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コンクールでビリになった13歳 「私はよく自分のプロフィールが書かれたものを読みますが、これは完全ではありません。なぜなら、どこどこのコンクールで優勝したと、はなやかな経歴だけが羅列されているからです。実は、私は若いときにコンクールでビリになったことがあるんですよ」 それは1969年のワルシャワで、ツィメルマンが初めてステージに立った13歳のときのことだった。ジュニア・コンクールだったが、とても難しい課題曲が組まれていた。当時は、ポーランドの著名なピアニストで現在はショパン国際ピアノ・コンクールの審査委員長なども務めている、アンジェイ・ヤシンスキに師事していた。 「私は33人中、確か32番か33番でした。いや、おそらくビリだったと思います(笑)。そのコンクールの前の2日間はまったく練習するチャンスがなく、当日は手もこわばり、偉大なピアニストたちが審査員席にずらりと並んでいるのを見て、ものすごく緊張してしまいました。ヤシンスキ先生も、もちろん審査員として参加していました。 最初に弾いたのは、J.S.バッハの《パルティータ ロ短調》でした。これは最初のところにトリルがあります。ところが、私は2日間まったく練習していなかったものですから、最初に発したトリルがトマトを足でグシャッと踏みつぶしたような音になってしまったのです。ああ、なんということでしょう。それからトリルはまだまだ続きます。頭のなかは真っ白になってしまい、気持ちだけが焦り、指はいうことをきかず、続くトリルはもう滅茶苦茶になってしまいました」webronza.asahi.com/culture/articles/2019080600007.html?page=1
忘れられない悲劇的なトリル ツィメルマンは、そのときを思い出したように頭を抱え、苦悩の表情を見せた。 「2つ目のトリルも見事に失敗し、結局、私は40回くらい出てくるトリルをすべて失敗してしまったのです。そのときのトリルは、ひとつずつすべて覚えているくらい悲劇的なトリルでした。 トリルというのは、音をふるわすという意味があり、素早く演奏しなければなりません。それがまるでトマトをつぶした音からミミズか何かをグニュっと踏みつけたような、ひどい音になってしまったわけです。もうナーバスの極致でしたね。他の作品でもよい演奏ができるはずもなく、結果として私はビリになったというわけです」 そんなにナーバスになっていたにもかかわらず、審査員たちがヤシンスキに話している声が聞こえたという。 「『この子は、これ以上ピアノを続けていてもどうでしょうかねえ』『やめた方がいいのではないでしょうか』というようなことを、みんながヤシンスキ先生にいっているのです。先生はずっと下を向いておいででした。私の人生で、最悪の瞬間でした。もう早く家に逃げ帰りたい気分でした。それでも最後まで演奏し、会場から飛び出て、家に戻りましたよ」
多分15年以上前の、みなとみらいでのコンサート。アンコールで彼のJ.S.バッハのパルティータ1番を聴いた時は、ホールの天井から光の粒がきらきらと舞い落ちるような感覚だった。それ以来、この曲は私に寄り添ってくれている。
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コンクールでビリになった13歳
「私はよく自分のプロフィールが書かれたものを読みますが、これは完全ではありません。なぜなら、どこどこのコンクールで優勝したと、はなやかな経歴だけが羅列されているからです。実は、私は若いときにコンクールでビリになったことがあるんですよ」
それは1969年のワルシャワで、ツィメルマンが初めてステージに立った13歳のときのことだった。ジュニア・コンクールだったが、とても難しい課題曲が組まれていた。当時は、ポーランドの著名なピアニストで現在はショパン国際ピアノ・コンクールの審査委員長なども務めている、アンジェイ・ヤシンスキに師事していた。
「私は33人中、確か32番か33番でした。いや、おそらくビリだったと思います(笑)。そのコンクールの前の2日間はまったく練習するチャンスがなく、当日は手もこわばり、偉大なピアニストたちが審査員席にずらりと並んでいるのを見て、ものすごく緊張してしまいました。ヤシンスキ先生も、もちろん審査員として参加していました。
最初に弾いたのは、J.S.バッハの《パルティータ ロ短調》でした。これは最初のところにトリルがあります。ところが、私は2日間まったく練習していなかったものですから、最初に発したトリルがトマトを足でグシャッと踏みつぶしたような音になってしまったのです。ああ、なんということでしょう。それからトリルはまだまだ続きます。頭のなかは真っ白になってしまい、気持ちだけが焦り、指はいうことをきかず、続くトリルはもう滅茶苦茶になってしまいました」webronza.asahi.com/culture/articles/2019080600007.html?page=1
忘れられない悲劇的なトリル
ツィメルマンは、そのときを思い出したように頭を抱え、苦悩の表情を見せた。
「2つ目のトリルも見事に失敗し、結局、私は40回くらい出てくるトリルをすべて失敗してしまったのです。そのときのトリルは、ひとつずつすべて覚えているくらい悲劇的なトリルでした。
トリルというのは、音をふるわすという意味があり、素早く演奏しなければなりません。それがまるでトマトをつぶした音からミミズか何かをグニュっと踏みつけたような、ひどい音になってしまったわけです。もうナーバスの極致でしたね。他の作品でもよい演奏ができるはずもなく、結果として私はビリになったというわけです」
そんなにナーバスになっていたにもかかわらず、審査員たちがヤシンスキに話している声が聞こえたという。
「『この子は、これ以上ピアノを続けていてもどうでしょうかねえ』『やめた方がいいのではないでしょうか』というようなことを、みんながヤシンスキ先生にいっているのです。先生はずっと下を向いておいででした。私の人生で、最悪の瞬間でした。もう早く家に逃げ帰りたい気分でした。それでも最後まで演奏し、会場から飛び出て、家に戻りましたよ」
多分15年以上前の、みなとみらいでのコンサート。アンコールで彼のJ.S.バッハのパルティータ1番を聴いた時は、ホールの天井から光の粒がきらきらと舞い落ちるような感覚だった。それ以来、この曲は私に寄り添ってくれている。
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