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家康ってほんと江戸幕府の、初期の組織としての地盤固め上手いよね。
豊臣政権の継承政権も大きいのかもですね。いちから作った幕府ならば俺が俺が揉めてた気がします。豊臣のしくみそのまんま移行させて上手くいった。
寛永寺境内にある様々な燈籠の銘を見ていると、歴史上で名の知れてる大名が見ることが出来、とても身近に歴史を感じられます。
こうやって家康を見ると,鎌倉室町という武家政権の失敗を踏まえた上で確り勉強し、対策しまくってたんだなって感心する。これは200年も続くわ。公家も武家も丁度良い感じに抑えられてる。凄いと思う
国公立文系志望の新高3です。自分は2次試験にも日本史がある所を志望しているので1年間よろしくお願いします。
なんだろう、この分かりやすさ
幕末の伏線(会津藩)がここにあったんですね!ほんといつも新発見の多い動画で助かります。
秀忠がちゃんと評価されてて嬉しい(家光回だけど)
家光と正之の兄弟タッグいいよね家光の贔屓もあったかもそれでもその贔屓に負けないくらいに正之も努力と奉公を重ねていったから兄弟の仲は良かったのかも
父、母も同じ実の弟の忠長といざこざになり、忠長が改易の切腹になったことで家光に「やるせない気持ち」があったのかもしれませんね。そんな時に新たな弟の存在を知ったからこその溺愛と信頼になったのでしょう。保科正之も傲慢な性格でなかったのも良かったのかもしれません。会津松平家藩祖なのに養父の保科家への御恩から正之は終生保科性を名乗ったのも有名、徳川絶対忠誠の「家訓十五箇条」が幕末会津藩を苦しめることになるのは因果としか言いようがありません。
孫と息子が年齢同じってすごいな
理解できんよな
生まれながらの将軍も並大抵ならぬプレッシャーだけど、家光だからこそ基盤固めがしっかりできたんだよな
いつもありがとうございます!
家光なのに参勤交代が出てこなかったのが意外です
親藩徳川御三家の中でも水戸家は逆に経済力は与えられずに権限が与えられていると思います。水戸は尾張、紀州ほど所領・石高は大きくない、水戸城も小ぶりの小さなお城です。水戸藩の特別な役職は「直接将軍を出さない」代わりに「将軍にもしものことがあった時の代行決裁権限」が与えられ、徳川宗家の継承権者が決まっていない場合の将軍指名権がありました。将軍代行なので江戸在勤が義務づけられて藩主在任中は所領の水戸に帰れない家でもありました。譜代の中でも特別に経済力を与えられたのが譜代筆頭井伊家で、その理由は「京都のもしもの時の出兵警護」を京から近い彦根でその役割が義務付けられていました。幕末に「彦根藩井伊家への京都出兵命令」が現実に起こるのですがこの時井伊家は桜田門外の変で当主で大老の井伊直弼が暗殺される事件が起こりました。いよいよ京都出兵なのに彦根藩井伊家はその任務を果たせない、譜代筆頭井伊家に代わりに京都出兵を命じられたのが、この動画でもある藩祖保科正之の子孫、家格は徳川御三家の次席の会津藩松平家になります。家光の弟保科正之の溺愛ですがちょうど父も母も同じ弟の徳川忠長と揉めて忠長は切腹となり、兄弟なのにいがみあった無常感からなのかもしれません。
尾張藩は将軍候補とうとう一回も来なかったのよね… 初期の大久保ー本多とか土井・酒井等譜代らの潜在的な権限主導権争いはちょこちょこあったけど基本的に幕府を脅かすことはなかったからやっぱ平和よなぁって
尾張藩は吉通が若くして亡くなったことが大きかったですね。吉通が長生きしていれば彼が将軍になっていたと思いますよ。
外様大名で敢えて薩摩を紹介するこの不穏な感じすきw
家光公の解説ならば外様大名の筆頭格は伊達家ではないでしょうか?
家光の弟(他腹か同腹の違い)で正之は「家綱(家光嫡男)を頼む」と信頼されていたのに対して、忠長は1家臣なのを立場勘違いして暴走した挙げ句、秀忠の危篤の時点での面会も拒否されて大人しくしていれば良いものを余計なことばかり良かれと思ってやり続けた結果家光も庇いきれなくなって忠長側が「兄上自分に対して酷いからもうおしまいだ(意訳)」とばかりに当て付けに近い形の自害の末路を辿るという
なまじ、中途半端に優秀でそれを過信した君主が政治をミスリードする、これが一番危ないんです。家来と激しく対立したり足利将軍の義教などがそれに当てはまりますねそのような将軍より、家来に任せっきりその方がずっと政治はスムーズに動き家康はそのように政治システムを作っています。将軍の専制的リードは必要でなく、また家来一人に権力が集中し将軍の存在が危うくならない集団的政治体制という、時代劇や小説などで忠長が優秀で、秀忠、そして江からも愛されていたなどと描かれますが、忠長は秀忠から見限られています。これは吉宗の子で兄家重より優秀だと言われた田安宗武とも共通するものですがなまじ優秀であるとおだてられそれを過信し、分をわきまえない態度をとったことに対してそのような人物が将軍となるより暗愚だと言われようが、家来の言うことを良く聞くあるいは家来に全て任せきりにする、その方がいいんです。
秀頼の庶子も国松でしたよね、国松って名前はあまり良くないのでしょうかね?
Youtube高校をよく見ています。良くできているので願がわくば明治大正昭和までをやってくれないものかなあと思います。
お静は側室ではありません。
このコメントを拝見して、気になったので調べてみましたなるほど、正室が嫉妬深い方だったため正確には側室になれなかったのですね新しい知識が増えました、ありがとうございます🌸
鎌倉、室町幕府の失敗の反省が大きく活かされていますね
きた参勤交代を定めた人だ~
生まれながらの将軍か、ようするに家光は幕府の成立になんの貢献もしてないって事だな。
国のナンバーツーとしては執権、管領、大老、戦前の総理等がある。これらはよく宰相と呼ばれる。現在のイメージで言えば行政が強いため権限が強いと言われるフランスの首相や首長の補佐役で有名な韓国の国務総理や日本の官房長官辺りが近いのかな?
家康ハッスル過ぎる笑
もしもどうする家康で、家光の役があったら、私は岡田准一くんか江口洋介さんでしょうね。
家康と春日局の隠し子が家光と云う話もあります春日局の父親は有名な明智の家臣ですしね家康と明智(天海)の関係も気になるところ歴史は面白いですね。
幼名が国松だと死のフラグ確定だな
鎌倉幕府 執権室町幕府 管領江戸幕府 大老 老中
家康のように子供たくさん作ったら少子化対策になるのに。
子供をつくるメリットがこの頃は多かったからね。
家康は産ませるだけで済むから楽だよね なんか腹立つ
家光、目黒、鷹狩と聞いて「目黒のさんま」と思った。
🍸
ある意味ではいち土豪が武家の頂点は、凄い事にです。だけど豊臣秀吉は日本国の頂点でした、天皇は人で無く 神です。
家康さん何人息子いるの!?
11男五女です。男子のうち長男信康は自害、次男秀康は豊臣氏のち結城氏へ、三男秀忠は将軍家、5男信儀は武田へ、四男忠吉、6男忠輝は別の松平へ、七男松千代と8男仙千代は夭折、残った1九男以降が御三家となる。厳密には七男8男も養子に行ってます。養子に行った人は皆関ヶ戦前に生まれてて、言ってない人達は、戦後生まれです。また最後まで残ったのは、次男信康の越前と次男の将軍家と御三家(それぞれ途中で養子入りしています)の5人となります。
家康ってほんと江戸幕府の、初期の組織としての地盤固め上手いよね。
豊臣政権の継承政権も大きいのかもですね。いちから作った幕府ならば俺が俺が揉めてた気がします。豊臣のしくみそのまんま移行させて上手くいった。
寛永寺境内にある様々な燈籠の銘を見ていると、歴史上で名の知れてる大名が見ることが出来、とても身近に歴史を感じられます。
こうやって家康を見ると,鎌倉室町という武家政権の失敗を踏まえた上で確り勉強し、対策しまくってたんだなって感心する。これは200年も続くわ。公家も武家も丁度良い感じに抑えられてる。凄いと思う
国公立文系志望の新高3です。自分は2次試験にも日本史がある所を志望しているので1年間よろしくお願いします。
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秀忠がちゃんと評価されてて嬉しい(家光回だけど)
家光と正之の
兄弟タッグ
いいよね
家光の贔屓もあったかも
それでもその贔屓に
負けないくらいに
正之も努力と奉公を
重ねていったから
兄弟の仲は良かったのかも
父、母も同じ実の弟の忠長といざこざになり、忠長が改易の切腹になったことで家光に「やるせない気持ち」があったのかもしれませんね。そんな時に新たな弟の存在を知ったからこその溺愛と信頼になったのでしょう。保科正之も傲慢な性格でなかったのも良かったのかもしれません。会津松平家藩祖なのに養父の保科家への御恩から正之は終生保科性を名乗ったのも有名、徳川絶対忠誠の「家訓十五箇条」が幕末会津藩を苦しめることになるのは因果としか言いようがありません。
孫と息子が年齢同じってすごいな
理解できんよな
生まれながらの将軍も並大抵ならぬプレッシャーだけど、家光だからこそ基盤固めがしっかりできたんだよな
いつもありがとうございます!
家光なのに参勤交代が出てこなかったのが意外です
親藩徳川御三家の中でも水戸家は逆に経済力は与えられずに権限が与えられていると思います。水戸は尾張、紀州ほど所領・石高は大きくない、水戸城も小ぶりの小さなお城です。水戸藩の特別な役職は「直接将軍を出さない」代わりに「将軍にもしものことがあった時の代行決裁権限」が与えられ、徳川宗家の継承権者が決まっていない場合の将軍指名権がありました。将軍代行なので江戸在勤が義務づけられて藩主在任中は所領の水戸に帰れない家でもありました。譜代の中でも特別に経済力を与えられたのが譜代筆頭井伊家で、その理由は「京都のもしもの時の出兵警護」を京から近い彦根でその役割が義務付けられていました。幕末に「彦根藩井伊家への京都出兵命令」が現実に起こるのですがこの時井伊家は桜田門外の変で当主で大老の井伊直弼が暗殺される事件が起こりました。いよいよ京都出兵なのに彦根藩井伊家はその任務を果たせない、譜代筆頭井伊家に代わりに京都出兵を命じられたのが、この動画でもある藩祖保科正之の子孫、家格は徳川御三家の次席の会津藩松平家になります。家光の弟保科正之の溺愛ですがちょうど父も母も同じ弟の徳川忠長と揉めて忠長は切腹となり、兄弟なのにいがみあった無常感からなのかもしれません。
尾張藩は将軍候補とうとう一回も来なかったのよね… 初期の大久保ー本多とか土井・酒井等譜代らの潜在的な権限主導権争いはちょこちょこあったけど基本的に幕府を脅かすことはなかったからやっぱ平和よなぁって
尾張藩は吉通が若くして亡くなったことが大きかったですね。
吉通が長生きしていれば彼が将軍になっていたと思いますよ。
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家光公の解説ならば外様大名の筆頭格は伊達家ではないでしょうか?
家光の弟(他腹か同腹の違い)で正之は「家綱(家光嫡男)を頼む」と信頼されていたのに対して、忠長は1家臣なのを立場勘違いして暴走した挙げ句、秀忠の危篤の時点での面会も拒否されて大人しくしていれば良いものを余計なことばかり良かれと思ってやり続けた結果家光も庇いきれなくなって忠長側が「兄上自分に対して酷いからもうおしまいだ(意訳)」とばかりに当て付けに近い形の自害の末路を辿るという
なまじ、中途半端に優秀で
それを過信した君主が政治をミスリードする、これが一番危ないんです。
家来と激しく対立したり足利将軍の義教などがそれに当てはまりますね
そのような将軍より、家来に任せっきりその方がずっと政治はスムーズに動き家康はそのように政治システムを作っています。
将軍の専制的リードは必要でなく、また家来一人に権力が集中し将軍の存在が危うくならない集団的政治体制という、時代劇や小説などで忠長が優秀で、秀忠、そして江からも愛されていたなどと描かれますが、忠長は秀忠から見限られています。
これは吉宗の子で兄家重より優秀だと言われた田安宗武とも共通するものですが
なまじ優秀であるとおだてられそれを過信し、分をわきまえない態度をとったことに対してそのような人物が将軍となるより暗愚だと言われようが、家来の言うことを良く聞くあるいは家来に全て任せきりにする、その方がいいんです。
秀頼の庶子も国松でしたよね、国松って名前はあまり良くないのでしょうかね?
Youtube高校をよく見ています。良くできているので願がわくば明治大正昭和までをやってくれないものかなあと思います。
お静は側室ではありません。
このコメントを拝見して、気になったので調べてみました
なるほど、正室が嫉妬深い方だったため正確には側室になれなかったのですね
新しい知識が増えました、ありがとうございます🌸
鎌倉、室町幕府の失敗の反省が大きく活かされていますね
きた参勤交代を定めた人だ~
生まれながらの将軍か、ようするに家光は幕府の成立になんの貢献もしてないって事だな。
国のナンバーツーとしては執権、管領、大老、戦前の総理等がある。これらはよく宰相と呼ばれる。現在のイメージで言えば行政が強いため権限が強いと言われるフランスの首相や首長の補佐役で有名な韓国の国務総理や日本の官房長官辺りが近いのかな?
家康ハッスル過ぎる笑
もしもどうする家康で、家光の役があったら、私は岡田准一くんか江口洋介さんでしょうね。
家康と春日局の隠し子が家光と云う話もあります
春日局の父親は有名な明智の家臣ですしね
家康と明智(天海)の関係も気になるところ
歴史は面白いですね。
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鎌倉幕府 執権
室町幕府 管領
江戸幕府 大老 老中
家康のように子供たくさん作ったら少子化対策になるのに。
子供をつくるメリットがこの頃は多かったからね。
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家光、目黒、鷹狩と聞いて「目黒のさんま」と思った。
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ある意味ではいち土豪が武家の頂点は、凄い事にです。
だけど豊臣秀吉は日本国の頂点でした、天皇は人で無く 神です。
家康さん何人息子いるの!?
11男五女です。男子のうち長男信康は自害、次男秀康は豊臣氏のち結城氏へ、三男秀忠は将軍家、5男信儀は武田へ、四男忠吉、6男忠輝は別の松平へ、七男松千代と8男仙千代は夭折、残った1九男以降が御三家となる。
厳密には七男8男も養子に行ってます。養子に行った人は皆関ヶ戦前に生まれてて、言ってない人達は、戦後生まれです。また最後まで残ったのは、次男信康の越前と次男の将軍家と御三家(それぞれ途中で養子入りしています)の5人となります。