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敏音知懐かしいです。急行天北のタブレット撮影で何度か訪問しました駅員さんもみな親切でよくしてもらいました。自分自身も高校生でしたが、敏音知、松音知の高校生とも友達になりました。
敏音知では急行天北のタブレット通過授受が見られましたね。昔は小さな駅にも駅員さんがいて…
今年6月、自転車で旭川→音威子府→ピンネシリ(1日目)、ピンネシリ→宗谷岬→稚内(2日目)で走りました。行く前にこのビデオを拝見してました。途中、上音威子府の先あたりで右側に鉄橋が残されていたり、小頓別駅前の丹波屋旅館を見たり・・・ 松音知の駅が走行中の国道から見えてテンション上がったり・・・中頓別のキハは残念ながらまだ塗り替えされてなかったです。事前にビデオ拝見して、ただ走るだけでなくて沿線にも興味が持てました。ありがとうございます!
自転車で巡られたんですね~
天北トンネルの小頓別側の出口付近に、昭和40年まで天北栄仮乗降場があったようですね。頓別川支流の栄川に沿う形で、開拓民団が入植した栄集落があり、小学校の分校も置かれていたようですが、あまりにも奥に過ぎてすぐ集団離村となったようです。
そのようですね…
最近、動画を拝見させて頂いております。北海道には何度かバイクツーリングで行かせて頂いてます。今度、もし北海道に行くなら廃線跡もみたいと思ってます。繁栄と衰退の廃線跡は見てみたいですね。
北海道は短い期間での、繁栄と衰退の歴史がありますからね…特に鉄道は…
1分16秒 のところの時刻表、全路線全滅でつらい。
全路線全滅…
1977年まで下頓別に住み浜頓別高校に天北線で通学していました。当時はSLも走っていて廃止前に撮影で沢山の人が来ていました。50両位の貨物列車も小学生の頃は走っていました。貴重な画像ありがとうございました。仮乗降場と言っていたのは当時我々は停車場と呼んでいました、待合室がないところも多かったです。
下頓別にお住まいだったんですね。沿線の雰囲気は当時とは随分変わってしまったんでしょうね。
本日ピンネシリ駅跡地まで行ったのですが草が生え手入れがされていない状況で近くに行くのに勇気が入りました車窓を国土地理院と照らし合わせながら見ていたら鉄橋がありました【撮り逃した】
👍
素晴らしい動画をありがとうございます。1978年の夏、高2だった私は「北海道ワイド周遊券」を利用して、♪上野発の夜行列車(八甲田51号、客車はナハ11)に乗り、青函連絡船を使って函館に、北海道をほぼ1周しました。天北線は、稚内から浜頓別間を往復しました。その時の浜頓別駅で、同世代の制服を来た女子高校生が数人いました(北国なのでまだ夏休みではなかった?) パンツスタイル制服の人もいたのですが「さすが北海道、スカートだときっと寒いからなのだろう」と勝手に想像した記憶があります。浜頓別駅からクッチャロ湖畔まで歩きましたが、誰ともすれ違うことなく、牛が1頭横たわっていました。1978年の北海道行では、天北線の他に、相生線、広尾線、様似から日高本線を利用することができました。その時に撮影した同じ場所で、今の私を撮りたいと思っています。他の動画も含めて、このような思いを出させてくれる、ひろりんさんと動画に感謝いたします。
40年前に想いを馳せて視聴しました。好きな人には堪らない動画です!後編、たのしみです!お疲れ様でした!
後編もお楽しみに~
天北線は1989に廃止となりました。寂しいねー。
寂しいですね…
北海道の現役路線の大半もあまりに沿線人口が少なく維持するのがいかに困難かを察せられます。
音威子府~稚内の途中の町村の人口が、宗谷本線より天北線沿線の方が多いと言うのも厳しさを物語っています…
昭和52年の秋、少年マガジンの巻頭特集でこの廃線になった、天北線にある駅の写真を掲載してたのを思い出しました。他の稚内に行く路線も!
元々何も無いので・・・何回見ただろうか・・・
オッフ
もう33年も経ってしまったんですね まだ天北線が現役のころは北海道の鉄道ももうちょっと活気があったのですが…あの頃ワイド周遊券で乗った天北線や名寄本線や標津線は原野に還ってしまいましたね
この動画に使用されているBGMの曲名を教えてもらうことってできますか?天北線。路線こそ聞いたことがある程度で、実際どのような路線かは知らなかったので個人的にいい勉強になりました!
BGMは「夏の思い出」です。th-cam.com/video/j72rz_MZxrs/w-d-xo.html
教えていただきありがとうございます!
音威子府の駅蕎麦、待ち時間短かったけど、走って買いにいったのを思い出しました約35年前、まだ、学生の頃だったかな。稚内へ行くときは、夜行急行利尻、帰りは天北、懐かしい限りです。北海道には、随分、長い事、遠のいてるな〜また、行きたくなったな〜
今の北海道は寂しくなっていますね…
ひろりんさんのシリーズ、BGMいいですよねえ。先日、横浜のニューオータニインに泊まった時、ホテル案内のBGMがこの曲でした。ちょっとだけ、びっくりしました。天北線はまだ現役の頃、寿駅で写真を撮った思い出があります・・・・名前がすごくおめでたい駅名だったので・・・・北海道からどんどん、鉄道が消えてしまうのが、ただただ寂しいです。
ありがとうございます!寿駅で撮影されたことがあるんですか。いい思い出ですね~
旧天北線の現況を配信頂き、ありがとうございます。廃線最終日まで運行されていたという急行列車は、機関区のある名寄駅まではDD51が牽引し、音威子府から先は低規格路線でDD51が重すぎて乗入れ不可のため、DE10に入れ替えてブドウ色とブルトレの混成客車を牽引して運行していたのを覚えています。ブルトレは晩年になって投入されましたが、鉄道ファンには非常に人気がありました。現実とあまりのギャップに、時の流れを感じずにはいられませんね…
現役時代はそれなりの賑わいがあったようですが、現在は見る影も…
伊藤達哉さんへ5月10日の朝7時台に、あなたのコメントをじっくりと拝読しました。ひろりんさんもここのサムネイルのコメントで天北線(の跡の廃れ方等諸々)を憂慮されているんだなと私は踏みましたね。私もファンのアリスの名歌たる「今はもうだれも」の歌い出しに当たるこんな一節が、天北線をはじめとするローカル鉄道の廃止前後を問わない状況を表している気がしてならないんですよね。→♪今はもうだれも(略)さびしさだけが じっとしてる鐵坊主さん等の鉄道系のTH-camをも見られてきたであろう伊藤さんも複雑な心境ではと察します。梅雨入り間近ですが、元気で過ごされますように。
素晴らしい動画をありがとうございます。懐かしさと寂しさで胸が熱いです。昔の航空写真の翌年→昭和53年の春に、音威子府から天北線に乗りました。まだ雪深い頃でしたが人の行き交いもあり、黒っぽい駅そばも美味しかった。浜頓別から興浜北線に乗らなかったことだけは、いまも本当に悔やんでます。
乗られていたのは羨ましいですね。
音威子府はかつてはホームでその後改築後の駅舎でそば屋さんが営業されていましたが店主さんが亡くなり残念ながら閉店してしまいました。また北海道内の札幌圏以外のみどりの窓口も郵便局並の営業時間になっているところが大半ですね。
はじめまして、動画拝見しました祖父が務めていた天北線について調べるため、先日稚内まで向かったのですが、跡地がなかなか見つからず断念しました。この動画を参考に、またリベンジしようと思います。
跡地が分からなくなっている所も多いですからね…
サブチャンネルも合わせて、いつも動画を楽しみにさせて頂いてます♪
いつもありがとうございます!
本州の新潟県に在る「新津」は鉄道の町と呼ばれていました。北海道に在る鉄道の町(村)は、音威子府でした。昔の話ですがね。広大な構内で形成されて、多くの線路が敷かれていましたね。宗谷本線と天北線の分岐駅でもあり、宗谷本線直通の普通列車が、後続の急行列車待ちや、列車交換の為に30分も停車したり。待ち時間に蕎麦を良く食べたものです。あの音威子府蕎麦です。あの当時は駅のホー厶にありましたね。今では北海道イチの小さな村ですが、国鉄が栄ていた頃の音威子府は、鉄道の町として名を馳せ、日本各地から鉄道マニアが押し寄せて居ました。私は大阪在住ですが、私もその中の一人😅天北線と言えば敏音知駅が思い出します。大阪から遠路遥々初めて天北線に乗った時、この敏音知駅を何て読むのか?ピンネシリとはなかなか読めないですよ。北海道には難読駅がホントに多いですからね。音威子府から稚内へ。宗谷本線&天北線。この2つの路線に乗った大阪人は少ない?これも大阪人の私としての自慢ですわ😀
👍️
天北線廃止前の夏、高2の時、稚内から天北号乗りました。あの時は、客車で、寝台車が自由席扱いだったので、寝ながら乗ったのを覚えています。私は、東京に住んでいますが、一人旅できるようになった年代の最後の世代かなー?ギリギリ乗れてついてました。去年、そんな思い出を背に、稚内から音威子府までいわゆる代替バスを乗りにいってきましたが、稚内から鬼志別までは、天北線の区間のルートのバスが廃止になっていたのは驚きました。廃止から30年以上たちましたが、あの時より更に沿線は寂しくなってましたね。このままでは代替バスすらなくなりそうです。
生まれは中頓別で育ちはほぼ松音知でした…平成生まれの為、天北線には乗ったことがありません…しかし母も松音知育ちの為天北線の話はよく聞き「乗ってみたいなぁ」と小さい時から思ってました。小学生の時の自由研究にするほど、大好きでした。だけど、上駒駅の付け替え前国道なら3,4歳の時に歩いた記憶はあります😂そのあとすぐ変わっちゃいましたけど💦
中頓別のご出身でしたか。松音知は駅跡が当時のまま残っていますから、気になりますよね…
上音威子府〜小頓別間には天北栄という名の仮乗降場があったようですね。今は現地に踏み入れるどころか航空写真でも全く確認できません😢
天北栄はトンネルを抜けた先だったでしょうか…
音威子府、黒そば(今はないようですね)や砂澤ビッキ館、天塩川名付け記念碑、天塩川の淡水貝など村としては見所がある村ですよね😊音威子府手前の温泉にある無人駅有名らしく撮り鉄?の方々がいましたね。北海道大学所有の原生林もありますが林業の衰退と共に寂しくなってしまいました。本当にjr北海道どうなって行くんだろう…
音威子府は林業と鉄道の街でしたが、どちらも衰退してしまって…
かつて、浜頓別にあったユースホステル(YH)を定宿にしてました。宿泊せずにYHを21時頃に出発し、天北線22時頃の最終列車で音威子府、そこから急行利尻に乗り継ぎ札幌に向かうのをYHでは「夜逃げ」と言ってました。駅前商店街が賑やかでしたが、Google Mapや航空写真で見ると、浜頓別だけでなく沿線の歯抜けがものすごく寂しく感じます。中頓別に映っていた代替バスの便数が激減しているのも驚きでした。
夜逃げとはw前編の浜頓別までも衝撃でしたが、後編はもっと…
懐かしい天北線、昭和62年、1987年でも人が少ない記憶があります。中部地方の山里のローカル線でも、徐々に駅前の賑わいが無くなるのを感じたりして色々と考えさせられて寂しくなります。
ひろりんさん、こんばんは。今回、すごい立地の所にある駅が多かったですね。紹介された写真の駅舎、雰囲気いいのが多かったですね。取材、お疲れ様でした。これからも無理しないで頑張ってください。
後編はもっと凄くなります…
分岐駅だったから音威子府特急も停車しますが、駅前の寂しさが現実を表しています。01:55 音威子府04:43 上音威子府07:50 小頓別10:20 上頓別12:43 恵野14:00 敏音知16:12 周麿17:38 松音知18:50 上駒20:25 中頓別23:08 寿24:37 新弥生27:15 下頓別29:30 常磐30:56 浜頓別
音威子府も寂しくなりましたね…
ひろりんさん、何時も楽しく拝見させて頂いています。和多志は小頓別出身です。和多志が居た頃は映画館も商店もガソリンスタンドも駅前には郵便局や丸通今の日本通運が有り製材所は三社有り林業の町でした駅からは原木や製材された材料が沢山運ばれて行きました貨車の入れ替えも多かったです。家の玄関先には熊の足跡もよく付いていました。川には魚も沢山居ました冬は凍裂で木が破れる音が聞こへ雪が多く二階の窓から出入り出来るぐらい雪の階段を造り玄関から出入りしてました。それと宗谷管内では貨車を引くのが一番上手い馬が家の近くに居ました彼はよく馬喰の爺さんと出かけてましたね。仕事が終わり彼を貨車から降ろすと勝手に家まで帰ってきてました。子供の頃の自分にとっては小頓は母親の体内にいるようで幸せだったです。 😂長々書いてすいませんでした。
小頓別のご出身でしたか。今は寂しくなってしまいましたが、かつては林業で賑わっていたんですね。
歌内駅廃止直前の時期に音威子府に滞在しましたが、列車が来ない時間に周辺を散策しても2, 3人しかすれ違わないくらい本当に町全体が静かでした。まだ鉄道が通っている音威子府ですらこの状態なので、鉄道の無い旧天北線沿線の現況は推して知るべし、ですね……。現地に行かなくても寂しさが伝わってきます。
シュー ロクさんへ5月9日の朝9時前に、コメントを拝読しました。起点だった音威子府村の人口は、1950年の4174人がピークで2018年は770人、今年3月末に至っては641人に激減した事が判りました。(音威子府村のHP並びにウィキペディアから)過疎は、正に他人事に非ずと私も思いましたね。シューロクさんも、元気で過ごされますようお祈りします。
@@和田秀樹-r7u 住民の人数は村内にある全寮制の高校の生徒の数も含んでいるので実数はもっと少ないでしょう。筬島は1桁の人数しか住んでないそうです。
@@北斗一裂拳 筬島駅。4年前に行きましたが、住居建物は10軒以下でした。現在、駅裏の山を通る高速道路建設が絶賛進行中で、その工事業者や飯場があるので、地区内で活動している人は(今なら)そこそこいそうです。駅前にアイヌの彫刻家「砂澤ビッキ」の作品を収めた美術館があり、楽しめました。私が訪れたときは、音威子府村の企画?で、筬島駅の硬券入場券を限定発売していました。
@@Su---- 咲来のライダーハウスで聞いた話では筬島は老夫婦と移住家族の2世帯しか住んでないそうです。咲来の場合駅前以外にも国道沿いや天塩川温泉方面の美深町境まで咲来集落に含まれているの100人くらいはいるそうです。ビッキ氏やその息子は道新やアイヌ協会とは不仲らしいですね…
音威子府駅の宗谷本線分岐から見ると廃線跡が魂を抜かれたような草地で悲しくなります。
浜頓別BTから約1kmにあるクッチャロ湖畔の浜頓別温泉ウィングに宿泊しました。最高のロケーションです。次回もここを基点に廃線跡サイクリングをするつもりです。
サイクリングロードの廃線跡は熊が出るから通行禁止みたいです。後編を
音威子府の駅。当方はいつも通り過ぎるだけで、降り立ったことがありません。あの、お蕎麦屋さんも。 😥 いつの間にか。
またあのお蕎麦を食べたかった…
釧路出身ですけど、稚内には、親戚&知り合いもいませんので行く予定も無い。ある時にふと行って見ようと思い出かけました。網走経由で旭川から音威子府で天北線に乗りかえて稚内に行きました。音威子府での駅そばと稚内駅前で食べたラーメン屋さんのラーメン美味しかった思いでがあります。帰りは、宗谷本線の寝台車でした。
旧天北線の昔と今を知る事の出来る貴重な動画を有難うございます。何個か有った凄い立地の仮説乗車場も、1977年以前は天北線の敷設や、付近の開拓の仕事にあたった人達が結構利用していたんだろうなと思いました。動画が有る事で廃線から何十年経っても、音威子府から浜頓別回りで稚内(南稚内)まで鉄路が有った事は紛れもない事実として永遠に残りますね。後編は、あのクマとの遭遇ですね😱次回も楽しみにさせて頂きます!
後編はあのクマさんの登場です!
撮影ご苦労様です。この天北線は急行が最後まで走っていた路線なんですよね。今となれば、急行が止まっていた駅ですら、沿線の人口が減っているのですね。寂しいです。
笹原康平さんへ5月10日の朝4時前に、あなたのコメントをじっくりと拝読しました。主さんがこのサムネイルに表されたコメントから、天北線の跡全般で進むという過疎の問題が伺えます。更に私もアリスの歌からこんな一節にも言い替えられる気がしまして。♪今はもうだれも(略)さびしさだけが じっとしてる(「今はもうだれも」1番の歌い出しから)ひろりんさんは、風前の灯に喩えられる現役の木次・芸備線等も回られてきてローカル鉄道の在り方にも憂慮等複雑な心境ではと察した次第です。笹原さんも、梅雨入りが近付きますが元気で過ごされますように。
@@和田秀樹-r7u ありがとうございます。
音威子府と浜頓別間の天北線代行バスも本数激減で風前の灯火に
ですね…
@@hiroring0323 廃線→バス転換→バス赤字で交通手段無くなる。パターンですね、上山田線後もそのパターンです。今では市の負担で西鉄バスやコミュニティバス運行してます。
昭和49年自分が小学3年の時に九州から車で家族と北海道に行きました宗谷岬に行くときに通りました 稚内駅の駅前のビルの食堂でかつ丼を食べた記憶があります金額は500円でしたあの頃は稚内も賑わっていた記憶があります 今や普通列車が1日3本特急2本の寂しい駅になってしまいました 普通列車で言えばあの芸備線の備後落合と東城間の本数と同じですね・・・確かこの路線は樺太やソ連(ロシア)に向かう人のために建設された路線と思うのですが(間違っていたらすみません)北海道全体の人口がフクオカケンよりも少ないので仕方ないと思うのですがやはり寂しいものですね役目が終わると廃止されるのが運命でしょうがどうにかして存続する方法はないものでしょうか?探訪お疲れさまでした
ほぼ全駅が「おっふ」物件となっていますねぇ。14系客車急行「天北」で通ったのは遠い昔となってしまったようです。
オッフですね…
駅があったと思えないくらい寂しくなってますね…。
北海道はこうなってしまうんですよ…
天北線に乗ったのは、もう40年近く前になります。記憶が薄れてきていますが、この動画を見ていろいろと思い出しました。音威子府駅で、列車の待ち時間に常盤軒で 真っ黒なお蕎麦を食べた こと、原野と森の脇を走って〇頓別駅に小さな街があったこと楽しかった思い出が少し蘇ってきました。中頓別駅と浜頓別駅以外は、街が消滅しちゃったんですね。もう少し賑わっていたような記憶があります。動画タイトルにあるように、沿線の過疎化は進んでいるんですね。鉄道を失うと街の活気が無くなってしまいますね。
バスも維持できない区間も出てきていますからね…
@@hiroring0323 さん元々はこちらが宗谷本線で、鉄道建設の使命のために作られた路線なので、原野を切り開き人口の少ない地域に鉄道が作られたのでしょう。私が乗車した時は、中頓別も浜頓別も鬼志別も、そこそこ大きい街だったと記憶しています。過疎化も勿論あるでしょうけど、長年『利用しづらい路線』をずっと放置した代償なのかも知れませんね。
@@きんぐ_と名乗っておきましょう これでも天北線沿線(中頓別町、浜頓別町、猿払村)の方が宗谷本線沿線(中川町、幌延町、豊富町)よりも人口は多いんですよね…
@@hiroring0323 さんそうだったんですか、豊富町も幌延町もそこそこ大きい街だと思ったのですが、もう道北は鉄道が維持できないですね。風景は最高なんですがね・・・
@@きんぐ_と名乗っておきましょう 宗谷本線も名寄以北はかなり厳しいです…
元から何もなかったり集落が消えたりするパターンが多いねやっぱり
北海道だとこうなりますね…
周遊券で旅をしてた時に浜頓別で乗り換えのため下車したら、駅員の方に「下車印いらねえのけ?」と声かけられて押してもらったのを思い出しました。周遊券の北海道の図の浜頓別の辺に押してくれましたが、当時は知識がなくてその周遊券は帰ってきた時に改札で回収されてしまってガッカリしました。苦い思い出です。
それは苦い思い出ですね…
下車印たくさんの周遊券とかなら頼めば無効印押してもらえたでしょうけど、予備知識無いとそうなっちゃいますよね。東京発着の北海道周遊券やきっぷなら、川口で降りるとかありました。
旧天北線を自分も春に巡りましたが、沿線沿いにある小さな集落は消滅間近の状況なので、とても寂しい気持ちになりました。音威子府村にある有名な黒蕎麦も製造工場が閉業するので、食べれるのが今月いっぱいなんです。また一つの歴史が終わろうとしてます。
敏音知もキャンプ場がオープンした頃は駅舎を管理事務所としていたので当分は安泰だと思っていたのですが翌年行ったら巨大なログハウスに化けていました…
ひろりんさん!長編お疲れ様でした。天北線の廃線巡り楽しく拝見させて頂きました。次の配信も期待してます。
お疲れさまでした~
浜頓別くらいの街でも市街地を見ると何だか安心してしまいますねそれくらいそこまでの跡々がアレだったことの裏返しかもしれませんが
この先はもっと凄いことに…
上音威子府~小頓別間の国道による路線寸断区間は10年ぐらい前まで跨線橋がありましたね峠の国道の大幅改修で新しい国道に切り替わり車が通らなくなった跨線橋が少しの間だけ残ってました
初めて付近の国道を通った時(15年くらい前)は跨線橋があったと記憶しています。写真を撮っておけばよかったです…
1977年と現在の航空写真の比較で、言葉を失います。人が住んでいた場所が、線路が、自然へと還っていく姿を見ると、地方での鉄道の維持の大変さと、鉄道が担う住民の足の役割等、改めて考えさせられます。
敏音知や下頓別の小規模集落が既に限界化している様子では半世紀後には、自治体中心の街以外全て消滅していても不思議ではない寂れっぷりですね。「宅地100坪タダ」は衝撃的でした。宅地造成して宅地登録したので固定資産税が大変なんでしょうけど、買う人も居ないですよね。これだけ人も減ってくると猫さんの影もないのかなあ…
もともと駅前という好立地の住宅を、親の代から相続された方なんでしょうね。建物老朽化で更地にしても、宅地としての固定資産税(土地)は払い続けるのに困った方かと。「売地」の看板出したところで、観に来る人もいないでしょうから、旅行者にも目につくところに看板作ったのは正解ですね。当然、地元に不動産業者などないため、旭川や稚内の業者に管理受託したら、税金以上の年間管理料取られるでしょう。
人がいないので猫さんもいないですね…いるのは鹿、狐、そして…
@@Su---- さん そういえば駅前という昭和なら一等地だったんですね、すっかり失念していました。そんな印象すらもう無い土地ですし。相続した土地というSuさんのご推察に凄いリアリティがありますよね。遠隔地から斡旋する手法の不動産仲介業者は詐欺同然の悪質なところも多いそうですね。色々とご存じなSuさんに脱帽です。
@@hiroring0323 今までに鹿、犬、鶏、狐、そして猫さんと多彩な動物に遭遇してきたひろりんさんついにあの大型雑食動物に…
@@motosan7 ちょっと気になったので、もう少し真面目に見てみましたところ、ひろりんさんの映像に出て来る看板は、駅前通りの国道交差点ではなく、国道を100mほど北くらいのところでした。GoogleMapの最新ストリートビューは2014年撮影ですが、「宅地100坪をタダで差し上げます」の直下に「ニレの木タウン」の看板が掲げられており、どうやらこれが風雪で取れたようです。(動画でも下の草地に落ちた看板らしきものが見える)。このニレの木タウンとは、地元浜頓別町が天北線廃止後の下頓別駅構内を宅地分譲して売り出した「移住者取り込み促進ニュータウン」のようで、現在も10戸弱の新し目の住宅が建っていますので、ここの住民の方々は町の100坪タダ話に乗った移住者の方なのではないかと思われます。・・・ですので、親から相続した土地ではなさそうです。下頓別は中頓別と違いセコマこそないですが、地元商店は1軒あり、郵便局もあり。民家もざっと見30戸くらいある集落ですので、土地がタダでしっかり宅地の体をなしているなら、家の建設費は自腹でも「移住したい」という需要もあるのでしょう。でも、その2014年のニレの木タウン内には1軒、見た目地区30年くらい?の小さな住宅前に「売家」の看板が立っており、その連絡先はやはり【稚内の不動産会社(ラッキー不動産)】になっていました。20-30年の間に高齢化されたか、一人になったのでこの地を離れた人なのでは?なども推察されます。
今回の旧天北線前編では、中頓別や浜頓別以外の駅前集落は完全消滅、中頓別や浜頓別も駅前集落密度がさみしくなって、これでは鉄道どころかバスも維持できるのかが怪しいレベルですね。後編も何か不安になってきました。
後編は更に…
誰かぁ!リゾートに、してぇ!
天北線は1986年夏の夜時間帯に乗りました。稚内→音威子府で途中浜頓別駅で短い停車時間に走って入場券を買いました。夜だったので風景は見られませんでした。青く塗られたキハ22が保存されているのは嬉しいです。急行天北は宗谷本線内で14系客車時代に乗りました。キハ400に変わってからたった数ヶ月で天北線が廃止になったのは残念です。国道275号線が平行してますね。
昨年秋に回りましたけど、上頓別のホーム跡、気づきませんでした。浜頓別は道の駅の中に残っていたディスカバージャパンのスタンプ台だけが、ここに駅があったことを示していました。
上頓別のホーム跡は私も前回は気付きませんでした…
日本各地における過疎化の拍車は、鉄道の廃止という場合も少なくないと感じます。外部との動脈が絶たれた形ですので、人の行き来が無くなるわけです。失ってから気づいても遅いですが。。
そうですね…
鈍行で稚内まで行った時がありましたが、途中から誰も乗って来なくなりかなり寂しい印象を受けましたねここまで人の営みを伸ばしてきた鉄道の歴史を感じました。
昨日コメントをしました歌登線というのは歌登から小屯別まで結ぶ予定でした。もしかして歌登町営求道のところを鉄道にしたかったのかもしれませんね。 10歳より
歌登は小頓別からの方が近いですからね。
音威子府村と中頓別町の人口減のすさまじさにオッフどころかヒエッと声が出ました…
大学の時、宗谷岬まで列車に自転車を載せて行きました。宗谷本線でなく天北線でした。なぜ天北線まわりにしたのか覚えていません(急行天北だったのか普通列車だったのかも)。でも列車が森の中を走っていて、稚内までがとても長かったのだけは記憶があります。その後で廃止になったと聞きました。懐かしいです。
松音知駅跡の駅舎は個人所有の別荘でして、所有者はブログに写真を載せていた人に対して削除要求したそうで…まぁ、今はそのような要求は途絶えてますが、駅舎の公開は絶望的でしょう
そうなんですね…町が買い取って、綺麗になったキハ22を置いてくれたら…
ブログ全盛時代、無断立入をして掲載した人へ、所有者らしき方から、徹底した削除要請バトルがあったそうですね。廃止後、町も引き取りや保存・予算捻出を拒否したからこそ、個人が物件として購入したのでしょう。しかも毎年税金も納めている「私物」ですから。。。この豪雪地帯における、駅舎建物やホーム、レール、バラスト、敷地の維持は、業者に依頼すれば安く見積もって年間数十万円はかかるかと。そのコストや手間ヒマを、個人が負担しているわけですから、撮影はできないとはいえ、感謝すべきなんだろうなと思います。近年は記事削除要請のバトルもないとなると、SNSが発展しすぎて対応できなくなったのか、(廃止後35年を考えると)所有者の高齢化で対応できなくなったのか、警察に取り合っても対応してくれないのが判明したのか?わかりませんが、今の時代ならクラファンで全国から支援を集めるというテもありそうです。その去就たるや如何に…。
2012年頃から急に何も言って来なくなったらしいですね。何があったのでしょう…
削除要請は途絶えている、と書きましたが、訂正です2017年に現地調査を行い動画公開した、大仏様ことインターアーバン氏のもとにも削除要請が来ていたとコメントがありました(TH-cam運営に削除要請→却下されたので本人にメール の流れ)ただそこは大仏様、どうぞ警察に通報してくださいと堂々と返信してその後放置の模様、該当の動画は今も公開中です
@@47th-sol64 あの、現調系北海道配信者の方ですね。ということは、警察に通報しても、取り合ってくれなかった(もしくはハナからノーアクション)だったということなのでしょうね。破壊や盗難など物的被害があって、被害届が出されればさすがに動かざるを得ないと思いますが、そこまでではないのか、警察も「入られるのがイヤだった柵や金網でも張れよ!」てことなのでしょうか。
昔は鉄道が一つの産業として機能してましたね。具体的には、駅では、貨物、荷物の取り扱いや、列車交換など、小さな駅でも、相当数の職員がいたので、それを中心として集落が形成されていました。今は道路沿いが人の集まる場所になってしまった。過疎も確かだけど、村内での中心の移動も見落とせないと思います。
このBGMを聴くと,行ったこともない廃線跡をなぜか懐かしく思ってしまいますね.今回の収益化剝奪も誤判定であることを願います.
ありがとうございます!
行って見たいが、ヒグマが出て来そうで、怖いです。
🐻
個人的に深い縁があるので、いつの日か出来るだけ早く天北線の廃線跡を巡ってみたいと思っております。 今回ひろりんさんが過去の空撮画像と共に動画にして下さって本当に感謝しています。廃線跡巡りに出かける際には参考にさせて頂きます。 貴重な動画ありがとうございます。後編も楽しみにしております。
浜頓別の道の駅付近にロータリー「ラウンドアバウト」が数年前に出来たそうです。
ありますね~
音威子府駅に天北線資料室があり、イラストがキハ80系気動車特急車輌を模してますが出来れば急行天北で使われたキハ56や14系客車やキハ400の方がリアルかと思われます。
1989年のGWに7泊8日の北海道旅行で札幌から夜行急行列車利尻に乗車しました。当時は14系客車の普通自由席でしたが、稚内に到着時はうっすら雪が積もっていました。確か網走に寄って札幌に戻ってからです。稚内発名寄行の普通列車で音威子府駅で駅そばを食べた時は蕎麦本来の野生味溢れる味だったです。ただ残念な事に天北線に乗車出来なかったのを今でも後悔しています。急行天北も利尻と共通の編成だったと思います!
当時の普通客車・寝台車混結の宗谷と利尻は共用運用でした。稚内行きの下り天北は寝台車が自由席扱いで、上段は使用禁止でしたが、私は下段で横になって過ごしました。私は前年の1988年に乗車したのが最後でした。
77年の時点で既に閑散としていた所が多いのにも驚きますが、小頓別の変わりようが…。上音威子府駅跡のホームに駅名標を再現したのはどういう意図なのでしょうね。特に周辺を整備してもいないので、観光資源化しているわけでもなさそうですし、近くのトンネルが通れる状態で放置されているのも不思議です。安全性を考えて封鎖するか、反対に遊歩道として整備するか、どちらでもないのが意外です。
うろ覚えですが、たしか、駅舎倒壊に伴う取り壊し&駅跡整地のタイミングで元 駅周辺住民さんたちの「同窓会」みたいなものが催され、その中のささやかな活動だったかと思います。
いつも見させていただいています。トンネル塞がれていないんですね。クマにお気をつけください。
廃トンネルは通常は閉塞されているか、柵が設置されて立入禁止になっていることが多いんですけどね…
寝台付き夜行宗谷で稚内、バスで宗谷岬帰路は天北回りの急行天北乗り継いで名寄から名寄本線で遠軽、湧網線で網走など鉄ちゃんをやってましたね。懐かしい映像有難うございます、昭和49年は網走湖畔を走るSLも現役でした興浜北線、南線は行程的に無理で行けずです
宗谷丘陵の美しい自然を感じながら、走り抜ける鉄道。親の世代に生まれていれば乗りに行けたのにな〜
列車の中入れないんですか?
入れないですね…
名寄以北は鉄道開業時から枝幸町をどう取り込むかが大きなポイントでしたね。戦前は樺太航路との接続が最優先課題だったので、それを考慮すると宗谷線にせよ天北線にせよ枝幸町素通りの稚内最短ルートとなります。もしも天北線が音威子府ではなく美深から分岐で枝幸町を取り込んでいれば、まだ救いはあったと思います。今でも紋別~稚内間では最大の浜町なので、それなりに収益は上がっていたのでは。本州は細長い大動脈とそこから分岐する地方線で、魚の骨のような線形でことが足りましたが、北海道は四角い上に石炭輸送も優先課題だったので(本州と比べると)線形が網の目状となり、維持費が余計に嵩んでしまいましたね。
天北線が美幸線仁宇布経由とならなかった理由はよく知らないのですが、途中地域の入植計画との兼ね合いなのでしょうかね?現在のあの区間の道路を走るとわかりますが、仁宇布と途中歌登以外はほぼ無人のクマの巣窟地帯。勾配も急な峠となり、貨物列車や長大編成は相当難儀を強いられたであろうことは想像に難くありません。また、途中に炭鉱があるわけでもないので、産業的&貨物収入のメリットが少なかったのもあるでしょうね。結果的にハブられた枝幸が比較的大きな街だったため、小頓別から歌登町営軌道を敷設して短絡路したものの、いざ興浜北線が開通すると、旅客は(遠回りながらも)みなそちらに流れ、枝幸~歌登間は終戦直後に早々と廃止という、やるせない結末が残念です。
@@Su---- 天北線の計画時や着工時の雰囲気まで遡って調べるのは困難なのですが、天北線より現宗谷本線の開業が遅れた理由は至極単純で、サロベツ湿原や蛇行する天塩川が広がっていて路盤が悪かったからです。一方オホーツク側は比較的路盤がよく、「多少」遠回りしてでも音威子府から浜頓別経由で線路を敷くのが開業が早いと当時は判断されたのだと推測します。ところが美深から枝幸経由で稚内まで結ぶと、「かなり」遠回りになってしまうんですね。当時の鉄道は北海道開拓を促進するという側面もあったため、仮にこれが実現していれば仁宇布や歌登あたりは開拓民が先行してもっと移住していたかも知れません。ですが国鉄のドル箱と言えばまさに石炭で、枝幸経由にせよ浜頓別経由にせよその拠点はせいぜい猿払村小石ぐらいのもの。天北線沿線には他に曲淵もありましたが、そこから東へ峠を越えるよりは平坦な西へ進み稚内まで運ぶのが効率的だったことでしょう。豊富や幌延の石炭は迷わず宗谷本線へ。そのようにあれやこれや考えると枝幸町そのものは「点」でみると今も昔も非常に魅力的な商圏でありますが、それを結ぶ「線」に恵まれなかったと考えられます。仮に日本の土木や治水技術が遅れていれば、現宗谷本線の開業はもっと遅くなり、その反動で枝幸は早々と鉄道を味方につけもっと繁栄していたかも知れませんね。長文失礼しました。
昔は今より人口が多かった、そして移動手段は今より便利でなかったから田舎にも人が残っていた。何より鉄道しか移動手段が無かった、金持ちが自動車を持っていても、道路が少なかった。今は、純粋な人口減、便利な都会への移住、残った数少ない人々は自動車という個人でいつでも好きな時に好きなところへ快適な道路を使って動かせるものに乗っているので、1日に1桁の数しか乗るチャンスが無い鉄道なんて見向きもしない。しかも乗ったとしても、病院やショッピングセンターの駐車場まで入ってくれない・・・全国で起こっていること、大量輸送、高速輸送、都市間輸送という鉄道の特性が発揮できないところはこれからも廃線になってくだろう。鉄道趣味としては寂しいが、線路や駅や大型の車両という立派な設備に乗客が3名なんて鉄道は無駄そのものと思う。1分の1の鉄道模型じゃないんだから。悲しいがこれが現実。
主たる産業も無く不便な場所からは、人々は去り街も鉄道も消滅します…これが過疎地の現実です…
過疎化が深刻とは言え、そこに住んでた人に永久にそこに住めとか、新たな人を強制的に移住させるという権力は誰も持ってませんからねえ。
中頓別の青くてボロいキハ22、このまま朽ち果てていくのかと思っていたら、また綺麗に塗装されるんですね❗少し安心しました🌼煉瓦のトンネル跡、さすが歴史ある路線としての風格が感じられますね。
1999年5月に探索したから23年ぶりにみましたが、まだ新弥生があるのは、廃止から10年してはまだ線路部分は藪がなくホームが見えてましたからね、上音威子府は、まだ健在で農家の倉庫でした。中も入れました。あとは、当時のノート見ると寿は、農家不明と書いてありました。上駒は丁度工事していた時で道路転用とかかれてました。やはり当時は国土地理院地形図を当時のやつを国立国会図書館でコピーして廃止線探索をしてました。
音威子府はあの蕎麦がなくなるまでに行こうと思います。道の駅で食べれるそうですが数量限定とのことで、前日までに旭川に乗り込んで宗谷本線の鈍行に乗らんと辛いかな…なーんて考えてます。
かつては稚内へはこっちがメインルートだったのに今は荒れ果てましたね...今は宗谷本線も危ないですけど...
天北線は廃止になってしまいましたが、これでも途中の町村の人口は宗谷本線よりも多いんですよね…
急行が最終日まで走っていたのはそうとう人がいたということだな
急行乗っている人はそこそこいましたよ。乗車率50%くらい(窓側席がひととおり埋まるくらい+α)。でも、天北線内は通過するだけで、ほぼ稚内~旭川方面へ直通するひとばかり。車内販売もやってましたよ。普通列車は空気運んでました。
小頓別の変わり様には驚きました鉄道と町の関係がよく分かりますね
かつて急行停車駅だった小頓別も今は…
ひろりんさんの動画は、見れば見るほど楽しいですね。興味深く見せて頂きました。それと熊と遭遇したら『熊🐻撃退用の唐辛子🌶️スプレー』がいいですね。唐辛子にはカプサイシンという成分があり、遭遇したら目👀に向かってスプレーすると効果覿面。目👀に入ったら激痛で暫く目が開けられません。熊がいる所に行く機会が多いと思うので、お知らせしました。ご存知なら申し訳ありませんm(_ _)mでもご無事で本当に良かった。
ありがとうございます🐻この動画の後編でヒグマに遭遇してから、熊撃退スプレーは持参するようになりました…
ホームや駅名標が意外に残っていた。天北線の現役時代を語ってくれている。
かつての本線とは思えない荒廃ぶり…現本線も廃駅だらけで路線自体が怪しいですが…
前編観させていただきました。天北線沿線も厳しい場所が多いですね。元々人が余り居ない場所に仮乗降場があったりと。北海道も都市部から離れると過疎化の進行が顕著のようですね。でも痕跡が残ってるのは嬉しいと思います。いつも厳しい探索ありがとうございます。後編も楽しみにしております。ホント、ヒロリンさんの行動力には頭が下がります。ありがとうございます。
あっという間の33分、天北線に乗る機会は無かったですが乗車した気持ちになれました。取材と編集に膨大な時間を要したと思いますが、それを僅か33分で視聴出来るなんて申し訳ない位です。でも後編も大いに期待しています。
何かしらの遺構が残っている駅がそこそこあるのはいいですね。
敏音知簡易郵便局で旅行貯金したらオンラインでなく手押しだった集落ごと消滅してしまいましたか旅行貯金の通帳も歴史の記録になりますなあ
地方では郵便局も減っていますからね…
天北線のこの区間は極めて厳しい状況のようですね。サロマ湖畔のように代行バスもなくなりそうな・・。北海道はすでに鉄道の存廃論議からバスの存廃論議に移っているかもしれません。
天北線でもバスが維持できない区間も出てきていますね…
今後更に人口は減少していきますから、人がいなくなる場所が出るのは避けられないですよね。道路や鉄道、バスの公共交通インフラ、生活インフラ、商店等を過疎化してない地域並に全国遍く整備すれば過疎化の問題は多少和らぐかもしれませんが、国家予算がとてつもなく跳ね上がるくらいの費用が必要でしょう。無理なんですよね。過疎化を止めるのは。ある程度の都市に選択と集中させていくしかなくて、北海道に限らず全国でこういう場所が次々出てくるのもまた避けられないと思います。
本線だったのに仮乗降場が目立ちました。人がいないとどうしようもありませんね。今度行く参考になりました。ありがとうございました。
天北線沿線は、昨年夏の北海道旅行の折に、今回の前編部分でいくつかの廃駅を見て回りましたが、あそこまで沿線人口が少ないと存続はムリだったのでしょうね!th-cam.com/video/X8dFZtsxvNk/w-d-xo.html
沿線だった猿払村は、現在東京品川区より所得が高いので、天北線の存在は何だったのか?
常盤そばあのお爺ちゃんお婆ちゃんの後継いなかったんですね…小頓別市街の変りっぷりに驚きです…代替えバスが往復で片手程度しか走ってないのが沿線沿いの人口を物語ってる…後編は浜頓別、猿払方面ですか…後編も元々何もないので…の連発ですね…楽しみにしてます🤲
ひろりんさんへ5月9日の朝5時台に全編拝見しましたよ。天北線を浜頓別駅の跡を区切りにされ今回の前編と後編に分けて動画にされようとしたあなたの御決断に拍手を送ります。客車を連ねた急行が(廃止の前日まで)運行されたという稀さ・起点だった音威子府駅の美味かった黒い蕎麦の店の廃業・敏音知等に見る過疎〔集落の形成は「過」去となり、求職したさに若者達が去って「疎」らになり残った人々も情報やその利用等に「疎」くなる必然性〕の問題を私は感じました。天北線の廃止は、「天」塩地方のみならず人口の札幌市周辺等への偏在から他の地域が廃れる懸念という「北」海道の縮図を暗示しているのではと思いましたね。後編の動画にも、私達は期待しますよ。ひろりんさんも、天候等の変化や健康に気を付けられ過ごされますようお祈りします。尚、見終わって個人の別荘と化した松音知の駅舎の存在を知り私も複雑な心境の余りにおっふと溜息をつきました。
今回のスタートとなる音威子府駅で以前有った黒い駅蕎麦は、写真に撮ったモノを添付ファイルで送信すると友人達は「今、音威子府駅に居るんだね。」と認識してくれるぐらい特徴的でしたもんね。(類は友を呼ぶ…という交友関係の為せる技かも知れませんでしたがね。w)
時刻表見たら死屍累々でね。持ってるのうまれた歳の一年後の時刻表ですが、社会科の副読本で見た幸袋線とか見たら更に死屍累々。涙も出ない。
ひろりんさんへのリクエストとして、函館本線、国縫(長万部起点)から瀬棚まであった瀬棚線の廃線跡,駅跡巡りがあると嬉しい😆です。
瀬棚線は今金、北檜山、瀬棚しか行っていないので、夏に巡る予定です。
「無料で100坪の宅地を譲ります」とは。そして、クマの写真が出てきて「次回、あの方が登場します」とは・・・ガクガクブルブル
敏音知懐かしいです。急行天北のタブレット撮影で何度か訪問しました
駅員さんもみな親切でよくしてもらいました。
自分自身も高校生でしたが、敏音知、松音知の高校生とも友達になりました。
敏音知では急行天北のタブレット通過授受が見られましたね。
昔は小さな駅にも駅員さんがいて…
今年6月、自転車で旭川→音威子府→ピンネシリ(1日目)、ピンネシリ→宗谷岬→稚内(2日目)で走りました。行く前にこのビデオを拝見してました。途中、上音威子府の先あたりで右側に鉄橋が残されていたり、小頓別駅前の丹波屋旅館を見たり・・・ 松音知の駅が走行中の国道から見えてテンション上がったり・・・中頓別のキハは残念ながらまだ塗り替えされてなかったです。事前にビデオ拝見して、ただ走るだけでなくて沿線にも興味が持てました。ありがとうございます!
自転車で巡られたんですね~
天北トンネルの小頓別側の出口付近に、昭和40年まで天北栄仮乗降場があったようですね。
頓別川支流の栄川に沿う形で、開拓民団が入植した栄集落があり、小学校の分校も置かれていたようですが、あまりにも奥に過ぎてすぐ集団離村となったようです。
そのようですね…
最近、動画を拝見させて頂いております。
北海道には何度かバイクツーリングで行かせて頂いてます。
今度、もし北海道に行くなら廃線跡もみたいと思ってます。
繁栄と衰退の廃線跡は見てみたいですね。
北海道は短い期間での、繁栄と衰退の歴史がありますからね…
特に鉄道は…
1分16秒 のところの時刻表、全路線全滅でつらい。
全路線全滅…
1977年まで下頓別に住み浜頓別高校に天北線で通学していました。当時はSLも走っていて廃止前に撮影で沢山の人が来ていました。50両位の貨物列車も小学生の頃は走っていました。貴重な画像ありがとうございました。仮乗降場と言っていたのは当時我々は停車場と呼んでいました、待合室がないところも多かったです。
下頓別にお住まいだったんですね。
沿線の雰囲気は当時とは随分変わってしまったんでしょうね。
本日ピンネシリ駅跡地まで行ったのですが草が生え手入れがされていない状況で近くに行くのに勇気が入りました
車窓を国土地理院と照らし合わせながら見ていたら鉄橋がありました【撮り逃した】
👍
素晴らしい動画をありがとうございます。
1978年の夏、高2だった私は「北海道ワイド周遊券」を利用して、♪上野発の夜行列車(八甲田51号、客車はナハ11)に乗り、青函連絡船を使って函館に、北海道をほぼ1周しました。
天北線は、稚内から浜頓別間を往復しました。その時の浜頓別駅で、同世代の制服を来た女子高校生が数人いました(北国なのでまだ夏休みではなかった?) パンツスタイル制服の人もいたのですが「さすが北海道、スカートだときっと寒いからなのだろう」と勝手に想像した記憶があります。
浜頓別駅からクッチャロ湖畔まで歩きましたが、誰ともすれ違うことなく、牛が1頭横たわっていました。
1978年の北海道行では、天北線の他に、相生線、広尾線、様似から日高本線を利用することができました。
その時に撮影した同じ場所で、今の私を撮りたいと思っています。
他の動画も含めて、このような思いを出させてくれる、ひろりんさんと動画に感謝いたします。
40年前に想いを馳せて視聴しました。好きな人には堪らない動画です!後編、たのしみです!
お疲れ様でした!
後編もお楽しみに~
天北線は1989に廃止となりました。寂しいねー。
寂しいですね…
北海道の現役路線の大半もあまりに沿線人口が少なく維持するのがいかに困難かを察せられます。
音威子府~稚内の途中の町村の人口が、宗谷本線より天北線沿線の方が多いと言うのも厳しさを物語っています…
昭和52年の秋、少年マガジンの巻頭特集でこの廃線になった、天北線にある駅の写真を掲載してたのを思い出しました。他の稚内に行く路線も!
元々何も無いので・・・何回見ただろうか・・・
オッフ
もう33年も経ってしまったんですね まだ天北線が現役のころは北海道の鉄道ももうちょっと活気があったのですが…あの頃ワイド周遊券で乗った天北線や名寄本線や標津線は原野に還ってしまいましたね
この動画に使用されているBGMの曲名を教えてもらうことってできますか?
天北線。路線こそ聞いたことがある程度で、実際どのような路線かは知らなかったので個人的にいい勉強になりました!
BGMは「夏の思い出」です。
th-cam.com/video/j72rz_MZxrs/w-d-xo.html
教えていただきありがとうございます!
音威子府の駅蕎麦、待ち時間短かったけど、走って買いにいったのを思い出しました
約35年前、まだ、学生の頃だったかな。
稚内へ行くときは、夜行急行利尻、帰りは天北、懐かしい限りです。
北海道には、随分、長い事、遠のいてるな〜
また、行きたくなったな〜
今の北海道は寂しくなっていますね…
ひろりんさんのシリーズ、BGMいいですよねえ。先日、横浜のニューオータニインに泊まった時、ホテル案内のBGMがこの曲でした。
ちょっとだけ、びっくりしました。
天北線はまだ現役の頃、寿駅で写真を撮った思い出があります・・・・名前がすごくおめでたい駅名だったので・・・・
北海道からどんどん、鉄道が消えてしまうのが、ただただ寂しいです。
ありがとうございます!
寿駅で撮影されたことがあるんですか。いい思い出ですね~
旧天北線の現況を配信頂き、ありがとうございます。
廃線最終日まで運行されていたという急行列車は、機関区のある名寄駅まではDD51が牽引し、音威子府から先は低規格路線でDD51が重すぎて乗入れ不可のため、DE10に入れ替えてブドウ色とブルトレの混成客車を牽引して運行していたのを覚えています。
ブルトレは晩年になって投入されましたが、鉄道ファンには非常に人気がありました。
現実とあまりのギャップに、時の流れを感じずにはいられませんね…
現役時代はそれなりの賑わいがあったようですが、現在は見る影も…
伊藤達哉さんへ
5月10日の朝7時台に、あなたのコメントをじっくりと拝読しました。
ひろりんさんもここのサムネイルのコメントで天北線(の跡の廃れ方等諸々)を憂慮されているんだなと私は踏みましたね。私もファンのアリスの名歌たる「今はもうだれも」の歌い出しに当たるこんな一節が、天北線をはじめとするローカル鉄道の廃止前後を問わない状況を表している気がしてならないんですよね。
→♪今はもうだれも(略)
さびしさだけが じっとしてる
鐵坊主さん等の鉄道系のTH-camをも見られてきたであろう伊藤さんも複雑な心境ではと察します。梅雨入り間近ですが、元気で過ごされますように。
素晴らしい動画をありがとうございます。懐かしさと寂しさで胸が熱いです。
昔の航空写真の翌年→昭和53年の春に、音威子府から天北線に乗りました。
まだ雪深い頃でしたが人の行き交いもあり、黒っぽい駅そばも美味しかった。
浜頓別から興浜北線に乗らなかったことだけは、いまも本当に悔やんでます。
乗られていたのは羨ましいですね。
音威子府はかつてはホームでその後改築後の駅舎でそば屋さんが営業されていましたが店主さんが亡くなり残念ながら閉店してしまいました。また北海道内の札幌圏以外のみどりの窓口も郵便局並の営業時間になっているところが大半ですね。
はじめまして、動画拝見しました
祖父が務めていた天北線について調べるため、先日稚内まで向かったのですが、跡地がなかなか見つからず断念しました。この動画を参考に、またリベンジしようと思います。
跡地が分からなくなっている所も多いですからね…
サブチャンネルも合わせて、いつも動画を楽しみにさせて頂いてます♪
いつもありがとうございます!
本州の新潟県に在る「新津」は鉄道の町と呼ばれていました。
北海道に在る鉄道の町(村)は、音威子府でした。
昔の話ですがね。
広大な構内で形成されて、多くの線路が敷かれていましたね。
宗谷本線と天北線の分岐駅でもあり、宗谷本線直通の普通列車が、後続の急行列車待ちや、列車交換の為に30分も停車したり。
待ち時間に蕎麦を良く食べたものです。
あの音威子府蕎麦です。
あの当時は駅のホー厶にありましたね。
今では北海道イチの小さな村ですが、国鉄が栄ていた頃の音威子府は、鉄道の町として名を馳せ、日本各地から鉄道マニアが押し寄せて居ました。
私は大阪在住ですが、私もその中の一人😅
天北線と言えば敏音知駅が思い出します。
大阪から遠路遥々初めて天北線に乗った時、この敏音知駅を何て読むのか?ピンネシリとはなかなか読めないですよ。北海道には難読駅がホントに多いですからね。
音威子府から稚内へ。
宗谷本線&天北線。
この2つの路線に乗った大阪人は少ない?
これも大阪人の私としての自慢ですわ😀
👍️
天北線廃止前の夏、高2の時、稚内から天北号乗りました。あの時は、客車で、寝台車が自由席扱いだったので、寝ながら乗ったのを覚えています。私は、東京に住んでいますが、一人旅できるようになった年代の最後の世代かなー?ギリギリ乗れてついてました。去年、そんな思い出を背に、稚内から音威子府までいわゆる代替バスを乗りにいってきましたが、稚内から鬼志別までは、天北線の区間のルートのバスが廃止になっていたのは驚きました。廃止から30年
以上たちましたが、あの時より更に沿線は寂しくなってましたね。このままでは代替バスすらなくなりそうです。
生まれは中頓別で育ちはほぼ松音知でした…平成生まれの為、天北線には乗ったことがありません…
しかし母も松音知育ちの為天北線の話はよく聞き「乗ってみたいなぁ」と小さい時から思ってました。
小学生の時の自由研究にするほど、大好きでした。
だけど、上駒駅の付け替え前国道なら3,4歳の時に歩いた記憶はあります😂
そのあとすぐ変わっちゃいましたけど💦
中頓別のご出身でしたか。
松音知は駅跡が当時のまま残っていますから、気になりますよね…
上音威子府〜小頓別間には天北栄という名の仮乗降場があったようですね。今は現地に踏み入れるどころか航空写真でも全く確認できません😢
天北栄はトンネルを抜けた先だったでしょうか…
音威子府、黒そば(今はないようですね)や砂澤ビッキ館、天塩川名付け記念碑、天塩川の淡水貝など村としては見所がある村ですよね😊音威子府手前の温泉にある無人駅有名らしく撮り鉄?の方々がいましたね。北海道大学所有の原生林もありますが林業の衰退と共に寂しくなってしまいました。本当にjr北海道どうなって行くんだろう…
音威子府は林業と鉄道の街でしたが、どちらも衰退してしまって…
かつて、浜頓別にあったユースホステル(YH)を定宿にしてました。宿泊せずにYHを21時頃に出発し、天北線22時頃の最終列車で音威子府、そこから急行利尻に乗り継ぎ札幌に向かうのをYHでは「夜逃げ」と言ってました。
駅前商店街が賑やかでしたが、Google Mapや航空写真で見ると、浜頓別だけでなく沿線の歯抜けがものすごく寂しく感じます。
中頓別に映っていた代替バスの便数が激減しているのも驚きでした。
夜逃げとはw
前編の浜頓別までも衝撃でしたが、後編はもっと…
懐かしい天北線、昭和62年、1987年でも人が少ない記憶があります。中部地方の山里のローカル線でも、徐々に駅前の賑わいが無くなるのを感じたりして
色々と考えさせられて寂しくなります。
ひろりんさん、こんばんは。
今回、すごい立地の所にある駅が多かったですね。
紹介された写真の駅舎、雰囲気いいのが多かったですね。
取材、お疲れ様でした。これからも無理しないで頑張ってください。
後編はもっと凄くなります…
分岐駅だったから音威子府特急も停車しますが、駅前の寂しさが現実を表しています。
01:55 音威子府
04:43 上音威子府
07:50 小頓別
10:20 上頓別
12:43 恵野
14:00 敏音知
16:12 周麿
17:38 松音知
18:50 上駒
20:25 中頓別
23:08 寿
24:37 新弥生
27:15 下頓別
29:30 常磐
30:56 浜頓別
音威子府も寂しくなりましたね…
ひろりんさん、何時も楽しく拝見させて頂いています。和多志は小頓別出身です。和多志が居た頃は映画館も商店もガソリンスタンドも駅前には郵便局や丸通今の日本通運が有り製材所は三社有り林業の町でした駅からは原木や製材された材料が沢山運ばれて行きました貨車の入れ替えも多かったです。家の玄関先には熊の足跡もよく付いていました。川には魚も沢山居ました冬は凍裂で木が破れる音が聞こへ雪が多く二階の窓から出入り出来るぐらい雪の階段を造り玄関から出入りしてました。それと宗谷管内では貨車を引くのが一番上手い馬が家の近くに居ました彼はよく馬喰の爺さんと出かけてましたね。仕事が終わり彼を貨車から降ろすと勝手に家まで帰ってきてました。子供の頃の自分にとっては小頓は母親の体内にいるようで幸せだったです。 😂長々書いてすいませんでした。
小頓別のご出身でしたか。
今は寂しくなってしまいましたが、かつては林業で賑わっていたんですね。
歌内駅廃止直前の時期に音威子府に滞在しましたが、列車が来ない時間に周辺を散策しても2, 3人しかすれ違わないくらい本当に町全体が静かでした。まだ鉄道が通っている音威子府ですらこの状態なので、鉄道の無い旧天北線沿線の現況は推して知るべし、ですね……。現地に行かなくても寂しさが伝わってきます。
シュー ロクさんへ
5月9日の朝9時前に、コメントを拝読しました。起点だった音威子府村の人口は、1950年の4174人がピークで2018年は770人、今年3月末に至っては641人に激減した事が判りました。(音威子府村のHP並びにウィキペディアから)過疎は、正に他人事に非ずと私も思いましたね。
シューロクさんも、元気で過ごされますようお祈りします。
@@和田秀樹-r7u 住民の人数は村内にある全寮制の高校の生徒の数も含んでいるので実数はもっと少ないでしょう。
筬島は1桁の人数しか住んでないそうです。
@@北斗一裂拳 筬島駅。4年前に行きましたが、住居建物は10軒以下でした。現在、駅裏の山を通る高速道路建設が絶賛進行中で、その工事業者や飯場があるので、地区内で活動している人は(今なら)そこそこいそうです。
駅前にアイヌの彫刻家「砂澤ビッキ」の作品を収めた美術館があり、楽しめました。私が訪れたときは、音威子府村の企画?で、筬島駅の硬券入場券を限定発売していました。
@@Su---- 咲来のライダーハウスで聞いた話では筬島は老夫婦と移住家族の2世帯しか住んでないそうです。
咲来の場合駅前以外にも国道沿いや天塩川温泉方面の美深町境まで咲来集落に含まれているの100人くらいはいるそうです。
ビッキ氏やその息子は道新やアイヌ協会とは不仲らしいですね…
音威子府駅の宗谷本線分岐から見ると廃線跡が魂を抜かれたような草地で悲しくなります。
浜頓別BTから約1kmにあるクッチャロ湖畔の浜頓別温泉ウィングに宿泊しました。最高のロケーションです。次回もここを基点に廃線跡サイクリングをするつもりです。
サイクリングロードの廃線跡は熊が出るから通行禁止みたいです。後編を
音威子府の駅。
当方はいつも通り過ぎるだけで、降り立ったことがありません。
あの、お蕎麦屋さんも。 😥 いつの間にか。
またあのお蕎麦を食べたかった…
釧路出身ですけど、稚内には、親戚&知り合いもいませんので行く予定も無い。ある時にふと行って見ようと思い出かけました。網走経由で旭川から音威子府で天北線に乗りかえて稚内に行きました。音威子府での駅そばと稚内駅前で食べたラーメン屋さんのラーメン美味しかった思いでがあります。帰りは、宗谷本線の寝台車でした。
旧天北線の昔と今を知る事の出来る貴重な動画を有難うございます。
何個か有った凄い立地の仮説乗車場も、1977年以前は天北線の敷設や、付近の開拓の仕事にあたった人達が結構利用していたんだろうなと思いました。
動画が有る事で廃線から何十年経っても、音威子府から浜頓別回りで稚内(南稚内)まで鉄路が有った事は紛れもない事実として永遠に残りますね。
後編は、あのクマとの遭遇ですね😱
次回も楽しみにさせて頂きます!
後編はあのクマさんの登場です!
撮影ご苦労様です。
この天北線は急行が最後まで走っていた路線なんですよね。
今となれば、急行が止まっていた駅ですら、沿線の人口が減っているのですね。
寂しいです。
笹原康平さんへ
5月10日の朝4時前に、あなたのコメントをじっくりと拝読しました。
主さんがこのサムネイルに表されたコメントから、天北線の跡全般で進むという過疎の問題が伺えます。更に私もアリスの歌からこんな一節にも言い替えられる気がしまして。
♪今はもうだれも(略)
さびしさだけが じっとしてる
(「今はもうだれも」1番の歌い出しから)
ひろりんさんは、風前の灯に喩えられる現役の木次・芸備線等も回られてきてローカル鉄道の在り方にも憂慮等複雑な心境ではと察した次第です。笹原さんも、梅雨入りが近付きますが元気で過ごされますように。
@@和田秀樹-r7u ありがとうございます。
音威子府と浜頓別間の天北線代行バスも本数激減で風前の灯火に
ですね…
@@hiroring0323
廃線→バス転換→バス赤字で交通手段無くなる。パターンですね、上山田線後もそのパターンです。今では市の負担で西鉄バスやコミュニティバス運行してます。
昭和49年自分が小学3年の時に九州から車で家族と北海道に行きました宗谷岬に行くときに通りました 稚内駅の駅前のビルの食堂でかつ丼を食べた記憶があります金額は500円でした
あの頃は稚内も賑わっていた記憶があります 今や普通列車が1日3本特急2本の寂しい駅になってしまいました 普通列車で言えばあの芸備線の備後落合と東城間の本数と同じですね・・・確かこの路線は樺太やソ連(ロシア)に向かう人のために建設された路線と思うのですが(間違っていたらすみません)北海道全体の人口がフクオカケンよりも少ないので仕方ないと思うのですがやはり寂しいものですね役目が終わると廃止されるのが運命でしょうがどうにかして存続する方法はないものでしょうか?
探訪お疲れさまでした
ほぼ全駅が「おっふ」物件となっていますねぇ。
14系客車急行「天北」で通ったのは遠い昔となってしまったようです。
オッフですね…
駅があったと思えないくらい寂しくなってますね…。
北海道はこうなってしまうんですよ…
天北線に乗ったのは、もう40年近く前になります。記憶が薄れてきていますが、この動画を見ていろいろと思い出しました。
音威子府駅で、列車の待ち時間に常盤軒で 真っ黒なお蕎麦を食べた こと、原野と森の脇を走って〇頓別駅に小さな街があったこと
楽しかった思い出が少し蘇ってきました。中頓別駅と浜頓別駅以外は、街が消滅しちゃったんですね。もう少し賑わっていたような
記憶があります。動画タイトルにあるように、沿線の過疎化は進んでいるんですね。鉄道を失うと街の活気が無くなってしまいますね。
バスも維持できない区間も出てきていますからね…
@@hiroring0323 さん
元々はこちらが宗谷本線で、鉄道建設の使命のために作られた路線なので、原野を切り開き人口の少ない地域に鉄道が
作られたのでしょう。私が乗車した時は、中頓別も浜頓別も鬼志別も、そこそこ大きい街だったと記憶しています。
過疎化も勿論あるでしょうけど、長年『利用しづらい路線』をずっと放置した代償なのかも知れませんね。
@@きんぐ_と名乗っておきましょう
これでも天北線沿線(中頓別町、浜頓別町、猿払村)の方が宗谷本線沿線(中川町、幌延町、豊富町)よりも人口は多いんですよね…
@@hiroring0323 さん
そうだったんですか、豊富町も幌延町もそこそこ大きい街だと思ったのですが、
もう道北は鉄道が維持できないですね。風景は最高なんですがね・・・
@@きんぐ_と名乗っておきましょう
宗谷本線も名寄以北はかなり厳しいです…
元から何もなかったり集落が消えたりするパターンが多いねやっぱり
北海道だとこうなりますね…
周遊券で旅をしてた時に浜頓別で乗り換えのため下車したら、駅員の方に「下車印いらねえのけ?」と声かけられて押してもらったのを思い出しました。周遊券の北海道の図の浜頓別の辺に押してくれましたが、当時は知識がなくてその周遊券は帰ってきた時に改札で回収されてしまってガッカリしました。苦い思い出です。
それは苦い思い出ですね…
下車印たくさんの周遊券とかなら頼めば無効印押してもらえたでしょうけど、
予備知識無いとそうなっちゃいますよね。東京発着の北海道周遊券やきっぷなら、川口で降りるとかありました。
旧天北線を自分も春に巡りましたが、沿線沿いにある小さな集落は消滅間近の状況なので、とても寂しい気持ちになりました。音威子府村にある有名な黒蕎麦も製造工場が閉業するので、食べれるのが今月いっぱいなんです。また一つの歴史が終わろうとしてます。
敏音知もキャンプ場がオープンした頃は駅舎を管理事務所としていたので当分は安泰だと思っていたのですが翌年行ったら巨大なログハウスに化けていました…
オッフ
ひろりんさん!
長編お疲れ様でした。
天北線の廃線巡り楽しく拝見させて頂きました。
次の配信も期待してます。
お疲れさまでした~
浜頓別くらいの街でも市街地を見ると何だか安心してしまいますね
それくらいそこまでの跡々がアレだったことの裏返しかもしれませんが
この先はもっと凄いことに…
上音威子府~小頓別間の国道による路線寸断区間は10年ぐらい前まで跨線橋がありましたね
峠の国道の大幅改修で新しい国道に切り替わり車が通らなくなった跨線橋が少しの間だけ残ってました
初めて付近の国道を通った時(15年くらい前)は跨線橋があったと記憶しています。写真を撮っておけばよかったです…
1977年と現在の航空写真の比較で、言葉を失います。
人が住んでいた場所が、線路が、自然へと還っていく姿を見ると、地方での鉄道の維持の大変さと、鉄道が担う住民の足の役割等、改めて考えさせられます。
敏音知や下頓別の小規模集落が既に限界化している様子では半世紀後には、自治体中心の街以外
全て消滅していても不思議ではない寂れっぷりですね。「宅地100坪タダ」は衝撃的でした。
宅地造成して宅地登録したので固定資産税が大変なんでしょうけど、買う人も居ないですよね。
これだけ人も減ってくると猫さんの影もないのかなあ…
もともと駅前という好立地の住宅を、親の代から相続された方なんでしょうね。
建物老朽化で更地にしても、宅地としての固定資産税(土地)は払い続けるのに困った方かと。
「売地」の看板出したところで、観に来る人もいないでしょうから、旅行者にも目につくところに看板作ったのは正解ですね。
当然、地元に不動産業者などないため、旭川や稚内の業者に管理受託したら、税金以上の年間管理料取られるでしょう。
人がいないので猫さんもいないですね…
いるのは鹿、狐、そして…
@@Su---- さん そういえば駅前という昭和なら一等地だったんですね、すっかり失念していました。
そんな印象すらもう無い土地ですし。
相続した土地というSuさんのご推察に凄いリアリティがありますよね。遠隔地から斡旋する手法
の不動産仲介業者は詐欺同然の悪質なところも多いそうですね。色々とご存じなSuさんに脱帽です。
@@hiroring0323 今までに鹿、犬、鶏、狐、そして猫さんと多彩な動物に遭遇してきたひろりんさん
ついにあの大型雑食動物に…
@@motosan7 ちょっと気になったので、もう少し真面目に見てみましたところ、ひろりんさんの映像に出て来る看板は、駅前通りの国道交差点ではなく、国道を100mほど北くらいのところでした。
GoogleMapの最新ストリートビューは2014年撮影ですが、「宅地100坪をタダで差し上げます」の直下に「ニレの木タウン」の看板が掲げられており、どうやらこれが風雪で取れたようです。(動画でも下の草地に落ちた看板らしきものが見える)。このニレの木タウンとは、地元浜頓別町が天北線廃止後の下頓別駅構内を宅地分譲して売り出した「移住者取り込み促進ニュータウン」のようで、現在も10戸弱の新し目の住宅が建っていますので、ここの住民の方々は町の100坪タダ話に乗った移住者の方なのではないかと思われます。
・・・ですので、親から相続した土地ではなさそうです。
下頓別は中頓別と違いセコマこそないですが、地元商店は1軒あり、郵便局もあり。民家もざっと見30戸くらいある集落ですので、土地がタダでしっかり宅地の体をなしているなら、家の建設費は自腹でも「移住したい」という需要もあるのでしょう。
でも、その2014年のニレの木タウン内には1軒、見た目地区30年くらい?の小さな住宅前に「売家」の看板が立っており、その連絡先はやはり【稚内の不動産会社(ラッキー不動産)】になっていました。20-30年の間に高齢化されたか、一人になったのでこの地を離れた人なのでは?なども推察されます。
今回の旧天北線前編では、中頓別や浜頓別以外の駅前集落は完全消滅、中頓別や浜頓別も駅前集落密度がさみしくなって、これでは鉄道どころかバスも維持できるのかが怪しいレベルですね。
後編も何か不安になってきました。
後編は更に…
誰かぁ!リゾートに、してぇ!
天北線は1986年夏の夜時間帯に乗りました。稚内→音威子府で途中浜頓別駅で短い停車時間に走って入場券を買いました。夜だったので風景は見られませんでした。青く塗られたキハ22が保存されているのは嬉しいです。急行天北は宗谷本線内で14系客車時代に乗りました。キハ400に変わってからたった数ヶ月で天北線が廃止になったのは残念です。国道275号線が平行してますね。
昨年秋に回りましたけど、上頓別のホーム跡、気づきませんでした。浜頓別は道の駅の中に残っていたディスカバージャパンの
スタンプ台だけが、ここに駅があったことを示していました。
上頓別のホーム跡は私も前回は気付きませんでした…
日本各地における
過疎化の拍車は、
鉄道の廃止という場合も
少なくないと感じます。
外部との動脈が絶たれた
形ですので、人の行き来が
無くなるわけです。
失ってから気づいても
遅いですが。。
そうですね…
鈍行で稚内まで行った時がありましたが、途中から誰も乗って来なくなりかなり寂しい印象を受けましたね
ここまで人の営みを伸ばしてきた鉄道の歴史を感じました。
そうですね…
昨日コメントをしました歌登線というのは歌登から小屯別まで結ぶ予定でした。もしかして歌登町営求道のところを鉄道にしたかったのかもしれませんね。 10歳より
歌登は小頓別からの方が近いですからね。
音威子府村と中頓別町の人口減のすさまじさにオッフどころかヒエッと声が出ました…
オッフ
大学の時、宗谷岬まで列車に自転車を載せて行きました。宗谷本線でなく天北線でした。なぜ天北線まわりにしたのか覚えていません(急行天北だったのか普通列車だったのかも)。でも列車が森の中を走っていて、稚内までがとても長かったのだけは記憶があります。その後で廃止になったと聞きました。懐かしいです。
松音知駅跡の駅舎は個人所有の別荘でして、所有者はブログに写真を載せていた人に対して削除要求したそうで…
まぁ、今はそのような要求は途絶えてますが、駅舎の公開は絶望的でしょう
そうなんですね…
町が買い取って、綺麗になったキハ22を置いてくれたら…
ブログ全盛時代、無断立入をして掲載した人へ、所有者らしき方から、徹底した削除要請バトルがあったそうですね。廃止後、町も引き取りや保存・予算捻出を拒否したからこそ、個人が物件として購入したのでしょう。しかも毎年税金も納めている「私物」ですから。。。
この豪雪地帯における、駅舎建物やホーム、レール、バラスト、敷地の維持は、業者に依頼すれば安く見積もって年間数十万円はかかるかと。そのコストや手間ヒマを、個人が負担しているわけですから、撮影はできないとはいえ、感謝すべきなんだろうなと思います。
近年は記事削除要請のバトルもないとなると、SNSが発展しすぎて対応できなくなったのか、(廃止後35年を考えると)所有者の高齢化で対応できなくなったのか、警察に取り合っても対応してくれないのが判明したのか?わかりませんが、今の時代ならクラファンで全国から支援を集めるというテもありそうです。その去就たるや如何に…。
2012年頃から急に何も言って来なくなったらしいですね。
何があったのでしょう…
削除要請は途絶えている、と書きましたが、訂正です
2017年に現地調査を行い動画公開した、大仏様ことインターアーバン氏のもとにも削除要請が来ていたとコメントがありました
(TH-cam運営に削除要請→却下されたので本人にメール の流れ)
ただそこは大仏様、どうぞ警察に通報してくださいと堂々と返信してその後放置の模様、該当の動画は今も公開中です
@@47th-sol64 あの、現調系北海道配信者の方ですね。ということは、警察に通報しても、取り合ってくれなかった(もしくはハナからノーアクション)だったということなのでしょうね。
破壊や盗難など物的被害があって、被害届が出されればさすがに動かざるを得ないと思いますが、そこまでではないのか、警察も「入られるのがイヤだった柵や金網でも張れよ!」てことなのでしょうか。
昔は鉄道が一つの産業として機能してましたね。具体的には、駅では、貨物、荷物の取り扱いや、列車交換など、小さな駅でも、相当数の職員がいたので、それを中心として集落が形成されていました。今は道路沿いが人の集まる場所になってしまった。過疎も確かだけど、村内での中心の移動も見落とせないと思います。
このBGMを聴くと,行ったこともない廃線跡をなぜか懐かしく思ってしまいますね.
今回の収益化剝奪も誤判定であることを願います.
ありがとうございます!
行って見たいが、ヒグマが出て来そうで、怖いです。
🐻
個人的に深い縁があるので、いつの日か出来るだけ早く天北線の廃線跡を巡ってみたいと思っております。 今回ひろりんさんが過去の空撮画像と共に動画にして下さって本当に感謝しています。
廃線跡巡りに出かける際には参考にさせて頂きます。
貴重な動画ありがとうございます。
後編も楽しみにしております。
ありがとうございます!
浜頓別の道の駅付近にロータリー「ラウンドアバウト」が数年前に出来たそうです。
ありますね~
音威子府駅に天北線資料室があり、イラストがキハ80系気動車特急車輌を模してますが出来れば急行天北で使われたキハ56や14系客車やキハ400の方がリアルかと思われます。
1989年のGWに7泊8日の北海道旅行で札幌から夜行急行列車利尻に乗車しました。当時は14系客車の普通自由席でしたが、稚内に到着時はうっすら雪が積もっていました。確か網走に寄って札幌に戻ってからです。稚内発名寄行の普通列車で音威子府駅で駅そばを食べた時は蕎麦本来の野生味溢れる味だったです。ただ残念な事に天北線に乗車出来なかったのを今でも後悔しています。急行天北も利尻と共通の編成だったと思います!
当時の普通客車・寝台車混結の宗谷と利尻は共用運用でした。稚内行きの下り天北は寝台車が自由席扱いで、上段は使用禁止でしたが、私は下段で横になって過ごしました。私は前年の1988年に乗車したのが最後でした。
77年の時点で既に閑散としていた所が多いのにも驚きますが、小頓別の変わりようが…。
上音威子府駅跡のホームに駅名標を再現したのはどういう意図なのでしょうね。
特に周辺を整備してもいないので、観光資源化しているわけでもなさそうですし、近くのトンネルが通れる状態で放置されているのも不思議です。
安全性を考えて封鎖するか、反対に遊歩道として整備するか、どちらでもないのが意外です。
うろ覚えですが、たしか、駅舎倒壊に伴う取り壊し&駅跡整地のタイミングで
元 駅周辺住民さんたちの「同窓会」みたいなものが催され、その中のささやかな活動だったかと思います。
いつも見させていただいています。トンネル塞がれていないんですね。クマにお気をつけください。
廃トンネルは通常は閉塞されているか、柵が設置されて立入禁止になっていることが多いんですけどね…
寝台付き夜行宗谷で稚内、バスで宗谷岬
帰路は天北回りの急行天北乗り継いで
名寄から名寄本線で遠軽、湧網線で網走など
鉄ちゃんをやってましたね。懐かしい映像
有難うございます、昭和49年は網走湖畔を
走るSLも現役でした
興浜北線、南線は行程的に無理で行けずです
宗谷丘陵の美しい自然を感じながら、走り抜ける鉄道。親の世代に生まれていれば乗りに行けたのにな〜
列車の中入れないんですか?
入れないですね…
名寄以北は鉄道開業時から枝幸町をどう取り込むかが大きなポイントでしたね。戦前は樺太航路との接続が最優先課題だったので、それを考慮すると宗谷線にせよ天北線にせよ枝幸町素通りの稚内最短ルートとなります。もしも天北線が音威子府ではなく美深から分岐で枝幸町を取り込んでいれば、まだ救いはあったと思います。今でも紋別~稚内間では最大の浜町なので、それなりに収益は上がっていたのでは。
本州は細長い大動脈とそこから分岐する地方線で、魚の骨のような線形でことが足りましたが、北海道は四角い上に石炭輸送も優先課題だったので(本州と比べると)線形が網の目状となり、維持費が余計に嵩んでしまいましたね。
天北線が美幸線仁宇布経由とならなかった理由はよく知らないのですが、途中地域の入植計画との兼ね合いなのでしょうかね?
現在のあの区間の道路を走るとわかりますが、仁宇布と途中歌登以外はほぼ無人のクマの巣窟地帯。勾配も急な峠となり、貨物列車や長大編成は相当難儀を強いられたであろうことは想像に難くありません。
また、途中に炭鉱があるわけでもないので、産業的&貨物収入のメリットが少なかったのもあるでしょうね。
結果的にハブられた枝幸が比較的大きな街だったため、小頓別から歌登町営軌道を敷設して短絡路したものの、いざ興浜北線が開通すると、旅客は(遠回りながらも)みなそちらに流れ、枝幸~歌登間は終戦直後に早々と廃止という、やるせない結末が残念です。
@@Su---- 天北線の計画時や着工時の雰囲気まで遡って調べるのは困難なのですが、天北線より現宗谷本線の開業が遅れた理由は至極単純で、サロベツ湿原や蛇行する天塩川が広がっていて路盤が悪かったからです。一方オホーツク側は比較的路盤がよく、「多少」遠回りしてでも音威子府から浜頓別経由で線路を敷くのが開業が早いと当時は判断されたのだと推測します。
ところが美深から枝幸経由で稚内まで結ぶと、「かなり」遠回りになってしまうんですね。当時の鉄道は北海道開拓を促進するという側面もあったため、仮にこれが実現していれば仁宇布や歌登あたりは開拓民が先行してもっと移住していたかも知れません。ですが国鉄のドル箱と言えばまさに石炭で、枝幸経由にせよ浜頓別経由にせよその拠点はせいぜい猿払村小石ぐらいのもの。天北線沿線には他に曲淵もありましたが、そこから東へ峠を越えるよりは平坦な西へ進み稚内まで運ぶのが効率的だったことでしょう。豊富や幌延の石炭は迷わず宗谷本線へ。
そのようにあれやこれや考えると枝幸町そのものは「点」でみると今も昔も非常に魅力的な商圏でありますが、それを結ぶ「線」に恵まれなかったと考えられます。仮に日本の土木や治水技術が遅れていれば、現宗谷本線の開業はもっと遅くなり、その反動で枝幸は早々と鉄道を味方につけもっと繁栄していたかも知れませんね。長文失礼しました。
昔は今より人口が多かった、そして移動手段は今より便利でなかったから田舎にも人が残っていた。
何より鉄道しか移動手段が無かった、金持ちが自動車を持っていても、道路が少なかった。
今は、純粋な人口減、便利な都会への移住、残った数少ない人々は自動車という
個人でいつでも好きな時に好きなところへ快適な道路を使って動かせるものに乗っているので、
1日に1桁の数しか乗るチャンスが無い鉄道なんて見向きもしない。
しかも乗ったとしても、病院やショッピングセンターの駐車場まで入ってくれない・・・
全国で起こっていること、大量輸送、高速輸送、都市間輸送という鉄道の特性が
発揮できないところはこれからも廃線になってくだろう。
鉄道趣味としては寂しいが、線路や駅や大型の車両という立派な設備に
乗客が3名なんて鉄道は無駄そのものと思う。1分の1の鉄道模型じゃないんだから。
悲しいがこれが現実。
主たる産業も無く不便な場所からは、人々は去り街も鉄道も消滅します…
これが過疎地の現実です…
過疎化が深刻とは言え、そこに住んでた人に永久にそこに住めとか、新たな人を強制的に移住させるという権力は誰も持ってませんからねえ。
中頓別の青くてボロいキハ22、このまま朽ち果てていくのかと思っていたら、また綺麗に塗装されるんですね❗少し安心しました🌼煉瓦のトンネル跡、さすが歴史ある路線としての風格が感じられますね。
1999年5月に探索したから23年ぶりにみましたが、まだ新弥生があるのは、廃止から10年してはまだ線路部分は藪がなくホームが見えてましたからね、上音威子府は、まだ健在で農家の倉庫でした。中も入れました。
あとは、当時のノート見ると寿は、農家不明と書いてありました。上駒は丁度工事していた時で道路転用とかかれてました。
やはり当時は国土地理院地形図を当時のやつを国立国会図書館でコピーして廃止線探索をしてました。
音威子府はあの蕎麦がなくなるまでに行こうと思います。
道の駅で食べれるそうですが数量限定とのことで、前日までに旭川に乗り込んで宗谷本線の鈍行に乗らんと辛いかな…なーんて考えてます。
かつては稚内へはこっちがメインルートだったのに今は荒れ果てましたね...
今は宗谷本線も危ないですけど...
天北線は廃止になってしまいましたが、これでも途中の町村の人口は宗谷本線よりも多いんですよね…
急行が最終日まで走っていたのはそうとう人がいたということだな
急行乗っている人はそこそこいましたよ。乗車率50%くらい(窓側席がひととおり埋まるくらい+α)。
でも、天北線内は通過するだけで、ほぼ稚内~旭川方面へ直通するひとばかり。車内販売もやってましたよ。
普通列車は空気運んでました。
小頓別の変わり様には驚きました
鉄道と町の関係がよく分かりますね
かつて急行停車駅だった小頓別も今は…
ひろりんさんの動画は、見れば見るほど楽しいですね。興味深く見せて頂きました。それと熊と遭遇したら『熊🐻撃退用の唐辛子🌶️スプレー』がいいですね。唐辛子にはカプサイシンという成分があり、遭遇したら目👀に向かってスプレーすると効果覿面。目👀に入ったら激痛で暫く目が開けられません。熊がいる所に行く機会が多いと思うので、お知らせしました。ご存知なら申し訳ありませんm(_ _)mでもご無事で本当に良かった。
ありがとうございます🐻
この動画の後編でヒグマに遭遇してから、熊撃退スプレーは持参するようになりました…
ホームや駅名標が意外に残っていた。天北線の現役時代を語ってくれている。
かつての本線とは思えない荒廃ぶり…
現本線も廃駅だらけで路線自体が怪しいですが…
前編観させていただきました。天北線沿線も厳しい場所が多いですね。元々人が余り居ない場所に仮乗降場があったりと。北海道も都市部から離れると過疎化の進行が顕著のようですね。でも痕跡が残ってるのは嬉しいと思います。いつも厳しい探索ありがとうございます。後編も楽しみにしております。ホント、ヒロリンさんの行動力には頭が下がります。ありがとうございます。
あっという間の33分、天北線に乗る機会は無かったですが乗車した気持ちになれました。
取材と編集に膨大な時間を要したと思いますが、それを僅か33分で視聴出来るなんて申し訳ない位です。
でも後編も大いに期待しています。
後編もお楽しみに~
何かしらの遺構が残っている駅がそこそこあるのはいいですね。
敏音知簡易郵便局で旅行貯金したらオンラインでなく手押しだった
集落ごと消滅してしまいましたか
旅行貯金の通帳も歴史の記録になりますなあ
地方では郵便局も減っていますからね…
天北線のこの区間は極めて厳しい状況のようですね。サロマ湖畔のように代行バスもなくなりそうな・・。
北海道はすでに鉄道の存廃論議からバスの存廃論議に移っているかもしれません。
天北線でもバスが維持できない区間も出てきていますね…
今後更に人口は減少していきますから、人がいなくなる場所が出るのは避けられないですよね。
道路や鉄道、バスの公共交通インフラ、生活インフラ、商店等を過疎化してない地域並に全国遍く整備すれば過疎化の問題は多少和らぐかもしれませんが、国家予算がとてつもなく跳ね上がるくらいの費用が必要でしょう。無理なんですよね。過疎化を止めるのは。
ある程度の都市に選択と集中させていくしかなくて、北海道に限らず全国でこういう場所が次々出てくるのもまた避けられないと思います。
本線だったのに仮乗降場が目立ちました。人がいないとどうしようもありませんね。今度行く参考になりました。ありがとうございました。
天北線沿線は、昨年夏の北海道旅行の折に、今回の前編部分でいくつかの廃駅を見て回りましたが、あそこまで沿線人口が少ないと存続はムリだったのでしょうね!
th-cam.com/video/X8dFZtsxvNk/w-d-xo.html
沿線だった猿払村は、現在東京品川区より所得が高いので、天北線の存在は何だったのか?
常盤そばあのお爺ちゃんお婆ちゃんの後継いなかったんですね…
小頓別市街の変りっぷりに驚きです…
代替えバスが往復で片手程度しか走ってないのが沿線沿いの人口を物語ってる…
後編は浜頓別、猿払方面ですか…後編も元々何もないので…の連発ですね…
楽しみにしてます🤲
ひろりんさんへ
5月9日の朝5時台に全編拝見しましたよ。天北線を浜頓別駅の跡を区切りにされ今回の前編と後編に分けて動画にされようとしたあなたの御決断に拍手を送ります。客車を連ねた急行が(廃止の前日まで)運行されたという稀さ・起点だった音威子府駅の美味かった黒い蕎麦の店の廃業・敏音知等に見る過疎〔集落の形成は「過」去となり、求職したさに若者達が去って「疎」らになり残った人々も情報やその利用等に「疎」くなる必然性〕の問題を私は感じました。天北線の廃止は、「天」塩地方のみならず人口の札幌市周辺等への偏在から他の地域が廃れる懸念という「北」海道の縮図を暗示しているのではと思いましたね。後編の動画にも、私達は期待しますよ。ひろりんさんも、天候等の変化や健康に気を付けられ過ごされますようお祈りします。尚、見終わって個人の別荘と化した松音知の駅舎の存在を知り私も複雑な心境の余りにおっふと溜息をつきました。
今回のスタートとなる音威子府駅で以前有った黒い駅蕎麦は、写真に撮ったモノを添付ファイルで送信すると友人達は「今、音威子府駅に居るんだね。」と認識してくれるぐらい特徴的でしたもんね。
(類は友を呼ぶ…という交友関係の為せる技かも知れませんでしたがね。w)
時刻表見たら死屍累々でね。
持ってるのうまれた歳の一年後の時刻表ですが、社会科の副読本で見た幸袋線とか見たら更に死屍累々。
涙も出ない。
ひろりんさんへのリクエストとして、函館本線、国縫(長万部起点)から瀬棚まであった瀬棚線の廃線跡,駅跡巡りがあると嬉しい😆です。
瀬棚線は今金、北檜山、瀬棚しか行っていないので、夏に巡る予定です。
「無料で100坪の宅地を譲ります」とは。
そして、クマの写真が出てきて「次回、あの方が登場します」とは・・・ガクガクブルブル
🐻