詞はבראと単数形です。イエス様は、わたしと父は1つですאני והאב אהד אנחנו(ヨハネ10:30)と言われました。イエス様は人間ですが神様と一つなのです。そのイエス様は全く罪の無い方でしたが、人間を愛して全ての人の罪のなだめの供え物として十字架の上で人間の贖罪をしてくださいました。その時の言葉が、我が神、我が神どうしてお見捨てになったのですか。אלי,אלי,למה ץזבתני(詩篇22:1)罪人として神様から見捨てられたイエス様は神様をאבא(父)ではなくאלי(神様の単数形)と呼んでいます。しかしイエス様は人間の贖罪をなし終えて死んで3日目に復活しました。イエス様は、天地創造のはじめから存在していた神の子であり、約2000年前に人間としてמרים(マリヤ=ミリアム )の子として生まれました。タナハも新約聖書も複数(父、子、聖霊)ですが一人の神様を教えています。アリさんにはいつもユダヤ教の考えを誠実に教えていただき、とても感謝しております。
クリスチャンの観点を丁寧に説明して下さってありがとうございます。ユダヤ教の聖書では神様が複数である訳ではありません。仰る通りに「エロヒーム」という神様の一つのお名前が複数形に見えますが、いつも単数形の動詞・形容詞に伴うから、神様が複数だということを指しません。つまり複数形が神様のことを指すのではなく、複数の自然の力を支配する神様の側面を指します。前の講義でこの点を詳しく説明しましたが、興味がある場合は是非ご覧下さい:th-cam.com/video/hVs9SNZi8x4/w-d-xo.htmlsi=VZZXzXn3ioET2ek1
@@Kakehashionתודה רבה
アリさん、いろいろ教えてくださりありがとうございます。ニホナ.ユダヤ学院の動画を見ました。神様אלהיםが複数形なのは人間の観点から見て、神様が複数の自然の力を持っているからで動詞はは単数形なのでお一人だというアリさんの説明は理解致しました。では、新たな疑問が湧いて来ました。ベレシート1:26にはכו ויאמר אלהים נעשה אדם בצלמנו כדמותנוさあ、人をわれわれの形としてわれわれの似姿に造ろうと書いてあります。われわれのかたちとしてבצלמנוわれわれの似姿にכדמותנוわれわれは造ろうנעשה神様の観点から、自分自身を複数形で語っているように思います。決して他の信仰を持っている人を傷つけるつもりはありません。聖書の理解を深めたいのでアリさんの考えを教えていただきたくて質問しています。よろしくお願い致します
@@Kakehashionアリさん、いつも誠実に教えてくださいありがとうございます。ニホナ.ユダヤ学院の動画を見ました。人間の観点から見て複数の自然の力を持っているので、אלהיםは複数形で書いてあるというアリさんの説明は理解致しました。そうすると、また新たな疑問が湧いて来ました。ベレシート1:26さあ、人をわれわれの形として、われわれの似姿に造ろうכו ויאמר אלהים נעשה אדם בצלמנו כדמותנו神様の観点から複数形で語っていますבצלמנוわれわれの形たしてכדמותנוわれわれの似姿にנעשהわれわれは造ろうアリさんのお考えを教えてくだされば感謝です。決して、他の信仰者を傷つける目的ではありません。聖書を深く理解したいので教えていただきたいと思っています。よろしくお願い致します。
@@Kakehashionアリさん,いつも誠実に教えてくださりありがとうございます。ニホナ.ユダヤ学院の動画を見ました。人間の観点から見て複数の自然の力を持っているのでאלהיםは複数形で書いてあると言うアリさんの説明は理解致しました。その上で新たな質問が生じました。ベレシート1:26神は仰られた。さあ、人をわれわれの形として、われわれの似姿に造ろうכו ויאמר אלהים נעשה אדםבצלמנו כדמותנו われわれの形としてבצלמנוわれわれの似姿にכדמותנוわれわれは造ろうנעשה神様の観点から複数形で語っています。アリさん教えてくださいよろしくお願い致します
祈ればなんでも神になるその人にとっての神になる縋り恐る物は他人と同じ必要はない
ユダヤ教が布教を禁じているのはなぜですか?
ご質問ありがとうございます。布教しないのは、個人として神様に仕えて義人になるのにユダヤ人になる必要がないからです。ノアの子の七つの戒めを守りさえすればそのことが十分出来ると、ユダヤ教が教えます。前の動画でそのいわゆる「ノアの法」を紹介しましたが、興味がある場合は是非ご覧下さい:th-cam.com/video/HBzkkOPi4Nk/w-d-xo.htmlsi=soTGuAY2mhCA-Te7
弁護士を目指しています。もちろん日本の法律を学んでいますが、不思議な事にアリさんの動画が法解釈の面白さと似ています笑個人的には、 7:37 ラムバムの「神は無限」という解釈からユダヤ教は一神教とは呼べないという話が面白いと思いました。ユダヤ教では偶像崇拝が禁止されていますが、人間が神=万物の全てを認知できると勝手に錯覚するなという意味でしょうか?私は信者ではありませんが、物事を理解したと驕らずに謙虚に勉強したいと思います。
法解釈の面白さと似ていると言って頂けて光栄に思います!😊物事を論理的に分析してみると、確かに同じような感覚になるかも知れませんね。偶像崇拝ですが、「神様が分けられるような存在だと勝手に錯覚するな」みたいな意味かも知れません。つまり万物が神様の意志の表現に過ぎなくて、神様自身がそれを含みながら無限に超えます。前の動画で多神教について話した時に偶像崇拝のこういうところについて説明してみましたが、まだ見ていない場合は是非ご覧下さい:th-cam.com/video/gsju7aKHbxA/w-d-xo.htmlsi=BHDNow24I91MrN5sそしてもし法解釈に似ている感覚の講義が見たい場合は、僕が他に行っているチャンネルも是非チェックして下さい:www.youtube.com/@nihona.yeshiva弁護士頑張って下さい!
毎度思うけどアリさんはめちゃくちゃ宗教詳しいですよね……旧約聖書、タルムード、新約聖書、クルアーン、ハディースを全部押さえてるなんて…その上今度は神道や仏教のテキストも抑えているし…おまけに日本語が話せるって……これがユダヤ人の実力って事なんだろうか…
褒めて下さって本当にありがとうございます😊全部抑えている訳じゃないかも知れませんが、興味を持つところを研究することがある程度出来るから、自分なりに頑張っているつもりです!
山を登り夏だというのに肌寒く人気も無い神社を参拝した後だと偶像崇拝とは普通の宗教のような気がする生の自然とはあまりにも圧倒的で古代の人々にとっては神そのものだったと感じられるのも納得
無限、絶対の神さまは、様々な姿や名前や形としても自らを表す力を持っておられると思う。インドの聖ラーマクリシュナはヒンズーの教えで神の悟りに至った後、キリスト教やイスラム教の信仰によっても全く同一の不滅の意識へと至るという自らの経験から、信仰の数だけ道があるのだよ。と教え、どの道でも良い。真剣に熱心に進めばそこに至ると教えました。究極的な真実や神さまへと至ろうとする実践はかつお節の塊を削っていくような作業に似ていると思ってます。かつお節の塊=個人の精神(我)として 部分である個人が無限者を悟るには、いったん部分としては消えなければいけない。個人の精神的な消滅=無我の境地を仏教も目指し、信仰の道の極致にあるのも同じ境地だと思ってます。ラーマクリシュナはすべての宗教は通り道であってゴール(神さま)ではない。手段と目的を間違えないことが重要なのかなと思います。
僕ら人間の観点から見ると、神様が様々な側面で自分を表すとユダヤ教が教えます。前の講義でそれを詳しく説明しましたが、興味がある場合は是非ご覧下さい:th-cam.com/video/hVs9SNZi8x4/w-d-xo.htmlsi=AQkZWFL2ebfg9mGg人間の魂が無限の神様の部分だと、聖書にはっきり書いてあります。ヨブ記31:2に書いてある通り、魂は「上から神の部分」です。
面白かった!!
良かったです!😊
アリさん、ありがとうございます。わかりやすく、納得できました。この動画は凄すぎます。やはり、神学はユダヤ教が一番です。ユダヤ教で、輪廻転生はどう展開されているか、もう少し聴きたかったです。イスラエルの存在、それは生ける神様を証明していると思っています。今回も、勉強になりました。ありがとうございます。
褒めて下さってありがとうございます😊動画が少しでも勉強になって光栄に思います!輪廻転生・生まれ変わりといえば、実は前の質問コーナーで少しだけこの話題に触れましたが、興味がある場合は是非ご覧下さい:th-cam.com/video/vDe5EniGToA/w-d-xo.htmlsi=CdiQ-JwAXp0T3AcS&t=1462
@Kakehashion アリさん、ありがとうございます。ヨナ記が輪廻転生を表すとはおもいも寄りませんでした。新しい発見です。ヨナでなく、ヨブのように生きたいです。でも、なぜ、ヨナは神様から愛されたのでしょうか?不思議です。また、天使たちは存在しますか?ユダヤ教ではどうでしょうか?
@@小松利行-i1o 確かに案外なことでしょう?神様の戒めから逃げようとする人がどうして神様から愛されるのかと言うと、簡単に言うと贖いして道を直して欲しいからですね。エゼキエル書33:11に神様がこう仰います:「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。」天使のことですが、前の講義でこの話題を詳しく説明させて頂きましたので、興味がある場合は是非ご覧下さい:th-cam.com/video/wdWJBoVhtkc/w-d-xo.htmlsi=ze9O1cg2bGmGOA9P
新約聖書見るんですね。底本がTextus Receptusのkjv(欽定訳)がお勧めです。旧約聖書がマソラ本文で、新約聖書がTextus Receptusです。新約聖書だと、聖書によっては家系図で消えている名前があるそうですね。また、節の文章が抜け抜け、ある聖書ではマルコ16章すべてないのもあります。日本語聖書ではTextus Receptusが使われているのは、明治元訳、永井訳、TR新約聖書、田川健三聖書があります。kjvがオリジナルと言われています。(日本ではマソラ本文の旧約聖書は残念ながらありません)古代ギリシャ語聖書は総計が5000を超えていますが、そのうち99%がTextus Receptusと合致しています。世界最古の新約聖書写本(マグダレン写本)は紀元66年のもので、これもTextus Receptusと合致しております。英語直訳kjvtextusreceptusbibles.com/JPGreen/1/1
勉強になります!
お答えありがとうございます。それでは。「お名前が置かれた場所」、「お名前が置かれた場所に栄光を帰す」と読み取ってもいいですね。
確かに「お名前が置かれた場所」は神殿を指します。聖書で何回もそういう風に呼ばれますが、例えば申命記12:5に神殿がこう呼ばれます:「ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない」
すみません、私のコメントがなぜ削除されているのでしょうか?
TH-camの自動削除機能に消される場合も結構あるみたいですよ〜
こちらから削除していないから、ユーチューブが自動的にしたようですね。
@@Kakehashion 自動削除は誤解されてしまいそうな嫌な機能ですね。良い面もあるでしょうけど。
@@壺-o8i 確かに誤解されやすいでしょう!コメントの中に外部へのリンクを張るとよくそうなるだろうと思いますね。
前ページより、今回は、前回に引き続きまして、第2回目で、テーマは、【神の作品】です。したがって、肉体の父母より、誕生した我々全人類は、この肉の人体は、罪の為に土に帰る事は今も変わりません。しかし、新しい心の創造は、聖書の言葉と信仰心によって、この世に置いて、実に、新しく創造されています。即ち、聖書の学びと神への信仰上です。その信仰心には、確かに聖霊の内住化がなされました。それは神の命の息です。その理由は、ナザレのイェシュアの肉の中の血が、この地球上に注ぎ出されました。つまり、神の怒りが、その血で清められました。したがって、人体を持って、神の神殿化となったのでした。父なる神の怒りは、御子の血で宥められました。しかし、まだ安心してはいけません。神の御子イェシュア様の御心があります。彼は、無実で同胞のユダヤ人から、死刑の罪に定められて、耐え難い侮辱の屈辱と、想像を絶する激しい激痛を耐え忍びました。それに対する人間たちの応答次第では、当然ながら怒りを買う事必死です。したがって人間各自の個人の責任は残されたままです。なぜなら、彼は、裁き主です。そして、王の王です。彼の王国に入る事を拒み、悪魔に加担する者どもには、容赦無く、彼の怒りを注がれる事でしょう。その彼の命令は、「私が、あなた方を愛したように、あなた方も、お互い愛し合いなさい。」です。愛は、律法を全うできます。ゆえに、モーゼの律法と神の戒めの十戒は、グレートイスラエルの国として、千年王国時代において、実現化する事でしょう。創造者なる神と、被造物の力の差は、絶対に埋まる事はできません。それは人間の言葉では、説明できない程です。例えば、この世の神サタンは、地球上の1%程の金持ちを支配して、地球上を統治しています。しかし、そのサタンさえも、神の命令の範囲内でしか働く事はできません!神とサタンの力は、比較になりません。神から見てサタンなどは、1匹の蟻に過ぎません。神は、この地球上を焼却処分せずに、人間の罪を放置しておられるのではありません。神は、人間の罪の悔い改めと、新しい創造への参加者を歓迎する為に忍耐されておられます。神は、全宇宙の創造を6日間で行なったお方です。これを再び消去して、新しい宇宙の創造など、神には容易い事でしょう。しかし、それをなさらない理由は、人間を愛されている為です。その父なる神の愛の表現こそが、ナザレのイェシュアの十字架の贖に表現されています。この地球上の人間の内で、いったい誰が、極悪人の死刑囚の身代わりに名乗り出て、誰が、自分の唯一の愛する一人息子を差し出すでしょうか。そんな事は人間には不可能です。現在のユダヤ教徒は、聖書全体像を理解できずに、律法を守り行なって、罪の赦しと、神の義を、自分の努力で神から得られると誤解しています。これは間違いです。始祖アダムは、始めの神から与えられた管理する仕事に失敗して、息子の時代においては、良心を守る仕事のことが命令され、それにも失敗した。そして、ノアの大洪水の裁きでした。人間の良心が効き目無しならば、神は、死刑制度を認めて、人間の政府組織化の仕事を与えました。ところが、この統合統一化を悪用して、神への反逆の機会としました。よって神は、バベルの裁きを行なって、地球上に人間を散らされたのでした。そして、その全人類から、信仰の父と呼ばれるアブラハムを選び出して、彼の腰から、神の約束のハマシア・イェシュアを、この地上にお遣わされました。律法は、人間の違反を浮き彫り化する事の為に投入されたものでした。本来なら無くても良かったのです。しかし、人間は比較対比なければ、自己認識ができません。したがって、罪の自己認識を浮き彫りにする為、神の十戒が、モーゼに与えられたのでした。それによって、ナザレのイェシュアの十字架の罪の贖へと導いたのでした。神の裁きによって、全人類は、永遠に死ねなくなされます。なぜなら、新しい全人類の代表者のナザレのイェシュアが、罪と死を滅ぼしたからです。神の口から、発せられた言葉は必ず実現化します。「人よ。永遠に生きよ。」神は、こう仰せられました。したがって、全人類は、必ず死者の中から、復活した後、天国と地獄に裁かれます。そして、永久に生きて存在する事になる事でしょう。反キリスト者は、第二の死に裁かれます。それはサタンと同じ事でしょう。という理由で、遅過ぎない内に、早く神と和解契約を交わしてください。心に、割礼を。それは、自身の無力さを認めて、神の御子イェシュアに詫びることです。彼から、受け入れてもらえるように、福音を、心から信じることです。信じる事さえも自力では、不可能です。しかし、信じる決意表明と選択は可能でしょう。それは結婚の決心と似た事です。それは実に、あなたの魂と命の結婚の決心です。そして、福音とは何か。福音とは、新約聖書の第一コリントの信徒への手紙15章に記載されていますので、それを自身で読んで確かめてください。本日のつぶやきは、ここまでです。天の父なる神さま。感謝します。全てのあなた様のご栄光に帰されます。尊き、我らの主・イェシュア・ハマシアの御名を通して。
太陰太極図は不完全な二元論ですね、「陽の中にも陰あり、陰の中にも陽あり」と白勾玉には黒丸、黒勾玉には白丸が描かれており、完全ではない事を示しており、白も行き過ぎれば黒となり、黒も行き過ぎれば白となります。森羅万象に見る法則ですね。
ゾロアスター教はQueenのフレディイの両親が信仰してたってので覚えてます。
初耳ですね、勉強になります!
アリさんこんにちは♪まずはお元気そうで何よりです。私はキリスト教徒の立場から唯一の神様を信じています。なぜ神様が唯一なのに宗教、更には宗派は複数潜在するのか、私の考えでは人間が完全ではないから、聖書は神様の御言です、しかし人それぞれに受け止め方が違います。私達はその違いを乗り越えて真理の道を歩むこっができます。自由な精神でお互いに尊重し合い真理の道を歩みましょう。(暴力はやテロは絶対ダメ)アリさんこれからも宜しくお願いします。楽しにお待ちしてます。ありがとうございました。お疲れ様でした。
見て下さってありがとうございます!確かに神様が人類に自由意志を与えて、そのために捉え方などがそれぞれ違うでしょうね。これからも宜しくお願い致します!
私も2年前からムスリムですけど、トルコ宗務局のイスラムにおけるムハンマド様の生涯などではそこまでは書いてません。(普通の信徒用でしょうから)その考察は非常に興味深く思います。ただ、簡単に言えばそもそもカアバ神殿の中には多数の像がありそれを薙ぎ払ってその時にアッラーと言われていた神の名を使ったとあります。その当時、神の名前は複数あったわけです。あと、元々、ムハンマド様は多神教徒ではありました。(多くのアラブ部族はキリスト教徒もいたでしょうが各部族の神を奉じていましたよ)イスラムの無名時代というイスラム以前の文化の残存はあったと思います。そもそも、カアバ神殿も元は巡礼が多い複合の多神教の神殿の聖地だったわけですし排他性といわれますが確かにその部分はありますが先程の成り立ちの部分で一神教とアラブの慣習の折り合い、イスラムはイスラムの平和というように当時の金融資本の問題、部族抗争の停止などただの神学だけに問われずイスラムが広がったのは実利的な要素もあり成り立ちの時には他の今までの信仰より区別する必要があったのかなと個人的には感じました。日本人の方でイスラエルの立場で言われるTH-camを見たりするとユダヤの立場は立場だと思いますがやはり相容れない部分もあるなと感じてはいます。多数派と少数派ではインドのイスラムへの迫害逆に、パキスタンやバングラデシュでのクリスチャン、ヒンズーへの問題もありますしイスラエルでも、ムスリム共存あるいは差別する人もいるでしょうし一筋縄ではいかないと思います。あと、一神教だからかもしれないですがクルアーンへの誹謗とか内容への違いがあるとかユダヤの方やクリスチャンの方も言われる方もいますが内容や問題点もあるのかもしれませんが聖書も矛盾があると聞いたことありますし多少、そういう言説は不愉快だなとは思いますがイスラムの成り立ちが諸問題への解決という意味合いもあったと考えるとただの内面だけでなく生活及び法律問題含めて規範を作っているので多少の誤差まではあるのかなと思っています。1、あと、イスラエルとパレスチナはやり合うしかないのかなと個人的には思っています。イスラエル側もここままパレスチナ人を残すつもりはないでしょうし!2、イスラエルはパレスチナ以外を併合するつもりはないのでしょうか。イスラエルの政党では、ナイルとユーフラテスと言ったりしてるとこもあるでしょうし約束の地と称する範囲はまだ広いみたいですし
イスラム教は完全な偶像崇拝禁止と思っていましたが、メリクリウス等が偶像崇拝となるのですね?!
元々偶像崇拝から取り入れられた崇拝だと認識していないかも知れませんね。
アリさんお聞きします。映画シンドラーのリスト見たことありますか。サウンドトラック Immolation ( Gives our lives We give lie)を聞くと思い出して泣けてしまいます。ヘブライ語が解らない私ですがミハエルだけは聞き取れます、映画でたくさんのユダヤ人が無残に殺されてるシーンでミハエルと何度も言っていると思いますがどのような心情でミハエルと叫んでいるのでしょうか。もちろんこのシーンを思うと悲しく天使長ミハエルに助けを求めてるように感じます。Yeroushalaim Chel Zahavもどんな歌なのか教えて欲しいです。個人的な意見ですがユダヤ人にもアラブ人にも死んでほしくないです、戦争が終わって欲しいです。ユダヤ人の歴史を考えると本当に神様に愛されてる選民なんだと強く思います、聖書の歴史でもあれだけの苦難を乗り越えて、近代ではジェノサイドに遭いそれでも子孫達は強く生きています。なんだか中東の戦争が激しくなりそうな雰囲気で、アリさん無事でいてください、いつの日か日本かイスラエルか世界のどこかで会ってみたいです。
感動的なコメント、本当にありがとうございます。仰る通りに非常に強い映画だったでしょう。しかし去年の10月7日に同じような現実が1日に再び現れてしまったとは、本当に恐ろしいですね。最終的に戦争のない世界になると聖書に預言されています。問題はあそこにどう辿り着くでしょう。いつかどこかでお目にかかることが出来たら光栄に思います!
祈りの仕方は聖書でも「太ももと太ももの間に頭を」と言われるように、土下座みたいなスタイルではないですか
「太ももと太ももの間に頭を」というのは座っている時の姿勢で、これと違います。体の下に膝を屈めて、お尻を上に上げるこのムスリム達がする姿勢は、その偶像崇拝の仕方と全く同じです。
何の姿もかたちもない、無限の存在である神様が歴史上=時間のなかに存在する特定の人間や民族に働きかける(預言とか)ということは、矛盾していると思います。理解できません。無限の意志は、何かを選択することはできないと思います。あるいは、神様のはたらきは矛盾を含むのですか?その点、汎神論や無神論は、合理的ですね。
矛盾はないですよ。もし無限の神様が有限の世界と相互作用することが出来なかったら、それが限界となり、つまり無限じゃなくなります。だから明らかに預言などの形でこの世と相互作用することが出来ます。神様に選択することが出来ないというのも、無限の存在を限らすことだから、明らかに違いますよ。神様には自由意志があり、それが無限と矛盾しません。選択することによって神様ではなく有限の世界が限られる訳ですから。そして神様が人間にも自由意志を与えました。しかし人間と民族が選択されるのは、神様の自由意志よりも人間の自由意志によるものですよ。因みにユダヤ民族が「選民」であることがよく誤解されてしまいますが、前の動画でその本当の意味を詳しく説明させて頂きました:th-cam.com/video/p50z0niMo-0/w-d-xo.htmlsi=md7Qt5rmW1Lt9t4n
うーん、空と無はイコールじゃないと思います。空はビックバン以前の状態ですから有も無も全てが内包されています。
ギリシャの空中からの動画は、パルテノン神殿🏛ですか?道教?の動画は、北京の孔子廟ですか?石投げ宗教は、概要の写真👀見ました。。。。
電気ケトルは、買いましたか?
仰る通り、パルテノン神殿らしいです。残念ながら道教の写真は具体的にどこか知りませんけど😅電気ケトル買いましたよ!お気遣いありがとうございます!
アリさん、いつもありがとう😊とても、ためになります。ただ、ひとつだけ👆。。日本の現神道は時代を越えてあらゆる「道」が歪められてしまいました。それは多くの日本人も探求しなければたどり着けません。しかしながら、無神論の国と言われた日本人のアイデンティティは他の国々と異なります。それは、まだ、知られぬ神を神とする心。超越した存在がいつも魂のどこかに根付いているので、人が見てないところでも正しいことをしようとする文化があるのです。ユダヤ教も古代へブライからあらゆるものが入り交じったように、日本の神道もそうなのです。今、世界が最古の国である日本を貶めようと躍起になっている中、日本人の多数がネットの中でも過敏に反応します。皇室と日本、神道はただの神を祀っているのではなく、日本そのものの存続に繋がるのです。どんなに学んでもメガネを変えなければ見えないものがあります。ユダヤ人が国と民族的アイデンティティを守るように日本にもそれがあります。そして、まだそれは静かに眠っているようです。歴史認識においても、祀り事の意味や期日が変化し、古代の物でなければ立証できませんし、ユダヤ教では行き着くことはできません。日本との繋がりはユダヤ教ではなく、古代ヘブライを開かなければなりません。しかしながら、自分は日ユ同祖論など、馬鹿げたものは信じていない。
ユダヤ人はなぜキャップをかぶっているのか?→
「キッパー」を被るのは古よりの習慣であり、自分の上に神様が存在することを常に認識するためです。
@Kakehashion 以前イスラエルに行ったとき通訳に聞いたところ日射しに禿げ頭が刺さり痛いので帽子を被っていると言っていた。
@@hideok6599 イスラエルは日差しが強いとはいえ、その説明が全く違いますよ😂キッパーではなく帽子を被る超正統派ユダヤ人の場合は、その恰好が約18世紀からの伝統なのでそのまま守っている訳です。
子供の未来のために神様とか宗教とかやめれないんですか?権力者、戦争の玩具にしかなってないような気がするけど、、、、
神様とか宗教を完全否定している人たちがいます。それが共産主義者です。 共産主義者の人生観では、人間は物質なに過ぎないので指導者の指示に従わない人間を物として扱います。また、人間と動物の違いは宗教を持つか持たないかであるという考えもあります。
お断りします。神様とユダヤ教にこだわってきたからこそ、他のどの古代民族と違ってユダヤ民族だけがあらゆる迫害を乗り越えて存続してきました。因みに宗教がないと戦争がなくなると思い込んでいるなら、億人の死者を生み出してしまったと言われる無神論の共産主義の歴史を学ぶべきですよ。
ユダヤ教の一神教と神道の多神教を比較する前の動画はこちらです: th-cam.com/video/gsju7aKHbxA/w-d-xo.html
26分、あっという間に見終わりました!
わかりやすかったです!
それは嬉しいです!😊
大変興味をもちました。ありがとうございます。
こちらこそ、いつも見て下さってありがとうございます!😊
投稿ありがとうございます。
丁寧に解説してくださったので、とても理解しやすかったです。
私は、宗教学を学んだことがなく、今回の動画で、新しい知識を学ぶことが出来ました。
理解しやすくて本当に良かったです!動画が少しでもためになれたら光栄に思います😊
包含的に自分の中にも神があるというのはキリスト教では聖霊になるのかな。
ニカイア公会議は聖書執筆の様な啓示による結論ではないので、私はクリスチャンですが、元々ニカイア等のキリスト教の歴史の中で生まれた解釈を聖書と同列の効力を持つ教義として捉えることには懐疑的でした。
むしろ、この動画のいくつかのキーワードによって、補完的に神との直接的なつながりを意識し回帰していくようにという神の意思そのものの啓示がキリストによってなされていたと言う構造に、キリストが神と人を繋ぐ鍵になっているという意味の解釈を広げ、納得が強まりました。
その起点となるキリストとは何かという問いに、いわゆる歴史上のイエスという個人に限定するのかどうかについては、それぞれが信じるところを信じたら良いと思いました。
包含的だからこそ、「自分の中に神がある」のではなく、「神様の中に自分がいる」の方が正しいです。「自分の中に神がある」というと、神様が人間の中に限界されるという思想になります。つまり神様が物理的と時間的に有限の人間に限界されることになり、無限じゃなくなって神様じゃなくなると一緒です。だからユダヤ教がその思想を厳に拒否して、むしろ人が神様の中にいる、言い換えれば神様の意志の表現だと教えます。
「神と人を繋ぐ鍵」と仰いましたが、神様が万物を永遠に超えながら全てを含めるため、人も神様と別の存在ではなく、そもそもその間を繋ぐ外的な存在はないと聖書が教えます。例えば、創世記2:7に人間の魂は神様の息吹だと記述されて、ヨブ記31:2には魂が「上からの神様の一部」だと呼ばれます。つまり人も神様から分かれた存在ではなく、神様の一部です。申命記4:35に書いてある通り、神様以外に「他には何もない」からです。
なるほど。
「自分の中に」と文章表現した自分の言い方が拙かったです。
私としては、「自分の中」も「神の中」も、どちらの視点を主軸に文章を綴っているかという違いでしかないのです。
自分の中に見出すこともまた、包まれているから発生する事象だと考えています。
私は特別な感知能力をいただいた預言者でも神学者でもありませんので、自分の感じ考えた主観から「自分の中に起こった変化」を立脚点として「自分の中」と表現しました。
私が述べたかったのは、キリスト教は神性を3分割することに真理を見出しているのではないのではないか?という事。注目しているのがそこだというだけです。
無限なる神は無限の方法を持って人間に干渉していることを信じる人はキリスト教にもいるという事です。
@@teruADHD なるほど、説明して下さってありがとうございます。
アリーさん、お久し振りです。🌃🇮🇱
最近は私個人の入院や家族の逝去等で慌ただしかったのでコメントが遅くなりました。(_ _)一神教についてそれぞれの信仰の観点からとても分かりやすいご説明だと思いました。🌍前にもお伝えしましたがアリーさんの解説動画は大学時代の講義を聞いてた時の雰囲気にとても似ていると感じますね…。🏫📝👀
お久しぶりです!なるほど、入院はもう大丈夫ですか?体に気を付けて下さい。そしてご家族の逝去も本当に大変でしょう、お悔やみ申し上げます。
大学講義と言われると「つまらない」という意味合いがあるか気になりますが😅でも少しでも勉強になれたらご光栄です!
アリさん、ユダヤ人には抵抗のある新約聖書を引用してくださり感謝します。複数の神様についてクリスチャンとして書かせていただきます。他の信仰をお持ちの方を傷つける意図は全くありません。
ベレシート1:1に神様をאלהיםと複数形で書いてありますね。しかも創造するという動詞はבראと単数形です。
イエス様は、わたしと父は1つです
אני והאב אהד אנחנו
(ヨハネ10:30)と言われました。イエス様は人間ですが神様と一つなのです。
そのイエス様は全く罪の無い方でしたが、人間を愛して全ての人の罪のなだめの供え物として十字架の上で人間の贖罪をしてくださいました。その時の言葉が、我が神、我が神どうしてお見捨てになったのですか。
אלי,אלי,למה ץזבתני
(詩篇22:1)
罪人として神様から見捨てられたイエス様は神様をאבא(父)ではなくאלי(神様の単数形)と呼んでいます。しかしイエス様は人間の贖罪をなし終えて死んで3日目に復活しました。
イエス様は、天地創造のはじめから存在していた神の子であり、約2000年前に人間としてמרים(マリヤ=ミリアム )の子として生まれました。
タナハも新約聖書も複数(父、子、聖霊)ですが一人の神様を教えています。
アリさんにはいつもユダヤ教の考えを誠実に教えていただき、とても感謝しております。
クリスチャンの観点を丁寧に説明して下さってありがとうございます。
ユダヤ教の聖書では神様が複数である訳ではありません。仰る通りに「エロヒーム」という神様の一つのお名前が複数形に見えますが、いつも単数形の動詞・形容詞に伴うから、神様が複数だということを指しません。
つまり複数形が神様のことを指すのではなく、複数の自然の力を支配する神様の側面を指します。
前の講義でこの点を詳しく説明しましたが、興味がある場合は是非ご覧下さい:th-cam.com/video/hVs9SNZi8x4/w-d-xo.htmlsi=VZZXzXn3ioET2ek1
@@Kakehashionתודה רבה
アリさん、いろいろ教えてくださりありがとうございます。
ニホナ.ユダヤ学院の動画を見ました。神様אלהים
が複数形なのは人間の観点から見て、神様が複数の自然の力を持っているからで動詞はは単数形なのでお一人だというアリさんの説明は理解致しました。
では、新たな疑問が湧いて来ました。
ベレシート1:26には
כו ויאמר אלהים נעשה אדם בצלמנו כדמותנו
さあ、人をわれわれの形としてわれわれの似姿に造ろう
と書いてあります。
われわれのかたちとして
בצלמנו
われわれの似姿に
כדמותנו
われわれは造ろう
נעשה
神様の観点から、自分自身を複数形で語っているように思います。
決して他の信仰を持っている人を傷つけるつもりはありません。聖書の理解を深めたいのでアリさんの考えを教えていただきたくて質問しています。よろしくお願い致します
@@Kakehashion
アリさん、いつも誠実に教えてくださいありがとうございます。ニホナ.ユダヤ学院の動画を見ました。人間の観点から見て複数の自然の力を持っているので、אלהיםは複数形で書いてあるというアリさんの説明は理解致しました。
そうすると、また新たな疑問が湧いて来ました。
ベレシート1:26
さあ、人をわれわれの形として、われわれの似姿に造ろう
כו ויאמר אלהים נעשה אדם בצלמנו כדמותנו
神様の観点から複数形で語っています
בצלמנו
われわれの形たして
כדמותנו
われわれの似姿に
נעשה
われわれは造ろう
アリさんのお考えを教えてくだされば感謝です。
決して、他の信仰者を傷つける目的ではありません。聖書を深く理解したいので教えていただきたいと思っています。
よろしくお願い致します。
@@Kakehashion
アリさん,いつも誠実に教えてくださりありがとうございます。ニホナ.ユダヤ学院の動画を見ました。人間の観点から見て複数の自然の力を持っているのでאלהיםは複数形で書いてあると言うアリさんの説明は理解致しました。
その上で新たな質問が生じました。
ベレシート1:26
神は仰られた。さあ、人をわれわれの形として、われわれの似姿に造ろう
כו ויאמר אלהים נעשה אדם
בצלמנו כדמותנו
われわれの形として
בצלמנו
われわれの似姿に
כדמותנו
われわれは造ろう
נעשה
神様の観点から複数形で語っています。
アリさん教えてください
よろしくお願い致します
祈ればなんでも神になる
その人にとっての神になる
縋り恐る物は他人と同じ必要はない
ユダヤ教が布教を禁じているのはなぜですか?
ご質問ありがとうございます。布教しないのは、個人として神様に仕えて義人になるのにユダヤ人になる必要がないからです。ノアの子の七つの戒めを守りさえすればそのことが十分出来ると、ユダヤ教が教えます。前の動画でそのいわゆる「ノアの法」を紹介しましたが、興味がある場合は是非ご覧下さい:th-cam.com/video/HBzkkOPi4Nk/w-d-xo.htmlsi=soTGuAY2mhCA-Te7
弁護士を目指しています。
もちろん日本の法律を学んでいますが、不思議な事にアリさんの動画が法解釈の面白さと似ています笑
個人的には、 7:37 ラムバムの「神は無限」という解釈からユダヤ教は一神教とは呼べないという話が面白いと思いました。ユダヤ教では偶像崇拝が禁止されていますが、人間が神=万物の全てを認知できると勝手に錯覚するなという意味でしょうか?
私は信者ではありませんが、物事を理解したと驕らずに謙虚に勉強したいと思います。
法解釈の面白さと似ていると言って頂けて光栄に思います!😊物事を論理的に分析してみると、確かに同じような感覚になるかも知れませんね。
偶像崇拝ですが、「神様が分けられるような存在だと勝手に錯覚するな」みたいな意味かも知れません。つまり万物が神様の意志の表現に過ぎなくて、神様自身がそれを含みながら無限に超えます。前の動画で多神教について話した時に偶像崇拝のこういうところについて説明してみましたが、まだ見ていない場合は是非ご覧下さい:th-cam.com/video/gsju7aKHbxA/w-d-xo.htmlsi=BHDNow24I91MrN5s
そしてもし法解釈に似ている感覚の講義が見たい場合は、僕が他に行っているチャンネルも是非チェックして下さい:www.youtube.com/@nihona.yeshiva
弁護士頑張って下さい!
毎度思うけどアリさんはめちゃくちゃ宗教詳しいですよね……
旧約聖書、タルムード、新約聖書、クルアーン、ハディースを全部押さえてるなんて…
その上今度は神道や仏教のテキストも抑えているし…
おまけに日本語が話せるって……
これがユダヤ人の実力って事なんだろうか…
褒めて下さって本当にありがとうございます😊
全部抑えている訳じゃないかも知れませんが、興味を持つところを研究することがある程度出来るから、自分なりに頑張っているつもりです!
山を登り夏だというのに肌寒く人気も無い神社を参拝した後だと
偶像崇拝とは普通の宗教のような気がする
生の自然とはあまりにも圧倒的で古代の人々にとっては神そのものだったと感じられるのも納得
無限、絶対の神さまは、様々な姿や名前や形としても自らを表す力を持っておられると思う。インドの聖ラーマクリシュナはヒンズーの教えで神の悟りに至った後、キリスト教やイスラム教の信仰によっても全く同一の不滅の意識へと至るという自らの経験から、信仰の数だけ道があるのだよ。と教え、どの道でも良い。真剣に熱心に進めばそこに至ると教えました。究極的な真実や神さまへと至ろうとする実践はかつお節の塊を削っていくような作業に似ていると思ってます。かつお節の塊=個人の精神(我)として 部分である個人が無限者を悟るには、いったん部分としては消えなければいけない。個人の精神的な消滅=無我の境地を仏教も目指し、信仰の道の極致にあるのも同じ境地だと思ってます。ラーマクリシュナはすべての宗教は通り道であってゴール(神さま)ではない。手段と目的を間違えないことが重要なのかなと思います。
僕ら人間の観点から見ると、神様が様々な側面で自分を表すとユダヤ教が教えます。前の講義でそれを詳しく説明しましたが、興味がある場合は是非ご覧下さい:th-cam.com/video/hVs9SNZi8x4/w-d-xo.htmlsi=AQkZWFL2ebfg9mGg
人間の魂が無限の神様の部分だと、聖書にはっきり書いてあります。ヨブ記31:2に書いてある通り、魂は「上から神の部分」です。
面白かった!!
良かったです!😊
アリさん、ありがとうございます。わかりやすく、納得できました。この動画は凄すぎます。やはり、神学はユダヤ教が一番です。ユダヤ教で、輪廻転生はどう展開されているか、もう少し聴きたかったです。イスラエルの存在、それは生ける神様を証明していると思っています。
今回も、勉強になりました。ありがとうございます。
褒めて下さってありがとうございます😊動画が少しでも勉強になって光栄に思います!
輪廻転生・生まれ変わりといえば、実は前の質問コーナーで少しだけこの話題に触れましたが、興味がある場合は是非ご覧下さい:th-cam.com/video/vDe5EniGToA/w-d-xo.htmlsi=CdiQ-JwAXp0T3AcS&t=1462
@Kakehashion アリさん、ありがとうございます。ヨナ記が輪廻転生を表すとはおもいも寄りませんでした。新しい発見です。ヨナでなく、ヨブのように生きたいです。でも、なぜ、ヨナは神様から愛されたのでしょうか?不思議です。また、天使たちは存在しますか?ユダヤ教ではどうでしょうか?
@@小松利行-i1o 確かに案外なことでしょう?神様の戒めから逃げようとする人がどうして神様から愛されるのかと言うと、簡単に言うと贖いして道を直して欲しいからですね。エゼキエル書33:11に神様がこう仰います:「わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。」
天使のことですが、前の講義でこの話題を詳しく説明させて頂きましたので、興味がある場合は是非ご覧下さい:th-cam.com/video/wdWJBoVhtkc/w-d-xo.htmlsi=ze9O1cg2bGmGOA9P
新約聖書見るんですね。底本がTextus Receptusのkjv(欽定訳)がお勧めです。旧約聖書がマソラ本文で、新約聖書がTextus Receptusです。
新約聖書だと、聖書によっては家系図で消えている名前があるそうですね。また、節の文章が抜け抜け、
ある聖書ではマルコ16章すべてないのもあります。日本語聖書ではTextus Receptusが使われているのは、明治元訳、永井訳、TR新約聖書、田川健三聖書があります。kjvがオリジナルと言われています。(日本ではマソラ本文の旧約聖書は残念ながらありません)
古代ギリシャ語聖書は総計が5000を超えていますが、そのうち99%がTextus Receptusと合致しています。
世界最古の新約聖書写本(マグダレン写本)は紀元66年のもので、これもTextus Receptusと合致しております。
英語直訳kjv
textusreceptusbibles.com/JPGreen/1/1
勉強になります!
お答えありがとうございます。
それでは。「お名前が置かれた場所」、「お名前が置かれた場所に栄光を帰す」と読み取ってもいいですね。
確かに「お名前が置かれた場所」は神殿を指します。聖書で何回もそういう風に呼ばれますが、例えば申命記12:5に神殿がこう呼ばれます:「ただあなたがたの神、主がご自分の住まいとして御名を置くために、あなたがたの全部族のうちから選ぶ場所を尋ねて、そこへ行かなければならない」
すみません、私のコメントがなぜ削除されているのでしょうか?
TH-camの自動削除機能に消される場合も結構あるみたいですよ〜
こちらから削除していないから、ユーチューブが自動的にしたようですね。
@@Kakehashion 自動削除は誤解されてしまいそうな嫌な機能ですね。良い面もあるでしょうけど。
@@壺-o8i 確かに誤解されやすいでしょう!コメントの中に外部へのリンクを張るとよくそうなるだろうと思いますね。
前ページより、今回は、前回に引き続きまして、第2回目で、テーマは、【神の作品】です。
したがって、肉体の父母より、誕生した我々全人類は、この肉の人体は、罪の為に土に帰る事は今も変わりません。しかし、新しい心の創造は、聖書の言葉と信仰心によって、この世に置いて、実に、新しく創造されています。即ち、聖書の学びと神への信仰上です。その信仰心には、確かに聖霊の内住化がなされました。それは神の命の息です。
その理由は、ナザレのイェシュアの肉の中の血が、この地球上に注ぎ出されました。
つまり、神の怒りが、その血で清められました。したがって、人体を持って、神の神殿化となったのでした。父なる神の怒りは、御子の血で宥められました。しかし、まだ安心してはいけません。神の御子イェシュア様の御心があります。彼は、無実で同胞のユダヤ人から、死刑の罪に定められて、耐え難い侮辱の屈辱と、想像を絶する激しい激痛を耐え忍びました。それに対する人間たちの応答次第では、当然ながら怒りを買う事必死です。したがって人間各自の個人の責任は残されたままです。
なぜなら、彼は、裁き主です。そして、王の王です。彼の王国に入る事を拒み、悪魔に加担する者どもには、容赦無く、彼の怒りを注がれる事でしょう。その彼の命令は、「私が、あなた方を愛したように、あなた方も、お互い愛し合いなさい。」です。愛は、律法を全うできます。ゆえに、モーゼの律法と神の戒めの十戒は、グレートイスラエルの国として、千年王国時代において、実現化する事でしょう。
創造者なる神と、被造物の力の差は、絶対に埋まる事はできません。それは人間の言葉では、説明できない程です。例えば、この世の神サタンは、地球上の1%程の金持ちを支配して、地球上を統治しています。しかし、そのサタンさえも、神の命令の範囲内でしか働く事はできません!神とサタンの力は、比較になりません。神から見てサタンなどは、1匹の蟻に過ぎません。神は、この地球上を焼却処分せずに、人間の罪を放置しておられるのではありません。神は、人間の罪の悔い改めと、新しい創造への参加者を歓迎する為に忍耐されておられます。神は、全宇宙の創造を6日間で行なったお方です。これを再び消去して、新しい宇宙の創造など、神には容易い事でしょう。
しかし、それをなさらない理由は、人間を愛されている為です。その父なる神の愛の表現こそが、ナザレのイェシュアの十字架の贖に表現されています。この地球上の人間の内で、いったい誰が、極悪人の死刑囚の身代わりに名乗り出て、誰が、自分の唯一の愛する一人息子を差し出すでしょうか。そんな事は人間には不可能です。現在のユダヤ教徒は、聖書全体像を理解できずに、律法を守り行なって、罪の赦しと、神の義を、自分の努力で神から得られると誤解しています。これは間違いです。始祖アダムは、始めの神から与えられた管理する仕事に失敗して、息子の時代においては、良心を守る仕事のことが命令され、それにも失敗した。そして、ノアの大洪水の裁きでした。人間の良心が効き目無しならば、神は、死刑制度を認めて、人間の政府組織化の仕事を与えました。ところが、この統合統一化を悪用して、神への反逆の機会としました。よって神は、バベルの裁きを行なって、地球上に人間を散らされたのでした。そして、その全人類から、信仰の父と呼ばれるアブラハムを選び出して、彼の腰から、神の約束のハマシア・イェシュアを、この地上にお遣わされました。律法は、人間の違反を浮き彫り化する事の為に投入されたものでした。本来なら無くても良かったのです。しかし、人間は比較対比なければ、自己認識ができません。したがって、罪の自己認識を浮き彫りにする為、神の十戒が、モーゼに与えられたのでした。それによって、ナザレのイェシュアの十字架の罪の贖へと導いたのでした。神の裁きによって、全人類は、永遠に死ねなくなされます。なぜなら、新しい全人類の代表者のナザレのイェシュアが、罪と死を滅ぼしたからです。神の口から、発せられた言葉は必ず実現化します。「人よ。永遠に生きよ。」神は、こう仰せられました。したがって、全人類は、必ず死者の中から、復活した後、天国と地獄に裁かれます。そして、永久に生きて存在する事になる事でしょう。反キリスト者は、第二の死に裁かれます。それはサタンと同じ事でしょう。という理由で、遅過ぎない内に、早く神と和解契約を交わしてください。心に、割礼を。それは、自身の無力さを認めて、神の御子イェシュアに詫びることです。彼から、受け入れてもらえるように、福音を、心から信じることです。信じる事さえも自力では、不可能です。しかし、信じる決意表明と選択は可能でしょう。それは結婚の決心と似た事です。それは実に、あなたの魂と命の結婚の決心です。そして、福音とは何か。福音とは、新約聖書の第一コリントの信徒への手紙15章に記載されていますので、それを自身で読んで確かめてください。
本日のつぶやきは、ここまでです。
天の父なる神さま。感謝します。全てのあなた様のご栄光に帰されます。尊き、我らの主・イェシュア・ハマシアの御名を通して。
太陰太極図は不完全な二元論ですね、「陽の中にも陰あり、陰の中にも陽あり」と白勾玉には黒丸、黒勾玉には白丸が描かれており、完全ではない事を示しており、白も行き過ぎれば黒となり、黒も行き過ぎれば白となります。
森羅万象に見る法則ですね。
ゾロアスター教はQueenのフレディイの両親が信仰してたってので覚えてます。
初耳ですね、勉強になります!
アリさんこんにちは♪まずはお元気そうで何よりです。私はキリスト教徒の立場から唯一の神様を信じています。なぜ神様が唯一なのに宗教、更には宗派は複数潜在するのか、私の考えでは人間が完全ではないから、聖書は神様の御言です、しかし人それぞれに受け止め方が違います。私達はその違いを乗り越えて真理の道を歩むこっができます。自由な精神でお互いに尊重し合い真理の道を歩みましょう。(暴力はやテロは絶対ダメ)アリさんこれからも宜しくお願いします。楽しにお待ちしてます。ありがとうございました。お疲れ様でした。
見て下さってありがとうございます!確かに神様が人類に自由意志を与えて、そのために捉え方などがそれぞれ違うでしょうね。
これからも宜しくお願い致します!
私も2年前からムスリムですけど、トルコ宗務局のイスラムにおけるムハンマド様の生涯などではそこまでは書いてません。(普通の信徒用でしょうから)
その考察は非常に興味深く思います。
ただ、簡単に言えばそもそもカアバ神殿の中には多数の像がありそれを薙ぎ払ってその時にアッラーと言われていた神の名を使ったとあります。
その当時、神の名前は複数あったわけです。
あと、元々、ムハンマド様は多神教徒ではありました。(多くのアラブ部族はキリスト教徒もいたでしょうが各部族の神を奉じていましたよ)
イスラムの無名時代というイスラム以前の文化の残存はあったと思います。
そもそも、カアバ神殿も元は巡礼が多い複合の多神教の神殿の聖地だったわけですし
排他性といわれますが確かに
その部分はありますが先程の成り立ちの部分で一神教とアラブの慣習の折り合い、イスラムはイスラムの平和というように
当時の金融資本の問題、部族抗争の停止などただの神学だけに問われず
イスラムが広がったのは実利的な要素もあり成り立ちの時には
他の今までの信仰より区別する必要があったのかなと個人的には感じました。
日本人の方でイスラエルの立場で言われるTH-camを見たりするとユダヤの立場は立場だと思いますがやはり相容れない部分もあるなと感じてはいます。
多数派と少数派では
インドのイスラムへの迫害
逆に、パキスタンやバングラデシュでのクリスチャン、ヒンズーへの問題もありますし
イスラエルでも、ムスリム共存あるいは差別する人もいるでしょうし
一筋縄ではいかないと思います。
あと、一神教だからかもしれないですがクルアーンへの誹謗とか内容への違いがあるとか
ユダヤの方やクリスチャンの方も言われる方もいますが
内容や問題点もあるのかもしれませんが聖書も矛盾があると聞いたことありますし多少、そういう言説は不愉快だなとは思いますが
イスラムの成り立ちが諸問題への解決という意味合いもあったと考えるとただの内面だけでなく生活及び法律問題含めて規範を作っているので多少の誤差まではあるのかなと思っています。
1、あと、イスラエルとパレスチナはやり合うしかないのかなと個人的には思っています。
イスラエル側もここままパレスチナ人を残すつもりはないでしょうし!
2、イスラエルはパレスチナ以外を併合するつもりはないのでしょうか。
イスラエルの政党では、ナイルとユーフラテスと言ったりしてるとこもあるでしょうし
約束の地と称する範囲はまだ広いみたいですし
イスラム教は完全な偶像崇拝禁止と思っていましたが、メリクリウス等が偶像崇拝となるのですね?!
元々偶像崇拝から取り入れられた崇拝だと認識していないかも知れませんね。
アリさんお聞きします。映画シンドラーのリスト見たことありますか。サウンドトラック Immolation ( Gives our lives We give lie)を聞くと思い出して泣けてしまいます。ヘブライ語が解らない私ですがミハエルだけは聞き取れます、映画でたくさんのユダヤ人が無残に殺されてるシーンでミハエルと何度も言っていると思いますがどのような心情でミハエルと叫んでいるのでしょうか。もちろんこのシーンを思うと悲しく天使長ミハエルに助けを求めてるように感じます。Yeroushalaim Chel Zahavもどんな歌なのか教えて欲しいです。
個人的な意見ですがユダヤ人にもアラブ人にも死んでほしくないです、戦争が終わって欲しいです。
ユダヤ人の歴史を考えると本当に神様に愛されてる選民なんだと強く思います、聖書の歴史でもあれだけの苦難を乗り越えて、近代ではジェノサイドに遭いそれでも子孫達は強く生きています。なんだか中東の戦争が激しくなりそうな雰囲気で、アリさん無事でいてください、いつの日か日本かイスラエルか世界のどこかで会ってみたいです。
感動的なコメント、本当にありがとうございます。仰る通りに非常に強い映画だったでしょう。しかし去年の10月7日に同じような現実が1日に再び現れてしまったとは、本当に恐ろしいですね。
最終的に戦争のない世界になると聖書に預言されています。問題はあそこにどう辿り着くでしょう。
いつかどこかでお目にかかることが出来たら光栄に思います!
祈りの仕方は聖書でも「太ももと太ももの間に頭を」と言われるように、土下座みたいなスタイルではないですか
「太ももと太ももの間に頭を」というのは座っている時の姿勢で、これと違います。体の下に膝を屈めて、お尻を上に上げるこのムスリム達がする姿勢は、その偶像崇拝の仕方と全く同じです。
何の姿もかたちもない、無限の存在である神様が歴史上=時間のなかに存在する特定の人間や民族に働きかける(預言とか)ということは、矛盾していると思います。理解できません。
無限の意志は、何かを選択することはできないと思います。あるいは、神様のはたらきは矛盾を含むのですか?
その点、汎神論や無神論は、合理的ですね。
矛盾はないですよ。もし無限の神様が有限の世界と相互作用することが出来なかったら、それが限界となり、つまり無限じゃなくなります。だから明らかに預言などの形でこの世と相互作用することが出来ます。
神様に選択することが出来ないというのも、無限の存在を限らすことだから、明らかに違いますよ。神様には自由意志があり、それが無限と矛盾しません。選択することによって神様ではなく有限の世界が限られる訳ですから。
そして神様が人間にも自由意志を与えました。しかし人間と民族が選択されるのは、神様の自由意志よりも人間の自由意志によるものですよ。
因みにユダヤ民族が「選民」であることがよく誤解されてしまいますが、前の動画でその本当の意味を詳しく説明させて頂きました:th-cam.com/video/p50z0niMo-0/w-d-xo.htmlsi=md7Qt5rmW1Lt9t4n
うーん、空と無はイコールじゃないと思います。
空はビックバン以前の状態ですから有も無も全てが内包されています。
ギリシャの空中からの動画は、パルテノン神殿🏛ですか?
道教?の動画は、北京の孔子廟ですか?
石投げ宗教は、概要の写真👀見ました。。。。
電気ケトルは、買いましたか?
仰る通り、パルテノン神殿らしいです。残念ながら道教の写真は具体的にどこか知りませんけど😅
電気ケトル買いましたよ!お気遣いありがとうございます!
アリさん、いつもありがとう😊とても、ためになります。ただ、ひとつだけ👆。。日本の現神道は時代を越えてあらゆる「道」が歪められてしまいました。それは多くの日本人も探求しなければたどり着けません。しかしながら、無神論の国と言われた日本人のアイデンティティは他の国々と異なります。それは、まだ、知られぬ神を神とする心。超越した存在がいつも魂のどこかに根付いているので、人が見てないところでも正しいことをしようとする文化があるのです。
ユダヤ教も古代へブライからあらゆるものが入り交じったように、日本の神道もそうなのです。今、世界が最古の国である日本を貶めようと躍起になっている中、日本人の多数がネットの中でも過敏に反応します。皇室と日本、神道はただの神を祀っているのではなく、日本そのものの存続に繋がるのです。どんなに学んでもメガネを変えなければ見えないものがあります。ユダヤ人が国と民族的アイデンティティを守るように日本にもそれがあります。そして、まだそれは静かに眠っているようです。歴史認識においても、祀り事の意味や期日が変化し、古代の物でなければ立証できませんし、ユダヤ教では行き着くことはできません。日本との繋がりはユダヤ教ではなく、古代ヘブライを開かなければなりません。
しかしながら、自分は日ユ同祖論など、馬鹿げたものは信じていない。
ユダヤ人はなぜキャップをかぶっているのか?→
「キッパー」を被るのは古よりの習慣であり、自分の上に神様が存在することを常に認識するためです。
@Kakehashion 以前イスラエルに行ったとき通訳に聞いたところ日射しに禿げ頭が刺さり痛いので帽子を被っていると言っていた。
@@hideok6599 イスラエルは日差しが強いとはいえ、その説明が全く違いますよ😂
キッパーではなく帽子を被る超正統派ユダヤ人の場合は、その恰好が約18世紀からの伝統なのでそのまま守っている訳です。
子供の未来のために神様とか宗教とかやめれないんですか?
権力者、戦争の玩具にしかなってないような気がするけど、、、、
神様とか宗教を完全否定している人たちがいます。
それが共産主義者です。
共産主義者の人生観では、人間は物質なに過ぎないので指導者の指示に従わない人間を物として扱います。
また、人間と動物の違いは宗教を持つか持たないかであるという考えもあります。
お断りします。神様とユダヤ教にこだわってきたからこそ、他のどの古代民族と違ってユダヤ民族だけがあらゆる迫害を乗り越えて存続してきました。
因みに宗教がないと戦争がなくなると思い込んでいるなら、億人の死者を生み出してしまったと言われる無神論の共産主義の歴史を学ぶべきですよ。