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小田急TIMEさんの先人の方々に対しての敬意のある語り口調が大好きです。
私の両親とほぼ同世代の幸子さんですが、私の両親の子供時代の写真なんて全くありません。これだけの写真を撮影出来るとすればかなり裕福な御家庭だったのだろうなと思います。然し古本屋さんにこのようなアルバムがあるなんて、私も一度探しに行ってみたくなりました。こういう古い写真って嫌でも郷愁に駆られますね。もう胸が張り裂けそうになります。
幸子さんは私の亡き母と同じ年齢です。母の一番古い写真は、オシャレをして銀座で撮った娘時代のでした。当時、生まれた直後から幼年期、私立の学校の写真から幸子さんは裕福なお嬢さまだったのがうかがえます。お父様は高齢だし、楽しい青春時代には戦争下でどう生き抜いかれたのでしょうか?名前のごとく幸せな人生だったとお祈りいたします。
「古本屋で見つけた」というのは少し残念ですが、「親戚の女性?」の美しいこと!整形手術のない時代でも日本女性は本当に美しかった。まさに大和なでしこですね。🗾
写真の幸子さんは、どこかの令嬢ですね、記念写真のお召し物が素敵です。親戚の女性も品があって、いいところのお嬢様って感じですね、お父さんが66歳って、晩婚なのでしょうかね❓お茶の水には、車で送り迎えだったのではないでしょうか、まさに時は移りですね
大正10年生まれですか同じ大正10年生まれの母が5年前に97歳で亡くなった母の事を思いだしました。アルバムのさちこさんはかなり裕福な生まれみたいですね。うちの母は養女に出され養父母が無くなったっ後丁稚奉公に行って苦労したことをよく話してくれていました。ふと亡き母を思い出し思わず涙ぐみました。
父親・母親を写真で見る限り、結構良い家庭=裕福な家庭かと中々この時代に写真を撮られる家庭も珍しかったと思います
戦前の幸せそうな家族の写真を見るのは、その後の事を考えると切ないね。
なぜか最後の写真の笑顔の二人を見て涙が止まらなくなりました。全然知らない人たちなんだけれども・・・。二人,いや写真に写っていたすべての人が幸せな人生を送れたことを切に祈ります。
アルバム売るほど困ってしまう事情がもしあったとしたら相当ですね…この写真の方々はもうお亡くなりになっているのかもしれませんが子孫の方が偶然見ていらっしゃったらいいですね。
幸子さんは現代的な顔立ちであり豊かな微笑みが素晴らしい。貧しい庶民が多かった時代背景に希望に満ちたいい想い出の写真に懐かしくもちょっと涙誘う一コマでしょう。あと100年もすれば今の我々の動画がこのようにきっと紹介されるのでしょうね。
きっと都内の裕福な御家庭の方だったのでしょう。自分も死ぬまでに幼少期のアルバムの場所に今一度行っておきたいです。生まれた時に住んでいた社宅、通った幼稚園…感慨深く拝見いたしました。
偶然に、ここに迷い込みました。何気なく見て、「へぇー、こんな角度から見知らぬ方々に思いを馳せる、すごい!」って感動して見入ってしまいました。古いアルバムに登場する見知らぬ人々へのほんわかとした尊敬の思いが、この動画制作者ににじみ出ていますね(縦時間軸軸)。ということは今を生きる人々を尊敬し大切にしようっていう考えが伝わってきます(横時間軸)。
カラーにすると一気にリアル感が増しますね…この方やご子息が現在でもお元気でいらっしゃることを願っております。
豊島園の花火も子供のころ家から見えたのが印象に残っています。懐かしいな。
不覚にも涙がこぼれてしまいます
もう存命じゃないかもしれないかたのアルバムを見るのは切ないですね。
古いアルバムの見知らぬ方達の人生の一部だけの情報で良く探されるな、と関心します。正に人に歴史あり。これからも動画楽しみにしてます。
裕福な家庭に育った方とお見受けいたします。その方のアルバムが古本屋に売られた経緯が気になりますが、波瀾万丈な人生だったのではと推察します。
幸子さんやその家族はその後の時代をどう生きたのでしょう?昭和初期は、次に起こる戦過という激動に巻き込まれる束の間の平穏だったのでは、、、それを思うと、写真に映る平和な日常の光景が切なく思えてしまいます。古い写真は、浪漫もあり哀愁もありますね。
そして今、新たな戦前に国を引っ張る岸田と極右勢力。
綺麗な方ですね。家柄もいい。
私の実家にも古いアルバムがたくさありました。祖父がカメラが好きで、事あるごとに写真を撮り自ら現像もしていました。昭和初期の頃から本人が師範学校当時の姿を含め貴重なアルバムを私が小学生(半世紀以上前w)に見せてもらった記憶が有ります。今でも実家を探せばあるはずです。写真って遠い昔の映像記録としての重要な役割がありますよね。やっぱり印画紙で残っている方が時間(歴史)の重みが感じられて好きです。その当時の場所や生活にタイムスリップしたり、誰が何のために撮られたのだろうかとか想いを馳せるのが楽しいですね✨
不忍池の畔や深川の八幡様の参道で古道具屋さんに置いてあるアルバムとても懐かしい写真や更に昔の写真で食い入るようにみていました。時代背景からするとかなり裕福な方々の写真やご家族の写真。よくよく考えてみれば子供の成長や学生や会社の慰安旅行など華やかな喜ばしい写真がなぜ骨董品屋にあるのか?とても悲しい思いをしました。自分の写真は終活で処分しようと決めました。思い出は自分の胸に刻みます。
2:05の写真の脇の文字ですが「昭和四年お茶の水小学生の出来たて」と書いてあるような気がします。
幸子さんに幸太郎さん 子の幸せを願う親御さんの気持ちですね やはり昔の女の子はみんなオカッパですね😊
なぜ幸子さんは後半の写真を取り除いたのか・・・ご結婚?しかしなぜご本人かご親族かわからないが、古本屋で売られていたのか?東京の方らしいが、空襲でも焼け残ったアルバム。謎を追求したいが、一人の明らかに存在された方を詮索するのは良くないかもしれませんね。小田急TIMEさんの美しいピアノ曲とともに流れる信じられない事実に大ファンになりました。今後ともお待ちしております。
いいどこのお嬢様って感じ幸子さん可愛い❤️
時の流れの無情さを感じますな🥺
皆さんのコメントの中に、写真の父親が66歳だったことから、幸子さんを「妾の子」だの「二号さん」だのと、憐れみと侮蔑の入り混じった表現がありましたが、何を隠そう、私も私生児として昭和20年後半に生まれました。父親が48歳、母は29歳だったと思います。小学生のころから「妾の子」「二号さん」とからかわれて過ごして来ましたが、今は何も隠すこともなく、私を医師になるまで育ててくれた母に感謝しています。
しみじみと懐かしく過ぎ去った少女の日々がアルバムに残りました。大変美しい動画だと思います。なお、「としまえん」の前の写真は「京王閣」でしょう。当時は競輪場ではなく遊園地だったそうです。
ファミリーヒストリー並みの取材力であれば簡単に特定できるだろうけど、誰だかわからないというのもロマンがありますな。
流石に百年前のお写真には本当に畏怖の念を感じずにはいられません。凄い歴史エレジーですね……!!
このチャンネル好きです!
お疲れ様です。公立の小学校に通わないって家は豊かな人だったのでしょう。豊島園と言えば、スターどっきり丸秘報告でジェットコースターに乗るのを思い出します。セガサターンの発表会も豊島園だったと思います。
約100年前、、、いつも動画興味深くそして楽しく拝見させていただいておりますありがとうございます古本屋さんや古本市等で個人の古いアルバムも売っているのは初めて知りました!
豊島園で思いだすのはジープに乗ってのアフリカランドクルーズに由緒正しい回転木馬です。懐かしいなぁ。私は還暦超えで父親は昭和5年生まれです。
アフリカ館!
@@T-Iwamoto 館ができたころ、パンフまで配っていて手に取って見ていた記憶があります。正式名称がうろ覚えで、お教えいただきありがとうございます。もう50年も経ってしまいました。けれど思い出を作ってくれたことに感謝です。
アルバムシリーズ見てると遠い目になってくる
「お茶の水小学生の玄関にて」は、「お茶の水小学生の出来たて」ですね。
この頃からパパって表現あったのか
幸子に幸あれ!
思春期に入ってからの幸子さんの写真がアルバムからはがされているの、戦争期に入って幸子さんと結婚されたご主人がアルバムからはがして戦場に持っていかれたのかもしれませんね。それにしても昔の日本人はみなさん表情が良いですね。
6:17の、おばあちゃん70歳前後だと仮定しても・・・この写真が、ピッタリ1926年であれば、1850年代生まれの可能性が。そう考えると感慨深い。江戸時代。この当時の家庭で複数写真が残ってると言う事は、裕福だったのでしょうね。貴重。
印画紙に残る記録の大切さを痛感します。現在はスマートフォンで静止画や動画が記録されていますが、それがどの様に残っていくのでしょうか・・・・。
戦争を経ているのでとっくの昔に亡くなっている可能性は大きいですね😥それでも、その人達が生きていたという記録を見ることが出来、切ないながらも拝見出来て良かったです😢掘り出し物というか何て言うか、こういう企画があったからこそ日の目を見る事が出来たのですが、自分の手に取って見ることは過去の念がこもっていそうで怖くて避けてしまうところです😥そういう事を考えてしまうのもなんか切ないですね…後、大変失礼だとは思ったのですが、お店の人もどういう経緯で売れるかどうかもわからないアルバムを置いているのか失礼ながら考えてしまいました😔
アメリカのスリフトショップ、日本のリサイクルショップみたいな寄付された物を売っているお店なんですが、家族写真なんかの古い写真を売ってました。綺麗な人が写った家族写真を買いましたが、やっぱり他人のプライベート見てるようで、捨ててしまったような。1970年代の感じが良かったので買ったんですが。 それらも遺品整理なのか、単なる整理 寄付したのか そんなのを考えてしまいますね。
自分に何ができるわけでもないので勝手な考えではありますが、アルバムを親類・縁者の方にお渡しできないかなあと思ってしまいました。
4:31 同 六月 豐嶋園 遊ブ って書いてあるのか…
人生とは儚くもあり、切なくもあり、そして美しい…正にその通りの感想を抱きながら、動画を拝見しました。
アルバムは貴方にこの写真に写る人達が確かに生きた証を知ってもらいたくて貴方の元に来たのかもしれませんね。古本屋で偶然を装って。
このアルバムが小田急TIMEさんの手元にやってきた経緯を想像してしまいました。 幸子さんご本人が亡くなり、その子も亡くなったあたりで、遺族が遺品を、捨てるよりは、というぐらいの気持ちでどこかの古書店に売却したのかもしれない、、と。 私も今年父を亡くしましたが、膨大な遺品は、結局ほとんどを処分しつつあります。生前の父も「捨てて構わない」と言い残してくれてはいましたが。
郷愁
戦前の東京女子高等師範学校とその附属小学校などがあったのは御茶ノ水駅近くの現在の東京医科歯科大学の所だったそうです。ですので、駅の北口から校舎へ向かうことになるわけですね。ちなみに東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)と附属学校が現在の文京区大塚へ移転を開始したのは1928年(昭和3年)の秋からで、移転完了が1932年(昭和7年)とのことだったので、この動画の幸子さんは小学生の途中で大塚の方へ通学ルートが変わったということになりますね。
制服が昭和後期のお茶大附属小ものと酷似していますね。
お疲れ様です、私の母は同じ幸子で昭和13年生まれです、もうなくなりましたが私の母が生まれた年にこの女の子は17歳だったのだと思うと又これ変な気持ちになります。もし今健在なら100歳をチョット越えたぐらいですね。で白黒の写真をカラー化してますが、当時本当の色はやはりカラーが本当の色なんですね、白黒とすると時代を凄く感じますが確かに当時も色鮮やかな世界であったと又ホント美しい自然が沢山残る景色だと思います。
4:25の文字は「京王閣」ではないでしょうか?今は競輪ですが、元々は遊園地だったみたいですから。
確かに京王閣と読めますねありがとうございます!
書いてあるのは「京王閣の一日」だと思います。
写真から判断すると、とても幸福な少女時代を送った方なのだと思いました。戦後の教育では戦前の日本は貧困と思想的抑圧に人々が苦しむ暗黒時代の様に教えてまいりましたが、少なくとも大正から昭和初期には大変リベラルで豊かな市民生活があったと1927年(昭和2年)生まれの父がよく戦前言っていた事を思い出します。
裕福な階層は、です。
豊島園の池での写真、確か55年前にはそこにウォータースライダーがあったなー。 懐かしいい
はい。ありましたね。先頭の席はスリル満点でした。
どんな事情があるかはわかりませんがアルバムを売るということはまずしないでしょう。古本に紛れ込んで流通してしまった…ということでしょうか?
名前の由来は「幸せな子になるように」かな。いい親だったのだろう。楽しい子供時代の写真が沢山あったけど、中学生になった頃?で写真が無くなっているのが気になる。幸せな生活はこの頃までで、その後幸子さん周辺で何らかの不幸があって幸福な日々が終わってしまったのだろうか。それにしても幸子さん5歳(1926年?)の時にお父さんは66歳だと、江戸時代生まれか。としまえんを見ても、1920年代時点でかなり西洋化が進んでいたので、江戸時代生まれのお父さんやおばあさんからみたら、自分たちが生まれた頃とあまりにも世の中が変わったと感じただろうな。
お父さんがやけに年くってるので、おそらく二号さん?
このアルバムはどこから見つけられたんですか?いつもアルバムはどこから出て来たのか気になってました。
最近は明治、大正、昭和辺りの写真や映像を見ていたのですが、個人的なアルバムが残っているのは驚きです。もしかしたら最後の「ALBAM」がアルファベットなのでそれが戦中に見つかるのを避けて売ったのかもしれませんね。(突拍子のない考えですが…)
幸子さん、まさか死後にこうやって色んな人に見られるとは思ってもないだろうね。美人は時空を超えて褒められるんだ。
特徴的な制服と女子校であることから学校名は分からないでしょうか。私の母は大正12年生まれで公立小学校で共学で私服でしたね。
私は、、昭和40年に青森から進学のために上京兄の友人(青森県出身)の家に下宿豊島園前に下り坂のすぐ近くに 「アモン」と言う喫茶店が兄の友人の弟さんが経営、、いつも初めての東京でここから全てがスタートしました。見るもの、食べるもの言葉、、ここに行き自分の人生のスタートを確認したいですが 59年前のことです、、「アモン」の経営者は 駒井さんでした。直ぐ上に 兄弟姉妹が住んでいました、、
どなたか ご存知でしたら 行きたいと思っています。私は昭和21年生まれ 人生が終わる前に私の足跡を辿ってみたいと思っています。
うちの祖父のアルバムを、彼が亡くなった後に祖母が捨てました。そういうことを平気でできる人がいるので、このアルバムもそういう道をたどったのかもしれません。
何故、写真がはがされていたのか気になります。
かなり良いとこのおぜうさまだったんだろうな。
亡祖父母と同じ歳
浅草凌雲閣?
なぜ記念の品が古書店に…と一瞬思ったけど、自分のアルバムも(親が捨ててなければ)第三者の手に渡っているんだよね。誰が持っているのやら?
白黒写真をカラー化するのは大変やろな?
姑が亡くなった後に、嫁が捨てたとか?
女性で良かったかももし男の子なら兵隊で出征してたね。
この女の子の弟は戦争に行かされたのでしょうか…
写真の説明書きの文字の形が現代風のと当時のものが有る感じする。大概、古い時代のって筆で達筆で読みにくい。幸子さんのお孫さん辺りが書き足したんだろう。また見るつもりで背の高い本に挟んで今に至るだろう。
素晴らしい企画ですね。感じ入りました。戦前の日本人は原則的に数え年で年齢を数えました。ですから、昭和三年(1928年)に七歳ということは、幸子さんは大正11年(1922年)生まれの可能性もあります。しかしながら、よほど洋風の家庭であったならば、満年齢で11月15日の7回目の誕生日を祝ったかもしれません。ここで不審なのは、写真の説明書きです。「七ツノオイワイニ」とあります。これは変です。本来なら間違いなく、「七ツノオイハヒニ」と書くはずです。東京女子高等師範学校に娘を通わせるほどの親(おそらくは母親)が、こんなに無学であるということは、幸子さんの母親は、貧しい素性の女性であったかもしれません。例えば、先妻を亡くした還暦の老人が、花柳界の美人芸者を落籍して妻に迎え、二人の間に初めて生れたのが幸子さん、とか・・・・。百年前の、見ず知らずの一家のことなのに、空想は尽きません。
サムネの女性が櫻井翔くんに似てる
小田急TIMEさんの先人の方々に対しての敬意のある語り口調が大好きです。
私の両親とほぼ同世代の幸子さんですが、私の両親の子供時代の写真なんて全くありません。
これだけの写真を撮影出来るとすればかなり裕福な御家庭だったのだろうなと思います。
然し古本屋さんにこのようなアルバムがあるなんて、私も一度探しに行ってみたくなりました。
こういう古い写真って嫌でも郷愁に駆られますね。
もう胸が張り裂けそうになります。
幸子さんは私の亡き母と同じ年齢です。
母の一番古い写真は、オシャレをして銀座で撮った娘時代のでした。当時、生まれた直後から幼年期、私立の学校の写真から幸子さんは裕福なお嬢さまだったのがうかがえます。
お父様は高齢だし、楽しい青春時代には戦争下でどう生き抜いかれたのでしょうか?
名前のごとく幸せな人生だったとお祈りいたします。
「古本屋で見つけた」というのは少し残念ですが、「親戚の女性?」の美しいこと!整形手術のない時代でも日本女性は本当に美しかった。まさに大和なでしこですね。🗾
写真の幸子さんは、どこかの令嬢ですね、記念写真のお召し物が素敵です。親戚の女性も品があって、いいところのお嬢様って感じですね、
お父さんが66歳って、晩婚なのでしょうかね❓お茶の水には、車で送り迎えだったのではないでしょうか、まさに時は移りですね
大正10年生まれですか同じ大正10年生まれの母が5年前に97歳で亡くなった母の事を思いだしました。
アルバムのさちこさんはかなり裕福な生まれみたいですね。
うちの母は養女に出され養父母が無くなったっ後丁稚奉公に行って苦労したことをよく話してくれていました。
ふと亡き母を思い出し思わず涙ぐみました。
父親・母親を写真で見る限り、結構良い家庭=裕福な家庭かと
中々この時代に写真を撮られる家庭も珍しかったと思います
戦前の幸せそうな家族の写真を見るのは、その後の事を考えると切ないね。
なぜか最後の写真の笑顔の二人を見て涙が止まらなくなりました。全然知らない人たちなんだけれども・・・。二人,いや写真に写っていたすべての人が幸せな人生を送れたことを切に祈ります。
アルバム売るほど困ってしまう事情がもしあったとしたら相当ですね…
この写真の方々はもうお亡くなりになっているのかもしれませんが子孫の方が偶然見ていらっしゃったらいいですね。
幸子さんは現代的な顔立ちであり豊かな微笑みが素晴らしい。
貧しい庶民が多かった時代背景に希望に満ちたいい想い出の写真に懐かしくも
ちょっと涙誘う一コマでしょう。
あと100年もすれば今の我々の動画がこのようにきっと紹介されるのでしょうね。
きっと都内の裕福な御家庭の方だったのでしょう。
自分も死ぬまでに幼少期のアルバムの場所に今一度行っておきたいです。生まれた時に住んでいた社宅、通った幼稚園…
感慨深く拝見いたしました。
偶然に、ここに迷い込みました。何気なく見て、「へぇー、こんな角度から見知らぬ方々に思いを馳せる、すごい!」って感動して見入ってしまいました。古いアルバムに登場する見知らぬ人々へのほんわかとした尊敬の思いが、この動画制作者ににじみ出ていますね(縦時間軸軸)。ということは今を生きる人々を尊敬し大切にしようっていう考えが伝わってきます(横時間軸)。
カラーにすると一気にリアル感が増しますね…
この方やご子息が現在でもお元気でいらっしゃることを願っております。
豊島園の花火も子供のころ家から見えたのが印象に残っています。
懐かしいな。
不覚にも涙がこぼれてしまいます
もう存命じゃないかもしれないかたのアルバムを見るのは切ないですね。
古いアルバムの見知らぬ方達の人生の一部だけの情報で良く探されるな、と関心します。正に人に歴史あり。これからも動画楽しみにしてます。
裕福な家庭に育った方とお見受けいたします。その方のアルバムが古本屋に売られた経緯が気になりますが、波瀾万丈な人生だったのではと推察します。
幸子さんやその家族はその後の時代をどう生きたのでしょう?
昭和初期は、次に起こる戦過という激動に巻き込まれる束の間の平穏だったのでは、、、
それを思うと、写真に映る平和な日常の光景が切なく思えてしまいます。
古い写真は、浪漫もあり哀愁もありますね。
そして今、新たな戦前に国を引っ張る岸田と極右勢力。
綺麗な方ですね。家柄もいい。
私の実家にも古いアルバムがたくさありました。
祖父がカメラが好きで、事あるごとに写真を撮り自ら現像もしていました。
昭和初期の頃から本人が師範学校当時の姿を含め貴重なアルバムを私が小学生(半世紀以上前w)に見せてもらった記憶が有ります。
今でも実家を探せばあるはずです。
写真って遠い昔の映像記録としての重要な役割がありますよね。
やっぱり印画紙で残っている方が時間(歴史)の重みが感じられて好きです。
その当時の場所や生活にタイムスリップしたり、誰が何のために撮られたのだろうかとか想いを馳せるのが楽しいですね✨
不忍池の畔や深川の八幡様の参道で古道具屋さんに置いてあるアルバム
とても懐かしい写真や更に昔の写真で食い入るようにみていました。
時代背景からするとかなり裕福な方々の写真やご家族の写真。
よくよく考えてみれば子供の成長や学生や会社の慰安旅行など華やかな喜ばしい写真が
なぜ骨董品屋にあるのか?とても悲しい思いをしました。
自分の写真は終活で処分しようと決めました。
思い出は自分の胸に刻みます。
2:05の写真の脇の文字ですが「昭和四年お茶の水小学生の出来たて」と書いてあるような気がします。
幸子さんに幸太郎さん 子の幸せを願う親御さんの気持ちですね やはり昔の女の子はみんなオカッパですね😊
なぜ幸子さんは後半の写真を取り除いたのか・・・ご結婚?
しかしなぜご本人かご親族かわからないが、古本屋で売られていたのか?
東京の方らしいが、空襲でも焼け残ったアルバム。
謎を追求したいが、一人の明らかに存在された方を詮索するのは良くないかもしれませんね。
小田急TIMEさんの美しいピアノ曲とともに流れる信じられない事実に大ファンになりました。
今後ともお待ちしております。
いいどこのお嬢様って感じ
幸子さん可愛い❤️
時の流れの無情さを感じますな🥺
皆さんのコメントの中に、写真の父親が66歳だったことから、幸子さんを「妾の子」だの「二号さん」だのと、憐れみと侮蔑の入り混じった表現がありましたが、何を隠そう、私も私生児として昭和20年後半に生まれました。
父親が48歳、母は29歳だったと思います。小学生のころから「妾の子」「二号さん」とからかわれて過ごして来ましたが、今は何も隠すこともなく、私を医師になるまで育ててくれた母に感謝しています。
しみじみと懐かしく過ぎ去った少女の日々がアルバムに残りました。大変美しい動画だと思います。なお、「としまえん」の前の写真は「京王閣」でしょう。当時は競輪場ではなく遊園地だったそうです。
ファミリーヒストリー並みの取材力であれば簡単に特定できるだろうけど、誰だかわからないというのもロマンがありますな。
流石に百年前のお写真には本当に畏怖の念を感じずにはいられません。
凄い歴史エレジーですね……!!
このチャンネル好きです!
お疲れ様です。公立の小学校に通わないって家は豊かな人だったのでしょう。
豊島園と言えば、スターどっきり丸秘報告でジェットコースターに乗るのを思い出します。セガサターンの発表会も豊島園だったと思います。
約100年前、、、
いつも動画興味深くそして楽しく拝見させていただいております
ありがとうございます
古本屋さんや古本市等で個人の古いアルバムも売っているのは初めて知りました!
豊島園で思いだすのはジープに乗ってのアフリカランドクルーズに由緒正しい回転木馬です。懐かしいなぁ。私は還暦超えで父親は昭和5年生まれです。
アフリカ館!
@@T-Iwamoto 館ができたころ、パンフまで配っていて手に取って見ていた記憶があります。正式名称がうろ覚えで、お教えいただきありがとうございます。もう50年も経ってしまいました。けれど思い出を作ってくれたことに感謝です。
アルバムシリーズ見てると遠い目になってくる
「お茶の水小学生の玄関にて」は、
「お茶の水小学生の出来たて」ですね。
この頃からパパって表現あったのか
幸子に幸あれ!
思春期に入ってからの幸子さんの写真がアルバムからはがされているの、戦争期に入って幸子さんと結婚されたご主人がアルバムからはがして戦場に持っていかれたのかもしれませんね。それにしても昔の日本人はみなさん表情が良いですね。
6:17の、おばあちゃん70歳前後だと仮定しても・・・この写真が、ピッタリ1926年であれば、1850年代生まれの可能性が。そう考えると感慨深い。江戸時代。この当時の家庭で複数写真が残ってると言う事は、裕福だったのでしょうね。貴重。
印画紙に残る記録の大切さを痛感します。現在はスマートフォンで静止画や動画が記録されていますが、それがどの様に残っていくのでしょうか・・・・。
戦争を経ているのでとっくの昔に亡くなっている可能性は大きいですね😥
それでも、その人達が生きていたという記録を見ることが出来、切ないながらも拝見出来て良かったです😢
掘り出し物というか何て言うか、こういう企画があったからこそ日の目を見る事が出来たのですが、自分の手に取って見ることは過去の念がこもっていそうで怖くて避けてしまうところです😥
そういう事を考えてしまうのもなんか切ないですね…
後、大変失礼だとは思ったのですが、お店の人もどういう経緯で売れるかどうかもわからないアルバムを置いているのか失礼ながら考えてしまいました😔
アメリカのスリフトショップ、日本のリサイクルショップみたいな寄付された物を売っているお店なんですが、家族写真なんかの古い写真を売ってました。
綺麗な人が写った家族写真を買いましたが、やっぱり他人のプライベート見てるようで、捨ててしまったような。
1970年代の感じが良かったので買ったんですが。 それらも遺品整理なのか、単なる整理 寄付したのか そんなのを考えてしまいますね。
自分に何ができるわけでもないので勝手な考えではありますが、アルバムを親類・縁者の方にお渡しできないかなあと思ってしまいました。
4:31 同 六月 豐嶋園 遊ブ って書いてあるのか…
人生とは儚くもあり、切なくもあり、そして美しい…正にその通りの感想を抱きながら、動画を拝見しました。
アルバムは貴方にこの写真に写る人達が確かに生きた証を知ってもらいたくて貴方の元に来たのかもしれませんね。古本屋で偶然を装って。
このアルバムが小田急TIMEさんの手元にやってきた経緯を想像してしまいました。
幸子さんご本人が亡くなり、その子も亡くなったあたりで、遺族が遺品を、捨てるよりは、というぐらいの気持ちでどこかの古書店に売却したのかもしれない、、と。
私も今年父を亡くしましたが、膨大な遺品は、結局ほとんどを処分しつつあります。生前の父も「捨てて構わない」と言い残してくれてはいましたが。
郷愁
戦前の東京女子高等師範学校とその附属小学校などがあったのは御茶ノ水駅近くの現在の東京医科歯科大学の所だったそうです。ですので、駅の北口から校舎へ向かうことになるわけですね。ちなみに東京女子高等師範学校(お茶の水女子大学)と附属学校が現在の文京区大塚へ移転を開始したのは1928年(昭和3年)の秋からで、移転完了が1932年(昭和7年)とのことだったので、この動画の幸子さんは小学生の途中で大塚の方へ通学ルートが変わったということになりますね。
制服が昭和後期のお茶大附属小ものと酷似していますね。
お疲れ様です、私の母は同じ幸子で昭和13年生まれです、もうなくなりましたが私の母が生まれた年にこの女の子は17歳だったのだと思うと又これ変な気持ちになります。
もし今健在なら100歳をチョット越えたぐらいですね。
で白黒の写真をカラー化してますが、当時本当の色はやはりカラーが本当の色なんですね、白黒とすると時代を凄く感じますが確かに当時も色鮮やかな世界であったと又ホント美しい自然が沢山残る景色だと思います。
4:25の文字は「京王閣」ではないでしょうか?今は競輪ですが、元々は遊園地だったみたいですから。
確かに京王閣と読めますね
ありがとうございます!
書いてあるのは「京王閣の一日」だと思います。
写真から判断すると、とても幸福な少女時代を送った方なのだと思いました。戦後の教育では戦前の日本は貧困と思想的抑圧に人々が苦しむ暗黒時代の様に教えてまいりましたが、少なくとも大正から昭和初期には大変リベラルで豊かな市民生活があったと1927年(昭和2年)生まれの父がよく戦前言っていた事を思い出します。
裕福な階層は、です。
豊島園の池での写真、確か55年前にはそこにウォータースライダーがあったなー。 懐かしいい
はい。ありましたね。先頭の席はスリル満点でした。
どんな事情があるかはわかりませんがアルバムを売るということはまずしないでしょう。古本に紛れ込んで流通してしまった…ということでしょうか?
名前の由来は「幸せな子になるように」かな。いい親だったのだろう。楽しい子供時代の写真が沢山あったけど、中学生になった頃?で写真が無くなっているのが気になる。幸せな生活はこの頃までで、その後幸子さん周辺で何らかの不幸があって幸福な日々が終わってしまったのだろうか。
それにしても幸子さん5歳(1926年?)の時にお父さんは66歳だと、江戸時代生まれか。としまえんを見ても、1920年代時点でかなり西洋化が進んでいたので、江戸時代生まれのお父さんやおばあさんからみたら、自分たちが生まれた頃とあまりにも世の中が変わったと感じただろうな。
お父さんがやけに年くってるので、おそらく二号さん?
このアルバムはどこから見つけられたんですか?
いつもアルバムはどこから出て来たのか気になってました。
最近は明治、大正、昭和辺りの写真や映像を見ていたのですが、個人的なアルバムが残っているのは驚きです。もしかしたら最後の「ALBAM」がアルファベットなのでそれが戦中に見つかるのを避けて売ったのかもしれませんね。(突拍子のない考えですが…)
幸子さん、まさか死後にこうやって色んな人に見られるとは思ってもないだろうね。
美人は時空を超えて褒められるんだ。
特徴的な制服と女子校であることから学校名は分からないでしょうか。私の母は大正12年生まれで公立小学校で共学で私服でしたね。
私は、、昭和40年に青森から進学のために上京
兄の友人(青森県出身)の家に下宿
豊島園前に下り坂のすぐ近くに 「アモン」と言う喫茶店が兄の友人の弟さんが経営、、
いつも初めての東京でここから全てがスタートしました。
見るもの、食べるもの
言葉、、
ここに行き自分の人生のスタートを確認したいですが 59年前のことです、、
「アモン」の経営者は 駒井さんでした。直ぐ上に 兄弟姉妹が住んでいました、、
どなたか ご存知でしたら 行きたいと思っています。私は昭和21年生まれ 人生が終わる前に私の足跡を辿ってみたいと思っています。
うちの祖父のアルバムを、彼が亡くなった後に祖母が捨てました。
そういうことを平気でできる人がいるので、このアルバムもそういう道をたどったのかもしれません。
何故、写真がはがされていたのか気になります。
かなり良いとこのおぜうさまだったんだろうな。
亡祖父母と同じ歳
浅草凌雲閣?
なぜ記念の品が古書店に…と一瞬思ったけど、自分のアルバムも(親が捨ててなければ)第三者の手に渡っているんだよね。誰が持っているのやら?
白黒写真をカラー化するのは大変やろな?
姑が亡くなった後に、嫁が捨てたとか?
女性で良かったかも
もし男の子なら兵隊で出征してたね。
この女の子の弟は戦争に行かされたのでしょうか…
写真の説明書きの文字の形が現代風のと当時のものが有る感じする。大概、古い時代のって筆で達筆で読みにくい。幸子さんのお孫さん辺りが書き足したんだろう。また見るつもりで背の高い本に挟んで今に至るだろう。
素晴らしい企画ですね。感じ入りました。
戦前の日本人は原則的に数え年で年齢を数えました。ですから、昭和三年(1928年)に七歳ということは、幸子さんは大正11年(1922年)生まれの可能性もあります。しかしながら、よほど洋風の家庭であったならば、満年齢で11月15日の7回目の誕生日を祝ったかもしれません。ここで不審なのは、写真の説明書きです。「七ツノオイワイニ」とあります。これは変です。本来なら間違いなく、「七ツノオイハヒニ」と書くはずです。東京女子高等師範学校に娘を通わせるほどの親(おそらくは母親)が、こんなに無学であるということは、幸子さんの母親は、貧しい素性の女性であったかもしれません。例えば、先妻を亡くした還暦の老人が、花柳界の美人芸者を落籍して妻に迎え、二人の間に初めて生れたのが幸子さん、とか・・・・。百年前の、見ず知らずの一家のことなのに、空想は尽きません。
サムネの女性が櫻井翔くんに似てる