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京都国立博物館で金印(レプリカ)の目玉展示品を観たことがありますが、動画の解説の通り2cm角のものなので『小さい』の驚きの方が大きかった😅
そうですよね もっと大きいかなと勝手に思ってました
邪馬台国の話は面白いなあ。どの説ももっともらしくて面白い。この動画は、他説をこき下ろしていないところが、とても良い感じでした🎵
楽しい動画でした。新しい動画も楽しみにしてます。
この動画のずんだもん話し方が優しそうで好き
卑弥呼の朝貢は後漢最末期になります三国が鼎立し英雄の多くが世を去った時代ですねそれまでは遼東を支配していた公孫淵が大陸の窓口になっており形骸化した漢室には朝貢はできなかったため不明な点が多いです司馬懿の遼東征伐によって魏が遼東の支配権を確立した事で魏への朝貢が可能になったのです動画でも少し触れていますが中華思想によって中国の皇帝は、より遠ければ遠いほどの王から朝貢される事を権威の証として名誉としており倭の使節は歓待されたと言われておりますまた、魏志倭人伝が記載してる魏書は晋の時代に編纂されており晋は司馬一族が皇帝となっていますので編纂者の陳寿は皇帝の祖父である司馬懿を称える意味も込めて多くのページを割いたのでは?とも言われています(明らかに周辺他国の記述より文書量が多く詳しい)そのおかげで当時の日本の弥生時代の風俗文化を詳細に知られる貴重な資料となっております
漢委奴国王は「かんのわのな(の)こくおう」と習ったけど、「かんのいとのこくおう」と呼んで伊都国、現在の糸島市に邪馬台国があったのでは、と個人的に考えています。金印発掘地点と近いですし。
委(ゐ)と伊(い)は戦前まで発音が別。「奴」の読みは万葉集では「ぬ」だけ。
@@JeanCocteau7当時の古代中国の発音でも?
@@aquadrop8356 中国でもだよ
九州国立博物館で等身大の金印レプリカ売ってたので買いました😂
材質は?
昔、大濠公園沿いの福岡市美術館で本物の『漢委奴国王印』金印を拝見しました。日本の国宝で一番小さいとか・・・また、魏の曹叡から卑弥呼の使者が授かった『親魏倭王之印』金印が見つかれば邪馬台国の秘密も解けそうですね。
福岡市博物館です
溶かされた可能性はないかな?金だし
みたい❤🎉
毎日GPS画像にふれてる現代人の感覚だと、「方角と距離と」って、単に「軸」の違いだけだけど、古代の人間にとっては「易」学の存在もあったし、相当に発達した高度で緻密な技術や測定具をもっていたと思われる。空気もきれいだったろうし、街のネオンもなく「暗さ」も確保できただろうし、考えようによっては今よりも進んでいたかも知れない。けれど「距離」を正確に計るスベはなかったと思われる。とくに海上でなんてとてもとても。帆の大きさや形状、その時の海流、荷の多少、望遠鏡の有無、あらゆる要素が絡んで船の速度は決定するし「距離の正確さ」は、「方角や角度の正確さ」とは比較にならないだろう。
金印は、任期が終われば回収されます。他の官も任期で回収されてますので。なので、親魏倭王の金印は魏に戻ったかと存じます。臺与は金印をもらったのかは不明です。何せ「魏」じゃなくて「西晋」だからなぁ。というか、志賀島の金印の方が不明だよなぁ。漢委奴国王印は、返却されなかったんだろうか?って思います。卑弥呼の墓に関しては、、「大作冢」なので「多く作った」可能性があります。「作大冢」大きく作ったじゃないからね。となると、弥生式集団墓の可能性があり、、、、、宇佐に近いあそこかなぁと。面白かったです。。。
金印は日本だけでなく中国の周辺で幾つも出土してますから必ず返却しなければならない物ではありません。「漢委奴国王」の金印の場合も漢から魏へは禅定なので王朝が交代した時点で効力は失われたものの、返却はされなかったみたいです。「親魏倭王」の金印も魏から晋は禅定なので返却はされなかったと考えられます。
中国本土でも金印や玉印、たくさん出てるやん
金印は江戸時代の人が文字をクリーニングしたんじゃなかろか?
その可能性は高そう、シュリーマンもトロイ遺跡の発掘品加工したらしいし、それより前の時代なら現状維持より有るべき論で加工もしてそう。
投馬国への陸行20日は帯方郡からの日数、邪馬台国への水行10日、陸行1日(月)は投馬国からの日数7000里に水行20日、5000里に水行10日と陸行1日掛かったんですよ。
「漢委奴国王印」は「金印」の出土地および発見の状態は詳細不明のはず。元々これは福岡藩主黒田家に伝えられ明治になり黒田家が東京へ移り東京国立博物館に寄託された物だ。その際にどこから出たという話になり江戸時代の「百姓甚兵衛口上書」の写本で「水田うんぬん」の話をしだしたのだ。全くの裏付けがないのだ。文献記録は「筑前国那珂郡志賀島村叶崎」大体この辺程度の事しか書いてないはず。何で黒田家が持っていた?など詳細はわかっていない。ただただ「黒田家」が持っていた物だ。
福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料からの推察だからな。そもそも志賀島での発掘調査では関連する遺物は出ていない。「黒田家」が明治時代まで持っていた事も不自然だ。「明治になり急いで国に返した」と見られがちだがな、盗掘品の疑いもあるし。「黒田家」は明治になり華族の侯爵家になる。スキャンダルは避けたいだろ?名家だし。
@@こしき-g3v 「親魏倭王」の金印にしても、「倭の女王」に送ったと言われる誤字だらけの「魏志倭人伝」だろ?「倭の女王」=卑弥呼かどうかなんかわからんだろ?日本には文字文献が無い時代だ。墓が残っているなら発掘して確認するしかないだろ?勝手に領地開拓するうちに天皇陵を壊してしまい出てきた金印だったら大騒ぎになる明治時代だ。「黒田家」そんな物を持ちたくないだろwその「百姓甚兵衛口上書」とやらも写本だ。全部、江戸、明治時代に捏造されたかもしれん話だし証明するなら原本を出さないとw
@@リトルバラ 「金印」だけなら時代判定は出来るだろうが、文字をいつ彫ったか、何も彫っていない印を渡して後で彫ったのか?すべて中国の「三国志」時代の関連史料だ。文字を持っていたならなぜこんなにこの時代の文字を刻んだ遺物が出ない?土器やら木の板なんかいくらでも出ている。墓もある。しかし文字はどこにもない。豊国やら神代文字やら「写本、写本、写本」江戸時代に山のように作られている。ヒエログリフでもその時代判定できる層準から日本の中で発掘されない限りわからん話だ。
伊都国はゐつの国だった可能性があると思います伊都(ゐつ)と書くようなのも面白いアマテラスと素戔嗚の時代で、ゐつの国は素戔嗚、国津神側、またうけいの話が出てくる時代背景を考えると素戔嗚側の国で出雲に行く前の国だったのかも?しれません小戸と言う地域があり、そちらで伊弉諾が体を清め三貴子を産んだとも取れる祓詞もあります日向峠ではなく、日向(ひむか)峠もあり、天孫降臨も福岡市西部だった可能性もあると思うんですよね
記紀に卑弥呼の記述が無いことから証拠隠滅したでしょうね。古墳の上に神社があるかもしれない。例えば宇佐神宮とか。
買取専門店に持って行けばいくらになるのだ?
うわ〜小さいな〜あと5〜6個持ってきてくれたら良いのに。
108gで95%金だから、金の価値だけで100万円にはなりそう
卑弥呼と男系継承の現在の皇族とは繋がりは無いと思います。場所も規模もハッキリしていないので地方の豪族が先走り国王を名乗り献上品でも持って行ったのでは?
単なる思い込みで5㎝以上はあるとイメージしてた2㎝角か・・・金だしなぁ
おお、の言い方がすき
最近の動画履歴がずんだもんで埋まっている、、(;^ω^)
出土が眉唾なんだよなぁ。 5:38
12:49 魏志倭人伝に記載された時代の倭のことですよね? 魏志韓伝に、韓は帯方郡の南で東西は海、南は倭と「接す」とあり、南は海じゃないって書いてます。魏志倭人伝にも、帯方郡より倭に至るには水行して韓を経て、「その」北岸xxに到る、とあります。なお当時の中国語で「到る」は到着地を表します。(xxは狗邪韓国。今の釜山あたり。この地には特徴的に弥生土器の出土もあります)そっから海を渡っての邪馬台国への道のりが書いてありますよね。当時の「倭」には、日本列島の事ではなく、倭人文化圏の事を倭と呼んでいました。なおそれ以外に、背の低い人、長江下流域の人、儒教の信仰の篤い人、という意味の用例が色んな時代であります。(追記)ちなみに、伊都国にも「到る」が使われています。
刻印されているのは「倭」じゃなくて「委」。あっちが漢字を間違える? 当初、委奴(いと)って主張した説を潰されたらしいが。「委」は、それとも統治を王に「委ねる」って意味合いなの?
漢代に印面に使用され始めた書体を漢印篆といいますが、印面はスペースに制限があるため点画を省略したりすることがあるんです。例えば叡→睿とか。だから一応間違いではないと。
「倭」と「委」は発音も異なるので減筆説はちょっと怪しいというかあちこちで減筆説多用しすぎでこれを唱える意見はどれも怪しく見える
事実だけを書きますね。印は古代中国政府が、国を司る役人などに対してその役目を委嘱します、という意味で発行するもので、位の高い方から材質が違い、確か宝石類が一番で以下金属類に落ちていくわけです。金は二番目か三番目の地位の人に対して出したもの。そしてここからが大事なことなのですが、この印鑑は最終的に返還義務があり、委嘱が終われば中国政府に返さなくてはいけなかったということなのです。だから卑弥呼に仮に発行されていたとしても無いのは当たり前。残っている方が異常ということになります。また当時「王」という表現はしましたが、「国王」という表現は用いませんでした。つまり「漢の」印は偽物ということですね。
金印偽造説があるけど、江戸時代に金108gも手に入るのかね?当時だって、相当の金額のはず。それを偽造に使うとは考えにくいんだけどな。
確実に無理というか、金どけでなく銀と銅が混じってる約95%が金なんだけど、当時の金は金座で厳しく管理されてたしかも、江戸時代に漢代の金印の金属組成の割合なんてわかるはずがないのに一致してる前期の小判ですら85%だから絶対ありえない
某ヒーロー作品のせいでパワーアップできる!ってなっちゃった
缶の輪の菜のコク王👑
邪馬台国(ヤマタイコク)、大和(ヤマト)、音が似てるから同じだと思うけど。意味は、山人(ヤマト)。
今の日本語の発音で比較しても意味なくないか
@@straight1208 大和朝廷は、宮崎の辺りの人らしいから、今は、「薩摩隼人」というが、隼人族がいたんで、山の人で、ヤマトと言われていたんじゃないかと自分では推察しています。海幸、山幸の話も合って山人族、海人族なんじゃないかと。
とっくに鋳潰されているに1票
なんで土の中から掘り出されたのにキレイで傷がないのか?誰か説明してよ。
たしかに怪しいですよねー。ただ書道界の有名な石碑に「曹全碑(後漢)」というものがありますが、製作されてすぐに立碑せず地中に埋められてしまったために1400年程後に一字の欠損もない状態で出土した例があるんです。とはいえ農民が掘り起こせるところにあるかなーとは思いますが。
鍬が当たった跡が有ります
卑弥呼と那国は関係ないよ、始祖から分れた幹割れだから 伊都と三光と同じ
金印の実物って「ちっちゃい」のな
邪馬台国は福岡県南部・熊本県北部かなって思うけど、じゃあ卑弥呼の墓は?ってなると、宇佐神宮近辺かなって
金印は卑弥呼がトイレで落としたので何処かの畑を耕せば出てくるかも知れません!
見つかった時に、よく鋳潰されなかったなと感心します。
邪馬台国→大和朝廷なら金印が三種の神器の1つに成っていてもおかしくない気がする
金印は魏王から倭王を配下として認めるというものなので、日本のプライドとしては正倉院送りかな。三種の神器にしてしまうと中国の属国を認めてしまうことになるので。また邪馬台国は九州の宇佐神社のある辺り説がしっくりきそう。そして出雲王国の一派である和邇氏が宇佐を征服してしまったのかも。因幡の白兎の白兎=宇佐(うさぎ)、和邇氏(ワニ)→サメ和邇氏は継体天皇、神功皇后、持統天皇、小野妹子(聖徳太子)に関係が深いので、邪馬台国=宇佐とすると封印された存在なのかも。
台与をとよと読むから、邪馬台国はやまと国だと思ってます。
台与は『梁書』諸夷伝(636年)以降の文書にしか現れない。倭(ゐ)が俀(大倭・たゐ)、邪馬壱国が邪馬台国に変化したのに伴い壱与が変化したもの。「たゐよ」と読む!
魏志倭人伝では壱与と邪馬壱国だけどな後年の文献で台与と邪馬台国に変わってる
最近の徳島説が最も納得がいきます。
魏王から倭王への贈り物。田んぼもあぜ道で農夫が見つけたという。箱にもしまわれず、ずいぶんぞんざいな扱われ方をしたものだ。金は比重が重いから、舟から落ちてもけっして漂わない。さらに、字体もずいぶん新しい。「贋作」認定しないのは政治的事情。
卑弥呼の後の人の名をとよと言ってだよね、字は台よと書いたよね、なんでやまたいとよんていて、とよはたいじゃないんだい、まだわからないのかな、やまたいこくじゃなくてやまなんだよ、いいかげん気がつけよ
最後、ヤマトコクって言うのが正解、間違えた、大切なとこ
偉い人たちが気づかないわけないでしょ?理由があるから調べてみな
ってか魏志倭人伝では壱与と邪馬壱国だけどな
阿波気延山山頂が卑弥呼の墓?その周辺には奴婢殉葬体が石畳みの下に100体埋葬されているはず?「親魏倭王」は、その横、金印の峰に埋めれれている?卑弥呼の屋敷は、神山町神領、悲願寺から高根山に至る領域と思われるしかし、自説を遠吠する前に、いずれも、検証が必要ですナ。
魏志倭人伝は「素直に」読めば良いんです。常に留まる最終到着地が伊都国なんだから、そこから逆算すれば、あなたのヘンテコな誤訳ミスが分かるでしょ。「南が東」なんて奇っ怪な解釈するから、畿内や北陸、四国に行っちゃうんですよ。笑😂😊🎉
昔の時代だからこそ、方向は間違えないと思います。そこまで昔の人は馬鹿ではない。
それそれ!絶対そうですよ。「南が東」ならそりゃ何でも有りです。笑
それに倭人は入墨をして、海に潜って暮らしていた。奈良のどこに海があるのか?
行った人が書いたわけではないからね
@@straight1208 まぁそれでも「南が東」にはならないわなぁ。しかも殆どの人が伊都国の位置は一致している。奇怪な解釈が始まるのは、その様な人だけ。
考古学者の見栄に付き合うの、めんどくせーもう邪馬台国の場所なんてどうでもよくね
壹与=伊予(愛媛)であり、卑弥呼=日向(宮崎)からの邪馬台国の幹事国の移譲を意味する。
京都国立博物館で金印(レプリカ)の目玉展示品を観たことがありますが、動画の解説の通り2cm角のものなので『小さい』の驚きの方が大きかった😅
そうですよね もっと大きいかなと勝手に思ってました
邪馬台国の話は面白いなあ。どの説ももっともらしくて面白い。
この動画は、他説をこき下ろしていないところが、とても良い感じでした🎵
楽しい動画でした。新しい動画も楽しみにしてます。
この動画のずんだもん話し方が優しそうで好き
卑弥呼の朝貢は後漢最末期になります
三国が鼎立し英雄の多くが世を去った時代ですね
それまでは遼東を支配していた公孫淵が大陸の窓口になっており
形骸化した漢室には朝貢はできなかったため不明な点が多いです
司馬懿の遼東征伐によって魏が遼東の支配権を確立した事で
魏への朝貢が可能になったのです
動画でも少し触れていますが中華思想によって
中国の皇帝は、より遠ければ遠いほどの王から朝貢される事を
権威の証として名誉としており倭の使節は歓待されたと言われております
また、魏志倭人伝が記載してる魏書は晋の時代に編纂されており
晋は司馬一族が皇帝となっていますので
編纂者の陳寿は皇帝の祖父である司馬懿を称える意味も込めて
多くのページを割いたのでは?とも言われています
(明らかに周辺他国の記述より文書量が多く詳しい)
そのおかげで当時の日本の弥生時代の風俗文化を詳細に知られる
貴重な資料となっております
漢委奴国王は「かんのわのな(の)こくおう」と習ったけど、「かんのいとのこくおう」と呼んで伊都国、現在の糸島市に邪馬台国があったのでは、と個人的に考えています。金印発掘地点と近いですし。
委(ゐ)と伊(い)は戦前まで発音が別。
「奴」の読みは万葉集では「ぬ」だけ。
@@JeanCocteau7当時の古代中国の発音でも?
@@aquadrop8356 中国でもだよ
九州国立博物館で等身大の金印レプリカ売ってたので買いました😂
材質は?
昔、大濠公園沿いの福岡市美術館で本物の『漢委奴国王印』金印を拝見しました。
日本の国宝で一番小さいとか・・・
また、魏の曹叡から卑弥呼の使者が授かった『親魏倭王之印』金印が見つかれば
邪馬台国の秘密も解けそうですね。
福岡市博物館です
溶かされた可能性はないかな?
金だし
みたい❤🎉
毎日GPS画像にふれてる現代人の感覚だと、「方角と距離と」って、単に「軸」の違いだけだけど、古代の人間にとっては「易」学の存在もあったし、相当に発達した高度で緻密な技術や測定具をもっていたと思われる。空気もきれいだったろうし、街のネオンもなく「暗さ」も確保できただろうし、考えようによっては今よりも進んでいたかも知れない。けれど「距離」を正確に計るスベはなかったと思われる。とくに海上でなんてとてもとても。帆の大きさや形状、その時の海流、荷の多少、望遠鏡の有無、あらゆる要素が絡んで船の速度は決定するし「距離の正確さ」は、「方角や角度の正確さ」とは比較にならないだろう。
金印は、任期が終われば回収されます。他の官も任期で回収されてますので。なので、親魏倭王の金印は魏に戻ったかと存じます。
臺与は金印をもらったのかは不明です。何せ「魏」じゃなくて「西晋」だからなぁ。
というか、志賀島の金印の方が不明だよなぁ。漢委奴国王印は、返却されなかったんだろうか?って思います。
卑弥呼の墓に関しては、、「大作冢」なので「多く作った」可能性があります。「作大冢」大きく作ったじゃないからね。
となると、弥生式集団墓の可能性があり、、、、、宇佐に近いあそこかなぁと。
面白かったです。。。
金印は日本だけでなく中国の周辺で幾つも出土してますから必ず返却しなければならない物ではありません。
「漢委奴国王」の金印の場合も漢から魏へは禅定なので王朝が交代した時点で効力は失われたものの、返却はされなかったみたいです。
「親魏倭王」の金印も魏から晋は禅定なので返却はされなかったと考えられます。
中国本土でも金印や玉印、たくさん出てるやん
金印は江戸時代の人が文字をクリーニングしたんじゃなかろか?
その可能性は高そう、シュリーマンもトロイ遺跡の発掘品加工したらしいし、それより前の時代なら現状維持より有るべき論で加工もしてそう。
投馬国への陸行20日は帯方郡からの日数、邪馬台国への水行10日、陸行1日(月)は投馬国からの日数
7000里に水行20日、5000里に水行10日と陸行1日掛かったんですよ。
「漢委奴国王印」は「金印」の出土地および発見の状態は詳細不明のはず。元々これは福岡藩主黒田家に伝えられ明治になり黒田家が東京へ移り東京国立博物館に寄託された物だ。
その際にどこから出たという話になり江戸時代の「百姓甚兵衛口上書」の写本で「水田うんぬん」の話をしだしたのだ。全くの裏付けがないのだ。
文献記録は「筑前国那珂郡志賀島村叶崎」大体この辺程度の事しか書いてないはず。何で黒田家が持っていた?など詳細はわかっていない。ただただ「黒田家」が持っていた物だ。
福岡藩主黒田家の古記録及び各種の資料からの推察だからな。そもそも志賀島での発掘調査では関連する遺物は出ていない。「黒田家」が明治時代まで持っていた事も不自然だ。「明治になり急いで国に返した」と見られがちだがな、盗掘品の疑いもあるし。「黒田家」は明治になり華族の侯爵家になる。スキャンダルは避けたいだろ?名家だし。
@@こしき-g3v 「親魏倭王」の金印にしても、「倭の女王」に送ったと言われる誤字だらけの「魏志倭人伝」だろ?
「倭の女王」=卑弥呼かどうかなんかわからんだろ?日本には文字文献が無い時代だ。墓が残っているなら発掘して確認するしかないだろ?
勝手に領地開拓するうちに天皇陵を壊してしまい出てきた金印だったら大騒ぎになる明治時代だ。「黒田家」そんな物を持ちたくないだろw
その「百姓甚兵衛口上書」とやらも写本だ。全部、江戸、明治時代に捏造されたかもしれん話だし証明するなら原本を出さないとw
@@リトルバラ 「金印」だけなら時代判定は出来るだろうが、文字をいつ彫ったか、何も彫っていない印を渡して後で彫ったのか?すべて中国の「三国志」時代の関連史料だ。文字を持っていたならなぜこんなにこの時代の文字を刻んだ遺物が出ない?土器やら木の板なんかいくらでも出ている。墓もある。しかし文字はどこにもない。豊国やら神代文字やら「写本、写本、写本」江戸時代に山のように作られている。ヒエログリフでもその時代判定できる層準から日本の中で発掘されない限りわからん話だ。
伊都国はゐつの国だった可能性があると思います
伊都(ゐつ)と書くようなのも面白い
アマテラスと素戔嗚の時代で、ゐつの国は素戔嗚、国津神側、またうけいの話が出てくる時代背景を考えると素戔嗚側の国で出雲に行く前の国だったのかも?しれません
小戸と言う地域があり、そちらで伊弉諾が体を清め三貴子を産んだとも取れる祓詞もあります
日向峠ではなく、日向(ひむか)峠もあり、天孫降臨も福岡市西部だった可能性もあると思うんですよね
記紀に卑弥呼の記述が無いことから証拠隠滅したでしょうね。古墳の上に神社があるかもしれない。例えば宇佐神宮とか。
買取専門店に持って行けばいくらになるのだ?
うわ〜小さいな〜あと5〜6個持ってきてくれたら良いのに。
108gで95%金だから、金の価値だけで100万円にはなりそう
卑弥呼と男系継承の現在の皇族とは繋がりは無いと思います。場所も規模もハッキリしていないので地方の豪族が先走り国王を名乗り献上品でも持って行ったのでは?
単なる思い込みで5㎝以上はあるとイメージしてた
2㎝角か・・・金だしなぁ
おお、の言い方がすき
最近の動画履歴がずんだもんで埋まっている、、(;^ω^)
出土が眉唾なんだよなぁ。 5:38
12:49 魏志倭人伝に記載された時代の倭のことですよね?
魏志韓伝に、韓は帯方郡の南で東西は海、南は倭と「接す」とあり、南は海じゃないって書いてます。魏志倭人伝にも、帯方郡より倭に至るには水行して韓を経て、「その」北岸xxに到る、とあります。なお当時の中国語で「到る」は到着地を表します。(xxは狗邪韓国。今の釜山あたり。この地には特徴的に弥生土器の出土もあります)
そっから海を渡っての邪馬台国への道のりが書いてありますよね。
当時の「倭」には、日本列島の事ではなく、倭人文化圏の事を倭と呼んでいました。
なおそれ以外に、背の低い人、長江下流域の人、儒教の信仰の篤い人、という意味の用例が色んな時代であります。
(追記)
ちなみに、伊都国にも「到る」が使われています。
刻印されているのは「倭」じゃなくて「委」。あっちが漢字を間違える? 当初、委奴(いと)って主張した説を潰されたらしいが。「委」は、それとも統治を王に「委ねる」って意味合いなの?
漢代に印面に使用され始めた書体を漢印篆といいますが、印面はスペースに制限があるため点画を省略したりすることがあるんです。例えば叡→睿とか。だから一応間違いではないと。
「倭」と「委」は発音も異なるので減筆説はちょっと怪しい
というかあちこちで減筆説多用しすぎでこれを唱える意見はどれも怪しく見える
事実だけを書きますね。印は古代中国政府が、国を司る役人などに対してその役目を委嘱します、という意味で発行するもので、位の高い方から材質が違い、確か宝石類が一番で以下金属類に落ちていくわけです。金は二番目か三番目の地位の人に対して出したもの。
そしてここからが大事なことなのですが、この印鑑は最終的に返還義務があり、委嘱が終われば中国政府に返さなくてはいけなかったということなのです。だから卑弥呼に仮に発行されていたとしても無いのは当たり前。残っている方が異常ということになります。
また当時「王」という表現はしましたが、「国王」という表現は用いませんでした。つまり「漢の」印は偽物ということですね。
金印偽造説があるけど、江戸時代に金108gも手に入るのかね?
当時だって、相当の金額のはず。
それを偽造に使うとは考えにくいんだけどな。
確実に無理
というか、金どけでなく銀と銅が混じってる
約95%が金なんだけど、当時の金は金座で厳しく管理されてた
しかも、江戸時代に漢代の金印の金属組成の割合なんてわかるはずがないのに一致してる
前期の小判ですら85%だから絶対ありえない
某ヒーロー作品のせいでパワーアップできる!ってなっちゃった
缶の輪の菜のコク王👑
邪馬台国(ヤマタイコク)、大和(ヤマト)、音が似てるから同じだと思うけど。意味は、山人(ヤマト)。
今の日本語の発音で比較しても意味なくないか
@@straight1208 大和朝廷は、宮崎の辺りの人らしいから、今は、「薩摩隼人」というが、隼人族がいたんで、
山の人で、ヤマトと言われていたんじゃないかと自分では推察しています。
海幸、山幸の話も合って山人族、海人族なんじゃないかと。
とっくに鋳潰されているに1票
なんで土の中から掘り出されたのに
キレイで傷がないのか?
誰か説明してよ。
たしかに怪しいですよねー。
ただ書道界の有名な石碑に「曹全碑(後漢)」というものがありますが、製作されてすぐに立碑せず地中に埋められてしまったために1400年程後に一字の欠損もない状態で出土した例があるんです。
とはいえ農民が掘り起こせるところにあるかなーとは思いますが。
鍬が当たった跡が有ります
卑弥呼と那国は関係ないよ、始祖から分れた幹割れだから 伊都と三光と同じ
金印の実物って「ちっちゃい」のな
邪馬台国は福岡県南部・熊本県北部かなって思うけど、じゃあ卑弥呼の墓は?ってなると、宇佐神宮近辺かなって
金印は卑弥呼がトイレで落としたので何処かの畑を耕せば出てくるかも知れません!
見つかった時に、よく鋳潰されなかったなと感心します。
邪馬台国→大和朝廷なら金印が三種の神器の1つに成っていてもおかしくない気がする
金印は魏王から倭王を配下として認めるというものなので、日本のプライドとしては正倉院送りかな。三種の神器にしてしまうと中国の属国を認めてしまうことになるので。
また邪馬台国は九州の宇佐神社のある辺り説がしっくりきそう。そして出雲王国の一派である和邇氏が宇佐を征服してしまったのかも。
因幡の白兎の白兎=宇佐(うさぎ)、和邇氏(ワニ)→サメ
和邇氏は継体天皇、神功皇后、持統天皇、小野妹子(聖徳太子)に関係が深いので、邪馬台国=宇佐とすると封印された存在なのかも。
台与をとよと読むから、邪馬台国はやまと国だと思ってます。
台与は『梁書』諸夷伝(636年)以降の文書にしか現れない。倭(ゐ)が俀(大倭・たゐ)、邪馬壱国が邪馬台国に変化したのに伴い壱与が変化したもの。「たゐよ」と読む!
魏志倭人伝では壱与と邪馬壱国だけどな
後年の文献で台与と邪馬台国に変わってる
最近の徳島説が最も納得がいきます。
魏王から倭王への贈り物。田んぼもあぜ道で農夫が見つけたという。箱にもしまわれず、ずいぶんぞんざいな扱われ方をしたものだ。金は比重が重いから、舟から落ちてもけっして漂わない。さらに、字体もずいぶん新しい。「贋作」認定しないのは政治的事情。
卑弥呼の後の人の名をとよと言ってだよね、字は台よと書いたよね、なんでやまたいとよんていて、とよはたいじゃないんだい、まだわからないのかな、やまたいこくじゃなくてやまなんだよ、いいかげん気がつけよ
最後、ヤマトコクって言うのが正解、間違えた、大切なとこ
偉い人たちが気づかないわけないでしょ?
理由があるから調べてみな
ってか魏志倭人伝では壱与と邪馬壱国だけどな
阿波気延山山頂が卑弥呼の墓?その周辺には奴婢殉葬体が石畳みの下に100体埋葬されているはず?
「親魏倭王」は、その横、金印の峰に埋めれれている?
卑弥呼の屋敷は、神山町神領、悲願寺から高根山に至る領域と思われる
しかし、自説を遠吠する前に、いずれも、検証が必要ですナ。
魏志倭人伝は「素直に」読めば良いんです。
常に留まる最終到着地が伊都国なんだから、
そこから逆算すれば、あなたのヘンテコな誤訳ミスが分かるでしょ。
「南が東」なんて奇っ怪な解釈するから、
畿内や北陸、四国に行っちゃうんですよ。笑😂😊🎉
昔の時代だからこそ、方向は間違えないと思います。そこまで昔の人は馬鹿ではない。
それそれ!絶対そうですよ。
「南が東」ならそりゃ何でも有りです。笑
それに倭人は入墨をして、海に潜って暮らしていた。奈良のどこに海があるのか?
行った人が書いたわけではないからね
@@straight1208 まぁそれでも
「南が東」にはならないわなぁ。
しかも殆どの人が伊都国の位置は一致している。
奇怪な解釈が始まるのは、その様な人だけ。
考古学者の見栄に付き合うの、めんどくせー
もう邪馬台国の場所なんてどうでもよくね
壹与=伊予(愛媛)であり、卑弥呼=日向(宮崎)からの邪馬台国の幹事国の移譲を意味する。