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七ちょめ
เข้าร่วมเมื่อ 22 ต.ค. 2014
平成8年から古い町並を訪ねだしました。
一番多く訪ねたのは平成20年~平成25年位だったと思います。
古い町並を訪ねるのは今でも続いていますが、その間に「樹木の花」「琺瑯看板」「近代建築」「ピンホール写真」「古いカメラ」「ピンぼけ写真」だったりといろんなことに挑戦しました。
今はTH-camで古い町並を公開することを「ぼちぼち」「細々」と続けていますが、後期高齢者になってから久しくなった超高齢者の部類でしょう。
ホームページは平成11年頃から公開を始め、今でも続けています。
「古い町並を歩く」URLは下記です。
matinami.o.oo7.jp/mati7/top.html
TH-camは細々ながら続けたく思いますので、チャンネル登録を宜しくお願いいたします。
一番多く訪ねたのは平成20年~平成25年位だったと思います。
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今はTH-camで古い町並を公開することを「ぼちぼち」「細々」と続けていますが、後期高齢者になってから久しくなった超高齢者の部類でしょう。
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懐かしい町並 福山市松永町5丁目 広島県
懐かしい町並 福山市松永町5丁目
松永村は江戸時代に干拓により塩田として開発されて成立した村である。
万治3年(1660)水野福山藩家臣本庄重政が神村・柳津村沖の干拓に着手し、先ず塩田として開発された。その後、町を設けて各地から入植者を募り、塩田経営に従事し、松永と命名された。
福山藩も塩田経営には積極的であったので、宝永8年(1711)の家数194・人数1,668(男923・女745で男が多いのは浜子(塩田労働者)の存在と思われる)と多くの人が移り住んだ。菅茶山(1748~1827)の「福山志料」によると文化年間(1804~18)の家数595・人数2,489とある。
松永塩田の面積は水野検地では39町6反余りであったが、元禄13年(1700)の備前検地では56町4反余りと増加している。塩浜軒数は元禄11年(1698)当時52軒であったが、その後、塩田の統廃合が行われたらしく、48軒になり、慶応年間(1865~68)には5浜が畑地となり43軒に減少している。 松永塩の販路は北前船により越後や北国筋が中心であった。
明治に入っても益々製塩業は盛んになったが、明治17年の暴風雨で塩田が全滅したが、復興に漕ぎつけている。そして明治38年には塩の専売法が実施され需要が増大した。
また、この頃から当地で下駄の製造が始められた。初めは桐で作られていたが、その後北海道産の栓材から地元産の杉や松と変わり、昭和9年には人口の16パーセントが下駄関係者であった。
今回訪ねたのは、江戸時代初期には海岸線だったと思われる地域で、古い町並みはその海岸線がそのまま羽原川になったと思われるところである。川に支柱を立ててその上に家を建てる独特の光景が見られ、その表側が道路になり古い町並みが展開している。下駄製造の全盛期にはこの川を遡って材木が運ばれたのだろう。つい最近まで使われていたと思われる、木材の搬入路がこの川に通じているのが見られた。
町並みを構成する家屋は比較的新しく、この地域の一番繁栄した大正時代の建物が多いと思われ、殆どの家が2階建てであって、土蔵を備えた家も多くみられた。
古い町並を歩く 長年の私のホームページです。
matinami.o.oo7.jp/mati7/top.html
音楽:中北音楽研究所
松永村は江戸時代に干拓により塩田として開発されて成立した村である。
万治3年(1660)水野福山藩家臣本庄重政が神村・柳津村沖の干拓に着手し、先ず塩田として開発された。その後、町を設けて各地から入植者を募り、塩田経営に従事し、松永と命名された。
福山藩も塩田経営には積極的であったので、宝永8年(1711)の家数194・人数1,668(男923・女745で男が多いのは浜子(塩田労働者)の存在と思われる)と多くの人が移り住んだ。菅茶山(1748~1827)の「福山志料」によると文化年間(1804~18)の家数595・人数2,489とある。
松永塩田の面積は水野検地では39町6反余りであったが、元禄13年(1700)の備前検地では56町4反余りと増加している。塩浜軒数は元禄11年(1698)当時52軒であったが、その後、塩田の統廃合が行われたらしく、48軒になり、慶応年間(1865~68)には5浜が畑地となり43軒に減少している。 松永塩の販路は北前船により越後や北国筋が中心であった。
明治に入っても益々製塩業は盛んになったが、明治17年の暴風雨で塩田が全滅したが、復興に漕ぎつけている。そして明治38年には塩の専売法が実施され需要が増大した。
また、この頃から当地で下駄の製造が始められた。初めは桐で作られていたが、その後北海道産の栓材から地元産の杉や松と変わり、昭和9年には人口の16パーセントが下駄関係者であった。
今回訪ねたのは、江戸時代初期には海岸線だったと思われる地域で、古い町並みはその海岸線がそのまま羽原川になったと思われるところである。川に支柱を立ててその上に家を建てる独特の光景が見られ、その表側が道路になり古い町並みが展開している。下駄製造の全盛期にはこの川を遡って材木が運ばれたのだろう。つい最近まで使われていたと思われる、木材の搬入路がこの川に通じているのが見られた。
町並みを構成する家屋は比較的新しく、この地域の一番繁栄した大正時代の建物が多いと思われ、殆どの家が2階建てであって、土蔵を備えた家も多くみられた。
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音楽:中北音楽研究所
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วีดีโอ
懐かしい町並 日野町黒坂 鳥取県
มุมมอง 532 ชั่วโมงที่ผ่านมา
懐かしい町並 日野町黒坂 日野川上流左岸に黒坂城下町は位置している。 関ヶ原の戦後の慶長15年(1610)関一政が所領5万石で黒坂に封ぜられ、7年間この地で治政にあたった。城はJR黒坂駅の西裏側の日野高校黒坂分校から少し山側にかけて建設され、城下町はその東側一帯に山を削り沢を埋めて平地とし、南北へ街筋5通り、東西に5通りの町割りを行った。城下町は慶長18年(1613)頃には完了したようである。 その後、池田光政が因幡・伯耆32万石の領主となり鳥取藩が成立した。そして黒坂には重臣池田下総守を配置したが、寛永9年(1632)国替えにより、池田光仲が鳥取藩主となり、黒坂には福田氏を配置して、「自分手政治」という治世を行わせた。だが平素は福田氏は鳥取にいて黒坂には城奉行を駐在させて黒坂陣屋と称した。 黒坂陣屋は関氏時代の城内に置かれ、役所・煙硝倉・門番長屋・侍屋敷・牢屋などで構成されてい...
懐かしい町並 志摩市大王町波切 三重県
มุมมอง 534 ชั่วโมงที่ผ่านมา
懐かしい町並 志摩市大王町波切 波切は大王崎の先端にある集落である。「伊勢の神埼・国崎の鎧・波切大王なけりゃよい」と船乗りたちに恐れられた難所で、座礁難破する船が多い所。 江戸時代を通じて鳥羽藩領で、延享2年(1745)の家数241・人数1,356。明治13年には家数701・人数4,071とある。 古くから志摩の江戸といわれ、南志摩の経済・文化の中心であった。波切港は避難港として知られていた。 波切集落は太平洋に突出した岬の先端にあり、台風のコースにあたり、台地への傾斜地区には防風のための石垣が築かれている。車を波切港の岸壁において波切集落を歩き出したが、岸壁からは急な石段の坂が続き台地の上に出る。台地の上には大きな道が通り商店街が展開している。予想していなかっただけに驚いた町並みだ。3~4mも石垣を積んで防風対策された民家も多く見られたが、その前の家の方に、この石垣は何のために...
懐かしい町並 日南町多里 鳥取県
มุมมอง 297 ชั่วโมงที่ผ่านมา
懐かしい町並 日南町多里 日南町多里は中国山地の背骨部、岡山県・広島県・島根県の県境に位置し、そして属している鳥取県の西南端に位置する。冬季には100日間も雪に閉ざされることのある地域であり、旧日野往還最奥の宿場町であった。 この地には古墳が多く見つかっており、この地が早くから開発されていたと思われる。でも農耕文化が発展しそうもない山中にあって、古墳を築造するほどの豪族がいたのかと疑問に思うが、古代の炉製鉄が豪族を生み出していたのかもしれない。 日野町と同様、伊勢亀山から転封となった関一政の支配から、元和3年(1617)池田光政が鳥取藩主となり、その後寛永9年(1632)池田光仲と国替となり、多里はそのまま鳥取藩領で明治を迎える。 日野川沿いに日野往来が通り、その上流部の多里宿(元禄14年に村を宿と改称)は出雲・備後・備中三国との交通の要衝に位置し、貞享年中(1684~88)から...
懐かしい町並 米子市淀江町淀江 鳥取県
มุมมอง 1379 ชั่วโมงที่ผ่านมา
懐かしい町並 米子市淀江町淀江 淀江は鳥取県北西部にある米子市の東部日本海に面して位置し、集落は日本海沿岸に沿って東西に細長く形成された砂州の上に立地している。古くから宿場町・港町として伯耆地方の商業の中心地として発展していた。 この地方には多くの古墳があり、早くから開けていたところである。 関ヶ原の戦い後、中村伯耆守・加藤貞泰・池田光政らの治政を経て、寛永9年(1632)池田光仲が因幡・伯耆の国主として鳥取池田藩が成立し、以後238年間池田氏の治政が続いた。 淀江は宿場町・港町として行政・経済の上で重要な位置にあり、家数の増加が著しかった。寛永10年(1633)66・延宝9年(1681)95・宝永7年(1710)150・延享3年(1746)285・文久3年(1863)450と著しい増加を見せている。宿場町は伯耆街道沿いに東西に発達していて、幕末には横町・御蔵小路・本町など約20...
懐かしい町並 松山市南斎院 愛媛県
มุมมอง 4712 ชั่วโมงที่ผ่านมา
懐かしい町並 松山市南斎院 南斎院(みなさや)村は斎院村から北斎院村と南斎院村に分れたもので、その時期は明確でないが、元禄13年(1700)の領分附伊予国村浦記にも天保郷帳(1834)にも単に斎院村となっているが、明治5年の松山領里正鑑では南北二村に分れているからこの間に分村されたのであろう。 南斎院村は明治初めの「温泉郡地誌」によると地形平坦、灌漑に不便で旱損がち、地味は悪いとあり、家数144・人数574、牛34・馬33とある。 長屋門の農村集落として特異な存在の南斎院を訪ねたが、どうしてこのような立派な長屋門の農家が連なるのか判らない。その長屋家から出てこられた年配の方に話しかけると水のみ百姓と仰っていたが、どうしてどうしてこれだけの家屋敷を維持していくのは大変な費用がかかる。 普通、長屋門のある家は格式が高い家である。明治期に入り自由に出来るようになたとはいえ、これだけの長...
懐かしい町並 室戸市元甲 高知県
มุมมอง 6414 ชั่วโมงที่ผ่านมา
懐かしい町並 室戸市元甲 訪ねたところは室戸市元甲の新村集落である。元には海岸沿い東から岩戸・落地(現上の内)・脇之浜(現脇地)・行道(当)・新浦(現新村)の集落があり、北側の山中に西川・向江等がある。 江戸時代を通じて土佐藩領であった。「土佐州郡志」には新浦4、脇之浜28、西川4、落地14、岩戸11の家数が記載されているが、行道村は村名のみで家数の記載が無い。寛保郷帳によると家数106・人数454とある。 寛政3年(1791)の浦分改帳によると家数10・人数52が漁船5艘・地引網・磯立網各一を使って漁業に従事している。港は無く行当岬に船を引き揚げていて、磯周りと沖合の小規模な漁業だが、天保年間(1830~44)と考えられる浦々諸縮書では家数15・人数95。弘化4年(1847)の上灘諸浦調査では家数21・人数115と着実に増加している。 その後も小規模な漁業を主な生業とした寒村で...
懐かしい町並 半田市亀崎町 愛知県
มุมมอง 5716 ชั่วโมงที่ผ่านมา
懐かしい町並 半田市亀崎町 知多半島中央部北寄りの東海岸に位置する。慶長16年(1611)以来尾張藩成瀬氏の給地であったが、元禄6年(1693)いったん蔵入り地となり、文政9年(1826)再び成瀬氏の給地となっている。 「寛文覚書」には家数250・人数1,997とあり、「徇行記」では家数696・人数3,270とある。 「尾張名所図会」には海浜に沿った家並みと港の様子を「当所は船着き場にして千あまりの家の漁村で、繁盛している地、豪商も少なからず、眺望もよくて、たぐいなき景勝の地」と記している。 亀崎村は尾張藩の御用船を度々命じられている。天保11年(1840)から元治元年(1864)まで16艘の亀崎村船が米・材木を江戸に輸送している。漁業は近世初期から伊豆の打瀬網漁法が尾張・三河の中で最も早く亀崎に伝えられて明治末まで盛んに行われた。なかでも海老漁は盛んで、享保7年(1722)尾張...
懐かしい町並 知多市岡田 愛知県
มุมมอง 5719 ชั่วโมงที่ผ่านมา
懐かしい町並 知多市岡田 知多市の岡田集落は、江戸時代初期から木綿の産地として知られていて、今も当時の豪勢な屋敷がそのまま残っている。 岡田村は江戸時代は尾張藩領、横須賀代官所支配で全村蔵入地であった。 知多半島特に西知多は近世初頭から知多木綿の特産地として知られており、岡田村はその中でも著名で、木綿買継問屋の中島七右衛門と竹之内源助の両家が木綿の集荷・販売の中心となって活躍していた。江戸初期にはこの地の木綿は伊勢へ移出され、晒されて伊勢晒や松阪晒の名で販売されていたが、天明年間(1781~89)に中島七右衛門が伝えたと云われる晒技術により、伊勢商人への依存から次第に独立した知多晒の名で江戸・名古屋方面で販売された。 と云っても、主産業は農業であるが、岡田村やその周辺農家は、木綿つむぎによって生計を助けていた。 「寛文覚書」によると岡田村の家数は159・人数969とある。安政2年...
懐かしい町並 神戸町神戸 岐阜県
มุมมอง 7021 ชั่วโมงที่ผ่านมา
懐かしい町並 神戸町神戸 神戸(ごうど)は中世には東山道に沿った交通の要衝にあり、神人の商活動が基礎となり門前市が発達し、門前町として栄えた所です。 江戸期に入り東山道に代わり中山道ができたため、大きな打撃を受けたが、依然西濃地方の物資集散の一大中心地だった。曽根城主秋葉一鉄の保護にはじまる九斎市は4.7.10の日に開かれ年間108回も行われていた。大垣から持ち寄った商品や、村々で生産された箕・米・櫛などが売られていた 享保6年(1721)の神戸村の人数は1,833とあり、寛政年間(1789~1801)の家数322・人数1,540。明治5年では家数414・人数1,602とある。 神戸の町並は「大門通九町九間」といわれ、日吉神社正面に道幅15mの南北の大通りがあった。道の両側には米・味噌・油・酒・雑穀・小間物を商う商店が軒を連ね、江戸期を通じて繁栄していた。 明治に入ってもこの地方...
懐かしい町並 大津市山中町 滋賀県
มุมมอง 231วันที่ผ่านมา
最近の町並 th-cam.com/video/9klDUsnaM0k/w-d-xo.html 懐かしい町並 大津市山中町 比叡山中に位置し、西側は山城国(京都)、東側は近江国の国境の集落で、滋賀越えあるいは山中越えと呼ばれる山道が、滋賀県から京都北白川に通じている。 壬申の乱の残兵が逃れてこの地に隠れ、田地を開いて一村をなしたという。山中越えは軍事・交通上重要な役割を果たし、中世には山中関が置かれて、関銭を徴収していたようだ。 貝原益軒は「京城勝覧」で「山中、民家多し、町有り、寒気ふかくして梅花も二月に咲く、桜はなおおそし」と記し、この山中越えの道を「むかし道」と称しているが、これは西 り航路の開拓によってさほど注目されなくなったためと思われる。 しかし享保6年(1721)には日本海から運ばれてきた荷物を、大津浦に着けずに、山中越えで京都に運んだり、文化8年(1811)・文政4...
懐かしい町並 金沢市金石地域 石川県
มุมมอง 42วันที่ผ่านมา
懐かしい町並 金沢市金石地域 江戸初期の金石は宮腰村とよばれていた。寛永16年(1639)の記録には宮腰町とみえ、もうこの頃には町立てされていたと考えられる。寛永21年(1644)の検地にも宮腰町と記されている。 宮腰町は犀川河口右岸に位置し、日本海に面する中世以来の湊町。 江戸時代以前の犀川・大野川は当地付近で合流、一流れとなって日本海に注いでいた。この河川の分離が慶安年間(1648~52)頃に行われたようで、この河川分離により新しい大野湊ができ、宮腰湊と次第に発展する大野湊との間で、江戸時代を通じてしばしば紛争があった。 宮腰が近世的な町としての実体を備えるのは、金沢城下の外港としての位置を与えられ、機能し始める寛永(1624~44)期のことである。元和2年(1616)金沢ー宮腰間の道路を整備したり、元和6年(1620)には川を掘削して浅野川と結び、宮腰から城下へ川船を直接乗...
懐かしい町並 西伊豆町安良里 静岡県
มุมมอง 60วันที่ผ่านมา
懐かしい町並 西伊豆町安良里 安良里は湾を中心とした漁業集落である。集落は海岸線に沿って展開している。 江戸時代ははじめは幕府領、正徳4年(1714)からは 本間部氏領で幕末を向かえる。正徳4年(1714)の指出帳によると、家数118・人数540。宝暦12年(1762)の高帳によると、百姓47・漁師39・船乗14・杣(そま)7・五十集(鰹節製造)7・船宿7・商4・船大工2・石切2・屋根葺1・ 船2とある。 これを見ると安良里は半漁半農のようである。しかし漁業が急速に発展するのは明治以降で、明治27年に漁船が74隻もあり、イルカ漁と鰹節製造を生業とした集落であった。 町並は海岸に沿ってと安良里川河口で安良里川に沿って展開している。港も巾着型に入江が入り込んでいるので、かってはイルカを港に追い込んでの漁が行われていたそうだ。 町は漁村集落であり、板壁・ナマコ壁の家屋が混在している...
懐かしい町並 輪島市門前町黒島 石川県
มุมมอง 44วันที่ผ่านมา
懐かしい町並 輪島市門前町黒島 能登半島は約2年前から訪ねようと計画していたが、延び延びになり能登半島地震で、門前町黒島が大きな打撃を受けたと知り、また訪ねるのが延びてしまい、今日になったのですが、地震の被害は大きかったようで、一番見どころの角海家は解体修復の最中だった。 黒島は貞亨元年(1684)から幕府領、以後元禄2年(1689)から同8年(1695)まで鳥居忠英領、同11年(1698)から同13年(1700)の水野勝長領の時代以外は幕府領。亨保7年(1722)から幕末まで加賀藩領預地。 黒島の 船業は元亀~天正(1570~92)の頃、番匠屋善右衛門が加賀一向一揆の用米を運んだのに始ると伝える。その後、総持寺の御用を勤めた森岡屋や浜岡屋・中屋・角屋のどの 船業者が北前船数十艘をもち活躍した。家数も貞亨4年(1687)の家数139・人数800、天保7年(1836)に家数3...
懐かしい町並 美馬市穴吹町穴吹 徳島県
มุมมอง 5414 วันที่ผ่านมา
懐かしい町並 美馬市穴吹町穴吹 穴吹は物資の中継地として機能し、穴吹川河口と吉野川本流を利用しての穴吹河湊があり、物資を徳島へ輸送していた。 穴吹村の江戸時代は徳島藩領であった。穴吹村は穴吹川の谷口集落で、穴吹川上流村々の人々が生活必需品や農具をなどを整える場所として機能していた。 寛文7年(1667)の人数家数改帳によると、家数75・人数444とあり、付紙に明暦2年(1656)~11年間で家数13・人数73の増加との注があり、商人・紺屋・鍛冶屋も含まれ、郷町化していたことが伺える。文政11年(1828)の美馬郡村々取調帳で村の規模は東西19町・南北10町、家数194・人数957とある。嘉永2年(1849)の村中呼出帳によると家数232とある。 今、古い町並みは古い穴吹川に沿って奥地に向かう道と、古くからあった国道492号線に沿って展開している(最近できたバイパスの国道492号線...
フランク永井さんの大ファンです。
低音の歌手でしたね。若くして亡くなって残念です。 デックミネさんも低音の歌手として居られましたね。 大阪から訪ねられるのですか。 紅葉の最盛期でしょうね。お気をつけて訪ねてください。
@ 有難うございます。 10歳から76歳までフランク永井さんの歌をいつも口ずさんでいます。 コンサートにも二回行きました。 フランク永井さんの歌のギター演奏を10曲TH-camに上げました。
素晴らしい町ですね。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 只、この画像は東北大震災前のものです。今の姿じゃありません。多くの家屋が残っていることを願っていますが、随分被害に逢い、町の姿は一変していると思います。
@@七ちょめ 明後日11月六日に行かせていただきます。 大阪府在住。
とてもタイムリーな動画ありがとうございます。映画「浮草」のなきりを探して歩いたことがあります。ちょうどその頃の写真を整理していました。こちらの動画から15年、空き家が増え、更地になり、灯台の周りも寂しい感じになっていました。地形と住宅密集でなかなか下水道整備がすすまぬまま・・・。栄枯を感じますね。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 私も40年程前のテレビで近畿日本鉄道(近鉄)提供の波切を舞台にしたドラマを毎週やっていたのを覚えています。 「波切のおばあちゃん」と大阪に暮らす孫娘が織りなす物語でした。内容はすべて忘れましたが、波切の集落名をよく覚えていたので、訪ねたものです。 空き家が増えてきたそうで、どこも過疎化に悩んで居られますね。 コメント有難うございました。
この曲はなんという曲ですか? よく行くホテルで一日中一年中この曲がエンドレスで流れ続けているんです。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 音楽ですが、曲名は控えてないので判りません。申し訳ないです。 作曲者は中北音楽研究所の中北利男さんです。 何時も使うような曲を探してみましたが、見つかりませんでしたが、もし、見つかったらその時にはこのコメント欄でお知らせいたします。
「ちょっと前の古い町並」思わずコメントです。 S26年(1951)、当時17歳、叔父達家族は長府侍町・土肥山住宅に住んでいました。 壇具川側のこの住宅に行くには、城壁と城壁の狭く角地の或る石段を通ったものです。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 昭和26年で17歳。 コメント頂いて驚いています。 という私もほんのチョットだけ若いですね。全国を飛び回っていましたが、超高齢になり、長時間列車に乗るのが不安になり、最近は古い写真を取りだして遊んでいます。 コメント頂き有難うございました。
@@七ちょめ 功山寺、万骨塔?、そのさきに抜ける道の側に墓地があり畳1畳程の墓標があり感じで何かが記されていました。 文字の一つに、陶氏?とあり想像逞しく歴史を感じましたね。
あかん地元懐かしすぎる
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。懐かしんで頂き有難うございます。コメントありがとうございました。
糸魚川へ翡翠を探しに福島県から年に数回、行っている者です。 この通りのキターレの近くに、お世話になってる翡翠屋さんがあります。 大火後よくこの道を通るようになりました。 糸魚川駅北大火前の貴重な写真ですね。 ありがとうございます。 大火前の様子を私はあまり知りません。 翡翠探しの後にもっとしっかり見ておけばよかったと思っています。 ニュースで糸魚川の街が燃えてるのを見たときは本当に驚きました。 同時に火災は何もかも燃えてなくなってしまう、恐ろしいものであるとも知りました。😢 雪国特有の雁木はとても新鮮に私には見えます。 福島の私が住んでる地域は太平洋側なので雪が少なく(30センチ降れば大雪)雁木はありません。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 糸魚川大火の様子はテレビで見ていて、何とかならないかとやきもきしていました。古い町並の在る所は殆ど焼けてしまいました。 糸魚川はヒスイが採れる所として知られていますが、知識が無いとどれがヒスイか素人には判らないと思いますが。 焼けた所を今グーグルのストリートビューで見ても、綺麗に整備されていますが、結構歯抜け状態ですね。町並みが元に戻るにはもう少しかかりそう。 コメント有難うございました。
常善寺辺りに住んでました。本町商店街にまだアーケードがあった頃ですね。昔、自転車で走った道など懐かしい写真ありがとうございます。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。この写真を撮ったのは約25年前になります。 今、町並は随分変化しています。田中本陣は整備されて公開は続いていますが、他の古い伝統的な家屋は随分少なくなりました。でも太田酒造は健在です。早々天井川の草津川は流路が変更になり、公園になっていますね。 コメント有難うございました。
殆ど全てが私の通学路でした 懐かしさで一杯で(まだ住んでますがw) 主様はBGMのチョイスが秀逸です🎵 他の動画も哀愁漂って素敵です ご努力に感謝します
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 生まれ育ちそこに住むみ、過去の写真を見て懐かしむ。いいですね。 高齢になり全国を訪ね歩くことが出来なくなったので、過去の写真を引っ張り出して遊んでいます。 音楽もお褒め預かりありがとうございます。
料理を紹介して!
見て頂きありがとうございます。 料理旅館と名乗って居られますので料理は良かったと思うのですが、写真を撮って無くて、料理内容も全く忘れています。 要望に応えられず申し訳ございません。
糸魚川の人は松本街道と呼ぶ人が多かったと思います 今は、千国街道と呼ぶ人も増えているかもしれません 「よつかど」も見えましたね 白馬の外国人のスキー観光客がバスツアーで来るとも聞いていました 子供の頃に見たままですね 38年豪雪の時に2階から出入りしたのを覚えています 火にだけは気をつけるように、繰り返し繰り返し言い聞かされていました 祖父の若い時に多分大正の時でしょうか、丸焼けになったとか 駅前のアーケードもシャッターが閉じたままのお店が増えて駅の南側の方が賑やかになりました そこは昔は学校と田んぼで今は面影がありません
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 古くからの町が度々大火に逢い、その度に復興を繰り返してきた歴史を持つ糸魚川。平成16年にも大火が発生しましたね。 駅の北側が賑やかだったのですが、今は駅の南側が賑やかになってきたのですか。駅の北側も綺麗になったとはいえ、町並が歯抜け状態で寂しい感じがします。 コメント有難うございました。
@@七ちょめ 返信ありがとう😊ございます 寺島と押上の宿場町の松が健在なのに慰められます
祖母の家がまさに村岡商店街の並びにあります。子供の頃から30年間、毎年必ず夏は村岡で過ごすのが当たり前でしたが祖母が逝去してからはこの街に来れる機会が殆どなくなりました。この動画を見つけて拝見しましたら行きたくて行きたくて…山の緑の濃い香りが漂う村岡が恋しくて涙が出てきます。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。お母さまの実家なんですね。冬は雪が多いですが、夏の涼しさは抜群だったと思います。機会を作ってぜひ訪ねて下さい。大歓迎で迎えて貰えると思います。 コメント有難うございました。
借家だったので、今は多分建物が無い2003年の時の 母も父も元気な時の実家の外観が観れて嬉しかったです。ありがとうございます
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 この辺りの家屋には本卯建が揚がっていて、珍しいので訪ねた時の写真です。実家が写っていた様で懐かしんで頂き良かったと思います。コメント有難うございました。
懐かしい😢
投稿写真の辺りが全て焼けてしまったのが残念です。
@@七ちょめ 火災の時現場に居ましたよ!
38年まえ仕事で住んでました。昔を思い出し懐かしさが蘇ります。
最初に山側に登って行かれ神社の手前で折返し坂道を下られたましたがその坂道を登って行けば10 月には神社でのお祭りと地車を若衆が押していた時代を思い出します🎵 そして…、右側に曲がられ進んで行かれその道を左側へと曲がられた近くに母の実家が… 国の重要の山添家が有りますが私が昭和37年の中学一年生の時に数学教師をされていた女教師が山添先生でその家に住まわれていた時代を思い出します🎵
見て頂きその上コメントも頂戴しありがとうございます。 寺集落の山添家住宅の近くにお母さまの実家があるのですか、この辺りはどの家も立派な構えで見事な農村集落を展開していますね。山添家の茅葺の家屋が国の重要文化財ですが、今は外からは殆ど見えないのが残念です。 コメント有難うございました。
@@七ちょめ さん 母の実家の上の家には同級生の女の子もいました🎵 寺村には現在も同級生が数人いますし、 親戚はあと二つ🏡有ります。
来ていただきありがとうございます
見て頂き有難うございました。
私が52年前の成人前まで住んでいました。 実家は、今も兄が住んでます。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 秋月は生まれ育った故郷なんですね。実家にはお兄さんが住んで居られる。幼少期からすると随分変化しているでしょうね。 コメントありがとうございました。
長谷周辺は下町らしくて良いですね。昔、50ccのバイクでよく来ました。商店街も昔ながらのお店も多く魚屋さんでは屋号は忘れましたが、大きな看板に「かまぼこ」と書かれてました。海が近いのでなるほどと思いました。また、長谷駅近くの屋号は忘れましたが、旅館がありまして、そこに漫画家のつげ義春さんご一家がとまられたと、つげさんの本に書かれてました。私も一ファンとしてうれしくなりました。これからもかわらず残って欲しい街並みです。🎉🎉🎉❤❤❤
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 表通りは観光客でごった返している地域ですが、一歩北側の路地道に入るとまるで別世界です。大正時代に開発された地域ですので路地道の様に道幅は狭いですが、元々は別荘地ですので、余りごちゃごちゃとしていません。下町とは違った雰囲気でした。
@@七ちょめ 返信有難うございます。そうですね、私がバイクで通ったのは表通り中心だったので、路地裏とかは避けてました。あまり奥まで行くと生活圏と思ったので行きませんでした。当時、地図も持って行きませんでした。これから季節も良いので、ぶらり鎌倉に行って見ようかなと思ってます。有難うございます。
これは素敵な動画ですね。 旅をしたような気分になれましたし、いつか訪れてみたいと思いました。 他の動画も少しずつ拝見してみます!
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 仰木の里には京阪電車が開発した大規模団地があり、都会の様になっていますが、その一角に開発を逃れた区域があり、棚田の里として有名です。私はその棚田を撮らずに集落町並を撮ったものです。 のどかな田舎集落です。観光地ではありません。バス便は頻繁にあります。一度訪ねられては??。
地元ですが10年くらいで変わった箇所もあります。 2つ並んた昔の建物、角地のところですが、今はローソンに変わってしまいました😢 でも他の所は健在です。 地元の歴史をあげてくれてありがとうございます
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。古い家屋がなんとローソンに変わった。そうですか。チョット都会的になりましたね。それを良いとみるか、悪いとみるか。
いい仕事しています🎉
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 お褒めに預かりありがとうございます。
1946年生まれです。家内実家が西行桜狸山の京町通りで商売していました。多くの寄付をしていたと聞きました。店はもうありません😢
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。奥様の実家が大津市の京町通にあったのですか。老舗だったようですね。 古い町並も時代と共に建て替えられたり、開発されたりと刻々と町の様相が変わっていきます。 私のこのTH-camもその時の一断面です。 訪ねて頂き有難うございました。
懐かしい地元画像をありがとうございます。私は枚方市東香里出身です。今は関東地方に居ますが枚方市東香里は大好きな生まれ故郷です。機会があれば枚方に帰りたいと思ってます。東香里、茄子作は古い建物がたくさんあって小さい頃から見て歩くのが大好きでした。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。「茄子作」辺りも徐々に開発され、旧集落の町並も極一部になってしまいました。そんな中にも大和造りの大きな家屋が残っています。生まれ故郷の光景を訪ねる機会を作って、懐かしさを味わってください。訪ねて頂き有難うございました。
@@七ちょめ 知ってます。地元では有名な話ですよね? 私は東香里小学校卒業生だけど…?小学生の頃から良く東香里小学校が出来なかったら私は春日小学校にだった事は良く同級生と話してました。(笑)
いつも綺麗な写真や音楽をありがとうございます。全国、津々浦々訪問されており驚嘆しております。大変貴重な資料ですね。これからもずっと応援させて頂きます。どうぞご自愛くださいませ。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 高齢になり日本各地を訪ねるのが無理になったので、古い写真をTH-camで公開しています。私のチャンネルも時々は見て下さいね。よろしくお願い致します。
素敵風情があるな。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 奈良井宿にある江戸期から続く唯一の旅籠旅館です。改装も殆どなく江戸・明治期そのままのような旅館でした。 奈良井宿にはもう一軒の民宿伊勢屋がありますが、こちらは江戸期には馬子相手の宿だったそうで、旅籠として残っているのはこの「越後屋」ただ一軒らしいです。
懐かしいです 柿山のお店、畳屋も
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 懐かしんで頂いたようで良かったです。
三田市民です、とりあげて頂きありがとうございます。 昔の商店街は人通りも多く、12月は江戸時代から続く誓文払いというお祭りにはとても賑わいました。ただニュータウン開発に意識が向きすぎたせいか旧市街の良さが薄れてしまいました。篠山のように伝統も大事に活かせば強みを持たせることも出来たのではと残念に感じています😢 ただ最近では再開発も進んでいますので伝統を活かしながら賑わいが戻ってくる事を期待しています。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 三田旧市街から西の方の山間部の開発は凄いですね。交通網も大きく変わっていますね。 篠山と違って都会へ近いので、開発の目が向いてしまいます。 それの応じての再開発を願い、賑わいが戻ることを期待しましょう。コメントありがとうございました。
ずいぶん帰ってないですが地元です。同級生の家5-6件など懐かしいものをたくさん見せてもらいました。 タイトルは山鹿市鹿本町来民に直してくれたらなぁ
見て頂きコメントも頂戴し有難うございます。 有難いご指摘頂き申し訳ありません。どうした訳か表題のタイトルが一部間違っていました。 TH-cam本体内の表題は訂正出来ませんでしたが、私の知識の範囲で訂正できるところは訂正いたしました。ご指摘有難うございました。
当時を振り返り、モダンな建築物と申されますが、瓦葺き寄せ棟造り 二階建ての木造洋館・・・これはしっかり日本風建築が基礎ではないでしょうか? 洋風風情に見せかけた日本型建築ですぞ!木造建築物が今なお健在なのは、強固で 伝統豊かな森林管理のもと優秀木材の使用による誇り高い日本建築を見る思いです。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 洋風な外眼の建築物でも建築技術の基礎は日本古来のものでしょうね。 外観だけ真似たものと思います。 詳しいことは判りませんが、2000年にもわたる日本建築の建築技術は今の木造建築に引き継がれているのは事実でしょう。 コメント有難うございました。
杉野先生お元気でしょうか?
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 本田屋さんの経営者の氏名なんでしょうか。チョット私には判りません。泊まった時には女将とその妹さんが接客してくれました。
大分県人でもあまり知らない場所
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 昔から交通の要衝として機能していた場所ですが、余り目立たない所なんでしょうね。 コメント有難うございました。
自分のおばあちゃん家です。今はもう亡くなって、しばらく行ってないですが、子供の頃に行った想い出が蘇り涙がでます。お墓参りにも行きたいですし、この動画があることに感謝です。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。お父様かお母さまの故郷なんですね。幼い頃連れられて行ったおばあちゃんの家。その家が写ってい懐かしい思いがこみ上げてきたようで、ぜひ機会を創って訪ねて下さい。
45年程前まで地元だったのでとても懐かしく拝見させて頂きました!😊 スーパーしんやさんってまだあるのかな〜?
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。この池田町が故郷なんですね。懐かしい町並を思い出して貰えたようで良かったです。 スーパーしんやさんが健在だといいのですがね。 コメント有難うございました。
池田市に昭和16年から15年間居住していました!阪急電車は急行も停車して、駅前も大改築されて綺麗な住みやすい町でした!大阪第二師範学校池田校が有り附属小学校が同校庭内に有りました!呉春酒は関東に居住する様になった時、大変人気の銘柄酒だと知りました!五月山付近には小林一三の一族、塩野義製薬の一族の豪邸がありました!その上の方に附属池田中学がありました!毎日、坂道を歩いて通学した懐かしい思い出があります! 校舎は木造で校舎を挟んで離れ離れの校舎が三棟あり、田舎の分教所の様な雰囲気でした !当時は未だ附属高校は有りませんでした!
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。池田師範学校の付属中学校に通われていたのですね。 20年程前に付属小学校で児童を狙った犯罪がありましたね。それ以後日本全国の小学校の警備が強化されましたね。 今は付属の小学校・中学校・高等学校も同じ場所にありますが、本体の師範学校(現大阪教育大学)は大阪府の南東部の柏原市の山間部に移っています。 池田市中心部より山手の環境は本当に良い所です。 少年期を過ごされた池田市の環境は大きく変わることなく、住みよい環境が保たれています。 コメント有難うございました。
懐かしさで泣きそうです😢
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 懐かしんで頂いたようで良かったです。
Mendengar musik ini jadi teringat masa lalu😥😥😥
初コメント失礼いたします。時折しか視聴できず申し訳ありません。洞川は父方の祖父が生まれ育った地で、いまも生家の旅館は盛業中です。奈良師範学校を出た後、昭和10年に小生の実家に婿養子に入りました。偶然、小学校の林間学校で宿泊した宿が祖父の実家であり、その折のことを懐かしく思い出しながら拝見しました。教員の定めとも言える早世で、定年後嘱託で勤めていた県庁で執務中に倒れ帰らぬ人となりました。小生が小学校5年生のときでした。ですので、祖父自身からは洞川での思い出など全く聞くことが叶わなかったのですが、今回の動画で修験のこと、大火のことなどをお教えいただき、嬉しく思います。今は本当に賑やかな行楽地になったようですが、機会を見て50年ぶりに再訪したい気持ちになりました。有り難うございました。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 おじい様の実家なんですね。それも洞川温泉で現役の老舗旅館だそうで。その旅館に偶然にも林間学校で宿泊したとは奇遇ですね。 一度その旅館に実名を名乗って宿泊されたら歓迎してもらえると思いますよ。昔は夏だけの季節旅館でしたが、今では通年の普通の旅館になっていますので、温泉気分で一度訪ね宿泊してください。歓迎してもらえますよ。
親戚の家があって毎年夏休みに行ってました。 吉田は崖にへばり付くように集落があって棚田かひな壇のように家が並んでいるので、多くの家からは遮るもののない素晴らしいオーシャンビューが眺められてとても良いところでした。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 幼い頃の思い出の場所なんですね。台風の常襲地帯のようで、平屋ばかりの集落だったと思う印象がのこっています。 訪ねて頂きありがとうございます。
古いまちなみの残る故郷。似たような家構え、いつの頃からか瓦井景色に時間が止まったよう。なうかしい顔がふとの測ような錯覚に陥る。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 幼き時を過ごした故郷。懐かしんで頂き良かったです。 コメント有難うございます。
南楽園昔田んぼおじいちゃんところ夏 雀の番にいつた🎉
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。幼い頃におじいちゃんの家へお母さんに連れられて行った時の思い出。懐かしいでしょうね。コメント有難うございます。
蓬莱竹生垣、勉強になる🌺七ちょめさんの青森の生垣の動画を思い出しました🙂
何時も見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 竹の生垣が綺麗に剪定されているのは見ていて気持ちの良いものです。文章にある青森の生垣と思われているのは、多分四国安芸市の竹の生垣だと思います。
いつか泊まりたいです
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 賑わった温泉地ではありませんが、坂道に旅館が並ぶ鄙びた温泉地です。 観光気分で訪ねるとガッカリしますが、湯治場の雰囲気は十分に残っています。
動画の最後の方に移った天ぷら屋とお城の周囲しか見ていませんでしたが、ほかにも古い町並みはあるのですね。 天ぷら屋で天丼を食べ、駅に帰る途中の店でハゼやシジミ、ワカサギの佃煮をお土産に買いました。 街並みだけでなく、古い川魚食文化にも興味があります。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。私は古い町並しか興味が無く申し訳ありません。有名な天ぷら屋さんなんですね。建物を写してお終いの私です。 川魚の食文化に興味あるそうで羨ましいです。 コメントを頂き有難うございました。
案内のとおり、歴史的に経済でも言葉でも神楽でも備中のほうに近いです(たたら製鉄や出雲大社の末社など出雲文化圏の南部でもあります)。川が高梁川上流で倉敷あたりへ流れるのも理由の一つです。残りの庄原市と広島県北部が江の川になって島根県の浜田へ流れるのと違っています(赤い石州瓦はそちら側)。たたら製鉄から始まって、削岩機、工事用機械の有名なメーカーの工場があって(本社は昭和10年過ぎに丸の内へ移転)、昔は岡山県に入ろうかという議論さえありましたが、戦後は映画館が3つもあって、大した繁栄だったそうです。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。東城は交通の要衝として栄えた所の様ですね。主要な街道が全て東城に集まっている。 庄原市になっているのが不思議な感じします。東城市とならないで!!。 平成の大合併の弊害でしょうね。 機械メーカの工場があり、創業の地なんですね。古い町並が残っていて楽しく探訪できましたが、過疎化からは逃れられない地域。少しでも長く古い伝統ある建物が残っていますよう願っています。
池部は河合町ではないですか?
見て頂き有難うございます。間違いのご指摘を頂きありがとうございます。 早速訂正いたしますが、題名や説明は簡単に訂正できすのですが、本体の中の題名は、訂正文をいれてそのままにしようかと思っています。 間違いのご指摘ありがとうございました。
4:14に映っている松本旅館の左端にあった床屋に子供の頃に行っていました。 ご夫婦で営んでいました。 自分の家は直ぐ裏にありました。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 幼い頃に住んで居られた思い出の場所ですね。懐かしんで頂いたようで良かったです。有難うございました。
ここ、屋号を「ラ・ヴィ・リーブル」に変えて営業再開されていました!カフェ営業のほか、今年から宿泊受付も再開されたそうで、泊まってきました。1階部分は襖を取り払ってカフェらしくされていて、調度品は大型の家具はそのまま使われているようでした。特に電話室なんかは動画のままです!奥の棟の部屋は現在利用されていないそうですが見せていただき、こちらも動画の状態に近かったです。2階は、まさに宿泊させていただいた部屋があるのですが、七ちょめさんのお部屋とはちょっと設えが違うような雰囲気です。七ちょめさんの発信を見て泊まった宿はこれで3つ目なのですが(ほかは不忘閣、長治庵です☺)こちらは、動画で、当時の松本屋旅館が見られること、とても貴重に思います。投稿から間が空いておりますが、あらためてありがとうございます。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 良い便りありがとうございます。 浜松市天竜区の松本屋旅館。廃業されたとは聞いたのですが、カフェで営業されていて、今では一棟貸の宿泊施設になっているとは知りませんでした。経営者が代わったかどうかは不明ですが、そのままの建物で一部改装されての営業再開、喜ばしいことです。 お知らせ願い有難うございました。うれしいことです。
@@七ちょめ 経営者さん変わられているようです!女性お一人で切り盛りされています。春野町というのが、絶妙な立地ですので、なかなか広報が難しいと仰られていました。一棟貸しで気を遣わず過ごせて、自分にとっても大変楽しい旅行になりました。夏の浜松は暑いので(七ちょめさんも、夏の盛りに泊まられていたのですね)また良い時期にでも再訪したいです。
ありがとう
見て頂いて有難うございます。
まことやのパンまだありますか?
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 パン屋が現役で営業されていたらいいのですがね。 今はどうでしょうね。
ありますよ!10代なので昔からの味かなどは私には分かりませんが、美味しいです😁
@@Emma-tf6ib まことやのパン屋さんが今でも営業されているようでよかったです。 ご連絡ありがとうございます。
栗林酒造さん。
見て頂きコメントも頂戴しありがとうございます。 造り酒屋さんの建物は立派なものですね。
ミズモたんのふるさとしみず
見て頂いて有難うございます。 落ち着いた良い感じの町並みでした。 有難うございます。