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小田原が囲まれた際援軍に向かわず川中島に城を建てたのは囲魏救趙という孫子の兵法に基づいた行動。孫臏の方の孫氏だけども。かつて趙が魏の大軍に囲まれた際、斉に援軍を求めたけど斉の孫臏は趙に向かわずあえて魏に侵攻して慌てて遠路引き返してきた魏軍を待ち伏せして破った故事から囲魏救趙というものができた。
信長の外交方針は正しかったということですね信長は信玄や謙信と死闘を繰り広げても得るものより失うものの方が多くなると考えたんでしょうね
確か、信玄の薬を偶然目撃してしまった側近に対して「名字あげるから病気のことは隠してくれ、見なかったことに」と「薬袋(みない)」という名字が与えられた、という話がありますねぇ
コメントありがとうございます!そういう逸話がポンと出てくるの良いですね!
いやwバレバレw
第2回目の川中島の戦いの戦いの和睦が今川義元にして貰ったのは初!😮
はえー
山梨県民なので信長の野望はどうしても武田使ってしまう
そもそも強いけどね
@@院政始めてみた-q3m 強さではなく、山梨出身者(都内在住)としての矜持です、なんか武田使いたくなのです
@@yasuom8815 さん東京の三多摩でも、英雄は、北条でも徳川でもなく、武田ですねぇ。都内でも西東京は、家康が武田遺臣を住わせたので、その影響もありましょうか。
@@木場俊介-b9j 戦国最強クラスの徳川(三河武士)が武田リスペクトしてくれているのも個人的にはありがたいです
@@yasuom8815 さん天下人に敬意を示されたお陰で、地方の昔滅んだ大名で終わらなかった、というよりも、家臣団の結束がとんでもなく、取り込んだ方がどう見ても戦力になった、というあたり、武田は滅んでも滅びなかったのでした。
「おじゃるー」で吹いたwww喧嘩し続けると仲良くなるパターン好き。でもそれに巻き込まれて死んだ部下達のこと考えるとやるせない。
いつもコメントありがとうございます!そうですね…ここではコミカルな表現にしていますが、小さな戦でも人は死にますからね…なんとも言えません
割と近年まで山本勘助は架空人物説が幅を効かせていたのよな。活躍が伝説的過ぎて。信玄の伝記本でも、勘助架空人物説を採用して登場しない本とか割と有った。その後、勘助の直筆書が発見されて実在証明されたけど。
山本勘助は軍師的な扱いだけど実態は諜報員みたいな役割だったとか
おらんおらん
皆さんコメントありがとうございます!wiki情報ではありますが、菅助表記の記載がちょこちょこ見つかっていて、存在していた説が有力になってきているみたいです!
実は山本勘助より武田信玄自身が軍師だったという話が有りますね📝
@@茂一村上 武田家は良くも悪くも諸説あり。がですねwまあ立ち位置的に仕方ないでしょうけどね👍
信玄堤含む治水システムは構造が天才的。特に水勢が強い時はあえて逃がして弱まったときに戻す仕組みはテスラバルブに近い。戦が華の時代だからしゃーないが治水だけでも大偉業もんよ。
ホントですね!!テスラバルブと信玄堤の構造が!!自然と思いついたんですかね…?
33:15辺りで信玄はもっと整理してから後を継がせるべきだったと勝頼に謝っていましたが、まさにその通りだと思います。勝頼自身の能力は申し分はなくそれなり以上に高かったと思っているので、せめて信玄が生きている間に勝頼にちゃんとした官位や官職を与え、勝頼に家督を譲っておくとかしておくべきだったと思います。私が思う信玄の負の遺産同盟を破棄しては侵攻するを繰り返した為に周辺諸国の武田家への信用を地に落とした(極め付けが信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させた)。周辺諸国のほぼ全てを敵に回して戦を繰り返した為に武田家の財政を悪化させた。義信が死んだ後、自身の後継者になれる息子は勝頼しかいないのに、勝頼の官位官職への任官活動を熱心に行わなかったりして信玄体制から勝頼体制へ移行していく為の勝頼への権威付けや権力移譲を不十分にした。武田家が滅んだのは信虎が土台を作り、信玄が一代で領土を甲斐一国から急拡大したがそれ故に生じた歪みが勝頼の代で噴出したのが実像だと思います。実際に信長への騙し討ちに匹敵するであろう信玄の不義理の代表である駿河侵攻もその時点では最善、あるいは最良だったと思います。このまま手をこまねいていたら遠江だけでなく駿河まで家康に取られてしまうかもしれない、もしかしたら駿河を奪うのが北条になるかもしれない。 そうなったら武田はいつまで経っても海と港を手に入れる事ができず、鉄砲や鉄砲を使う為に必要な火薬の原料である硝石の交易に不利で貧しいままですから。
キツツキ戦法作戦としてはめちゃくちゃ優秀なんだけど、謙信が流石すぎた
コメントありがとうございます!ライバルともなると、裏の裏を読むみたいな感じなのかもですよね!?
動画内でも匂わせているけど、飯炊きの様子で上杉に軍を分けたの看破されたとかいう話もありますね
今の時代にも通ずるものがあるな日々適当に過ごすよりたまには勉強して資格取るようになったら色々変わったわやはり現代に合わせての勉強は大事知識を蓄えるのはいつの時代にも必要やわ
コメントありがとうございます!やはり(時代に合わせた)というところが重要なんでしょうね。先を見据えたというか、今からは何が求められるのかーみたいな
実は水洗便所とタイムカードの生みの親
水洗便所もですか!😧御香を焚いて「森には草木が〜」みたいな話といい、便絡みの話題おおいですね笑
増税をしようとする江戸幕府相手でも、信玄公が決めた税率を幕末まで崩させなかったという農民たち慕われ方は凄いよな
なお信濃駿河ではかなりやんちゃしてて信長が攻め込むと各所で寝返りが連発という
それは眉唾物の話だなと思ってます。「お金の流れで見る戦国時代」という本に信玄時代もかなり重税だったとあります。具体例としては戦国時代の固定資産税とでも言うべき『棟別銭』が、織田とか北条とかなら年間50文~100文が相場だったのに武田ではその倍だったらしいです。
武田の周りには強敵が多い東には北條、西には斎藤→織田、南には今川、徳川、北には軍神。甲斐は恵まれない土地。金山はあるが、掘り尽くしたら終わり。座して死を待つより、出でて活路を求めん、という考えだったのだろう。
信繁と義信がおれば...
今川と武田は、義元、晴信が死んだら終わり、という肌感覚があったと思われますので、義信が無事に家督を継いだとして、織田、徳川に風が吹き始めた時代に、どこまで頑張れるか。氏真、義信の連携が、どう機能するか、ですね。信繁については、信豊という後継者が、父の意志を完全に引き継ぎ、勝頼と共に滅びました。それと比較すると北条の安定感たるや、凄いものを感じますね。
@@木場俊介-b9j 信繁が生きていれば重臣の言葉よりは重かったから....でも親父のように勝頼も言う事聞かなかったでしょうね
@@puhero670 さん確かに。。。信繁とて、家督争いで晴信の対抗馬になったかも知れないライバルだったのに、その兄、晴信に尽くす決断をしてついて行っているので、後継者が義信であれ、勝頼であれ、家を守る気概の固い叔父上の信繁が武田の柱になるは必定。有能な弟が亡くなってお家の歯止めが効かなくなったは、豊臣秀吉と似ている。毛利は隆景が甥の輝元を導いたので、西国で先代元就の事業を引き継げた。
@@puhero670 さん晴信の家督争いの対抗馬になれる位置に居ながら、兄を支える決断をした、信繁の覚悟の重さは相当で、その武田の柱っぷりは、生き残っておられたら、時期当主が義信だとしても、勝頼だとしても、毛利輝元にとっての吉川、小早川の叔父御らのような軍師となれたでしょうね。片腕の弟を亡くして、お家が暴走するあたり、豊臣の末期も彷彿してしまいます。
@@木場俊介-b9jそうですね。 典厩の願いを込めた進言に対しての川中島前の御旗盾無しの下りのような事が長篠前に起こるシーンを想像してしまいましたw
甲州人なのに大阪弁なのがおもろいで。
尾張人の信長も大阪弁という
コメントありがとうございます!メインの登場人物のほとんどが、いわゆる「なんj語」訛りです笑
武田は武力のイメージが根強いけど知略がかなりエグいと思う武田の強さの最大の秘訣はやっぱり知略だと思ってる
三方ヶ原の戦いの時、信玄が亡くならずにいたらどうなっていたか…。まぁそれは他の武将にも言えますかね😓死ぬ間際まで信頼されていた謙信って、素敵ですよね👏
信玄は『晴信』の俗名を捨て『信玄』を名乗ったが、この『玄』という文字は中国では『晴れやか』という意味らしく根本的には名が変わっていないみたいでニヤリとさせられますね😏
コメント・補足情報ありがとうございます!その名前の由来は確かにニヤッとしちゃいますね笑
@@kotonoha-2ch-history 遅ればせながら返信ありがとうございます。秘すれば花ではないけど、なんか粋ですよね。
野田城でしたか?銃殺説もあるみたいですけどどうなんでしょうね?
真剣だと知恵が出る,中途半端だと愚痴が出る,いい加減だと言い訳ばかり大谷翔平のモットーであるこの格言は武田信玄の言葉と言われている
信玄に教えをしたお坊さんの言葉みたいですね
快川紹喜の事でしょうか?「心頭滅却すれば火もまた涼し」ですね。
山育ちの信玄の大好物が海産物のアワビだったと言う…。当時、上洛を目指したのも一説には海路を持てる土地を欲していたというのもあるそうな。
いつもコメントありがとうございます!塩が・・・欲しかった説を推します笑
だから、駿河国からよく購入していたとか。そこで生まれたのが煮貝という山梨県の郷土料理。
武田信玄はどうしても武力のイメージがあるが膨大な知識があったからこそあれだけの勢力を維持てきたんだろうな
信濃国への出兵での敗北や甲斐国が山間だったので、無理な軍事侵攻より調略を仕掛けて確実に落城できるように持っていったんでしょう。やはり、出家して策略を学んだ事も大きかったのか?
むしろ、武力一辺倒なのは上杉謙信やね。戦国最強の兵法家とも言われるように信玄の知識量は卓越していた。それに対して上杉謙信は天才型だった。
三回目の川中島の戦いよっ友に会ったみたいな感じで草
@@ひろし-c8m さん事実、大名としての武田は壊滅しましたが、高野山で僧籍に入っていた五男を、上杉がわざわざスカウトして、家臣にしていますから、少なくとも徳川と上杉は、武田の保護に熱心でしたね。
第4回目の川中島の戦いが凄かったよ。何せ大将同士のガチバトルだったからな!😮
川中島の戦いは5回もあったのは知ってましたよ。互いにライバルとしてね。後に信玄が亡くなる際、勝頼に「もし何かあったら上杉謙信を頼れ。」と遺言に迄ありましたからね。😮
山本正之の川中島ブルースは第三次あたりのことなのかw
武田騎馬軍団とは戦を知らぬものが語る事なり。(甲陽軍鑑)
うちの会社の幹部連中にこの明言を送りたい「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」ああ....会社辞めたい;;
コメント・悲痛な叫びありがとうございます。そういうのって、普段の態度とか言葉で伝わったりしますよね…ご無理をなされないようにしてください🥲
なら辞めろって、意味ない藤堂高虎 「7度主君を変えねば、武士とはいえぬ」
戦国時代は奥深いな〜❤
足利義昭が信長を討つ命令。例えるなら足利義昭が以仁王で、信長が平家だな。
信玄にしろ信長にしろ何気に親父である信虎・信秀がかなり優秀だったりするんだよね。それにしても両陣営『信』多すぎて一族みたい😅
23:34 ここお互いに影武者説あるの好き。
父の追放により、逆に、父が目指した事を成し遂げたこと、また、本気で信玄と信虎が憎み合っていたら、美濃斎藤のように、父と、それに付く兄弟を殺して家督を継いだ義龍のようになる訳だが、父の信虎は、甲斐を出た後もかなり伸び伸びと独自の活動をした上、信玄より長生きしているので、父子合意の上の亡命という説すらある。
コメントありがとうございます!そう言われてみると、そういうふうに前もって計画していたのだとしたらシックリくることも多いわけですね☹️歴史って面白過ぎますね!
@@kotonoha-2ch-history さん少なくとも、信虎は息子の意思を呑み込んだように見えますよね。ちなみに、国外で儲けた信友という息子もいますが、甲州征伐の時、勝頼と共に織田と戦っています。甲斐武田って、信繁の兄への忠誠などを見ても、一族、まとまっていたのではないかなと。
信玄袋で有名な甲州印伝を奨励してくれた人でもある。
川中島の戦いの経緯がよくわかっていなかったので詳しい解説をありがとうございます。江戸後期に日本史家の頼山陽が第四次川中島の戦いの名場面を「川中島」という漢詩にしましたが、それに節をつけ吟(うた)にしたのが有名な詩吟「川中島」です。べんせい粛々、夜河を渡る。夜中に静かに大軍が川を渡る、うーん嵐の前の静けさのような緊張感ありますね。謙信が敵本陣に突撃し信玄に斬り掛かるシーンは戦国一ですが、軍配で受け止めた信玄も凄い。周りの将兵らは敵も味方も驚いて一瞬時が止まったことでしょう。そんなのは創作、信玄は影武者とかロマンが無い説は端っこに行っといてもらいましょう。父親を追放し長男は死なせた信玄が死に際し、義の精神を支柱にした謙信を頼れと言うのも、信玄の本当が見えた気になります。物語にはロマンがあった方が良い。
いつもコメントありがとうございます!逸話や創作も含めての戦国エンタメと認識しております😂そういう逸話が生まれるような人間味だったのかなぁと想像するのも含めて楽しいです!
川中島で対峙したけど戦いは無かった説あるみたいですね…武田関連のエピソードは江戸時代の軍談話の創作が多く裏付けるものがないとか…家康が負けるくらい神がかった武将にしたとかなんとか…
武田信玄「儂は戦国のスーパースター★🎉」
川中島の戦いで上杉軍の動向や戦力や作戦を知るために自分そっくりの弟(信廉)を代わりに出陣させた
えぇ…影武者みたいなもんですか笑
個人的な解釈だけど、第4次の川中島がガチの戦いだったのは、信玄があの戦いで謙信に勝ったら、上洛したかったんじゃないかと思う。当時、天下統一の第一歩は、上洛して室町幕府を掌握できるかだったようで、今川が先んじて踏み切った。けど、桶狭間の番狂わせで信長にやられたことで、甲信越のパワーバランスが変わった。多分、今なら上洛イケるって思ったんじゃないか。ただし、背後に謙信がいなければ。だから、第4次のあの戦いはガチだったんじゃないかなと。振り返るとあのタイミングがやはりベストで、三方ヶ原の時は既に寿命的に時間切れだった。
動画の尺の都合だと思うが上杉謙信との戦いのために一向宗に入信していた将軍の妹と結婚し一向一揆を扇動したエピソードが無い
コメント・情報ありがとうございます!掘れば掘るほど面白いネタが出てきてしまうんですよね・・・かなり端折ってもこの尺になってしまったので、こぼれ話的な物がいりますね笑
謙信が春風亭一之輔師匠に見える
良くも悪くも人間不信の傾向が強くあった感じで、他国とも長期にわたる安定した外交関係は築けなかった。親族にはさらに人間不信の傾向が酷いよね。自身のカリスマ化とあわせてそれが事業継承の面で大きなマイナスになった。
幕府は、絶対的な権力ってのは無いかもだけど、力がないってのも少しちがうんよな
僕の着物には川中島の戦いを刺繍しました
16:11 浮気相手が武田四天王・高坂昌信。
流石の逃げ弾正も、お館様の槍()からは逃れられなかったという逸話
武田信玄,生於公元1521年,死於公元1573年
上杉謙信大好きおじさん
コメントありがとうございます!ここの2人はホントに仲良さそうですよね🙄現世の創作のせいでしょうか??
長男との関係が悪いはDNAなんすかね〜(信虎→信玄、信玄→義信)
キン肉マンの技は知ってたが、マキバオーの関係者の名前に家臣の名前が使われてたのは大人になって気付いたなぁ。カスケードは徳川家臣。
コメントありがとうございます!「カスケードは徳川家康」が気になり過ぎてめちゃくちゃ調べているのですが、ギブです🥲キン肉マンの技というのも…!?
@@kotonoha-2ch-history キン肉マンに風林火山、という技があります!「全ての技は基礎に通ずる」という理念の元、カメハメ師匠が生み出した物で、基礎技の集合体で高い破壊力を生み出すフィニッシュ・ホールドとなっています!マキバオーは、山本勘助をモチーフにした「山本菅助」という人物、そして風林火山をモチーフにした「フウリンカザン」という馬が登場しています
カスケード陣営馬主が本多騎手が服部他にもマキバオーは戦国武将の名前がよく登場しますよね
@@kotonoha-2ch-history キン肉マンの必殺技と言えばやはり48の〇人技の一つ「風林火山」ですね
うわぁ・・・アニマックスでフェニックス戦まで見ていたのですが、記憶が・・・にわかがバレそうなので撤退しますw
鉱山の労働者に賃金払いたくないから、全員を生き埋めにした武将はさすがやで
なんです?その物騒な話…😨
@@kotonoha-2ch-historyたしか埋蔵金の話ですよ
金山の場所などの秘密を守るためだったと言われています。
たぶん川中島の戦いに時間をかけすぎた😂意味がなかった😂
あと10年生きてても、信長には勝てなかっただろうと思う。あまりにも不義理であまりにも敵をつくりすぎた。
@@my-eg8ge 10年あるなら慌てる必要が無いので、三河をじっくり完全制圧した上で、信長と勝負が出来る。そこまで持ち込めて互角だろうけど。
@@金田徹也 鉄砲の玉の鉛と火薬に必須の硝石が、日本全国戦続きのせいで慢性的に不足。多くを輸入に頼っていたので南蛮と交易している信長が有利なのは変わらんだろうね。
@@金田徹也 さん 一国ずつ取っていくのは平定に時間がかかりすぎますし、軍事は信玄が上回っていても政治力には雲泥の差があると思っています。 一番わかりやすいのは民衆の支持という点で、信長は征服した土地に本拠地を次々に移していますがこれはその土地の人々の支持がなければできる事ではありません。
朝倉と連携するつもりだったみたいなので独力で信長の主力とやり合うのはまずいとは思っていたんでしょうね長期化したら結局体力で勝る信長には勝てないでしょうね
信長には「大衆の支持」という視点があり、それが政治にも反映されていた。はじめは信長に反発した堺がいつの間にか信長を支持するようになったのはその典型例で、支配地では治安が劇的に改善され経済も発展した。そういう信長を武力だけで倒すのは信玄時代の末期にはすでに不可能で、信玄死後も大名がよってたかっても信長に対して劣勢になっていった。
武田 上杉 同盟が達成できれば連立政権バリに天下獲るかも💡
その二人が連合を組んだら、追随して加盟する大名も居ませんかね笑
@@kotonoha-2ch-history 武田信玄公の御存命のうちに タイミング次第では足利将軍がなし得なかった織田 徳川 包囲網で尾張 三河の守護に落ち着くかも⏳️
政治力、他国への調略、そして軍略、全て高いが武田信玄は恐らく相当性格悪い。
パッパが相当ヤバかったからなぁ
信玄は信長と比較して個人としての資質はより高かったと思うが、生まれた土地が悪すぎたのと身体がそれほと強くなかった。子供も信長ほどはもうけていない。信長と同じくらい子供が居れば更に有利だったろうが、残念ながらそこまで頑強では無かったんだろう。
1GET
コメントありがとうございます!1GET報告が出るまでに愛されているかと思うと感激です🥲
イメージの問題だけど武田が青いのはなんか違和感笑
ウルトラミスです🥲気をつけます笑
戦国最強!ってよりは環境最悪!せざるを得なかった戦国武将!って感じだね
信玄って負けたの村上義清だけじゃないか?
長野業正も居ますかね
すぐ同盟を裏切る印象、犠牲になった今川、それなりに犠牲を払った織田、徳川、北条。周りからの信用の無さが勝頼の代で出た感じ。
私もそう思います。 信玄が外交面でやった事はその時点では最善あるいは最良だったのかもしれないけど、周辺諸国の武田家への信用を地に落とし、それが勝頼の代で負の遺産になったのだと思います。
黒川金山が佐渡くらい埋蔵量あれば今川攻めは別の形になっていたかもねどうしても安倍金山必要だったし....
信玄も病には勝てず。
あと10年、15年ぐらい生きてたら信玄か謙信が天下取ってましたかね。
15年も長生きしたところで信玄も謙信も信長には勝てなかったと私は思ってます。それは織田と武田、上杉の経済力の差です。 熱田や津島、大津に堺などの商業が発達した街や濃尾平野という穀倉地帯を押さえた織田に対し、武田は山に囲まれていて交易に不利な土地が多い、しかも平野が少ない上に土壌が火山灰で耕作に向いた土地も少ない。上杉も青苧の交易で儲けていたから財力は武田よりは高かったかもしれないが、織田と比べたら雀の涙ほどな上に新潟が米の産地になったのは江戸時代以降で戦国時代は耕作に向いていなかった。これらの経済力、食糧生産力はそのまま軍備を整える為の資金や兵糧の量の差に繋がるからいくら信玄や謙信が長生きしたとしても、局地戦では勝てたかもしれませんが最終的には物資が枯渇する事によって信長に敗れる事になったと私は思ってます。
でも戦に勝てば、勝った所は武田・上杉の領土になったのでは?商業地域も耕作地域も。港も。
@@小平充史 謙信は何度も関東に侵攻して一度は小田原城にまで攻め込んでますけど、すぐに占領した地は北条に取り返されている事、信玄は征服した信濃や西上野、駿河とかに甲斐以上の重税をかけた(その甲斐も信虎時代からの重税が続いたと「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や「妙法寺記」という古文書に書かれている)らしい事から、上杉も武田も局地戦で勝って織田領を占領したとしても領民からの反抗にあって統治がうまくいかなかったのではと思います。 織田の税は武田とかよりは安かったらしいですから、そんな中で一度か二度織田が敗れて武田領や上杉領になったとしてもその土地の領民は容易く武田や上杉に靡かないと思います。
謙信と遊び過ぎたせいで情勢を見誤った愚将。
小田原が囲まれた際援軍に向かわず川中島に城を建てたのは囲魏救趙という孫子の兵法に基づいた行動。孫臏の方の孫氏だけども。
かつて趙が魏の大軍に囲まれた際、斉に援軍を求めたけど斉の孫臏は
趙に向かわずあえて魏に侵攻して慌てて遠路引き返してきた魏軍を待ち伏せして破った故事から囲魏救趙というものができた。
信長の外交方針は正しかったということですね
信長は信玄や謙信と死闘を繰り広げても得るものより失うものの方が多くなると考えたんでしょうね
確か、信玄の薬を偶然目撃してしまった側近に対して「名字あげるから病気のことは隠してくれ、見なかったことに」と「薬袋(みない)」という名字が与えられた、という話がありますねぇ
コメントありがとうございます!
そういう逸話がポンと出てくるの良いですね!
いやw
バレバレw
第2回目の川中島の戦いの戦いの和睦が今川義元にして貰ったのは初!😮
はえー
山梨県民なので信長の野望はどうしても武田使ってしまう
そもそも強いけどね
@@院政始めてみた-q3m
強さではなく、山梨出身者(都内在住)
としての矜持です、なんか武田使いたくなのです
@@yasuom8815 さん
東京の三多摩でも、英雄は、北条でも徳川でもなく、武田ですねぇ。
都内でも西東京は、家康が武田遺臣を住わせたので、その影響もありましょうか。
@@木場俊介-b9j
戦国最強クラスの徳川(三河武士)が武田リスペクトしてくれているのも
個人的にはありがたいです
@@yasuom8815 さん
天下人に敬意を示されたお陰で、
地方の昔滅んだ大名で終わらなかった、というよりも、家臣団の結束がとんでもなく、
取り込んだ方がどう見ても戦力になった、というあたり、武田は滅んでも滅びなかったのでした。
「おじゃるー」で吹いたwww
喧嘩し続けると仲良くなるパターン好き。
でもそれに巻き込まれて死んだ部下達のこと考えるとやるせない。
いつもコメントありがとうございます!
そうですね…ここではコミカルな表現にしていますが、小さな戦でも人は死にますからね…
なんとも言えません
割と近年まで山本勘助は架空人物説が幅を効かせていたのよな。
活躍が伝説的過ぎて。
信玄の伝記本でも、勘助架空人物説を採用して登場しない本とか割と有った。
その後、勘助の直筆書が発見されて実在証明されたけど。
山本勘助は軍師的な扱いだけど実態は諜報員みたいな役割だったとか
おらんおらん
皆さんコメントありがとうございます!
wiki情報ではありますが、菅助表記の記載がちょこちょこ見つかっていて、存在していた説が有力になってきているみたいです!
実は山本勘助より武田信玄自身が軍師だったという話が有りますね📝
@@茂一村上
武田家は良くも悪くも諸説あり。がですねw
まあ立ち位置的に仕方ないでしょうけどね👍
信玄堤含む治水システムは構造が天才的。
特に水勢が強い時はあえて逃がして弱まったときに戻す仕組みはテスラバルブに近い。
戦が華の時代だからしゃーないが治水だけでも大偉業もんよ。
ホントですね!!
テスラバルブと信玄堤の構造が!!
自然と思いついたんですかね…?
33:15辺りで信玄はもっと整理してから後を継がせるべきだったと勝頼に謝っていましたが、まさにその通りだと思います。
勝頼自身の能力は申し分はなくそれなり以上に高かったと思っているので、せめて信玄が生きている間に勝頼にちゃんとした官位や官職を与え、勝頼に家督を譲っておくとかしておくべきだったと思います。
私が思う信玄の負の遺産
同盟を破棄しては侵攻するを繰り返した為に周辺諸国の武田家への信用を地に落とした(極め付けが信長に謙信との和睦仲介を頼んでおきながら家康を攻めた為に信長を謙信への手紙に「武田とは金輪際手を結ばない」と書く程に激怒させた)。
周辺諸国のほぼ全てを敵に回して戦を繰り返した為に武田家の財政を悪化させた。
義信が死んだ後、自身の後継者になれる息子は勝頼しかいないのに、勝頼の官位官職への任官活動を熱心に行わなかったりして信玄体制から勝頼体制へ移行していく為の勝頼への権威付けや権力移譲を不十分にした。
武田家が滅んだのは信虎が土台を作り、信玄が一代で領土を甲斐一国から急拡大したがそれ故に生じた歪みが勝頼の代で噴出したのが実像だと思います。
実際に信長への騙し討ちに匹敵するであろう信玄の不義理の代表である駿河侵攻もその時点では最善、あるいは最良だったと思います。
このまま手をこまねいていたら遠江だけでなく駿河まで家康に取られてしまうかもしれない、もしかしたら駿河を奪うのが北条になるかもしれない。 そうなったら武田はいつまで経っても海と港を手に入れる事ができず、鉄砲や鉄砲を使う為に必要な火薬の原料である硝石の交易に不利で貧しいままですから。
キツツキ戦法作戦としてはめちゃくちゃ優秀なんだけど、謙信が流石すぎた
コメントありがとうございます!
ライバルともなると、裏の裏を読むみたいな感じなのかもですよね!?
動画内でも匂わせているけど、飯炊きの様子で上杉に軍を分けたの看破されたとかいう話もありますね
今の時代にも通ずるものがあるな
日々適当に過ごすよりたまには勉強して資格取るようになったら色々変わったわ
やはり現代に合わせての勉強は大事
知識を蓄えるのはいつの時代にも必要やわ
コメントありがとうございます!
やはり(時代に合わせた)というところが重要なんでしょうね。
先を見据えたというか、今からは何が求められるのかーみたいな
実は水洗便所とタイムカードの生みの親
水洗便所もですか!😧
御香を焚いて「森には草木が〜」みたいな話といい、便絡みの話題おおいですね笑
増税をしようとする江戸幕府相手でも、信玄公が決めた税率を幕末まで崩させなかったという農民たち慕われ方は凄いよな
なお信濃駿河ではかなりやんちゃしてて信長が攻め込むと各所で寝返りが連発という
それは眉唾物の話だなと思ってます。
「お金の流れで見る戦国時代」という本に信玄時代もかなり重税だったとあります。
具体例としては戦国時代の固定資産税とでも言うべき『棟別銭』が、織田とか北条とかなら年間50文~100文が相場だったのに武田ではその倍だったらしいです。
武田の周りには強敵が多い
東には北條、西には斎藤→織田、南には今川、徳川、北には軍神。
甲斐は恵まれない土地。
金山はあるが、掘り尽くしたら終わり。
座して死を待つより、出でて活路を求めん、という考えだったのだろう。
信繁と義信がおれば...
今川と武田は、義元、晴信が死んだら終わり、という肌感覚があったと思われますので、
義信が無事に家督を継いだとして、織田、徳川に風が吹き始めた時代に、どこまで頑張れるか。
氏真、義信の連携が、どう機能するか、ですね。
信繁については、信豊という後継者が、父の意志を完全に引き継ぎ、
勝頼と共に滅びました。
それと比較すると北条の安定感たるや、凄いものを感じますね。
@@木場俊介-b9j 信繁が生きていれば重臣の言葉よりは重かったから....
でも親父のように勝頼も言う事聞かなかったでしょうね
@@puhero670 さん
確かに。。。
信繁とて、家督争いで晴信の対抗馬になったかも知れないライバルだったのに、
その兄、晴信に尽くす決断をしてついて行っているので、後継者が義信であれ、勝頼であれ、家を守る気概の固い叔父上の信繁が武田の柱になるは必定。
有能な弟が亡くなってお家の歯止めが効かなくなったは、豊臣秀吉と似ている。
毛利は隆景が甥の輝元を導いたので、西国で先代元就の事業を引き継げた。
@@puhero670 さん
晴信の家督争いの対抗馬になれる位置に居ながら、兄を支える決断をした、信繁の覚悟の重さは相当で、その武田の柱っぷりは、生き残っておられたら、時期当主が義信だとしても、勝頼だとしても、毛利輝元にとっての吉川、小早川の叔父御らのような軍師となれたでしょうね。
片腕の弟を亡くして、お家が暴走するあたり、豊臣の末期も彷彿してしまいます。
@@木場俊介-b9jそうですね。
典厩の願いを込めた進言に対しての
川中島前の御旗盾無しの下りのような事が長篠前に起こるシーンを想像してしまいましたw
甲州人なのに大阪弁なのがおもろいで。
尾張人の信長も大阪弁という
コメントありがとうございます!
メインの登場人物のほとんどが、いわゆる「なんj語」訛りです笑
武田は武力のイメージが根強いけど
知略がかなりエグいと思う
武田の強さの最大の秘訣はやっぱり知略だと思ってる
三方ヶ原の戦いの時、信玄が亡くならずにいたらどうなっていたか…。
まぁそれは他の武将にも言えますかね😓
死ぬ間際まで信頼されていた謙信って、素敵ですよね👏
信玄は『晴信』の俗名を捨て『信玄』を名乗ったが、この『玄』という文字は中国では『晴れやか』という意味らしく根本的には名が変わっていないみたいでニヤリとさせられますね😏
コメント・補足情報ありがとうございます!
その名前の由来は確かにニヤッとしちゃいますね笑
@@kotonoha-2ch-history
遅ればせながら返信ありがとうございます。
秘すれば花ではないけど、なんか粋ですよね。
野田城でしたか?銃殺説もあるみたいですけどどうなんでしょうね?
真剣だと知恵が出る,中途半端だと愚痴が出る,いい加減だと言い訳ばかり
大谷翔平のモットーであるこの格言は武田信玄の言葉と言われている
信玄に教えをしたお坊さんの言葉みたいですね
快川紹喜の事でしょうか?「心頭滅却すれば火もまた涼し」ですね。
山育ちの信玄の大好物が海産物のアワビだったと言う…。
当時、上洛を目指したのも一説には海路を持てる土地を欲していたというのもあるそうな。
いつもコメントありがとうございます!
塩が・・・欲しかった説を推します笑
だから、駿河国からよく購入していたとか。そこで生まれたのが煮貝という山梨県の郷土料理。
武田信玄はどうしても武力のイメージがあるが膨大な知識があったからこそあれだけの勢力を維持てきたんだろうな
信濃国への出兵での敗北や甲斐国が山間だったので、無理な軍事侵攻より調略を仕掛けて確実に落城できるように持っていったんでしょう。やはり、出家して策略を学んだ事も大きかったのか?
むしろ、武力一辺倒なのは上杉謙信やね。戦国最強の兵法家とも言われるように信玄の知識量は卓越していた。
それに対して上杉謙信は天才型だった。
三回目の川中島の戦いよっ友に会ったみたいな感じで草
@@ひろし-c8m さん
事実、大名としての武田は壊滅しましたが、
高野山で僧籍に入っていた五男を、上杉がわざわざスカウトして、家臣にしていますから、
少なくとも徳川と上杉は、武田の保護に熱心でしたね。
第4回目の川中島の戦いが凄かったよ。何せ大将同士のガチバトルだったからな!😮
川中島の戦いは5回もあったのは知ってましたよ。互いにライバルとしてね。後に信玄が亡くなる際、勝頼に「もし何かあったら上杉謙信を頼れ。」と遺言に迄ありましたからね。😮
山本正之の川中島ブルースは第三次あたりのことなのかw
武田騎馬軍団とは戦を知らぬものが語る事なり。(甲陽軍鑑)
うちの会社の幹部連中にこの明言を送りたい
「人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり」
ああ....会社辞めたい;;
コメント・悲痛な叫びありがとうございます。
そういうのって、普段の態度とか言葉で伝わったりしますよね…ご無理をなされないようにしてください🥲
なら辞めろって、意味ない
藤堂高虎 「7度主君を変えねば、武士とはいえぬ」
戦国時代は奥深いな〜❤
足利義昭が信長を討つ命令。例えるなら足利義昭が以仁王で、信長が平家だな。
信玄にしろ信長にしろ何気に親父である信虎・信秀がかなり優秀だったりするんだよね。それにしても両陣営『信』多すぎて一族みたい😅
23:34 ここお互いに影武者説あるの好き。
父の追放により、逆に、父が目指した事を成し遂げたこと、
また、本気で信玄と信虎が憎み合っていたら、美濃斎藤のように、
父と、それに付く兄弟を殺して家督を継いだ義龍のようになる訳だが、
父の信虎は、甲斐を出た後もかなり伸び伸びと独自の活動をした上、
信玄より長生きしているので、
父子合意の上の亡命という説すらある。
コメントありがとうございます!
そう言われてみると、そういうふうに前もって計画していたのだとしたらシックリくることも多いわけですね☹️
歴史って面白過ぎますね!
@@kotonoha-2ch-history さん
少なくとも、信虎は息子の意思を呑み込んだように見えますよね。
ちなみに、国外で儲けた信友という息子もいますが、甲州征伐の時、勝頼と共に織田と戦っています。
甲斐武田って、信繁の兄への忠誠などを見ても、一族、まとまっていたのではないかなと。
信玄袋で有名な甲州印伝を奨励してくれた人でもある。
川中島の戦いの経緯がよくわかっていなかったので詳しい解説をありがとうございます。
江戸後期に日本史家の頼山陽が第四次川中島の戦いの名場面を「川中島」という漢詩にしましたが、それに節をつけ吟(うた)にしたのが有名な詩吟「川中島」です。べんせい粛々、夜河を渡る。夜中に静かに大軍が川を渡る、うーん嵐の前の静けさのような緊張感ありますね。
謙信が敵本陣に突撃し信玄に斬り掛かるシーンは戦国一ですが、軍配で受け止めた信玄も凄い。周りの将兵らは敵も味方も驚いて一瞬時が止まったことでしょう。そんなのは創作、信玄は影武者とかロマンが無い説は端っこに行っといてもらいましょう。
父親を追放し長男は死なせた信玄が死に際し、義の精神を支柱にした謙信を頼れと言うのも、信玄の本当が見えた気になります。物語にはロマンがあった方が良い。
いつもコメントありがとうございます!
逸話や創作も含めての戦国エンタメと認識しております😂
そういう逸話が生まれるような人間味だったのかなぁと想像するのも含めて楽しいです!
川中島で対峙したけど戦いは無かった説あるみたいですね…武田関連のエピソードは江戸時代の軍談話の創作が多く裏付けるものがないとか…家康が負けるくらい神がかった武将にしたとかなんとか…
武田信玄「儂は戦国のスーパースター★🎉」
川中島の戦いで上杉軍の動向や戦力や作戦を知るために自分そっくりの弟(信廉)を代わりに出陣させた
えぇ…
影武者みたいなもんですか笑
個人的な解釈だけど、第4次の川中島がガチの戦いだったのは、信玄があの戦いで謙信に勝ったら、上洛したかったんじゃないかと思う。
当時、天下統一の第一歩は、上洛して室町幕府を掌握できるかだったようで、今川が先んじて踏み切った。
けど、桶狭間の番狂わせで信長にやられたことで、甲信越のパワーバランスが変わった。
多分、今なら上洛イケるって思ったんじゃないか。ただし、背後に謙信がいなければ。
だから、第4次のあの戦いはガチだったんじゃないかなと。
振り返るとあのタイミングがやはりベストで、三方ヶ原の時は既に寿命的に時間切れだった。
動画の尺の都合だと思うが
上杉謙信との戦いのために一向宗に入信していた将軍の妹と結婚し一向一揆を扇動したエピソードが無い
コメント・情報ありがとうございます!
掘れば掘るほど面白いネタが出てきてしまうんですよね・・・
かなり端折ってもこの尺になってしまったので、こぼれ話的な物がいりますね笑
謙信が春風亭一之輔師匠に見える
良くも悪くも人間不信の傾向が強くあった感じで、他国とも長期にわたる安定した外交関係は築けなかった。親族にはさらに人間不信の傾向が酷いよね。自身のカリスマ化とあわせてそれが事業継承の面で大きなマイナスになった。
幕府は、絶対的な権力ってのは無いかもだけど、力がないってのも少しちがうんよな
僕の着物には川中島の戦いを刺繍しました
16:11 浮気相手が武田四天王・高坂昌信。
流石の逃げ弾正も、お館様の槍()からは逃れられなかったという逸話
武田信玄,生於公元1521年,死於公元1573年
上杉謙信大好きおじさん
コメントありがとうございます!
ここの2人はホントに仲良さそうですよね🙄現世の創作のせいでしょうか??
長男との関係が悪いはDNAなんすかね〜(信虎→信玄、信玄→義信)
キン肉マンの技は知ってたが、マキバオーの関係者の名前に家臣の名前が使われてたのは大人になって気付いたなぁ。
カスケードは徳川家臣。
コメントありがとうございます!
「カスケードは徳川家康」が気になり過ぎてめちゃくちゃ調べているのですが、ギブです🥲
キン肉マンの技というのも…!?
@@kotonoha-2ch-history キン肉マンに風林火山、という技があります!
「全ての技は基礎に通ずる」という理念の元、カメハメ師匠が生み出した物で、基礎技の集合体で高い破壊力を生み出すフィニッシュ・ホールドとなっています!
マキバオーは、山本勘助をモチーフにした「山本菅助」という人物、そして風林火山をモチーフにした「フウリンカザン」という馬が登場しています
カスケード陣営
馬主が本多
騎手が服部
他にもマキバオーは戦国武将の名前がよく登場しますよね
@@kotonoha-2ch-history キン肉マンの必殺技と言えばやはり48の〇人技の一つ「風林火山」ですね
うわぁ・・・アニマックスでフェニックス戦まで見ていたのですが、記憶が・・・
にわかがバレそうなので撤退しますw
鉱山の労働者に賃金払いたくないから、全員を生き埋めにした武将はさすがやで
なんです?その物騒な話…😨
@@kotonoha-2ch-history
たしか埋蔵金の話ですよ
金山の場所などの秘密を守るためだったと言われています。
たぶん川中島の戦いに時間をかけすぎた😂意味がなかった😂
あと10年生きてても、信長には勝てなかっただろうと思う。あまりにも不義理であまりにも敵をつくりすぎた。
@@my-eg8ge 10年あるなら慌てる必要が無いので、三河をじっくり完全制圧した上で、信長と勝負が出来る。
そこまで持ち込めて互角だろうけど。
@@金田徹也 鉄砲の玉の鉛と火薬に必須の硝石が、日本全国戦続きのせいで慢性的に不足。多くを輸入に頼っていたので南蛮と交易している信長が有利なのは変わらんだろうね。
@@金田徹也 さん 一国ずつ取っていくのは平定に時間がかかりすぎますし、軍事は信玄が上回っていても政治力には雲泥の差があると思っています。 一番わかりやすいのは民衆の支持という点で、信長は征服した土地に本拠地を次々に移していますがこれはその土地の人々の支持がなければできる事ではありません。
朝倉と連携するつもりだったみたいなので独力で信長の主力とやり合うのはまずいとは思っていたんでしょうね
長期化したら結局体力で勝る信長には勝てないでしょうね
信長には「大衆の支持」という視点があり、それが政治にも反映されていた。はじめは信長に反発した堺がいつの間にか信長を支持するようになったのはその典型例で、支配地では治安が劇的に改善され経済も発展した。そういう信長を武力だけで倒すのは信玄時代の末期にはすでに不可能で、信玄死後も大名がよってたかっても信長に対して劣勢になっていった。
武田 上杉 同盟が達成できれば連立政権バリに天下獲るかも💡
その二人が連合を組んだら、追随して加盟する大名も居ませんかね笑
@@kotonoha-2ch-history 武田信玄公の御存命のうちに タイミング次第では足利将軍がなし得なかった織田 徳川 包囲網で尾張 三河の守護に落ち着くかも⏳️
政治力、他国への調略、そして軍略、全て高いが武田信玄は恐らく相当性格悪い。
パッパが相当ヤバかったからなぁ
信玄は信長と比較して個人としての資質はより高かったと思うが、生まれた土地が悪すぎたのと身体がそれほと強くなかった。子供も信長ほどはもうけていない。信長と同じくらい子供が居れば更に有利だったろうが、残念ながらそこまで頑強では無かったんだろう。
1GET
コメントありがとうございます!
1GET報告が出るまでに愛されているかと思うと感激です🥲
イメージの問題だけど武田が青いのはなんか違和感笑
ウルトラミスです🥲
気をつけます笑
戦国最強!ってよりは環境最悪!せざるを得なかった戦国武将!って感じだね
信玄って負けたの村上義清だけじゃないか?
長野業正も居ますかね
すぐ同盟を裏切る印象、犠牲になった今川、それなりに犠牲を払った織田、徳川、北条。
周りからの信用の無さが勝頼の代で出た感じ。
私もそう思います。 信玄が外交面でやった事はその時点では最善あるいは最良だったのかもしれないけど、周辺諸国の武田家への信用を地に落とし、それが勝頼の代で負の遺産になったのだと思います。
黒川金山が佐渡くらい埋蔵量あれば今川攻めは別の形になっていたかもね
どうしても安倍金山必要だったし....
信玄も病には勝てず。
あと10年、15年ぐらい生きてたら信玄か謙信が天下取ってましたかね。
15年も長生きしたところで信玄も謙信も信長には勝てなかったと私は思ってます。
それは織田と武田、上杉の経済力の差です。 熱田や津島、大津に堺などの商業が発達した街や濃尾平野という穀倉地帯を押さえた織田に対し、武田は山に囲まれていて交易に不利な土地が多い、しかも平野が少ない上に土壌が火山灰で耕作に向いた土地も少ない。
上杉も青苧の交易で儲けていたから財力は武田よりは高かったかもしれないが、織田と比べたら雀の涙ほどな上に新潟が米の産地になったのは江戸時代以降で戦国時代は耕作に向いていなかった。
これらの経済力、食糧生産力はそのまま軍備を整える為の資金や兵糧の量の差に繋がるからいくら信玄や謙信が長生きしたとしても、局地戦では勝てたかもしれませんが最終的には物資が枯渇する事によって信長に敗れる事になったと私は思ってます。
でも戦に勝てば、勝った所は武田・上杉の領土になったのでは?商業地域も耕作地域も。港も。
@@小平充史
謙信は何度も関東に侵攻して一度は小田原城にまで攻め込んでますけど、すぐに占領した地は北条に取り返されている事、信玄は征服した信濃や西上野、駿河とかに甲斐以上の重税をかけた(その甲斐も信虎時代からの重税が続いたと「お金の流れで見る戦国時代」という現代の本や「妙法寺記」という古文書に書かれている)らしい事から、上杉も武田も局地戦で勝って織田領を占領したとしても領民からの反抗にあって統治がうまくいかなかったのではと思います。 織田の税は武田とかよりは安かったらしいですから、そんな中で一度か二度織田が敗れて武田領や上杉領になったとしてもその土地の領民は容易く武田や上杉に靡かないと思います。
謙信と遊び過ぎたせいで情勢を見誤った愚将。