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今回の教訓の「人を信用しない」は、過度に信用すると思いがけないところで、失敗してしまうので、信用しつつ相手との距離を一定間隔とっておくことが、重要だと認識しました。また、会津藩と松平容保については、興味があります。伊東先生の腹案は、すごく興味あります。人生は、選択の連続なのでいつも参考にしています。
よく言って下さったと思います。伊東先生は会津人の本音を語って下さっていると思います。こんなに素晴らしい解析をなさる歴史家を初めてみました。
へぇー
子供の頃、大晦日・正月にかけて放映された大型時代劇ではじめて戊辰戦争を知りました。今でもたまに思い出したように観直してはボロボロ泣いてしまいます。
日テレ年末時代劇ですね。里見浩太朗主演、堀内孝雄主題歌でした。詞にもある通り生真面目過ぎた会津の悲劇ですね。
白虎隊生き残りの人の手記にとても興味があります。
お疲れ様で、ございます😊大変好きな武士道です😌💓
本編をとても楽しみにしています!!!❤❤❤
実社会でもあたら真面目で仕事が出来る人間には、人の何倍もの仕事を押し付けられたり、責任のある仕事をさせられたりとシワ寄せが来る。但し、会社が上向けばそう言う人間が出世をして行く、結局のところ容保も落ち目な会社(幕府)に居た事が運の尽きだった。
この番組を毎週面白く見させてもらってます。最後の教訓のコーナーでは今後ドラマや時代劇する時はその役をする俳優さんや女優さんは見ておいた方がいいと思います。勉強になります。
小さい頃学校のイベントで鶴ヶ城行って白虎隊のこと聞いたり自決したところ見に行ったりしましたが、意味と動機がまったく理解できずに、木刀だけお土産に買ってきたことがありました。その頃は敬意も哀悼もなんにも感じられなかったです。でもいろいろと歴史を勉強し少年時代の判断力について考えると、大人の事情の難しさ、これは一度失敗にして出直そう、と判断できるかどうか、が、無垢な少年たちに甚大な被害を与えてしまう、という、影響力の恐ろしさとして捉えられるようになりました。初期教育の大切さも。現在の会津と長州の本格的な交流が、ようやく始まった、などとと、今の時代(昭和の後半~)にニュースで聞くことがあるくらい、そのときのことは大きな傷跡として、いまも残っています。そんな感じでいろいろと思い出がある白虎隊、本編、楽しみにしています。
会津人の初期教育が劣っていたかの様に聞こえます。違います。城に負け帰って辱めをうけるより、此処で腹を切って誇り高く決着をつけるという武士道ならではの行動です。彼らの自決を誤りのように解釈するのは非常に失礼です。
@@悟りびと さま、そのように解釈されて心外でしたので、もうすこし補足させてください。会津藩の初等教育が劣っていた、というふうには全く思っていませんし、書いてもいません。時代や環境に応じたやり方は、太古の昔から現在に至るまでさまざまあると思いますので。大人の教育によって子どもたちが染まってしまう、ということに、恐ろしさを感じている、と書いています。子どもの頃のイベントで鶴ヶ城に行く、と書いていることで、わたしが比較的近いところに住んでいたことは分かっていただけると思います。そんな環境で、江戸時代の長州藩、薩摩藩のみなさんと、この近代(昭和の後半)になってようやくいろいろと交流することが出来るようになった、と地域の大きなニュースになるくらい、この戦争と出来事は時代を超えて衝撃的なものだったんです。なんで負けて帰ることが辱めになるのか?なんで負けて切腹するのが潔いのか?武士道には敗者は必要ないんだね?負けても再起すればいいじゃない?と昭和の子どもの頃のわたしは思いました。なので集団自決のことはさっぱり理解できませんでした。子どもの頃の教育の賜物だと思います。ここは、中世と現代の価値観の違いだと思います。翻って、潔さ、という点では、日本では特に武士道にならうところ多いことは知っていますが、負けたら切腹、とだれも習わない(&従わない&実施しない)ところ、これも価値観の違いだと思います。そして、再起することの大切さは、会津の人も日本の人も、いまの人ならだれでも知っています。負けて再起することが潔くない、負けることは辱めを受けること、とは、ほとんどの人が思いません。現代の武士道、いまの価値観ですから。価値観は教育と経験で構築されていきます。ですので、中世だったら当たり前に行われたことが、現代では、昔は大変だったんだなあ、と大人になって分かりますが、周りの子どもに、中世のような教育を施すことは、決してしないと思います。価値観が異なるのでふさわしくありませんから。そして最後に、突然、失礼だ、と言われてびっくりしてしまいましたが、私自身は、見ず知らずの人に、自らの解釈の違いによって、他者を失礼者呼ばわりするような教育も、決してしないと思います。それこそ、武士道を語るにふさわしくない、現代の武士道に反すると思いますので。長文失礼しました。
@@クラーケンたか なにのことかはよくわかりませんが、そうみたいですね。よく文章が長いと注意されます。
家光の兄弟・忠長の失敗も知りたいと思った。
あぁ白虎隊。橋幸夫の歌だったかな?詩吟が良かった。三橋美智也の武田節の詩吟も好きでした。人は石垣、人は城。
会津藩、水戸藩、尾張藩、紀州藩。。。それぞれ立ち位置が違うの。おもしろい。
白虎隊の悲劇というより、先に京都守護職なんてものを引き受けてしまったところからこの藩の命運は決まってしまったのでは?仮に江戸家老あたりが超有能で、幕府からの要請をあの手この手でのらりくらりかわしてれば、別の道が開けたかもしれない あとは引き受ける代償として、大幅に加増「越後の天領から10万石+新潟港+幕府の軍艦一隻乗組員ごとレンタルとか 日本海まわりで京都が近い 」
ご褒美に南会津の天領も任されて、北海道にも領土貰って実質的な石高は50万石近くあったようですがこき使われてお金には困ってたようです。
温故知新。先人から学ぶことは多い。いまだから。わかることもある。
会津松平系ではなく水戸徳川系から入った養子だからこそ会津藩家訓に将軍家への忠節を疎かにしたら我が子孫に非らず。面々従うべからずなんて残されたらまだ若く生真面目な容保は藩主であろうとしてがんじがらめになりますよね。どうせ子孫じゃないからなんて開き直れる性格と立場ならまた違ったかもしれませんね。
重臣はみんな、京都守護職受けるのは「火中の栗を拾う」ようなものだからと反対したそうです。
尺の関係だと思いますが、保科公の徳川将軍家に対する恭順は、家光公との異母兄弟間の愛に他なりません。ご興味のある方は調べてみてください
保科正之は幼少時にお江に命狙われてたそうで。
自決したのは20人というコメントを見たので調べたところ、飯沼貞吉の証言では一緒に自刃したのが本人含め17人で、それまでの道中で3人亡くなっていたので計19人が葬られたそうです。なので世間一般的には20人とされているという事のようですね。
京都守護職の大命が下った時の将軍は慶喜ではないですよね伊藤先生は慶喜が頼んだとおっしゃってますがまだ将軍になる前の慶喜に頼まれたということなのでしょうか?
ウィキペディアを見ると「徳川慶喜、松平春嶽から再三の就任要請云々」とありますので、将軍就任前に要請があったのではないでしょうか?
@@nos3239 ということは慶喜が将軍後見職の時ということですね
260年の泰平の世の中の代償を背負わされたような悲劇だね。
京都守護職から会津にバクチを引いた生真面目な人だったと思います、大阪の陣で再起を断られた徳川慶喜とは決別。やがで大政奉還となる。会津は朝敵となる。猪苗代から会津に攻めてくる。仙台や上杉藩ではなく、六藩同盟から会津で最後を向かえるしかなかった。米沢の援軍もなく。白虎隊を出陣、坂本龍馬の暗殺を指示した中の人です🛳️⚔️ 墓も行きましたが、会津若松に眠っております。
ならぬことはならぬものです
白虎隊の話にヒトラーとムッソリーニが感動して、モニュメントを寄贈してくれた。
それは残念ながら嘘ですよ。ある日本人がムッソリーニと交流があって冗談で「ムッソリーニも白虎隊の話に感激して会津若松に石碑を送りたいと言ってたぞ」なんてことを言ったらそれがたちまち会津若松中に広まる。市長の耳にも届き、ムッソリーニを待てど待てど全くこない。イタリアからも苦情がくる。日本がイタリア側に頼んで実現したものです。当時イタリアとドイツは日本と同盟でしたからね。イタリア側も仕方なく引き受けたのでしょう。イタリアが送るならと、ドイツも石碑を送っています。
@@かわむら-i8m 結果はおんなじでしょ?
秀忠の隠し子の保科正之が幕府や主君を裏切らないように教訓した。会津に帰った容保は家督を譲っていた。天皇から会津幕府を開く勅書を頂いていた。などの話しもあるようですので、どのように描かれるか楽しみです。
当時会津の人の間では「今に会津が江戸になる♪」って言われてたのはそんな密約があったからでしたか、知りませんでした。
慶喜は何で東北の会津じゃなくて京都に近い桑名とかに守護職依頼しなかったんだろう?
松平容保の祖父は、水戸徳川家の人間でした。慶喜からしたらガチの身内なんです。だから信頼感が段違いだったのでは
@@和やん9639-s2b桑名の松平定敬も父が松平義建で容保の実弟なのだから血筋としては同じガチの身内では?
慶喜はとても利口な人なので、守護職を引き受けてくれるのはこの人しかいない(桑名なんてどうせ引き受けない)と分かっていたんだと思いますよ。
@@nktomm421石高低いから大した兵力用意できない、桑名の方が官位が低いから抑えの守護職としてはある程度官位の高い方がいいじゃあ会津に、となったからかな?
孝明天皇は京都守護職は薩摩を要望してましたけど、慶喜がそれを拒びました。いろんな藩に依頼してもどこも反対、会津藩にももちろん依頼はきたけど会津藩も何度も断っています。ただ最終的に松平春嶽が会津藩の家訓を持ち出して会津藩に京都守護職を引き受けるように強く迫り会津藩も断れずに引き受けました。要するに京都守護職ってそれだけ自分から進んでやりたいという人がいないような仕事だったわけです。孝明天皇の要望通り、薩摩藩に依頼してたとしても薩摩藩は断っていた可能性はあります。
松平定信と同質の人ですね。時代が違えば。
今でも私達会津人は戊辰戦争がなければ政治に関わり今の日本よりは素晴らしい日本になったとみんな言います
会津松平家の家訓に政治は利害をもって道理を曲げてはならないとありますからね。今の政治家に聞かせたいです。
いつもお二人の優しい語り口に癒されています。白虎隊は大人たちに祭り上げられた可哀想な少年達だと思います。今も反政府軍は少年兵を使ってます。時代が変わっても大人が考える事は同じですね。番組を楽しみにしています。
会津の容保、桑名の定敬と共に養子であったことは幕末の不運でしようね。容保と家老西郷頼母の確執は幕府大事かお家大事があまり此れについて語られない。幕末には各藩において直系血族は、ほぼいない。この事が幕末の動きに影響しているのは間違いない。
水戸藩が大日本史で幕末に地獄を見たの似たようなモンでしょうかね。とはいえこういうのは保科正之や水戸光國が悪いんじゃないんですよ。時代に合わせて変化(進歩)しないとダメ。時流に抗ってまで変化(進歩)出来なかった理由は「将軍家に近しいまたは負い目があった」などでしょうか?結城秀康の流れを組む福井藩なんかは白眉ですもんね。「幕府?もともと貰うもん貰っただけだし貸しはあっても借りはないよね?食いっぱぐれないようにだけは気を付けようや。」みたいなメンタルだったしね。
教科書的で見張るとこないよね
松平容保はトップに立っては いけない方ですね
藩祖・保科正之の遺訓を、かたくなまでに、守り通した。あまりにも、悲しい。
そうせい侯を少しは見習うべきだな。
ドラマは會津藩可哀想な感じになってますが會津藩自体重い年貢と横柄な士族で住民は薩摩藩歓迎ムードだった様ですが。ドラマは美化しすぎ。
日本人はいつの世も、会津士魂を忘れてはならないと思います。
そもそも会津の悲劇は当時の世界情勢に疎い意思決定の硬直化の結果ではないか。海へのルートや海外との接点が希薄だったことが当時としては時代錯誤になっていたように見える。昔の維新前の会津には立派な人材が多かったが、今の会津若松は周辺地域を身下し、若松以外は会津を名乗るなと言うくらいの井の中の蛙。美化された歴史遺産で後ろ向きに飯を食っている現代の会津の村社会と維新以前の会津は同じに考えてはいけない。
福島の人は二本松少年隊をよく語っています!
二本松少年隊を語るのは二本松一帯に縁がある人かと思います。二本松少年隊についてももちろん承知していますが、福島県内全域での知名度においては白虎隊の方がやはり高いように思います。(批判ではなく、誤解が無いようレスしました)
市内には何故か鹿児島県人会があり人数も結構いますが私の店では薩摩は悪くない長州がすべて悪いとはっきり明言します((T_T))薩摩はテロリストの中心なのにね!江戸を焼き払うって宣言したのも薩摩だしね
保科正之さんは徳川家の人だしね。徳川家に忠誠心貫いた藩だし。亡くなった人達は安らかに鎮魂させて行かないといけない。
武術❗を学んでも一人一人の心を?
本動画の小説家のお話についてご質問・コメントしたい。二本松少年隊とは異なり、白虎隊は必ずしも少年兵ではない。16~17歳と言うのは元服を済ませる年齢であり、実際に元服を済ませた藩士もいる。白虎隊の自決は17名との解説があるが、白虎隊士中二番隊の20人が自刃、19人が亡くなったが1人が生き残った。会津が挙国一致というのも間違い。金がないのに戦争ばかりしたがる松平容保による重税に苦しむ領民は新政府軍に味方したし、ヤーヤー一揆と言われる大規模な領民の反乱がおこったし、長州や庄内藩のような大規模な庶民の軍隊は編成できなかった。慶喜から舐められていたと言うコメントは根拠不明。勇ましいことばかり言う、会津桑名藩主とは異なり、鳥羽伏見で戦端を開くことを慶喜は望んでいなかったし、敗戦後も、一度も謝罪することなく、上野や宇都宮に兵を差し向けるなど、トコトン慶喜の恭順の意向に逆らった。その意味では藩祖、徳川を守るべしという保科正之の遺訓を破った。話は前後するが、保科正之は天皇制を絶賛する山鹿素行を会津から追放したが、容保は藩祖が嫌った国学的な動き、即ち、孝明天皇に取り込まれてしまい、幕府のために孝明天皇の考え方を改めようともしなかった。遺訓を無視された藩祖も「わが子孫に非ず」と、さぞやお怒りであろう。また会津藩が「武備恭順」した?」東北諸藩を巻き込むために非道なことを繰り返し、周辺諸国を略奪し、プロシアに北海道を売ろうとし、そして、世良の手紙を捏造して仙台藩を引っ張り出すと、先に、会津領でもない、白河城を攻め、東北戦争の火ぶたを切った会津は全く恭順していません。徳川慶喜が江戸城を守ろうとした??これも根拠がわかりません。
落城したと勘違いして切腹とか、いくらなんでも早とちりし過ぎだろwなんでちゃんと確認しなかった。
戦って自分も傷を負ったり、目の前で人が打たれ切られというのを見たり、そんな精神状態、環境下で冷静に判断とか無理だと思います。忠誠心から心持ちから今の時代の私達とは違うので、今の私達のものさしで言うのはどうかと😮
戊辰戦争の勃発は慶喜が、薩摩に我慢できずに興奮した会津藩、桑名藩、旧幕府軍を抑えられなくなったことで起こった戦争です。慶喜としては朝命に従い軽装で京に出向くつもりでした。当時の旧幕府側の軍では長州や土佐の軍だけならなんとかなっても薩摩軍をも相手にできるほど人材はいなかったからです。幕府は大政奉還をしていますし、大政奉還の前から幕府の権威が失われつつあったので徳川家には昔ほど大きな力はなかった。興奮する会津桑名藩や、旧幕府軍に何を言っても無駄だろうから好きにしなさいと流された感じです。薩摩との戦を決めて討薩表を作成して滝川がそれを持って上京。会津、新選組、桑名、旧幕府の軍が進軍。鳥羽の戦の敗退後慶喜が恭順の形をとって、鳥羽の戦についての謝罪、家名を残してほしい事、家臣を許してほしい事を伝えていますが、逆に会津藩は孝明天皇の書簡の写しを添えて「我々に責任はない、先に攻撃をされたからそれに応じたまで」という主張。会津藩と一緒に強硬論を唱えた桑名藩は恭順、旧幕府に味方した藩も恭順。会津藩だけ謝罪はしませんでした。新政府軍側としては帰国を命じられていた会津藩が京に武装してやってきてるので許せないわけで、しかも会津藩は謝罪なし。動画では歴史小説家の伊東潤先生が恭順しても許してもらえるかわからなかったとおっしゃってますが、そもそも会津藩は許してもらおうという姿勢ではなかったわけです。戊辰戦争研究家の山川さんも会津藩の文書には一切「謝罪、恭順という文字はなかった」と言っています。また会津藩が恭順してたのは天皇に対してであって、新政府軍については認めていませんでした。むしろ敵対心をもっていましたし、不審な行動もとっていました。奥羽越列藩同盟という軍事同盟も新政府軍の排除(特に薩摩の排除)を目的としたものです。ちなみに会津藩の中にも降伏派はいました。鳥羽の戦の後、会津藩では降伏派と抗戦派の2つに分かれましたが、降伏派は戦争を続けようと画策する会津藩の抗戦派に藩主の命令だと嘘を言われて降伏派の多くが切腹しています。結果、会津藩は新政府軍と戦争を望む抗戦派が殆どを占める事になりました。会津藩は軍資金確保のために幕府から譲渡された蝦夷地を売却しようとしていました。ドイツと会津藩の交渉のやりとりの証拠が2013年に見つかっています。幕府から譲渡された蝦夷地を売却しようとするところをみると幕府に対しての忠誠というものに疑問を感じます。それに孝明天皇は外国嫌いだったので生きていたら会津藩を許さなかったでしょう。この時点では既に容保は藩主を辞めてます。上を見てもわかるように会津藩士みんながみんな真面目というわけではなかったと思います。容保が真面目だからそれが会津藩=真面目にみえてただけではないでしょうか?
そしてね、今現在を見れば?
白虎隊より主の容保の失敗を取り上げるべきでは?藩祖の正之様の残した家訓に縛られ、慶喜降伏後も無謀な戦争を続けてしまったんだから。
ホントだよ!
7:13全部見ました?有名な白虎隊の方が視聴者導入としては最適だとの判断だと思いますよ。
@@なおぽん-j4x同じ職場に松平容保嫌いの人がいてけちょんけちょんに貶してましたね。
容保よりも容保辞任後の会津藩が暴走してたのだと思います。会津藩の降伏派は会津藩の抗戦派に追放されたり藩主の命だと嘘を言われて切腹させられました。それで会津藩は抗戦派が優位になり力をもったので。徳川家よりも会津藩のプライドから薩摩長州の新政府軍に従うくらいなら戦って死んだほうがマシだと思っていたのかもしれませんね。2013年に会津藩は幕府から防衛管理のためにと譲られた蝦夷地の一部を担保にドイツから資金を得ようとしてた証拠が見つかったので、幕府や孝明天皇に対して忠誠を誓ってたならそこまではやらないと思います。容保が藩主のままだったらやってなかったと思いますね。
頭(上が狂えば 尾っぽも狂う!) 頭の責任は今も無きにされる今生の政が表されている
まあ後からだったら何とでも言えるよねしかもこの歴史作家だって、当たり前だけど当事者じゃないし、一見説得力ありそうだけど自説を語ってるだけ
今回の教訓の「人を信用しない」は、過度に信用すると思いがけないところで、失敗してしまうので、信用しつつ相手との距離を一定間隔とっておくことが、重要だと認識しました。
また、会津藩と松平容保については、興味があります。
伊東先生の腹案は、すごく興味あります。
人生は、選択の連続なのでいつも参考にしています。
よく言って下さったと思います。伊東先生は会津人の本音を語って下さっていると思います。こんなに素晴らしい解析をなさる歴史家を初めてみました。
へぇー
子供の頃、大晦日・正月にかけて放映された大型時代劇ではじめて戊辰戦争を知りました。今でもたまに思い出したように観直してはボロボロ泣いてしまいます。
日テレ年末時代劇ですね。里見浩太朗主演、堀内孝雄主題歌でした。詞にもある通り生真面目過ぎた会津の悲劇ですね。
白虎隊生き残りの人の手記にとても興味があります。
お疲れ様で、ございます😊大変好きな武士道です😌💓
本編をとても楽しみにしています!!!❤❤❤
実社会でもあたら真面目で仕事が出来る人間には、人の何倍もの仕事を押し付けられたり、責任のある仕事をさせられたりとシワ寄せが来る。但し、会社が上向けばそう言う人間が出世をして行く、結局のところ容保も落ち目な会社(幕府)に居た事が運の尽きだった。
この番組を毎週面白く見させてもらってます。最後の教訓のコーナーでは今後ドラマや時代劇する時はその役をする俳優さんや女優さんは見ておいた方がいいと思います。勉強になります。
小さい頃学校のイベントで鶴ヶ城行って白虎隊のこと聞いたり自決したところ見に行ったりしましたが、意味と動機がまったく理解できずに、木刀だけお土産に買ってきたことがありました。その頃は敬意も哀悼もなんにも感じられなかったです。でもいろいろと歴史を勉強し少年時代の判断力について考えると、大人の事情の難しさ、これは一度失敗にして出直そう、と判断できるかどうか、が、無垢な少年たちに甚大な被害を与えてしまう、という、影響力の恐ろしさとして捉えられるようになりました。初期教育の大切さも。
現在の会津と長州の本格的な交流が、ようやく始まった、などとと、今の時代(昭和の後半~)にニュースで聞くことがあるくらい、そのときのことは大きな傷跡として、いまも残っています。
そんな感じでいろいろと思い出がある白虎隊、本編、楽しみにしています。
会津人の初期教育が劣っていたかの様に聞こえます。違います。
城に負け帰って辱めをうけるより、此処で腹を切って誇り高く決着をつけるという武士道ならではの行動です。彼らの自決を誤りのように解釈するのは非常に失礼です。
@@悟りびと さま、そのように解釈されて心外でしたので、もうすこし補足させてください。
会津藩の初等教育が劣っていた、というふうには全く思っていませんし、書いてもいません。時代や環境に応じたやり方は、太古の昔から現在に至るまでさまざまあると思いますので。
大人の教育によって子どもたちが染まってしまう、ということに、恐ろしさを感じている、と書いています。
子どもの頃のイベントで鶴ヶ城に行く、と書いていることで、わたしが比較的近いところに住んでいたことは分かっていただけると思います。そんな環境で、江戸時代の長州藩、薩摩藩のみなさんと、この近代(昭和の後半)になってようやくいろいろと交流することが出来るようになった、と地域の大きなニュースになるくらい、この戦争と出来事は時代を超えて衝撃的なものだったんです。
なんで負けて帰ることが辱めになるのか?
なんで負けて切腹するのが潔いのか?
武士道には敗者は必要ないんだね?
負けても再起すればいいじゃない?
と昭和の子どもの頃のわたしは思いました。なので集団自決のことはさっぱり理解できませんでした。
子どもの頃の教育の賜物だと思います。
ここは、中世と現代の価値観の違いだと思います。
翻って、潔さ、という点では、日本では特に武士道にならうところ多いことは知っていますが、負けたら切腹、とだれも習わない(&従わない&実施しない)ところ、これも価値観の違いだと思います。そして、再起することの大切さは、会津の人も日本の人も、いまの人ならだれでも知っています。負けて再起することが潔くない、負けることは辱めを受けること、とは、ほとんどの人が思いません。現代の武士道、いまの価値観ですから。
価値観は教育と経験で構築されていきます。ですので、中世だったら当たり前に行われたことが、現代では、昔は大変だったんだなあ、と大人になって分かりますが、周りの子どもに、中世のような教育を施すことは、決してしないと思います。価値観が異なるのでふさわしくありませんから。
そして最後に、突然、失礼だ、と言われてびっくりしてしまいましたが、私自身は、見ず知らずの人に、自らの解釈の違いによって、他者を失礼者呼ばわりするような教育も、決してしないと思います。それこそ、武士道を語るにふさわしくない、現代の武士道に反すると思いますので。長文失礼しました。
@@クラーケンたか なにのことかはよくわかりませんが、そうみたいですね。よく文章が長いと注意されます。
家光の兄弟・忠長の失敗も知りたいと思った。
あぁ白虎隊。橋幸夫の歌だったかな?詩吟が良かった。三橋美智也の武田節の詩吟も好きでした。人は石垣、人は城。
会津藩、水戸藩、尾張藩、紀州藩。。。それぞれ立ち位置が違うの。おもしろい。
白虎隊の悲劇というより、先に京都守護職なんてものを引き受けてしまったところからこの藩の命運は決まってしまったのでは?仮に江戸家老あたりが超有能で、幕府からの要請をあの手この手でのらりくらりかわしてれば、別の道が開けたかもしれない あとは引き受ける代償として、大幅に加増「越後の天領から10万石+新潟港+幕府の軍艦一隻乗組員ごとレンタルとか 日本海まわりで京都が近い 」
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北海道にも領土貰って実質的な石高は50万石近くあったようですがこき使われてお金には困ってたようです。
温故知新。先人から学ぶことは多い。
いまだから。わかることもある。
会津松平系ではなく水戸徳川系から入った養子だからこそ
会津藩家訓に将軍家への忠節を疎かにしたら我が子孫に非らず。面々従うべからず
なんて残されたらまだ若く生真面目な容保は藩主であろうとしてがんじがらめになりますよね。
どうせ子孫じゃないからなんて開き直れる性格と立場ならまた違ったかもしれませんね。
重臣はみんな、京都守護職受けるのは「火中の栗を拾う」ようなものだからと反対したそうです。
尺の関係だと思いますが、保科公の徳川将軍家に対する恭順は、家光公との異母兄弟間の愛に他なりません。
ご興味のある方は調べてみてください
保科正之は幼少時にお江に命狙われてたそうで。
自決したのは20人というコメントを見たので調べたところ、飯沼貞吉の証言では一緒に自刃したのが本人含め17人で、それまでの道中で3人亡くなっていたので計19人が葬られたそうです。なので世間一般的には20人とされているという事のようですね。
京都守護職の大命が下った時の将軍は慶喜ではないですよね
伊藤先生は慶喜が頼んだとおっしゃってますがまだ将軍になる前の慶喜に頼まれたということなのでしょうか?
ウィキペディアを見ると「徳川慶喜、松平春嶽から再三の就任要請云々」とありますので、将軍就任前に要請があったのではないでしょうか?
@@nos3239
ということは慶喜が将軍後見職の時ということですね
260年の泰平の世の中の代償を背負わされたような悲劇だね。
京都守護職から会津にバクチを引いた生真面目な人だったと思います、大阪の陣で再起を断られた徳川慶喜とは決別。やがで大政奉還となる。会津は朝敵となる。猪苗代から会津に攻めてくる。
仙台や上杉藩ではなく、六藩同盟から会津で最後を向かえるしかなかった。米沢の援軍もなく。
白虎隊を出陣、坂本龍馬の暗殺を指示した中の人です🛳️⚔️ 墓も行きましたが、会津若松に眠っております。
ならぬことはならぬものです
白虎隊の話にヒトラーとムッソリーニが感動して、
モニュメントを寄贈してくれた。
それは残念ながら嘘ですよ。ある日本人がムッソリーニと交流があって冗談で「ムッソリーニも白虎隊の話に感激して会津若松に石碑を送りたいと言ってたぞ」なんてことを言ったらそれがたちまち会津若松中に広まる。市長の耳にも届き、ムッソリーニを待てど待てど全くこない。
イタリアからも苦情がくる。日本がイタリア側に頼んで実現したものです。
当時イタリアとドイツは日本と同盟でしたからね。イタリア側も仕方なく引き受けたのでしょう。
イタリアが送るならと、ドイツも石碑を送っています。
@@かわむら-i8m
結果はおんなじでしょ?
秀忠の隠し子の保科正之が幕府や主君を裏切らないように教訓した。会津に帰った容保は家督を譲っていた。天皇から
会津幕府を開く勅書を頂いていた。などの話しもあるようですので、どのように描かれるか楽しみです。
当時会津の人の間では「今に会津が江戸になる♪」って言われてたのはそんな密約があったからでしたか、知りませんでした。
慶喜は何で東北の会津じゃなくて京都に近い桑名とかに守護職依頼しなかったんだろう?
松平容保の祖父は、水戸徳川家の人間でした。慶喜からしたらガチの身内なんです。だから信頼感が段違いだったのでは
@@和やん9639-s2b
桑名の松平定敬も父が松平義建で容保の実弟なのだから血筋としては同じガチの身内では?
慶喜はとても利口な人なので、守護職を引き受けてくれるのはこの人しかいない(桑名なんてどうせ引き受けない)と分かっていたんだと思いますよ。
@@nktomm421石高低いから大した兵力用意できない、
桑名の方が官位が低いから抑えの守護職としてはある程度官位の高い方がいい
じゃあ会津に、となったからかな?
孝明天皇は京都守護職は薩摩を要望してましたけど、慶喜がそれを拒びました。
いろんな藩に依頼してもどこも反対、会津藩にももちろん依頼はきたけど会津藩も何度も断っています。
ただ最終的に松平春嶽が会津藩の家訓を持ち出して会津藩に京都守護職を引き受けるように強く迫り
会津藩も断れずに引き受けました。要するに京都守護職ってそれだけ自分から進んでやりたいという
人がいないような仕事だったわけです。孝明天皇の要望通り、薩摩藩に依頼してたとしても薩摩藩は
断っていた可能性はあります。
松平定信と同質の人ですね。時代が違えば。
今でも私達会津人は戊辰戦争がなければ政治に関わり今の日本よりは素晴らしい日本になったとみんな言います
会津松平家の家訓に政治は利害をもって道理を曲げてはならないとありますからね。
今の政治家に聞かせたいです。
いつもお二人の優しい語り口に癒されています。
白虎隊は大人たちに祭り上げられた可哀想な少年達だと思います。今も反政府軍は少年兵を使ってます。
時代が変わっても大人が考える事は同じですね。
番組を楽しみにしています。
会津の容保、桑名の定敬と共に養子であったことは幕末の不運でしようね。容保と家老西郷頼母の確執は幕府大事かお家大事があまり此れについて語られない。幕末には各藩において直系血族は、ほぼいない。この事が幕末の動きに影響しているのは間違いない。
水戸藩が大日本史で幕末に地獄を見たの似たようなモンでしょうかね。
とはいえこういうのは保科正之や水戸光國が悪いんじゃないんですよ。
時代に合わせて変化(進歩)しないとダメ。
時流に抗ってまで変化(進歩)出来なかった理由は「将軍家に近しいまたは負い目があった」などでしょうか?
結城秀康の流れを組む福井藩なんかは白眉ですもんね。
「幕府?もともと貰うもん貰っただけだし貸しはあっても借りはないよね?食いっぱぐれないようにだけは気を付けようや。」みたいなメンタルだったしね。
教科書的で見張るとこないよね
松平容保はトップに立っては いけない方ですね
藩祖・保科正之の遺訓を、かたくなまでに、守り通した。あまりにも、悲しい。
そうせい侯を少しは見習うべきだな。
ドラマは會津藩可哀想な感じになってますが
會津藩自体重い年貢と横柄な士族で住民は薩摩藩歓迎ムードだった様ですが。
ドラマは美化しすぎ。
日本人はいつの世も、会津士魂を忘れてはならないと思います。
そもそも会津の悲劇は当時の世界情勢に疎い意思決定の硬直化の結果ではないか。海へのルートや海外との接点が希薄だったことが当時としては時代錯誤になっていたように見える。昔の維新前の会津には立派な人材が多かったが、今の会津若松は周辺地域を身下し、若松以外は会津を名乗るなと言うくらいの井の中の蛙。美化された歴史遺産で後ろ向きに飯を食っている現代の会津の村社会と維新以前の会津は同じに考えてはいけない。
福島の人は二本松少年隊をよく語っています!
二本松少年隊を語るのは二本松一帯に縁がある人かと思います。二本松少年隊についてももちろん承知していますが、福島県内全域での知名度においては白虎隊の方がやはり高いように思います。
(批判ではなく、誤解が無いようレスしました)
市内には何故か鹿児島県人会があり人数も結構いますが私の店では薩摩は悪くない長州がすべて悪いとはっきり明言します((T_T))薩摩はテロリストの中心なのにね!江戸を焼き払うって宣言したのも薩摩だしね
保科正之さんは徳川家の人だしね。徳川家に忠誠心貫いた藩だし。亡くなった人達は安らかに鎮魂させて行かないといけない。
武術❗を学んでも一人一人の心を?
本動画の小説家のお話についてご質問・コメントしたい。
二本松少年隊とは異なり、白虎隊は必ずしも少年兵ではない。16~17歳と言うのは元服を済ませる年齢であり、実際に元服を済ませた藩士もいる。
白虎隊の自決は17名との解説があるが、白虎隊士中二番隊の20人が自刃、19人が亡くなったが1人が生き残った。
会津が挙国一致というのも間違い。金がないのに戦争ばかりしたがる松平容保による重税に苦しむ領民は新政府軍に味方したし、ヤーヤー一揆と言われる大規模な領民の反乱がおこったし、長州や庄内藩のような大規模な庶民の軍隊は編成できなかった。
慶喜から舐められていたと言うコメントは根拠不明。勇ましいことばかり言う、会津桑名藩主とは異なり、鳥羽伏見で戦端を開くことを慶喜は望んでいなかったし、敗戦後も、一度も謝罪することなく、上野や宇都宮に兵を差し向けるなど、トコトン慶喜の恭順の意向に逆らった。その意味では藩祖、徳川を守るべしという保科正之の遺訓を破った。話は前後するが、保科正之は天皇制を絶賛する山鹿素行を会津から追放したが、容保は藩祖が嫌った国学的な動き、即ち、孝明天皇に取り込まれてしまい、幕府のために孝明天皇の考え方を改めようともしなかった。遺訓を無視された藩祖も「わが子孫に非ず」と、さぞやお怒りであろう。
また会津藩が「武備恭順」した?」東北諸藩を巻き込むために非道なことを繰り返し、周辺諸国を略奪し、プロシアに北海道を売ろうとし、そして、世良の手紙を捏造して仙台藩を引っ張り出すと、先に、会津領でもない、白河城を攻め、東北戦争の火ぶたを切った会津は全く恭順していません。
徳川慶喜が江戸城を守ろうとした??これも根拠がわかりません。
落城したと勘違いして切腹とか、いくらなんでも早とちりし過ぎだろw
なんでちゃんと確認しなかった。
戦って自分も傷を負ったり、目の前で人が打たれ切られというのを見たり、そんな精神状態、環境下で冷静に判断とか無理だと思います。忠誠心から心持ちから今の時代の私達とは違うので、今の私達のものさしで言うのはどうかと😮
戊辰戦争の勃発は慶喜が、薩摩に我慢できずに興奮した会津藩、桑名藩、旧幕府軍を抑えられなくなったことで
起こった戦争です。慶喜としては朝命に従い軽装で京に出向くつもりでした。当時の旧幕府側の軍では長州や土佐の軍だけならなんとか
なっても薩摩軍をも相手にできるほど人材はいなかったからです。幕府は大政奉還をしていますし、大政奉還の前から
幕府の権威が失われつつあったので徳川家には昔ほど大きな力はなかった。
興奮する会津桑名藩や、旧幕府軍に何を言っても無駄だろうから好きにしなさいと流された感じです。
薩摩との戦を決めて討薩表を作成して滝川がそれを持って上京。
会津、新選組、桑名、旧幕府の軍が進軍。
鳥羽の戦の敗退後
慶喜が恭順の形をとって、鳥羽の戦についての謝罪、家名を残してほしい事、家臣を許してほしい事を伝えていますが、
逆に会津藩は孝明天皇の書簡の写しを添えて「我々に責任はない、先に攻撃をされたからそれに応じたまで」
という主張。
会津藩と一緒に強硬論を唱えた桑名藩は恭順、旧幕府に味方した藩も恭順。
会津藩だけ謝罪はしませんでした。
新政府軍側としては帰国を命じられていた会津藩が京に武装してやってきてるので許せない
わけで、しかも会津藩は謝罪なし。
動画では歴史小説家の伊東潤先生が恭順しても許してもらえるかわからなかったと
おっしゃってますが、そもそも会津藩は許してもらおうという姿勢ではなかったわけです。
戊辰戦争研究家の山川さんも会津藩の文書には一切「謝罪、恭順という文字はなかった」と
言っています。
また会津藩が恭順してたのは天皇に対してであって、新政府軍については認めていませんでした。
むしろ敵対心をもっていましたし、不審な行動もとっていました。
奥羽越列藩同盟という軍事同盟も新政府軍の排除(特に薩摩の排除)を目的としたものです。
ちなみに会津藩の中にも降伏派はいました。鳥羽の戦の後、会津藩では降伏派と抗戦派の2つに分かれましたが、
降伏派は戦争を続けようと画策する会津藩の抗戦派に藩主の命令だと嘘を言われて
降伏派の多くが切腹しています。結果、会津藩は新政府軍と戦争を望む抗戦派が殆どを占める事になりました。
会津藩は軍資金確保のために幕府から譲渡された蝦夷地を売却しようとしていました。ドイツと会津藩の交渉のやりとりの証拠が
2013年に見つかっています。
幕府から譲渡された蝦夷地を売却しようとするところをみると幕府に対しての忠誠というものに疑問を感じます。
それに孝明天皇は外国嫌いだったので生きていたら会津藩を許さなかったでしょう。
この時点では既に容保は藩主を辞めてます。
上を見てもわかるように会津藩士みんながみんな真面目というわけではなかったと思います。容保が真面目だからそれが
会津藩=真面目にみえてただけではないでしょうか?
そしてね、今現在を見れば?
白虎隊より主の容保の失敗を取り上げるべきでは?藩祖の正之様の残した家訓に縛られ、慶喜降伏後も無謀な戦争を続けてしまったんだから。
ホントだよ!
7:13
全部見ました?
有名な白虎隊の方が視聴者導入としては最適だとの判断だと思いますよ。
@@なおぽん-j4x
同じ職場に松平容保嫌いの人がいてけちょんけちょんに貶してましたね。
容保よりも容保辞任後の会津藩が暴走してたのだと思います。会津藩の降伏派は会津藩の抗戦派に追放されたり藩主の命だと嘘を言われて切腹させられました。それで会津藩は抗戦派が優位になり力をもったので。徳川家よりも会津藩のプライドから薩摩長州の新政府軍に従うくらいなら戦って死んだほうがマシだと思っていたのかもしれませんね。2013年に会津藩は幕府から防衛管理のためにと譲られた蝦夷地の一部を担保にドイツから資金を得ようとしてた証拠が見つかったので、幕府や孝明天皇に対して忠誠を誓ってたならそこまではやらないと思います。
容保が藩主のままだったらやってなかったと思いますね。
頭(上が狂えば 尾っぽも狂う!)
頭の責任は今も無きにされる
今生の政が表されている
まあ後からだったら何とでも言えるよね
しかもこの歴史作家だって、当たり前だけど当事者じゃないし、一見説得力ありそうだけど自説を語ってるだけ