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宮司さんがいる立派な神社⛩なんですね。「神社って面白いなぁ」茂木先生が学生時代に取り組んだ遺跡の発掘に似て、今回は埋もれた土器ではなく、埋もれた「人々の活動」「歴史」に巡り合うのですね。神社⛩巡りフィールドワーク👍
昭和40年まで古河市に住んでいました。子供の頃、渡良瀬川周辺でよく釣りをして遊んだ事がありました。古河の雀宮神社側の堤防に登ると視界が開け渡良瀬川遊水池が一望のもとに見渡せ感動したものです。野木神社に行った記憶は定かでなかったが、野木神社の名前は今でもよく覚えています。偶然、TH-camに野木神社というタイトルが掲げてられていたので懐かしく思い拝見した次第です。谷中村と田中正造の名前は明治13年生まれの祖父からよく聞かされました。祖父は全くのノンポリでしたが、佐倉宗吾郎(?)のような義民でした。小生はいつも古河側から渡良瀬川遊水池を眺めていたので筑波山を見た記憶がありません。小学生の頃の記憶なので野木神社についての由来は全く知りませんでした。野木神社の由緒を知り大変勉強になりました。ありがとうございます。小生も今年77歳になり終活を考える年齢になりました。若い時は欧米偏重で日本の歴史は通りいっぺんの学習で分かったような気でおりました。しかし近年、欧米近現代史偏重による過信や無知に気づき、日本の成り立ちについても改めて学び直そうと思っているところです。そして元気なうちに終活の一環で思い出の地や由緒ある史跡を訪れてみようと計画しています。
谷中村の人々の北海道移住について、気になったので少し調べました。移住者が入植したのはサロマ湖から16キロの奥深いところでした。県庁の吏員から「南向きで肥沃な大地」と聞いていましたが、実際は山々に囲まれた北斜面に位置し平地が少なく標高も高い、雪深い大地だったそうです。移住者たちは集落を「栃木」と名付け人力で開墾を進めていきましたが、慣れない土地での厳しい開拓の結果、1年後には20戸がこの地を去ったそうです。2年後に栃木から再度の移住民を募り、32戸が第二次入植。計78戸となりましたが、そこから15年経たないうちに6割強が引き上げたそうです。第二次入植の同年、宇都宮市の二荒山神社から祭神を分祀し、栃木神社の社殿を建て、また小学校を開設しました。今も佐呂間町に「栃木」という地名があり、佐呂間町史に谷中村の人々の移住の歴史が記録されています。足尾鉱毒事件については多少の知識はありましたが、谷中村については知りませんでした。学びの機会をありがとうございます!
おはようございます。今日も茂木先生とともに、遠隔参拝からスタートできるありがたさ😄😄現地へいってこその情報もあるのですね。製鉄、たたら集団! 北海道へ渡られた方々が此処にも!!伝えるお役割、感謝感激👍👍
おはようございます。神社の由来は深いですね✨少しずつ繋がって行くのが興味深く面白いです。茂木先生の解説がとても解り良いので助かります。ありがとうございます😊
地元の古河市で散歩に出掛けれる土地でも知らなかった事を知りました中学生の頃は毎日自転車で走り回ったのですが普段は人気のない静かな佇まいですが年の暮れには参道の両側に万燈がずらっと灯され荘厳な雰囲気に子供ながら圧倒されましたが今でも見ることが出来て歴史を感じることが出来ます。
こんなところに菟道稚郎子がおられるなんて…感動します。ありがとうございます♪出雲の伝承を知ると、その理由がストンと腑に落ちます。一説としてお聞きください。物部イニエ王(崇神)の皇子であった豊城入彦は、宇佐豊国の豊玉姫の御子でありました。異母兄弟のイクメ王(垂仁)との後継者争いに敗れ、東国へ追いやられ、上毛野国・下毛野国に落ち着きます。この子孫から応神天皇が出るのです。神功皇后の御子は早逝したため、秘密裏に上毛野国から歳格好が同じであった、竹葉瀬という7歳の男児が養子に迎えられ、応神天皇として即位します。応神天皇の死後、皇子であった菟道稚郎子は宇治で即位し、宇治大君と呼ばれます。ところが三韓征伐で活躍した武内宿禰の子孫たちと宇佐系とで対立が起こり、仁徳天皇がクーデターを起こすのです。正史ではこの辺りの後継者争いに多くの分量が割いてありますが、実は、舟から落ちて亡くなったのが、菟道稚郎子だったと伝えられています。舟から落としたのは、星川建彦という葛城氏の親族で、仁徳天皇として即位します。宇佐王朝は2代で終わったのです。宇治にお墓があるのは、そこが宮であったからです。あそこは🐰だらけですね。宇佐家を表しています。【菟🐰道稚郎子】元々、上毛野国からやって来たので、そちらに遺骨が運ばれるのも筋が通ります。遺骨を運んだとされる奈良別は、豊城入彦から4代目と6代目に名がありますが、6代目だったら時代もピッタリです。野木神社のご祭神は莵道稚郎子命を主祭神とし、誉田別命(応神天皇)、息長足姫命(神功皇后)、宗像三女神を配祀。宇佐系が勢揃いです。ここでしっかりお祀りされていることに、感無量になります。日本では敗者も排除せず、ウケヒを繰り返し融合してゆき、歴史上の登場人物たちの子孫が、敵も味方も一緒になって、政権中枢に居続けました。正史を作るときにも、どう描くかは揉めに揉めたと思います。結果として、ひとつの王朝がずっと続いていることにしたのだと思います。それでも、王朝が変わったときは、ちゃんと合図が記されているのです。名前が同じ誕生日が同じ名前を交換するこれらは王朝交代の合図です。応神天皇も気比大神と名前を交換しています。仁徳天皇は武内宿禰と名前を交換します。武内王朝になったということです。星川建彦は武内宿禰の子孫です。日本書紀によると、天皇がお生まれになる日に、産殿に木菟(みみずく)が飛び入った。翌朝父帝の応神天皇が、何の瑞兆だろうと大臣の武内宿禰に聞くと、大臣は「まさに吉祥です。昨日の同じ日に私の妻も出産し、ミソサザイが産屋に飛び入りました。これもまた吉祥」と申し上げた。天皇は、同じ日に生まれたとは益々目出度いこととお喜びになり、「その鳥の名を交換して子に名づけ、後の世の契りとしよう」と仰せになった。そして皇子は「大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)」と名づけられ、大臣の子は木菟宿禰(つくのすくね)と名づけられた。↑誕生日が同じ 名前を交換するこんなの正史に書くことですか?!だけど、何度もあります。(成務天皇も武内宿禰と同じ誕生日)そして、【オオサザキノミコト】は、大鷦鷯命→日本書紀表記大雀命→古事記表記そう、雀なのです。昨日の【雀宮神社】の投稿に仁徳天皇がグルグル回っていました。交換した名は【木菟(つく)】ミミズク🦉のことです。野木神社に🦉がいたのもビックリしました。(((;ꏿ_ꏿ;)))
…唸りました。記紀神話は暗号だらけですね。
@@FW190A-5妖精 さまコメントありがとうございます♪旧出雲王家に伝わった伝承を読んで、感じたことですので、一説には…ということで流してください。その伝承によりますと、5回ほど王朝が変わっています。ですが、常にウケヒをして、主要氏族は血縁関係がありますから、大きな視点で見れば、王朝は変わっていないとも言えます。常に政権中枢の顔ぶれは全く同じです。(笑)男系の万世一系が切れると、日本が壊れるのではないかと思った時期もありました。ですが、この変遷を見て、全然、大丈夫だ〜と安心安堵安寧の境地になりました。古代には女性のチカラはとても大きかったことも分かりました。母方が大事です。一説ですので、これが正しいということではないので、ご自由に想像を膨らませてくださいね。真実はその場にいても分からないことが多いです。遠い昔のお話なら尚更です。ですが、残された文献・神社のあり方・伝承など、全て伝えたい何かがあると思っています。いつも、恋文であると思って読んでいます。見えない行間を探す作業です。(^^)
@@maomao96363茂木先生本当に、記紀を作ったわたしたちの祖先はすごいものを創ったなあ…と感服することが多いです。
足尾鉱毒事件、並びに、田中正造に、関心を持って頂き、ありがとうございます。足尾や谷中村の人々、田中正造の生き様を、版画を通して生々しく訴えたのが、栃木県小山市出身の小口一郎という版画家です。小口一郎は、栃木に帰りたいと望む北海道佐呂間町に強制移住を強いられた谷中村出身の農民たちの願いを叶えてあげたいと、帰郷嘆願書と共に、栃木県知事に、働きかけました。小口一郎の帰郷運動のもと、帰郷が果たされたのは、1972年です。
この方ですね。www.art-it.asia/partners/museum/tochigipref/232204/
@@maomao96363 そうです。多くの方々に、小口一郎の全作品を、見て頂きたい。
茂木先生いつも興味ある配信ありがとうございます。私の母は昭和八年、下駄屋の父と母の間に栃木県河内郡古里村で生まれました。その後、小樽に渡り夕張へと移住し私の父と結婚し私が生まれました。「栃木から北海道へ」というのが当時の方達の憧れ的な考え方だったんでしょうかね。
たたら一族と言うことは、元は出雲、やっぱり縄文人。。*そして先生の選曲がいつも素敵です✨
ドンドンヒャララー ドンヒャララ 田舎のお祭りが懐かしいです。
その土地に隠れている様々な歴史というか物語がありますね。一度は戦や鉱害で荒廃しても、今は鎮守の森や野鳥の住まう姿に再生している😊
栃木の乃木神社にお参りしたばかり!と思ったらノギ違いでしたが、大将の乃木さんも源氏だったことを思うとやはりどこかで繋がっているかもしれないと勝手に思い直しました。毎度我が国をより好きになる配信をありがとうございます😊
10:50あたりの映像とても神秘的ですね😊
11:04 綺麗ですね・・・神々しいというか
有難う御座います。沈められてしまった谷中村と田中正造の話は有名ですよね。
渡良瀬川でつい歌を思い出してこんな素敵な景色なんですね。 色々な感情がこの景色を残して下さったとも言えるのですね。
乃木神社💕応神天皇の皇子様のお話はとても興味深く😍茂木先生とご縁がありそうなタタラ族に、盛りだくさんの猫ちゃん*\(^o^)/*とっても幸せな気持ちなりました💕ありがとうございます😊【リベラルの正体】を読み終えたばかりなので、争いを避ける猫ちゃんは、グローバリストより賢い‼️と唸ってしまいました😺渡瀬貯水池は、高校のマラソン大会会場でしたので💦封印列車に詰め込まれ😰強制移動の末‼️有無を言う術もなく、延々と長距離走を強制される(((;゚Д゚))) ガクブル恐ろしい全体主義の思い出が色濃く残る場所でしたが(笑)茂木先生の動画を拝見して、改めて歴史を学びに行こう‼️と強く心に誓いました💪 動画やご著書を通じて、内容が濃い、深い学びを与えていただける事、いつも心から感謝しております🙇♂️*\(^o^)/*
猫から学ぶこと、たくさんありますね。
大事に大事に伝え続けてきて、今があるんですね。
渡良瀬遊水地のご紹介まで💕ありがとうございます。見られて嬉しい☺️何というか..大人も社会科見学みたいですね。
今回の動画とは関係ありませんが掛谷英紀先生が茂木先生の動画を聴きながら寝るのが日課だとニャンコ先生と柳ケ瀬議員との対談の中で仰っていました。やっぱり良いものは良いのですね。
光栄です。
谷中村から移住された場所が、北海道の佐呂間町で、移住した人たちが帰りたいと何度も栃木県に陳情していた。原野を切り開いても気温が低くて米作は出来ず、冬は大雪、鉱毒被害を受けた被害者のはずなのにと思うと、やるせないですね。
神社の敷地が広いですね~。子供の遊び場、動物達の住処。古河の次の駅で、野木と駅名案内があり、変な駅名だなーと思ったことがありましたが、そんな由緒のある地名、失礼しました。😅渡良瀬遊水池の展望台、素晴らしい見晴らし、行きます!松本清張の神々の乱心を読んで、一度行ってみたいと思っていたので、事前情報をありがとうございます。
神社の横にあったホフマン館って一見どこか中国風な建造物に見えて、気になって調べたらドイツのホフマンって技師が考案したスタイルの窯だそうです。明治初期に来日したイギリス人トーマス・ウォートルスっていう建築家(お雇い外国人)の指導で建てられたものらしく、頑強な造りで130年以上経った今もほぼ原型のままのよう。すごいね!赤レンガの量産で明治日本の近代化にすごく貢献した窯らしく、建造物としての価値も高くて1979年には国の重要文化財指定に、2007年には近代化産業遺産群の一つにも選ばれた建造物らしいです。
茂木先生こんにちは☀️動画撮影お疲れ様でした。猫を愛でる先生のお姿にほっこり致しました😊
菟道という漢字を見た時、京都の宇治と関係があるのかなと思ったら、やっぱりそうなんですね。宇治にはよく行きますし、宇治神社にもお参りしてましたが、宇治神社の御祭神の菟道稚郎子が仁徳天皇の弟君だったとは知りませんでした。勉強になりました。6月に宇治に行く用事があるので、宇治神社へお参りしに行こうと思います。
ようこそ!我が故郷へ!😅
50年以上前に小学生の頃3年間だけ野木に住んでいましたが、遊水地があることも野木神社の事も今日知りました。こんな所があったなんて話に聞いたことがなかったです。現在北米在住ですが、生きているうちにまた野木に行けるかな?
野木神社の周辺でもタタラが営まれていたというお話は初めて知りました。タタラは湖沼の水辺で行われると聞きます。渡良瀬川と利根川に挟まれ、これが合流する地域には沼が多く、野木神社から少し西に目を向けるとそのものズバリ「多々良(タタラ)沼」という沼があり、たいへん古い時代にはタタラが営まれていたようです。野木神社が鎮まる場所は渡良瀬川と利根川(利根川東遷事業以前においては厳密には利根川ではありませんが)の合流地点付近であり、地形を考えるとタタラが営まれたのも道理です。神社=古代からの重要地点と考えた場合、地形にその土地や神社の歴史を重ねつつ散策するのも興味深い体験になりますね。ところで、1つ前に投稿された雀宮神社の動画が見られなくなっており残念です……。復活すると良いのですが。
雀さん、復活しました。th-cam.com/video/bJTAgK_lBmA/w-d-xo.html
@@maomao96363 ありがとうございます!!
菟道稚郎子をお祀りされている!希少ですね。感動です。野木神社、訪ねてみます!強制退去させられた谷中村、善入寺島の運命を思い出しました。先生の足跡を追うように善入寺島を訪ねてまいりましたが、一面美しい畑のとても平和な光景に圧倒されました。岩の鼻から眺める雄大な吉野川や中央構造線の真っ直ぐな地形も感動ものでした。先生の動画を見てると、我々の歴史って地球の手のひらの上で展開されているんだなと感じます。とても楽しいです😀
渡良瀬遊水地から見える連山にビックリしました。浅間山まで見えるとは!移住先が北海道…胸が痛みました。
北海道在住です。どこに入植したのか気になり調べでみましたらサロマ湖の南、佐呂間町に記念碑があるとのこと。当時のご苦労を思うと言葉がありません。入植のころのことを小説にしている方がいて読みましたがアイヌの方とは協力していたと書いてあります。
有難うございます。後半の谷中村→川俣事件の押出(デモ)した農民の郷、渡良瀬遊水地の歴史的意味が理解できました!
渡瀬川は戦後の台風で堤防が決壊して氾濫した水が東京の小岩付近まで来て洪水に追いかけられて逃げているラジオ中継はなんだったのか?あの惨状はどうなったのか?記憶があります。静かな遊水地になって良かったですね。戦後の台風が次々に来た事を思い出します。97歳の老婆
貴重な証言、ありがとうございます😊
@@maomao96363 私の記憶を聞いて下さり有難うございます。終戦後生きていくのに大変な時毎年女名前の台風が来て洪水に大変だった思いでした。あの渡瀬川の堤防が800米 切れて関東平野が水の中にで人々が逃げ惑う中継をラジオから聞いて無事に助かればと祈ったのです。戦前より戦後がいろいろあって記憶とマスコミ界の話しが変わったので当時の記憶を正しくと思っています。老婆👵
今回の動画BGⅯ(猫ちゃん喧嘩仲裁カラス声入り(笑)ホフマン館でダスティンホフマンが浮かんでしまう自分が悲しい 日本は何処の神社も綺麗に整備されていて素晴らしいですね
赤城さんじゃなく赤城やまです。
こんな立派なお賽銭箱は初めて見る、やはり?さすが?銅製?
古河市のお祭りのときは、この神社から、🔥をもらうとか🤔‼️
恋の季節ですな
菟道稚郎子、あまり喜べない印象の名ですね。高貴な家柄ゆえ味わう苦悩があったのではないでしょうか。一瞬、乃木将軍の神社と勘違いしてしまいました。真相はともあれ、菟道稚郎子、😊乃木希典もまた道理を尽くした、いにしえの人の死生観を感じます。
梟の木彫りが可愛いですね、本当の梟に会いたいけど、夜行性ですからね😅仁徳天皇の弟さんですか😳本当かどうかわかりませんが、悲しい結末の死ですね、でも、仁徳天皇が弟さんのために神社を建てて仲良し兄弟ですね、大きな欅神社が建つ前からある木凄いですね👍👍
宇治神社と宇治上神社、宇治墓に参拝したことがあるので、なぜ栃木の地に菟道稚郎子を祀る神社があるんだろって思いました。宇治墓があるのに、奈良別命が、遺骨を態々この地にまで持ってきた理由が知りたいですね。
本買ってしまった。
群馬県館林市の多々良沼公園とたたら製鉄はやはり関係あるのでしょうか。
どういう訳か湧水池と石🪨の文明ってつながっている様な気がする🤔🤔🤔‼️誰でも神社には目がいきがちですけどね😳😳😳‼️🥸
いつかで良いのですが日本の国がまだまだ水位が高い時代の解説と巨石群との関係とか?ぜひやってほしいです。🤔🤔🤔🤔‼️🥸
本当に神社って美しい✨里にあるのに山の空気感があるのですよね~先生、神道を一元論的に捉えて良いのですかね。アメノミナカヌシ様から分け御霊をいただいて全ての宇宙、森羅万象と繋がっている命に溜まる罪穢れを神道ではずぅーと神社の儀礼や祝詞の湊上によって祓って来たと思ってます。先生も仰っていますが全ての命は繋がっている。でも本居先生はヒノカグツチの神様を悪い神様って位置付けていると古事記の勉強会で習ったのですがコレって二元論的に捉えているのですよ。賀茂真淵先生は良い神様と捉えているので一つのエネルギー一元論ですよね~私のように神道をキチンと勉強していない者にしてみたら、じゃあ二元論だったらおうちで祓え給へ清め給へと唱えて魂の内なる宇宙の命と繋がろうとしていたのは何だったのだろうと。モヤモヤします~
ケガレ思想は途中から入ってきた、というのが私の推察です。
@@maomao96363 先生ありがとうございます。これは思想と言うより信仰の問題ですよね。本居先生と同じ目線で惟神の道を感じてみたかっただけなの。お時間取らせました🙇♀️茂木先生の古事記、楽しみにお待ちしております。その時は沢山質問しま~す✨
宮司さんの伝承ですねw
日本の歴史と神様のお名前や、それにまつわる関係など、どのように覚えられますか?茂木先生の本にもありますか?今はネットで調べられるでしゃうが、やはり本があったら見直しもできますしね。教えてください。よろしくお願いします。
好きな神様、知りたい神様をまず特定して、関連情報をネットで調べたり、お祭りする神社を訪れてみるのがいいですよ。私はニギハヤヒが気になって、神社にハマりました。
@@maomao96363 茂木先生、ありがとうございますAmazonで、先生の本、1冊買いました私が子供の頃は、お祭りがありました
@@maomao96363 茂木先生、ありがとうございます神社に足を運んでみます
天皇陛下に直訴されたんですか…それでも銅は自然の物。今の厄災は桁違いだ。千年欅が日本を見続けていると思うと、恥ずかしい。ニャンコに国を譲りたい😢
福岡在住の福永晋三氏が、「真実の仁徳天皇 」と言う題の本を出していて、万葉集を解読すると、実は、菟道稚郎子が仁徳天皇(功績)であると証明?😂
時々柏手を上下に打って見えますが、意味を教えて下さい。
?
左手を下にして右手を上から叩いてる様に見える。
宮司さんがいる立派な神社⛩なんですね。
「神社って面白いなぁ」
茂木先生が学生時代に取り組んだ遺跡の発掘に似て、今回は埋もれた土器ではなく、埋もれた「人々の活動」「歴史」に巡り合うのですね。
神社⛩巡りフィールドワーク👍
昭和40年まで古河市に住んでいました。子供の頃、渡良瀬川周辺でよく釣りをして遊んだ事がありました。古河の雀宮神社側の堤防に登ると視界が開け渡良瀬川遊水池が一望のもとに見渡せ感動したものです。野木神社に行った記憶は定かでなかったが、野木神社の名前は今でもよく覚えています。偶然、TH-camに野木神社というタイトルが掲げてられていたので懐かしく思い拝見した次第です。
谷中村と田中正造の名前は明治13年生まれの祖父からよく聞かされました。祖父は全くのノンポリでしたが、佐倉宗吾郎(?)のような義民でした。
小生はいつも古河側から渡良瀬川遊水池を眺めていたので筑波山を見た記憶がありません。
小学生の頃の記憶なので野木神社についての由来は全く知りませんでした。野木神社の由緒を知り大変勉強になりました。ありがとうございます。小生も今年77歳になり終活を考える年齢になりました。若い時は欧米偏重で日本の歴史は通りいっぺんの学習で分かったような気でおりました。しかし近年、欧米近現代史偏重による過信や無知に気づき、日本の成り立ちについても改めて学び直そうと思っているところです。そして元気なうちに終活の一環で思い出の地や由緒ある史跡を訪れてみようと計画しています。
谷中村の人々の北海道移住について、気になったので少し調べました。
移住者が入植したのはサロマ湖から16キロの奥深いところでした。県庁の吏員から「南向きで肥沃な大地」と聞いていましたが、実際は山々に囲まれた北斜面に位置し平地が少なく標高も高い、雪深い大地だったそうです。
移住者たちは集落を「栃木」と名付け人力で開墾を進めていきましたが、慣れない土地での厳しい開拓の結果、1年後には20戸がこの地を去ったそうです。
2年後に栃木から再度の移住民を募り、32戸が第二次入植。計78戸となりましたが、そこから15年経たないうちに6割強が引き上げたそうです。
第二次入植の同年、宇都宮市の二荒山神社から祭神を分祀し、栃木神社の社殿を建て、また小学校を開設しました。
今も佐呂間町に「栃木」という地名があり、佐呂間町史に谷中村の人々の移住の歴史が記録されています。
足尾鉱毒事件については多少の知識はありましたが、谷中村については知りませんでした。
学びの機会をありがとうございます!
おはようございます。
今日も茂木先生とともに、遠隔参拝からスタートできるありがたさ😄😄
現地へいってこその情報もあるのですね。製鉄、たたら集団!
北海道へ渡られた方々が此処にも!!伝えるお役割、感謝感激👍👍
おはようございます。
神社の由来は深いですね✨
少しずつ繋がって行くのが
興味深く面白いです。
茂木先生の解説がとても解り良いので助かります。ありがとうございます😊
地元の古河市で散歩に出掛けれる土地でも知らなかった事を知りました中学生の頃は毎日自転車で走り回ったのですが普段は人気のない静かな佇まいですが
年の暮れには参道の両側に万燈がずらっと灯され荘厳な雰囲気に子供ながら圧倒されましたが今でも見ることが出来て歴史を感じることが出来ます。
こんなところに
菟道稚郎子がおられるなんて…
感動します。
ありがとうございます♪
出雲の伝承を知ると、
その理由が
ストンと腑に落ちます。
一説としてお聞きください。
物部イニエ王(崇神)の
皇子であった豊城入彦は、
宇佐豊国の豊玉姫の御子でありました。
異母兄弟のイクメ王(垂仁)との
後継者争いに敗れ、
東国へ追いやられ、
上毛野国・下毛野国に落ち着きます。
この子孫から
応神天皇が出るのです。
神功皇后の御子は早逝したため、
秘密裏に上毛野国から
歳格好が同じであった、
竹葉瀬という7歳の男児が
養子に迎えられ、
応神天皇として即位します。
応神天皇の死後、
皇子であった菟道稚郎子は
宇治で即位し、
宇治大君と呼ばれます。
ところが
三韓征伐で活躍した
武内宿禰の子孫たちと
宇佐系とで対立が起こり、
仁徳天皇がクーデターを起こすのです。
正史では
この辺りの後継者争いに
多くの分量が割いてありますが、
実は、舟から落ちて亡くなったのが、
菟道稚郎子だったと
伝えられています。
舟から落としたのは、
星川建彦という葛城氏の親族で、
仁徳天皇として即位します。
宇佐王朝は2代で終わったのです。
宇治にお墓があるのは、
そこが宮であったからです。
あそこは🐰だらけですね。
宇佐家を表しています。
【菟🐰道稚郎子】
元々、上毛野国からやって来たので、
そちらに遺骨が運ばれるのも
筋が通ります。
遺骨を運んだとされる奈良別は、
豊城入彦から4代目と6代目に
名がありますが、
6代目だったら
時代もピッタリです。
野木神社のご祭神は
莵道稚郎子命を主祭神とし、
誉田別命(応神天皇)、
息長足姫命(神功皇后)、
宗像三女神を配祀。
宇佐系が勢揃いです。
ここでしっかり
お祀りされていることに、
感無量になります。
日本では敗者も排除せず、
ウケヒを繰り返し融合してゆき、
歴史上の登場人物たちの子孫が、
敵も味方も一緒になって、
政権中枢に居続けました。
正史を作るときにも、
どう描くかは
揉めに揉めたと思います。
結果として、
ひとつの王朝が
ずっと続いていることに
したのだと思います。
それでも、
王朝が変わったときは、
ちゃんと合図が記されているのです。
名前が同じ
誕生日が同じ
名前を交換する
これらは
王朝交代の合図です。
応神天皇も
気比大神と名前を交換しています。
仁徳天皇は
武内宿禰と名前を交換します。
武内王朝になった
ということです。
星川建彦は
武内宿禰の子孫です。
日本書紀によると、
天皇がお生まれになる日に、
産殿に木菟(みみずく)が
飛び入った。
翌朝父帝の応神天皇が、
何の瑞兆だろうと
大臣の武内宿禰に聞くと、
大臣は
「まさに吉祥です。
昨日の同じ日に
私の妻も出産し、
ミソサザイが産屋に
飛び入りました。
これもまた吉祥」と申し上げた。
天皇は、同じ日に生まれたとは
益々目出度いことと
お喜びになり、
「その鳥の名を交換して
子に名づけ、
後の世の契りとしよう」
と仰せになった。
そして皇子は
「大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)」
と名づけられ、
大臣の子は木菟宿禰(つくのすくね)
と名づけられた。
↑誕生日が同じ
名前を交換する
こんなの正史に書くことですか?!
だけど、何度もあります。
(成務天皇も
武内宿禰と同じ誕生日)
そして、
【オオサザキノミコト】は、
大鷦鷯命→日本書紀表記
大雀命→古事記表記
そう、雀なのです。
昨日の【雀宮神社】の投稿に
仁徳天皇がグルグル回っていました。
交換した名は
【木菟(つく)】
ミミズク🦉のことです。
野木神社に🦉がいたのも
ビックリしました。(((;ꏿ_ꏿ;)))
…唸りました。記紀神話は暗号だらけですね。
@@FW190A-5妖精 さま
コメントありがとうございます♪
旧出雲王家に伝わった伝承を読んで、
感じたことですので、
一説には…
ということで流してください。
その伝承によりますと、
5回ほど王朝が変わっています。
ですが、
常にウケヒをして、
主要氏族は血縁関係がありますから、
大きな視点で見れば、
王朝は変わっていないとも言えます。
常に政権中枢の顔ぶれは
全く同じです。(笑)
男系の万世一系が切れると、
日本が壊れるのではないかと
思った時期もありました。
ですが、
この変遷を見て、
全然、大丈夫だ〜
と安心安堵安寧の境地になりました。
古代には
女性のチカラは
とても大きかったことも
分かりました。
母方が大事です。
一説ですので、
これが正しいということではないので、
ご自由に想像を膨らませてくださいね。
真実は
その場にいても
分からないことが多いです。
遠い昔のお話なら
尚更です。
ですが、
残された文献・
神社のあり方・
伝承など、
全て伝えたい何かが
あると思っています。
いつも、恋文であると思って
読んでいます。
見えない行間を探す作業です。(^^)
@@maomao96363
茂木先生
本当に、
記紀を作ったわたしたちの祖先は
すごいものを創ったなあ…
と感服することが多いです。
足尾鉱毒事件、並びに、田中正造に、関心を持って頂き、ありがとうございます。足尾や谷中村の人々、田中正造の生き様を、版画を通して生々しく訴えたのが、栃木県小山市出身の小口一郎という版画家です。小口一郎は、栃木に帰りたいと望む北海道佐呂間町に強制移住を強いられた谷中村出身の農民たちの願いを叶えてあげたいと、帰郷嘆願書と共に、栃木県知事に、働きかけました。小口一郎の帰郷運動のもと、帰郷が果たされたのは、1972年です。
この方ですね。
www.art-it.asia/partners/museum/tochigipref/232204/
@@maomao96363 そうです。多くの方々に、小口一郎の全作品を、見て頂きたい。
茂木先生いつも興味ある配信ありがとうございます。
私の母は昭和八年、下駄屋の父と母の間に栃木県河内郡古里村で生まれました。
その後、小樽に渡り夕張へと移住し私の父と結婚し私が生まれました。
「栃木から北海道へ」というのが当時の方達の憧れ的な考え方だったんでしょうかね。
たたら一族と言うことは、
元は出雲、やっぱり縄文人。。*
そして先生の選曲がいつも素敵です✨
ドンドンヒャララー ドンヒャララ 田舎のお祭りが懐かしいです。
その土地に隠れている様々な歴史というか物語がありますね。一度は戦や鉱害で荒廃しても、今は鎮守の森や野鳥の住まう姿に再生している😊
栃木の乃木神社にお参りしたばかり!と思ったらノギ違いでしたが、大将の乃木さんも源氏だったことを思うとやはりどこかで繋がっているかもしれないと勝手に思い直しました。
毎度我が国をより好きになる配信をありがとうございます😊
10:50あたりの映像とても神秘的ですね😊
11:04 綺麗ですね・・・神々しいというか
有難う御座います。沈められてしまった谷中村と田中正造の話は有名ですよね。
渡良瀬川でつい歌を思い出してこんな素敵な景色なんですね。
色々な感情がこの景色を残して下さったとも言えるのですね。
乃木神社💕応神天皇の皇子様のお話はとても興味深く😍茂木先生とご縁がありそうなタタラ族に、盛りだくさんの猫ちゃん*\(^o^)/*
とっても幸せな気持ちなりました💕
ありがとうございます😊
【リベラルの正体】を読み終えたばかりなので、争いを避ける猫ちゃんは、グローバリストより賢い‼️と唸ってしまいました😺
渡瀬貯水池は、高校のマラソン大会会場でしたので💦封印列車に詰め込まれ😰強制移動の末‼️有無を言う術もなく、延々と長距離走を強制される(((;゚Д゚))) ガクブル
恐ろしい全体主義の思い出が色濃く残る場所でしたが(笑)
茂木先生の動画を拝見して、改めて歴史を学びに行こう‼️と強く心に誓いました💪
動画やご著書を通じて、内容が濃い、深い学びを与えていただける事、いつも心から感謝しております🙇♂️*\(^o^)/*
猫から学ぶこと、たくさんありますね。
大事に大事に伝え続けてきて、今があるんですね。
渡良瀬遊水地のご紹介まで💕ありがとうございます。見られて嬉しい☺️何というか..大人も社会科見学みたいですね。
今回の動画とは関係ありませんが掛谷英紀先生が茂木先生の動画を聴きながら寝るのが日課だとニャンコ先生と柳ケ瀬議員との対談の中で仰っていました。
やっぱり良いものは良いのですね。
光栄です。
谷中村から移住された場所が、北海道の佐呂間町で、移住した人たちが帰りたいと何度も栃木県に陳情していた。
原野を切り開いても気温が低くて米作は出来ず、冬は大雪、鉱毒被害を受けた被害者のはずなのにと思うと、やるせないですね。
神社の敷地が広いですね~。子供の遊び場、動物達の住処。古河の次の駅で、野木と駅名案内があり、変な駅名だなーと思ったことがありましたが、そんな由緒のある地名、失礼しました。😅
渡良瀬遊水池の展望台、素晴らしい見晴らし、行きます!松本清張の神々の乱心を読んで、一度行ってみたいと思っていたので、事前情報をありがとうございます。
神社の横にあったホフマン館って一見どこか中国風な建造物に見えて、気になって調べたらドイツのホフマンって技師が考案したスタイルの窯だそうです。
明治初期に来日したイギリス人トーマス・ウォートルスっていう建築家(お雇い外国人)の指導で建てられたものらしく、頑強な造りで130年以上経った今もほぼ原型のままのよう。すごいね!
赤レンガの量産で明治日本の近代化にすごく貢献した窯らしく、建造物としての価値も高くて1979年には国の重要文化財指定に、2007年には近代化産業遺産群の一つにも選ばれた建造物らしいです。
茂木先生こんにちは☀️
動画撮影お疲れ様でした。
猫を愛でる先生のお姿にほっこり致しました😊
菟道という漢字を見た時、京都の宇治と関係があるのかなと思ったら、やっぱりそうなんですね。宇治にはよく行きますし、宇治神社にもお参りしてましたが、宇治神社の御祭神の菟道稚郎子が仁徳天皇の弟君だったとは知りませんでした。勉強になりました。6月に宇治に行く用事があるので、宇治神社へお参りしに行こうと思います。
ようこそ!我が故郷へ!😅
50年以上前に小学生の頃3年間だけ野木に住んでいましたが、遊水地があることも野木神社の事も今日知りました。こんな所があったなんて話に聞いたことがなかったです。現在北米在住ですが、生きているうちにまた野木に行けるかな?
野木神社の周辺でもタタラが営まれていたというお話は初めて知りました。
タタラは湖沼の水辺で行われると聞きます。
渡良瀬川と利根川に挟まれ、これが合流する地域には沼が多く、野木神社から少し西に目を向けるとそのものズバリ「多々良(タタラ)沼」という沼があり、たいへん古い時代にはタタラが営まれていたようです。
野木神社が鎮まる場所は渡良瀬川と利根川(利根川東遷事業以前においては厳密には利根川ではありませんが)の合流地点付近であり、地形を考えるとタタラが営まれたのも道理です。
神社=古代からの重要地点と考えた場合、地形にその土地や神社の歴史を重ねつつ散策するのも興味深い体験になりますね。
ところで、1つ前に投稿された雀宮神社の動画が見られなくなっており残念です……。復活すると良いのですが。
雀さん、復活しました。
th-cam.com/video/bJTAgK_lBmA/w-d-xo.html
@@maomao96363 ありがとうございます!!
菟道稚郎子をお祀りされている!希少ですね。感動です。野木神社、訪ねてみます!
強制退去させられた谷中村、善入寺島の運命を思い出しました。
先生の足跡を追うように善入寺島を訪ねてまいりましたが、一面美しい畑のとても平和な光景に圧倒されました。
岩の鼻から眺める雄大な吉野川や中央構造線の真っ直ぐな地形も感動ものでした。
先生の動画を見てると、我々の歴史って地球の手のひらの上で展開されているんだなと感じます。
とても楽しいです😀
渡良瀬遊水地から見える連山にビックリしました。浅間山まで見えるとは!
移住先が北海道…胸が痛みました。
北海道在住です。どこに入植したのか気になり調べでみましたらサロマ湖の南、佐呂間町に記念碑があるとのこと。当時のご苦労を思うと言葉がありません。入植のころのことを小説にしている方がいて読みましたがアイヌの方とは協力していたと書いてあります。
有難うございます。後半の谷中村→川俣事件の押出(デモ)した農民の郷、
渡良瀬遊水地の歴史的意味が理解できました!
渡瀬川は戦後の台風で堤防が決壊して氾濫した水が東京の小岩付近まで来て洪水に追いかけられて逃げているラジオ中継はなんだったのか?あの惨状はどうなったのか?記憶があります。静かな遊水地になって良かったですね。戦後の台風が次々に来た事を思い出します。97歳の老婆
貴重な証言、ありがとうございます😊
@@maomao96363
私の記憶を聞いて下さり有難うございます。終戦後生きていくのに大変な時毎年女名前の台風が来て洪水に大変だった思いでした。あの渡瀬川の堤防が800米 切れて関東平野が水の中にで人々が逃げ惑う中継をラジオから聞いて無事に助かればと祈ったのです。戦前より戦後がいろいろあって記憶とマスコミ界の話しが変わったので当時の記憶を正しくと思っています。老婆👵
今回の動画BGⅯ(猫ちゃん喧嘩仲裁カラス声入り(笑)ホフマン館でダスティンホフマンが浮かんでしまう自分が悲しい 日本は何処の神社も綺麗に整備されていて素晴らしいですね
赤城さんじゃなく赤城やまです。
こんな立派なお賽銭箱は初めて見る、やはり?さすが?銅製?
古河市のお祭りのときは、この神社から、🔥をもらうとか🤔‼️
恋の季節ですな
菟道稚郎子、あまり喜べない印象の名ですね。
高貴な家柄ゆえ味わう苦悩があったのではないでしょうか。
一瞬、乃木将軍の神社と勘違いしてしまいました。
真相はともあれ、菟道稚郎子、😊乃木希典もまた道理を尽くした、
いにしえの人の死生観を感じます。
梟の木彫りが可愛いですね、本当の梟に会いたいけど、夜行性ですからね😅仁徳天皇の弟さんですか😳本当かどうかわかりませんが、悲しい結末の死ですね、でも、仁徳天皇が弟さんのために神社を建てて仲良し兄弟ですね、大きな欅神社が建つ前からある木凄いですね👍👍
宇治神社と宇治上神社、宇治墓に参拝したことがあるので、なぜ栃木の地に菟道稚郎子を祀る神社があるんだろって思いました。
宇治墓があるのに、奈良別命が、遺骨を態々この地にまで持ってきた理由が知りたいですね。
本買ってしまった。
群馬県館林市の多々良沼公園とたたら製鉄はやはり関係あるのでしょうか。
どういう訳か湧水池と石🪨の文明ってつながっている様な気がする🤔🤔🤔‼️誰でも神社には目がいきがちですけどね😳😳😳‼️🥸
いつかで良いのですが日本の国がまだまだ水位が高い時代の解説と巨石群との関係とか?ぜひやってほしいです。🤔🤔🤔🤔‼️🥸
本当に神社って美しい✨里にあるのに山の空気感があるのですよね~先生、神道を一元論的に捉えて良いのですかね。アメノミナカヌシ様から分け御霊をいただいて全ての宇宙、森羅万象と繋がっている命に溜まる罪穢れを神道ではずぅーと神社の儀礼や祝詞の湊上によって祓って来たと思ってます。先生も仰っていますが全ての命は繋がっている。でも本居先生はヒノカグツチの神様を悪い神様って位置付けていると古事記の勉強会で習ったのですがコレって二元論的に捉えているのですよ。賀茂真淵先生は良い神様と捉えているので一つのエネルギー一元論ですよね~私のように神道をキチンと勉強していない者にしてみたら、じゃあ二元論だったらおうちで祓え給へ清め給へと唱えて魂の内なる宇宙の命と繋がろうとしていたのは何だったのだろうと。モヤモヤします~
ケガレ思想は途中から入ってきた、というのが私の推察です。
@@maomao96363 先生
ありがとうございます。これは思想と言うより信仰の問題ですよね。本居先生と同じ目線で惟神の道を感じてみたかっただけなの。お時間取らせました🙇♀️茂木先生の古事記、楽しみにお待ちしております。その時は沢山質問しま~す✨
宮司さんの伝承ですねw
日本の歴史と神様のお名前や、それにまつわる関係など、どのように覚えられますか?茂木先生の本にもありますか?今はネットで調べられるでしゃうが、やはり本があったら見直しもできますしね。
教えてください。よろしくお願いします。
好きな神様、知りたい神様をまず特定して、関連情報をネットで調べたり、お祭りする神社を訪れてみるのがいいですよ。
私はニギハヤヒが気になって、神社にハマりました。
@@maomao96363
茂木先生、ありがとうございます
Amazonで、先生の本、1冊買いました
私が子供の頃は、お祭りがありました
@@maomao96363
茂木先生、ありがとうございます
神社に足を運んでみます
天皇陛下に直訴されたんですか…
それでも銅は自然の物。今の厄災は桁違いだ。
千年欅が日本を見続けていると思うと、恥ずかしい。ニャンコに国を譲りたい😢
福岡在住の福永晋三氏が、「真実の仁徳天皇 」と言う題の本を出していて、万葉集を解読すると、実は、菟道稚郎子が仁徳天皇(功績)であると証明?😂
時々柏手を上下に打って見えますが、意味を教えて下さい。
?
左手を下にして右手を上から叩いてる様に見える。