ホケノ山古墳が証明する日本書紀・神武東征の真実

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  • เผยแพร่เมื่อ 17 ต.ค. 2024

ความคิดเห็น • 13

  • @malkotoisu9730
    @malkotoisu9730 3 หลายเดือนก่อน

    それでどこの土器が作られてたんですか?

    • @sk25209
      @sk25209  3 หลายเดือนก่อน

      搬入土器は東海圏が多いが、ヤマトで製作された外来系の土器には九州地方の特徴もあるらしい。

    • @malkotoisu9730
      @malkotoisu9730 3 หลายเดือนก่อน +1

      @@sk25209 神武東征神話のまんまじゃないですか

  • @佐藤裕太-b1o
    @佐藤裕太-b1o 2 หลายเดือนก่อน +1

    神武天皇は、実在を立証するのは困難とされるが、架空を立証するのは実在を立証する以上に困難とされている。だから、「架空」が確実に立証されない限り、「実在」を前提に歴史を語らなければならない。←これがいわゆる実在論だ。
    ただ今日の日本古代史研究の基本となっている津田左右吉説について、津田は神武天皇の架空を立証したとされているが、これは誤解だ。それは津田左右吉全集第24巻471~472頁に掲載されている津田事件裁判控訴の上申書には「(前略)或る時期に於いて大いに皇威を伸長あそばれた英主、即ち神武天皇の御名によって後に伝えられました御方からの御歴代の天皇の御名はこのやうにして言い伝へられて来た(後略)」として神武天皇以降の実在を肯定している文章だった。

    • @sk25209
      @sk25209  2 หลายเดือนก่อน

      神武東征と言うものの 実際は 第10代崇神天皇の話です。初代神武天皇から第9代開化天皇迄は 九州内で政治が行われ、記紀には神代として記録されていると考えております。

  • @kimioitou
    @kimioitou 3 หลายเดือนก่อน +1

    神武の香久山の埴の葉盤(ヒラデ)は後に焼かれた平らな土器…最初の箸塚(前方後円墳箸墓古墳)は崇神11年西暦340年(好太王碑辛卯崇神62年より)…埴輪のある最初の箸塚佐紀陵山古墳は垂仁32年西暦429年…ホケノ山古墳被葬者も判明…向いに眠る称名二代目ヤマトモモソ姫・諱ミマツ姫(崇神の妹)を自害に追い込んだ恋の相手…。😄記紀原本ホツマツタヱより

    • @sk25209
      @sk25209  3 หลายเดือนก่อน +1

      ご視聴 及び、コメント頂き、有難うございました。世の中、都合の悪い事は 塗り替え抹消されます。歴史も同じですね。

    • @トミヤマサキオ
      @トミヤマサキオ 3 หลายเดือนก่อน +1

      箸墓古墳の頂上部分には吉備の特殊器台が散乱していますので、4世紀では時代は合わないと思いますが。

    • @sk25209
      @sk25209  3 หลายเดือนก่อน

      @@トミヤマサキオ
      円筒埴輪と違いますか?

    • @トミヤマサキオ
      @トミヤマサキオ 3 หลายเดือนก่อน +2

      @@sk25209 いえ、大量に発見された後円墳部の方からは吉備の特殊器台も混じってましたよ。埴輪の方も転化する直前の物で最古型とみるべきものです。吉備型特殊器台が混じっているという事で少なくとも4世紀と見るには矛盾があるのです。
      私は箸墓古墳については三世紀半ばから後半にかけて、最終的に築造には10年はかかる物だと思います。

    • @kimioitou
      @kimioitou 3 หลายเดือนก่อน +1

      例として…日本書紀では原本のヱト"キアヱ"から"ネウト"を大陸の干支"甲子"から"己巳"に当てはめたため大陸の干支と6年差が生じ遣隋使初回600年が607年(太歳癸丑前年12月より数え)第二回にされてしまいました…記紀原本ホツマツタヱで私たちが忘れてしまったヤマトことばを学び直し記紀漢訳改竄捏造の誤りを正して子供たちに本当の歴史を伝えましょう…"師走"の意味もわかりますョ…。😄