江戸東京写真帳107:上野山・寛永寺・根岸

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  • เผยแพร่เมื่อ 5 ก.ย. 2024
  • 散歩写真スライドショー、上野駅から上野山のイメージで、上野公園の北の端、寛永寺輪王殿、旧本坊表門を見る。門が閉まっていた。台東区上野桜木、#寛永寺、根本中堂 を訪ねる。墓所に入って、徳川綱吉霊廟勅額門を見る。書院を見て通り、寛永寺坂橋からラブホ街に下りて、根岸の#御行の松 (おぎょうのまつ)に行く。#朝日弁財天 に行って見る。#金杉通り 、旧日光街道を見て歩き、#小野照崎神社 によって、車坂から上野山に戻る。#西郷さん を見て、階段を下りて、上野広小路駅から帰る。
     上野山、戦国時代に忍岡と呼ばれ、人口の少ない地域であった。1603年に江戸幕府が開かれ、忍岡は、伊賀国上野を本拠地とする外様大名、藤堂高虎の屋敷が置かれた。後に徳川将軍家の菩提寺である寛永寺が建立され、門前町が開けた。この頃から、寛永寺付近を「上野」と呼ぶようになる。藤堂家の所領である上野(三重県伊賀市)に地形が似ていた。歴代将軍の墓も建てられ、江戸幕府から保護され、繁栄した。門前町(上野)も発展した。上野寛永寺は、江戸城から見て陰陽道上の鬼門に当たり、江戸鎮護の寺でもあった。明暦の大火後に上野に広小路が設置された。当時の上野広小路は上野駅付近、現在の広小路は「下谷広小路」と呼ばれた。 上野山、戦国時代に忍岡と呼ばれ、人口の少ない地域であった。1603年に江戸幕府が開かれ、忍岡は、伊賀国上野を本拠地とする外様大名、藤堂高虎の屋敷が置かれた。後に徳川将軍家の菩提寺である寛永寺が建立され、門前町が開けた。この頃から、寛永寺付近を「上野」と呼ぶようになる。藤堂家の所領である上野(三重県伊賀市)に地形が似ていた。歴代将軍の墓も建てられ、江戸幕府から保護され、繁栄した。門前町(上野)も発展した。上野寛永寺は、江戸城から見て陰陽道上の鬼門に当たり、江戸鎮護の寺でもあった。明暦の大火後に上野に広小路が設置された。当時の上野広小路は上野駅付近、現在の広小路は「下谷広小路」と呼ばれた。
     輪王寺(両大師)、上野公園、国立博物館の東側にある。元は天台宗別格大本山寛永寺の境内地であり、輪王寺は寛永寺の伽藍の一部で、開山堂、または慈眼堂と称された。江戸前期の承応3年(1654)後水尾天皇第3皇子の守澄法親王が、寛永寺の第3代貫主となり、日光山主を兼任した。天台座主を兼ねることとなり、日光山の満願寺は、後水尾上皇の院宣により、輪王寺と改称し、守澄法親王が住持となった。守澄法親王は、天台座主、寛永寺貫首、日光山主の「三山管領宮」となり、「輪王寺宮」または「輪王寺門跡」と呼ばれた。以後、幕末まで皇族が関東に下向し、輪王寺宮となった。寛永寺の開山、天海(慈眼大師)は、寛永20年(1640)に死去し、輪王寺の地に天海を祀る開山堂が建てられた。天海が崇敬する良源(慈恵大師、元三大師)を併せ祀ったことから「両大師」と呼ばれる。
     寛永寺は、天台宗、関東総本山。東叡山寛永寺円頓院。開基は江戸幕府3代将軍の徳川家光、開山は天海、本尊は薬師如来である。徳川将軍家の祈祷所、菩提寺であり、徳川歴代将軍15人のうち6人が寛永寺に眠る。17世紀半からは皇族が歴代住職を務め、朝廷との繋がりが深かった。日光山、比叡山をも管轄する天台宗の本山として近世には強大な権勢を誇った。幕末の動乱に主要な伽藍を焼失した。
     本堂(根本中堂)、訪れる人もまばらである。現在の堂は、寛永寺の子院、大慈院があった敷地に、明治12年(1879)、川越喜多院の本地堂を移築した。内陣の厨子内に秘仏本尊薬師三尊像を安置する(非公開)。
     書院、 本堂裏手にあり、徳川慶喜が水戸退去の前、2か月ほど蟄居していた部屋(葵の間、蟄居の間)が保存されている(非公開)。
     旧本坊表門、通称は黒門。東京国立博物館東側の輪王寺にある。寛永年間の建造物で、もとは博物館正門の位置にあった。
     慈海僧正墓、聖観世音菩薩像、右側に「当山学頭第四世贈大僧正慈海」と彫られている。慈海僧正は、学徳をもって知られ、東叡山護国院、目黒不動尊、比叡山西塔宝園院、川越仙波喜多院を経て、東叡山凌雲院に入った。東叡山は、寛永寺一山の山号で、一山を統轄、代表する学頭に凌雲院の住職が就任する。学頭は、また門主、輪王寺宮の名代をつとめうる唯一の有資格者、一山の学問上の師でもあった。慈海版として「法華経」「薬師経」の翻刻や「四教義算注」「標指鈔」など三十巻の著作がある。寛永元年(1624)目黒で生誕。70歳で没した。没後、公弁法親王の奏請によって大僧正の位が贈られた。墓は、初め凌雲院内にあったが、昭和33年(1958)東京文化会館建設のため寛永寺に移った。
     了翁禅師塔碑、了翁は号、諱名を道覚、黄檗宗の僧。出羽国雄勝郡に生まれ、幼い頃から僧門に入った。承応年間(1652-1655)、隠元禅師に師事し、諸国を巡り、夢の中で一種の薬法を修得した。これを「錦袋円」と名付けて、江戸上野不忍池の池畔に店舗を営んだ。数年にして数千両を得、江戸大火に際し、罹災民の救済に私財を投じた。さらに経典7千巻を購入して経庫を造って、寛永寺に寄贈した。天和3年(1683)、勧学院を建て、教育に尽力し、輪王寺宮より勧学院権大僧郡法印に任ぜられた。宝永4年(1707)歿、78才。
     根岸、上野山の北の陰に位置し、台東区三ノ輪、竜泉、下谷に囲まれた町域である。関東大震災や第二次世界大戦で罹災しなかった市街地も含まれ、昔ながらの町並み、建造物が残されている所もある。由来は、上野の崖の下にあり、かつて海が入り込んでいた頃、木の根のように岸辺が続いていた。金杉(金曽木)の地名が一般的であったが、江戸時代、武蔵国豊島郡金杉村の一部で、正保3年、東叡山寛永寺領となった。金杉村の字は、南部を「根岸」、西北と新田を「杉ノ崎」、東北を「中村」、更に東北を「大塚」と呼んだ。「根岸」が一番南側なので、江戸の方から、これらの地をまとめて「根岸」と呼んだ。
     御行の松、初代の松は「江戸名所図会」や歌川広重の錦絵に描かれた。由来は、輪王寺宮(上野寛永寺貫主)がその下で修行したからなど諸説ある。1925年(大正15)「根岸御行ノ松」として天然記念物指定された。高さ約13.6メートル、幹周4.9メートルだった。1928年(昭和3)夏に枯死、樹齢は約350年であった。二代目として1956年(昭和31)に上野中学校から松が移植されたが、すぐに枯れた。1976年(昭和51)に植えられた三代目は盆栽状であるため、地元の団体(講)が初代のように大きく育つことを願い、隣に四代目を植えた。不動堂に祀られている不動明王像は、初代の松の根を掘り起こして彫られた。室町後期の「廻国雑記」に、文明18年(1486)、道興准后が東北地方巡遊の際、浅草の石浜から上野に向かわれる途中、時雨が降り出し、松の大木が傘をひろげた様な枝の下に雨宿りをされ、「霜ののちあらはれにけり時雨をば 忍びの岡の松もかいなし」と詠まれた。この歌から「時雨が岡」の地名が起こり、「時雨の松」と呼ぶようになった。「御行の松」と呼ばれるようになったのは、宝暦(250年前)以降、歴代の輪王寺の宮が、一代に一度100日間毎朝に修法を行う。ある宮様が修法の時に根岸の隠居所を通って松の木で休まれた?という意味で「御行の松」と呼ばれるようになった。明治時代に樋口一葉の作品「琴の音」や子規の俳句の題材になった。正岡子規の句碑がある。「薄緑 御行の松は 霞みけり 子規」
     朝日弁財天、江戸初期の寛永元年(1624)、東叡山寛永寺を創建した慈眼大師、天海の勧めにより、備中松山藩の初代藩主、水谷伊勢守勝隆は、不忍池に辨財天社を建立した。それと同時に、下屋敷であったこの地の邸内の池にも辨財天を祀った。姉妹弁財天と呼ばれ、西方の不忍を夕日、東方の水の谷を朝日辨財天と称した。本堂は昭和二十年(1945)大東亜戦争で焼失した。
     金杉の語源は「すぎ」は「そぎ」が転化した、そがれたような傾斜地と言う。「かな」は、カンナ(鉋)の古語で鉋(ヤリガンナ)でそいだようなの意、又は、カネ(矩)の転で、直角あるいは曲がったの意を示している。 台東区金杉地区は、金杉通り、国際通り、土手通り、明治通りの主要な幹線道路が三ノ輪地区で合流する。JR線、日比谷線の公共交通機関が通る。寺院など名所史跡も数多く残る。樋口一葉は、明治期の竜泉寺町を舞台とした「たけくらべ」や「にごりえ」など文学作品を数多く残した。「樋口一葉碑」「一葉記念館」が近い。
     三島神社、弘安4年(1281)河野通有は元寇に際し、氏神である三島大明神(大山祇神社)に戦勝を祈願し出陣した。三島大明神の神使である白鷺の導きにより、武勲を挙げ、帰陣にあたり、夢の中で「武蔵国豊島郡に三島大明神を勧請せよ」とお告げを受け、上野山の河野氏の館に奉斎した。慶安3年(1650)に移転を命じられ、金杉村に遷座した。
     小野照崎神社、小野篁を主祭神とし、相殿に菅原道真を祀る。852年(仁寿2)この地の住民が上野照崎の地に小野篁を奉斎した。寛永年間(1624-1643)寛永寺の建立のため移転を命じられ、下谷に遷座した。樋口一葉の「たけくらべ」に「小野照さま」の名で出ている。
     天海僧正、陸奥国会津出身と伝えられ、前半生について分かっていない。龍興寺にて「随風」と称して出家した後、14歳で、下野国宇都宮の粉河寺の皇舜に師事して、天台宗を学び、近江国の比叡山延暦寺や園城寺、大和国の興福寺で学を深めたという。元亀2年(1571)織田信長により比叡山焼き討ちに合うと、武田信玄の招聘を受けて甲斐国に移住する。その後、蘆名盛氏の招聘を受けて、黒川城(若松城)の稲荷堂に住し、さらに上野国の長楽寺を経て、天正16年(1588)、武蔵国の無量寿寺北院(埼玉県川越市、喜多院)に移り、天海を名乗った。この時、江戸崎不動院の住持も兼任した。浅草寺の史料に、北条攻めの際、天海は浅草寺の住職、忠豪とともに徳川家康の陣幕にいた。家康のために関東に赴いたことがうかがえる。豪海の後を受けて、天海が北院の住職となったのは、慶長4年(1599)、その後、家康の参謀として朝廷との交渉等の役割を担う。慶長12年(1607)、比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。また慶長17年(1612)、無量寿寺北院の再建に着手し、寺号を喜多院と改め、関東天台の本山とする。慶長18年(1613)、家康より日光山貫主を拝命し、本坊、光明院を再興する。大坂の陣の発端となった「方広寺鐘銘事件」にも深く関わった。 元和2年(1616)危篤となった家康は、神号や葬儀に関する遺言を、同年4月に大僧正となった天海らに託す。家康死後、神号を巡り、以心崇伝、本多正純らと争う。天海は「権現」として山王一実神道で祭ることを主張、崇伝は「明神」として吉田神道で祭るべきだと主張した。2代将軍、徳川秀忠の諮問に対し、天海は、豊臣秀吉に豊国大明神の神号が贈られた後の豊臣氏滅亡を考えると、明神は不吉であると提言した。家康の神号は「東照大権現」と決定され、家康の遺体を久能山から日光山に改葬した。その後、3代将軍、徳川家光に仕え、寛永元年(1624)、忍岡に寛永寺を創建する。江戸の都市計画にも関わり、陰陽道や風水に基づいた江戸鎮護を構想する。
    「上野の山の桜と西郷隆盛像」 上野の山の桜は、天海僧正(1536 - 1643)が、江戸城鎮護を祈願して寛永寺を創建した時、上野の山の随所に桜の木を植えたことに始まる。桜の名所として知られるようになったのは元禄年間(1688 - 1704)。上野公園入口に建つ西郷隆盛(1827 - 1877)像は、明治31年(1898)の建立で、筒袖に兵児帯姿、わらじばきの像は高村光雲(1852 - 1934)の作。連れ添う犬は後藤貞行(1849または1850 - 1903)の作。咲き誇る桜の絵あり。上野の山の西郷隆盛像が描かれた商標が、書き写されている。西郷隆盛は、江戸総攻撃を前に、勝海舟らとの降伏交渉に当たり、総攻撃を中止した。

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