不老如若──不老人間ラヂオ
不老如若──不老人間ラヂオ
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ブリュッヘン×アマーデオとフェーリクス
【アニヴァーサリー企画】
 今日、古楽研究を巡る源流を探り当てようとするのは聊か難しい。狭義──よりストリクトに捕捉するなら、ポストWW IIつまり1945年代以降のオランダやイングランドに看る潮流とその在り方に多くを求めるのが最近的には妥当であり、彼らの、取り分け考証に基づく実践的フィードバックより得られたる各成果が全欧州、また北米大陸は疎か日本へと伝播し今日に実現せる「古楽隆盛」へと継承されるなる理解へと繋がるは、おそらくのところ主流とすべき見解を為すであろう。
 一方でバロック音楽研究というキーワードの許に探ろうとするなら、嚆矢はメンデルゾーン=バルトルディによるバッハ・リヴァイヴァルをも射程とすべきであるは間違いなく、仮にそこまで遡らずとも、20世紀初頭のチェンバロ奏者たるランドフスカ(ただし彼女が用いたのはモダーン・チェンバロである)、ほぼ同時代になるドルメッチが主導せる前期古典派以前の演奏解釈まで顧慮すべきとの意見も当然あろう。加うるなら猶も古い音楽、具体的にはソレム修道院(ソレム・サン・ピエール修道院)におけるカソリック典礼歌たるグレゴリオ聖歌の実証学的研究と実践的普及、ソレムにおける新たなる途の模索と連動するユマニスム(ルネサンス)期音楽の再評価という、前世紀に芽吹き、1920〜30年代より活発化する運動も決して見逃してはなるまい要素である。
 ドルメッチのイディオムは、それ自体が既に「ピリオド的(時代的)」ながら統語法的転用として50年代以降の実証論に基づく古楽研究にも活用をされ、ソレムあるいはユマニスム期音楽へのアプローチは、同じく戦後古楽への接し方へと一定以上の影響を行使、この両者は相互に作用を及ぼしつ、オランダを中核とするベネルクス並びに北フランス出身の綺羅、星の如き一連になる研究者や演奏家、更にはマンロウなどをも含むイングランドが彼らを輩出するは、まさに劈頭にも触れし如くになる通りである。また、この二つの流れは本邦にも果実を齎す。何より碩学にして表現者たる(あまり知られてはいないが作曲家としての貌も有する)故・皆川達夫先生がプロ、アマチュア問わず後進を良導せる帰結たるとて、声楽表現器楽表現の別なく古楽の研究と実践を通じては混淆、つまりクロスオーヴァーとも呼ぶべき相乗効果をさえ出来せしめ、寺神戸亮や若松夏美、有田正広、そして鈴木雅明や秀美、優人ら実力と人気いずれとも劣らぬ第一級の国際的古楽人をも生ましむる先行きをさえ決定づける。
 尤も、では他方のランドフスカが示す方向性を睥睨するに、如何なる評価を下すべきか。
 彼女が採る手法は結局のところ、時代が徒花を生み出すよりなかったは「むべなるかな」とも看取し得よう。確かにモダーン楽器による古楽普及というのは、一定以上の啓蒙と需要の喚起を誘発し、二十世紀には巨人カール・リヒターやヘルムート・リリングらを世に出だしめ、パイヤールと、彼が主宰するアンサンブル(パイヤール室内管弦楽団)、そしてイ・ムジチ合奏団は数多くのヒット・アルバムを量産し、モダーン・オーケストラによるバロック表現も実に多彩であった。なれど古楽研究とピリオド(時代的)表現が融合せる現代、未だ人気を誇るイ・ムジチ合奏団以外は、要するところ「需要」外にあるは残念ながら否みようもなき事実──。
 なればこそ、所謂「ピリオド(時代)」表現を如何に眺むるかは、一層その本質をさえ問われるは最早必定とも規定してよい。結果たるとて真贋をさえ穿つのであれば、本来的にはピリオド=古楽器かモダーン楽器かは、実のところ問う必要もないはずである。つまりはピリオドが興隆するとはいえ、求められ受容されているのであれば、モダーン楽器による古楽表現もこの時代にあって猶も存立し得る。
 仮にもそう規定するなら、アマチュア団体などは現在であれ果敢にもバッハを俎上とするも良かれと、筆者などは思うてみたりもする。
 前述仮定の許に、今日拡く「古楽」を得るは造作もない。
 まず「バロック」を先蹤と見定めてみよう。所謂バロック・ピッチはA=415hrzであり、国際標準ピッチのそれより丁度25セントつまり「半音」低い。ゆえに「ハ調」を基音とする楽曲なれば「ロ調」へシフトしてやるだけでそれなりに恰好もつく。それだけである。実に造作もない。1オクターヴ12のキイで充分指も回るなら「鼻をかむ」より楽ではあるまいか。
  厳密に「キイ」を求めようとすれば確かにこの限りではないが、いずれ「取っ掛かり」に過ぎず、俗に「平均律」で臨むのも知る契機の一端でもあり、ともなれば問題とすべきほどではなかろう。
「古楽理解=入口」は、実にそのような方法にて得るも適う。
 斯く思わばキイ云々は、それより2〜3ステップ先の話である。その上で時代表現=ピリオド的技法を如何に手の内とするかが課題となろう。歌唱表現であれ器楽表現であれヴィヴラートは決して利かせてはならない。またレガートにもマルカートにも偏らず流されずを心懸けるが枢要であるが、それは飽くまで基本姿勢であり、指導者如何と柔軟に捉えるがよい。あるいは古典派以降の作品であれば、多様な発想記号をも含め楽譜の指示通りに臨めば何ら問題はない。
 つまり歌い手であれば歌唱法を身に着けられるかを問われるのみであり、楽器の遣い手であれば得物がレプリカントをも含むピリオドか、それともモダーンかは瑣末な話と捉えて如くはなかろう。
 より拘るか否かは、次なるステージでよかれ。
 いずれにせよ縷々陳べてきたのは表現者としての在り方に限るもので、単純にリスナーであれば後は趣味観に任せて構わないと考えるが、何はともあれであろうか。今般、ピリオド楽器になるアンサンブル、グループがみるみると増えて到る現実を目の当たりとするなれば、好悪の別は措いて、一度は「ピリオド表現」を体感されるがベターであるは言うを俟たないし、モダーン楽器による古楽表現も楽しめるなればより幅も奥行きも増すは間違いなく請け合う、そんな筆者である。
 とまれ──今年がアニヴァーサリーに当たる古楽の巨星となれば、やはり忘れてはならないのがフランス・ブリュッヘンである。当初の彼はブロック・フレーテつまりはリコーダー奏者そしてフラウト・トラヴェルソ奏者としてそのキャリアをスタートさせ、バッハのチェロ組曲──その驚異的なアレンジと表現によって我々を惹きつけ、1981年以降は自ら組織する「18世紀オーケストラ」を舞台に指揮者として有名を馳せる。
 彼のオーケストラル表現、これは例えばウィキペディア辺りとは極北なる評価とするに吝かとはしないが、同年生まれの同じく古楽界が至宝たるロジャー・ノリントン、あるいはより若い世代になるトン・コープマンに比ぶるなら、比較モダーンな表現とは決して対立をせず、加えて受容するに抵抗を誘わぬバランスの行き届く描出にこそあろう。またそのレパートワーも抑制的であり、遡っても盛期バロック、否やまさにその名の通り1700年代の前期〜盛期古典派を中核としては、こちらも前期ロマン派たるシューベルト、メンデルスゾーン=バルトルディまでに区切る点がその特徴たると謂えようか。
 つまるところピリオド・グループとしては「耳に馴染みやすい」サウンドを誇りかつ、限定的なる意味でチョイスも容易いと看做して強ち謬りとはしない。(以下noteへ)
note.com/minamotono111
00:00:00 オープニング
00:00:33 モーツアルト:交響曲第四十一番ハ長調 Kv 551 「ジュピター」第一楽章
00:12:15 モーツアルト:交響曲第四十一番ハ長調 Kv 551 「ジュピター」第二楽章
00:22:43 モーツアルト:交響曲第四十一番ハ長調 Kv 551 「ジュピター」第三楽章
00:27:01 モーツアルト:交響曲第四十一番ハ長調 Kv 551 「ジュピター」第四楽章
 フランス・ブリュッヘン&18世紀オーケストラ
00:38:44 メンデルスゾーン=バルトルディ:交響曲第三番イ短調 op.54 「スコティッシュ」第一楽章
00:55:11 メンデルスゾーン=バルトルディ:交響曲第三番イ短調 op.54 「スコティッシュ」第二楽章
00:59:30 メンデルスゾーン=バルトルディ:交響曲第三番イ短調 op.54 「スコティッシュ」第三楽章
01:08:51 メンデルスゾーン=バルトルディ:交響曲第三番イ短調 op.54 「スコティッシュ」第四楽章
 フランス・ブリュッヘン&18世紀オーケストラ
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