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心が晴れました♪配信、ありがとうございます。道に迷ったら、また、聴かせて頂きます😊
何度も聞かせていただいております。録音状態もとてもよくて感謝のかぎりです。中村 元先生の講義を生で受けてみたかったです。アップロードありがとうございました。
ありがとうございます。中村元先生の宝物のようなお話し、どれも大切に何度も聞かせて頂いています‥特にこのシリーズは最も心に深く響きました‥日々発心を続ける事・・・大切な、道を歩むきっかけを与えて頂きました。
中村元先生何時も拝聴しております。昔日の先生の博士号の際に記憶された内容を記載します。以下は、中村元先生の博士論文は7年がかりで完政した。その原稿はリャカーで弟に手伝ってもらって運び込んだ。指導教授の宇井泊囊氏も「読むのが大変だ」と悲鳴をあげたという。サンスクリット語・パーリ語に精通し、初期仏教の仏典などの解説や翻訳に代表される著作は多数に渡ります。「人々の役に立つ、生きた学問でなければならない」が持論で、訳書に極力やさしい言葉を使うことを企図しています。その最も端的な例、サンスクリットのニルヴァーナ(Nirvāṇa)及びパーリ語ニッバー(Nibbāna)を「涅槃」と訳さず「安らぎ」と訳したことがあげられます。訳注において「ここでいうニルヴーナは後代の教義学者たちの言うようなうるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう」としております。中村先生が20年かけ1人で執筆していた『佛教語大辞典』が完成間近になった時、ある出版社が原稿を紛失してしまいました。中村先生は「怒ったら原稿が見付かるわけでもないでしょう」と怒りもせず、翌日から再び最初から書き直して8年かけて完結させ、別の出版社(東京書籍)から全3巻で刊行しました。完成版は4万5000項目の大辞典であり、改訂版では広説佛教語大辞典』では更に8000項目が追加され、没後に全4巻が刊行がされました。日本以外にも、国際的な仏教学者の権威としてアメリカ・ヨーロッパなど各地で講義・講演されました。音声録音が多数残されています。現在の釈尊の中村先生は布教活動の『正しい釈尊の教えの実践する時代が正に時を得た』放送番組にも度々出演しました。1980年、福永法源氏が空海から天声とともに授かったと称する真っ白な紙(三法行)を中村先生に見せたところ、中村先生は驚き「これには釈迦がいちばん解けなかったことが現れている。何も書いていない紙が必要なんです。書いてあるものを読むだけでは頭に入るだけです。ところが何も書いていないから、自分で書くしかない。書けば身に付く。これが「行」というものですよ」「有るようでない。無いようである。これが空の世界なんです。正にこれは釈迦が説きたかった世界の実相なのです。財物では無い見極め道源を辿る」などとほめそやしたと法源氏の著書『最高への道標』に書かれました。サンスクリット版を翻訳したのが漢字版であり、仏教宣布の最大の功労者のアショーカ王が供されたのはパーリ語版、すなわち【パーリ語三蔵】とのことでありますから、南アジア各国の仏教は この聖典がベースとなっています。中村先生がボディ達磨「世襲や血脈の師家で無く道を極めた達磨を28代承継者」として新たに辿っております。割愛致しましたが、法句経ですね。合掌 松平拝
今日においても映像を通じて中村先生の謦咳に接することが出来るのは大変有難いことです。
聴き手さんも素晴らしい。
聞き手の方のレベルが中村さんに準ずる程高いからでしょうね。駒大の教授ですから。
😂中村元先生には、東洋大学時代に、大変お世話になりました!3年生と、4年生の間の、春休みに、被爆者の、父を、亡くした私に、中退を、決めた私を引き止めて下さったのも、中村元先生でした。仏教は、生涯を掛けた哲学。其の事を、悟らせて下さった、中村元先生は、人格的にも、秀逸な、方でした。お懐かしい限りです。
無明にEnlightenment(光を当てる)悟りとも訳すそうです。合掌
オモロー👍
これだけ長い時間しゃべれるのがすごい
しかも、すんごい面白いし簡単に解説してくださる神。
<道の人>本当のものを求めて努力する人(悟った後も、悪魔との対話を繰り返し、善の実現に精進しながら生きていた釈尊)「あるべきようは」明恵上人正理:自然必然性・論理必然性を見通して、それに従って行動する法:選択の余地がある時に、人として良い方を選んで、それに決めて行動する
ひたすら自己修養の道としての己の在り方として、お話を伺ったのですが、現実に己が老・病・死の真っただ中にある場合の己のありようとか、傍らに不幸に陥っている人を目の前にしたときの己の対処について、今少し祖師の実践的な例も含めて、お話を伺えたらとおもいました。
大切なことだから、言葉で写してみた。部分部分でわたしの色というかアレンジが入っています。勝利と法を掘り下げると、 自然必然性(モノの道理)、論理必然性(論理的に考えるとこうなる)、ダルマ(選択する可能性がある事柄=良いことをしようか悪いことをしようかを選んで決定すること)ダルマは漢訳仏典では法と訳す。→人間のあるべき姿は自然の因果律をひっくり返すものではなく、自然のモノの道理を受け止めながら、それを尊重し、最も良い正しさを選択し続けて生きてゆく。悟ったから満足ではなくて、常に自ら省みて、悟り続けること。【悪魔というのは、釈尊の心の中の迷い、煩悩、恐怖、恐れ】悟っても悪魔の誘惑はいつも忍び寄る悪魔というのは、釈尊の心の中の迷い、煩悩、恐怖、恐れ別々解脱一つひとつの危機に再会しながら、一つひとつの事柄について乗り越えてゆき、それを積み重ねることである。無明(明るさがない暗い)無知(モノを知らない)人間は弱い存在であり、人間が迷う、欲望を起こすことは、人間の奥に潜んでいる不思議な力がある。釈尊は、我々のこころが闇に閉ざされて明るさを失っている、その事実に直面して対決した。【知識で知るのではなく、(体験≒経験)を通して身体でうなずきながら、それを知る、それを知ることができないから、それを無明と示す。】我々は、当たり前に従順して、日常、あまり深い反省をしない(深い感謝しない)、しかし、なにかのきっかけで、ああ、悪かったなあと気づくことがある、そこで反省してみると己に無明のようなものがあると気づく、然るべき方向で乗り越えてゆく明にする。真面目な人間は努力する限り迷う(ゲーテ)、迷わないということは努力していない。思えば思うほど聳え立つ大きな無明の壁にぶつかるが、それを乗り越えていく。つまり、己に克つ。下記は、わたくしの色が入ります↓己に克つには、大宇宙大自然を信じきったところからの開き直りきる達観。その後にまた猛省を繰り返す道を歩き続ける。しかしながら、人間は何処かで、心の安定的固定を求めてしまう。それが、また無明になる。ここまで深く心を探求すると、生きても地獄、死んでも地獄というのは何となくわかる気もする。とはいっても目覚めたら、生きていて生きるしかないわけで、それ以上でもそれ以下でもない。理想の死はそのまま眠って、そのまま目覚めないのが理想だけど、その過程においては、死の兆候を意識せざるをえないわけで、この部分においても、大宇宙大自然を信じ切ったところからの開き直りきる達観しかないよな。
元さんの語りには、とても、お世話になってますが、理趣経に関しての解説がどうしても、仏教廃れる対策で、密教取り入れた中で、作られた教えとも言われたものやな対して、美化した事に違和感持ってます。解る方からの教えが欲しいです。
釈尊から開かれた末法の仏教へ~【白蘭の読書tv【仏心を引きだす【天皇家の悲劇】など75本配信中。
中村元さん程仏教の物知りの方は余り存在しない貴重な方です、御亡くなりになられ実に残念です。無駄に成らない様に、動画や言葉を是非文字におこして、広く世界の人々が仏教の教えに目覚める様に努力していただきたい。同じ意味言葉は多く有りますが、一般の人達又は専門家でもなかなか理解し難い処ろを、誰でも解る言葉に訳して話されていると言う事は生きた仏教と成ります。況してや宗教放れした、現在の若者にこそ読む様に努力して下さい。仏教は若者子供にこそ伝え気付かさせる為の物です。年老いて気付いたとて既に手遅れ状態なのです。故に仏教の教えが消えて行ってしまい。仏法が何で有るのか、心が何で有るのかを答えられる人が一人もい無くなってしまったのです。兎に角仏教は、前代未聞の法です。信じ難い法です。想像も付かない教えです。そして今の時代は非常識な時代で有ると言う事に、其れに対して仏教は常識成る真理の法です。よくよく考えるべき事は、今の世は真理の世界とは本末転倒した時代であり、五濁悪世なのです。だから考えられない戦争を未だに続けている国が現れ続けるのです。宝成る法、教えは神仏儒教の中にしか存在はしません、科学技術の中には決して存在はしません、存在すると信じるならば、黙示録の予言の通りに成る様に近付くばかり。神仏儒教が義務教育に成らない限りは、黙示録を免れる事は出来ない。何千年も神仏儒教を無視し続けて来た、報いで有り、因果応報である。善悪も知らず。知り足る時は私の様に遅き事を嘆いて死に至る道しか無し、実に残念無念でならない
心が晴れました♪配信、ありがとうございます。
道に迷ったら、また、聴かせて頂きます😊
何度も聞かせていただいております。録音状態もとてもよくて感謝のかぎりです。
中村 元先生の講義を生で受けてみたかったです。
アップロードありがとうございました。
ありがとうございます。中村元先生の宝物のようなお話し、どれも大切に何度も聞かせて頂いています‥特にこのシリーズは最も心に深く響きました‥日々発心を続ける事・・・大切な、道を歩むきっかけを与えて頂きました。
中村元先生
何時も拝聴しております。
昔日の先生の博士号の際に記憶された内容を記載します。以下は、中村元先生の博士論文は7年がかりで完政した。その原稿はリャカーで弟に手伝ってもらって運び込んだ。指導教授の宇井泊囊氏も「読むのが大変だ」と悲鳴をあげたという。サンスクリット語・パーリ語に精通し、初期仏教の仏典などの解説や翻訳に代表される著作は多数に渡ります。「人々の役に立つ、生きた学問でなければならない」が持論で、訳書に極力やさしい言葉を使うことを企図しています。その最も端的な例、サンスクリットのニルヴァーナ(Nirvāṇa)及びパーリ語ニッバー(Nibbāna)を「涅槃」と訳さず「安らぎ」と訳したことがあげられます。訳注において「ここでいうニルヴーナは後代の教義学者たちの言うようなうるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう」としております。中村先生が20年かけ1人で執筆していた『佛教語大辞典』が完成間近になった時、ある出版社が原稿を紛失してしまいました。中村先生は「怒ったら原稿が見付かるわけでもないでしょう」と怒りもせず、翌日から再び最初から書き直して8年かけて完結させ、別の出版社(東京書籍)から全3巻で刊行しました。完成版は4万5000項目の大辞典であり、改訂版では広説佛教語大辞典』では更に8000項目が追加され、没後に全4巻が刊行がされました。日本以外にも、国際的な仏教学者の権威としてアメリカ・ヨーロッパなど各地で講義・講演されました。音声録音が多数残されています。現在の釈尊の中村先生は布教活動の『正しい釈尊の教えの実践する時代が正に時を得た』放送番組にも度々出演しました。1980年、福永法源氏が空海から天声とともに授かったと称する真っ白な紙(三法行)を中村先生に見せたところ、中村先生は驚き「これには釈迦がいちばん解けなかったことが現れている。何も書いていない紙が必要なんです。書いてあるものを読むだけでは頭に入るだけです。ところが何も書いていないから、自分で書くしかない。書けば身に付く。これが「行」というものですよ」「有るようでない。無いようである。これが空の世界なんです。正にこれは釈迦が説きたかった世界の実相なのです。財物では無い見極め道源を辿る」などとほめそやしたと法源氏の著書『最高への道標』に書かれました。サンスクリット版を翻訳したのが漢字版であり、仏教宣布の最大の功労者のアショーカ王が供されたのはパーリ語版、すなわち【パーリ語三蔵】とのことでありますから、南アジア各国の仏教は この聖典がベースとなっています。中村先生がボディ達磨「世襲や血脈の師家で無く道を極めた達磨を28代承継者」として新たに辿っております。割愛致しましたが、法句経ですね。合掌 松平拝
今日においても映像を通じて中村先生の謦咳に接することが出来るのは大変有難いことです。
聴き手さんも素晴らしい。
聞き手の方のレベルが中村さんに準ずる程高いからでしょうね。
駒大の教授ですから。
😂中村元先生には、東洋大学時代に、大変お世話になりました!3年生と、4年生の間の、春休みに、被爆者の、父を、亡くした私に、中退を、決めた私を引き止めて下さったのも、中村元先生でした。仏教は、生涯を掛けた哲学。其の事を、悟らせて下さった、中村元先生は、人格的にも、秀逸な、方でした。お懐かしい限りです。
無明にEnlightenment(光を当てる)悟りとも訳すそうです。合掌
オモロー👍
これだけ長い時間しゃべれるのがすごい
しかも、すんごい面白いし簡単に解説してくださる神。
<道の人>本当のものを求めて努力する人
(悟った後も、悪魔との対話を繰り返し、善の実現に精進しながら生きていた釈尊)
「あるべきようは」明恵上人
正理:自然必然性・論理必然性を見通して、それに従って行動する
法:選択の余地がある時に、人として良い方を選んで、それに決めて行動する
ひたすら自己修養の道としての己の在り方として、お話を伺ったのですが、現実に己が老・病・死
の真っただ中にある場合の己のありようとか、傍らに不幸に陥っている人を目の前にしたときの己
の対処について、今少し祖師の実践的な例も含めて、お話を伺えたらとおもいました。
大切なことだから、言葉で写してみた。
部分部分でわたしの色というかアレンジが入っています。
勝利と法を掘り下げると、
自然必然性(モノの道理)、
論理必然性(論理的に考えるとこうなる)、
ダルマ(選択する可能性がある事柄=良いことをしようか悪いことをしようかを選んで決定すること)
ダルマは漢訳仏典では法と訳す。
→人間のあるべき姿は自然の因果律をひっくり返すものではなく、自然のモノの道理を受け止めながら、それを尊重し、最も良い正しさを選択し続けて生きてゆく。
悟ったから満足ではなくて、常に自ら省みて、悟り続けること。
【悪魔というのは、釈尊の心の中の迷い、煩悩、恐怖、恐れ】
悟っても悪魔の誘惑はいつも忍び寄る
悪魔というのは、釈尊の心の中の迷い、煩悩、恐怖、恐れ
別々解脱
一つひとつの危機に再会しながら、一つひとつの事柄について乗り越えてゆき、それを積み重ねることである。
無明(明るさがない暗い)無知(モノを知らない)
人間は弱い存在であり、人間が迷う、欲望を起こすことは、人間の奥に潜んでいる不思議な力がある。
釈尊は、我々のこころが闇に閉ざされて明るさを失っている、その事実に直面して対決した。
【知識で知るのではなく、(体験≒経験)を通して身体でうなずきながら、それを知る、それを知ることができないから、それを無明と示す。】
我々は、当たり前に従順して、日常、あまり深い反省をしない(深い感謝しない)、しかし、なにかのきっかけで、ああ、悪かったなあと気づくことがある、そこで反省してみると己に無明のようなものがあると気づく、然るべき方向で乗り越えてゆく明にする。
真面目な人間は努力する限り迷う(ゲーテ)、迷わないということは努力していない。
思えば思うほど聳え立つ大きな無明の壁にぶつかるが、それを乗り越えていく。つまり、己に克つ。
下記は、わたくしの色が入ります↓
己に克つには、大宇宙大自然を信じきったところからの開き直りきる達観。その後にまた猛省を繰り返す道を歩き続ける。
しかしながら、人間は何処かで、心の安定的固定を求めてしまう。それが、また無明になる。
ここまで深く心を探求すると、生きても地獄、死んでも地獄というのは何となくわかる気もする。
とはいっても目覚めたら、生きていて生きるしかないわけで、それ以上でもそれ以下でもない。
理想の死はそのまま眠って、そのまま目覚めないのが理想だけど、その過程においては、死の兆候を意識せざるをえないわけで、この部分においても、大宇宙大自然を信じ切ったところからの開き直りきる達観しかないよな。
元さんの語りには、とても、お世話になってますが、理趣経に関しての解説がどうしても、仏教廃れる対策で、密教取り入れた中で、作られた教えとも言われたものやな対して、美化した事に違和感持ってます。解る方からの教えが欲しいです。
釈尊から開かれた末法の仏教へ~【白蘭の読書tv【仏心を引きだす【天皇家の悲劇】など75本配信中。
中村元さん程仏教の物知りの方は余り存在しない貴重な方です、御亡くなりになられ実に残念です。無駄に成らない様に、動画や言葉を是非文字におこして、広く世界の人々が仏教の教えに目覚める様に努力していただきたい。同じ意味言葉は多く有りますが、一般の人達又は専門家でもなかなか理解し難い処ろを、誰でも解る言葉に訳して話されていると言う事は生きた仏教と成ります。況してや宗教放れした、現在の若者にこそ読む様に努力して下さい。仏教は若者子供にこそ伝え気付かさせる為の物です。年老いて気付いたとて既に手遅れ状態なのです。故に仏教の教えが消えて行ってしまい。仏法が何で有るのか、心が何で有るのかを答えられる人が一人もい無くなってしまったのです。兎に角仏教は、前代未聞の法です。信じ難い法です。想像も付かない教えです。そして今の時代は非常識な時代で有ると言う事に、其れに対して仏教は常識成る真理の法です。よくよく考えるべき事は、今の世は真理の世界とは本末転倒した時代であり、五濁悪世なのです。だから考えられない戦争を未だに続けている国が現れ続けるのです。宝成る法、教えは神仏儒教の中にしか存在はしません、科学技術の中には決して存在はしません、存在すると信じるならば、黙示録の予言の通りに成る様に近付くばかり。神仏儒教が義務教育に成らない限りは、黙示録を免れる事は出来ない。何千年も神仏儒教を無視し続けて来た、報いで有り、因果応報である。善悪も知らず。知り足る時は私の様に遅き事を嘆いて死に至る道しか無し、実に残念無念でならない