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沼田和也
เข้าร่วมเมื่อ 1 พ.ย. 2017
教会で話している聖書のお話を、随時アップロードしてゆきます。小さな教会ですが、ノンクリスチャンの来訪も多い教会です。
วีดีโอ
マタイによる福音書10章28〜33節「何を恐れているかをまず知ること」
มุมมอง 12628 วันที่ผ่านมา
「恐れるな」と頭ごなしにイエスは言ってはいません。「恐れるな」と言われたときに、何を恐れているのか、立ち止まり黙想するのです。それもまた祈りです。
ヨハネによる福音書11章45〜54節「スケープゴート」
มุมมอง 176หลายเดือนก่อน
組織や集団を守るために、誰かが犠牲になる。今なお頻発していることです。世界でも、わたしやあなたの身近でも。イエスの十字架はそういう意味でも今なお新しいことです、残念ながら。
ヨハネによる福音書11章28〜44節「泣いて怒るときもあるさ」
มุมมอง 144หลายเดือนก่อน
世の中は変わらない。あなたが変われ。自分の機嫌は自分でとれ。 でも、あなたの憤りが、涙が、誰かの心を動かし、世の中を変えるきっかけになるかもしれない。
ヨハネによる福音書11章1〜16節「動き回らず、じっと待つとき」
มุมมอง 161หลายเดือนก่อน
すぐに行動を起こしたい。結果を出したい。 イエスは、あなたが動けず、ただ待つしかないことのつらさを知っています。
ヨハネによる福音書10章31〜42節「その人たちのやっていることで分かる」
มุมมอง 1282 หลายเดือนก่อน
キリストを信じるとか信じないとか、それだけを持ち出しても抽象的すぎるというか。ようは教会がなにをしているか、ですよね。そこに人はなぜわざわざ来るのか。「善いわざ」を手がかりに聖書を読んでみます。
ヨハネによる福音書10章1〜6節「入門と侵入」
มุมมอง 1362 หลายเดือนก่อน
前後の文脈もわきまえず、いきなり暴言を吐くことがsnsでは横行しています。それは門から入らず塀を乗り越えて侵入してくることに似ています。
ヨハネによる福音書8章37〜47節「都合の悪い聖書箇所」
มุมมอง 1422 หลายเดือนก่อน
教会は安らぎを得る場所──そうだとすると、イエスの喧嘩腰というか煽るというか、この殺気立つ緊張をどう読めばいいのでしょう。
ヨハネによる福音書8章12〜20節「あなた自身が神の言葉」
มุมมอง 1153 หลายเดือนก่อน
あなたの歩む複雑な歩み。それが神の言葉。神の言葉は(わたしがこの媒体で言うのも矛盾していますが)TH-camでパパッと要約できてしまうようなものではないのです。なぜなら、あなたのことを要約するなど、誰にもできないのだから。
ヨハネによる福音書8章3〜11節「撤回できる」
มุมมอง 1083 หลายเดือนก่อน
みんながそう言ってる──そのときこそ、では、このわたしは? イエスのたった一言がもたらす、わたしの輪郭への気づき。
ヨハネによる福音書7章40〜52節「足で稼ぐ」
มุมมอง 1023 หลายเดือนก่อน
サッとネットで検索して「ふんふんなるほどね」という時代だからこそ、手間も時間もかかる出遭いというものに想いを馳せたい。それはあなたの、わたしの思いなしを、土台から揺さぶるかもしれません。
ヨハネによる福音書7章1〜17節「うわさ話だけではわからない」
มุมมอง 1123 หลายเดือนก่อน
うわさ話や外部からの批判だけでは分からないこともあるでしょう。なぜ教会なんかに今、わざわざ行ったりするのか。聖書の言葉を、わずかなりとも実行してみようとするからです。実行してみないと、それが真実かでたらめかは分からないから。
ヨハネによる福音書6章41〜59節「信仰は“教えの理解”だけではない」
มุมมอง 1763 หลายเดือนก่อน
イエスがなぜ自分の肉を食べろだの血を飲めだの、不気味なことを言うのか。信仰は、清潔だけど抽象的すぎて毒にも薬にもならないような営みではありません。
ヨハネによる福音書6章16〜21節「幸せは目を背けたくなる姿でやってくることも」
มุมมอง 1614 หลายเดือนก่อน
ヨハネによる福音書6章16〜21節「幸せは目を背けたくなる姿でやってくることも」
「髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。 」 この言葉を聞いて、ぼくが自分の頭と思っているものも借り物なのだと思い知らされます…
自分一人で辛くて、まわりに助けを求めたくてもみんなも大変そうで、助けを求めることも諦めてしまい、また孤独になる…イエスにもそんな時があったのだと思うとちょっと救われる気持ちになりました。。。
難解に感じ読み流してしまっていた箇所でしたが、ヨハネ福音書、のみならず聖書全体のエッセンスが詰まっていると思えるようになりました。抽象的なイメージのあったヨハネの言う「永遠」が、我が身に迫り力をくれるように感じました。
「信じるって、保証のないことなんです。荒れた川に、命綱なしで飛び込むことなんです」という、20年以上前の恩師の言葉を思い出しました。ありがとうございます。
素晴らしいお話、ありがとうございます。 既に永遠が顕れているのに、なぜ闘う必要があるのでしょうか。 永遠が実現するためでしょうか。
ありがとうございました。
こちらこそありがとうございました。
わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。 …といっても清くなった気がしないのはどうしてなのでしょうか、逆に清くないことを思い知らされている気がします。
先生のお話しに励まされました。感謝致します。
こちらこそありがとうございました!
今回の話とても面白かったです。 ありがとうございました。
こちらこそ聴いてくださりありがとうございました!
妙好人の庄松のエピソードを思い出しました。
とても面白かったです。 また来週お願いします!
聖書の箇所を読むだけでは分からなかったですが、沼田先生のお説教を聴いて、最初の4人の何とかしてイエス様にお会いしたい、という強い思いが伝わってきました。 また、イエス様もその熱い思いと信仰に心動かされて奇跡を起こされたのだろうなと思いました。 この奇跡を目の当たりにして、治った人、連れて来た4人、居合わせた人々、律法学者の生き方が変わった、というの言葉がとても心に刺さりました。きっと、沼田先生のおっしゃる通り、この人たちは皆、この時の奇跡を多くの人に語り伝えたのでしょう。 そして、まさにこの聖書にこのエピソードが残されて、現代の私たちに伝わっているという事実こそが、その人々が語り伝えていったということと、奇跡を目の当たりにしたときの驚きと喜びを物語っているように思いました。 聖書が現代に伝わっているということそれ自体が、生き方を変えられた人々が熱心に語り継いでいったという事実を表している、ということがよく分かりました。 ありがとうございます。
沼田先生の例えの解釈を聴いて、ひところ話題になった「親ガチャ」の話を思い浮かべました。その人の生まれる環境はその人の努力ではどうしようもないというところが特にそれを連想させました。 「種と違って人は動けるし声を出せる」という話で「ああ、その通りだな」と思いました。 自分の生まれの悪さを恨むだけでなく、その環境を変えようとすることが、他の人に頼ることが私たち人間には出来る、私は自分の人生を変えることができる、というメッセージをいただきました。 自分自身をより善く生きれるように変えていきたいですし、他の人の人生に余計なお世話と助けの手を差し伸べられる人になりたいと思いました。 ありがとうございます。
仏教ではお釈迦様が御自身の教えについて詳らかに語ったことと対照的な話であるように思いました。 イエス様は教えの内容そのものをただ理解することより、イエス様の話を「こういうことを言ってるのか?ああいうことを言っているのか?」というように聞いた人が自分たちで考え続けることを求めていたのかな、と思いました。 また、福音書はイエス様の弟子たち(この場合で言えばマルコ)が述べ伝えたものである、ということを考えると、マルコが例えの内容は伝えたけど、弟子(マルコ)たちに「密かに全てを語った」内容そのものは伝えなかったというのも興味深いですね。 マルコもイエス様が語ったことそのものより、語りたかったことを伝えたかったのでしょうか。 今日のお説教もとても面白かったです。 ありがとうございます。
文字を読んだだけでは、私には気づかなかったところまで感じ取れるお説教をありがとうございました。 皮膚病の方がどれほど深く傷ついていたか、そしてイエス様に対してどんな複雑な思い(期待と感情)を抱いていたかがよくよく分かりました。 また、その皮膚病の方を前にしたイエス様の思い、共感、愛情、そういったものも強く強く感じ取れました。 イエス様はとても感情豊かな、情の深い方だったんだろうなぁと思いました。 そしてわが身を省みたとき、私はきっとその皮膚病を患っていた方を遠ざける側の者であるなぁとも痛感しました。 上手く文章がまとまらずすみません、心に染み入りました。ありがとうございます。
こちらこそ、深く心に響くご感想をくださり、ありがとうございます! イエスさまの愛を受けて、少しでも応えられるように生きていきたいです。
明けましておめでとうございます。 毎週楽しみに聴いています。 本年もどうぞよろしくお願いいたします。
よろしくおねがい申し上げます!
世界中に広がった ふくいんが
神の子はイエスだけじゃなかった… 復活なんてしたくないほど絶望している人はどうなのでしょう。イエスも大変ひどい目にあったのに、それでも復活したその心は何なのでしょう。
神様は イエス様を通して この地上に現れ また人としての道を 歩まれて両親に支えられたことも 素晴らし そのことを 神様のなさることは 2000年の昔に思いを馳せて 感服いたしております アーメン
とても面白いです。 ありがとうございました。
先のものが後になり、後のものが先になるという部分、道元の「自未得度先度他」を連想しました。 自分が救われなくても、他者を先に救う。 イエスは自ら進んで最後になった人なのではないかと思いました。 でも「それこそ救われているということだ」と、イエスなら大真面目に言ってくれそうですね。
人生は辛く苦しくて嫌だけど、死ぬのも嫌です…
そうですね。命ある限り、生きてみたいです。
@@numatakazuya はい、天使さんが迎えに来てくださるのは、こちらが精一杯やってからでお願いしたいです。
箱根駅伝のたとえ、とても良かったです。のんびり歩いたり休んだりしながら生きてしまっていますが、もう少しスピード上げてみなくちゃなと思いました。
のんびりしているようでいて、案外、神さまの目から見れば、全力疾走なのかもしれませんね。
牧師様こんにちは。父が亡くなった時に同じようなことを思いました。 父は亡くなったのでここにいませんが、ぼくのこの身体に一緒に住んでいるようにも思います。
きっと、おっしゃるとおりですよ!
自分が、生きることが当たり前になっていることを初めて認識しました。とりあえず死なないけど、どこへ向かっているのか漠然とした不安があるのかもしれません。
聴けてよかったあ〜。 神義論について新しい視点が見つかった気がする。
ヨハネって強圧的な印象がずっとあったけど、かなり印象かわりました。ヨハネ好きになりました。
厳しい修行者ゆえの強圧的な側面もあったかもしれませんが、それだけでは決して人々から慕われなかったと思います。人々を惹きつけてやまなかった、彼を想いました。
今まで見聞きした地の塩の説教の中で一番心に響きました。ちょうど親友が悩んでいて自分らしさを見失いそうになっていたところだったので、その支え方・寄り添い方の気づきにもなりました。
ありがとうございます。その方の塩辛さが、いきいきと活かされますように。
とても面白かったです。また聞きに来ます。
ありがとうございます!
このような、一歩立ち止まった解釈は初めて聴いた。
Jesus is not God. ,
「軛」について、イエスが寄り添っていてくれているイメージがよく腹に落ちてきました。遠藤周作が「人生の同伴者」と言っていたのも思い出しました。
おはようございます。奥様大事なくなによりです。
ありがとうございます!
お邪魔します。「人の子」The Son of Manが なんなのかしばらく考えました。答えは難しいです。しかしノアの洪水と同じということは物理的にも目に見えて凄まじい現象の時ではないでしょうか。「男の息子」とも言い換えられるとするならこれは人の初元的意志、主体的意志、ではないでしょうか。「お前は男だ。」という日本における言い方は、信頼のおける立派な一人前、ということです。 二人のうち一人が突然、連れていかれる。男女ともに。どこへ? 主体的意志の無い人々が受動的にあちらに連れて行かれるのです。抵抗なく。新型殺無惑沈 普及の今がこのイエスの喩え話に近似しています。家の主人とは、我々の肉体の持ち主だと思います。 自らの肉体が他者によって所有、泥棒されることは不義です。 家族の中ですら殺無惑沈で 分裂が起こりうる状況です。それでは失礼します。
「復活」について腹落ちしきらないなぁと感じており、先日「日本の説教者たちの言葉 わが神、わが神 受難と復活の説教」でレジェンド級(?)の復活の説教を読みました。でも、説教者の強烈なロジックやパッションが伝わってはくるものの、結局まだ腹落ちしきれなかったのですが、不思議を不思議のままなんか信じちゃうんだよね〜という沼田先生の素朴な言葉にちょっと救われたというか、そういう感じ方がまず根っこにあれば良いのかもという気持ちになりました。いずれにしても、2000年近くも前の荒唐無稽な「復活」信仰が、こうして数えきれないほどの人々を通じて今、自分のところにまで来ていると思うと、それもすごく不思議だしすごいよなぁぁぁと思います。
ありがとうございます。わたしのような者が理屈をこねて復活を論理的に正当化しようとするよりも、何故だかわからないが出遭ってしまったのだ、それは信じていない人からすればあほらしいことなんだけれども、ということを率直に話したほうがいいなあと思ったのでした。
いっぺん神戸に帰ってきてください^_^
コロナが早く落ち着いて欲しいですね。
すごい
40年来、ハバクク三章が聖書全体で最も印象的な聖句でした。 イスラエル人をエジプトから導き出した神が、バビロニア台頭の時代でも、信仰を保つイスラエル人の精神的な支柱でありつづける存在であるところが、響きます。
京都からの帰りの車の中でずっと聴いていました。ほんとうにいい説教です。ここまでしっかりと死をみつめ、しっかりと語り、深い、静かな慰めを語ってもらって、運転しながら一人で涙がこぼれました。 毎回説教を楽しみにしています。ときどきはニヤッと笑ってしまうところもよくありますしね。
雨の公園 さま、ありがとうございます。ご高齢の方や、家族を看取られた方にとって、復活はありありとした希望ですね。わたしも父を看取って以来、ますます復活を具体的に感じるようになりました。
@@numatakazuya 「寛容」もわかるし、しかし死んでいく、死のリアリティーのある場所では「わたしにはこれしかない」と、他のものではない、たったひとつの「それだけ」を掴もうとする気持ちもよくわかる。
私は、イエス・キリストの神性は認めていますが、三位一体論は間違いだと思っています。 親と子でありながら、位格が変化しただけで実体が一つなどというようなことがあるでしょうか。 親と子であれば実体は二つ以外にはありえません。 これが、三位一体論の欠陥だと思います。 私の、聖書解釈を聞いていただければ幸いです。 聖書には、私達が存在するこの世界は、創造主なる神によって六日間で創造された仮想現実(バーチャルリアリティ)であるという話が書かれています。(創世記1:1-2:4) 何億年も前から存在しているかのように見えるこの世界を今から約数千年前に、神の国(現実の世界)におられる神が、無から創造されたのです。(ペトロ第二3:8) 現代の人間は、コンピュータ上に仮想現実の世界を創ることができます。 その創造者は、そこに様々な生物を創造して置き、殺したり復活させたりできますし、ノアの方舟の時のように大洪水を起こしたり、モーセの時のように海を分けて海の中に道を作ったりと何でもできます。 それと同じように、神は私達がいるこの世界(仮想現実の世界)を神の国(現実の世界)で創造されたのだと思います。 神は、神の国(現実の世界)に、私達人間と同じような体と霊が一つとなった形のある体を持っておられます。(創世記1:27) コンピュータ上に創られた仮想現実の世界の人が現実の世界を見ることができないのと同じように、神に創造された仮想現実の世界にいる私達は神を目視することができません。(ヨハネ第一4:12、ヨハネ1:18、ヨハネ4:24) 神がこの世に御自分のアバターを創造(被造物)され、それに宿られれば(フルダイブ)、この世の人のようになることも可能です。(黙示録21:3-4、22:3-4) 神の御子であるイエス・キリストも同じように、神の国に私達人間と同じような体と霊が一つとなった形のある体を持っておられます。(コロサイ1:15) しかし、御子イエスは神に背いたこの世(仮想現実の世界)の人の救世主となり模範をお示しになるために、この世に御自分のアバターを創造され(被造物)それに宿られたのです(フルダイブ)。(ヘブライ1:6) イエス・キリストがこの世で活動されている間は、神の国にあるイエス・キリストの本物の体は眠ったような、意識の無い状態だったのではないかと思います。 つまり、その間は神の国の体(本物、私達人間が目視できない)と、この世の体(被造物、アバター、私達人間が目視できる)を同時に二体以上持っておられたということになると思います。 (イエス・キリストは復活の後、エマオでイエス・キリストとは別のアバターで御自身を現されました。)(ルカ24:13-35、マルコ16:12) イエス・キリストがこの世で活動されていた時に、御本人がこれらのことをご存知だったということは、福音書の記述からも読み取れます。(ヨハネ3:11-13、ヨハネ11:40-42、ルカ9:14) そして、私達被造物と同じ体で(私達の体もアバターということになります)、私達の罪のために、十字架で想像できないような苦痛を耐えられたのです。(ヘブライ12:2) 私は、聖書とシミュレーション仮説は矛盾がないことから真理であると思っていますが、もし、お気づきの点などございましたら、ご指摘いただけると幸いです。 シミュレーション仮説 ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3%E4%BB%AE%E8%AA%AC バーチャル・リアリティ ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%83%86%E3%82%A3 この世界が仮想現実であることを示す証明式 th-cam.com/video/nv7WQqJLru0/w-d-xo.html
とても良いお話でした。
ありがとうございます😊励みになります。
このメッセージの最後に、宗教哲学の営みの意義が、その到達すべき彼岸が語られている。しみじみと聴きました。
雨の公園 さん、ありがとうございます。 目の前の人との出遭いのなかで、湧き出してくる福音を汲み取らせていただいています。
ありがとうございます。
v
後ろうるさいわ 集中して聞かれへんっ
技術的な未熟さによるものです。実際の礼拝は静かなのですが。すみません。
拝聴
拝聴
いつもありがとうございます😊
拝聴してます
三島由紀夫 いつもありがとうございます!
拝聴してます。
三島由紀夫 ありがとうございます😊