【室町時代】129.3 享徳の乱の長期化【日本史】
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- เผยแพร่เมื่อ 4 ส.ค. 2024
- 〇目次
00:00 概要
01:04 今川氏の鎌倉退去
01:44 上杉氏と堀越公方の対立
03:24 有力者の死
05:00 応仁の乱
05:19 成氏の古河没落
06:09 長尾景春
07:39 太田道灌
09:34 おわりに
○参考書籍・サイト
黒田基樹著『図説 享徳の乱』戎光祥出版株式会社,2021
amzn.to/3QuFENb
久保健一郎著『享徳の乱と戦国時代』吉川弘文館,2020
amzn.to/3Q4yvDq
峰岸純夫著『享徳の乱』講談社,2017
amzn.to/3Qt9cdJ
全国歴史教育研究協議会『日本史用語集 A・B共用』,2014
amzn.to/3lTNliG
当チャンネルは高校生向けに大学受験レベルの日本史の解説をしております。
高校生が親しみやすくなるように説話などを挿入することがあるという点にご注意ください。
研究者の先生方によって否定されている説話などもありますので、
最新の研究が知りたい方は上記の参考書籍をご購入ください。
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#日本史 #教育 #授業
政知は義政に塩対応され、茶々丸、潤童子も悲惨な最期を迎えたが、結局義澄以降の将軍は全て政知流、そして現代にも続いており将軍家では勝組。
最近投稿頻度高くて嬉し!
上杉は関東の武士ですが、もともとは鎌倉時代に将軍に就任した宗尊親王と共に鎌倉に入りました。
そして武士化しました。
足利氏との婚姻関係もあり、関東管領に就任しています。
ちなみに上杉の名前の由来は丹波国何鹿郡上杉荘から来ています。
現在の京都府綾部市上杉町です。
成氏が古河を乗っ取られた際に、撤退した場所は佐倉市の本佐倉城か千葉市の平山城と説が分かれています。
なので下総と言う表現になったみたいですね。
ですが、古河も下総です。
現在は茨城県ですが、下総です。
古河も葛飾郡でした。
明治に西葛飾郡となり猿島郡と合併して猿島郡になりました。
堀越公方の動き、詳細は初めて知りました。
政知、、いくら異母兄とはいえ、還俗させて関東に送ってこの対応。。
しかも息子は早雲に。。何とも哀れ。。源氏の血は冷たいな、やっぱり。
ちなみに政知って義政の異母弟ではなく、異母兄だったんだな。
ずっと弟だと思っていただけに驚いた。
しかし、結果的に関東の主にはなれなかったものの自分の子孫が11代から15代の室町将軍に就任した事はせめてもの慰みだったのかも知れないと感じる。
享徳の乱、知らなかったー
あまり知らない時代を詳しくやってくれて嬉しい。
なんかこの後の流れの理由がわかったする気がする。
室町時代はあまり興味なかったんですが、いやぁ〜、見ているうちに徐々に引き込まれてしまいますね〜😅
これほど、ひちゃかちゃな時代だったとは😩
室町時代はほとんど戦国時代と同じようなものですからね。
伊達家よりも東北で凄い栄華を誇ってた南部家が、領地拡大に動き始めてたのも
実はこの辺から。
まさに関東三國志🗯️
義政自ら
関東に行けば
良かったんじゃね?
尊氏も義満も
戦が起きる度に
自ら兵を率いて
戦場へ行ってるのに
義政はそこまでの決断力と行動力のある武将ではなかったと思うし、この頃の足利幕府も義教暗殺などで足元が揺らいでいたから京都を離れることはできなかったんだと思う。