ขนาดวิดีโอ: 1280 X 720853 X 480640 X 360
แสดงแผงควบคุมโปรแกรมเล่น
เล่นอัตโนมัติ
เล่นใหม่
東海大相模は1977年夏から33年も夏の甲子園から遠ざかっていたなんて信じられません。その間に選抜で何度か優勝や準優勝しているので少なくとも何度かは甲子園に出ていてもおかしくなかったと思います。栃木の作新学院や広島の広陵も数十年ほど夏の甲子園から遠ざかっていたこともありましたね。
おっしゃる通り、本当に意外なブランクですよね。
愛工大名電の夏の甲子園初戦連敗なども同様のイメージかな。平成ラストイヤーで何とか1勝、実に30年ぶりの凱歌でした(^^)。。
平安も暗黒期あったし古豪といえど監督変われば別チームになるし大変
@@岡田康弘-e7p逆に東邦は平成の最初と最後で優勝(春)してますね
東海大相模は華がある。他の地域にはない、洗練された都会のチームという雰囲気が良い。
おっしゃる通り都会的で洗練されたチームというイメージですよね。
ホントそう。東海大系列の高校幾つかある中、やはり相模は縦縞の本家本元。脈々と受け継がれている伝統の重みや風格を何処かしこに感じます(^^)v。。
ちょうど明日Y校と東海大相模の試合を見に行くので楽しみになってきました!東海大相模も好きだけどY校も神奈川の公立で頑張ってるからどっちも応援しちゃう😅
高校野球観戦の前に見ていただけるのは本当に嬉しいですし、このチャンネルのコンセプトにどハマりで😁ありがとうございます!!
私も試合前の保土ケ谷駐車場で見てるこの動画最高です
ジャンボ宮城、三浦、古沢、河原、古屋監督etc。。ブルーにYの伝統ユニがホント懐かしい(^^)⚾🏟⚓🛳🎶。。
神奈川県は相模以前に湘南、法政二と夏の優勝はありますが、東海大相模と桐蔭学園の夏の二連覇から、「神奈川を制すものは全国を制す!」の名言が生まれて、屈指の野球王国に成長しましたね。
その後、横浜高校が春夏と甲子園優勝を達成し、横浜商業も一時代を築きましたね。神奈川県は、強豪揃いの群雄割拠ですね。
子供の頃相模は憧れでした。川崎球場の決勝戦で向上を19対0で破ったと思います。原、津末、村中、伊東、入江など原が2年の夏の鹿実戦。ナイターで相模の選手のセカンドライトの間のフライを鹿実二塁手が下がりながらダイビングで捕球の超ファインプレイもあり勝ち越しできませんでしたが、子供心に今でも目に焼き付いているシーンです。相模は夏の大会以外は白地の縦縞で試合するみたいですかね?また以前は県予選での背番号も白のゼッケンではなく、縦縞縫い付けだったと思います。
鹿実戦は歴史に残る一戦でしたね。確か、NHKが18時以降に教育テレビに延長リレー中継するきっかけとなった試合だったように記憶しております。
ほんとセピア色の記憶がぼんやり鮮明に(^^)甦ってきます。。
鹿実戦は、原が1年生の時ですね。確か、五番打者だったと思います。初戦で工藤(阪神)を擁する土浦日大を下し、次戦では盈進の変則投手から猛打で圧勝して準々決勝で鹿実と対戦しましたね。歴史に残る大熱戦でした。
初めて東海大相模を見たのは原辰徳氏が1年生だった1974年夏でしたが、土浦日大に9回二死から追い付きサヨナラ勝ち、鹿児島実にも9回二死から追い付き、翌年春は豊見城に9回二死から逆転勝ち。9回二死になっても簡単に負けないチームという印象を持ちました。日直は原辰徳氏の同級生ですね。
日直はお察しの通りです。あの時代の相模は、強いだけでなく驚異的な粘りも武器でしたね。
逆転粘りの東海大相模。原辰徳在学中全国制覇できなかったからゆえ何れも惜敗の4試合が今なお記憶に鮮明なのかも知れませんね(^^)🍺🏮。。
東海大相模を初めて見たのは、あの鹿児島実の定岡と延長戦を戦った時ですね。原辰徳が1年生の五番打者でした。その翌年と翌々年も原と津末、村中らを主力とした超高校級のチームとして甲子園で活躍しましたね。とにかくユニフォームが格好良い都会の洗練されたチームという印象でした。
都会の洗練されたチーム。しかも力強い。当時としては、本当に先鋭的なチームだったと思います。
この試合は甲子園の名試合、3本に入ると思います。定岡投手と1年生原選手の対戦。
@@岡本昌彦当時福岡にいましたが途中でテレビ中継打ち切りのため父の車のラジオで聴いていました、鹿児島ではNHKに苦情が殺到して急遽テレビ放送を再開したようです。翌年から高校野球は全試合完全中継されるようになりました、そのきっかけになった試合だと言われています。
競輪選手になった星川淳もいましたね。
横浜高校と共に神奈川を最近はリードしていますがいちじき春のセンバツは出場して上位に進出していましたが夏の県大会決勝で敗れてはなかなか出てこれなかったこともあり苦しんだ時代もありましたね
東海大相模が30年も夏の甲子園から遠ざかっていたのは、今考えると不思議でなりませんね。
昭和45年の夏の大会、主戦上原投手が苦しみながらも一点差のゲームをものにして決勝進出。決勝では後にプロ入りした新美投手や新井選手を擁するPL学園に10-6と乱打戦を制して優勝したのは神奈川県民として非常に嬉しかったのを覚えています。45年後の2015年の仙台育英との決勝戦も6-6で9回表に小笠原選手のホームランを含めて4点を奪って優勝しましたが、スコアが10-6と初優勝時と同じ!不思議な縁を感じましたね。相模は打ち勝つ!という原貢さんのポリシーが生きているのか…
原貢さんの攻撃野球が脈々と行き続けているのかもしれませんね。小笠原投手は昨日もタイムリーヒットを打ちましたし、打撃が良い投手ですよね。
門馬監督は初回から盗塁ヒットエンドラン等結構仕掛ける戦法ですよね!2015の優勝時のチームはツボにはまって、初回からビッグイニング作ってました。あと神奈川は強力なホームランバッターはあまり居ないかな?筒香君、神山君の横浜。正木君の慶応あたりかな?原辰徳も打ったけど、むしろ津末の方がホームランバッターだったイメージ!
ホント出来すぎたような深紅の大旗奪還劇でしたからね。超オールドファンの歓びもより一塩だったのではないでしょうか(^^)。。
東海大相模にも甲子園が遠い時代がありましたけど、その間、東海大一や東海大甲府が甲子園でベスト4に入るなど、大会で躍進しました。ある大会記録も東海系列の学校だけど、この記録は破られることは無いだろうな。
どんな大会記録か気になりますね。東海大一や甲府が、東海大系列では相模に次ぐ実績を挙げている感じですね。
山形のヤツでしょうか?
夏の甲子園で2010年準優勝、15年に全国制覇奪還はオールドファンにはホント胸熱だったですね。春夏4度優勝の門馬氏から名門の看板を託された原俊介監督の下、熱き相模旋風を期待したいところです(^^)v。。
@@岡田康弘-e7p 平成4年のセンバツで少しだけ復活しましたね。吉田投手の力投で。準決勝の天理戦はきわどい試合になりました。
1975年のセンバツのベスト8で沖縄代表の赤嶺投手擁する豊見城が、準優勝した相模と対戦して、9回二死から逆転サヨナラ負けを喫した沖縄因縁の相手を、2010年の夏の決勝戦で、同じ沖縄勢の興南が決勝で相模を大差で敗り、35年越しに雪辱して沖縄悲願の夏の初優勝は、ドラマチックでした。また、この大差の準優勝の悔しさが、名門東海大相模を奮い立たせて、翌年11年のセンバツで打線爆発💣️の優勝に繋げましたね😊
敗れた悔しさが連綿と繋がるのが、高校野球のドラマの魅力のひとつですよね。
ホント仰る通り。このような甲子園ネタでビール何杯でもい(飲)ける私です(^^)🍻🎶。。
豊見城戦 9回裏 逆転サヨナラ ↓th-cam.com/video/bWxUy-G2Zl0/w-d-xo.htmlsi=n2ZgEEJujXq2qXac
野球の相模、サッカーの一高(現翔洋)、ラグビーの仰星、バレーの四高(現東海大札幌)とはよく言ったもので後に若貴兄弟に多大な影響を与えた親子がいたのは小学生時代漫画で読みました。
東海大一高はサッカー強かったですよね。そのような棲み分けがあったんですね。存じ上げませんでした。
高知高との決勝は見応えありました。高知高の杉村さんはヤクルトに入団しました。セカンドの本田さんは後に埼玉の春日部共栄の監督に就任します。そして甲子園で高知高との対戦を望むも残念ながら実現しなかった。
春日部共栄のユニフォームは、高知高校のユニフォームがモデルとなっているようですね。
@@highschool-baseball-history 様アンダーシャツもソックスも全く同じなんですよね甲子園で高知高を倒すのが当時の岡本監督に恩返しと思ってました。
原貢監督は、典型的なこわもて監督でしたが、先進的な面もあったんですね。打撃のチームなので、あっさりと敗退することも多いが、勢いづくと一気に全国優勝。東海大野球部とのつながりで、指導面でも有利ですが、それでも夏の全国大会に、33年間も出場できない期間があったのは意外です。
原貢監督は攻撃野球がクローズアップされる事が多いですが、守備面でも進んだ戦術を駆使していたようですね。夏の長期ブランクは、本当に意外です。
それでもセンバツでの準優勝、優勝には名門の底力を窺わせました。智弁和歌山を渋とく降した00年春の決勝はホント感動を覚えたものです。・゚・(ノ∀`)・゚・🏅🏆🌸🎶☆
@@highschool-baseball-history水飲むなの時代に、ヤカンの水1杯飲んで塩をひとつまみ舐めろと指導していました。
1975年スタメン 佐藤功、森、原、津末、佐藤勉、綱島、崎山、村中、朝倉 超高校級の打撃力が魅力のチームだった。
東海相模と言えば、やはり強力打線ですよね!
東海大相模の監督経験者は、原貢氏の指導を受けたか教え子の教え子が多く、他校の指導者としても活躍していますね。門馬監督の創志学園での手腕にも期待大です。
原貢さんの薫陶を受けたお弟子さんは、指導者として実績を残した方が多いですよね。
77年夏に出た時に宇学(現文星芸大附)に0-10で大敗したのが尾をひいてる気がしてる。その後も下馬評では優勝候補筆頭の代もあったが夏は勝ち切れませんでしたね。
原貢監督退任後初の甲子園ですね。確かにあのスコアは、相模のその後を暗示するようでした。
宇学の見形投手に完封され満塁ホームランも打たれたと記憶しています。
猛打で全国を震撼させていた相模がまるでお株を奪われたかのような大敗。何となくこの年は実力よりも“カオ”で出てきた感がありましたね(^^)。。
@@北町貫多-x5i見形さんは専大では打者に転向し投の山沖、西口と共に活躍しました😊
東海大相模のユニフォームは77年に甲子園出た頃は縦縞の線が細くて数も多かったけど吉田道投手で出た頃から太くて数が少ないユニフォームに変わりましたね!
東海大相模や東海大甲府は、何年か置きにマイナーチェンジしている印象ですね。
村中監督が就任してから生地の色に縦縞の太さや幅が変わったと記憶してます。個人的には東海大相模と言ったら現在のようなユニフォームではなくて、昔の神奈川を圧倒していたあの薄めのブルーグレーに細くて幅の狭いピンストライプこそ名門・強豪の証だと思っています。
@@松板太輔 そのイメージ強いです!
@@マサシライアン 2005年センバツで現在のスタイルに変えた際、門馬監督が「偉大な先輩方達が築いた強さを誇った時代にあやかりたくて」…との理由を言ってましたが、門馬監督本人も選手時代に着用していたあの強さのシンボルとも言える当時の物と色も幅も全然違ってるんで個人的には違和感がありました。現在は殆どの東海大系列のチームがこれを基調に似通ったカラーのスタイルにしてますが…
@@松板太輔 今のユニフォームは本家東海大のユニフォームを明るいブルーグレーにした感じですね!
77年夏の相模は柔道家・山下泰弘先生の実弟である真吾さんが一塁手で出場されているとは最近知りました。
私も初耳でした。ありがとうございます!
2011の選抜の猛打には驚いた前年センバツベスト4の大垣日大(結構前年メンバーが残っていた)から13点準決勝では満塁ホームラン2本で履正社を粉砕満塁ホームランを放った1人に森下翔平選手がいますが阪神の森下と関係あるのかな?
タイガースの森下選手は長男のようなので、少なくとも兄弟ではないと思われますね。
智弁和歌山に快勝の履正社をボコった強力打線ぶりが今も記憶に鮮明です。前年夏の決勝大敗の悔しさを見事に晴らした2度目の紫紺旗ゲットでしたね(^^)v。。
渡辺、臼田は史上最高の1、2番コンビでしたね。
東海大相模といえば、原選手のイメージがありますね。センバツの県岐阜商との試合でデビュー。後に巨人入団。
県岐阜商に15-2で大勝するも2回戦で優勝した 観音寺中央に0-6で完封負けしましたね。懐かしい
県立岐阜商業には大差で勝ちましたが、永島投手をはじめ、如何せん投手陣に課題があるチームでしたね。
観音寺中央がやけに強くて相模に完勝した辺りで優勝するんちゃうの?と正直思いましたね。突如現れた素晴らしいチームでした(^^)。。
@@岡田康弘-e7p 次戦 準々決勝では 星稜に6-4?5-4で勝ち 準決勝では関西に13-6か?で勝ち 決勝で 銚子商に5-0か6-0で完封勝ちし🥇🌸優勝しましたね。背番号⑮の大森と言う選手が印象に残っています。懐かしい
この年の夏の神奈川は日大藤沢。甲子園では観音寺中央と対戦してサヨナラ勝ちでしたな。観音寺はサヨナラのピンチで内野手5人というシフトをされて甲子園がざわめきましたね。この時の観音寺のキャッチャーはメガネをかけた選手でしたけど四国の学校には優勝ジンクスがあります。センバツで高知商が優勝した時のキャッチャーや伊野商が優勝した時のピッチャーとか。
東海大相模高校と言えば原貢さんと息子の辰徳さんは絶対に外せないですね‼️
あの親子が、東海大相模野球部を全国区の強豪に押し上げましたからね☺️
東海大相模が1970年夏に優勝したメンバーの井尻選手や原辰徳氏の2学年下で1977年夏にエースとして出場し、後に東海大仰星の監督になる西選手が和歌山、津末選手が熊本からの野球留学です。恐らくPL学園と並んで野球留学の先駆けとなった学校です。余談ですが、横浜が1980年夏に優勝したメンバーの安西選手は元々東海大相模の進学を希望していたのが、身長が低いという理由で断られ、横浜に進学しました。しかし、相模に進学していなかったら、優勝を経験できなかったので、人生というのは本当にわかりません。
安西選手のエピソード、興味深いですね。お教えいただき、ありがとうございます!
@@highschool-baseball-history さん いえどういたしまして😁これからも宜しくお願いします‼️
門馬前監督の復帰を強く望みます。
創志学園でも早速結果を出されましたし、名将ですね。
横浜高校、Y高、桐蔭、桐光、慶応、法政二、横浜創学館、横浜隼人…神奈川ってやっぱり魔境だわ
こうして改めて挙げていただくと、本当に全国レベルの強豪が犇めく魔境ですね😳
静岡に就任してたら一強にもなり得たはず
三池工業が甲子園全国制覇をした原監督を迎え昭和45年全国制覇。監督の息子さん原辰徳さんが活躍。アイドル選手の人気がすごくファンにかこまれバスから選手が降りれないほどの人気でした。打撃のチームでした。今でも強豪校です。原選手は甲子園に4回も出場しています。
早実の荒木さんは甲子園5回出場だそうです。
昭和52年の宇学に大敗したことが、子供ながらにショックでした。だからではないですが、あの頃のユニで復活してほしかった。62年の神奈川大会・準優勝のときまでのユニでしょうかね。
東海大相模のユニフォームは、微妙にマイナーチェンジを繰り返している印象ですね。
門馬前監督が主将だった87年夏の県大会決勝でY校に敗れたこの試合迄は個人的に一番カッコいい時の縦縞ユニフォームを着用していた筈です。持病の腰痛が悪化し、敗戦後の閉会式を途中で退場せざるを得ず、その際に監督と部長に両腕を抱え上げられながらグラウンドを後にする痛々しい姿が未だに焼き付いています。
@@松板太輔 さん。そうでしたか。相当な苦労人なんですね。あの試合、Y校の2番手の投手も好投して、打線が爆発できなかったんですよね。あのユニが好きで、茨城からテレビを食い入るようにみてましたが、悔しかった試合ですよね。
@@利晴井坂 あの時代は常にY校が相模の天敵?みたいな感じでしたネ…あの決勝戦でもY校の2年生でエース格の古沢と前年夏の甲子園でも投げた仙田のリレーで危なげなく勝利し、相模は善戦するもあそこ迄が精一杯だったかと…神奈川高校野球史に於いては当時Y校のコーチをしていた小倉清一郎氏が一際大きな存在となっているのが分かります。
@@松板太輔 さん。色々、教えてくれて、ありがとうございます。横高に戻る前の、小倉コーチですね。次の年は、法政二と鎌倉学園でしたっけ?面白い時代でしたね。
夏の神奈川予選こそ事実上の甲子園であり相模vs横浜は甲子園決勝と変わらない位に注目度が高いね2023はあの慶応やシブトイ藤沢や湘南勢辺りに期待したい
全国屈指の激戦区・神奈川。今夏も熱い戦いになるでしょうね!
長い低迷期から復活させた門馬さんを追放した校長は控えめに言ってもク◯や下手したらまた低迷期に入るぞ
相模は野球よりラグビーに力を入れる方針に変わったとの話もあり、低迷する可能性はありますね。
野球からラグビーに力入れてるので低迷していくかも
何かまた甲子園が遠のきそうな雲行きになってるらしいですね。ラグビーにチカラ入れるような…。門馬さんもそうな絡みで辞めたんかな。知らんけど…
そうなんですね。情報ありがとうございます!神奈川県のラグビーと言えば、以前は相模台工業のイメージがありました…
花園で仰星とのTokai対決になれば盛り上がるでしょうね(^^)☆
東海大相模の野球の原点は三池工業野球でもあり、原貢野球でもあります。
ですね😉
ヤカンの水1杯飲んだら塩を一つまみ舐めろ、長距離ばかり走っていてはダメなどと時代の先を行っていましたね。
80年代、90年代の高校野球を知る者としては、東海大相模は原親子鷹で知られた古豪、強豪のイメージはありましたが、神奈川県大会上位常連も準決勝や決勝で横浜やY校、桐蔭学園に負け、なかなか甲子園に出れない印象がありました。強いのにV9時代の常勝巨人に勝てず常に後塵を拝した阪神と重なりましたした。(縦縞ユニも) しかし、2010年代以降、強さが復活しましたね。甲子園に出場すれば常に上位に行くのがさすが神奈川代表と思います。
夏の甲子園に30年以上ブランクがありましたが、長い沈黙を破ってからは、強い相模が戻ってきました。
東海大相模は原貢さんが監督しましたので横浜高校との張り合う事になりました
2010年夏準優勝メンバーに一二三と大城兄弟は覚えています。その一二三と外野手の伊知地?の2人が数年後に警察のお世話になるとはニュースを聞いて驚きましたね。
伊地知選手も警察のご厄介になってたんですね💦知りませんでした…残念な事ですよね…
@@highschool-baseball-history伊地知は何やった?
東海大相模、私が子供の頃はなかなか勝てないな~と思って見てました。まあ、その時代は横浜以外にも、Y校(横浜商)が安定した強さを持ち、桐蔭学園が土屋監督就任後に復活、それから法政二もちょくちょく甲子園に出場していて群雄割拠状態でしたね。80年代、一度も出場出来なかったのもある意味致し方ない部分あったでしょうね。
80年代はY校全盛期。90年代は横浜と桐蔭学園という印象ですね。
夏の甲子園はホント遠くて険しく厳しいと感じさせる相模の長期低迷期でした。だからこそ2010年と15年の快進撃には胸に迫るものがありましたよね(¯―¯٥)🚩🏆🎶。。
2021夏、まさかあんな結末で門馬東海大相模が終わるなんて思ってもいませんでしたしかなりショックでした今年の夏は慶應にまさかのコールド負け…強い東海大相模が甲子園に戻ってくるのは当分時間かかりそうですね…いつか甲子園で隣県日大三高との対決が見たいです
石田投手の最後の夏は、不完全燃焼で終わってしまいましたね…今夏の戦いぶりを見ていると、暫く低迷期に入ってしまうのではと心配になりました。
開催が危ぶまれた大会で優勝する東海大相模。2011年春、2021年春。
確かに、どちらの大会も災害やパンデミックの影響がありましたね。
55年に平手打ちを喰らった投手は「あれで気合いが入ったのに」と残念がっていたんですよ😢
日直が、津末じゃなくて岡部なのが好きw岡部は日ハム、原は巨人で津末と共に戦いましたねw
岡部投手は高校時代は余り目立ちませんでしたが、プロ野球ではタイトルホルダーにもなりましたね。
@@highschool-baseball-history引退後は落合博満の打撃投手で重宝がられました😊
東海大相模と言えばあのビンタ事件ですね。コレがテレビに映り1年間の対外試合禁止。1年間と言うのは神奈川の地方大会中だったので、次の年も参加できないと言う事でした。要するに2年間出れないと言う事で良い選手は入部してこない事に。それが影響して何十年も夏の甲子園に出れませんでした
東海大相模は、その後本当に長く低迷しましたよね。不祥事後の空白期間で弱体化するという例は、他にも結構ある気がします?
前年まで四番打者の佐藤イサオが1番、2番は森選手でした。
四番打者は津末でした。
2:34 土浦日大がこの時代から出場してたの知らない人もいる
1973年から三年間、過去に三池工と相模で計二回の優勝経歴の原監督が、今はご法度の殺人打線の異名を持つ、強力打線に超高校級打者の息子辰徳を一年から中軸を打たせて、鹿実に負けましたが、延長戦の球史に残る死闘でスタートして強烈な強さの印象を全国に与えたデビュー大会で、親子鷹時代間にいつかは優勝をと期待されましたが、計4度の挑戦でついに届かなかったのは、過去の優勝経験から候補NO1に推されたプレッシャーと辰徳のスター的異常人気公害?に潰されましたかね。
〇人打線や、〇爆打線など、当時のネーミングは凄いですよね😅今なら完全にアウトです。
原辰がいたころの東海大相模は打撃力は超高校級でしたが、投手力が弱かったですね。選抜準優勝が最高成績で全国制覇は出来ませんでした。
小笠原君の代の全国制覇は、聖光、遊学館、花咲徳栄、関東一、仙台育英と全て対戦相手東日本でした。遊学館は微妙?この大会は常に初回に大量点4点位リードして優位に進めるパターンでした。花咲徳栄だけは苦戦しましたね。関東勢同士の戦いは手の内を知っているだけにやりにくいのかも?岩井監督も元桐光出身の神奈川野球経験者ですから。
おっしゃる通り、花咲徳栄戦は非常に接戦でしたね。この年は、倒した相手がどこも強豪でした。
第64回🌸選抜に出場し準優勝した時のエースで吉田道と言う選手なのですが 近鉄に入団 退団後 🚲️競輪選手になったのか 御存知ですか?この時の主将で背番号15の岡田と言う選手なのですが 🌸🏟️開会式で32校の選手の中で1人だけアンダーシャツが半袖だったのが印象に残っています。
吉田道投手が競輪選手に転身していたという話は存じ上げでおりませんでした。
プロ引退後に競輪選手を目指す(当時報知高校野球に掲載されていた)も学校の試験に受からず、郷里の浜松に戻り飲食店に従事した後、教員免許を取ってから当時の興誠(現在の浜松学院)の野球部監督に就任し、現在も頑張っています。吉田道投手は私が神奈川で40年以上、超高校級の選手を観てきた中で5本の指に入る本格派の投手です!
@@松板太輔 ありがとうございます。⚾️速かったですね 🌸選抜の 準決勝 天理戦は🏟️甲子園で観戦しました。懐かしい
@@リプリーロケッツ 準決勝の天理戦を現地で観られていたとは、うらやましいです!先発の小川投手をリリーフし、9回ピンチの場面でも自慢のストレートで押し込み、最後は高めの釣り球で三振に仕留めたシーンは彼の真骨頂と思います。あの快投をまた夏の甲子園でも観たいと期待しつつ、夏の神奈川大会準々決勝のY校戦を浜スタのネット裏から観ていましたが、既に肘痛が限界となっており、自慢の速球に威力が無くこんなに打たれるのか?と思う位に痛打を浴び、途中降板に試合も敗れたのはもう30年以上も昔の事ですが、印象の強い投手なんで今でも覚えています。
@@松板太輔 ありがとうございます。懐かしいですね。🏟️3-2で9回2死満塁 打者は天理の4番 大西 この時 吉田は全球直球で大西を空三振に押さえ試合終了 自分は三塁内野席から観戦してました。懐かしい 夏は出場できず 桐蔭学園が出場しましたね。この時の捕手で 村井と言う選手も印象に残っています。後 秋山 柴田 今井 遊佐 中村 懐かしいですね
原辰徳さんが中3の夏、甲子園でお父さんと全チームの1回戦を旅館に泊まり観戦、その上で行きたい高校はあるか?とお父さんに尋ねられやはり相模に行きたいと言ったとか、お父さんはいくつか条件をつけ在学中は監督と選手、親子ではない。他の選手と比べ実力が互角ならお前は使わない、4分6分でお前が上でも使わない、試合に出たかったらそれ以上の力の差を見せろ、そして他の選手なら一発殴って済むところをお前は3発殴る、それでも来るか!という条件でした。
時代を感じますが、熱いエピソードですね。甲子園で全チームの一回戦を観戦したという話は初耳でした。ありがとうございます。
指導者が選手を殴って指導することが当たり前だった昭和
門馬監督を追い出してラグビー部に力を入れる方針みたいだから近いうちに低迷するだろうね。
相模も桐蔭学園と同じく、ラグビーを強化していくんですね。
小笠原慎之介がいた頃のチームはかなりの強さだったイメージ。
小笠原投手が入学してから3年間の世代は、投打ともに充実した戦力でしたよね。
全くもって不謹慎な物言いだけど1995年 阪神大震災2011年 東日本大震災2020年 コロナ禍で大会自体が中止の戦後三大厄難選抜大会に皆勤している唯一の学校が東海大相模だったりする
なるほど。それは気づきませんでした…
ブラバン応援のなかった各大会が思い出されます。代替の交流試合にも相模の縦縞ユニが見られて嬉しかった。そして翌春に3度目のセンバツ制覇!!10年前がふと思い出される颯爽とした戦いぶりでしたね(^^)v。。
相模原市にあるのに東海大相模なのですね東海大相模原にはならないのか
確かに相模原の地名は入っていないですね。茅野市にあるのに東海大諏訪、あきる野市にあるのに東海大菅生みたいに、地域の総称を冠している感じですかね。
相模原ではなくても、相模と名乗っているから何の問題もない。
原辰徳時代の相模打線は、「殺人打線」と呼ばれて、今ではあり得ない御法度打線名でしたね😅
崇徳の「水爆打線」というのもありましたね😅
@@highschool-baseball-history「原爆打線」じゃなかったですかね?…どちらにしても恐ろしや-😅
@@石元正志-g7n さんあ、間違ってましたか。すみません💦どちらにしても、今じゃ有り得ないネーミングですよね😂
@@highschool-baseball-history どういたしまして😊未だに分からないのが当時の豊見城の「さとうきび打線」なんですが…打ち始めると「ざわわ…ざわわ…ざわわ………。」と聞こえて来るんでしょうかね(・_・?)
@@highschool-baseball-history 山崎、樽岡、小川、永田、兼光、応武、釘屋、黒田、槇村。
いつか花咲徳栄やって欲しい
ありがとうございます。検討課題とさせていただきます。
少し地元の作新と被る❗️優勝、低迷、また、優勝
確かに意外な程の夏の甲子園長期ブランクは、似ていますよね。
相模が選抜で優勝した2000年春は、同じように長期に渡って低迷していた作新も一緒に出ている。確かに作新には親近感がある。
1970年の夏にこの東海大相模が優勝以降、翌年夏に桐蔭学園優勝、73年センバツに横浜優勝、75年センバツ東海大相模が準優勝、80年夏横浜優勝、83年横浜商が、春夏準優勝…と10年以上神奈川の凄まじい黄金時代が続きましたが、Y高準優勝以降、84年から97年まで約15年間神奈川県は、信じられない低迷期に入りましたね。84年から91年まで春夏ともに優勝、決勝進出無し、92年センバツに東海大相模が吉田道投手で久々の決勝進出で準優勝、特に強かった夏は、前述優勝、準優勝したチームが代わる代わる出てきても、15年間の最高成績は90年の横浜商のベスト8の一度きり!強すぎた頃の反動で、どのチームも優勝出来る実力がありながら優勝出来ない…と言われる低迷期に入り、98年の松坂の横浜が、春夏連覇してやっと野球王国神奈川が復活しましたね。特に夏はPL 、明徳の連日の死闘を突破して、神奈川県低迷期の壁を乗り越えた98年の夏の横浜は球史に残る伝説のチームでした😅
言われてみれば、1984年以降の神奈川県は低迷期と言える時代でしたね。特に東海大相模や横浜高校の元気が無く、県内は群雄割拠の時代とも言えたでしょうね。
1984〜1997年、県としては低迷期だったけど、その中でもY校はまあまあ健闘してたぞ。横浜と桐蔭が足を引っ張っていた。
門馬追い出したからもう甲子園はかなりの長期に渡り無いかな 現行長がアレだし
今の相模は、野球よりラグビーに力を入れる方針だと聞きましたが、それが本当なら、甲子園は暫く遠ざかってしまうかもしれませんね…
原辰徳、津末、村中の登場により高校野球にハマった私にとっては神奈川代表=東海大相模。横浜高校よりも断然好きで応援にも力が入ります(^^)v。。
原辰徳さん達の登場で高校野球のファンになられた方も多いでしょうね☺️鹿児島実業戦などは、高校野球人気向上にかなり貢献したと思います。
そうです。忘れもしない1974年8月16日(日曜?)の準々決勝ナイターでした。お盆もいわば1日延長戦で親戚中テレビ座敷の前でワイワイ賑やかだったのを子供心に憶えています(^^)👒🍉🎐🌇🎶☆
愛甲さんによるとY高以上に脅威を感じ、東海大相模がもしあの事件をおこしてなかったら、優勝できたかどうかわからないと。77年夏の監督の穴見さんは、三池工出身で85年春に東海大五(東海大福岡)の監督として甲子園に帰って来ます。
あの事件が無ければ神奈川県のその後の勢力図は大きく変わって、Y校の活躍も無かったかもしれませんね…
穴見氏は三池工業優勝の立役者。そんな訳で原貢氏は穴見氏を可愛がり、相模、大五、仰星とずっと系列校の監督で生涯保証を行いました。
原監督でも勝てなくなった巨人の未来はあるんだろうか?☺️
近年の状況を見ると、巨人は暫く過渡期になりそうな気がしますね。
神奈川県は、学校数が、多いから地方大会勝ち抜くのも大変。しかも、横浜、慶応、桐蔭、東海相模等強豪が多い。どこが出ても、甲子園で通用するチーム。夏の甲子園は2チームにしてもらいたいと思う。😂
確かに、神奈川県から2チームが出ても、どちらもベスト8以上はいけそうですよね。
15年ぐらい200校以上の参加が続いても2校出場にならなかったんだから、今後神奈川が2校出場になることは絶対にない。
桐蔭学園やってほしいです😂
ありがとうございます😌検討させていただきます。
東海大高輪台、、、
80年代はY校、90年代は日藤桐蔭に押されていた
日大藤沢も、鈴木監督がおられて強かったですよね。
東海大相模は1977年夏から33年も夏の甲子園から遠ざかっていたなんて信じられません。
その間に選抜で何度か優勝や準優勝しているので少なくとも何度かは甲子園に出ていてもおかしくなかったと思います。
栃木の作新学院や広島の広陵も数十年ほど夏の甲子園から遠ざかっていたこともありましたね。
おっしゃる通り、本当に意外なブランクですよね。
愛工大名電の夏の甲子園初戦連敗なども同様のイメージかな。平成ラストイヤーで何とか1勝、実に30年ぶりの凱歌でした(^^)。。
平安も暗黒期あったし古豪といえど監督変われば別チームになるし大変
@@岡田康弘-e7p逆に東邦は平成の最初と最後で優勝(春)してますね
東海大相模は華がある。
他の地域にはない、洗練された都会のチームという雰囲気が良い。
おっしゃる通り都会的で洗練されたチームというイメージですよね。
ホントそう。東海大系列の高校幾つかある中、やはり相模は縦縞の本家本元。脈々と受け継がれている伝統の重みや風格を何処かしこに感じます(^^)v。。
ちょうど明日Y校と東海大相模の試合を見に行くので楽しみになってきました!東海大相模も好きだけどY校も神奈川の公立で頑張ってるからどっちも応援しちゃう😅
高校野球観戦の前に見ていただけるのは本当に嬉しいですし、このチャンネルのコンセプトにどハマりで😁
ありがとうございます!!
私も試合前の保土ケ谷駐車場で見てる
この動画最高です
ジャンボ宮城、三浦、古沢、河原、古屋監督etc。。ブルーにYの伝統ユニがホント懐かしい(^^)⚾🏟⚓🛳🎶。。
神奈川県は相模以前に湘南、法政二と夏の優勝はありますが、東海大相模と桐蔭学園の夏の二連覇から、「神奈川を制すものは全国を制す!」の名言が生まれて、屈指の野球王国に成長しましたね。
その後、横浜高校が春夏と甲子園優勝を達成し、横浜商業も一時代を築きましたね。
神奈川県は、強豪揃いの群雄割拠ですね。
子供の頃相模は憧れでした。川崎球場の決勝戦で向上を19対0で破ったと思います。原、津末、村中、伊東、入江など
原が2年の夏の鹿実戦。ナイターで相模の選手のセカンドライトの間のフライを鹿実二塁手が下がりながらダイビングで捕球の超ファインプレイもあり勝ち越しできませんでしたが、子供心に今でも目に焼き付いているシーンです。
相模は夏の大会以外は白地の縦縞で試合するみたいですかね?
また以前は県予選での背番号も白のゼッケンではなく、縦縞縫い付けだったと思います。
鹿実戦は歴史に残る一戦でしたね。
確か、NHKが18時以降に教育テレビに延長リレー中継するきっかけとなった試合だったように記憶しております。
ほんとセピア色の記憶がぼんやり鮮明に(^^)甦ってきます。。
鹿実戦は、原が1年生の時ですね。確か、五番打者だったと思います。初戦で工藤(阪神)を擁する土浦日大を下し、次戦では盈進の変則投手から猛打で圧勝して準々決勝で鹿実と対戦しましたね。歴史に残る大熱戦でした。
初めて東海大相模を見たのは原辰徳氏が1年生だった1974年夏でしたが、土浦日大に9回二死から追い付きサヨナラ勝ち、鹿児島実にも9回二死から追い付き、翌年春は豊見城に9回二死から逆転勝ち。9回二死になっても簡単に負けないチームという印象を持ちました。
日直は原辰徳氏の同級生ですね。
日直はお察しの通りです。
あの時代の相模は、強いだけでなく驚異的な粘りも武器でしたね。
逆転粘りの東海大相模。原辰徳在学中全国制覇できなかったからゆえ何れも惜敗の4試合が今なお記憶に鮮明なのかも知れませんね(^^)🍺🏮。。
東海大相模を初めて見たのは、あの鹿児島実の定岡と延長戦を戦った時ですね。原辰徳が1年生の五番打者でした。その翌年と翌々年も原と津末、村中らを主力とした超高校級のチームとして甲子園で活躍しましたね。とにかくユニフォームが格好良い都会の洗練されたチームという印象でした。
都会の洗練されたチーム。
しかも力強い。
当時としては、本当に先鋭的なチームだったと思います。
この試合は甲子園の名試合、3本に入ると思います。定岡投手と1年生原選手の対戦。
@@岡本昌彦当時福岡にいましたが途中でテレビ中継打ち切りのため父の車のラジオで聴いていました、鹿児島ではNHKに苦情が殺到して急遽テレビ放送を再開したようです。翌年から高校野球は全試合完全中継されるようになりました、そのきっかけになった試合だと言われています。
競輪選手になった星川淳もいましたね。
横浜高校と共に神奈川を最近はリードしていますがいちじき春のセンバツは出場して上位に進出していましたが夏の県大会決勝で敗れてはなかなか出てこれなかったこともあり苦しんだ時代もありましたね
東海大相模が30年も夏の甲子園から遠ざかっていたのは、今考えると不思議でなりませんね。
昭和45年の夏の大会、主戦上原投手が苦しみながらも一点差のゲームをものにして決勝進出。決勝では後にプロ入りした新美投手や新井選手を擁するPL学園に10-6と乱打戦を制して優勝したのは神奈川県民として非常に嬉しかったのを覚えています。
45年後の2015年の仙台育英との決勝戦も6-6で9回表に小笠原選手のホームランを含めて4点を奪って優勝しましたが、スコアが10-6と初優勝時と同じ!不思議な縁を感じましたね。相模は打ち勝つ!という原貢さんのポリシーが生きているのか…
原貢さんの攻撃野球が脈々と行き続けているのかもしれませんね。
小笠原投手は昨日もタイムリーヒットを打ちましたし、打撃が良い投手ですよね。
門馬監督は初回から盗塁ヒットエンドラン等結構仕掛ける戦法ですよね!2015の優勝時のチームはツボにはまって、初回からビッグイニング作ってました。あと神奈川は強力なホームランバッターはあまり居ないかな?筒香君、神山君の横浜。正木君の慶応あたりかな?
原辰徳も打ったけど、むしろ津末の方がホームランバッターだったイメージ!
ホント出来すぎたような深紅の大旗奪還劇でしたからね。超オールドファンの歓びもより一塩だったのではないでしょうか(^^)。。
東海大相模にも甲子園が遠い時代がありましたけど、その間、東海大一や東海大甲府が甲子園でベスト4に入るなど、大会で躍進しました。
ある大会記録も東海系列の学校だけど、この記録は破られることは無いだろうな。
どんな大会記録か気になりますね。
東海大一や甲府が、東海大系列では相模に次ぐ実績を挙げている感じですね。
山形のヤツでしょうか?
夏の甲子園で2010年準優勝、15年に全国制覇奪還はオールドファンにはホント胸熱だったですね。春夏4度優勝の門馬氏から名門の看板を託された原俊介監督の下、熱き相模旋風を期待したいところです(^^)v。。
@@岡田康弘-e7p
平成4年のセンバツで少しだけ復活しましたね。吉田投手の力投で。準決勝の天理戦はきわどい試合になりました。
1975年のセンバツのベスト8で沖縄代表の赤嶺投手擁する豊見城が、準優勝した相模と対戦して、9回二死から逆転サヨナラ負けを喫した沖縄因縁の相手を、2010年の夏の決勝戦で、同じ沖縄勢の興南が決勝で相模を大差で敗り、35年越しに雪辱して沖縄悲願の夏の初優勝は、ドラマチックでした。また、この大差の準優勝の悔しさが、名門東海大相模を奮い立たせて、翌年11年のセンバツで打線爆発💣️の優勝に繋げましたね😊
敗れた悔しさが連綿と繋がるのが、高校野球のドラマの魅力のひとつですよね。
ホント仰る通り。このような甲子園ネタでビール何杯でもい(飲)ける私です(^^)🍻🎶。。
豊見城戦 9回裏 逆転サヨナラ
↓
th-cam.com/video/bWxUy-G2Zl0/w-d-xo.htmlsi=n2ZgEEJujXq2qXac
野球の相模、サッカーの一高(現翔洋)、ラグビーの仰星、バレーの四高(現東海大札幌)とはよく言ったもので
後に若貴兄弟に多大な影響を与えた親子がいたのは小学生時代漫画で読みました。
東海大一高はサッカー強かったですよね。
そのような棲み分けがあったんですね。存じ上げませんでした。
高知高との決勝は見応えありました。
高知高の杉村さんはヤクルトに入団しました。セカンドの本田さんは後に埼玉の春日部共栄の監督に就任します。そして甲子園で高知高との対戦を望むも残念ながら実現しなかった。
春日部共栄のユニフォームは、高知高校のユニフォームがモデルとなっているようですね。
@@highschool-baseball-history 様
アンダーシャツもソックスも全く同じなんですよね
甲子園で高知高を倒すのが当時の岡本監督に恩返しと思ってました。
原貢監督は、典型的なこわもて監督でしたが、先進的な面もあったんですね。打撃のチームなので、あっさりと敗退することも多いが、勢いづくと一気に全国優勝。東海大野球部とのつながりで、指導面でも有利ですが、それでも夏の全国大会に、33年間も出場できない期間があったのは意外です。
原貢監督は攻撃野球がクローズアップされる事が多いですが、守備面でも進んだ戦術を駆使していたようですね。
夏の長期ブランクは、本当に意外です。
それでもセンバツでの準優勝、優勝には名門の底力を窺わせました。智弁和歌山を渋とく降した00年春の決勝はホント感動を覚えたものです。・゚・(ノ∀`)・゚・🏅🏆🌸🎶☆
@@highschool-baseball-history水飲むなの時代に、ヤカンの水1杯飲んで塩をひとつまみ舐めろと指導していました。
1975年スタメン 佐藤功、森、原、津末、佐藤勉、綱島、崎山、村中、朝倉 超高校級の打撃力が魅力のチームだった。
東海相模と言えば、やはり強力打線ですよね!
東海大相模の監督経験者は、原貢氏の指導を受けたか教え子の教え子が多く、他校の指導者としても活躍していますね。門馬監督の創志学園での手腕にも期待大です。
原貢さんの薫陶を受けたお弟子さんは、指導者として実績を残した方が多いですよね。
77年夏に出た時に宇学(現文星芸大附)に0-10で大敗したのが尾をひいてる気がしてる。その後も下馬評では優勝候補筆頭の代もあったが夏は勝ち切れませんでしたね。
原貢監督退任後初の甲子園ですね。
確かにあのスコアは、相模のその後を暗示するようでした。
宇学の見形投手に完封され満塁ホームランも打たれたと記憶しています。
猛打で全国を震撼させていた相模がまるでお株を奪われたかのような大敗。何となくこの年は実力よりも“カオ”で出てきた感がありましたね(^^)。。
@@北町貫多-x5i見形さんは専大では打者に転向し投の山沖、西口と共に活躍しました😊
東海大相模のユニフォームは77年に甲子園出た頃は縦縞の線が細くて数も多かったけど吉田道投手で出た頃から太くて数が少ないユニフォームに変わりましたね!
東海大相模や東海大甲府は、何年か置きにマイナーチェンジしている印象ですね。
村中監督が就任してから生地の色に縦縞の太さや幅が変わったと記憶してます。
個人的には東海大相模と言ったら現在のようなユニフォームではなくて、昔の神奈川を圧倒していたあの薄めのブルーグレーに細くて幅の狭いピンストライプこそ名門・強豪の証だと思っています。
@@松板太輔 そのイメージ強いです!
@@マサシライアン
2005年センバツで現在のスタイルに変えた際、門馬監督が「偉大な先輩方達が築いた強さを誇った時代にあやかりたくて」…との理由を言ってましたが、門馬監督本人も選手時代に着用していたあの強さのシンボルとも言える当時の物と色も幅も全然違ってるんで個人的には違和感がありました。
現在は殆どの東海大系列のチームがこれを基調に似通ったカラーのスタイルにしてますが…
@@松板太輔 今のユニフォームは本家東海大のユニフォームを明るいブルーグレーにした感じですね!
77年夏の相模は柔道家・山下泰弘先生の実弟である真吾さんが一塁手で出場されているとは最近知りました。
私も初耳でした。
ありがとうございます!
2011の選抜の猛打には驚いた
前年センバツベスト4の大垣日大(結構前年メンバーが残っていた)から13点
準決勝では満塁ホームラン2本で履正社を粉砕
満塁ホームランを放った1人に森下翔平選手がいますが阪神の森下と関係あるのかな?
タイガースの森下選手は長男のようなので、少なくとも兄弟ではないと思われますね。
智弁和歌山に快勝の履正社をボコった強力打線ぶりが今も記憶に鮮明です。前年夏の決勝大敗の悔しさを見事に晴らした2度目の紫紺旗ゲットでしたね(^^)v。。
渡辺、臼田は史上最高の1、2番コンビでしたね。
東海大相模といえば、原選手のイメージがありますね。
センバツの県岐阜商との試合でデビュー。後に巨人入団。
県岐阜商に15-2で大勝するも2回戦で優勝した 観音寺中央に0-6で完封負けしましたね。懐かしい
県立岐阜商業には大差で勝ちましたが、永島投手をはじめ、如何せん投手陣に課題があるチームでしたね。
観音寺中央がやけに強くて相模に完勝した辺りで優勝するんちゃうの?と正直思いましたね。突如現れた素晴らしいチームでした(^^)。。
@@岡田康弘-e7p 次戦 準々決勝では 星稜に6-4?5-4で勝ち
準決勝では関西に13-6か?で勝ち 決勝で 銚子商に5-0か6-0で完封勝ちし🥇🌸優勝しましたね。背番号⑮の大森と言う選手が印象に残っています。懐かしい
この年の夏の神奈川は日大藤沢。甲子園では観音寺中央と対戦してサヨナラ勝ちでしたな。
観音寺はサヨナラのピンチで内野手5人というシフトをされて甲子園がざわめきましたね。
この時の観音寺のキャッチャーはメガネをかけた選手でしたけど四国の学校には優勝ジンクスがあります。
センバツで高知商が優勝した時のキャッチャーや伊野商が優勝した時のピッチャーとか。
東海大相模高校と言えば原貢さんと息子の辰徳さんは絶対に外せないですね‼️
あの親子が、東海大相模野球部を全国区の強豪に押し上げましたからね☺️
東海大相模が1970年夏に優勝したメンバーの井尻選手や原辰徳氏の2学年下で1977年夏にエースとして出場し、後に東海大仰星の監督になる西選手が和歌山、津末選手が熊本からの野球留学です。恐らくPL学園と並んで野球留学の先駆けとなった学校です。
余談ですが、横浜が1980年夏に優勝したメンバーの安西選手は元々東海大相模の進学を希望していたのが、身長が低いという理由で断られ、横浜に進学しました。しかし、相模に進学していなかったら、優勝を経験できなかったので、人生というのは本当にわかりません。
安西選手のエピソード、興味深いですね。
お教えいただき、ありがとうございます!
@@highschool-baseball-history さん いえどういたしまして😁これからも宜しくお願いします‼️
門馬前監督の復帰を強く望みます。
創志学園でも早速結果を出されましたし、名将ですね。
横浜高校、Y高、桐蔭、桐光、慶応、法政二、横浜創学館、横浜隼人…
神奈川ってやっぱり魔境だわ
こうして改めて挙げていただくと、本当に全国レベルの強豪が犇めく魔境ですね😳
静岡に就任してたら一強にもなり得たはず
三池工業が甲子園全国制覇をした原監督を迎え昭和45年全国制覇。監督の息子さん原辰徳さんが活躍。アイドル選手の人気がすごくファンにかこまれバスから選手が降りれないほどの人気でした。打撃のチームでした。今でも強豪校です。原選手は甲子園に4回も出場しています。
早実の荒木さんは甲子園5回出場だそうです。
昭和52年の宇学に大敗したことが、子供ながらにショックでした。
だからではないですが、あの頃のユニで復活してほしかった。62年の神奈川大会・準優勝のときまでのユニでしょうかね。
東海大相模のユニフォームは、微妙にマイナーチェンジを繰り返している印象ですね。
門馬前監督が主将だった87年夏の県大会決勝でY校に敗れたこの試合迄は個人的に一番カッコいい時の縦縞ユニフォームを着用していた筈です。
持病の腰痛が悪化し、敗戦後の閉会式を途中で退場せざるを得ず、その際に監督と部長に両腕を抱え上げられながらグラウンドを後にする痛々しい姿が未だに焼き付いています。
@@松板太輔 さん。
そうでしたか。
相当な苦労人なんですね。
あの試合、Y校の2番手の投手も好投して、打線が爆発できなかったんですよね。
あのユニが好きで、茨城からテレビを食い入るようにみてましたが、悔しかった試合ですよね。
@@利晴井坂
あの時代は常にY校が相模の天敵?みたいな感じでしたネ…
あの決勝戦でもY校の2年生でエース格の古沢と前年夏の甲子園でも投げた仙田のリレーで危なげなく勝利し、相模は善戦するもあそこ迄が精一杯だったかと…
神奈川高校野球史に於いては当時Y校のコーチをしていた小倉清一郎氏が一際大きな存在となっているのが分かります。
@@松板太輔 さん。
色々、教えてくれて、ありがとうございます。
横高に戻る前の、小倉コーチですね。
次の年は、法政二と鎌倉学園でしたっけ?
面白い時代でしたね。
夏の神奈川予選こそ事実上の甲子園であり相模vs横浜は甲子園決勝と変わらない位に注目度が高いね2023はあの慶応やシブトイ藤沢や湘南勢辺りに期待したい
全国屈指の激戦区・神奈川。
今夏も熱い戦いになるでしょうね!
長い低迷期から復活させた門馬さんを追放した校長は控えめに言ってもク◯や
下手したらまた低迷期に入るぞ
相模は野球よりラグビーに力を入れる方針に変わったとの話もあり、低迷する可能性はありますね。
野球からラグビーに力入れてるので低迷していくかも
何かまた甲子園が遠のきそうな雲行きになってるらしいですね。ラグビーにチカラ入れるような…。門馬さんもそうな絡みで辞めたんかな。知らんけど…
そうなんですね。
情報ありがとうございます!
神奈川県のラグビーと言えば、以前は相模台工業のイメージがありました…
花園で仰星とのTokai対決になれば盛り上がるでしょうね(^^)☆
東海大相模の野球の原点は三池工業野球でもあり、原貢野球でもあります。
ですね😉
ヤカンの水1杯飲んだら塩を一つまみ舐めろ、長距離ばかり走っていてはダメなどと時代の先を行っていましたね。
80年代、90年代の高校野球を知る者としては、東海大相模は原親子鷹で知られた古豪、強豪のイメージはありましたが、神奈川県大会上位常連も準決勝や決勝で横浜やY校、桐蔭学園に負け、なかなか甲子園に出れない印象がありました。強いのにV9時代の常勝巨人に勝てず常に後塵を拝した阪神と重なりましたした。(縦縞ユニも)
しかし、2010年代以降、強さが復活しましたね。甲子園に出場すれば常に上位に行くのがさすが神奈川代表と思います。
夏の甲子園に30年以上ブランクがありましたが、長い沈黙を破ってからは、強い相模が戻ってきました。
東海大相模は原貢さんが監督しましたので横浜高校との張り合う事になりました
2010年夏準優勝メンバーに一二三と大城兄弟は覚えています。その一二三と外野手の伊知地?の2人が数年後に警察のお世話になるとはニュースを聞いて驚きましたね。
伊地知選手も警察のご厄介になってたんですね💦
知りませんでした…
残念な事ですよね…
@@highschool-baseball-history伊地知は何やった?
東海大相模、私が子供の頃はなかなか勝てないな~と思って見てました。
まあ、その時代は横浜以外にも、Y校(横浜商)が安定した強さを持ち、桐蔭学園が土屋監督就任後に復活、それから法政二もちょくちょく甲子園に出場していて群雄割拠状態でしたね。
80年代、一度も出場出来なかったのもある意味致し方ない部分あったでしょうね。
80年代はY校全盛期。
90年代は横浜と桐蔭学園という印象ですね。
夏の甲子園はホント遠くて険しく厳しいと感じさせる相模の長期低迷期でした。だからこそ2010年と15年の快進撃には胸に迫るものがありましたよね(¯―¯٥)🚩🏆🎶。。
2021夏、まさかあんな結末で門馬東海大相模が終わるなんて思ってもいませんでしたしかなりショックでした
今年の夏は慶應にまさかのコールド負け…
強い東海大相模が甲子園に戻ってくるのは当分時間かかりそうですね…
いつか甲子園で隣県日大三高との対決が見たいです
石田投手の最後の夏は、不完全燃焼で終わってしまいましたね…
今夏の戦いぶりを見ていると、暫く低迷期に入ってしまうのではと心配になりました。
開催が危ぶまれた大会で優勝する東海大相模。
2011年春、2021年春。
確かに、どちらの大会も災害やパンデミックの影響がありましたね。
55年に平手打ちを喰らった投手は「あれで気合いが入ったのに」と残念がっていたんですよ😢
日直が、津末じゃなくて岡部なのが好きw岡部は日ハム、原は巨人で津末と共に戦いましたねw
岡部投手は高校時代は余り目立ちませんでしたが、プロ野球ではタイトルホルダーにもなりましたね。
@@highschool-baseball-history引退後は落合博満の打撃投手で重宝がられました😊
東海大相模と言えばあのビンタ事件ですね。
コレがテレビに映り1年間の対外試合禁止。
1年間と言うのは神奈川の地方大会中だったので、次の年も参加できないと言う事でした。
要するに2年間出れないと言う事で良い選手は入部してこない事に。
それが影響して何十年も夏の甲子園に出れませんでした
東海大相模は、その後本当に長く低迷しましたよね。
不祥事後の空白期間で弱体化するという例は、他にも結構ある気がします?
前年まで四番打者の佐藤イサオが1番、2番は森選手でした。
四番打者は津末でした。
2:34 土浦日大がこの時代から出場してたの知らない人もいる
1973年から三年間、過去に三池工と相模で計二回の優勝経歴の原監督が、今はご法度の殺人打線の異名を持つ、強力打線に超高校級打者の息子辰徳を一年から中軸を打たせて、鹿実に負けましたが、延長戦の球史に残る死闘でスタートして強烈な強さの印象を全国に与えたデビュー大会で、親子鷹時代間にいつかは優勝をと期待されましたが、計4度の挑戦でついに届かなかったのは、過去の優勝経験から候補NO1に推されたプレッシャーと辰徳のスター的異常人気公害?に潰されましたかね。
〇人打線や、〇爆打線など、当時のネーミングは凄いですよね😅
今なら完全にアウトです。
原辰がいたころの東海大相模は打撃力は超高校級でしたが、投手力が弱かったですね。選抜準優勝が最高成績で全国制覇は出来ませんでした。
小笠原君の代の全国制覇は、聖光、遊学館、花咲徳栄、関東一、仙台育英と全て対戦相手東日本でした。遊学館は微妙?
この大会は常に初回に大量点4点位リードして優位に進めるパターンでした。花咲徳栄だけは苦戦しましたね。関東勢同士の戦いは手の内を知っているだけにやりにくいのかも?岩井監督も元桐光出身の神奈川野球経験者ですから。
おっしゃる通り、花咲徳栄戦は非常に接戦でしたね。
この年は、倒した相手がどこも強豪でした。
第64回🌸選抜に出場し準優勝した時のエースで吉田道と言う選手なのですが 近鉄に入団 退団後
🚲️競輪選手になったのか 御存知ですか?この時の主将で背番号15の岡田と言う選手なのですが 🌸🏟️開会式で32校の選手の中で1人だけアンダーシャツが半袖だったのが印象に残っています。
吉田道投手が競輪選手に転身していたという話は存じ上げでおりませんでした。
プロ引退後に競輪選手を目指す(当時報知高校野球に掲載されていた)も学校の試験に受からず、郷里の浜松に戻り飲食店に従事した後、教員免許を取ってから当時の興誠(現在の浜松学院)の野球部監督に就任し、現在も頑張っています。
吉田道投手は私が神奈川で40年以上、超高校級の選手を観てきた中で5本の指に入る本格派の投手です!
@@松板太輔 ありがとうございます。⚾️速かったですね 🌸選抜の 準決勝 天理戦は🏟️甲子園で観戦しました。懐かしい
@@リプリーロケッツ
準決勝の天理戦を現地で観られていたとは、うらやましいです!
先発の小川投手をリリーフし、9回ピンチの場面でも自慢のストレートで押し込み、最後は高めの釣り球で三振に仕留めたシーンは彼の真骨頂と思います。
あの快投をまた夏の甲子園でも観たいと期待しつつ、夏の神奈川大会準々決勝のY校戦を浜スタのネット裏から観ていましたが、既に肘痛が限界となっており、自慢の速球に威力が無くこんなに打たれるのか?と思う位に痛打を浴び、途中降板に試合も敗れたのはもう30年以上も昔の事ですが、印象の強い投手なんで今でも覚えています。
@@松板太輔 ありがとうございます。懐かしいですね。🏟️3-2で9回2死満塁 打者は天理の4番 大西 この時 吉田は全球直球で大西を空三振に押さえ試合終了 自分は三塁内野席から観戦してました。懐かしい 夏は出場できず 桐蔭学園が出場しましたね。この時の捕手で 村井と言う選手も印象に残っています。後
秋山 柴田 今井 遊佐 中村 懐かしいですね
原辰徳さんが中3の夏、甲子園でお父さんと全チームの1回戦を旅館に泊まり観戦、その上で行きたい高校はあるか?とお父さんに尋ねられやはり相模に行きたいと言ったとか、お父さんはいくつか条件をつけ在学中は監督と選手、親子ではない。他の選手と比べ実力が互角ならお前は使わない、4分6分でお前が上でも使わない、試合に出たかったらそれ以上の力の差を見せろ、そして他の選手なら一発殴って済むところをお前は3発殴る、それでも来るか!という条件でした。
時代を感じますが、熱いエピソードですね。
甲子園で全チームの一回戦を観戦したという話は初耳でした。
ありがとうございます。
指導者が選手を殴って指導することが当たり前だった昭和
門馬監督を追い出してラグビー部に力を入れる方針みたいだから近いうちに低迷するだろうね。
相模も桐蔭学園と同じく、ラグビーを強化していくんですね。
小笠原慎之介がいた頃のチームは
かなりの強さだったイメージ。
小笠原投手が入学してから3年間の世代は、投打ともに充実した戦力でしたよね。
全くもって不謹慎な物言いだけど
1995年 阪神大震災
2011年 東日本大震災
2020年 コロナ禍で大会自体が中止
の戦後三大厄難選抜大会に皆勤している
唯一の学校が
東海大相模だったりする
なるほど。
それは気づきませんでした…
ブラバン応援のなかった各大会が思い出されます。代替の交流試合にも相模の縦縞ユニが見られて嬉しかった。そして翌春に3度目のセンバツ制覇!!10年前がふと思い出される颯爽とした戦いぶりでしたね(^^)v。。
相模原市にあるのに東海大相模なのですね
東海大相模原にはならないのか
確かに相模原の地名は入っていないですね。
茅野市にあるのに東海大諏訪、あきる野市にあるのに東海大菅生みたいに、地域の総称を冠している感じですかね。
相模原ではなくても、相模と名乗っているから何の問題もない。
原辰徳時代の相模打線は、「殺人打線」と呼ばれて、今ではあり得ない御法度打線名でしたね😅
崇徳の「水爆打線」というのもありましたね😅
@@highschool-baseball-history
「原爆打線」じゃなかったですかね?
…どちらにしても恐ろしや-😅
@@石元正志-g7n さん
あ、間違ってましたか。
すみません💦
どちらにしても、今じゃ有り得ないネーミングですよね😂
@@highschool-baseball-history
どういたしまして😊未だに分からないのが当時の豊見城の「さとうきび打線」なんですが…打ち始めると「ざわわ…ざわわ…ざわわ………。」と聞こえて来るんでしょうかね(・_・?)
@@highschool-baseball-history 山崎、樽岡、小川、永田、兼光、応武、釘屋、黒田、槇村。
いつか花咲徳栄やって欲しい
ありがとうございます。
検討課題とさせていただきます。
少し地元の作新と被る❗️優勝、低迷、また、優勝
確かに意外な程の夏の甲子園長期ブランクは、似ていますよね。
相模が選抜で優勝した2000年春は、同じように長期に渡って低迷していた作新も一緒に出ている。
確かに作新には親近感がある。
1970年の夏にこの東海大相模が優勝以降、翌年夏に桐蔭学園優勝、73年センバツに横浜優勝、75年センバツ東海大相模が準優勝、80年夏横浜優勝、83年横浜商が、春夏準優勝…と10年以上神奈川の凄まじい黄金時代が続きましたが、Y高準優勝以降、84年から97年まで約15年間神奈川県は、信じられない低迷期に入りましたね。84年から91年まで春夏ともに優勝、決勝進出無し、92年センバツに東海大相模が吉田道投手で久々の決勝進出で準優勝、特に強かった夏は、前述優勝、準優勝したチームが代わる代わる出てきても、15年間の最高成績は90年の横浜商のベスト8の一度きり!強すぎた頃の反動で、どのチームも優勝出来る実力がありながら優勝出来ない…と言われる低迷期に入り、98年の松坂の横浜が、春夏連覇してやっと野球王国神奈川が復活しましたね。特に夏はPL 、明徳の連日の死闘を突破して、神奈川県低迷期の壁を乗り越えた98年の夏の横浜は球史に残る伝説のチームでした😅
言われてみれば、1984年以降の神奈川県は低迷期と言える時代でしたね。
特に東海大相模や横浜高校の元気が無く、県内は群雄割拠の時代とも言えたでしょうね。
1984〜1997年、県としては低迷期だったけど、その中でもY校はまあまあ健闘してたぞ。
横浜と桐蔭が足を引っ張っていた。
門馬追い出したからもう甲子園はかなりの長期に渡り無いかな 現行長がアレだし
今の相模は、野球よりラグビーに力を入れる方針だと聞きましたが、それが本当なら、甲子園は暫く遠ざかってしまうかもしれませんね…
原辰徳、津末、村中の登場により高校野球にハマった私にとっては神奈川代表=東海大相模。横浜高校よりも断然好きで応援にも力が入ります(^^)v。。
原辰徳さん達の登場で高校野球のファンになられた方も多いでしょうね☺️
鹿児島実業戦などは、高校野球人気向上にかなり貢献したと思います。
そうです。忘れもしない1974年8月16日(日曜?)の準々決勝ナイターでした。お盆もいわば1日延長戦で親戚中テレビ座敷の前でワイワイ賑やかだったのを子供心に憶えています(^^)👒🍉🎐🌇🎶☆
愛甲さんによるとY高以上に脅威を感じ、東海大相模がもしあの事件をおこしてなかったら、優勝できたかどうかわからないと。
77年夏の監督の穴見さんは、三池工出身で85年春に東海大五(東海大福岡)の監督として甲子園に帰って来ます。
あの事件が無ければ神奈川県のその後の勢力図は大きく変わって、Y校の活躍も無かったかもしれませんね…
穴見氏は三池工業優勝の立役者。
そんな訳で原貢氏は穴見氏を可愛がり、相模、大五、仰星とずっと系列校の監督で生涯保証を行いました。
原監督でも勝てなくなった巨人の未来はあるんだろうか?☺️
近年の状況を見ると、巨人は暫く過渡期になりそうな気がしますね。
神奈川県は、学校数が、多いから地方大会勝ち抜くのも大変。
しかも、横浜、慶応、桐蔭、東海相模等強豪が多い。どこが出ても、甲子園で通用するチーム。夏の甲子園は2チームにしてもらいたいと思う。😂
確かに、神奈川県から2チームが出ても、どちらもベスト8以上はいけそうですよね。
15年ぐらい200校以上の参加が続いても2校出場にならなかったんだから、今後神奈川が2校出場になることは絶対にない。
桐蔭学園やってほしいです😂
ありがとうございます😌
検討させていただきます。
東海大高輪台、、、
80年代はY校、90年代は日藤桐蔭に押されていた
日大藤沢も、鈴木監督がおられて強かったですよね。