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西照寺・星研良
เข้าร่วมเมื่อ 22 ก.ย. 2014
仙台市泉区実沢の西照寺(真宗大谷派)と住職星研良の徒然な記録
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วีดีโอ
2024年7月20日 同朋の会 心の分析 後半
มุมมอง 1313 หลายเดือนก่อน
毎月第三土曜午後2時から4時まで行う仏教勉強会・同朋の会 参考文献 蓮如上人御一代記聞書193 安心決定抄 アビダンマッタサンガハ(中山書房仏書林)
2024年7月20日 同朋の会 心の分析 前半
มุมมอง 1653 หลายเดือนก่อน
毎月第三土曜午後2時から4時まで行う仏教勉強会・同朋の会 参考文献 蓮如上人御一代記聞書193 安心決定抄 アビダンマッタサンガハ(中山書房仏書林)
2024年6月15日 同朋の会 色々な話題 後半
มุมมอง 794 หลายเดือนก่อน
毎月第三土曜午後2時から4時まで行う仏教勉強会・同朋の会 00:00 坊主の資質 03:27 西照寺創設期の話 07:55 イベントを行う寺が活発だという罠 12:55 和讃「是非知らず邪正も湧かぬ・・・」 27:06 坊主の仕事、寺の存在意義
2024年6月15日 同朋の会 色々な話題 前半
มุมมอง 794 หลายเดือนก่อน
毎月第三土曜午後2時から4時まで行う仏教勉強会・同朋の会 00:00 5月は休んで能を観にいった 06:14 休んでわかったこと 10:33 西照寺同朋の会の成り立ち 19:00 自分が作ったものに縛られる 20:29 寺に来ない門徒の葬式 35:04 樹木葬の現実
2024年4月20日 同朋の会 慈悲と智慧を感ずる 後半
มุมมอง 1076 หลายเดือนก่อน
毎月第三土曜午後2時から4時まで行う仏教勉強会・同朋の会 〔道元 正法眼蔵 現成公案〕 仏道を習うというは、自己を習うなり 自己を習うというは、自己を忘るるなり 自己を忘るるというは、万法に証せられるなり 万法に証せられるというは、自己の身心 および他己の身心をして脱落せしむるなり 〔親鸞 一念多念文意〕 すなわち阿弥陀仏なり この如来は、光明なり 光明は智慧なり・・・・ よろづの善根功徳満ち極まるを 海にたとえたまう この功徳をよく信ずる人の心の内に速 やかに疾く満ち足りぬと知らしめん 〔親鸞 尊号真像銘文〕 如来より御誓いを賜りぬるには、 尋常の時節を取りて、臨終の称念を待つ べからず ただ如来の至心信楽を深く頼むべし
2024年4月20日 同朋の会 慈悲と智慧を感ずる 前半
มุมมอง 1446 หลายเดือนก่อน
毎月第三土曜午後2時から4時まで行う仏教勉強会・同朋の会 〔道元 正法眼蔵 現成公案〕 仏道を習うというは、自己を習うなり 自己を習うというは、自己を忘るるなり 自己を忘るるというは、万法に証せられるなり 万法に証せられるというは、自己の身心 および他己の身心をして脱落せしむるなり 〔親鸞 一念多念文意〕 すなわち阿弥陀仏なり この如来は、光明なり 光明は智慧なり・・・・ よろづの善根功徳満ち極まるを 海にたとえたまう この功徳をよく信ずる人の心の内に速 やかに疾く満ち足りぬと知らしめん 〔親鸞 尊号真像銘文〕 如来より御誓いを賜りぬるには、 尋常の時節を取りて、臨終の称念を待つ べからず ただ如来の至心信楽を深く頼むべし
偶然辿り着き、良いお話を聞かせて頂きました、ありがとうございます😊
星研良ご住職さま。 唯識についてのお話興味深く視聴させて頂きました。 人間の思考って一日に数万回体験すると聞いたことがあります。 ところで、唯識はご住職さま仰せの通り、大乗仏教に於ける仏教心理学だと存じますが、その中でテラワーダ仏教の話が出て来ますけれども、大乗仏教の心理学=唯識とテラワーダ仏教との関連が今一つ分かり辛かったのですが、大乗の唯識とテラワーダとはどのようにリンクするのでしょうか。 お教え、どうぞよろしくお願い申し上げます。
三蔵(経・律・論)の中で心理学的な内容は主に論にありますが、三蔵は釈尊滅後も弟子達によって伝持されていましたが、 釈尊滅後100年頃に教団が二つの部派(上座部と大衆部)に分裂します。その時に三蔵もそれぞれの部派で別々に伝持するように なります。分裂した部派は互いに没交渉となりますので、それぞれの三蔵も独自の変容をしていきます。 さらにアショーカ王の時代に上座部が分裂し北伝(カシミール)の説一切有部その他小部派と南伝(スリランカ)の上座部に分かれます。 現在のテーラワーダ仏教はこの南伝のスリランカが基本です。北伝の説一切有部の三蔵を批判的に解釈するところから大乗と唯識の萌芽が 出てくるのですが、このような事情から北伝と南伝は没交渉です。また大乗と唯識は北伝の中から発生していますので、南伝のテーラワーダと 直接の関係はありません。根っこは同じなので似てはいますが、細かいところで違うというのはそういうわけです。
西照寺・星研良ご住職さま。初めまして、わたくしは兵庫県の阪神地域の門徒です。 お寺で月一度こうした会が有るのは素敵ですね。 確かに死者供養が一般的な感覚かも知れないですが、浄土真宗にはそうした考え方はないにしても、阿彌陀佛を供養する会がなくて、親鸞さまを崇める考え方と言うのは、一般的な感覚と些かズレが有るかも知れないですね。
南無阿弥陀仏🙏🪷
現代の真宗谷派の教学は清沢、その弟子、暁烏、蘇我、金子によって作られたものです。教学の基本はファシズムであり、差別思想です。曽我先生の差別発言参考にして下さい。
こんばんは、本日も、ありがとうございます。こちら熊本も、晴れて、いました。合掌
直前の正彦様のコメントがTH-camの不具合で見えなくなっていて私の返信も見えないので再掲します。 「正彦」 釈尊が初めて仏教の教義を人びとに説いた出来事は初転法輪(しょてんぽうりん)として伝えられ、 そこでは仏教の中核概念である四諦、八正道、中道が説かれたとされます。そして、八正道は涅槃に 至るための8項目の実践道であり正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定によって構成され、 最後の正定が四種の禅定(四禅定)になります。 釈尊の瞑想は「観」・ヴィパッサナーと呼ばれ、有尋有伺定と無尋有伺定がそれに該当しますが、 仏教学者の平川彰氏によれば、尋伺は『清浄道論』や『倶舎論』を参照すると、「尋」は、心が対象をつかむこと、 「伺」は、それが自分にとってどういう影響があるかを熟考して評価・判断することであると述べられています。 仏教が向ける対象は三毒(三不善根)であり、それら三つの煩悩である貪・瞋・癡を滅尽させることが目標になります。 では具体的 に「どのように」すれば「貪・瞋・痴」を滅することが出来るのか、また瞑想がどう関係してくるのか、 肝心の部分がよく解らないのですが、それを「補う教え」が、中部経典44経「小有明経」の中で説かれていることが解りました。 「西照寺 星研良」 コメントありがとうございます。最初「1件のコメント」とあり、見えなかったので「並べ替え」をクリックし 「新しい順」にすると表示されましたが次にはまた元に戻ってしまいます。調べてみましたがTH-cam側の何等かの不具合のようです。 さて如何に貪瞋痴を滅するかですが、できないと思いますよ。生きていることそのことが貪瞋痴ですから。 しかし「できないのにしなければならない」というもう一つの要請が先天的にあるわけで、これをどうとらえ維持するかですね。 私はそれがヴィパッサナーだと思います。つまり日常生活では一刻一刻生きて考えていることの全てが貪瞋痴に根 ざしているものであることに気づく(観る)、それだけで貪瞋痴からは離れられないけれども、その重圧はかなり軽減されると思います。 瞑想の姿勢を取り、行っている時は日常生活よりはかなり鎮まりますがやはり一刻一刻、貪瞋痴からの雑音が入ります。 それを観て放っておく。そういうところから、とらえることのできない涅槃というものの「方向性」が感じられるようになるのだと思います。
釈尊が初めて仏教の教義を人びとに説いた出来事は初転法輪(しょてんぽうりん)として伝えられ、そこでは仏教の中核概念である四諦、八正道、中道が説かれたとされます。そして、八正道は涅槃に至るための8項目の実践道であり正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定によって構成され、最後の正定が四種の禅定(四禅定)になります。 釈尊の瞑想は「観」・ヴィパッサナーと呼ばれ、有尋有伺定と無尋有伺定がそれに該当しますが、仏教学者の平川彰氏によれば、尋伺は『清浄道論』や『倶舎論』を参照すると、「尋」は、心が対象をつかむこと、「伺」は、それが自分にとってどういう影響があるかを熟考して評価・判断することであると述べられています。仏教が向ける対象は三毒(三不善根)であり、それら三つの煩悩である貪・瞋・癡を滅尽させることが目標になります。 では具体的 に「どのように」すれば「貪・瞋・痴」を滅することが出来るのか、また瞑想がどう関係してくるのか、肝心の部分がよく解らないのですが、それを「補う教え」が、中部経典44経「小有明経」の中で説かれていることが解りました。
コメントありがとうございます。最初「1件のコメント」とあり、見えなかったので「並べ替え」をクリックし「新しい順」にすると表示されましたが 次に波また元に戻ってしまいます。調べてみましたがTH-cam側の何等かの不具合のようです。 さて如何に貪瞋痴を滅するかですが、できないと思いますよ。生きていることそのことが貪瞋痴ですから。しかし「できないのにしなければならない」というもう一つの要請が先天的にあるわけで、これをどうとらえ維持するかですね。私はそれがヴィパッサナーだと思います。つまり日常生活では一刻一刻生きて考えていることの全てが貪瞋痴に根ざしているものであることに気づく(観る)、それだけで貪瞋痴からは離れられないけれども、その重圧はかなり軽減されると思います。瞑想の姿勢を取り、行っている時は日常生活よりはかなり鎮まりますがやはり一刻一刻、貪瞋痴からの雑音が入ります。それを観て放っておく。そういうところから、とらえることのできない涅槃というものの「方向性」が感じられるようになるのだと思います。
いいですね、この求道の生活は。 仏教の開祖である釈尊は菩提樹の下で瞑想に入って悟りを得たといわれています。 浄土真宗であっても瞑想は役に立つと思います。「止」より「観」の瞑想がいいでしょう。観無量寿経にも十六項目の 観法が説かれていますしね。 原点回帰で釈尊のヴィパッサナー(有尋有伺定、無尋有伺定)を追求してみるのもいい。
達摩祖師所傳的”心”就是=佛經所說的:心、識、所知依、非心心、不念心、菩薩心、無住心、無心相心、阿賴耶、異熟、菴摩羅、無垢識、如、真如、實際、本際、涅盤、有分識、窮生死蘊、如來藏、愛阿賴耶、樂阿賴耶、欣阿賴耶、喜阿賴耶、如來、我、真我、阿陀那、種子識、淨無漏界、法身、法性……等;如是多名皆同一藏識,即大乘起信論所說如來藏心也,不可因有多名,便謂為多心也。如人有三名,不可謂三名為三個人也。 《佛說不增不減經》 舍利弗當知:如來藏本際相應體及清淨法者,此法如實、不虛妄、不離不脫,智慧清淨真如法界不思議法,無始本際來,有此清淨相應法體。 舍利弗!我依此清淨真如法界,為眾生故,說為不可思議法自性清淨心。 舍利弗當知:如來藏本際不相應體及煩惱纏不清淨者,此本際來,離脫不相應煩惱所纏不清淨法,唯有如來菩提智之所能斷 。 舍利弗!我依此煩惱所纏、不相應、不思議法界,為眾生故,說為客塵煩惱所染自性清淨心不可思議法。 舍利弗當知:如來藏未來際平等恆及有為法者,即是一切諸法根本,備一切法、具一切法,於世法中不離不脫真實一切法、住持一切法、攝一切法。 舍利弗:我依此不生不滅、常恆清涼不變歸依、不可思議清淨法界,說名眾生。所以者何?言眾生者,即是不生不滅、常恆清涼不變歸依、不可思議清淨法界等異名。以是義故,我依彼法說名眾生。……舍利弗!甚深義者即是第一義諦,第一義諦者即是眾生界,眾生界者即是如來藏,如來藏者即是法身。 心經明解: 觀自在菩薩深入自性如來藏時;發現這個自性如來藏;祂的體性;是不生不滅不垢不淨不增不減、祂能出生五蘊:色受想行識、六根:眼耳鼻舌身意、六塵:色聲香味觸法、六識:眼識乃至意識界;也因此故:無有無明,也無有能盡無明;乃至老死盡的十二因緣;無四諦的苦集滅道;乃至於六度:施戒忍進定智,也是無所得的,(本來具足故);因此菩薩以這個緣故;能夠無畏的廣度眾生;十方諸佛也依此故而成佛;所以深入自性如來藏是最高無上的總持法。 《大乘起信論》 馬鳴菩薩造 下示三大義。所言義者。則有三種。云何為三。一者體大。謂一切法真如平等不增減故。二者相大。謂如來藏具足無量性功德故。三者用大。能生一切世間出世間善因果故。一切諸佛本所乘故。一切菩薩皆乘此法到如來地故。 若要說明它的體,則「唯一真如,平等不二,不增不減」,這只是就「體」說。若要依如來藏隨染淨而言的話,那麼,以隨淨緣而轉,則具無量自性功德,就成就出世間因果;以隨染緣而轉,則變自性功德而為恒沙煩惱,就成世間因果,這樣才顯出「相」和「用」。因為這三大的特性,是不受染淨或生滅的影響而變化,因此名之為「大」,諸佛菩薩皆是乘此心,是故名之為「乘」,整部論的主要內容,都是在說明這個道理,所以這是「論」所據的根本。
往生極樂.目的是要成佛度眾生,有些人對成佛之法不甚歡喜,看來他們的發願往生是虛假的,應該懺悔。 要護持了義正法 所有佛子應擁護了義正法,令不斷絕。為我們的子孫,為全世界的子孫,也為了所有的眾生,不只是這個世界的眾生而已;還有鬼神界、畜生道、天道的眾生也將會往生到這裡,到人間來 ;為這些眾生,要護持了義正法。說自私切身一點,也為未來世的我們自己;如果我們往生再來時,這裡没有了義正法,那我們往生來做什麼?不如去極樂世界下品下生,都比重新生在這裡好;所以,為未來世的自己,也應這樣做。也為過去世的無量父母,亦應這樣做;我們既然發願自度度他乃至成佛,你未來世必定還有很多父母,所以應為未來世父母著想,要護持了義正法,令不斷絕。 《佛說觀無量壽佛經 》 上品上生者,若有眾生,願生彼國者,發三種心,即便往生。何等為三?一者、至誠心。二者、深心。三者、迴向發願心。具三心者,必生彼國。復有三種眾生,當得往生。何等為三?一者、慈心不殺,具諸戒行。二者、讀誦大乘方等經典。三者、修行六念,迴向發願,願生彼國。具此功德,一日乃至七日,即得往生。 上品中生者,不必受持讀誦方等經典,善解義趣。於第一義,心不驚動,深信因果,不謗大乘,以此功德,迴向願求生極樂國。行此行者,命欲終時,阿彌陀佛與觀世音、大勢至、無量大眾眷屬圍繞。持紫金台,至行者前,讚言:法子!汝行大乘,解第一義,是故我今來迎接汝,與千化佛一時授手。 法師,只學一些表相佛法,對第六識緣起性空;第八識如來藏分不清楚 ,講的都是方便法,隨著信眾越多,越不肯謙下尋求名師;而信眾無擇法眼,盲昧無知的擁戴;今生就想立祖,不用等到來世,這就是末法的悲哀! 在家也可為勝義僧 《大乘大集地藏十輪經》卷五: 若諸有情帶在家相,不剃鬚髮,不服袈裟,雖不得受一切出家別解脫戒、一切羯磨布薩自恣悉皆遮遣,而有聖法得聖果故,勝義僧攝、是名勝義僧。 「復次,善男子!有四種僧。何等為四? 一者、勝義僧;二者、世俗僧;三者、啞羊僧;四者、無慚愧僧。」 「云何名勝義僧?謂 佛世尊;若諸菩薩摩訶薩眾,其德尊高,於一切法自在者;若獨勝覺;若阿羅漢;若不還;若一來;若預流;如是七種補特伽羅,勝義僧攝。」…… 「云何名世俗僧?謂剃鬚髮被服袈裟,成就出家別解脫戒,是名世俗僧。」 「云何名啞羊僧?謂不了之根本等罪犯與不犯,不知轉重,毁犯種種小隨小罪,不知發露懺悔所犯。惷愚魯鈍,於微小罪不見、不畏,不依聰明善士而住,不時時間往詣多聞聰明者所,親近承事。亦不數數恭敬請問,云何為善?作何為惡?如是一切補特伽羅啞羊僧攝、是名啞羊僧。」 「云何名無慚愧僧?謂若有情為活命故,歸依我法而求出家。得出家已,於所受持別解脫戒,一切毁犯,無慚、無愧,不見、不畏後世苦果。內懷腐敗,如穢蝸螺,貝音狗行,常好虛言曾無一實;慳貪、嫉妒、愚痴、憍慢,離三勝業,貪著利養恭敬名譽;耽湎六塵,好樂婬泆,愛欲色、聲、香、味、觸、境;如是一切補特伽羅無慚愧僧攝,毁謗正法,是名無慚愧僧。」 《大乘起信論》 復次真如者。依言說分別有二種義。一者如實空。以能究竟顯實故。 二者如實不空。以有自體。具足無漏性功德故。 「如實不空」 文中說「有自體」,意思是:若沒有妄則沒有自體,說「自體不空」,是在表示「如實空」並不是「斷滅空」。 《佛說當來變經》 佛告諸比丘,復有三事,令法毀滅;何謂為三: 一既不護禁戒、不能攝心、不修智慧。 二自讀文字,不識句逗,以上著下,以下著上,頭尾顛倒不能解了,義之所歸,自以為是。 三明者呵之,不從其教,反懷瞋恨,謂相忌妒;識義者少:多不別理:咸云為是!是為三事,令法毀滅。 (出家學佛,不能精進修學了義正法,反習雜句~淺末小經;聞甚深法,不以為喜,諸天流淚,口發斯言,大法欲滅,故使其然、速逝而去。) 《大乘起信論》分辨魔事 或現天像菩薩像。亦作如來像。相好具足。若說陀羅尼。若說布施持戒忍辱精進禪定智慧。或說平等空無相無願。無怨無親。無因無果。畢竟空寂。是真涅槃。或令人知宿命過去之事。亦知未來之事。得他心智。辯才無礙。能令眾生貪著世間名利之事。 這是說魔事會破壞定心,在這裡只是稍微指示它的相狀,使人知道應該如何去對治。《楞嚴經》中把魔事講得很清楚,在禪定當中,因為五陰未破而顯現的魔事,共有五十種,深淺不一。有說:或被天魔,諸惡鬼神,精魅魍魎,全部都來擾亂你;或是你的陰魔心魔,自作其孽,都一一詳示,這裡只是略說大概而已。 文中說「諸魔外道鬼神」指的是在因地中也修禪定,卻因為惡習邪見而墮落在這一類的人,受到禪定氣分的熏發,因此現行而作惱亂。 說「當觀唯心,境界則滅」的意思:雖然外魔能夠撓亂定心,但這也是由於自己有這樣的惡習,現在因修定而熏發現前,由於自己的心識,寄託在它的外形,所以變影來惱害,因此說是唯心,其實並沒有外來的境界,若是能觀唯心,這些就自然消滅了。 這是習氣魔。這種魔是因為修行的人過去多生有親近修習佛法 ,執持佛法相沒有忘失,或是修習空見就認為已是究竟了,貪求宿命的知見,所以現在因定而薰發,在三昧中,就顯現這類的事。由於原本修行的因就不正確,所以使他貪著世間名利之事,這正是唯心所變現。 這是煩惱魔。這種魔是由於過去曾經修習外道三昧,並沒有斷煩惱,現在雖然依佛法而修行,但因為還未進入正定聚,所以熏發過去的舊習,才顯現這樣的事。 佛說末法時期邪師說法如恆河沙 佛於《佛藏經》卷二已經說過: 舍利弗!如是因緣如來悉知,我諸弟子以種種門,種種因緣,種種諸見,壞我正法 。 《大般涅槃經》卷七也說過: 佛告迦葉:「我般涅槃七百歲後,是魔波旬漸當壞亂我之正法。譬如獵師,身服法衣;魔王波旬亦復如是,作比丘像、比丘尼像、優婆塞像、優婆夷像,亦復化作須陀洹身,乃至化作阿羅漢身及佛色身;魔王以此有漏之形作無漏身,壞我正法。」 兩千多年前,佛世尊的預言,千餘年來已在娑婆世界應驗了 ,這就是末法時代正法將滅的象徵。因此,法師入滅後,當時人間已經沒有宗門正法的證悟者住世了,所幸後來有大師再將宗門正法命脈延續下來,乃至擎正法之大纛、建大法幢接引福德因緣具足之學人,得入宗門正道。
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@@HiroyukiIto-Singonsyu-Hakuun 【降魔品】 「何為易行著相見魔。無力沙門。於我所說諸教經中。為化愚痴無根之人。任於過去諸佛方便。亦不得止。設方便教。或歸一佛。或一菩薩。或持一咒。持一經句。歸之信之。不依難行。滅罪解毒。方便成路。或有破戒劣根沙門。倦修眾聖真人正道。如渡得船。見之歡喜。悉捨諸佛戒慧道。一向著住此方便道。不知諸佛不得止設纔時方便權假之道。還以此權假方便。為最上法。謂無上路。或作邪思。為我能得一切道人。未見未得最上妙法殊勝妙路。招諸愚人。為彼愚人。設講設會。廣說敷演。而謂此道最勝極妙。唯限此路。眾生成佛。諸餘經道皆是難行。一切凡夫皆是下根。若下根人依難行道。百千萬人中。雖一人。不可有得成佛道。於茲一切魔魅。得便加勢加利。冥成助故。日日長其信心氣。亦日日弘長其邪法流。亦復一切愚人迷俗於功兹得幸大作歸伏。所以者何。一切愚人好惡。惡事。懶於善行。雖如是一切賢聖一切諸佛。已說今說。作惡人者。非是人間。非是佛徒。今過罪害。後生惡趣。生生世世得惡果報。永絕成佛得脫大路。是故捨好忍懶。勤修依戒。依定。依慧。修度。忍難。忍苦。依聖學教。恐罪捨惡。趣向聖道。然今逢此大易行說。不依賢跡。不依聖道。永離惡趣。直得成佛。大慶大喜。皆人此教。於茲即廢諸佛正法。豈唯廢我成佛法。也即廢王法仁義聖道。所以者何。令諸人心深著易行。不知道理。以是理故。親罪親過。親迷親妄。親惡親邪。疏父疏母。疏君疏臣。疏聖疏賢。疏天疏命。 豈唯是自然廢聖道也。彼邪沙門。見此經知見道人。甚大惡之誹謗。而謂此修行人不知直路。遠迷久惑。留難行道。知見道者難解難入。濁惡世中絕不相應下愚人民。千萬億人於中無迷其一。成就此道。誠可咍之。此邪言流布於世。大遮入於知見道人。悲哉此人不知諸佛設方便旨。諸佛設此方便路意。欲先教之。因是為緣。起信近佛。漸漸增益一切佛種。引入佛道。開示悟入佛知見道。令得成佛。阿難當知。念三寶者。是為至於知見寶處中路舟筏。執此舟筏。還遮寶處。誠可悲之。名非遮此佛知見道。還遮自己念三寶道者。所以者何。或是念佛。或是念法。或是念僧。雖是皆實諸佛說法。是愚沙門所念之心。即邪念故。念三寶法即成邪法。修邪法故即墮魔道。自墮魔道故令他墮魔。自墮他墮皆破佛法。破佛法故破念三寶。豈唯墮魔邪類中也。終墮無間大火坑中。無量無邊大劫數間。受無量苦。永絕佛種。如是愚人誠難治之。三世諸佛。一切菩薩。無有一佛亦一菩薩。不依此經。佛知見道。如是愚人非我弟子。即是魔徒。 白佛言。世尊如是愚人云何得脫魔法魔徒。應還信佛。佛言阿難。如是愚人即止慢心。迴心還思。應當思念。我是愚人。我是惡人。當墮三途火坑之中。但有諸佛。以大慈悲。能設方便。為我等故說此易行念三寶道。令我愚人永離三塗。是尚慶餘應如是我往淨土者。誠不思議我法方便。更不應對他人勝道。如是思求。依我劣根。無由勝道。唯歸如來方便之道。於自他相。無是無非。不遮他道。唯向自身。拂心垢。欲專念誦。則眾魔退去。其三寶現。自無罪亦他無罪。故即成我教。念三寶法。若一念生自勝他劣等者。還作魔行。亦離佛行。諸佛真實知見道。尚謂自勝他劣生慢心者。即為魔道。何以故。此佛知見者。為得作佛耳。非為見自勝他劣生慢心故。何況於為修佛方便劣行尚爾。以自劣為勝於他勝道也。」 《大乘起信論》 馬鳴菩薩造 賢首國師疏 憨山大師解 「復次眾生初學是法。欲求正信。其心怯弱。以住於此娑婆世界。自畏不能常值諸佛。親承供養。懼謂信心難可成就。意欲退者。當知如來有勝方便。攝護信心。謂以專意念佛因緣。隨願得生他方佛土。常見於佛。永離惡道。如修多羅說。若人專念西方極樂世界阿彌陀佛。所修善根。迴向願求生彼世界。即得往生。常見佛故。終無有退。若觀彼佛真如法身。常勤修習。畢竟得生。住正定故。」 這是為根器較差的眾生,為了防止他們會退心所施設的方便。因為初學的眾生,尚未得到正信,內心不但脆弱,於外又缺乏好緣的幫助,因此恐怕他們會退失進修,所以如來施設勝方便,以攝護他們的心,只要專意念佛,求生淨土就好。這是依靠有佛的保護,就好比念阿彌陀佛,得生西方的話,就能居於不退的地位,就是屬於這樣的情形。 可是淨土的不退,也有三種不退: 一是如果蓮花還未開,信行還未滿,這只是從「處所」來說不會有退出淨土的緣了,所以說「不退」。 二是華開見佛,這是修十信位已經圓滿具足了,能夠少分見於法身,住正定聚,這才是真正的不退。 三是三賢位修圓滿了,進入初地,證徧滿法身,生無邊佛土,這是究竟不退位。
往生極樂.目的是要成佛度眾生,有些人對成佛之法不甚歡喜,看來他們的發願往生是虛假的,應該懺悔。 要護持了義正法 所有佛子應擁護了義正法,令不斷絕。為我們的子孫,為全世界的子孫,也為了所有的眾生,不只是這個世界的眾生而已;還有鬼神界、畜生道、天道的眾生也將會往生到這裡,到人間來 ;為這些眾生,要護持了義正法。說自私切身一點,也為未來世的我們自己;如果我們往生再來時,這裡没有了義正法,那我們往生來做什麼?不如去極樂世界下品下生,都比重新生在這裡好;所以,為未來世的自己,也應這樣做。也為過去世的無量父母,亦應這樣做;我們既然發願自度度他乃至成佛,你未來世必定還有很多父母,所以應為未來世父母著想,要護持了義正法,令不斷絕。 《佛說觀無量壽佛經 》 上品上生者,若有眾生,願生彼國者,發三種心,即便往生。何等為三?一者、至誠心。二者、深心。三者、迴向發願心。具三心者,必生彼國。復有三種眾生,當得往生。何等為三?一者、慈心不殺,具諸戒行。二者、讀誦大乘方等經典。三者、修行六念,迴向發願,願生彼國。具此功德,一日乃至七日,即得往生。 上品中生者,不必受持讀誦方等經典,善解義趣。於第一義,心不驚動,深信因果,不謗大乘,以此功德,迴向願求生極樂國。行此行者,命欲終時,阿彌陀佛與觀世音、大勢至、無量大眾眷屬圍繞。持紫金台,至行者前,讚言:法子!汝行大乘,解第一義,是故我今來迎接汝,與千化佛一時授手。 法師,只學一些表相佛法,對第六識緣起性空;第八識如來藏分不清楚 ,講的都是方便法,隨著信眾越多,越不肯謙下尋求名師;而信眾無擇法眼,盲昧無知的擁戴;今生就想立祖,不用等到來世,這就是末法的悲哀! 在家也可為勝義僧 《大乘大集地藏十輪經》卷五: 若諸有情帶在家相,不剃鬚髮,不服袈裟,雖不得受一切出家別解脫戒、一切羯磨布薩自恣悉皆遮遣,而有聖法得聖果故,勝義僧攝、是名勝義僧。 「復次,善男子!有四種僧。何等為四? 一者、勝義僧;二者、世俗僧;三者、啞羊僧;四者、無慚愧僧。」 「云何名勝義僧?謂 佛世尊;若諸菩薩摩訶薩眾,其德尊高,於一切法自在者;若獨勝覺;若阿羅漢;若不還;若一來;若預流;如是七種補特伽羅,勝義僧攝。」…… 「云何名世俗僧?謂剃鬚髮被服袈裟,成就出家別解脫戒,是名世俗僧。」 「云何名啞羊僧?謂不了之根本等罪犯與不犯,不知轉重,毁犯種種小隨小罪,不知發露懺悔所犯。惷愚魯鈍,於微小罪不見、不畏,不依聰明善士而住,不時時間往詣多聞聰明者所,親近承事。亦不數數恭敬請問,云何為善?作何為惡?如是一切補特伽羅啞羊僧攝、是名啞羊僧。」 「云何名無慚愧僧?謂若有情為活命故,歸依我法而求出家。得出家已,於所受持別解脫戒,一切毁犯,無慚、無愧,不見、不畏後世苦果。內懷腐敗,如穢蝸螺,貝音狗行,常好虛言曾無一實;慳貪、嫉妒、愚痴、憍慢,離三勝業,貪著利養恭敬名譽;耽湎六塵,好樂婬泆,愛欲色、聲、香、味、觸、境;如是一切補特伽羅無慚愧僧攝,毁謗正法,是名無慚愧僧。」 《大乘起信論》 復次真如者。依言說分別有二種義。一者如實空。以能究竟顯實故。 二者如實不空。以有自體。具足無漏性功德故。 「如實不空」 文中說「有自體」,意思是:若沒有妄則沒有自體,說「自體不空」,是在表示「如實空」並不是「斷滅空」。 《佛說當來變經》 佛告諸比丘,復有三事,令法毀滅;何謂為三: 一既不護禁戒、不能攝心、不修智慧。 二自讀文字,不識句逗,以上著下,以下著上,頭尾顛倒不能解了,義之所歸,自以為是。 三明者呵之,不從其教,反懷瞋恨,謂相忌妒;識義者少:多不別理:咸云為是!是為三事,令法毀滅。 (出家學佛,不能精進修學了義正法,反習雜句~淺末小經;聞甚深法,不以為喜,諸天流淚,口發斯言,大法欲滅,故使其然、速逝而去。) 《大乘起信論》分辨魔事 或現天像菩薩像。亦作如來像。相好具足。若說陀羅尼。若說布施持戒忍辱精進禪定智慧。或說平等空無相無願。無怨無親。無因無果。畢竟空寂。是真涅槃。或令人知宿命過去之事。亦知未來之事。得他心智。辯才無礙。能令眾生貪著世間名利之事。 這是說魔事會破壞定心,在這裡只是稍微指示它的相狀,使人知道應該如何去對治。《楞嚴經》中把魔事講得很清楚,在禪定當中,因為五陰未破而顯現的魔事,共有五十種,深淺不一。有說:或被天魔,諸惡鬼神,精魅魍魎,全部都來擾亂你;或是你的陰魔心魔,自作其孽,都一一詳示,這裡只是略說大概而已。 文中說「諸魔外道鬼神」指的是在因地中也修禪定,卻因為惡習邪見而墮落在這一類的人,受到禪定氣分的熏發,因此現行而作惱亂。 說「當觀唯心,境界則滅」的意思:雖然外魔能夠撓亂定心,但這也是由於自己有這樣的惡習,現在因修定而熏發現前,由於自己的心識,寄託在它的外形,所以變影來惱害,因此說是唯心,其實並沒有外來的境界,若是能觀唯心,這些就自然消滅了。 這是習氣魔。這種魔是因為修行的人過去多生有親近修習佛法 ,執持佛法相沒有忘失,或是修習空見就認為已是究竟了,貪求宿命的知見,所以現在因定而薰發,在三昧中,就顯現這類的事。由於原本修行的因就不正確,所以使他貪著世間名利之事,這正是唯心所變現。 這是煩惱魔。這種魔是由於過去曾經修習外道三昧,並沒有斷煩惱,現在雖然依佛法而修行,但因為還未進入正定聚,所以熏發過去的舊習,才顯現這樣的事。 佛說末法時期邪師說法如恆河沙 佛於《佛藏經》卷二已經說過: 舍利弗!如是因緣如來悉知,我諸弟子以種種門,種種因緣,種種諸見,壞我正法 。 《大般涅槃經》卷七也說過: 佛告迦葉:「我般涅槃七百歲後,是魔波旬漸當壞亂我之正法。譬如獵師,身服法衣;魔王波旬亦復如是,作比丘像、比丘尼像、優婆塞像、優婆夷像,亦復化作須陀洹身,乃至化作阿羅漢身及佛色身;魔王以此有漏之形作無漏身,壞我正法。」 兩千多年前,佛世尊的預言,千餘年來已在娑婆世界應驗了 ,這就是末法時代正法將滅的象徵。因此,法師入滅後,當時人間已經沒有宗門正法的證悟者住世了,所幸後來有大師再將宗門正法命脈延續下來,乃至擎正法之大纛、建大法幢接引福德因緣具足之學人,得入宗門正道。
達摩祖師所傳的”心”就是=佛經所說的:心、識、所知依、非心心、不念心、菩薩心、無住心、無心相心、阿賴耶、異熟、菴摩羅、無垢識、如、真如、實際、本際、涅盤、有分識、窮生死蘊、如來藏、愛阿賴耶、樂阿賴耶、欣阿賴耶、喜阿賴耶、如來、我、真我、阿陀那、種子識、淨無漏界、法身、法性……等;如是多名皆同一藏識,即大乘起信論所說如來藏心也,不可因有多名,便謂為多心也。如人有三名,不可謂三名為三個人也。 《佛說不增不減經》 舍利弗當知:如來藏本際相應體及清淨法者,此法如實、不虛妄、不離不脫,智慧清淨真如法界不思議法,無始本際來,有此清淨相應法體。 舍利弗!我依此清淨真如法界,為眾生故,說為不可思議法自性清淨心。 舍利弗當知:如來藏本際不相應體及煩惱纏不清淨者,此本際來,離脫不相應煩惱所纏不清淨法,唯有如來菩提智之所能斷 。 舍利弗!我依此煩惱所纏、不相應、不思議法界,為眾生故,說為客塵煩惱所染自性清淨心不可思議法。 舍利弗當知:如來藏未來際平等恆及有為法者,即是一切諸法根本,備一切法、具一切法,於世法中不離不脫真實一切法、住持一切法、攝一切法。 舍利弗:我依此不生不滅、常恆清涼不變歸依、不可思議清淨法界,說名眾生。所以者何?言眾生者,即是不生不滅、常恆清涼不變歸依、不可思議清淨法界等異名。以是義故,我依彼法說名眾生。……舍利弗!甚深義者即是第一義諦,第一義諦者即是眾生界,眾生界者即是如來藏,如來藏者即是法身。 心經明解: 觀自在菩薩深入自性如來藏時;發現這個自性如來藏;祂的體性;是不生不滅不垢不淨不增不減、祂能出生五蘊:色受想行識、六根:眼耳鼻舌身意、六塵:色聲香味觸法、六識:眼識乃至意識界;也因此故:無有無明,也無有能盡無明;乃至老死盡的十二因緣;無四諦的苦集滅道;乃至於六度:施戒忍進定智,也是無所得的,(本來具足故);因此菩薩以這個緣故;能夠無畏的廣度眾生;十方諸佛也依此故而成佛;所以深入自性如來藏是最高無上的總持法。 《大乘起信論》 馬鳴菩薩造 下示三大義。所言義者。則有三種。云何為三。一者體大。謂一切法真如平等不增減故。二者相大。謂如來藏具足無量性功德故。三者用大。能生一切世間出世間善因果故。一切諸佛本所乘故。一切菩薩皆乘此法到如來地故。 若要說明它的體,則「唯一真如,平等不二,不增不減」,這只是就「體」說。若要依如來藏隨染淨而言的話,那麼,以隨淨緣而轉,則具無量自性功德,就成就出世間因果;以隨染緣而轉,則變自性功德而為恒沙煩惱,就成世間因果,這樣才顯出「相」和「用」。因為這三大的特性,是不受染淨或生滅的影響而變化,因此名之為「大」,諸佛菩薩皆是乘此心,是故名之為「乘」,整部論的主要內容,都是在說明這個道理,所以這是「論」所據的根本。
本当に深い説法を有難うございます。家の仏壇の中央には阿弥陀仏が、両側には親鸞聖人と蓮如上人の掛軸が安置されています。蓮如上人と言えば「白骨の御文」が強烈な印象で記憶に残っていますが、布教活動の詳細はほとんど知りませんでした。昔の人々の生死に対峙する厳しさや真剣さをあらためて思いつつ、いろいろと思考を巡らせてみました。
ありがとう<(_ _*)> ところで 阿闍世王 は 提婆達多 と 組んで 象に お酒を飲ませて 酔わせた象🐘 で お釈迦様を 殺害 しようとしたんですね😭
そのようです。酔象の他にも、岩を落として殺害しようとしたが当たらず、しかし破片が釈尊の足指を傷つけた、弓の射手に命じて殺害しようとしたが失敗したということもあったようです。
寄席アプリかなと思いますよ。
だから外せませんよね。