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先生の、健康が守られ、日本のクリスチャンに開かれていない聖書の奥義が明らかにされていきますように。感謝します。
ありがとうございます。
ありがとうございます。祝福を祈っています。
高原さんこんばんは今回も解りやすい解説ありがとうございます。次回も楽しみにしてます。
先生ほんとうにありがとうございます。もう20人の注文がありました。昨日までイベントだったので今日みなさん配送します。報告まで
すごい!もっともっと注文がありますように!
高原先生素晴らしい解説ありがとうございます。ウクライナ戦争の影響でしょうか高原先生の話に非常に迫力を感じます。トンガの海底火山噴火、そしてウクライナ戦争と、もう既に患難時代の真っ只中のようでもあります。🙏
まだ艱難時代ではありませんが、確かに終末時代ではありますね。
筑井孝子が描く聖書の世界買いました。届くのたのしみー。
ありがとうございます!
筑井孝子今日配送しました。
@@荒木孝子-u5u 様 本日届きました。買って良かった!とても素敵です!!
@@tomomi8848 様。ほんとうにありがとう。9月には先生に特集を組んで。「ゲスト」でたくさんのエゼキエル書をかいてもらえるようになる予定です
@@荒木孝子-u5u 様!それは楽しみすぎます!
艱難時代、悪の働きが活発になるのですね。まるで ナルニア国物語やロード・オブ・ザ・リングなど スペクタクル映画さながらな世が来るかと思うと 恐ろしいです。どうか そのような時代を通らなくてすむように キリストを受け入れる人が増えることを 切に願います。アーメン
I learned a lot from your lecture because I have never read the Bible🙏🏾
I hope you will continue to listen to my youtube.
@@ごうちゃんねる-z5m Of course←not小田和正3⃣→ I will
私はカトリックの幼稚園に通っていたのですが、園児達は皆可愛い天使の置物を保母さんからもらいました。それを大切に飾っていたのですが作り物だったんですね。本物の天使にいつか会えるかなー✨楽しみ。
天使の存在は聖書が明確に語っていますね。でもそのイメージ通りに世間一般には伝わっていないように思います。
第五のラッパこわっ!第六も怖いのかもドキドキ😅
確かに怖いですね!
天使も悪霊もなんか妖怪みたい😮
確かに描写は気持ち悪いですね。
は~どっこいしょ。なんとか元気です。🥴先生の動画を視させて貰って長生きせんと、聖書のことはわかりませんからね😅次も楽しみにしてます🤗💖
どうぞお元気で!
いつも、分かりやすいメッセージ楽しみにしてます。質問があります。ロシア正教も、バイブルを信仰していますか?エゼキエル書、38章を、どう理解しているのでしょうか?
ロシア正教徒はほとんどエゼキエル書を読みません。残念。
洋楽は、聖書(イエス・キリスト)及び、その関係ネタ(関連ネタ)や、政治ネタが沢山有るけれども、日本でそれらをやると、一発でアウト‼️に、なってしまう。 地下に潜る以外にないだろう。
日本語には完了形は無いと言いますが東京弁の「ちゃった」は完了形だと思います。「星が落ちちゃったのを見た」だと近い表現ではないでしょうか?でもありがたみが無いですね。
なるほど!初めて聞く意見ですが興味深いです。使わせてもらいます
@@ごうちゃんねる-z5m 光栄です。
遺伝子組み換え人造人間が聖書に出てくるとは!
聖書内でイエス様が携挙という概念を語っている部分はあるのでしょうか。イエス様の言葉を頼りに生き方の指針にしている私は、「本当のキリスト者」にはなれないのでしょうか。ヨハネの預言書はイエス様の言葉ではないです。でも読み物としては興味深い。でも信じてはいない。だってそれではヨハネ教になっちゃうから。でもごうちゃんねる全部見てます(^^)
ヨハネの黙示録もイエス・キリストの言葉ですよ。イエスキリストの言葉をヨハネはいただいたのです。"イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。"ヨハネの黙示録 1章1節聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
確かに書いてあります。物語の始まりの枕詞のように感じていました。もう一度、じっくり読みこんでみようと思います。
地の底から湧き上がるサソリの様なイナゴとは、軍事ヘリコプターやドローン的な近代兵器の事を言っているのではないかと思いますがヨハネの黙示録に記されている様に予め未来が決定しているのであれば、何をどう努力しても無駄であり、一体人間は何の為に生きているのでしょうか?
もし聖書が正しくないとすれば、、この世界は創造主が創ったものではなく、ただ『偶然』に存在するのだと考えるなら、、それこそ人間が生きているのは「偶然の産物」であり、目的も意義もなく生きていることになります。聖書を調べ、創造主を知ることは、人間の生きる目的を知ることになるのです。聖書を部分的に読んだり理解するのではなく、全体的に捉えていかなければ大きな誤解や間違いを引き起こします。
@@tinyhfujiwara 自分は創造主を信じており進化論を否定しています、自然をつぶさに観察するとその驚異的な設計概念や作用に驚かされます宇宙全体が生命の培養器の様であり、絶えず命を生み出そうとするバイアスがかかっていると思われますが、聖書の表現は余りにも抽象的で比喩や暗示に満ちており、難解極まりない部分が多々見受けられると思います、ヨハネの黙示録がその最たるものですね
@@河野昌幸-f2qさんのお気持ちやお考えは 、私にもよくわかります。以下に、わたくしの考えを申します。 あくまでもわたくしの意見です。私も河野さんと同じく『創造主』の存在を信じております。 そして『科学と宗教のパラドックス』に悩んでおりました。このパラドックスとは、「科学」を突き詰めて調べ、宇宙や自然、生物を観察すればするほど、究極的にはこの世界の神秘、つまりは創造者や神の存在が有ること発見する一方で、この世のいわゆる「宗教」について深く調べてその歴史を知れば知るほど、結局は宗教は「人間の考えや思想」を反映しているだけ、「人間、つまりは開祖や教祖が作り出したもの」であるという、科学と宗教が互いに逆の結論に至ってしまうというものです。したがって、聖書を「宗教」という枠で捉えて考えると、聖書も他の宗教と同じく「人間が考え出した教え」という間違った結論に至ってしまいます。聖書の表現が抽象的で比喩や暗示が多いのは、あえて分かり難くしているからです。新約聖書の記述で、イエス様が民衆にたとえを用いて話したのは「無学な民衆に分かりやすくするためにたとえを用いた」のではなく、むしろ逆で、あえて分からないように話したのです。弟子たちでさえ解らなかったことも聖書には記述されています。ですから、私たちが答えを積極的に求める必要があります。マタイ7章には「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」と書かれています。探し求めるなら、見い出せることがイエス様によって保証されているのです。聖書に対する疑問や質問を、教会の牧師や神父だけに求めるのはあまり正しい態度とは思えません。牧師や神父たちも、やはり人間です。鼻で息をする者は当てに出来ません。むしろ聖書をお書きになった神に求めるべきです。 そうすれば、牧師や神父を通して、あるいは、他の誰かや何かを通して、神から掲示が与えられると思います。聖書預言により「予め未来が決定している」ということは、イエス様に信頼し、神に従う者たちにとっては、「あらかじめ決定している未来が私たちを待っていると約束されている」という福音なのです。どうか河野様も、聖書から離れずにいてください。
絵で教える聖書はカトリックでやっていることではないでしょうか?絵からの受け取り方は千差万別だと思うのです。絵は作者の思想が含まれ、そこでもうその人の宗教となってしまいます。絵でよければ、聖書は絵本でいいのではないでしょうか?
今回の内容に即していないかも知れませんが、最近の私の投げかけ(新約聖書の御言葉の「字義通り」の受け止め方、神の御前に於いての謙虚な在り方 など)に対し、高原牧師流に受け流されているようで、未だに正面切ってご返答をいただけていないように思いますので、ここに記させていただいます。本当に、すみません。どうしても、牧師というお仕事をされている高原牧師でしょうし、牧師ということであれば、イエス•キリストの御心の代弁者であると信じさせていただきたい…との思いで、コメントさせていただきます。そう受け止めさせていただくと、昨今の高原牧師は、イエス•キリストの代弁者というよりも、巷の軍事評論家、歴史研究家として発信されている立場が、余りにも強すぎる様に思うのですが、如何でしょうか? 私は、東住吉教会の『空海と聖書』の動画も視聴させていただきました。本当に、尊敬させてもらいました。「景教」というキーワードで、空海の遣唐使の話は、驚きと新鮮な感動を持って示唆していただきました。浅はかな知識しか持てていませんが、仏教徒でもある私など膝下にもお呼びがつかない程の圧倒的な説得力をお持ちなことにも、脱帽でした。しかし、その論調の中で、どうしても思ってしまうのは、歴史というのは、優秀な方々であったとしても、記録を残した個々の「人間」の自我意識というバイアスを通しての論述だということです。実際、高原牧師の仰ることも、当然なことながら「新•旧約聖書」の立場こそが全てだ…という論調になることが常だと思います。しかし、以前にもお伝えしたように、霊感も強かったルドルフ•シュタイナーさんの『ルカ福音書講義』(イザラ書房)という書物の中では、この世ではなく、あの世の出来事として、イエス•キリストの児童期にお釈迦様の霊性が宿り、お釈迦様が悟った難解な内容を、ルカの福音書のルカのよって庶民に解りやすいように著させた…と伝えられています。このように受け止めるならば、「仏教が景教の影響を強く受けてキリスト教化した」ということ以上に、あの世側の営みとして、仏神の伝導の方法として、中東地域を中心とする旧約聖書の流れと並行しつつ、2500年前にお釈迦様がまず、覚者(悟った者)として地上に送り出され、さらに段階を踏む形で、あの世の神仏の智慧を、2000年前に、イエス•キリストの新約聖書の世界において、より解りやすく広められた。……と、その様にも受け止められると思います。また、仏教でいう「無」ということの解釈も、私と異なります。牧師は「無」を、自我意識も何も人間が無くしてしまう状態…と解釈されているようですが、そう伝えられてはいないと思います。この「無」を、「空」とした時、牧師もご存知だと思う『般若心経』というお経が、お釈迦さまの悟りの内容のエッセスを、伝えてくれています。有名な、「色不異空、空不異色。色即是空、空即是色」という部分が、牧師の伝えてくれていることとは違うことを証てくれています。「色」として受け止められる物も心の中の心象も、「有る」のと同時に、「諸行無常」的に、一瞬一瞬、一刹那一刹那、元の形を留めることなく、変化し続ける…ということで末通る実体というものは、どこにも「無い」…ということだと思います。物も、事も、心象も、真実として確かに「有る」と確認できるのはのは、只今、この一刹那、一瞬だけだと思うのですが、その時は、一瞬に過ぎ去ってしまうので、即誰も真実として認識し言い表すことができない「過去」となってしまう。カウンセリングの世界でよく体験する、辛い過去に拘り偏ってしまった「悔恨」や「劣等コンプレックス」、それらに基づく「予期不安」という未来の予測も、全てが全て、真理や真実とは異なった人間としての「観念」に過ぎません。座禅や瞑想で「無になる」ということは、人間を放棄したように無くなるということではなく、他の動物にはできない人間としての感性や感情や信仰体験の変化やプロセスを、「諸行無常」の通り一瞬一瞬の真実として感じ続け、受容し続けて行くような精神修養的、体験的な在り方だと思います。善も悪も、その表も裏もある人間が、人間として変化し続ける「あるがままの自分」を、全て否定せず白黒をつけずに自己受容し続ける…それが、「色即是空、空即是色」の、「空」または「無」の境地であると、信仰させていただいております。何れにしても、神仏の世界(あの世)の真理や真実については、俗物である人間が、どの様な形であれ口を挟むこともできないし、決して白黒をつけてはならないことだと思います。ユダヤ教の律法学者やファリサイ人の在り方に、「NO」を突きつけ続けたのは、イエス•キリストではなかったでしょうか?また、信仰に救われ、信仰に徹し続けたパウロも、秀才であり地位名誉欲を思うように手にしていた律法学者的な立場にあった時の自分自身に、自ら「NO」を突きつけ、イエス•キリストの身許に於いて、「怒って猛威を振るい すべて驕り高ぶる者を見れば、これを低くし すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き 神に逆らう者を打ち倒し ひとり残らず塵に葬り去り 顔を包んで墓穴に置くがよい。 そのとき初めて、わたしはお前をたたえよう。 お前が自分の右の手で 勝利を得たことになるのだから。」(ヨブ記 40:1-14 新共同訳)という言葉を引用しつつ、「純粋な子どものように、神仏の御前に於いて謙虚にあれ」という内容を、繰り返し繰り返し伝えてくださったのだ…と理解しているのですが、その理解は、間違っているでしょうか? イエス•キリストが、姉妹である世間体重視のマルタよりも、純粋無垢なマリアをより重んじられたように、パウロが過去の知識優位な自分をより悔恨し、イエス•キリストの身許で「謙虚である」ことの重要性を伝え続け、命を終えたように、牧師であり信者であるならば、学者のように究極的には不確定な歴史解釈や聖書解釈を、持論中心に優先することは控えたい事だと思います。我々は、それ以上に、今日、この瞬間に、縁ができている目の前の人との関係で、より、神仏の願いに叶った生き方をどのように選択し、力強く歩み続けることができるのか……、その事が、問われているのではないでしょうか?
私がご提示した動画を見てくださいましたか?その中に全て語り尽くしていますよ。
「道院・世界紅卍字会」(日本紅卍字会)の、「笹目秀和 老師」(モンゴル神仙) 鬼籍者。 「太乙北極真経」(たいいつほっきょくしんきょう)と、「先天の座法」(せんてんのざほう)を、教えている。 主宰神:老祖。(宇宙神) 聖号:至聖先天老祖(ずうしゅんしぇんてんらおず) 中国山東省で起こった慈善団体。 紅卍字会は、関東大震災救援物資送付第一号団体。 東京大岳山・多摩道院。(多摩主院) 笹目秀和 先生(ささめしゅうわ。本名:恒夫。つねお。秀和は道名。どうめい)が居た。大嶽神社、大嶽山荘がある。 JR青梅線・御岳駅からバスで、ケーブルカーの滝本駅へ。滝本駅から頂上の御岳山駅へ。御岳山駅前の、「宝亭支店」(土産物屋)が、連絡所。ここから山道を登山すること1時間半ほどで、山小屋(大岳山荘)前に到着する。 銀座・東京総院。(笹川良一 所属) 道院での修道を許された者を、「修方」(しゅうほう)と呼ぶ。修方は道名をいただく。 卍字は、十字が回転するのを表す。(モンゴル神仙談話) 鍵十字(逆卍字・ハーケンクロイツ)は、SS。 SとS とを、十字に重ねたもの。勝利を表すと言う。
先天の気。 本当は気の字が違うのだが。本当は、「无」の字の下に、点が4つ付く。この字が「先天のき」という意味。「き」と発音する。 「気」とは、後天の「き」だと言う。
先生の、健康が守られ、日本のクリスチャンに開かれていない聖書の奥義が明らかにされていきますように。感謝します。
ありがとうございます。
ありがとうございます。祝福を祈っています。
高原さんこんばんは
今回も解りやすい解説ありがとうございます。次回も楽しみにしてます。
先生ほんとうにありがとうございます。もう20人の注文がありました。昨日までイベントだったので今日みなさん配送します。報告まで
すごい!もっともっと注文がありますように!
高原先生素晴らしい解説ありがとうございます。ウクライナ戦争の影響でしょうか高原先生の話に非常に迫力を感じます。トンガの海底火山噴火、そしてウクライナ戦争と、もう既に患難時代の真っ只中のようでもあります。🙏
まだ艱難時代ではありませんが、確かに終末時代ではありますね。
筑井孝子が描く聖書の世界買いました。届くのたのしみー。
ありがとうございます!
筑井孝子今日配送しました。
@@荒木孝子-u5u 様 本日届きました。買って良かった!とても素敵です!!
@@tomomi8848 様。ほんとうにありがとう。9月には先生に特集を組んで。「ゲスト」でたくさんのエゼキエル書をかいてもらえるようになる予定です
@@荒木孝子-u5u 様!それは楽しみすぎます!
艱難時代、悪の働きが活発になるのですね。まるで ナルニア国物語やロード・オブ・ザ・リングなど スペクタクル映画さながらな世が来るかと思うと 恐ろしいです。
どうか そのような時代を通らなくてすむように キリストを受け入れる人が増えることを 切に願います。アーメン
I learned a lot from your lecture because I have never read the Bible🙏🏾
I hope you will continue to listen to my youtube.
@@ごうちゃんねる-z5m Of course←not小田和正3⃣→ I will
私はカトリックの幼稚園に通っていたのですが、園児達は皆可愛い天使の置物を保母さんからもらいました。
それを大切に飾っていたのですが作り物だったんですね。本物の天使にいつか会えるかなー✨楽しみ。
天使の存在は聖書が明確に語っていますね。でもそのイメージ通りに世間一般には伝わっていないように思います。
第五のラッパこわっ!
第六も怖いのかも
ドキドキ😅
確かに怖いですね!
天使も悪霊もなんか妖怪みたい😮
確かに描写は気持ち悪いですね。
は~どっこいしょ。
なんとか元気です。🥴
先生の動画を視させて貰って長生きせんと、聖書のことはわかりませんからね😅
次も楽しみにしてます🤗💖
どうぞお元気で!
いつも、分かりやすいメッセージ楽しみにしてます。質問があります。ロシア正教も、バイブルを信仰していますか?エゼキエル書、38章を、どう理解しているのでしょうか?
ロシア正教徒はほとんどエゼキエル書を読みません。残念。
洋楽は、聖書(イエス・キリスト)及び、その関係ネタ(関連ネタ)や、政治ネタが沢山有るけれども、日本でそれらをやると、一発でアウト‼️に、なってしまう。 地下に潜る以外にないだろう。
日本語には完了形は無いと言いますが東京弁の「ちゃった」は完了形だと思います。「星が落ちちゃったのを見た」だと近い表現ではないでしょうか?でもありがたみが無いですね。
なるほど!初めて聞く意見ですが興味深いです。使わせてもらいます
@@ごうちゃんねる-z5m 光栄です。
遺伝子組み換え人造人間が聖書に出てくるとは!
聖書内でイエス様が携挙という概念を語っている部分はあるのでしょうか。
イエス様の言葉を頼りに生き方の指針にしている私は、「本当のキリスト者」にはなれないのでしょうか。
ヨハネの預言書はイエス様の言葉ではないです。
でも読み物としては興味深い。でも信じてはいない。だってそれではヨハネ教になっちゃうから。
でもごうちゃんねる全部見てます(^^)
ヨハネの黙示録もイエス・キリストの言葉ですよ。イエスキリストの言葉をヨハネはいただいたのです。"イエス・キリストの黙示。神はすぐに起こるべきことをしもべたちに示すため、これをキリストに与えられた。そしてキリストは、御使いを遣わして、これをしもべヨハネに告げられた。"
ヨハネの黙示録 1章1節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
確かに書いてあります。
物語の始まりの枕詞のように感じていました。
もう一度、じっくり読みこんでみようと思います。
地の底から湧き上がるサソリの様なイナゴとは、軍事ヘリコプターやドローン的な近代兵器の事を言っているのではないかと思いますが
ヨハネの黙示録に記されている様に予め未来が決定しているのであれば、何をどう努力しても無駄であり、一体人間は何の為に生きているのでしょうか?
もし聖書が正しくないとすれば、、
この世界は創造主が創ったものではなく、ただ『偶然』に存在するのだと考えるなら、、
それこそ人間が生きているのは「偶然の産物」であり、目的も意義もなく生きていることになります。
聖書を調べ、創造主を知ることは、人間の生きる目的を知ることになるのです。
聖書を部分的に読んだり理解するのではなく、全体的に捉えていかなければ大きな誤解や間違いを引き起こします。
@@tinyhfujiwara 自分は創造主を信じており進化論を否定しています、自然をつぶさに観察するとその驚異的な設計概念や作用に驚かされます
宇宙全体が生命の培養器の様であり、絶えず命を生み出そうとするバイアスがかかっていると思われますが、聖書の表現は余りにも抽象的で比喩や暗示に満ちており、難解極まりない部分が多々見受けられると思います、ヨハネの黙示録がその最たるものですね
@@河野昌幸-f2qさんのお気持ちやお考えは 、私にもよくわかります。
以下に、わたくしの考えを申します。 あくまでもわたくしの意見です。
私も河野さんと同じく『創造主』の存在を信じております。 そして『科学と宗教のパラドックス』に悩んでおりました。
このパラドックスとは、「科学」を突き詰めて調べ、宇宙や自然、生物を観察すればするほど、究極的にはこの世界の神秘、つまりは創造者や神の存在が有ること発見する一方で、
この世のいわゆる「宗教」について深く調べてその歴史を知れば知るほど、結局は宗教は「人間の考えや思想」を反映しているだけ、「人間、つまりは開祖や教祖が作り出したもの」であるという、科学と宗教が互いに逆の結論に至ってしまうというものです。
したがって、聖書を「宗教」という枠で捉えて考えると、聖書も他の宗教と同じく「人間が考え出した教え」という間違った結論に至ってしまいます。
聖書の表現が抽象的で比喩や暗示が多いのは、あえて分かり難くしているからです。
新約聖書の記述で、イエス様が民衆にたとえを用いて話したのは「無学な民衆に分かりやすくするためにたとえを用いた」のではなく、むしろ逆で、あえて分からないように話したのです。弟子たちでさえ解らなかったことも聖書には記述されています。
ですから、私たちが答えを積極的に求める必要があります。
マタイ7章には「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」と書かれています。
探し求めるなら、見い出せることがイエス様によって保証されているのです。
聖書に対する疑問や質問を、教会の牧師や神父だけに求めるのはあまり正しい態度とは思えません。
牧師や神父たちも、やはり人間です。鼻で息をする者は当てに出来ません。
むしろ聖書をお書きになった神に求めるべきです。 そうすれば、牧師や神父を通して、あるいは、他の誰かや何かを通して、神から掲示が与えられると思います。
聖書預言により「予め未来が決定している」ということは、
イエス様に信頼し、神に従う者たちにとっては、
「あらかじめ決定している未来が私たちを待っていると約束されている」という福音なのです。
どうか河野様も、聖書から離れずにいてください。
絵で教える聖書はカトリックでやっていることではないでしょうか?
絵からの受け取り方は千差万別だと思うのです。絵は作者の思想が含まれ、そこでもうその人の宗教となってしまいます。
絵でよければ、聖書は絵本でいいのではないでしょうか?
今回の内容に即していないかも知れませんが、最近の私の投げかけ(新約聖書の御言葉の「字義通り」の受け止め方、神の御前に於いての謙虚な在り方 など)に対し、高原牧師流に受け流されているようで、未だに正面切ってご返答をいただけていないように思いますので、ここに記させていただいます。
本当に、すみません。どうしても、牧師というお仕事をされている高原牧師でしょうし、牧師ということであれば、イエス•キリストの御心の代弁者であると信じさせていただきたい…との思いで、コメントさせていただきます。
そう受け止めさせていただくと、昨今の高原牧師は、イエス•キリストの代弁者というよりも、巷の軍事評論家、歴史研究家として発信されている立場が、余りにも強すぎる様に思うのですが、如何でしょうか?
私は、東住吉教会の『空海と聖書』の動画も視聴させていただきました。本当に、尊敬させてもらいました。「景教」というキーワードで、空海の遣唐使の話は、驚きと新鮮な感動を持って示唆していただきました。
浅はかな知識しか持てていませんが、仏教徒でもある私など膝下にもお呼びがつかない程の圧倒的な説得力をお持ちなことにも、脱帽でした。
しかし、その論調の中で、どうしても思ってしまうのは、歴史というのは、優秀な方々であったとしても、記録を残した個々の「人間」の自我意識というバイアスを通しての論述だということです。
実際、高原牧師の仰ることも、当然なことながら「新•旧約聖書」の立場こそが全てだ…という論調になることが常だと思います。
しかし、以前にもお伝えしたように、霊感も強かったルドルフ•シュタイナーさんの『ルカ福音書講義』(イザラ書房)という書物の中では、この世ではなく、あの世の出来事として、イエス•キリストの児童期にお釈迦様の霊性が宿り、お釈迦様が悟った難解な内容を、ルカの福音書のルカのよって庶民に解りやすいように著させた…と伝えられています。
このように受け止めるならば、「仏教が景教の影響を強く受けてキリスト教化した」ということ以上に、あの世側の営みとして、仏神の伝導の方法として、中東地域を中心とする旧約聖書の流れと並行しつつ、2500年前にお釈迦様がまず、覚者(悟った者)として地上に送り出され、さらに段階を踏む形で、あの世の神仏の智慧を、2000年前に、イエス•キリストの新約聖書の世界において、より解りやすく広められた。……と、その様にも受け止められると思います。
また、仏教でいう「無」ということの解釈も、私と異なります。
牧師は「無」を、自我意識も何も人間が無くしてしまう状態…と解釈されているようですが、そう伝えられてはいないと思います。
この「無」を、「空」とした時、牧師もご存知だと思う『般若心経』というお経が、お釈迦さまの悟りの内容のエッセスを、伝えてくれています。
有名な、「色不異空、空不異色。色即是空、空即是色」という部分が、牧師の伝えてくれていることとは違うことを証てくれています。
「色」として受け止められる物も心の中の心象も、「有る」のと同時に、「諸行無常」的に、一瞬一瞬、一刹那一刹那、元の形を留めることなく、変化し続ける…ということで末通る実体というものは、どこにも「無い」…ということだと思います。
物も、事も、心象も、真実として確かに「有る」と確認できるのはのは、只今、この一刹那、一瞬だけだと思うのですが、その時は、一瞬に過ぎ去ってしまうので、即誰も真実として認識し言い表すことができない「過去」となってしまう。
カウンセリングの世界でよく体験する、辛い過去に拘り偏ってしまった「悔恨」や「劣等コンプレックス」、それらに基づく「予期不安」という未来の予測も、全てが全て、真理や真実とは異なった人間としての「観念」に過ぎません。
座禅や瞑想で「無になる」ということは、人間を放棄したように無くなるということではなく、他の動物にはできない人間としての感性や感情や信仰体験の変化やプロセスを、「諸行無常」の通り一瞬一瞬の真実として感じ続け、受容し続けて行くような精神修養的、体験的な在り方だと思います。
善も悪も、その表も裏もある人間が、人間として変化し続ける「あるがままの自分」を、全て否定せず白黒をつけずに自己受容し続ける…それが、「色即是空、空即是色」の、「空」または「無」の境地であると、信仰させていただいております。
何れにしても、神仏の世界(あの世)の真理や真実については、俗物である人間が、どの様な形であれ口を挟むこともできないし、決して白黒をつけてはならないことだと思います。
ユダヤ教の律法学者やファリサイ人の在り方に、「NO」を突きつけ続けたのは、イエス•キリストではなかったでしょうか?
また、信仰に救われ、信仰に徹し続けたパウロも、秀才であり地位名誉欲を思うように手にしていた律法学者的な立場にあった時の自分自身に、自ら「NO」を突きつけ、イエス•キリストの身許に於いて、
「怒って猛威を振るい すべて驕り高ぶる者を見れば、これを低くし すべて驕り高ぶる者を見れば、これを挫き 神に逆らう者を打ち倒し ひとり残らず塵に葬り去り 顔を包んで墓穴に置くがよい。 そのとき初めて、わたしはお前をたたえよう。 お前が自分の右の手で 勝利を得たことになるのだから。」(ヨブ記 40:1-14 新共同訳)
という言葉を引用しつつ、「純粋な子どものように、神仏の御前に於いて謙虚にあれ」という内容を、繰り返し繰り返し伝えてくださったのだ…と理解しているのですが、その理解は、間違っているでしょうか?
イエス•キリストが、姉妹である世間体重視のマルタよりも、純粋無垢なマリアをより重んじられたように、パウロが過去の知識優位な自分をより悔恨し、イエス•キリストの身許で「謙虚である」ことの重要性を伝え続け、命を終えたように、牧師であり信者であるならば、学者のように究極的には不確定な歴史解釈や聖書解釈を、持論中心に優先することは控えたい事だと思います。我々は、それ以上に、今日、この瞬間に、縁ができている目の前の人との関係で、より、神仏の願いに叶った生き方をどのように選択し、力強く歩み続けることができるのか……、その事が、問われているのではないでしょうか?
私がご提示した動画を見てくださいましたか?その中に全て語り尽くしていますよ。
「道院・世界紅卍字会」(日本紅卍字会)の、「笹目秀和 老師」(モンゴル神仙) 鬼籍者。 「太乙北極真経」(たいいつほっきょくしんきょう)と、「先天の座法」(せんてんのざほう)を、教えている。 主宰神:老祖。(宇宙神) 聖号:至聖先天老祖(ずうしゅんしぇんてんらおず) 中国山東省で起こった慈善団体。 紅卍字会は、関東大震災救援物資送付第一号団体。 東京大岳山・多摩道院。(多摩主院) 笹目秀和 先生(ささめしゅうわ。本名:恒夫。つねお。秀和は道名。どうめい)が居た。大嶽神社、大嶽山荘がある。 JR青梅線・御岳駅からバスで、ケーブルカーの滝本駅へ。滝本駅から頂上の御岳山駅へ。御岳山駅前の、「宝亭支店」(土産物屋)が、連絡所。ここから山道を登山すること1時間半ほどで、山小屋(大岳山荘)前に到着する。 銀座・東京総院。(笹川良一 所属) 道院での修道を許された者を、「修方」(しゅうほう)と呼ぶ。修方は道名をいただく。 卍字は、十字が回転するのを表す。(モンゴル神仙談話) 鍵十字(逆卍字・ハーケンクロイツ)は、SS。 SとS とを、十字に重ねたもの。勝利を表すと言う。
先天の気。 本当は気の字が違うのだが。本当は、「无」の字の下に、点が4つ付く。この字が「先天のき」という意味。「き」と発音する。 「気」とは、後天の「き」だと言う。