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100キロ行軍やった人、高難度ルートの縦走をやった登山家ならわかってくれると思うが、心の持ちようがすげえ大事なんだよな。ユーモアのあるやつの有り難みは極限状況でこそ発揮する。同期からの終わったらソープで綺麗になろう発言で100キロを乗り越えた。
色んな意味で男らしいですね
100キロ行軍とか幹部候補生学校か空挺団くらいなのかな。やってるの。
ラモウを詳しく扱ってもらい有難い。いつか訪れたい。
叔父の林田達雄は、戦後1946年2月に現地に入っています。わずか500㎡四方の範囲に中国軍3500名、日本軍120名の死体がまだ回収できていない(戦後1年も経っているのに)状態だったと話していました。林田(中野学校出身)は、援蒋ルート閉塞を立案した本人です。
の見本ですね。圧倒な強敵に鬼神の如く奮戦、一騎当千の勇者たちへ敬礼!
そういうの一番寒い
ありがとうございます!
度々スパチャありがとうございます🐰!
@@AkuAku1945ミイトキーナの戦い、騰越の戦い、龍陵の戦いもお願いします。
結局現場の意見無視して上層部は勝手を要求して苦しめるんやなって
うちの叔父さんは、久留米の部隊に入隊、中国に送られビルマでマラリアに罹患して内地に帰って来たが、町から出征して帰って来れたのは、叔父さん1人。戦後、叔母さんにうちの部隊は、全滅。いわゆる玉砕でした。中国戦線で玉砕とは。叔父さんは、詳しく語らなかったがこの戦いだったのでしょう。
早く観たい❕
インパールがなければ‥増援も‥と思ってしまう‥一将功成らずして万骨枯る‥‥
インパール作戦に突き進んだ経緯も、何とか戦況を好転させようと打った手だからなぁせめて司令官が精神論に心酔していない良識のある人物で、被害を押え3万人もの死傷者をださなければ色々と変わっていたかもしれないな
@@reegaw2669佐藤幸徳師団長が勝手に撤退しなければ余計な死人を出さなかったのは確実で、もっと確実なのは上にかけあって善後策、訂正要請をすれば良かったのにと。こればっかりは参謀長の怒りはごもっともだよ。
中国の将軍の教育も日本の士官学校でやっていたんですね日本は優しいなぁ。
"師団"では無く"師"なんですね。なぜこうしたのでしょう?
コメントありがとうございます。中国軍の師団名称が師団ではなく師なので動画内でも師と呼称してますね(日本の師団と中国の師で区別がつくのもあって)他にもドイツや英米では軍の上位組織を軍集団と呼称しますが中国では集団軍となってますね。
@@AkuAku1945 なるほど当時の国民革命軍ではそう言う呼び方だったんですね。ありがとうございます。
@@カミーユ国防長官 Divisionが明治初期に日本語訳されて師団という言葉が誕生しましたです(´ω`)
ここ守備してたのは福岡の連隊だったのか。福岡県は東北と違って、特段強そうなイメージ無いし、殆どは普通に徴兵されて来た人だよね。戦前の日本人は、現代と随分違ってたのかな。
それは君の見聞が狭いだけだよ。福岡人はクソ強いよ。
甲種合格した男性なら強靭な肉体のアスリート体格の身体強健男性なのでどこに所属してようがその恵まれた身体能力を発揮できたでしょう
熊本は藩士の末裔も多く、昔から海賊や刀伊や海外からの侵略も多かったから防人や大宰府がそうであるように、薩摩藩がおかしいように戦闘民族だよ。陸自第九師団の人たちは頭おかしいよ。
「こんなことをいうのは元『安』兵団関係者に失礼かもしれないが、イギリス軍の撒いた謀略ビラには、こんな文句が刷りこまれていた。 弓は袋に祭はサヤに、強い菊、龍、弱い安、ボチボチ逃げる烈兵団」(菊と龍 祖国への栄光の戦いより)なんて書かれるくらい九州出身兵団は精強で敵味方共に有名だったそうです。(龍=この動画の第56師団、拉孟守備の113連隊が所属)その分気性も荒くてお隣の菊兵団は友軍から物資をかっぱらって泥棒兵団なんて言われていた話もあるようですが。
この時代の最大値にいる人って普通に米俵(一俵は六十キロほど)を平気で担いでどんどん大八車に載せたり担いで梯子登って二階に運んだりしてたから現代人は赤ちゃん。農民ばかりだから基本我慢強いしタフ。
100キロ行軍やった人、高難度ルートの縦走をやった登山家ならわかってくれると思うが、心の持ちようがすげえ大事なんだよな。ユーモアのあるやつの有り難みは極限状況でこそ発揮する。同期からの終わったらソープで綺麗になろう発言で100キロを乗り越えた。
色んな意味で男らしいですね
100キロ行軍とか幹部候補生学校か空挺団くらいなのかな。やってるの。
ラモウを詳しく扱ってもらい有難い。いつか訪れたい。
叔父の林田達雄は、戦後1946年2月に現地に入っています。わずか500㎡四方の範囲に中国軍3500名、日本軍120名の死体がまだ回収できていない(戦後1年も経っているのに)状態だったと話していました。林田(中野学校出身)は、援蒋ルート閉塞を立案した本人です。
の見本ですね。圧倒な強敵に鬼神の如く奮戦、一騎当千の勇者たちへ敬礼!
そういうの一番寒い
ありがとうございます!
度々スパチャありがとうございます🐰!
@@AkuAku1945ミイトキーナの戦い、騰越の戦い、龍陵の戦いもお願いします。
結局現場の意見無視して上層部は勝手を要求して苦しめるんやなって
うちの叔父さんは、久留米の部隊に入隊、中国に送られビルマでマラリアに罹患して内地に帰って来たが、町から出征して帰って来れたのは、叔父さん1人。戦後、叔母さんにうちの部隊は、全滅。いわゆる玉砕でした。中国戦線で玉砕とは。叔父さんは、詳しく語らなかったがこの戦いだったのでしょう。
早く観たい❕
インパールがなければ‥増援も‥と思ってしまう‥一将功成らずして万骨枯る‥‥
インパール作戦に突き進んだ経緯も、何とか戦況を好転させようと打った手だからなぁ
せめて司令官が精神論に心酔していない良識のある人物で、被害を押え3万人もの死傷者をださなければ色々と変わっていたかもしれないな
@@reegaw2669佐藤幸徳師団長が勝手に撤退しなければ余計な死人を出さなかったのは確実で、もっと確実なのは上にかけあって善後策、訂正要請をすれば良かったのにと。こればっかりは参謀長の怒りはごもっともだよ。
中国の将軍の教育も日本の士官学校でやっていたんですね日本は優しいなぁ。
"師団"では無く"師"なんですね。
なぜこうしたのでしょう?
コメントありがとうございます。
中国軍の師団名称が師団ではなく師なので動画内でも師と呼称してますね(日本の師団と中国の師で区別がつくのもあって)
他にもドイツや英米では軍の上位組織を軍集団と呼称しますが中国では集団軍となってますね。
@@AkuAku1945 なるほど当時の国民革命軍ではそう言う呼び方だったんですね。
ありがとうございます。
@@カミーユ国防長官 Divisionが明治初期に日本語訳されて師団という言葉が誕生しましたです(´ω`)
ここ守備してたのは福岡の連隊だったのか。福岡県は東北と違って、特段強そうなイメージ無いし、殆どは普通に徴兵されて来た人だよね。戦前の日本人は、現代と随分違ってたのかな。
それは君の見聞が狭いだけだよ。福岡人はクソ強いよ。
甲種合格した男性なら強靭な肉体のアスリート体格の身体強健男性なのでどこに所属してようがその恵まれた身体能力を発揮できたでしょう
熊本は藩士の末裔も多く、昔から海賊や刀伊や海外からの侵略も多かったから防人や大宰府がそうであるように、薩摩藩がおかしいように戦闘民族だよ。陸自第九師団の人たちは頭おかしいよ。
「こんなことをいうのは元『安』兵団関係者に失礼かもしれないが、イギリス軍の撒いた謀略ビラには、こんな文句が刷りこまれていた。
弓は袋に祭はサヤに、強い菊、龍、弱い安、ボチボチ逃げる烈兵団」(菊と龍 祖国への栄光の戦いより)
なんて書かれるくらい九州出身兵団は精強で敵味方共に有名だったそうです。(龍=この動画の第56師団、拉孟守備の113連隊が所属)
その分気性も荒くてお隣の菊兵団は友軍から物資をかっぱらって泥棒兵団なんて言われていた話もあるようですが。
この時代の最大値にいる人って普通に米俵(一俵は六十キロほど)を平気で担いでどんどん大八車に載せたり担いで梯子登って二階に運んだりしてたから現代人は赤ちゃん。農民ばかりだから基本我慢強いしタフ。