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いつも有難う御座います。上野駅と言えば私の中では猪熊弦一郎氏の『自由』です。子供の頃、新潟に帰る祖母を送りに行く度に見ていました。今年の正月は神田明神に初詣。ぶらぶら歩いて「上野藪蕎麦」にて天せいろで一杯やって来ました。上野は心の駅ですね。
懐かしいですね、自分には国鉄時代の思い出です。学生の時、北海道の実家へ帰るのに飛行機を使えばいいものの旅情を感じたくてわざわざ夜行列車→青函連絡船と乗り継いで帰っていました。改札口には電光掲示板が無く、行き先と列車名の書かれた鉄板が沢山並んでいて、列車が出ると改札員が板を外して新たな表示版をぶら下げる、という作業を頻繁に行っていた事を思い出しました。
昭和34年に私の育った春日通りに近い自宅が四階建てビルと成り屋上からは、山手線常磐線がホ-ムへ列車が動いていたのがよく見える所でした。勿論富士山もいつも御徒町のガ-ドの一寸上に、クッキリと見える、まだ光化学スモッグなど排ガスによる影響に本当に少ない時期でした。上野駅は私の祖母が貧しい、水飲み百姓の畳の無い、布団も無かった、富山県の田舎から逃げて来て、1人東京で初めて畳に寝た、そんな女中生活。でも貧しく生活苦で学校も出ていなかった、祖母は字が読めません。そこで私が20歳の時、祖母の鞄持ち役で富山の田舎まで上野から特急白山に乗って出掛けた思い出が有ります。その田舎で祖母の姉に久し振りにあい旅館で一晩夜中に1時まで2人でお喋り、それが姉と会った最後の時。その祖母も勝っては、明治の終わりに上野駅に着いた、田舎者でした、本当に貧しい田舎から私の父親、つまり祖母からしたら息子が戦地から帰って来て、一代で会社を立ち上げた、成功者でした。上野駅を見ると、その祖母の想いと、父の戦後食いしばって頑張った、想いがダブって見え隠れする、思い出の郷です。今では私は、縁あって、英国人妻と仲良く暮らす英国生活です。既に日本を離れ38年。 書道師範を取り勝、日本庭園を愛し、小さな庭でも日本を感じる英國では珍しい作庭法の庭。郷愁とはこんなモノかと七十の歳になって日本を懐かしく思う心は、矢張り日本人の心は大事だと思う、そして上野駅は、多くの東北地方からの移住者達の、想い出の所です。 筆を持ち写経する時、あの上野駅がよく見えた想いは、消えずに永久に、私の目に残ります。どんなに近代化させても人々の郷愁の想いの場は、変わらないで欲しいと、遠く1万キロの海外から感じる想いです。
幼少の頃、母親の故郷へ向かう時に見た景色と同じでした。両手にお土産やビールをたくさん持った大人が笑顔で特急電車に乗り込んでいくのが印象的でしたね。
動画お疲れ様です。ありがとうございます😊半世紀以上前、上野には動物園、博物館見学に行きその後はパンダ見物…そして現在はアメ横の帰りに御徒町を使わずに行くくらいですね、私は
さすがに今回の写真はすぐ分かりました。まったく変わってはいませんね。上野駅は確かに全盛期は過ぎたと言われてますが、いまだに都内では一番個性的で味のある駅舎だと思います。駅らしい駅というかな。
都内のターミナル駅がどこも時代とともに姿を変えていく中で、上野駅はもっとも昔からの原型をとどめている気がしますね。
東北からの玄関口でしたね
2:15 違ったら申し訳ないですが、これは切符売り場の窓口ではないでしょうか。自動券売機が出来て、自動改札もICカードやスマホになり、窓口はなくなったけど、アーチの先の改札の右手にずらりと券売機が並んでいた頃はまだこの雰囲気が残ってましたし、今でも基本的な作りは変わってないと思います。
先日、子供の受験の合格祈願で上野大仏へお参りに行って来ました。中央口は綺麗な駅舎の中に昔の面影も残っており、子供の頃を思い出しながらゆっくり歩きます😊
上野駅、興味深く拝見しました。音楽もステキですね。
石川啄木の歌碑は、しょっちゅう見ますね。自分も同じ岩手出身。簡単に帰られない故郷への思いで、上野駅に、東北弁(んだべ等)だけでも聴きに行ったんでしょうね。今のような便利な時代ではないですし、東北の玄関駅でしたから。
3代目駅舎の中がatreになって、中央入り口の2階にエスカレーターで上れるようになったときは感動しました。「二階はどうなってるんだろう」と子供の頃から思っていたので。
昭和末期の上野駅には、大きなぬいぐるみのパンダが鎮座しておりました。アメ横にもなぜかパンダの毛皮が売ってましたっけ。まさか本物ということもなく、おそらく黒熊と白熊で縫い合わせて作ったのでしょうか。だとしたら、特売品で白黒逆の毛皮もあったかも。と考えてしまう私でした。集団就職組だったある営業次長さん。上野駅には怖くて近寄れませんでした。そのまま吸い込まれて故郷に帰らされてしまう悪夢だったそうです。田舎ではまだ白いお米が食べられなかった時代で、どんなに怒っている時でも、定食屋に連れて行って白いご飯を出すと、黙々と食べていましたっけ。そんな時代はすぐ最近まであったんです。
相変わらず素晴らしいですね!昔の上野駅は想いも重いが根強くある印象です。ノスタルジーにしたれますね〜‼︎
ありがとうございます。昔は風情がありますね。外観は「小樽駅」に似ていると感じましたよ。
昭和50年代までは駅構内の写真の雰囲気が残っていました。改札を入ると東北や上越に向かう電車が並んでいたのを思い出します。小学校の友達に連れられて入場券で入りL特急の車内に入り薄い紙コップ水でを飲んでいました。丸井デパートは昔は京成デパートと呼ばれていましたが昭和の終わり頃に丸井デパートに替わりました。
1970年代は東北新幹線が開業前で地平ホームは青森、秋田、盛岡、新潟等へ向かう長距離列車が必ず停車していた。夜行列車も多かった。母親の実家が秋田で485系つばさは良く乗った。今でも思い出すのは地平ホームの改札に列車名の看板が居酒屋メニューの様にぶら下げられていた事。
思わず「おお、すげぇ」と声が出ました!ちょうどいま中島京子さんの『夢見る帝国図書館』という本を読んでいて、たまらなく上野を歩きたくなっているところです。
今回のは、あの天井の形とかですぐ場所は分かりました。1976年頃、通学で利用してましたけど、写真のような感じだったですね。場所によっては薄暗く狭い通路とか、要塞の通路っぽくて結構好きでした。ここ何十年も上野駅は利用してないし、暖かくなったら行ってみようかな。
駅構内にギリギリ靴磨き屋さんが居た頃ですね
いつも楽しみに拝見しております。普段見慣れている駅の90年前の姿を見て、とても切なくなりました。この頃は、当然インターネットもスマホも無くて、これから戦争が起きるなんて考えられない時代だったかと思います。私は産まれてもない時代なのに、「ああ、あの頃から90年も経ったんだ」という気持ちになりました。あのころに比べると今は、とても便利で平和な時代になりましたね。東京駅もいつか特集してくださると嬉しいです。
上野駅ではいくつもの出会いと、同じだけの別れがあり、これからも続いていくんでしょうね。悲しみも、喜びも乗り越えて。
今のJR東日本はこの上野駅駅舎ですら破壊してビル建てそうですね。原宿駅の件もありますし明治時代の御料車庫も破壊してピルを建設するような会社ですから…いつまでもこの3代目駅舎であって欲しいです。
お疲れ様です上野駅の歴史いいですねー、裏の道が無くなったのは公園口が綺麗になったからなんですね。私にとっての上野駅は新橋からの最終の終点ってイメージが強く公園口のタクシー乗り場より西日暮里に帰ったことがよくありました・・バイクでの通勤もありましたがやはり雨だと電車でした。今思えば鶯谷まで1キロ日暮里まで1キロで西日暮里まで500mぐらいって認識ですので歩いて帰ればよかったとも思ってます。
東北から行きますと、上野で乗り換えした記憶があります。私は、知りませんが集団就職で上野で乗り換えて、各地に行ったのでしょう。中学終わって親元から離れ自立しなければならない少年少女の心の中😂辛かったでしょう。
東京都民やJRはもっと「上野」駅を大切にしないといけないと思う。戦後の大復興は集団就職者や冬季の出稼ぎ労働者が居たればこそ…。「上野」駅に遠き思い出を抱く団塊の世代はもう高齢者となり、今のままではそう遠くない未来を待たずに失われてしまうだろうな🥲
自分は東北や北陸上越新幹線乗る時は上野から使ってます。東京駅の料金取られるのいやなので。
これは一目見てわかりました。子供の頃から見慣れた光景!あゝ上野駅…山谷の大衆酒場で呑んでた時「金の卵」だった方から身の上話を聞いたのを思い出しました(ドヤ街で絶対に話題にしてはならない話題でしたが、先方から問わず語りで…)
懐かしいです。公園口や浅草口は随分変わりました。東北新幹線ができてから変わったのかな。今でも年に一回は行っているのですが、50年前にはアトレとか無かったです。
上野駅の建物は、1920年代〜30年代に流行った、アールデコという美術様式の建物です。旧満州・中国北部には同じ様なデザインの建物がたくさん残ってます。線と面でできた単純なフォルムで、この時代を代表する美術様式です。貴賓室を再現してほしいですね。日本人はなんでも新しいものを建てたがるので、この建物の外観だけは残こすべきですよ。できれば古い時代の内装や、地下の食堂街も復活して欲しいですよね。
駅構内の山手線、京浜東北線への上り口のコンコースの梁が非常に低いか所があります。一説によると、建設当時の日本人の平均身長に基づく設計とも言われています。定かではありませんが、
上野駅の鉄骨の天井懐かしいですね!頭に当たりそうでかがんで歩いた通路はまだあるのでしょうか?学生の時、福島へ向かう電車が上の始発で、特急料金が払えなくて急行を使ったのが思い出です。
中央改札口前は今と同じですね
上野駅、まだ上野東京ラインが運行していないときは、地元から東京に着いて、降り立ったのが上野駅でした。全盛期は多くの特急・急行列車が発着して、見に行って写真も撮りました。日本の玄関は東京駅ですが、東京駅開業前は新橋と並び称される、玄関だったと思います。
お疲れ様です。今でも昭和の初期に建てられた駅は多くありますが東京近辺で昔の面影を残す駅ははどのくらいあるのでしょうか。機会があれば他の駅もお願いします。
東京駅と同じく「水に浮いている」上野駅・・・メンテが大変だろうな~(^^)
映画「男はつらいよ」の第一作目にも出てきた地下の食堂街は事情があるにせよ封鎖してほしくなかった、階段も通路も埋めてしまったのだろうか。そういえば「ああ上野駅」の歌碑のある場所は以前、電話ボックスが並んでいてそこで何処かの外国人がテレホンカードを売っていたっけ。
中央改札の映像の所で90度右を向いた辺りに両替窓口が有って、両替商が有料で両替をしていたそうです。今は銀行の両替機で無料で両替出来ますけど、昔は両替するのに一定の手数料がかかったそうです。もう、その窓口跡も無くなったかな?
大阪駅も新しくなりました時代も変わった
昔は、正面玄関って言ってましたね。。。子どもの頃帰省時に東海道新幹線の切符を買った(買ったのは親ですが(笑))思い出があります(;^_^A
帰りたくなった😢
2:05 中央改札の上にある猪熊弦一郎の壁画が描かれたのが1951年
ああ~上野駅~井沢八朗さん~💺🚅🚄🚉
上野発の夜行列車🎵。(*´・ω・`)b昔はよく利用されてたんだけどなぁ…。今は東京駅が中心だなぁ…。😅
2:16って出札じゃない?
そう、出札=切符売り場です。素敵なアーチをくぐり、右側に出札がありました。昭和50年代まであの場所で長距離切符を売ってました。
確か上野駅は戦災に合って無い?
上野駅ったら自衛隊の勧誘・・・「兄ちゃんいい身体してんな。どう?自衛隊入んない?」って誘ってくるおっさんがいました。30年以上前の話です
いつも有難う御座います。上野駅と言えば私の中では猪熊弦一郎氏の『自由』です。子供の頃、新潟に帰る祖母を送りに行く度に見ていました。今年の正月は神田明神に初詣。ぶらぶら歩いて「上野藪蕎麦」にて天せいろで一杯やって来ました。上野は心の駅ですね。
懐かしいですね、自分には国鉄時代の思い出です。
学生の時、北海道の実家へ帰るのに飛行機を使えばいいものの旅情を感じたくてわざわざ夜行列車→青函連絡船と乗り継いで帰っていました。
改札口には電光掲示板が無く、行き先と列車名の書かれた鉄板が沢山並んでいて、列車が出ると改札員が板を外して新たな表示版をぶら下げる、という作業を頻繁に行っていた事を思い出しました。
昭和34年に私の育った春日通りに近い自宅が四階建てビルと成り屋上からは、山手線常磐線がホ-ムへ列車が動いていたのがよく見える所でした。勿論富士山もいつも御徒町のガ-ドの一寸上に、クッキリと見える、まだ光化学スモッグなど排ガスによる影響に本当に少ない時期でした。上野駅は私の祖母が貧しい、水飲み百姓の畳の無い、布団も無かった、富山県の田舎から逃げて来て、1人東京で初めて畳に寝た、そんな女中生活。でも貧しく生活苦で学校も出ていなかった、祖母は字が読めません。そこで私が20歳の時、祖母の鞄持ち役で富山の田舎まで上野から特急白山に乗って出掛けた思い出が有ります。その田舎で祖母の姉に久し振りにあい旅館で一晩夜中に1時まで2人でお喋り、それが姉と会った最後の時。その祖母も勝っては、明治の終わりに上野駅に着いた、田舎者でした、本当に貧しい田舎から私の父親、つまり祖母からしたら息子が戦地から帰って来て、一代で会社を立ち上げた、成功者でした。上野駅を見ると、その祖母の想いと、父の戦後食いしばって頑張った、想いがダブって見え隠れする、思い出の郷です。
今では私は、縁あって、英国人妻と仲良く暮らす英国生活です。
既に日本を離れ38年。 書道師範を取り勝、日本庭園を愛し、小さな庭でも日本を感じる英國では珍しい作庭法の庭。郷愁とはこんなモノかと七十の歳になって日本を懐かしく思う心は、矢張り日本人の心は大事だと思う、そして上野駅は、多くの東北地方からの移住者達の、想い出の所です。 筆を持ち写経する時、あの上野駅がよく見えた想いは、消えずに永久に、私の目に残ります。どんなに近代化させても人々の郷愁の想いの場は、変わらないで欲しいと、遠く1万キロの海外から感じる想いです。
幼少の頃、母親の故郷へ向かう時に見た景色と同じでした。
両手にお土産やビールをたくさん持った大人が笑顔で特急電車に乗り込んでいくのが印象的でしたね。
動画お疲れ様です。ありがとうございます😊
半世紀以上前、上野には動物園、博物館見学に行きその後はパンダ見物…そして現在はアメ横の帰りに御徒町を使わずに行くくらいですね、私は
さすがに今回の写真はすぐ分かりました。まったく
変わってはいませんね。上野駅は確かに全盛期は過ぎたと
言われてますが、いまだに都内では一番個性的で味のある
駅舎だと思います。駅らしい駅というかな。
都内のターミナル駅がどこも時代とともに姿を変えていく中で、上野駅はもっとも昔からの原型をとどめている気がしますね。
東北からの玄関口でしたね
2:15 違ったら申し訳ないですが、これは切符売り場の窓口ではないでしょうか。
自動券売機が出来て、自動改札もICカードやスマホになり、窓口はなくなったけど、
アーチの先の改札の右手にずらりと券売機が並んでいた頃はまだこの雰囲気が残ってましたし、
今でも基本的な作りは変わってないと思います。
先日、子供の受験の合格祈願で上野大仏へお参りに行って来ました。中央口は綺麗な駅舎の中に昔の面影も残っており、子供の頃を思い出しながらゆっくり歩きます😊
上野駅、興味深く拝見しました。
音楽もステキですね。
石川啄木の歌碑は、しょっちゅう見ますね。自分も同じ岩手出身。簡単に帰られない故郷への思いで、上野駅に、東北弁(んだべ等)だけでも聴きに行ったんでしょうね。
今のような便利な時代ではないですし、東北の玄関駅でしたから。
3代目駅舎の中がatreになって、中央入り口の2階にエスカレーターで上れるようになったときは感動しました。
「二階はどうなってるんだろう」と子供の頃から思っていたので。
昭和末期の上野駅には、大きなぬいぐるみのパンダが鎮座しておりました。アメ横にもなぜかパンダの毛皮が売ってましたっけ。まさか本物ということもなく、おそらく黒熊と白熊で縫い合わせて作ったのでしょうか。だとしたら、特売品で白黒逆の毛皮もあったかも。と考えてしまう私でした。
集団就職組だったある営業次長さん。上野駅には怖くて近寄れませんでした。そのまま吸い込まれて故郷に帰らされてしまう悪夢だったそうです。田舎ではまだ白いお米が食べられなかった時代で、どんなに怒っている時でも、定食屋に連れて行って白いご飯を出すと、黙々と食べていましたっけ。そんな時代はすぐ最近まであったんです。
相変わらず素晴らしいですね!
昔の上野駅は想いも重いが根強くある印象です。
ノスタルジーにしたれますね〜‼︎
ありがとうございます。
昔は風情がありますね。
外観は「小樽駅」に似ていると感じましたよ。
昭和50年代までは駅構内の写真の雰囲気が残っていました。改札を入ると東北や上越に向かう電車が並んでいたのを思い出します。
小学校の友達に連れられて入場券で入りL特急の車内に入り薄い紙コップ水でを飲んでいました。
丸井デパートは昔は京成デパートと呼ばれていましたが昭和の終わり頃に丸井デパートに替わりました。
1970年代は東北新幹線が開業前で地平ホームは青森、秋田、盛岡、新潟等へ向かう長距離列車が必ず停車していた。夜行列車も多かった。母親の実家が秋田で485系つばさは良く乗った。今でも思い出すのは地平ホームの改札に列車名の看板が居酒屋メニューの様にぶら下げられていた事。
思わず「おお、すげぇ」と声が出ました!ちょうどいま中島京子さんの『夢見る帝国図書館』という本を読んでいて、たまらなく上野を歩きたくなっているところです。
今回のは、あの天井の形とかですぐ場所は分かりました。1976年頃、通学で利用してましたけど、写真のような感じだったですね。場所によっては薄暗く狭い通路とか、要塞の通路っぽくて結構好きでした。
ここ何十年も上野駅は利用してないし、暖かくなったら行ってみようかな。
駅構内にギリギリ靴磨き屋さんが居た頃ですね
いつも楽しみに拝見しております。普段見慣れている駅の90年前の姿を見て、とても切なくなりました。この頃は、当然インターネットもスマホも無くて、これから戦争が起きるなんて考えられない時代だったかと思います。私は産まれてもない時代なのに、「ああ、あの頃から90年も経ったんだ」という気持ちになりました。あのころに比べると今は、とても便利で平和な時代になりましたね。東京駅もいつか特集してくださると嬉しいです。
上野駅ではいくつもの出会いと、同じだけの別れがあり、これからも続いていくんでしょうね。悲しみも、喜びも乗り越えて。
今のJR東日本はこの上野駅駅舎ですら破壊してビル建てそうですね。
原宿駅の件もありますし明治時代の御料車庫も破壊してピルを建設するような会社ですから…
いつまでもこの3代目駅舎であって欲しいです。
お疲れ様です上野駅の歴史いいですねー、裏の道が無くなったのは公園口が綺麗になったからなんですね。
私にとっての上野駅は新橋からの最終の終点ってイメージが強く公園口のタクシー乗り場より西日暮里に帰ったことがよくありました・・バイクでの通勤もありましたがやはり雨だと電車でした。
今思えば鶯谷まで1キロ日暮里まで1キロで西日暮里まで500mぐらいって認識ですので歩いて帰ればよかったとも思ってます。
東北から行きますと、上野で乗り換えした記憶があります。
私は、知りませんが集団就職で上野で乗り換えて、各地に行ったのでしょう。中学終わって親元から離れ
自立しなければならない少年少女の心の中😂辛かったでしょう。
東京都民やJRはもっと「上野」駅を大切にしないといけないと思う。
戦後の大復興は集団就職者や冬季の出稼ぎ労働者が居たればこそ…。
「上野」駅に遠き思い出を抱く団塊の世代はもう高齢者となり、今のままではそう遠くない未来を待たずに失われてしまうだろうな🥲
自分は東北や北陸上越新幹線乗る時は上野から使ってます。東京駅の料金取られるのいやなので。
これは一目見てわかりました。子供の頃から見慣れた光景!
あゝ上野駅…山谷の大衆酒場で呑んでた時「金の卵」だった方から身の上話を聞いたのを思い出しました(ドヤ街で絶対に話題にしてはならない話題でしたが、先方から問わず語りで…)
懐かしいです。
公園口や浅草口は随分変わりました。東北新幹線ができてから変わったのかな。
今でも年に一回は行っているのですが、50年前にはアトレとか無かったです。
上野駅の建物は、1920年代〜30年代に流行った、アールデコという美術様式の建物です。旧満州・中国北部には
同じ様なデザインの建物がたくさん残ってます。線と面でできた単純なフォルムで、この時代を代表する美術様式です。
貴賓室を再現してほしいですね。日本人はなんでも新しいものを建てたがるので、この建物の外観だけは残こすべきですよ。
できれば古い時代の内装や、地下の食堂街も復活して欲しいですよね。
駅構内の山手線、京浜東北線への上り口のコンコースの梁が非常に低いか所があります。一説によると、建設当時の日本人の平均身長に基づく設計とも言われています。定かではありませんが、
上野駅の鉄骨の天井懐かしいですね!頭に当たりそうでかがんで歩いた通路はまだあるのでしょうか?
学生の時、福島へ向かう電車が上の始発で、特急料金が払えなくて急行を使ったのが思い出です。
中央改札口前は今と同じですね
上野駅、まだ上野東京ラインが運行していないときは、地元から東京に着いて、降り立ったのが上野駅でした。
全盛期は多くの特急・急行列車が発着して、見に行って写真も撮りました。
日本の玄関は東京駅ですが、東京駅開業前は新橋と並び称される、玄関だったと思います。
お疲れ様です。今でも昭和の初期に建てられた駅は多くありますが東京近辺で昔の面影を残す駅ははどのくらいあるのでしょうか。機会があれば他の駅もお願いします。
東京駅と同じく「水に浮いている」上野駅・・・メンテが大変だろうな~(^^)
映画「男はつらいよ」の第一作目にも出てきた地下の食堂街は事情があるにせよ封鎖してほしくなかった、階段も通路も埋めてしまったのだろうか。そういえば「ああ上野駅」の歌碑のある場所は以前、電話ボックスが並んでいてそこで何処かの外国人がテレホンカードを売っていたっけ。
中央改札の映像の所で90度右を向いた辺りに両替窓口が有って、両替商が有料で両替をしていたそうです。
今は銀行の両替機で無料で両替出来ますけど、昔は両替するのに一定の手数料がかかったそうです。
もう、その窓口跡も無くなったかな?
大阪駅も新しくなりました
時代も変わった
昔は、正面玄関って言ってましたね。。。子どもの頃帰省時に東海道新幹線の切符を買った(買ったのは親ですが(笑))思い出があります(;^_^A
帰りたくなった😢
2:05 中央改札の上にある猪熊弦一郎の壁画が描かれたのが1951年
ああ~上野駅~井沢八朗さん~💺🚅🚄🚉
上野発の夜行列車🎵。(*´・ω・`)b
昔はよく利用されてたんだけどなぁ…。
今は東京駅が中心だなぁ…。😅
2:16って出札じゃない?
そう、出札=切符売り場です。素敵なアーチをくぐり、右側に出札がありました。
昭和50年代まであの場所で長距離切符を売ってました。
確か上野駅は戦災に合って無い?
上野駅ったら自衛隊の勧誘・・・
「兄ちゃんいい身体してんな。どう?自衛隊入んない?」
って誘ってくるおっさんがいました。30年以上前の話です