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父方のお墓参りに行き墓石に祖父母叔父の没日戒名をメモしてきました。父が2歳の時に亡くなった祖母のことを思い浮かべて涙出ました。今私が生きてるのはご先祖さまのいのちのリレーからなのでそれだけでも有難い存在なんだと思いました。これからも命尽きるまでブッタの教えを自分に取り入れながら生きれたらと思います。ありがとうございます。
八正道のお話は何度聞いても良いですね。これほど素晴らしい指針は他にありません。
絵や映像がすごいですね。仏陀との対話の様子や話の内容にぴったりな映像です。こんなイメージ画像をどうやって集めたのですか、素晴らしいです。
確かに私は平等に人を愛し尽くして来たから現在でも心が穏やかですよ~❤
とても大切な教えを拝聴しました。ただシステムによる文章の自動読み上げなのか、「生と死」の「セイ」を「なま」と読み上げられている部分が多々あり、尊いお話に途中違和感を感じて少し残念に思ってしまいました。そんな細かなことが気になってしまうのは私がまだまだ修行不足だからかもしれません🙏
真髄ですね😂保存しました‼️ありがとうございます🙏
ブッダの教えに…。✌️朗読者の素敵な(声)メロディー♪画像に…心穏やかに何時も癒やされております。残された人生善き行いを、改めて心して…。ありがとうこざいました。感謝!🙏
自分の心に問いかけてみる過ちをおかしていないか、もしかしたら過ちをおかしたら限定に戻ってやり直しする。
読み方に違和感を感じてしまう残念です
お釈迦様、密教では大日如來や不動明王、龍神や観世音菩薩など色々な仏や菩薩などが存在しますが、これらの仏や菩薩、龍神で、人は救われるのでしょうか?
私はまあ無理 仏様に会いたかった 弟子は良いタイミングで仏様にであったな 当時の雰囲気が伝わるな
死後の世界は神仏の世界神聖な場所汚れなものはない神聖😮安らぎ。清らかな心
社会の為に尽くす
大体は理解できます。しかし一つ疑問に思うことがあります。修羅界は争い戦う世界ですが… 例えば強者から弱者が強いたげられている場合 これを守るため(慈悲の心で)戦うことも悪業になるのでしょうか……。優しいだけでは守れないものもありますが……。私は見て見ぬふりが出来ません。見て見ぬふりをする人こそ、悪行を積む人に私からは見えます…。
大乗仏教においては、丁寧な言葉や優しい言葉では改心しない悪人をやむを得ず実力で懲らしめる仏を「明王」と呼んでいます。度し難い悪人に対しては、そうした存在も必要なのです。
今日は死後の世界はあります、行いが良ければ神仏の世界に入ります。心が正しい性格性質清らか前項積む。
私は毎月一回は両親の墓参りしています。😅❤両親は墓の中で気持ちよく喜んでいると思っています。
今日はもう少し鱈敬老の日、お彼岸です。心から感謝です
ブッタの教えに感謝有り難う言います。
優しい御両親だった事が分かります、幸せでしたね。
方便の向こうに釈迦の真意があり それを悟れない無明のままでは夢に気づく事も夢から覚めることも無い
この声のナレーターさんは、何て名前の方でしょうか?
Voicevox
輪廻転生というのは、ヒンドゥー教などの教えではないんでしょうか。
極楽浄土に生まれることができたとします。そこには痛みも苦しみもない永遠の世界があるという。しかし、前世の記憶のない者が極楽浄土に生まれたならば、元々、痛みも苦しみも知らないわけです。という事は、痛みも苦しみも無いという事が何故幸せなのかが分からないのではないですか?しかも、その楽な生活が永遠に続くとなれば、こんな暇な事はない。苦があるからそれから逃れようと努力する、そしてその苦から解放された時に人は幸せを感じる。永遠の楽な世界など地獄みたいなもの。おそらく極楽浄土の生活というものは、人間界に住む我々には想像もつかない世界なのだろうけれども、その前の世界、前世の記憶がないなら、生まれた時から極楽浄土に居るなら何が極楽なのか知りようがないのではないでしょうか?
同感です。悟りですね。極楽浄土そんな退屈な世界を目指し修行する事の愚かさ。この世の人間をどうしたいのでしょうかね。ブッダばかりのような世界は異常だ。意味無し。
🎉
なんか前回から話が変な感じになってきたような気がするのは私だけか?🤔
六道輪廻から抜け出るためには、悟りを開くことが必要であるという。しかし、この地球上で悟りを開けた者、即ち仏陀は釈迦だけなのです。つまり、悟りを開くとはとてつもなく難しいのです。そうであるなら、輪廻転生を抜け出して極楽浄土へ行った者、また行けるものはまず居ない、そういうことになります。難しい修行など要らないと説いた大乗仏教でさえ、大悲の願船に乗る人は少ない、極楽浄土へ行っている人は少ないと説いている。極楽浄土へはまず行けないということです。考えるだけ無駄です。
浄土は阿弥陀仏の極楽浄土が有名になってますが、他にも、近場なら釈迦牟尼仏の無勝浄土もあります。どの仏に帰依するかで違います。
メンバーにはなりません
なまなまなま たまにせい
前世、現世、来世と言っても、その記憶というものがないのならば結局それは他人ではないですか?現世でせっせと善行を積んでも、来世では現世に善行を積んで来たから今が幸せなのだななどと感じることができるわけがない。記憶がないのだから。記憶がないなら輪廻転生が本当にあっても無いのと同じ。私、今とても幸せですが、これは前世の私が何か良い事でもしたのでしょうか?この考え方には大いに矛盾がある。私は死後は無ではないと考えますが、輪廻転生は記憶がない限り無いに等しいと考えます。
例えば、あなたがいつも善行を行い人々に慕われ愛される存在である人生を歩むなか、ある日何らかの理由(事故など)で記憶をなくしたとします。あなたは記憶がありませんが周りの人々はあなたを助け優しくし温かな世界で過ごせる。しかし、あなたが記憶をなくす前、悪行ばかりを積み、皆から嫌われていたら?このように考えれば あなたがいう理由を元に、『輪廻転生』は意味がない ということにはなりませんよ。😊
またまた同感です。善行とか悪行とかは自然界には有りません。人間が判定しているだけで人間に見つかれば痛いめに有ったり賞賛されたりするだけの事です。たまたま災害や事故で不幸に遭った方も心遣いとは関係ありません。あなたが今幸せな事はあなたの行いや笑顔が周りの方々に良い影響を与えているからだと思います。神や仏がしてくれている訳では有りません。ブッダは荒唐無稽な事を言って気持ちがいいのさ、自己顕示欲。
輪廻転生については記憶が継続しないという問題があります。でも、私たちの一生涯においては、感情も知識も経験も積み上げられながら、その心は別の人間のように変化します。輪廻転生という大きな流れがわからなかったとしても、一生涯の内にある自分の心の変化、細胞の入れ替わりの中に、輪廻転生のシステムの型を見出せば、私たちの日々の行いが蓄積して、その次の行いを決めていくということは理解できることです。人間は自分の誤りを認めたくないという性質があり、前例に拘ります。ですから、この「前例」、つまり、日々のその都度の行いを決定することに十分な慎重さを持って、より正しい行いを希求していくことは、翌日や翌々日に智慧を深める原因として作用すると言えますし、その逆のことも起こり得ます。
正しい行いとは何ですか。例えば他人の物を盗む事は正しく無い事ですか?。人を殺すこれが悪いとは誰が決めました?。人間社会に於いてはそれは悪い事に成っていますよね大方は。物は自分の物と他人の物とに分けてますから。大方は規則を以って処理されます。本来善悪は無い。それは人間が決めただけの事。輪廻転生論とはこの人間社会で生きる為により安寧への中々の策略で、いい事ではあるがうまいこと人間が考えたもの。そう成っている訳では無い。人間は古来より今の規則からしたら畜生と言われる位悪い事ばかりして来た。輪廻転生論からしたらまともな人は一人も居ないよ。あなたも極悪人も同じ。🥰物を盗むには見つからないように、人に好さそうな事はちょっと見つかるように。何だかんだと言っても人間の心底は皆こんなものだよ。別に悪い事では無いですよ、人間はそう云うものですから。規則は守りましょ。熊は別に悪い事はしていないんだけど、どう云う訳か人間社会に入り込んだら人間に殺される。悪行の末路ですか。
実は、最近そのお話を他の方としたばかりなんです!人間社会はおっしゃる通り、人間の無知と欲望に塗れています。これは人類の歴史の中で、人々が何もわからずに行動してきた結果です(宗教的な話ではなく科学的事実として)。その結果、後の世代の人々は、この世界を欲と無知に塗れた真実のない世界だと見るようになります。だって仕方ないですよね。子供たちが生まれてきたときに大人は皆、欲望と無知でしか行動していないわけですから。人間なんてそんなものだと考えるのは当然のことなのです。他にも同意できるお言葉がありました。『私も極悪人も同じ』という点です。これはまさにその通りで、私も極悪人とされる人も、生まれ育った環境や行動の結果を反映しているだけの鏡のようなものにすぎません。この世界に本来、善悪が無い、まさにその通りです。そして輪廻転生の中にまともな人間が一人もいないというのも恐らくそうでしょう。まともな人、悟った人は輪廻から去っていかれるとされていますし、私もそれを望みとしています。ただ、八正道の正しさは人間社会由来のものではなく、人間社会が生じる前、その前の生態系が生じる前、宇宙が生じる前からある無色透明な世界、宇宙や法則の土台を元にしていると私は考えています。というのも私は幼い頃、自然の山の中で育って、人間の無知や欲望ではなく、自然の叡智の営みを見て過ごしていました。それでこのように考えるのです。人間の心によって濁っていない世界を見るには自然の中に入り、そこから地球と宇宙の歴史を辿るのが良いと考えます。八正道で目指すべき正しさとは、人間社会全体が誤まっているときには悪とされるものです。八正道は、それが自分のために良いことか、人類のために良いことか、人類以外の生命や、宇宙全体にとって良いことか、それは過去においても現在においても未来においても良いことか、そのようにして導き出されるものです。人間社会を基準にしてはいけません。熊さんについてですが、生物としての人類と生息圏がかぶること、鹿たちが増えて、その死骸を放置した結果、家畜しか襲うことのできない熊さんが生じたことなど、人間の側にもできることはあります。そして、これもおっしゃる通りなのですが、人間の法は人間にのみ適用されるもので、熊さんは自然の法則と生まれ育った環境の中で自分の成すべきことを選択したのです。これは悪行の末路ではありません。そもそも、欲望と無知は一般的に『悪行』とされるほど憎まれるべきことでしょうか?不完全なのはみんな同じで、人間だろうと熊さんだろうとその存在価値は等価なのに。私たちは皆同じなのです。同じなのに人間の欲望と無知が環境によって異なるように見せているのです。人間社会が自然より上位なのではありません。人間社会はそれ自体が生命体です。生命と生命が誰がどのように生き残るかを競い合って歴史を紡いでいるだけです。長くなってしまいました。同意できるお言葉がたくさんあったので、つい嬉しくなってしまいました。つまらなかったら読んでいただかなくても構いません。次はもっと短くまとめられるように励みます。
宇宙ですら死を迎えるのだから気にするな
輪廻転生と因果応報は絶対に来る!
六道は真理、安易に宗教・宗派の観点から解釈するべきではない
生なま生なまたまに生せい
生=なま、ではなく 生=せい、と読んでもらわないと、何を言っているのやら分かりません。読んでいる人、日本人ですか?その事で、すべての説が嘘くさく思えてきます。
人が読んでるのでは無いので、せい・なまは判断出来ません。他でも判断出来ない事が多々あり、まだまだ改良しなければなりません。
父方のお墓参りに行き墓石に祖父母叔父の没日戒名をメモしてきました。父が2歳の時に亡くなった祖母のことを思い浮かべて涙出ました。今私が生きてるのはご先祖さまのいのちのリレーからなのでそれだけでも有難い存在なんだと思いました。これからも命尽きるまでブッタの教えを自分に取り入れながら生きれたらと思います。ありがとうございます。
八正道のお話は何度聞いても良いですね。
これほど素晴らしい指針は他にありません。
絵や映像がすごいですね。
仏陀との対話の様子や話の内容にぴったりな映像です。こんなイメージ画像をどうやって集めたのですか、素晴らしいです。
確かに私は平等に人を愛し尽くして来たから現在でも心が穏やかですよ~❤
とても大切な教えを拝聴しました。
ただシステムによる文章の自動読み上げなのか、
「生と死」の「セイ」を「なま」と読み上げられている部分が多々あり、
尊いお話に途中違和感を感じて少し残念に思ってしまいました。
そんな細かなことが気になってしまうのは
私がまだまだ修行不足だからかもしれません🙏
真髄ですね😂
保存しました‼️
ありがとうございます🙏
ブッダの教えに…。✌️朗読者の素敵な(声)メロディー♪画像に…心穏やかに何時も癒やされております。残された人生善き行いを、改めて心して…。ありがとうこざいました。感謝!🙏
自分の心に問いかけてみる過ちをおかしていないか、
もしかしたら過ちをおかしたら限定に戻ってやり直しする。
読み方に違和感を感じてしまう
残念です
お釈迦様、密教では大日如來や不動明王、龍神や観世音菩薩など色々な仏や菩薩などが存在しますが、これらの仏や菩薩、龍神で、人は救われるのでしょうか?
私はまあ無理 仏様に会いたかった 弟子は良いタイミングで仏様にであったな 当時の雰囲気が伝わるな
死後の世界は神仏の世界神聖な場所汚れなものはない神聖😮安らぎ。清らかな心
社会の為に尽くす
大体は理解できます。しかし一つ疑問に思うことがあります。
修羅界は争い戦う世界ですが… 例えば強者から弱者が強いたげられている場合 これを守るため(慈悲の心で)戦うことも悪業になるのでしょうか……。優しいだけでは守れないものもありますが……。
私は見て見ぬふりが出来ません。
見て見ぬふりをする人こそ、悪行を積む人に私からは見えます…。
大乗仏教においては、丁寧な言葉や優しい言葉では改心しない悪人をやむを得ず実力で懲らしめる仏を「明王」と呼んでいます。度し難い悪人に対しては、そうした存在も必要なのです。
今日は死後の世界はあります、
行いが良ければ神仏の世界に入ります。
心が正しい性格性質清らか前項積む。
私は毎月一回は両親の墓参りしています。😅❤両親は墓の中で気持ちよく喜んでいると思っています。
今日はもう少し鱈敬老の日、お彼岸です。心から感謝です
ブッタの教えに感謝有り難う言います。
優しい御両親だった事が分かります、幸せでしたね。
方便の向こうに釈迦の真意があり それを悟れない無明のままでは夢に気づく事も夢から覚めることも無い
この声のナレーターさんは、何て名前の方でしょうか?
Voicevox
輪廻転生というのは、ヒンドゥー教などの教えではないんでしょうか。
極楽浄土に生まれることができたとします。そこには痛みも苦しみもない永遠の世界があるという。しかし、前世の記憶のない者が極楽浄土に生まれたならば、元々、痛みも苦しみも知らないわけです。という事は、痛みも苦しみも無いという事が何故幸せなのかが分からないのではないですか?しかも、その楽な生活が永遠に続くとなれば、こんな暇な事はない。苦があるからそれから逃れようと努力する、そしてその苦から解放された時に人は幸せを感じる。永遠の楽な世界など地獄みたいなもの。おそらく極楽浄土の生活というものは、人間界に住む我々には想像もつかない世界なのだろうけれども、その前の世界、前世の記憶がないなら、生まれた時から極楽浄土に居るなら何が極楽なのか知りようがないのではないでしょうか?
同感です。悟りですね。極楽浄土そんな退屈な世界を目指し修行する事の愚かさ。この世の人間をどうしたいのでしょうかね。ブッダばかりのような世界は異常だ。意味無し。
🎉
なんか前回から話が変な感じになってきたような気がするのは私だけか?🤔
六道輪廻から抜け出るためには、悟りを開くことが必要であるという。しかし、この地球上で悟りを開けた者、即ち仏陀は釈迦だけなのです。つまり、悟りを開くとはとてつもなく難しいのです。そうであるなら、輪廻転生を抜け出して極楽浄土へ行った者、また行けるものはまず居ない、そういうことになります。難しい修行など要らないと説いた大乗仏教でさえ、大悲の願船に乗る人は少ない、極楽浄土へ行っている人は少ないと説いている。極楽浄土へはまず行けないということです。考えるだけ無駄です。
浄土は阿弥陀仏の極楽浄土が有名になってますが、他にも、近場なら釈迦牟尼仏の無勝浄土もあります。
どの仏に帰依するかで違います。
メンバーにはなりません
なまなまなま たまにせい
前世、現世、来世と言っても、その記憶というものがないのならば結局それは他人ではないですか?現世でせっせと善行を積んでも、来世では現世に善行を積んで来たから今が幸せなのだななどと感じることができるわけがない。記憶がないのだから。記憶がないなら輪廻転生が本当にあっても無いのと同じ。私、今とても幸せですが、これは前世の私が何か良い事でもしたのでしょうか?この考え方には大いに矛盾がある。私は死後は無ではないと考えますが、輪廻転生は記憶がない限り無いに等しいと考えます。
例えば、あなたがいつも善行を行い人々に慕われ愛される存在である人生を歩むなか、ある日何らかの理由(事故など)で記憶をなくしたとします。
あなたは記憶がありませんが周りの人々はあなたを助け優しくし温かな世界で過ごせる。
しかし、あなたが記憶をなくす前、悪行ばかりを積み、皆から嫌われていたら?
このように考えれば あなたがいう理由を元に、『輪廻転生』は意味がない ということにはなりませんよ。😊
またまた同感です。善行とか悪行とかは自然界には有りません。人間が判定しているだけで人間に見つかれば痛いめに有ったり賞賛されたりするだけの事です。たまたま災害や事故で不幸に遭った方も心遣いとは関係ありません。あなたが今幸せな事はあなたの行いや笑顔が周りの方々に良い影響を与えているからだと思います。神や仏がしてくれている訳では有りません。ブッダは荒唐無稽な事を言って気持ちがいいのさ、自己顕示欲。
輪廻転生については記憶が継続しないという問題があります。
でも、私たちの一生涯においては、感情も知識も経験も積み上げられながら、その心は別の人間のように変化します。
輪廻転生という大きな流れがわからなかったとしても、一生涯の内にある自分の心の変化、細胞の入れ替わりの中に、輪廻転生のシステムの型を見出せば、私たちの日々の行いが蓄積して、その次の行いを決めていくということは理解できることです。
人間は自分の誤りを認めたくないという性質があり、前例に拘ります。ですから、この「前例」、つまり、日々のその都度の行いを決定することに十分な慎重さを持って、より正しい行いを希求していくことは、翌日や翌々日に智慧を深める原因として作用すると言えますし、その逆のことも起こり得ます。
正しい行いとは何ですか。例えば他人の物を盗む事は正しく無い事ですか?。人を殺すこれが悪いとは誰が決めました?。人間社会に於いてはそれは悪い事に成っていますよね大方は。物は自分の物と他人の物とに分けてますから。大方は規則を以って処理されます。本来善悪は無い。それは人間が決めただけの事。輪廻転生論とはこの人間社会で生きる為により安寧への中々の策略で、いい事ではあるがうまいこと人間が考えたもの。そう成っている訳では無い。人間は古来より今の規則からしたら畜生と言われる位悪い事ばかりして来た。輪廻転生論からしたらまともな人は一人も居ないよ。あなたも極悪人も同じ。🥰物を盗むには見つからないように、人に好さそうな事はちょっと見つかるように。何だかんだと言っても人間の心底は皆こんなものだよ。別に悪い事では無いですよ、人間はそう云うものですから。規則は守りましょ。熊は別に悪い事はしていないんだけど、どう云う訳か人間社会に入り込んだら人間に殺される。悪行の末路ですか。
実は、最近そのお話を他の方としたばかりなんです!
人間社会はおっしゃる通り、人間の無知と欲望に塗れています。
これは人類の歴史の中で、人々が何もわからずに行動してきた結果です(宗教的な話ではなく科学的事実として)。
その結果、後の世代の人々は、この世界を欲と無知に塗れた真実のない世界だと見るようになります。
だって仕方ないですよね。子供たちが生まれてきたときに大人は皆、欲望と無知でしか行動していないわけですから。
人間なんてそんなものだと考えるのは当然のことなのです。
他にも同意できるお言葉がありました。『私も極悪人も同じ』という点です。
これはまさにその通りで、私も極悪人とされる人も、生まれ育った環境や行動の結果を反映しているだけの鏡のようなものにすぎません。
この世界に本来、善悪が無い、まさにその通りです。
そして輪廻転生の中にまともな人間が一人もいないというのも恐らくそうでしょう。
まともな人、悟った人は輪廻から去っていかれるとされていますし、私もそれを望みとしています。
ただ、八正道の正しさは人間社会由来のものではなく、人間社会が生じる前、その前の生態系が生じる前、宇宙が生じる前からある無色透明な世界、宇宙や法則の土台を元にしていると私は考えています。
というのも私は幼い頃、自然の山の中で育って、人間の無知や欲望ではなく、自然の叡智の営みを見て過ごしていました。
それでこのように考えるのです。
人間の心によって濁っていない世界を見るには自然の中に入り、そこから地球と宇宙の歴史を辿るのが良いと考えます。
八正道で目指すべき正しさとは、人間社会全体が誤まっているときには悪とされるものです。
八正道は、それが自分のために良いことか、人類のために良いことか、人類以外の生命や、宇宙全体にとって良いことか、それは過去においても現在においても未来においても良いことか、そのようにして導き出されるものです。
人間社会を基準にしてはいけません。
熊さんについてですが、生物としての人類と生息圏がかぶること、鹿たちが増えて、その死骸を放置した結果、家畜しか襲うことのできない熊さんが生じたことなど、人間の側にもできることはあります。
そして、これもおっしゃる通りなのですが、人間の法は人間にのみ適用されるもので、熊さんは自然の法則と生まれ育った環境の中で自分の成すべきことを選択したのです。
これは悪行の末路ではありません。そもそも、欲望と無知は一般的に『悪行』とされるほど憎まれるべきことでしょうか?
不完全なのはみんな同じで、人間だろうと熊さんだろうとその存在価値は等価なのに。
私たちは皆同じなのです。同じなのに人間の欲望と無知が環境によって異なるように見せているのです。
人間社会が自然より上位なのではありません。
人間社会はそれ自体が生命体です。
生命と生命が誰がどのように生き残るかを競い合って歴史を紡いでいるだけです。
長くなってしまいました。同意できるお言葉がたくさんあったので、つい嬉しくなってしまいました。
つまらなかったら読んでいただかなくても構いません。
次はもっと短くまとめられるように励みます。
宇宙ですら死を迎えるのだから
気にするな
輪廻転生と因果応報は絶対に来る!
六道は真理、
安易に宗教・宗派の観点から解釈するべきではない
生なま生なまたまに生せい
生=なま、ではなく 生=せい、と読んでもらわないと、何を言っているのやら分かりません。読んでいる人、日本人ですか?その事で、すべての説が嘘くさく思えてきます。
人が読んでるのでは無いので、せい・なまは判断出来ません。他でも判断出来ない事が多々あり、まだまだ改良しなければなりません。
輪廻転生と因果応報は絶対に来る!