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博学さんが集うコメ欄、読んで唸った、そうなんだ! 得した気分。
大昔は尾張物部ってのが居たのかぁ。僕は福岡県内に住んでるけど、こちらにも大昔には企久(きく)物部・遠賀(おんが)物部・芦屋物部が居て、今もその子孫の一部が小倉南区に住んでます。ただ、現在では物部氏を名乗っておらず、巫部(かんなぎべ)氏と名乗っる。氏姓で判るように神主さんの家柄。
埼玉の北野天神社の正式名称は物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社です。ここでわかることは物部天神もちゃんと昔はあったのだろうということです。おそらく名古屋の物部神社も物部天神であったものが、勧請された天満天神社に名称が移ってしまったのかなと思います。(追記)上記のようにぱっと書きましたが天満天神社が勧請された記載を見つけられなかったので、これはちゃんとした物部天神社で御祭神は饒速日命じゃないでしょうか…。本殿の御祭神は息子の宇摩志麻遅命なので矛盾点はないように思います。Spiritual Jomonさんのコメントがようやく噛み砕けました。ということは後世に天神信仰の文脈のなかで道真公の関連物が置かれていった可能性が高い気がします。(追記2)出雲の石上神社でも御神体として霊石である石上様を祀っているようで、御祭神は布都御魂となっているようです。名古屋の石神様も布都御魂であると考えるのが物部氏ゆかりの神様として自然な感じがします。すみません、いろいろ調べてたら止まらなくなってしまいました。諏訪の物部守屋神社を訪れたことはあって、どうしてうらぶれているのか、石が御祭神なのか、不思議に思っていたので良い機会となりました。
「フツ」は徐福の本名、徐市。市はフツと発音しましたからフツ***神は徐福の事。物部は、徐福が三千人の海童(秦国の少年少女)とあらゆる職人たちを率いて佐賀の吉野ヶ里に定住化。この際、徐福は「ニギハヤヒを自称」して、北九州の雄、宗像/宇佐王家(出雲神族/出雲王国の分家)の惣領姫の「市杵島姫命」と政略結婚して、彦ホホデミとホヤ姫命を生みました。それに先立って、秦の始皇帝の勅命を奉じた徐福は二千人の海童と共に出雲王国に渡来して彦ホアカリを自称して、出雲王国の内親王、高光姫命と結婚して、長男の五十猛を生みました。この直後に徐福は自ら王と成らんとクーデターを起こして出雲王と同副王を配下のホヒとヒナドリに命じて暗殺(洞窟に幽閉して餓死させた)。しかし、結局企ては失敗に帰して配下の海童らは鎮圧され、出雲王国から命を付け狙われる事態にあわてて秦国に逃げ帰った。(コレ(出雲王と副王を暗殺したこと)が、徐福の子孫や配下勢力の子孫たちが大国主命や事代主/大物主/スクナヒコ命(手間天神)の祟りを恐れる理由。また、大国主や事代主/大物主/スクナヒコ命の子孫(例えば、菅原道真)を害したさいに(重層的な)祟りを恐れる理由)五十猛がクーデターの失敗でちりじりになっていた海童/秦人を呼び寄せて丹波に集団移住して丹波国を建て、五十猛は「海(天)カゴヤマ」を名乗ります。異母妹のホヤ姫命が海カゴヤマに嫁いで生んだ「海ムラクモ命」が後に大和王国の祖、初代大王に就任。古事記は海ムラクモ大王を架空の神武天皇に祭り上げると共に出雲王国の約700年間は「なかったことに」して。神話に押しやりました。出雲王国の初代、菅の八耳命の即位した紀元前660年を架空の神武天皇の即位年に横領。約10代の齟齬を古代の春秋2倍暦(今の一年は二歳)を悪用して水増し彦ホホデミが物部王家の祖。十数代の後に九州の物部が親戚の大和王国を攻め滅ぼし大和に物部王朝を樹立したことを神武天皇の東征等とした。またこの際、出雲王国も攻め滅ぼしています。こちらは例えば「出雲の国譲り」や「スサノオ(物部)の乱暴狼藉(総攻撃)の末に天照大神(出雲王国)が岩屋に隠れた(滅亡した/しかし元王家はかろうじて存続)」等とした。
今回も私の地元のことを取り上げてくださってありがとうございます。この神社も歩いていける距離にありますんで。こじんまりとした神社ですが、妙佛様の縁結び祈願が成就することをお祈り申し上げます。、、おーっと!
秋田にも一軒物部家があります。聖徳太子、推古天皇、蘇我馬子二負けた物部氏の前ウエイト言う科眷属でしょう。八百(やそ)物部と言われるほど物部氏は親族眷属が多く、主に軍事を司っていました。また、銅山等鉱山を見付け、精錬し武器を作る事に長けていました。秋田の物部産は荒川鉱山(銅山)近くにいたと思います。40年ほど前までの投手は寝台も序を読め、自分の家の社で祝詞を上げて多様です。「なんとかゆらゆら。かんとかゆらゆら」とか言う祝詞だったらしく抑揚や調子等は変わっていたらしいですが、大阪の石上神宮の祝詞と同じだったようです。元々石上神宮は物部氏の神社であり、物部氏の一族の末裔の石上家が継いでいたと思います。古代日本では負けた一族でも必ず血は残したのです。(武田家も徳川家の旗本として残ってた)
「ヘンガク(扁額)」は横長の額のことです。この神社のものは一般には「神額」です。揚げ足取りですみません。
神額ですか!ありがとうございます。勉強になりました。
知っていて、知らぬふりとはさらに謎。尾張一宮の真清田神社の御祭神ほあかりのみこと(天火明命)は饒速日の別名です。菅原道真教がこの神社にも入り込んだというのが真実です。
イタリアから視聴しています。狛犬たちが、よく盗まれないものだなぁ。。。日本って本当に治安が良いの実感する映像です。
物部神社は初めて知りました。狛犬の顔に特徴ありますねー ところで同じく名古屋市内で物部氏ゆかりの神社ありました。名古屋市北区楠味鋺(あじま)というところにある味鋺神社です。祭神は宇麻志麻治命です。昔は流鏑馬やっていたそうです。物部氏関連の神社を初めて見た!と思ったので記憶にあります。きっとこちらの物部神社とも関係があるのではと思いました。
幼稚園のバス待ちで、民家の角っ子にある、めっちゃちっちゃい神社。母様に抱っこしてもらって隙間から中身を見ようとしたっけ。。。稲荷神社だったかな?神社大好き♡小さな神社も見飽きないよね。さぁ、この調子で出雲までいこうぜ!出来れば神無月に!
物部氏の末路は、少し菅原道真公に似ている?と感じました(´・ω・`)・・特に💠丁未の乱によって、敗北した物部守屋の祟りを・・朝廷が激しく恐れたり信州善光寺では、本堂の御本尊手間に、今でも( 鎮魂 )の守屋柱があります🙏善光寺というと💠🐃牛に引かれて〜で有名ですが、ここでも牛が登場しますね。「日本は二本である」と言った人がいますが、神道の歴史はそれに近いものがある。昼を司る天照大神☀️と、夜を司る月読命( ツクヨミノミコト)🌙は姉弟でも担当が異なりそれは💠陽と陰の渦でもあり・・武器を持っても🌀使い方すら要領を得ないのがアマテラス系💧反対に同じ神道でも、軍事に長けて好戦的な才覚を持つのが出雲系( スサノウ)の霊統です。(・・まるで太陽を遮るように出る雲 ・・けれど人間は晴天続きでも生きられない )ですから⚔️物部氏が兵器製造が得意で、有力軍事氏族に成長と知って、ピン📌ときました。
天神とは、高天原にいた神を全て天神と呼びます。
勝海舟の公式の名前は勝安房之守物部之義邦と云うんですね、蘇我之馬子との合戦に敗れた後歴史に殆んど現れなかった物部氏の名前が、幕末の重要人物に関わっている事を知り驚いています。因みに織田信長は織田上総介平之信長、徳川家康は徳川武蔵守(だったっけ?)源之家康、日本の歴史って凄いと改めて思いました。Ps.[物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)]云々の話が某情報サイトに有りました。
八俣遠呂智さんのTH-camを見ると納得できるようになります。日本に一番古くからいた豪族の末裔?尾張物部氏から皇后を選出しています。九州の遠賀川から河内、尾張へと移動しています。
私の家の近くに石切神社があります!(ニギハヤヒ御祭神だそうです)そこは物部の一族が国を支配してたとされ、そこの草加の地は日下といい→これが日の元となり日本という名前がここから生まれたそうです…そこの神社も牛を祀られてますが同じく蛇も何故か祀られてあります!蛇信仰=龍神です!龍と牛といえば角を連想させてるように思いますが…話によると物部は牛頭族…ドラコニアンの厶ー先祖で日本の古来先住民で(アイヌ民族と一緒です)その物部氏が→戦いで者の負となり→後にモノノ怪(鬼扱い)としてこの世から追い出され封印される始末…豆まきの節分…鬼は何故に外に追い出されたんでしょう…そこにヒントが隠されてます…触れるのを恐れて…本当は鬼は福なのにね?
尾張は前田家発祥地(野見宿禰>菅原朝臣>高辻氏>前田氏)なので天神信仰は尾張から加賀へもたらされたもの。地名に愛知県名古屋市昭和区高辻町がある。石上神宮(物部氏)>石神祖先を辿れば物部氏、前田氏ともに「天穂日命」の子孫だから。天穂日命>饒速日命>宇摩志麻遅命>物部氏>物部守屋天穂日命>野見宿禰>土師氏>菅原氏>美作管家党>前田氏
信州出身です。 信州っても広いから全部存知上げてるわけぢゃないですが、高麗犬さんやお稲荷さんの口や鼻の中が赤いのは普通だったような気がします。 色がついてないのは、風化して落ちてしまったんだと思ってました。
学がない私はさらなる謎を千草駅の近くに高牟神社がありますよね、随分前に物部神社に参拝しようとして思って間違えてきたんですと言ったらこっちも本当の物部神社ですよと言われました、主祭神は応神天皇、どういうこと?
宇摩志遅命は石見國一宮の物部神社(島根県大田市)の主祭神ですね。境内に御陵があります🏹。 尾張國一宮眞清田神社の祭神天火明命(豊饒速日命)の子という説。越後國一宮の一つ彌彦神社の天香山命とは兄弟。 新嘗祭の頃、上記物部神社と彌彦神社、大和國(奈良県天理市)石上神宮と皇居で鎮魂祭が行われます。
菅原道真に関係あったんですね。千種区には晴明神社もありますな。
動画の前半にある物部神社の由緒によると当地の区魁を討ったとあります。区魁、その地の豪族の何某かの祟りを鎮める為に大石を奉ったとも受け取れますね。宇摩志遅命(うましまじのみこと)が祭神という事は、その大石、石神様は長髄彦その人か、それに近しい者という事になりましょうか。僕としてはきっちりその石神様も祀りたい。コメント欄の情報が役立ちました。ありがとうございます。
脱字の訂正。宇摩志麻遅命。「麻(摩)」が抜けていました。
散歩でも、一万超えて、お目出度や。
万超えて 出会う神々 謎深し
@@rokumatsu 様謎々を、楽しむ佛、ゆとり出来。
宇魔さんだからやっぱり馬も祀ってるのね。狛犬もいるし牛もいるし、竜もいる!こんなパワースポット中々ないかも~次はおから猫神社かな?=^_^=
石神の社の中に祭られていたのは、ウマですかね?
いやー、日本人から見てもマニアックな動画ですね。外国人の中で、こういうことに興味がある人がいるかどうか。追記:"物部天神"をググると、関連ブログやサイトが幾つも見つかりましたが、道真との関連は分かりませんね。
少しだけ歩いて、大塚屋さんのたこ焼きとお好み焼き、多司さんのおにぎりも近くて美味しいですよ。
なんやら俗物っぽい神社ですね。 私の希望は熱田神宮見たいですね。 3種の神器の宝剣が祀られているそうですが、自分も結構行ってない神社多いですねー。
神社や古墳の中には、道真公生前のものがあります。 この天神様は、アマテルニギハヤヒで 天津神です。 藤原氏の迫害により 物部氏の氏神が祭れない神社が頭を使いました。 藤原兄弟が疫病で亡くなった時に、菅原道真とあり厚く祭るようになりました。 これを利用して、同じ天神であるニギハヤヒを 菅原天神と祭ることで 藤原氏の弾圧を逃れたと思います。
ぜひ、こんどは名古屋市瑞穂区大喜新町にある田光神社(田光八幡社)もお願いします!
秀真によると、天孫ニニギのお兄さん(天火明)が大和を治めていましたが、世子なく亡くなったので、ニニギの孫(饒速日)が継ぎました。饒速日は、神武東征で一度は争いましたが和解。その子がウマシマジ(物部の祖)です。物部氏は、天皇家の一族です。物部氏は、もともと大和の尾張を本拠としていましたが、のちに名古屋へ移り、尾張という地名もその由来だそうです。
私、物部系の裔みたいなんですが、行った事無いんですよねー 笑😅
今回は謎が多いですね。で、提案があります。1度、お祓いを受けて(スパム退散、悪酔い退散など)、その機会に宮司さんに色々とご質問するのもアリでは? (あ、特定される危険も大かな)
物部神社の近くに物部氏の勢力の大きさを示す高牟神社があります。話は変わりますが、庄内川河口の左岸に七所神社、右岸に萱津神社があり、かなり昔に訪れた際、何故か?大和の東征軍と東京湾への出撃艦隊の最高司令官のヤマトタケルが、庄内川の岸で渡し船を待ってたり、沿岸の美味しい魚貝類ではなく保存食の漬物で接待されたりと教育委員会等の立て看板に書いてありました。普通に読んでも記紀の勇ましさと異なる不謹慎?な記述なので、、、今は、もう無いかも?
散歩の人形アイコン 可愛いですね^^名古屋にも熱田神宮という三種の神器を祀った神宮がありますが私の住む南九州にも霧島神宮・鹿児島神宮・鵜戸神宮・宮崎神宮があります。神宮とは一般的に天皇や皇祖を祀った神社で東京には明治神宮があります。
勉強になりました。ありがとうございます!
石上(いそのかみ)物部は物部各子族を総括する物部の総本家です。大和王朝によって支配権を奪われましたが、ヤマト王権が進出する以前からこの地を統括していた部族です。
「物部神社」 こちらは拝殿と本殿が離れています。拝殿は入られた正面です。本殿は06:00ころのお社です。賽銭箱に石神と書かれていたので石神神社かと思いました。お社の中の石は石神様 御神体ではないようです。石神様の御神体は本殿の下にあり見ることは叶いませんが、「根なし石」の名のとおり、広大な岩盤の一部分が顔を出している状況らしいです。現在、地下鉄桜通線が神社の前を通っていますが、当時は工事がかなり大変だったようです。また、屋根神様も4社祭られています。以前は5社あったそうです。ご自身で祭きれなくて預けられたそうです。天神様は勧請されたのでしょうか?物部氏、石、中中興味深い神社ですね。立場上、物部守屋は敵になっちゃいますね。参考:グーグルマップ様、御朱印ダッシュ!様、水早-mizuhaya-神社と写真と一人旅。様
ほ~う!そう思って見ると有難さが増しますね…ありがとうございます!
@@user-ks8wl2py5t こころから、ありがとうございます。
JR 千種駅から徒歩5分程度の所に、高牟神社と言うのが在り、此所も物部氏の神社だと聞いたんですがどうなんでしょうか?
もともとは物部氏の武器庫だったという話を聞いたことがあります
最近神社の土地盗まれて、小さくなっているのを目にします。酷い状態の所が多い。一体なぜ?変なことが多すぎて!神社なのに、大きな木が全てなくなつて、惨めです。神様がいらっしゃるのか?多分、引越しなさったように思う。
物部氏と言えば、丁未( ていび )の乱で、守屋が木に登ってたばかりに打ち取られてしまった、くらいしか知らず、その後、物部氏がどうなっちゃったかについても、滅亡しちまったんぢゃね? くらい、安易に考えてたんですけど … 実際、聖徳太子一族は滅亡させられちゃってる訳ですし … 自腹をきって下さった( 徂徠 )先生が子孫にいらっしゃるとは存知上げませんでした。 物部氏、脈々と命を繋いでたんですね。 いつも、あかまたさんなどと、気安く書かせて頂いておりますが、例えば郡上八幡では、ハム合戦の闇ばかりでなく連歌を語り、お隣の建中寺では柱の節穴を語るという、その蘊蓄の深さ、動画の落ち着きと気品に、恐れ入るばかりです。 この件『 浪速のせんべらぁ( = 美少女とも )れいランラン 』にも、きちんとお伝えしとかなきゃ。 ランランさんとのコラボ、お待ち申し上げております。
全然歴史に関係なく、不謹慎かもしれませんが、こういった神社って、どうやって儲けているんだろう?神社の境内地は非課税。神社の数に対して神職の人数が絶対的に少ない。無人経営もあり。氏子費も色々問題で集めにくくなって、その経営は厳しいらしい。
確かに謎ですね。特に小規模の神社…
😀😀😀
石神→いそのかみ
菅原道真を失脚・左遷させた人たちが祟りを畏れて菅原道真を神さま(天神さま)として祀ったということではないでしょうか。「石神」は石上神宮の「石上(いそのかみ)」と同義であろうと思います。神楽歌の阿知女作法でも「いそのかみ」という表現が使われています。以下、阿知女作法についてWikipediaとは異なる解釈(独自研究)です。(^_^)y「阿知女(あちめ)」とは朝を意味していると思われます。また、「いそのかみ」とは安曇磯良のことであると思われます。阿知女作法は新嘗祭で祖神である安曇磯良に「朝ですよ(起きてください)」と呼びかけている情景を表しているのではないかと考えています。ちなみに自動翻訳によると半島では現在でも朝を意味する言葉として「あちめ」に近い発音の言葉が使われているようです。
物部は、モノノベ(古代の軍隊)、モノへ(現在で言う総理大臣の様な役職名)、モノベ(名前で、ひょっとしてモノノベと呼び名が変化したオリジナル)の読みが有りますの注意が必要です。ウマシマチが出てくると言うことは、正しくはモノベですね。ウマシマチは初代モノベであり、一族の祖と言っていいでしょう。ではウマシマチはと言うと、7代高皇産霊トヨケ(豊受、伊勢外宮祭神)と、オオヤマスミ(瀬織津姫や木花咲耶姫のご先祖)の子孫です。天照神はトヨケの孫に当たります。つまり、タノクニサツチの子孫ですね。つまり、日本古来の国祖の系統になります。オハリ(尾張)は、ニニキネと木花咲耶姫の子孫になりますので、ウマシマチとは父母方の血をひく同族になります。その中で、正一位迄登り詰めた菅原道真を祀っていると言うことではないでしょうか。正一位と言うと、征夷大将軍と同格ですからね。
そこで、愛知県の印は「八」なんですが、これは八幡神の「八」と考えます。本来は24の筈なんですが。その原因は出自に由来していて、龍神と木花咲耶姫の間にできたのが有名な三方の御子だと思うのです。一晩で身籠もるなんて普通は考えられず、マリアとヨセフの様な事が起きたのだと考えます。日本の神は結構子供を作ってるんですよ。だから直系の子という意味で「八」なのではないかと思います。「八民、八咫」という意味かも知れませんが。なので、尾張は木花咲耶姫の所縁の方が強いかもしれませんね。美濃(蓑)・海部氏も同族(姻族?)と言われます。という事で、愛知は結構力が強い県だと思いますよ。
最近、日高見国とか言われる方がいますが、その意味は、「日高皇」の国という意味で、高皇産霊の領地という意味で、東北一円を指す名称です。ある意味、天照神以前から「日」がシンボルだった事が分かりますよね。菊花紋が「日」をモチーフとした謂れだと思います。
物部はその祖、ニギハヤヒ=徐福が道教の方士(坊主、祭主、マスター/神父)で有ったからガチの道教。神道ではありません。神道は出雲の「幸の神信仰」が骨肉となり物部の道教や宇佐族の月読神信仰他がない交ぜになって出来たモノ。来歴、系統 、教義が全く異なるモノを同じ大鍋にぶちこんで混ぜ込んだ「寄せ鍋」見たいなモノ。故に、神道に教義がない、等と言われていますが、統一性を持った教義等できるはずがありません。中京地域を尾張国と言ったのは、元来?大和王国の高尾張(葛城の笛吹)に盤拠した豪族の尾張氏が第一物部侵攻により大和を逐われて東海地方の当地に至り、盤拠したことに因ります。この際、同族の海部氏も途中まで行動を共にしましたが、父祖の創業の地である丹波(丹後)地方に移ったとの事です。因みに、祖はホアカリを自称した徐福と出雲王国の内親王の高光媛命の御子、五十猛。改め、海カゴヤマ命。父が秦国(中国)から引き連れて来た二千人の海童(少年少女。)を改めて糾合して、出雲王国の許可をもらい丹波に移住。名を五十猛から海カゴヤマに改めて丹波王国を建てました。その海カゴヤマ命に徐福が九州の佐賀吉野ヶ里に再渡来、定住して北九州の雄、宗像(宇佐)の市杵島媛命と結婚して生んだ、彦ホホデミが物部の祖となり、娘のホヤ媛命が異母兄の丹波国王、海カゴヤマに嫁いで生んだ「ムラクモ」が大勢の丹波人(徐福が引き連れて来た海童の子孫ほか)を武装させ大和に南下して威勢をはり、先住していた出雲族が圧倒されて、折れ、海ムラクモを大王と認めて、大和王国が成立。偽系図上の神武天皇はこの大和王国初代大王の海ムラクモ命。大王宮は葛城の笛吹/高尾張に有りました。因みに、当時の奈良盆地は一面湖が広がり大和三山は湖面に浮かぶ小島で、人間活動等出来る状況にはなかった。故に、神武天皇が今の橿原神宮で云々は判りやすい嘘です。海ムラクモ大王が大和王国の大王に「就任」した事を祝賀して出雲王国から贈呈された祝いの品物の剣が後にムラクモ大王に因んで「天ムラクモの剣」(草薙剣)3代タマテミ大王は母親(五十鈴依媛命)の実家の磯城の登美家(大和王国の副王家)で生まれ養育されて、そのまま成人して第3代大王に即位した事から以降は大王家が磯城(三輪山西麓)に移りました。この際、タマテミ大王の異母兄弟は依然、高尾張に居て、ムラクモ大王の剣をタマテミ大王に渡す事を拒否。その後も高尾張家がムラクモ大王の剣を保持し続けて、物部侵攻で大和を逐われ、東海地方/尾張にもムラクモ大王の剣を保持した。コレが天叢雲剣=草薙剣が「尾張氏の神宮」熱田神宮に有る理由です。五十猛/海カゴヤマ命の子孫は祖に肖り、猛(タケル、タケ、タカ/竹、健、武、建、長)を誇りとして一族はこぞって名乗りましたから、尾張氏も「大和のタケル」でも有りました、第二次物部侵攻により出雲王国と大和王国は相次いで滅亡。物部王朝を大和に樹立した物部イクメ大王(垂仁天皇)~の物部王朝は残存勢力や反抗、反落勢力の掃討、鎮圧、平定に大王自ら出征して東奔西走して大変多忙を極めたらしい。古事記等は「大王自ら出征して東奔西走」することが「みっともない」として、「架空のヤマトタケル」を創作して東奔西走させた。物部の神社が尾張地域に有る理由もそれによると考えます。
博学さんが集うコメ欄、読んで唸った、そうなんだ! 得した気分。
大昔は尾張物部ってのが居たのかぁ。
僕は福岡県内に住んでるけど、こちらにも大昔には企久(きく)物部・遠賀(おんが)物部・芦屋物部が居て、今もその子孫の一部が小倉南区に住んでます。
ただ、現在では物部氏を名乗っておらず、巫部(かんなぎべ)氏と名乗っる。氏姓で判るように神主さんの家柄。
埼玉の北野天神社の正式名称は物部天神社・國渭地祇神社・天満天神社です。ここでわかることは物部天神もちゃんと昔はあったのだろうということです。おそらく名古屋の物部神社も物部天神であったものが、勧請された天満天神社に名称が移ってしまったのかなと思います。
(追記)上記のようにぱっと書きましたが天満天神社が勧請された記載を見つけられなかったので、これはちゃんとした物部天神社で御祭神は饒速日命じゃないでしょうか…。本殿の御祭神は息子の宇摩志麻遅命なので矛盾点はないように思います。Spiritual Jomonさんのコメントがようやく噛み砕けました。ということは後世に天神信仰の文脈のなかで道真公の関連物が置かれていった可能性が高い気がします。
(追記2)出雲の石上神社でも御神体として霊石である石上様を祀っているようで、御祭神は布都御魂となっているようです。名古屋の石神様も布都御魂であると考えるのが物部氏ゆかりの神様として自然な感じがします。
すみません、いろいろ調べてたら止まらなくなってしまいました。諏訪の物部守屋神社を訪れたことはあって、どうしてうらぶれているのか、石が御祭神なのか、不思議に思っていたので良い機会となりました。
「フツ」は徐福の本名、徐市。市はフツと発音しましたからフツ***神は徐福の事。
物部は、徐福が三千人の海童(秦国の少年少女)とあらゆる職人たちを率いて佐賀の吉野ヶ里に定住化。
この際、徐福は「ニギハヤヒを自称」して、
北九州の雄、宗像/宇佐王家(出雲神族/出雲王国の分家)の惣領姫の「市杵島姫命」と政略結婚して、
彦ホホデミとホヤ姫命を生みました。
それに先立って、秦の始皇帝の勅命を奉じた徐福は二千人の海童と共に出雲王国に渡来して彦ホアカリを自称して、
出雲王国の内親王、高光姫命と結婚して、長男の五十猛を生みました。
この直後に徐福は自ら王と成らんとクーデターを起こして
出雲王と同副王を配下のホヒとヒナドリに命じて暗殺(洞窟に幽閉して餓死させた)。
しかし、結局企ては失敗に帰して配下の海童らは鎮圧され、
出雲王国から命を付け狙われる事態にあわてて秦国に逃げ帰った。
(コレ(出雲王と副王を暗殺したこと)が、徐福の子孫や配下勢力の子孫たちが大国主命や事代主/大物主/スクナヒコ命(手間天神)の祟りを恐れる理由。また、大国主や事代主/大物主/スクナヒコ命の子孫(例えば、菅原道真)を害したさいに(重層的な)祟りを恐れる理由)
五十猛がクーデターの失敗でちりじりになっていた海童/秦人を呼び寄せて丹波に集団移住して丹波国を建て、
五十猛は「海(天)カゴヤマ」を名乗ります。
異母妹のホヤ姫命が海カゴヤマに嫁いで生んだ「海ムラクモ命」が後に大和王国の祖、初代大王に就任。
古事記は海ムラクモ大王を架空の神武天皇に祭り上げると共に出雲王国の約700年間は「なかったことに」して。神話に押しやりました。
出雲王国の初代、菅の八耳命の即位した紀元前660年を架空の神武天皇の即位年に横領。
約10代の齟齬を古代の春秋2倍暦(今の一年は二歳)を悪用して水増し
彦ホホデミが物部王家の祖。
十数代の後に
九州の物部が親戚の大和王国を攻め滅ぼし大和に物部王朝を樹立したことを神武天皇の東征等とした。
またこの際、出雲王国も攻め滅ぼしています。
こちらは例えば「出雲の国譲り」や
「スサノオ(物部)の乱暴狼藉(総攻撃)の末に天照大神(出雲王国)が岩屋に隠れた(滅亡した/しかし元王家はかろうじて存続)」等とした。
今回も私の地元のことを取り上げてくださってありがとうございます。この神社も歩いていける距離にありますんで。こじんまりとした神社ですが、妙佛様の縁結び祈願が成就することをお祈り申し上げます。、、おーっと!
秋田にも一軒物部家があります。
聖徳太子、推古天皇、蘇我馬子二負けた物部氏の前ウエイト言う科眷属でしょう。
八百(やそ)物部と言われるほど物部氏は親族眷属が多く、主に軍事を司っていました。
また、銅山等鉱山を見付け、精錬し武器を作る事に長けていました。
秋田の物部産は荒川鉱山(銅山)近くにいたと思います。
40年ほど前までの投手は寝台も序を読め、自分の家の社で祝詞を上げて多様です。
「なんとかゆらゆら。かんとかゆらゆら」とか言う祝詞だったらしく抑揚や調子等は変わっていたらしいですが、大阪の石上神宮の祝詞と同じだったようです。
元々石上神宮は物部氏の神社であり、物部氏の一族の末裔の石上家が継いでいたと思います。
古代日本では負けた一族でも必ず血は残したのです。(武田家も徳川家の旗本として残ってた)
「ヘンガク(扁額)」は横長の額のことです。この神社のものは一般には「神額」です。揚げ足取りですみません。
神額ですか!ありがとうございます。勉強になりました。
知っていて、知らぬふりとはさらに謎。尾張一宮の真清田神社の御祭神ほあかりのみこと(天火明命)は饒速日の別名です。菅原道真教がこの神社にも入り込んだというのが真実です。
イタリアから視聴しています。
狛犬たちが、よく盗まれないものだなぁ。。。
日本って本当に治安が良いの実感する映像です。
物部神社は初めて知りました。狛犬の顔に特徴ありますねー ところで同じく名古屋市内で物部氏ゆかりの神社ありました。名古屋市北区楠味鋺(あじま)というところにある味鋺神社です。祭神は宇麻志麻治命です。昔は流鏑馬やっていたそうです。物部氏関連の神社を初めて見た!と思ったので記憶にあります。きっとこちらの物部神社とも関係があるのではと思いました。
幼稚園のバス待ちで、民家の角っ子にある、めっちゃちっちゃい神社。母様に抱っこしてもらって隙間から中身を見ようとしたっけ。。。稲荷神社だったかな?
神社大好き♡小さな神社も見飽きないよね。
さぁ、この調子で出雲までいこうぜ!出来れば神無月に!
物部氏の末路は、少し菅原道真公に似ている?と感じました(´・ω・`)
・・特に💠丁未の乱によって、敗北した物部守屋の祟りを・・朝廷が激しく恐れたり
信州善光寺では、本堂の御本尊手間に、今でも( 鎮魂 )の守屋柱があります🙏
善光寺というと💠🐃牛に引かれて〜で有名ですが、ここでも牛が登場しますね。
「日本は二本である」と言った人がいますが、神道の歴史はそれに近いものがある。
昼を司る天照大神☀️と、夜を司る月読命( ツクヨミノミコト)🌙は姉弟でも担当が異なり
それは💠陽と陰の渦でもあり・・武器を持っても🌀使い方すら要領を得ないのがアマテラス系💧
反対に同じ神道でも、軍事に長けて好戦的な才覚を持つのが出雲系( スサノウ)の霊統です。
(・・まるで太陽を遮るように出る雲 ・・けれど人間は晴天続きでも生きられない )
ですから⚔️物部氏が兵器製造が得意で、有力軍事氏族に成長と知って、ピン📌ときました。
天神とは、高天原にいた神を全て天神と呼びます。
勝海舟の公式の名前は勝安房之守物部之義邦と云うんですね、蘇我之馬子との合戦に敗れた後歴史に殆んど現れなかった物部氏の名前が、幕末の重要人物に関わっている事を知り驚いています。因みに織田信長は織田上総介平之信長、徳川家康は徳川武蔵守(だったっけ?)源之家康、日本の歴史って凄いと改めて思いました。
Ps.[物部氏から改めた石上氏(いそのかみうじ)]云々の話が某情報サイトに有りました。
八俣遠呂智さんのTH-camを見ると納得できるようになります。日本に一番古くからいた豪族の末裔?尾張物部氏から皇后を選出しています。九州の遠賀川から河内、尾張へと移動しています。
私の家の近くに
石切神社があります!
(ニギハヤヒ御祭神だそうです)そこは物部の一族が国を支配してたとされ、そこの草加の地は日下といい→これが日の元となり日本という名前がここから生まれたそうです…そこの神社も牛を祀られてますが同じく蛇も何故か祀られてあります!蛇信仰=龍神です!
龍と牛といえば角を連想させてるように思いますが…
話によると物部は牛頭族…ドラコニアンの厶ー先祖で日本の古来先住民で(アイヌ民族と一緒です)その物部氏が→戦いで者の負となり→後にモノノ怪(鬼扱い)として
この世から追い出され
封印される始末…
豆まきの節分…鬼は
何故に外に追い出されたんでしょう…そこにヒントが隠されてます…触れるのを恐れて…本当は鬼は福なのにね?
尾張は前田家発祥地(野見宿禰>菅原朝臣>高辻氏>前田氏)なので天神信仰は尾張から加賀へもたらされたもの。
地名に愛知県名古屋市昭和区高辻町がある。
石上神宮(物部氏)>石神
祖先を辿れば物部氏、前田氏ともに「天穂日命」の子孫だから。
天穂日命>饒速日命>宇摩志麻遅命>物部氏>物部守屋
天穂日命>野見宿禰>土師氏>菅原氏>美作管家党>前田氏
信州出身です。 信州っても広いから全部存知上げてるわけぢゃないですが、高麗犬さんやお稲荷さんの口や鼻の中が赤いのは普通だったような気がします。 色がついてないのは、風化して落ちてしまったんだと思ってました。
学がない私はさらなる謎を
千草駅の近くに高牟神社がありますよね、随分前に物部神社に参拝しようとして思って間違えてきたんですと言ったら
こっちも本当の物部神社ですよと言われました、主祭神は応神天皇、どういうこと?
宇摩志遅命は石見國一宮の物部神社(島根県大田市)の主祭神ですね。境内に御陵があります🏹。
尾張國一宮眞清田神社の祭神天火明命(豊饒速日命)の子という説。越後國一宮の一つ彌彦神社の天香山命とは兄弟。
新嘗祭の頃、上記物部神社と彌彦神社、大和國(奈良県天理市)石上神宮と皇居で鎮魂祭が行われます。
菅原道真に関係あったんですね。千種区には晴明神社もありますな。
動画の前半にある物部神社の由緒によると当地の区魁を討ったとあります。区魁、その地の豪族の何某かの祟りを鎮める為に大石を奉ったとも受け取れますね。宇摩志遅命(うましまじのみこと)が祭神という事は、その大石、石神様は長髄彦その人か、それに近しい者という事になりましょうか。
僕としてはきっちりその石神様も祀りたい。
コメント欄の情報が役立ちました。ありがとうございます。
脱字の訂正。宇摩志麻遅命。「麻(摩)」が抜けていました。
散歩でも、一万超えて、お目出度や。
万超えて 出会う神々 謎深し
@@rokumatsu 様
謎々を、楽しむ佛、ゆとり出来。
宇魔さんだからやっぱり馬も祀ってるのね。狛犬もいるし牛もいるし、竜もいる!こんなパワースポット中々ないかも~
次はおから猫神社かな?=^_^=
石神の社の中に祭られていたのは、ウマですかね?
いやー、日本人から見てもマニアックな動画ですね。外国人の中で、こういうことに興味がある人がいるかどうか。
追記:"物部天神"をググると、関連ブログやサイトが幾つも見つかりましたが、道真との関連は分かりませんね。
少しだけ歩いて、大塚屋さんのたこ焼きとお好み焼き、多司さんのおにぎりも近くて美味しいですよ。
なんやら俗物っぽい神社ですね。 私の希望は熱田神宮見たいですね。 3種の神器の宝剣が祀られているそうですが、自分も結構行ってない神社多いですねー。
神社や古墳の中には、道真公生前のものがあります。 この天神様は、アマテルニギハヤヒで 天津神です。 藤原氏の迫害により 物部氏の氏神が祭れない神社が頭を使いました。 藤原兄弟が疫病で亡くなった時に、菅原道真とあり厚く祭るようになりました。 これを利用して、同じ天神であるニギハヤヒを 菅原天神と祭ることで 藤原氏の弾圧を逃れたと思います。
ぜひ、こんどは名古屋市瑞穂区大喜新町にある田光神社(田光八幡社)もお願いします!
秀真によると、天孫ニニギのお兄さん(天火明)が大和を治めていましたが、世子なく亡くなったので、ニニギの孫(饒速日)が継ぎました。
饒速日は、神武東征で一度は争いましたが和解。その子がウマシマジ(物部の祖)です。物部氏は、天皇家の一族です。
物部氏は、もともと大和の尾張を本拠としていましたが、のちに名古屋へ移り、尾張という地名もその由来だそうです。
私、物部系の裔みたいなんですが、行った事無いんですよねー 笑😅
今回は謎が多いですね。
で、提案があります。1度、お祓いを受けて(スパム退散、悪酔い退散など)、その機会に宮司さんに色々とご質問するのもアリでは? (あ、特定される危険も大かな)
物部神社の近くに物部氏の勢力の大きさを示す高牟神社があります。話は変わりますが、庄内川河口の左岸に七所神社、右岸に萱津神社があり、かなり昔に訪れた際、何故か?大和の東征軍と東京湾への出撃艦隊の最高司令官のヤマトタケルが、庄内川の岸で渡し船を待ってたり、沿岸の美味しい魚貝類ではなく保存食の漬物で接待されたりと教育委員会等の立て看板に書いてありました。普通に読んでも記紀の勇ましさと異なる不謹慎?な記述なので、、、今は、もう無いかも?
散歩の人形アイコン 可愛いですね^^
名古屋にも熱田神宮という三種の神器を祀った神宮がありますが
私の住む南九州にも霧島神宮・鹿児島神宮・鵜戸神宮・宮崎神宮があります。
神宮とは一般的に天皇や皇祖を祀った神社で東京には明治神宮があります。
勉強になりました。ありがとうございます!
石上(いそのかみ)物部は物部各子族を総括する物部の総本家です。大和王朝によって支配権を奪われましたが、ヤマト王権が進出する以前からこの地を統括していた部族です。
「物部神社」 こちらは拝殿と本殿が離れています。拝殿は入られた正面です。本殿は06:00ころのお社です。賽銭箱に石神と書かれていたので石神神社かと思いました。お社の中の石は石神様 御神体ではないようです。
石神様の御神体は本殿の下にあり見ることは叶いませんが、「根なし石」の名のとおり、広大な岩盤の一部分が顔を出している状況らしいです。現在、地下鉄桜通線が神社の前を通っていますが、当時は工事がかなり大変だったようです。
また、屋根神様も4社祭られています。以前は5社あったそうです。ご自身で祭きれなくて預けられたそうです。
天神様は勧請されたのでしょうか?
物部氏、石、中中興味深い神社ですね。立場上、物部守屋は敵になっちゃいますね。
参考:グーグルマップ様、御朱印ダッシュ!様、水早-mizuhaya-神社と写真と一人旅。様
ほ~う!そう思って見ると有難さが増しますね…
ありがとうございます!
@@user-ks8wl2py5t こころから、ありがとうございます。
JR 千種駅から徒歩5分程度の所に、高牟神社と言うのが在り、此所も物部氏の神社だと聞いたんですがどうなんでしょうか?
もともとは物部氏の武器庫だったという話を聞いたことがあります
最近神社の土地盗まれて、小さくなっているのを目にします。酷い状態の所が多い。一体なぜ?変なことが多すぎて!神社なのに、大きな木が全てなくなつて、惨めです。神様がいらっしゃるのか?多分、引越しなさったように思う。
物部氏と言えば、丁未( ていび )の乱で、守屋が木に登ってたばかりに打ち取られてしまった、くらいしか知らず、その後、物部氏がどうなっちゃったかについても、滅亡しちまったんぢゃね? くらい、安易に考えてたんですけど … 実際、聖徳太子一族は滅亡させられちゃってる訳ですし … 自腹をきって下さった( 徂徠 )先生が子孫にいらっしゃるとは存知上げませんでした。 物部氏、脈々と命を繋いでたんですね。 いつも、あかまたさんなどと、気安く書かせて頂いておりますが、例えば郡上八幡では、ハム合戦の闇ばかりでなく連歌を語り、お隣の建中寺では柱の節穴を語るという、その蘊蓄の深さ、動画の落ち着きと気品に、恐れ入るばかりです。 この件『 浪速のせんべらぁ( = 美少女とも )れいランラン 』にも、きちんとお伝えしとかなきゃ。 ランランさんとのコラボ、お待ち申し上げております。
全然歴史に関係なく、不謹慎かもしれませんが、こういった神社って、どうやって儲けているんだろう?
神社の境内地は非課税。
神社の数に対して神職の人数が絶対的に少ない。無人経営もあり。
氏子費も色々問題で集めにくくなって、その経営は厳しいらしい。
確かに謎ですね。特に小規模の神社…
😀😀😀
石神→いそのかみ
菅原道真を失脚・左遷させた人たちが祟りを畏れて菅原道真を神さま(天神さま)として祀ったということではないでしょうか。
「石神」は石上神宮の「石上(いそのかみ)」と同義であろうと思います。
神楽歌の阿知女作法でも「いそのかみ」という表現が使われています。
以下、阿知女作法についてWikipediaとは異なる解釈(独自研究)です。(^_^)y
「阿知女(あちめ)」とは朝を意味していると思われます。また、「いそのかみ」とは安曇磯良のことであると思われます。
阿知女作法は新嘗祭で祖神である安曇磯良に「朝ですよ(起きてください)」と呼びかけている情景を表しているのではないかと考えています。
ちなみに自動翻訳によると半島では現在でも朝を意味する言葉として「あちめ」に近い発音の言葉が使われているようです。
物部は、モノノベ(古代の軍隊)、モノへ(現在で言う総理大臣の様な役職名)、モノベ(名前で、ひょっとしてモノノベと呼び名が変化したオリジナル)の読みが有りますの注意が必要です。ウマシマチが出てくると言うことは、正しくはモノベですね。ウマシマチは初代モノベであり、一族の祖と言っていいでしょう。ではウマシマチはと言うと、7代高皇産霊トヨケ(豊受、伊勢外宮祭神)と、オオヤマスミ(瀬織津姫や木花咲耶姫のご先祖)の子孫です。天照神はトヨケの孫に当たります。つまり、タノクニサツチの子孫ですね。つまり、日本古来の国祖の系統になります。オハリ(尾張)は、ニニキネと木花咲耶姫の子孫になりますので、ウマシマチとは父母方の血をひく同族になります。その中で、正一位迄登り詰めた菅原道真を祀っていると言うことではないでしょうか。正一位と言うと、征夷大将軍と同格ですからね。
そこで、愛知県の印は「八」なんですが、これは八幡神の「八」と考えます。本来は24の筈なんですが。その原因は出自に由来していて、龍神と木花咲耶姫の間にできたのが有名な三方の御子だと思うのです。一晩で身籠もるなんて普通は考えられず、マリアとヨセフの様な事が起きたのだと考えます。日本の神は結構子供を作ってるんですよ。だから直系の子という意味で「八」なのではないかと思います。「八民、八咫」という意味かも知れませんが。なので、尾張は木花咲耶姫の所縁の方が強いかもしれませんね。美濃(蓑)・海部氏も同族(姻族?)と言われます。という事で、愛知は結構力が強い県だと思いますよ。
最近、日高見国とか言われる方がいますが、その意味は、「日高皇」の国という意味で、高皇産霊の領地という意味で、東北一円を指す名称です。ある意味、天照神以前から「日」がシンボルだった事が分かりますよね。菊花紋が「日」をモチーフとした謂れだと思います。
物部はその祖、ニギハヤヒ=徐福が道教の方士(坊主、祭主、マスター/神父)で有ったから
ガチの道教。
神道ではありません。
神道は出雲の「幸の神信仰」が骨肉となり物部の道教や宇佐族の月読神信仰他がない交ぜになって出来たモノ。
来歴、系統 、教義が全く異なるモノを同じ大鍋にぶちこんで混ぜ込んだ「寄せ鍋」見たいなモノ。
故に、神道に教義がない、等と言われていますが、統一性を持った教義等できるはずがありません。
中京地域を尾張国と言ったのは、
元来?大和王国の高尾張(葛城の笛吹)に盤拠した豪族の尾張氏が
第一物部侵攻により大和を逐われて東海地方の当地に至り、盤拠したことに因ります。
この際、同族の海部氏も途中まで行動を共にしましたが、父祖の創業の地である丹波(丹後)地方に移ったとの事です。
因みに、祖はホアカリを自称した徐福と出雲王国の内親王の高光媛命の御子、五十猛。改め、海カゴヤマ命。
父が秦国(中国)から引き連れて来た二千人の海童(少年少女。)を改めて糾合して、出雲王国の許可をもらい丹波に移住。
名を五十猛から海カゴヤマに改めて丹波王国を建てました。
その海カゴヤマ命に徐福が九州の佐賀吉野ヶ里に再渡来、定住して北九州の雄、宗像(宇佐)の市杵島媛命と結婚して生んだ、
彦ホホデミが物部の祖となり、娘のホヤ媛命が異母兄の丹波国王、海カゴヤマに嫁いで生んだ「ムラクモ」が
大勢の丹波人(徐福が引き連れて来た海童の子孫ほか)を武装させ大和に南下して威勢をはり、
先住していた出雲族が圧倒されて、折れ、海ムラクモを大王と認めて、
大和王国が成立。
偽系図上の神武天皇はこの大和王国初代大王の海ムラクモ命。
大王宮は葛城の笛吹/高尾張に有りました。
因みに、当時の奈良盆地は一面湖が広がり大和三山は湖面に浮かぶ小島で、人間活動等出来る状況にはなかった。
故に、神武天皇が今の橿原神宮で云々は判りやすい嘘です。
海ムラクモ大王が大和王国の大王に「就任」した事を祝賀して出雲王国から贈呈された祝いの品物の剣が後にムラクモ大王に因んで「天ムラクモの剣」(草薙剣)
3代タマテミ大王は母親(五十鈴依媛命)の実家の磯城の登美家(大和王国の副王家)で生まれ養育されて、そのまま成人して第3代大王に即位した事から以降は大王家が磯城(三輪山西麓)に移りました。
この際、タマテミ大王の異母兄弟は依然、高尾張に居て、ムラクモ大王の剣をタマテミ大王に渡す事を拒否。
その後も高尾張家がムラクモ大王の剣を保持し続けて、
物部侵攻で大和を逐われ、東海地方/尾張にもムラクモ大王の剣を保持した。コレが天叢雲剣=草薙剣が「尾張氏の神宮」熱田神宮に有る理由です。
五十猛/海カゴヤマ命の子孫は祖に肖り、猛(タケル、タケ、タカ/竹、健、武、建、長)を誇りとして一族はこぞって名乗りましたから、
尾張氏も「大和のタケル」でも有りました、
第二次物部侵攻により出雲王国と大和王国は相次いで滅亡。
物部王朝を大和に樹立した物部イクメ大王(垂仁天皇)~の物部王朝は残存勢力や反抗、反落勢力の掃討、鎮圧、平定に大王自ら出征して東奔西走して大変多忙を極めたらしい。
古事記等は「大王自ら出征して東奔西走」することが「みっともない」として、
「架空のヤマトタケル」を創作して東奔西走させた。
物部の神社が尾張地域に有る理由もそれによると考えます。