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今回のお話を聞いて、日本文学は終わっていたのだと認識しました。新しい芸術表現を広く世に知らしめる手段として、あるいは社会や特定の世代が共有して大きなパワーを生み出すメディアとしての役割はもうないですよね。
御視聴並びにコメント、ありがとうございます。日本文学全体となると話は変わってきますが、【社会や特定の世代が共有し、大きなパワーを生むメディア】としての役割は現に果たされていないと私は思います。というより、これはそもそも小説のみが背負うものではないのかも知れませんね。純文学が担っていた文学性は70年代からサブカルへ分散した。つまり漫画やアニメを含めて、私たちにとっての文学とは何かを考えていかなくてはならないのだと思います。
芸術的な営みの事を一般的に創造とか創作とかって言ったりするけど、芸術とは実は創るよりも壊す方が得意なんだというの、面白いなー。
コメントいただいて、高橋源一郎さんや島田雅彦さんは純文学の権威を破壊したよな……と思い出しました。やはりその後の創造が、問題になっているのかも知れません。
市民的主体を政治的主体とした近代主義。「大人になれよw」という冷笑と現実主義。ここらはフーコー的な意味で制度を志向するものであり、それに揺さぶりをかけるという意味では文学にはまだ死んでほしくはない。
浪漫と自然とそれから耽美、みんなちがってみんないい✨✨✨
「私小説」はストゼロ文学、「革命」は無敵の人、「悲恋」はメンヘラ、「逃亡」はニートを彷彿したそう仮定すると「まだまだ生き残ってまっせ」て感じw
自慢(不幸など)がちらつく作品は距離を取られがちなんですね。勉強になりました。個人的には、自慢自体が問題というより自慢の仕方が問題な気がしてます。たとえ、自慢でもその仕方や形式に面白さや美しさ、深さなどがあれば、感心してしまうからです。聞いて呆れる武勇伝もあれば、話し方が上手く、引き込まれるような武勇伝語りがあるのと似ているかと思います。そのような事を踏まえると、批判の対象になりやすいのは「ただ、その人の欲求を満たす自慢で完結してしまった作品」だと勝手に思いました。
私小説を批判した批評家中村光夫が悪いのだ。あいつの書く評論文は何だ?。です、ます、の文体。作品に対する思い入れを回避している。と言ったのは吉本隆明である。車谷長吉を読むと私小説は無くならない。と思う。
吉本隆明、そんな中村批判をしていたのですか。知りませんでした。三浦雅士さんはそれを踏襲したのでしょうね、恐らく。勉強になりました、コメントありがとうございます。
@@read- 返信どうも有難うございます。三島由紀夫賞を受賞しておきながら、イヤミたっぷりな挨拶をした蓮實重彦との対談での発言です。中村光夫は小林秀雄を超えた、との発言に答えたものです。
🌱🤔
本当に面白い小説っていうのは、小説を読んだことない奴に紹介して読む気にさせるような「あらすじ」ができた本に限るかどうか。娯楽である以上、売り上げがあってこそで、作家の教育意思を読者にぶつけるからおかしくなる。作家の顔色を伺って読者は本を選ぶべきではない。資本主義を意識してたら医者になれませんよ。
純文学なんか関わったら ろくな大人にならないぞと みんな言ってましたね
私小説が、自己体験を不幸を誇張して書かれる風潮があり、「どう生きるべきか」という問題を、体験を通して書かれる私小説なんかで語るんじゃない。そんなのただの不幸自慢でしかないし作家の傲慢だろうという評価を受けているという解釈でいいのでしょうか?
私小説――「告白」というものは得てして不幸自慢になりやすく、場合によってはそのための自己劇化さえ行われてきた。作家だからといってそんなことで神格化されてはならない。というのが、大まかな主張です。めちゃくちゃ簡単に言うと、私小説を書くなら「不幸自慢」や「自己劇化」のひと言で切り捨てられない何かが必用になってくる、という理解でいいと思いますよ。
返信ありがとうございます。何度か見返していたところ、文学を批評する人間がプロレタリア文学について、どう生きるかを論じる文学を...というものがあったので私の解釈のそもそもの部分がズレていたように感じました。まだ文学に興味を持ったばかりなので、投稿者様の動画や紹介されている本などを通じて知識を深めたいと思います。
今回のお話を聞いて、日本文学は終わっていたのだと認識しました。新しい芸術表現を広く世に知らしめる手段として、あるいは社会や特定の世代が共有して大きなパワーを生み出すメディアとしての役割はもうないですよね。
御視聴並びにコメント、ありがとうございます。日本文学全体となると話は変わってきますが、【社会や特定の世代が共有し、大きなパワーを生むメディア】としての役割は現に果たされていないと私は思います。
というより、これはそもそも小説のみが背負うものではないのかも知れませんね。純文学が担っていた文学性は70年代からサブカルへ分散した。つまり漫画やアニメを含めて、私たちにとっての文学とは何かを考えていかなくてはならないのだと思います。
芸術的な営みの事を一般的に創造とか創作とかって言ったりするけど、芸術とは実は創るよりも壊す方が得意なんだというの、面白いなー。
コメントいただいて、高橋源一郎さんや島田雅彦さんは純文学の権威を破壊したよな……と思い出しました。やはりその後の創造が、問題になっているのかも知れません。
市民的主体を政治的主体とした近代主義。「大人になれよw」という冷笑と現実主義。ここらはフーコー的な意味で制度を志向するものであり、それに揺さぶりをかけるという
意味では文学にはまだ死んでほしくはない。
浪漫と自然とそれから耽美、みんなちがってみんないい✨✨✨
「私小説」はストゼロ文学、「革命」は無敵の人、「悲恋」はメンヘラ、「逃亡」はニートを彷彿した
そう仮定すると「まだまだ生き残ってまっせ」て感じw
自慢(不幸など)がちらつく作品は距離を取られがちなんですね。勉強になりました。個人的には、自慢自体が問題というより自慢の仕方が問題な気がしてます。たとえ、自慢でもその仕方や形式に面白さや美しさ、深さなどがあれば、感心してしまうからです。
聞いて呆れる武勇伝もあれば、話し方が上手く、引き込まれるような武勇伝語りがあるのと似ているかと思います。
そのような事を踏まえると、批判の対象になりやすいのは「ただ、その人の欲求を満たす自慢で完結してしまった作品」だと勝手に思いました。
私小説を批判した批評家中村光夫が悪いのだ。あいつの書く評論文は何だ?。です、ます、の文体。作品に対する思い入れを回避している。と言ったのは吉本隆明である。車谷長吉を読むと私小説は無くならない。と思う。
吉本隆明、そんな中村批判をしていたのですか。知りませんでした。三浦雅士さんはそれを踏襲したのでしょうね、恐らく。
勉強になりました、コメントありがとうございます。
@@read- 返信どうも有難うございます。三島由紀夫賞を受賞しておきながら、イヤミたっぷりな挨拶をした蓮實重彦との対談での発言です。中村光夫は小林秀雄を超えた、との発言に答えたものです。
🌱🤔
本当に面白い小説っていうのは、小説を読んだことない奴に紹介して読む気にさせるような「あらすじ」ができた本に限るかどうか。
娯楽である以上、売り上げがあってこそで、作家の教育意思を読者にぶつけるからおかしくなる。
作家の顔色を伺って読者は本を選ぶべきではない。資本主義を意識してたら医者になれませんよ。
純文学なんか関わったら ろくな大人にならないぞと みんな言ってましたね
私小説が、自己体験を不幸を誇張して書かれる風潮があり、「どう生きるべきか」という問題を、体験を通して書かれる私小説なんかで語るんじゃない。そんなのただの不幸自慢でしかないし作家の傲慢だろうという評価を受けているという解釈でいいのでしょうか?
私小説――「告白」というものは得てして不幸自慢になりやすく、場合によってはそのための自己劇化さえ行われてきた。
作家だからといってそんなことで神格化されてはならない。というのが、大まかな主張です。
めちゃくちゃ簡単に言うと、私小説を書くなら「不幸自慢」や「自己劇化」のひと言で切り捨てられない何かが必用になってくる、という理解でいいと思いますよ。
返信ありがとうございます。
何度か見返していたところ、文学を批評する人間がプロレタリア文学について、どう生きるかを論じる文学を...というものがあったので私の解釈のそもそもの部分がズレていたように感じました。
まだ文学に興味を持ったばかりなので、投稿者様の動画や紹介されている本などを通じて知識を深めたいと思います。